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第12章  義経都落ち 惟栄捕まり沼田へ配流


緒方三郎惟栄に助勢を頼む義経
 鎌倉から,北条時政の率いる6万余騎の軍勢が攻め上ってくると聞いた義経は,平家の軍勢を九州から追い出すほどの武勇を誇っていた九州随一の豪族緒方三郎惟栄に「我に頼まれよ」と助勢を頼んだ。
 これを聞いた緒方三郎惟栄は,「さようでござらば,ご配下の菊池次郎高直は年来の敵なので,その身柄を引き渡しいただき,首を切った上で,お頼みに応じましょう」と申した。



六条河原で斬られる菊池次郎高直
 すると,義経はためらいもなく菊池次郎高直を緒方三郎惟栄に引渡し,六条河原に引き出して斬り捨てた。
 その後,緒方三郎惟栄は義経の頼みを領状した。



院参した義経
 文治元年(1185年)11月2日,九郎太夫判官源義経は院の御所に参入する。
 「頼朝は郎等どもの讒言を信じて,この義経を討ち取ろうとしております。宇治・勢田の板橋を外して防ごうとも思いましたが,都の騒動ともなりご迷惑をかけることでしょう。そこで,ひとまず九州に落ちのびようと存じます。なにとぞ,院庁の御下文を賜って下向したく存じます」と後白河法皇に奏上した。
 法皇は,「さらば」と即座に,九州の武士たち,緒方三郎惟栄をはじめ臼杵・戸次・松浦党のすべてが義経の下知に従うべき旨の院宣を義経に下した。



都を落ちる義経勢
 翌3日,卯の刻(午前6時頃)に,都にいささかの騒ぎも起こさず軍勢5百余騎を引き具して都を落ちた。
 途中,摂津国の太田太郎頼基が手勢60余騎を率いて義経勢に攻めかかってきたが,義経勢はこの多くを討ち取り摂津国大物(だいもつ)の浦(淀川の河口,兵庫県尼崎市)に着いた。



住吉の浦に打ち上げられ女房を捨てて吉野山に逃げる
 翌9日,九州を目指して摂津国の大物の浦を船出した義経勢は,にわかに吹き起こった西風にあおられて散り散りになった。
 義経の船は住吉の浦(大阪市)に打ち上げられた。義経はすべての女房をその場に捨て置いて自らは吉野山に入った。しかし,そこで吉野法師に攻め立てられたので奈良に落ちのびた。すると,そこでも奈良法師に攻め立てられたので,京に舞い戻り,北国を経て奥州に下った。
 義経が頼みとした緒方三郎惟栄や備前守源行家らが乗った船もあちこちの浦や島に打ち上げられ,互いにその行方も知れなかった。



義経らの追討の院宣を願い出る時政
 源頼朝の意を受けた北条四郎時政は,6万余騎の軍勢を引き連れて上洛した。翌日時政は院の御所に参向し,「伊予守源義経,備前守行家,信太三郎先生義憲らを追討すべき院宣をお下げ渡し願いたいと,鎌倉の頼朝が申しております」と奏上する。すると,ただちにその院宣が時政に手渡されたのであった。
 さる2日には,義経の申請にまかせ,頼朝に背くべき院庁の下文がだされ,同じ月の8日には,頼朝の申し状によって,義経追討の院宣が下された。



落飾して尼姿になった建礼門院
 壇ノ浦の海中から源氏の武士によって救い出された建礼門院は,護送されて上洛し,苔深いあばら家で西海のはるか遠い雲に思いを寄せて過ごした。
 やがて女院は文治元年(1185年)5月1日,落飾された。
 国母・皇后と人々にかしずかれ,平家一門の都落ちに従い,大軍団の中を陸に海にさまよったのは,昨日の夢であった。
 やがて女院は大原山の寂光院に移り,経を読み念仏を唱え,帝をはじめ平家一門の菩提を弔う毎日を過ごしたという。



 文治2年(1186年)5月12日,源行家は北条時定に和泉国で捕らえられ殺された。
 11月9日,捕らえられ詮議を受けた緒方三郎惟栄は遠流に処せられ,上野国沼田荘に流された。
 文治3年(1187年)10月,藤原秀衡が死去すると頼朝は義経殺害命令を下す。義経は衣川で藤原泰衡に襲われ自害する。文治5年(1189年)9月,その泰衡も頼朝によって滅ぼされる。

 建久元年(1190年)10月,上洛した頼朝によって惟栄の赦免が願いだされ,惟栄は赦されて豊後国佐伯荘に還る。
 建久6年,緒方三郎惟栄没。享年57歳。子孫佐伯氏をなす。

平家物語と緒方三郎惟栄