| 平家物語と惟栄 瀬戸内紀行 |
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人物一覧
| 人物名 | 説 明 | |
| 1 | 大神朝臣良臣 | おおみわあそみよしおみ 仁和2年(886)大神良臣が 豊後守 となり、善政により百姓が 惜慕(せきぼ)して 重任(ちょうにん)を求めたので、子 庶幾(これちか) を留め大野郡領とした。 |
| 2 | 大神庶幾 | これちか 大神朝臣良臣の子。 |
| 3 | 大神惟基 | これもと 庶幾(これちか) を留め大野郡領とした。その子が大神惟基、母は藤原 伊周(これちか)の娘 花之本(はなのもと)姫という。また母は堀川大納言、あるいは 枇把(びわ)左大臣の娘( 華本(はなのもと))とするものもある。 豊後大神氏 の祖。 |
| 4 | 惟盛 | これもり 惟基の子 |
| 5 | 惟衡 | これひら 惟盛の子 |
| 6 | 惟茂 | これもち 惟衡の子 |
| 7 | 惟隆 | これたか 惟茂の子 臼杵を 本貫(ほんがん)とする氏族。惟栄の兄。 惟隆は実弟 緒方三郎 惟栄(これよし) 佐賀四郎 惟憲(これのり) らと共に 宇佐宮 破却の罪で 配流(はいる)の 官符(かんぷ)を下されたが非常の 赦(ゆるし)に会っている。 しかし、頼朝と義経の対立で義経に組したことで再び捕えられ配流されたらしい。配流先等は不明 |
| 8 | 惟栄 | これよし 平安末期から鎌倉初期にかけての豊後の武将。緒方三郎。生没年未詳。 姥岳(うばだけ)大明神の神裔(しんえい)とされる大神惟基5代の孫という。大野郡緒方荘司 。平重盛(しげもり)家人。 平家の大宰府追い落し、源範頼軍の渡海援助等の大功を立てながら、宇佐宮焼き打ち、源義経先導で捕えられ沼田荘 配流。赦されて帰国するというが 顛末未詳。 |
| 9 | 佐賀惟憲 | これのり 佐賀惟憲は、佐賀郷を拠点にし、屋島 壇ノ浦 などの戦いでは、源氏方の水軍の一翼を 担った。さらに、元暦元年(1184)7月には、平氏方に付いた宇 大宮司を攻めるため、宇佐郡に侵入し、 宇佐八幡宮 に焼き打ちをかけたが、その後、義経に協力したため、惟栄 惟隆 惟憲兄弟は上野国沼田荘に流された。 |
| 10 | 惟栄の妹 | 妹は 日田郡 大領(たいりょう) (郡司長官) 大蔵永平(おおくらながひら) に嫁ぎ 永宗(ながむね) を生む。 |
| 11 | 惟久 | これひさ 緒方小太郎 惟栄の子 |
| 12 | 惟村 | これむら 野尻次郎 惟栄の子 |
| 13 | 惟友 | これとも 直入三郎 惟栄の子 |
| 14 | 惟重 | これしげ 高野四郎 惟栄の子 |
| 15 | 惟時 | これとき 豊前国鬼嶽 惟栄の子 |
| 16 | 惟兼 | これかね 沼田四郎 惟栄が沼田荘に配流されたときの子 |
| 19 | 大蔵永宗 | おおくらながむね 永季の子、 宗季(むねすえ) が弟 季平(すえひら) に殺害されたことからはじまった。その季平は、久安4(1146)年弟永平を養子とし 日田郡司職 を譲ったが、永平は、保元2(1157)年に婿 三牟田盛季(みむたもりすえ) の夜討ちをうけて死亡、永平の子 永宗は、母方の叔父 緒方 惟栄のもとに身を潜めたという。そこで、宗季の子 季守(すえもり) が盛季を討ち、自分こそ本来の嫡流と称して、日田郡司職を 押領しようとしたため、季平の郎従たちが季守を保元3年に 誅戮(ちゅうりく)し、大蔵氏重代の郎従である高瀬 井垣の両氏が緒方に出向き、永宗を迎え抗争がおわった。 |
