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虹澗橋は,県内江戸期のアーチ石橋で,県指定有形文化財にもなっている。
“虹澗”とは谷にかかる虹という意味で,文字どおり空へ虹を描き川へ弧を映す美しい石橋である。外観の美的価値だけでなく,交通史上から,また近世土木技術史上からも価値ある建造物であると言われている。
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虹潤橋 |
諸元
橋長 31.0m
橋幅 6,5m
拱矢 11.2m
径間 25.2m
環厚 80p
石橋の構造の説明 |
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〈なぜここに石橋?〉
臼杵藩の時代,ここは城下から野津郷を経て三重郷さらに竹田へ至る主要な道路,いわゆる岡城路(岡藩の方からいえば 臼杵城路)であった。
三重郷は臼杵藩の穀倉地で,毎年1万石の年貢米をこの川を渡って臼杵城下まで運んでいた。当時,臼杵への往還の最大の難所が,ここ柳井瀬の渡りであった。
三重郷各村々の農民は,ここで米俵を馬の背中からおろし,肩に担いで急坂を下り,飛石を伝い,対岸の崖をあえぎながら上り,俵を下ろすと折り返し元の所へ戻り,今度は馬の手綱を取って対岸へ渡し,再び馬に俵を積んで城下へ向かったのである。渡川の順番を待つ長蛇の列ができ,一日待っても渡れないこともあったという。そして,順番がこないうちに日没になると,引き返して三重原に宿泊せねばならなかった。また,増水にあえば何日も滞在して減水を待たねばならなかったという。さらに狭い坂道から滑り落ちて死傷する馬もあった。(左岸三重側の道路の上方に今も残っている馬頭(ばとう)観音が当時の苦労を物語るようである)。
ここに石橋をつくれたらと,どれほど多くの三重郷の農民が願ったかよく理解できる。
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