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 JR豊肥線の菅尾駅前(三重町)から東へ約1.5q,県道竹田野津線が三重川を渡る橋に車を止めると,左手奥に古い石橋が架かっているのが見える。文政7年(1824)に建造された虹澗(こうかん)橋である。

三重町から野津町に入る 左手に見える虹潤橋



当時の日本では最大規模の石橋
 


  虹澗橋は,県内江戸期のアーチ石橋で,県指定有形文化財にもなっている。
“虹澗”とは谷にかかる虹という意味で,文字どおり空へ虹を描き川へ弧を映す美しい石橋である。外観の美的価値だけでなく,交通史上から,また近世土木技術史上からも価値ある建造物であると言われている。
虹潤橋
諸元
   橋長 31.0m
   橋幅 6,5m
   拱矢 11.2m
   径間 25.2m
   環厚  80p
 
      石橋の構造の説明
  
 〈なぜここに石橋?〉
  臼杵藩の時代,ここは城下から野津郷を経て三重郷さらに竹田へ至る主要な道路,いわゆる岡城路(岡藩の方からいえば 臼杵城路)であった。
 三重郷は臼杵藩の穀倉地で,毎年1万石の年貢米をこの川を渡って臼杵城下まで運んでいた。当時,臼杵への往還の最大の難所が,ここ柳井瀬の渡りであった。
 三重郷各村々の農民は,ここで米俵を馬の背中からおろし,肩に担いで急坂を下り,飛石を伝い,対岸の崖をあえぎながら上り,俵を下ろすと折り返し元の所へ戻り,今度は馬の手綱を取って対岸へ渡し,再び馬に俵を積んで城下へ向かったのである。渡川の順番を待つ長蛇の列ができ,一日待っても渡れないこともあったという。そして,順番がこないうちに日没になると,引き返して三重原に宿泊せねばならなかった。また,増水にあえば何日も滞在して減水を待たねばならなかったという。さらに狭い坂道から滑り落ちて死傷する馬もあった。(左岸三重側の道路の上方に今も残っている馬頭(ばとう)観音が当時の苦労を物語るようである)。
 ここに石橋をつくれたらと,どれほど多くの三重郷の農民が願ったかよく理解できる。



今でもがっしりとしたアーチ部分 今でも車が通る生活道路
楔石(くさびいし)
  〈私財を投げうった三商人〉
 橋を架けるといっても,木橋では洪水が出ればすぐ流されてしまう。ここはどうしても脚のないアーチ石橋でなくてはならない。ところが石橋建設には莫大な経費がかかる。藩に願い出ても藩自体が財政窮乏の状態でどうにもならなかった。そこで臼杵城下畳町の茶屋 甲斐源助,三重市場の油屋 多田富治,代屋 後藤喜十(喜十郎)3人の富商が協力して金を出し,アーチ石橋を架けることになった。
 虹澗橋は発議後1年,起工後3年半という予想外の歳月を要し,経費は莫大なものとなった。そのため3人の富商は家産を傾けたという。藩からは甲斐源助に対し表彰状と銀貨5枚を賜わっただけだった。
  



 石工の頭梁は,臼杵領内大野在の伊沢織平で石工集団の長であった。
 当時の領内の石工はその技を買われ,肥後領 関 手永(てなが) に呼ばれ 西谷橋 (佐賀関町,現存)と 金道橋 (大分市坂ノ市,撤去)をかけている。
 今ではこの石橋もその役目をほぼ終えて,ひっそりと佇んでいるように見える。
川底から絶壁のような岸を這い上がる









  

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