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第9章  一の谷合戦・屋島合戦


院に参上した義範と義経は平家追討を言上する
 寿永3年(1184年)正月29日,院に参上した義範と義経は平家追討のため,西国へ向けて出立することを言上する。
 後白河法皇は,平家が持ち出した三種の御宝を無事に持ち帰るよう切望した。



鵯越を駆け下りる義経軍
     一の谷合戦
義経は試みに数頭の馬を追い落とした。坂の途中で転ぶもの,足を折るものさまざまだったが,倉を置いた3頭は無事に駆け下りて身震いして,たてがみを振りいなないた。
 義経はこれを見て自分から駆け下った。
 かくして,3千余騎は鵯越(ひよどりごえ)を駆け下り,一の谷の平家軍を背後から奇襲することに成功した。



逃げ惑う平氏一門
 義経軍は平家の館に火をかけたので,驚いた平家軍は大混乱に陥り,先を争って船に乗り込んだ。
 平家の軍兵たちは,「船に上がるは身分高き武者のみぞ,雑兵・下人たちはまかりならぬ」と叫びながら,ふなばたにとりついた雑兵どもの腕を次々に切り落とした。
 また,数百人もの軍兵を乗せた大船はその重みで沈没し,溺死する者数を知らずというありさまであった。



平家追討の院宣を受ける義経
 元暦2年(1185年)5月10日,九郎太夫判官源義経は院の御所に参向して,平家追討の院宣を賜るよう奏上した。



河野通信敗れる,沼田次郎は降伏
 その頃,平家は讃岐の屋島を出て,摂津国難波潟に押し渡り,西は一の谷(神戸市須磨区の西部)を城として築き,東は生田の森(神戸市中央区)を正面の木戸口と定めた。また,領国も山陽道8か国,南海道6か国を従え,10万余騎の軍勢を擁していた。
 能登守教経(のりつね)が讃岐の屋島に来たと言う知らせを受けて,伊予国の河野通信(みちのぶ)は安芸国の沼田次郎と連合して敵にあたるため安芸に渡った。教経は沼田城を攻めて沼田次郎を降伏させる。通信はわずか21才ながら堂々と戦い伊予に逃げのびた。



惟栄と通信が協力した備前今木城合戦
     今木城合戦
また,豊後国の緒方三郎惟栄と臼杵次郎惟隆,伊予国の河野四郎通信は合流して,総勢2千余人で小船で備前国に押し渡り,今木城にたてこもった。
 これを福原で伝え聞いた能登守教経(のりつね)は軍勢3千余騎を率いて備前国に馳せ下り,今木城を攻めた。能登守教経が福原にさらに増援を願い出て,さらに数万の軍兵が指し向けられると聞いた惟栄・通信勢は,「敵は多勢,われらは少勢,城を囲まれたら最後じゃ。今のうちに落ちのびてひとまず息を継ごうではないか」と,惟栄・惟隆勢は豊後国に,通信勢は伊予国に引き上げた。



阿波に押し渡る義経軍
      屋島合戦
 2月3日,九郎太夫判官源義経は都を出立すると,摂津国渡辺・福島(大阪市の淀川の近く)に船団を結集した。また三河守源頼範も摂津国の神崎(尼崎市神崎川河口)に軍船をそろえて山陽道へ赴く準備を進めた。

 2月16日,夜,義経は強風をついてわずか5艘で渡辺・福島を出船。夜通し船を走らせ,ふだんなら3日もかかる瀬戸の海をわずか三とき(6時間)ほどで押し渡たり,阿波の地に到着した。

逃げ惑う平氏の軍勢
 18日,阿波国から讃岐国屋島に到着した義経勢は高松の民家に火をかけ浅瀬を軍馬で押し渡って攻め寄せた。突然の源氏の来襲に驚いた平家の人々はわれ先に船に乗ろうと大混乱となった。
 遅れて22日には梶原勢も屋島の海岸に到着した。義経は「平家の軍勢が長門国引島(下関市彦島)に来る」との知らせを受け,周防国へ船で押し渡り,兄の頼範と合流,長門国追津に着陣した。

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