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| 21 | 藤原頼輔 | ふじわらよりすけ 豊後の国の知行国主。 1181年,緒方惟栄,菊池隆直の挙兵に対し,平清盛が追討使を発遣しようとしたのを中止させた。 平家が都落ちして九州に入ったのに対して,後白河院の院宣として平家を九州から追い落とすように下知した。頼輔は子息 頼経(よりつね) を豊後守として派遣した。その後頼経は治承4年(1180)2月28日に子の 宗長(むねなが) へ豊後守を譲る。 |
| 22 | 藤原頼経 | ふじわらよりつね 藤原頼輔の子。頼助に代わって下国,惟栄の蜂起を止めさせるよう説得する。 |
| 23 | 菊池隆直 | きくちたかなお 隆直は肥後権守であったらしく、治承四年(1180)、平家の横暴を懲らさんとして兵を挙げ、一時は大宰府に追ったほどであった。しかし平家の大軍に攻められてこれに屈服し、一族の多くは壇ノ浦の合戦に平家と運命をともにし、残ったものも源氏のために重く処分された |
| 24 | 原田種直 | はらだたねなお 原田氏 大蔵一族 大蔵春実以来の本流で秋月に蟄居し大宰府官人として行政力を持ち、種直は原田荘(糸島郡)など3700町歩の所領を得、大宰権小弐に任命され、平氏のために北九州の地盤固めの要の役をなした。 |
| 25 | 大宮司公通 | だいぐうじきんみち 宇佐宮司 平氏が九州に下ってきたときに,原田種直の宿所に遷座し,その後宇佐宮に行幸し公通の宿所を皇居とした。当時の 宇佐 大宮司は平清盛と密接な関係をもち、神官としては異例の豊前守に任ぜられたこともある 宇佐 公通であった。頼輔と惟栄は共に 宇佐宮 と対立したという点で互いに反平家の立場に立つことにより連携を深めたものと思われる。 |
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| 27 | 河野通信 | かわのみちのぶ 伊予国の開発領主 治承4年(1180)源頼朝は、平家討伐の命旨を受けて伊豆で兵を挙げる。同じく伊予の大豪族、河野通清(高縄山城主)のもとにも命旨が届き、通清はいち早く源氏方に味方して挙兵する。 それを聞いた平家方の額西寂(備後尾道の僧)は3千余の兵で高縄城を急襲してきたのである。河野軍はあまりに不意であった為、応戦するが多勢に無勢でいかんともしがたく遂に河野通清は無念の戦死を遂げた。 その頃、通清の子河野通信は京都に出府中であったが父戦死の報を受け急遽帰国し、山中に隠れていた一族郎党とともに密かに西寂軍を伐つ機会を待っていたが、まもなく平家方は河野軍を討ち滅ぼした。 源義経は平氏を讃岐の屋島まで追っかけて来たが船と水夫が足りずに足止めをくらっていたが河野通信と村上頼冬が300隻の船と3千人の兵で応援に駆けつけて源義経は船と水夫を確保した。 |
| 28 | 松浦党 | まつうらとう 『保元物語』には、保元の乱(1156年)のときに、源為朝が九州より連れてきた28騎のうちに「松浦小次郎」の名がある。また『平家物語』には、平清盛の側近に「松浦重俊」の名がある。 『平家物語』の壇浦合戦(1185年)では「平家は干余艘を三手に作る。山賀の兵藤次秀遠五百余艘にて先陣…松浦党三百余艘にて二陣…」と書かれていて、平家方の水軍の主力の一つになっている。『吾妻鑑』にも、壇浦合戦に松浦党が平家方に参陣したことが書かれている |
