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 Tanomura   Chikuden


    広瀬神社から市街をのぞむ



  竹田市といえば岡城,滝連太郎を連想するが,忘れてならないのは田能村竹田(たのむらちくでん),豊後南画の始祖である。


  江戸時代後期,田能村竹田,田能村直入,帆足杏雨,田能村草坪,田能村五岳らによる中国南宗画法による水墨画が隆盛した。
  墨だけではなく,藍(あお)や朱(あか)による彩色が特徴で,なんとも言えない温かみや深みがある。





  竹田は江戸後期安永6年(1777)に生まれ天保6年(1835)没の文人画家。名は孝憲、字(あざな)は君彝(くんい)。豊後国(大分県)竹田村の岡藩々医碩庵の次男として生まれる。幼名を磯吉、青年期を行蔵と称した。

  「竹田」という名は,生まれ育った地名に由来する。11才で藩校に入り、軽学文章をを専攻,詩の才能を認められる。
  18才の時兄が病死すると医業にたずさわるが意に添わず寛政10年(1798)22才で藩校由学館の教授となる。

  この年幕命で『豊後国志』の編纂に参画。この時約3年の調査期間があり,藩内はもとより江戸に1年滞在する。この間,画を谷文兆に学ぶ。帰路大阪木村蒹葭堂を訪ねるなど広く交流の糸口をもった。
 

武家屋敷跡



竹田自画像







        竹田茶寮への遊歩道



           竹田茶寮
  文化三年(1806)30才の時,眼病治療のため京都に赴く。
  この時,村瀬栲亭の門に入り詩文を学ぶ。文化8・9年藩内で百姓一揆が起こり建白書をだすも聞き入れられず,辞任願いを出す。
  35才の時文化10年(1813年)職を辞してからは,自由人として詩書画を中心とする生活に入り,京・大阪・江戸の文人たちとひろく交流しながら,中国文人画の正統を学ぶことにつとめた。

  歳関三友双鶴図,暗香疎影図,松巒(しょうらん)古寺図は重要文化財である。
  加えて,和歌,音曲を理解し,聞香,喫茶,瓶花と多彩を極めた。
  詩は白楽天の清淡を宗として屈原を愛した。おびただしい書画に加え,《船窓小戯帖》や《亦復一楽帖(またまたいちらくちょう)》などの画帖の小品にも佳作が多い。







  著作に『竹田荘泡茶訣』『竹田荘茶説』『瓶花論』の小論を始め「山中人饒舌(さんちゅうじんじょうぜつ)」『石山斎茶具図譜』や「竹田荘師友画録」のような絵や画家や画論に関する『山中人饒舌』のほか,「填詞(てんし)図譜」など詩文に関するものもある。

  化政期活躍した文人との交流も深く,木村蒹葭堂を通じ浦上玉堂,篠崎小竹,青木木米他と交わり,特に頼山陽との交流は君子の交わりと言われた。


  天保6年(1835)59才で大阪中之島の岡藩蔵屋敷にて没した。







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