自然許容力の限界的な利用
それでは、自然の許容力を越える限界はどの程度でしょうか。江戸時代の対馬での例を、享保
14(1729)の『木庭作(こばさく)停止論』に見てみましょう。対馬では焼畑のことを木庭(こば)と呼んでいます。著者の、陶山訥庵(すやまとつあん)は、対馬藩の郡奉行(こおりぶぎょう)として、猪垣(ししがき)を築いて9区画にわけ、毎年1区画ごと重点的にイノシシの撲滅を9年かけておこなう猪逐詰(ししおいつめ)政策(
1700〜1709)を指導しました。その結果、イノシシが減少し農作物も被害を受けなくなりました。人口も増加してきます。昔は収穫前には夜のあいだずっと木庭を見張る必要で、子供も見張り番をしていましたが、その必要がなくなったので、人口よりも焼畑の数が増えました。また、焼畑を取り囲む木製の猪垣が腐って壊れる心配をしなくて良いので、焼畑使用年限も長くなりました。また、さらに使う太い木杭が採れるような大きさまで樹木が育つのを待つ必要がないので、休閑期間も短くなってしまいました。
こうして、対馬藩では、
17世紀後半から焼畑面積の増大(木庭の開けすぎ)による環境破壊が社会問題になっていたのです。川の淵だったところが流れ出た土砂で埋まって瀬になったと書いてあります。そこで木庭作を禁止しようとしますが、対馬藩の行政が優れていたのは、焼畑禁止令を出すにあたって、一種のアセスメントを実施したことです。その結果報告書が『木庭作停止論』です。
それによると、瀬田村と飼所村は、「今後とも木庭作を許してほしい」と願い出ますが、役所は、「古法の如く焼畑をおこない、年貢は検見とする」と返答しています。そうすると、二箇村の百姓は役所の裁定をかえって迷惑に思い、「他の村と同じにしてほしい」と重ねて願い出ました。しかし、二度目の願いは、結局、取り上げられなかったといいます。(月川雅夫ら,
1995,木庭停止論,日本農書全集64,農文協)『木庭の古法』というのは、「上々の土地の焼畑では10年、上の土地では12年、中の土地では17年、下の土地では25年」休閑してムギを1年作るといったものであったようです。人口に対して森林が少なくなった対馬では、この古法を守ることが困難になって、休閑期間が短くなっていたのでしょう。それで環境破壊が急激に進行したと思われます。
このことは、焼畑には十分な休閑期間が必要なことを示しています。この、休閑期間に自然に地力が回復するので、循環をたもつことができるのです。
焼畑を禁止されては困るが、人口が増えて休閑期間を十分にとることもできないといった農民の苦悩がうかがえます。
今、熱帯雨林などで問題になっている「焼畑」は、伝統的な焼畑文化をもった焼畑農民が人口増加や森林減少のために、やむなく休閑期間が短くなったのとも違います。
はじめから休閑させて森に戻すという循環利用を考えていないので、あれはやはり「焼畑」ではなく、「
火を使った、開発行為」です。伝統的焼畑システムへ戻る 日本の焼畑へ戻る このページに対する御意見を歓迎します。 佐々木章