| 29 | 山鹿秀遠 | やまがすけとう 平氏が惟栄らの追い落としの軍勢3万騎が押し寄せると聞き,水城(大宰府町)を出て住吉・箱崎・香椎を通り,北上して宗像を経て落ちのびた。原田種直が2千騎でこれを護衛し,山鹿兵藤次秀遠も数千騎で迎えた。 ところが,種直と秀遠が仲たがいをし,種直は途中で引き返してしまった。平氏は秀遠に守られてあし屋の津(葦屋津)を過ぎ,秀遠の山賀(山鹿)城に入った。しかし,惟栄軍が攻め寄せるとの情報が入り,ここから小船に乗って,夜もすがら豊前国の柳ヶ浦に漕ぎ渡った。 |
| 30 | 板井種遠 | いたいたねとう |
| 31 | 宇佐那木 上七遠隆 |
周防国住人。周防で進退窮まった範頼に兵糧米を寄進した。 |
| 32 | 大野泰元 | おおのやすもと 平安末−鎌倉初期の武将。 豊後 大神一族 の大野氏。大友氏豊後 守護 補任以前の在地領主。幼名九郎。 大神 惟基の4子 大野 基平(もとひら) 4世の孫。父は 家基(いえもと) 。生没年月未詳。 もともと大野郡 大野郷司 で、 大野荘 成立後は同荘司となるか。同荘内 上津(あげつ)八幡宮 大宮司(だいぐうじ)。 鎮西(ちんぜい)奉行 中原 親能(ちかよし) に亡ぼされたらしい。神角寺城で自刃した。 |
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| 34 | 源 行家 |
みなもとのゆきいえ 平安末期〜鎌倉初期の武将。為義の子で頼朝の叔父に当たる。 保元の乱で父為義が敗れると新宮に隠れ新宮十郎と称した。 1180年以仁王を奉ずる源頼政に召し出され、諸国の源氏に以仁王の令旨を諸国の源氏に伝えた。後頼朝に関東の所領を乞うが叶えられず、木曾義仲と結んだ。義仲と共に入京し従五位下備前守となる。 その後義仲と対立し紀伊に退く。 平氏滅亡後頼朝と不和になった義経に味方し、頼朝追討の宣旨を得た。しかし、関東の追手常陸房昌明に捕らえられ赤井河原で斬られた。 |
| 35 | 藤原純友 | ふじわらのすみとも 純友は藤原北家 良範(よしのり)の子。伊予掾として赴任したまま土着し、伊予 日振島(ひぶりじま)(愛媛県北宇和郡)を本拠地とし、1,000余 艘(そう)の船を率い各地で略奪を行っていたが、承平6年6月伊予守紀 淑人(よしと)が一時鎮圧した。しかし、天慶2年12月、純友が紀淑人の制止にもかかわらず乱をおこした。12月26日、純友は備前介藤原 子高(さねたか)を摂津国 須岐(すき)駅(兵庫県西宮市 夙川(しゅくがわ))に襲わせた。同月29日、東国で平将門が乱をおこしたという急報が政府に届き、東西の反乱は都の貴族をふるえ上がらせた。翌天慶3年正月、山陽道追捕使に 小野好古(おののよしふる)が任命された。東西両面で同時に戦う不利を考えた政府は、2月3日純友に従五位下を授け懐柔を図った。しかし、瀬戸内海一帯の海賊活動はますます激しく、淡路 讃岐(さぬき) 伊予 備前 備後 備中 阿波 周防(すおう) 大宰府などが襲撃された。天慶4年2月には純友の次将藤原 恒利(つねとし)が寝返り、これを案内者として伊予国の本拠地を攻め、純友は大敗して海上に逃がれた。同年5月19日純友軍は大宰府を襲い、翌20日小野好古は 博多津(はかたのつ)で純友軍を壊滅させた。純友は伊予に逃げ帰っていたが、6月20日伊予国 警固使(けいごし) 橘遠保(たちばなのとおやす)に 斬(き)られ、その首は7月7日京に入った。この後純友の残党が各地で捕殺され乱は終わりをつげた。 |
