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第9章 一の谷合戦・屋島合戦
後白河法皇は,平家が持ち出した三種の御宝を無事に持ち帰るよう切望した。 |
義経は試みに数頭の馬を追い落とした。坂の途中で転ぶもの,足を折るものさまざまだったが,倉を置いた3頭は無事に駆け下りて身震いして,たてがみを振りいなないた。 義経はこれを見て自分から駆け下った。 かくして,3千余騎は鵯越(ひよどりごえ)を駆け下り,一の谷の平家軍を背後から奇襲することに成功した。 |
平家の軍兵たちは,「船に上がるは身分高き武者のみぞ,雑兵・下人たちはまかりならぬ」と叫びながら,ふなばたにとりついた雑兵どもの腕を次々に切り落とした。 また,数百人もの軍兵を乗せた大船はその重みで沈没し,溺死する者数を知らずというありさまであった。 |
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能登守教経(のりつね)が讃岐の屋島に来たと言う知らせを受けて,伊予国の河野通信(みちのぶ)は安芸国の沼田次郎と連合して敵にあたるため安芸に渡った。教経は沼田城を攻めて沼田次郎を降伏させる。通信はわずか21才ながら堂々と戦い伊予に逃げのびた。 |
また,豊後国の緒方三郎惟栄と臼杵次郎惟隆,伊予国の河野四郎通信は合流して,総勢2千余人で小船で備前国に押し渡り,今木城にたてこもった。 これを福原で伝え聞いた能登守教経(のりつね)は軍勢3千余騎を率いて備前国に馳せ下り,今木城を攻めた。能登守教経が福原にさらに増援を願い出て,さらに数万の軍兵が指し向けられると聞いた惟栄・通信勢は,「敵は多勢,われらは少勢,城を囲まれたら最後じゃ。今のうちに落ちのびてひとまず息を継ごうではないか」と,惟栄・惟隆勢は豊後国に,通信勢は伊予国に引き上げた。 |
2月3日,九郎太夫判官源義経は都を出立すると,摂津国渡辺・福島(大阪市の淀川の近く)に船団を結集した。また三河守源頼範も摂津国の神崎(尼崎市神崎川河口)に軍船をそろえて山陽道へ赴く準備を進めた。 2月16日,夜,義経は強風をついてわずか5艘で渡辺・福島を出船。夜通し船を走らせ,ふだんなら3日もかかる瀬戸の海をわずか三とき(6時間)ほどで押し渡たり,阿波の地に到着した。
遅れて22日には梶原勢も屋島の海岸に到着した。義経は「平家の軍勢が長門国引島(下関市彦島)に来る」との知らせを受け,周防国へ船で押し渡り,兄の頼範と合流,長門国追津に着陣した。 |