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真名野長者伝説



  昔 むかし、玉田の里に、藤治という子どもがいました。藤治は三歳の時にお父さんを、七歳の時にお母さんを亡くし、炭焼きの又五郎という人に引き取られました。その後、又五郎も亡くなってしまい、ひとりぼっちになった藤治は名前を小五郎と変え、炭焼きの跡を継ぐことにしました。



 そのころ、奈良の都に久我大臣の娘で玉津姫というお姫様がいました。玉津姫は年頃になると顔一面に黒いあざができ、これがもとでお嫁にもらってくれる人がいませんでした。そこで、三輪明神様(奈良県桜井市)によい縁談が授かりますように、と二十一日間おこもりをしました。すると、夢の中に神様が現れて「豊後の三重の里に炭焼小五郎という若者がおる。この者と夫婦になれば、末は長者になるであろう」というお告げがありました。 



 玉津姫は一六歳の春になると、ひそかに都を抜け出して豊後に下り、臼杵の港から三重の里をめざして歩き始めましたが、三重に着いた時はもう夕暮れ。道もわからず途方にくれていると、一人の老人が現れ「小五郎のことはよく知っているが、家はまだ遠い。今夜は私の家に泊りなさい」と言って、自宅に案内してくれました。
 翌日、目を覚ました老人は、玉津姫を小五郎の粗末な家まで送り届けると、たちまち見えなくなってしまいました。



 家には誰もいませんでしたが、やがて顔も手足も真っ黒な若者が帰ってきました。玉津姫は小五郎であることを確かめ、自分は三輪明神のお告げで夫婦になるために、はるばる都からやって来たことを話しました。小五郎は「自分ひとりでもやっと暮らしているありさまで、あなたに食べさせるものもない」と断わりました。
  



 玉津姫はこれがあれば暮らしに困らないからと、都からもってきた黄金を見せましたが、小五郎には黄金の価値がわかりません。
 小五郎は黄金を持って食べ物を買いに出かけました。しばらくして小五郎が帰ってきましたが、手ぶらです。聞くと、下の淵にいるカモに黄金を投げつけたということです。
 玉津姫はあきれて「あれがあれば、この世で何でも手に入れることができるのですよ」というと、小五郎は「あんなものが宝なら、炭焼き窯の下にも、この下の淵にもたくさんある」といいました。

 玉津姫は驚いて、ふたりで淵に見に行くと、そこはまぎれもなく黄金が沸き出す淵でした。そのとき、水底から金色の亀が浮いてきて、夫婦の将来を告げると消えていきました。玉津姫が顔を洗うと、たちまち黒いあざが落ちて輝くような顔になりました。小五郎もこの淵で体を洗うと、美しい若者に変身しました。きれいになったふたりは、黄金を拾い集め金持ちとなり、四方に万の蔵を建て、長者と呼ばれるようになりました。
  



 長者は仏教を信じて、唐の天台山に黄金三万両を贈ったので、天台山から蓮城法師が観音・薬師の像を持って来ました。このとき、内山に建立したお寺が今の蓮城寺です。
 やがて長者夫婦には、たいへんきれいな娘が生まれ、般若姫と名づけられました。その美しさは唐にまで聞こえ、唐の帝は娘の絵姿をつくってくるようにと人をつかわしたほどです。もちろん、奈良の都にも伝わり、帝から皇子の后にと何度も要求されました。しかし、長者は「ひとり娘なので…」と断わり続け、難題をかけられても財力で解決していました。
  



 これにたまりかねた橘豊日皇子(後の用明天皇)は、姿を変えてひそかに都を離れ、名前も山路(さんろ)と変えて、牛飼いとして長者の家に住み込みました。
 しかし、なかなか般若姫の姿を見ることができません。ある日、般若姫が病気になり、長者は神事をすれば病気が治るというお告げを受けましたが、流鏑馬(やぶさめ)の神事ができる者が長者の家来にはいませんでした。そこで、山路に的を射させると見事命中。山路は自ら皇子であることを名乗り、般若姫と結婚することになりました。
  



 しばらくすると、このことが都にも知れ、皇子は都に帰ることになりました。当時、般若姫は妊娠しており、皇子は「生まれた子どもが男だったら都に連れてくるように、女だったら長者の跡取りにして、姫だけ都に来るように」と言い残して都に帰っていきました。
 やがて般若姫は女の子を出産。玉絵姫と名づけました。般若姫は皇子のいいつけどおり、子どもを残して都に行くことにしました。般若姫は臼杵の港から船出し、長者夫婦は近くの山に上って見送りました。この山が姫見ヶ岳(姫岳)です。
  



 般若姫は途中の島に上がって休みました。それでこの島を姫島(大分県姫島村)と呼ぶようになったのです。姫の船は周防の海で嵐にあい、上陸することになりました。ここで般若姫は井戸の水を飲み、柳の楊枝(ようじ)をそこにさしました。すると、一夜のうちに大きくなったので、ここを柳井(山口県柳井市)と呼ぶようになりました。しばらくして般若姫は亡くなってしまい、このあたりにゆかりの寺(山口県平生町般若寺)が建てられました。
 般若姫を失った長者夫婦はとても悲しみ、供養のために石仏を臼杵深田に彫り、満月寺を建立しました。

 その後、長者は九十七歳で亡くなり、玉津姫も九十一歳でこの世を去りました。夫婦の墓は今も内山にあり、夫婦と般若姫の木像があります。
  

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