| 36 | 源義朝 | みなもとのよしとも 保安4〜平治2(1123〜1160) 父は源為義、母は淡路守藤原忠清の娘。源頼朝・範頼・義経の父。居宅は鎌倉の亀ケ谷にあり、相模を中心とする東国に本拠があった。 保元の乱では後白河法皇方について、父為義や弟為朝と敵対した。やがて平清盛と対立し、平治の乱を起こしたが敗北して東国へ逃げる途中,尾張内海荘(愛知県南知多町)の庄司長田忠致に殺された。 |
| 37 | 源義仲 | みなもとのよしなか 久寿元〜寿永3(1154〜1184) 通称は木曾次郎義仲。父は帯刀長源義賢(為義の2男)、母は遊女。源頼朝・義経の従兄弟。幼児期に父が討たれたため、乳母の夫で木曾の在地武士中原親遠の元で成人した。 治承4(1180)年、以仁王の兵氏追討の令旨を受け挙兵。寿永2(1183)、平維盛ら兵氏を西海に走らせて入京。 やがて後白河法皇と反目し、1184年、征夷大将軍に任ぜられ、朝日将軍と称したが、その直後に法皇の命を受けた源範頼・義経の軍と戦って敗れ、近江粟津で戦死。 |
| 38 | 源頼朝 | みなもとのよりとも 久安3〜正治元(1147〜1199) 鎌倉幕府の創立者、初代将軍。源義朝の3男、母は熱田大宮司藤原季範の娘。 平治の乱で平清盛に敗れ、伊豆蛭ヶ小島に配流となる。のちに北条時政の娘・政子と結婚し、頼家・実朝(第2・3代将軍)が生まれる。 治承4(1180)年、平氏追討の兵を挙げ、富士川の戦い以降は鎌倉に本拠を置き、東国経営に専心する。 寿永3(1184)年、弟範頼・義経に京の義仲を討伐させ、続いて一の谷で平氏を破らせる。元暦2(1185)年、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させる。 文治元(1185)年、義経との不和が決定的となり、義経追討の宣旨を発する。義父時政を上洛させ、義経追捕を名目に守護・地頭の設置を公認させて、幕府開設の基礎を作る。 文治5(1189)年、藤原泰衡に義経を討たせる。ついで奥州藤原氏を滅ぼし、全国統一を成し遂げだ。 建久3(1192)年、法皇の死後、征夷大将軍になる。 |
| 39 | 源義経 | みなもとのよしつね 源平治元〜文治5(1159〜1189) 幼名牛若。 やや長じて遮那王。源義朝の9男,母は九条院雑仕常盤御前。頼朝・範頼の異母弟。 平治の乱(1159)で父義朝を失い、母常盤とともに捕らわれた。しかし常盤が清盛の妾となり,3人の子どもの出家を条件に死を免ぜられ,7才のとき鞍馬寺に送られた。その後,京都を逃れ,奥州平泉の藤原秀衡の許に身を寄せる。 治承4(1180)年,兄頼朝の挙兵を聞いて馳せ参じ,黄瀬川で対面する。 寿永2(1183)年,頼朝から兄範頼とともに木曾義仲追討の命を受ける。翌年、義仲を破り上洛,さらに平氏追討を命ぜられ,一の谷鵯越の奇襲を成功させ平敦盛・和章らを討つ。 京都にもどるとそこに留まり,京都守護の任に当たる。この間に後白河法皇より,頼朝の許可なく検非遣使・左衛門少尉(判官)に任じられる。このことが頼朝の怒りを買い平氏追討の任を解かれる。 しかし、西海道に出撃した範頼軍が苦戦を重ねたため,元暦2(1185)年,再び平氏追討使に任じられる。同年2月,阿波に渡り陸路讃岐屋島を奇襲して平氏を破る。 続いて3月,長門国壇ノ浦の合戦で平氏を全滅させ,平氏追討の立役者となる。 壇ノ浦の合戦で安徳天皇が入水し,また神器も失ったことや,軍監梶原景時ら義経の独断専攻を憎んだ鎌倉御家人と対立し,頼朝の不興をかって鎌倉入りを禁じられた。 やむなく京都に戻ると,頼朝が遣わした刺客土佐防晶俊の襲撃を受ける。そこで頼朝と対立していた叔父源行家と結び,後白河法皇から頼朝追討の院宣を得る。 頼朝はこれを聞いて直ちに兵を送ったため,いったん九州に落ちようとしたが暴風雨のため船が難破する。 義経は幾内を転々とし,再び秀衡を頼り奥州に逃れる。 文治3(1187)年、秀衡が没し,文治5(1189)年潤4月,頼朝の圧力に屈した泰時により衣川の館を襲撃され自刃した。 |
