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新春第一弾!


九州の小京都と言われている竹田の街も21世紀を迎え,町並みが以前と大きく変わりつつある。
しかし,竹田の古き良き町並みは決して変わることなく輝いている。



 
歴史の道(武家屋敷跡と創生館)
 竹田市の歴史は古く,鎌倉時代初期には岡城が築かれ,南北朝〜室町時代には,大友一族の志賀氏が17代260年間にわたって居城。江戸時代には岡藩中川氏7万400石の所領として栄えた。その当時の町並みや武家屋敷の面影を今も色濃く残している。


広瀬神社と竹田の町並み

 日露戦争で旅順港で戦死した広瀬武夫中佐を祠る神社。広瀬中佐は,明治元年旧岡藩士の家に生まれ,同22年海軍兵学校を卒業。日清戦争に従軍し,同30年ロシアに留学。

 日露戦争には朝日水雷艇長として旅順港閉塞隊に加わり,部下の杉野兵曹長の姿を探し求めるうちに,敵の砲弾を受けて一塊の肉片を残して戦死した。軍国美談の主人公として唱歌などでも歌われた。


お客屋と愛染堂


 お客やは岡藩のお客を泊めるためにつくられた。
 現在は茶房として,竹田を訪れる人々に愛されている。
 愛染堂の参堂は古い石段が続く。

 そして,その右手には十六羅漢の石仏が竹田の街を見下ろすように鎮座している。

 愛染堂は岡藩中川氏の2代久盛が祈願のために造立したもので,県指定の重要文化財に指定されている。

 造営奉行の一人として日光東照宮の建設に加わった久盛が,その任を終えて帰藩するときに飛騨の工匠を連れ帰り,この堂を建てさせたという。



田能村竹田ゆかりの竹田荘
  江戸時代後期の文人画家,田能村竹田の旧宅。
 文政元年10月、頼山陽が竹田を訪れ,大いに飲み,大いに語り明かしたという。
 田能村竹田は岡藩の藩医を勤めまた藩学由学館の司業となり豊後国志の編さん 豊後風土記の校訂に預って功があった職を退いてからは専ら詩画等の研究に心を潜めてよく一生面を開き高雅な作品を遺したが天保6年8月29日大阪で没した。。




連太郎トンネルと滝連太郎記念館
 竹田荘から竹田市街に入らずに左に小細い道に入る。30mほど行くと小さな小さなトンネルにぶつかる。これが連太郎トンネル。中は電灯もないないようだ。ところが中に入ると灯りがつき,滝連太郎の懐かしいメロディーがどこからともなく流れてくる。

 瀧廉太郎が12歳から明治27年(1894)に15歳で上京するまで暮らした屋敷が,現在の瀧廉太郎記念館。
 館内には彼の手紙や写真,直筆の譜面などを展示している。
 瀧廉太郎が12才から14才までの2年半,多感な少年時代を過ごした。 瀧家は代々日出藩(現在の大分県速見郡日出町)の家老をつとめた名門で,瀧廉太郎の父−吉弘は岡藩の家老をつとめた後,上京し、大久保利通・伊藤博文の右腕として中央で活躍した。 明治24年,父−吉弘は大分県直入郡長に任命され,12月の半ば,廉太郎は家族とともに竹田に移った。その折,瀧一家に官舎としてあてがわれたのがこの家だった。

 瀧廉太郎トンネルのすぐそばにある『但馬屋』。
 但馬屋は創業190余年,県下で最も古い和菓子屋。初代但馬屋幸助は但馬の国の生まれで,京都駿河屋で修行,岡藩主中川公に召されて御用菓子司となった。
 代表銘菓「三笠野」は,十代藩主久貴公の命によって作られたものという。
 上町に本店や茶房があり,落ち着いた雰囲気で和菓子を堪能することができる。



竹田駅と佐藤義美記念館


 瓦屋根の豊後竹田駅と駅頭にある朝倉文夫の彫刻『時の流れ』。 

 朝倉がうぶ声を上げたのは母の実家のある竹田、そして9歳で同町大字板井迫854、朝倉種彦の養子となっていることなどから、朝倉自身「僕には生まれたところが三ヵ所ある」と言っている。明治35年 竹田中学校 を中退して上京、実兄 渡辺 長男(おさお) (彫刻家)のもとに寄宿する。翌36年4月、東京美術学校彫刻科選科に入学、太平洋画会研究所でも彫塑を学んだ。




 佐藤義美記念館。
 童謡「いぬのおまわりさん」でおなじみの詩人・佐藤義美。
 氏の作品の展示やや児童文化の交流拠点として利用されている。


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