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せっ しゅう    ちんだ の たき


 大分県の母なる川「大野川」は源を遠く宮崎県五ヶ瀬に発し,熊本県阿蘇郡から大分県直入郡を経て,この大野の地にいたっている。
 名瀑「沈堕の滝」は,大野川本流にかかる幅百余メートル,高さ20メートルの懸崖を落下する雄滝と支流平井川にかかる幅4メートル,高さ18メートルの雌滝の2瀑からなり,その壮大な景観は,「豊後のナイアガラ」と呼ばれている。

 昔は遠く関東まで知られ多くの人に絶賛され,なかでも室町時代のかの有名な,「画聖」雪舟が訪れ描いたのが「鎮田瀑図」である。雪舟が明国で会得した山水画の真髄を結集した作品といわれている。 当時の画家は寺院や邸宅の部屋に居座しながら描いたものであるが,雪舟は自然のありのままを描いており,数々の名作もこの作品を起点にされたという。

 三重町から岩戸橋を通り清川村に入る。国道502号をすぐに右折すると正面に水色の橋が見えてくる。この橋を渡ると大野町だ。目的の沈堕の滝はこの橋のすぐ上流にある。
  橋の下を流れるのは大分県最大の河川である大野川。

 橋の上から左手上流に滝が半分ほど見える。
 滝は雄滝と雌滝の2つあるというが,ここからは1つしか見ることができない。
 しかし,この橋を渡り大野町に入って50mほどいくと,道路左手に展望所があり大きな観光案内版と巨大な雪舟の水墨画の看板がある。

 この展望台からは真正面に沈堕の滝を見下ろすことができる。原尻の滝も立派だがこの沈堕の滝も見る者をうならせる雄大さと美しさを持っている。室町時代の画僧・雪舟が筆をとったこの滝は、昨年から水が常時落とされるようになった。
 この滝は発電所の取水用のダムとして使われてるため滝の上に一段高く堰が作られている。

 この滝の手前100m程のところに支流の平井川にかかる雌滝がある。


この滝を見下ろすように滝の右手に公園があり,滝見小屋のような展望台がある。
 今年はさらに沈堕の滝を一望する高台に,住民手づくりの公園が完成した。雑木の伐採から三年をかけ,植樹をし,芝も張った。雪舟まつりの会場にまなる。
 公園は標高約220m,沈堕の滝から約500mのところにあり,広さ1.5h。公園内と周辺には数百本のサクラ,モミジ,ツツジが植えられている。イベント広場やミニ草スキー場もできた。



 名瀑布の莫大なエネルギーは,明治時代末期に沈堕発電所の建設により電力に変えられた。この電力は,別府大分間の電車を走らせ,家庭用電力はもとより大分県の産業開発の原動力となり,文明開化の糸口となったのである。雄滝と雌滝の間にある西洋技術を取り入れた石造建築物がその発電所跡である




 雪舟 せっしゅう 1420〜1506頃 室町後期の禅僧・画家。備中(岡山県)に生まれる。10代で上京して相国寺にはいり、春林周藤(しゅんりんしゅうとう)に師事した。40歳以前の経歴についてはほとんど不明だが、40歳代半ばごろより「雪舟」の号を名のりはじめる。
 周防(すおう:山口県)の大内氏から庇護をうけ、1464年(寛正5)その地に画房雲谷庵(うんこくあん)をいとなんだ。67年(応仁元)には大内氏の遣明船で明におもむき、李在(りざい)をはじめとする同時代の中国画壇から直接多くをまなびながら、宋・元の古典的な絵画についての研鑽(けんさん)をつみ、また大陸の自然からも啓示をうけた。

 帰国後の画僧としての活動はめざましく、その画期的な作風で水墨画界に新風をふきこんだ。代表作に、入明中の制作と推定されている「四季山水図」、大内氏のために大分の天開図画楼(てんかいとがろう)でえがいた「山水長巻」(1486)、弟子の如水宗淵(じょすいそうえん)にあたえられた「破墨山水図」(1495)、日本の名所に取材した「天橋立図」(1502頃)、禅宗故事によった人物画「慧可断臂(えかだんぴ)図」などのほか、帰国直後の制作と推定される「四季花鳥図屏風(びょうぶ)」などがある。

    "雪舟" Microsoft(R) Encarta(R) 97 Encyclopedia. (C) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.


   『鎮田滝図』
 中国から戻った雪舟は一時期豊後の国で過ごした。その時にかかれた作品。遺作のうち国宝は「秋冬景山水図」「破墨山水図」「天橋立図」「山水長巻」「山水図」などで、他に重要文化財12件を数える。

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