| 40 | 源範頼 | みなもとののりより 生年不祥〜建久4(?〜1193) 源義朝の6男、母は遠江国池田宿の遊女。母の故郷遠江国蒲御厨で育つ。源義平・頼朝の異母弟、義経の異母兄。 治承4(1180)年、兄頼朝が伊豆で挙兵すると直ちに馳せ参じた。 源平の争乱には大手の大将軍として、弟義経とともに、常に参戦し、1184年に近江で源(木曾)義仲を討った翌年、平家を壇ノ浦に滅亡させる。その後は九州に留まり、義経のように頼朝の猜疑を招くことはなかった。 しかし、建久4(1193)年、曽我兄弟仇討事件の際に、謀反の嫌疑をうけ伊豆へ配流され、頼朝に差し向けられた梶原景時に誅殺された。 |
| 41 | 平清盛 | たいらのきよもり 元永元〜治承5(1118〜1181) 父は平忠盛、母は祇園女御(養母)の妹。白河上皇の落胤説もある。重盛・宗盛・知盛・徳子の父。 祖父正盛、父忠盛の財力を背景に保元・平治の乱を経て独裁的な平氏政権を樹立。 治承4(1180)年、孫の安徳天皇(母は娘徳子)の即位により、皇室の外戚となり、その権威を振るい、一門こぞって公家・殿上人となり平氏の絶頂に達する。 同年4月、以仁王が平氏追討の令旨を発し、南都北嶺や諸国源氏があいついで蜂起、鎮圧できず失意のうちに熱病で死亡。 ◇義経の母常盤との間に女子(廊の御方)がいる。 ◇武士の頭として大きな勢力を持つようになった平氏の武将で、瀬戸内海の海賊を平定した平忠盛を父とする。忠盛の死後朝廷に進出し、 皇室や藤原氏の一族の間の争い(保元の乱)に勝ち、貴族に代わって政治を行うようになった。武士として初めて太政大臣になり、平氏は朝廷の重要な役職を独占した。また、宋(中国)と貿易を行った。 |
| 42 | 平重盛 | たいらのしげもり 保延3〜治承3(1137〜11179) 平清盛の長子、母は高階基章の娘。維盛の父。重衡・宗盛・知盛・徳子の異母兄。 平治の乱では父清盛とともに藤原信頼・源義朝の軍を攻める。叔父平頼盛とともに源義平を破り、源軍を敗走させる。その功により伊予守となる。 治承3(1179)年、病により東山に出家する。 |
| 43 | 平維盛 | たいらのこれもり 保元3〜寿永3(1158〜1184) 平重盛の長子、祖父は平清盛。 治承4(1180)年、源頼朝の挙兵に際し、追討大将軍となるが、富士川の戦いで水鳥の羽音に驚き敵軍の来襲と誤り敗走し、平清盛の怒りを買う。 寿永2(1183)年、倶利伽羅峠では源義仲に「火牛の計」で敗れ、のち西走。寿永3(1184)年、屋島で源氏と対陣中、密かに逃亡。那智の沖に入水自殺した。 |
| 44 | 平資盛 | たいらのすけもり 保元3〜寿永3(1158〜1184) 平重盛の次子、母は藤原親方の娘少輔掌侍。平清盛の孫。 治承4(1180)年、以仁王、源頼朝の挙兵の際には大将軍として出陣する。 寿永3(1184)年、一の谷の戦いでは三草山に陣を張ったが、源義経の夜襲により敗れて屋島へ逃れた。壇ノ浦で入水自殺した。 叔母の建礼門院に仕えていた女房建礼門院右京大夫との恋は有名で、恋の歌は「建礼門院右京大夫集」に収められている |
| 45 | 安徳天皇 | あんとくてんのう 治承2〜寿永4(1178〜1185) 名は言仁。高倉天皇の第1皇子。母は中宮建礼門院徳子(平清盛の娘)。 生後1ヵ月で皇太子となり、満1歳数ヵ月で天皇に即位。これにより平清盛は天皇の外戚となり、平家政権の独裁体制が完成する。 しかし、各地で平氏打倒の挙兵が起こり、木曾義仲の入京により、平氏一門とともに西国へ下り、壇ノ浦で入水。わずか8歳の生涯であった。 |
| 46 | 平知盛 | たいらのとももり 仁平2〜元暦2(1152〜1185) 父は平清盛、母は平時子。父清盛亡き後は、兄宗盛を助け、平氏一門の統率的存在となり、とくに軍事面で大きな役割を果たす。 治承4(1180)年、以仁王・源頼朝が平氏追討の兵を挙げると、大将軍として、これを鎮圧した。 一の谷の戦いでは嫡子知章を失い、壇ノ浦の戦いでは平氏一門の最期を見届けた後、「見るべき程の事は見つ、今は自害せん」と言って入水した。 |
| 47 | 藤原秀衡 | ふじわらのひでひら ?〜文治3(?〜1187) 奥州藤原氏第3代目当主。奥六郡の支配者。父は藤原基衡、母は安倍宗任の娘。妻は前民部少輔藤原基成の娘。義経の後援者として、平氏追討のため兵を挙げた頼朝の元へ送り出した。 平氏滅亡後、義経は頼朝と不和になり都落ちして秀衡をたよって落ち延びた。遺言に義経を主君とし、兄弟仲良くして鎌倉の頼朝に対処するように指示している。 |
| 48 | 藤原泰衡 | ふじわらのやすひら 久寿2〜文治5(1155〜1189) 奥州藤原氏第4代目当主。父は藤原秀衡、母は前民部少輔藤原基成の娘。秀衡の死後、陸奥・出羽押領使となった。 頼朝は泰衡に対して奥州に身を寄せている弟義経を逮捕して差し出すようにたびたび命令している。 泰衡は、これに屈服して文治5年(1189)年潤4月、義経を衣川館に襲撃して殺害し、首を鎌倉に送った。 頼朝は泰衡追討の大軍を従えて平泉を攻めたので泰衡は逃れ、比内部贄柵で郎従の河田次郎に殺された。泰衡の死により奥州藤原氏は滅亡した。 |
| 49 | 梶原景時 | かじわらかげとき ?〜正治2(?〜1200) 通称平三。 父は鎌倉五郎景清(景長)。相模鎌倉郡梶原の住人。 はじめ平氏方に属したが、治承4(1180)年、石橋山の戦いで、頼朝の危急を救い、以後、頼朝の信頼を得て平氏追討に活躍。 正治元(1199)年、将軍頼家に謀反を企て上洛の途中殺され、梶原一族は滅亡。 ◇義経とは屋島の戦いで「逆櫓」の問題で、壇ノ浦の戦いでは作戦上の問題で激しく対立し、頼朝に讒訴し、ついに失脚させた。義経の首実検を行う。 |
| 50 | 武蔵防弁慶 | むさしぼうべんけい ?〜文治5(?〜1189) 義経股肱の臣。幼名鬼若丸、武蔵防。熊野別当弁正(心)の子といわれる。比叡山西塔の僧侶で武蔵防に住んでいたので武蔵防と称した。 義経の従者となり源平の争乱に活躍する。 平氏滅亡後、義経が兄頼朝と不和になり、義経の都落ちに従い、奥州衣川で藤原泰衡に襲撃され、義経とともに戦死した。 |
| 51 | 佐藤忠信 | さとうただのぶ ?〜文治2(?〜1186) 父は信夫壮司佐藤元治。兄は継信。本拠は陸奥国信夫郡。 義経が兄頼朝の挙兵を知り、奥州から馳せ参ずるとき、藤原秀衡の命により、兄継信とともに従った。 一の谷、屋島、壇ノ浦の戦いに参加し、終始、郎等として義経と行をともにした。のちに義経が兄頼朝と不和になり、京都から西国へ向かう途中、義経の身代わりとなる。義経と別れて京都に潜入し、糟屋有季に攻められて自殺した。 |
| 52 | 佐藤継信 | さとうつぐのぶ ?〜元暦2(?〜1185) 父は信夫壮司佐藤元治。弟は忠信。本拠は陸奥国信夫郡。義経が陸奥から出陣する際に、藤原秀衡の命により弟忠信とともに従軍した。 源平の争乱においては終始、義経軍に属して活躍したが、屋島の戦いでは主君義経の身代わりとなり能登守平教経に射られ戦死した。 |
| 53 | 熊谷直実 | くまがいなおざね 永治元〜承元2(1141〜1208) 父は熊谷直貞。武蔵熊谷郷を本拠とする。保元の乱では源義朝に従軍して初陣を飾る。平治の乱では源義平に従って出陣した。 治承4(1180)年、源頼朝が伊豆で挙兵すると平氏方に属して石橋山の戦いに参加したが、のちに頼朝に属し、宇治川、一の谷の戦いに参加した。 とくに一の谷では義経軍に属し、平山季重との先陣争いや平敦盛を討ち取ったことは有名である。のちに法然に帰依して出家。法名は蓮生。 |
| 54 | 那須宗隆 | なすむねたか 生没年未詳 通称与一(11番目の子の意)。父は那須太郎資高。 下野国那須郡を本拠とする在地武士。弓の名手として知られる。屋島の戦いに義経に従って参加した。 平氏方の女房が船上に扇子をたてかけて挑発したので、義経の命により扇子を射落とし、源平両軍の喝采を浴びたという。 |
| 55 | 静御前 | しずかごぜん 生没年未詳 母は磯禅師。白拍子出身。義経の愛妾。 義経が兄頼朝のために都を追われた際に、義経とともに落ち延びたが、吉野山で母とともに捕らわれ、文治2(1186)年、鎌倉に送られ尋問された。 義経の男子を出産するが、即日殺された。母とともに京都に帰ることを許されたが、その後の消息は不明である。 |
| 56 | 常盤御前 | ときはごぜん 保延4〜?(1138〜?) 義経の母。九条院雑仕女。 『平治物語』によれば、九条院付きの女房を採用するために都中の美女千人の中から百人を選び、百人の中から十人を選び、さらに十人の中から一人を選んだその一人が常盤であったという。 源義朝との間に今若(全成)、乙若(義円)、牛若(義経)の子がいる。 平治の乱後、三人の子を助命のため六波羅に自首した。清盛との間に女子(廊の方)が一人いる。のちに一条長成と再婚し能成らを産む。 |
| 57 | 北条政子 | ほうじょうまさこ 保元2〜嘉禄元(1157〜1225) 尼将軍。父は北条時政。源頼朝の妻。頼家(第2代将軍)、実朝(第3代将軍)の母。 源氏将軍が廃絶すると九条頼経を将軍に迎え、弟義時(第2代執権)とともに、承久の乱を無事に乗り切る。 |
| 58 | 後白河法皇 | ごしらかわほうおう 第77代天皇(1127〜1192)。名は雅仁。久寿二年即位。 保元三年譲位し、仏教に深く帰依するかたわら、天皇五代にわたる34年の間、院政を行ない、術策を用いて朝廷の威信保持に努めた。 |
| 59 | 建礼門院 | けんれいもんいん 建礼門院(平徳子) (1155年〜1213年)
平清盛と平時子の娘。 年下の高倉天皇の中宮となり言仁親王(安徳天皇)を産むと、後白河法皇の猶子となり従三位に叙せられた。 その後、平氏一門と共に京都を離れ、壇ノ浦の合戦で平氏が敗れると自ら海に飛び込んだが、源氏の兵に救出されて京都に送られた。文治元年(1185年)五月、京都東山の長楽寺で出家し、京都大原の寂光院で平氏の菩提を弔った。 |
| 60 | 陳和卿 | ちんなけい 宋の工人。寿永元年1182年,来日して九州にいたが,重源(ちょうげん)に招かれて,平氏に焼かれた東大寺の大仏を鋳造した。 |
| 61 | 伊行末 | いぎょうまつ 宋の石工。東大寺の復興にあたり,大仏殿や講堂などの石段などを造った。 |
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