春を告げる野焼
春を告げる野焼きの習慣は日本各地にありました。九州では阿蘇の野焼が有名で、全国から集まったボランティアの応援もあって、毎年続けられています。
今年
2004年の3月、FM中九州(FMK)の伊井純子さんから突然に電話があって、「阿蘇の野焼の継続について意見を聞かせてほしい」という内容でした。「イブニングジャーナル」という番組のディスクジョッキーをやっているが、番組の中で「牛の放牧も少なくなって、主体となっている牧野組合の組合員も高齢化してきているのに、無理をして野焼を続けなくても、自然の森林に戻したほうが良いのではないか」という意見をめぐって多くの人の意見を求めているとのことでした。野焼のボランティアに参加して、そこで一緒になった学生さん(現在、北海道森林管理局)を通して私が焼畑に興味を持っているのを知ったそうです。このような経緯なので、
阿蘇の野焼について私は知らないし、展開されている論議の内容も知らないのですが、急いでまとめた私の意見を掲載します。皆さんのご批判をお願いします。
1.野焼を存続させるのか止めるのかは、今まで牧畜に伴う経済行為の一つとして野焼きを続けてこられた牧野組合の皆さんが決めることです。他の人がとやかく言うことではありません。
2.一方、長年続いてきた野焼は、一つの文化ですし、伝えられてきた技術でもあります。特に
火を使って火をコントロールする文化や技術は、人類が人類になる上で非常に重要です。アフリカから飛び出した私たちの直接の祖先、ホモ・サピエンス・サピエンスが6万年(4万年)前、オーストラリア大陸に達しました。そのころの文化を伝えているアボリジニも火で疎林を管理する技術を伝えています。わが国でも縄文時代には焼畑があったかもしれません。また、古代には馬を管理する官牧があって野焼きをおこなっていた様子です。中世になると、九州は関東とならんで騎馬武者が多く、源平の戦いでも一大勢力を形成していますが、その背景にあるのは牧野であり、おそらく野焼が行なわれてました。騎馬技術だけでなく、刻々と変化する炎の中で、自分で判断し、勇気をだして炎に立ち向かう具体的な体験が、戦いに強い武士団を形成する上で重要な役割を果たしたと思います。炎をコントロールする技術は映像記録だけではなく、実際の体験を通じて後世に伝えることができたら良いと思います。3.景観もそうなのですが、野焼を続けてきたことで、分布を広げたり、生き残った動植物があります。たとえば
サクラソウは、野焼の終わった早春に葉を出し花をつけます。ススキが生育するようになると結実して、地上部は枯れます。土の中の根は、夏の間はススキの日陰ですごし、次の春を待ちます。野焼が無ければ、去年のススキの残骸で日陰になり、短い春のあいだに十分な生長ができなくて最後は死に絶えしまいます。野焼のおかげで分布を広げ、生き残っている植物の一つです。今より7万年前から1万2千年前にかけて、現在より寒くて陸地が広がっていました。よく知られている氷河時代です。そのころ分布を広げた植物たちが各地に生き残っています。1万8千年前にもっとも寒くなりましたが、その後気候は温暖化し、8千から6千年前にかけては、逆に現在よりも温かだったと言われます。温暖化の中で、西日本には、初め落葉広葉樹のブナ林が広がり、その後、シイ・カシに代表される照葉樹林に置き換わっていきます。その中で、氷河時代を生きた動植物達はどのようにして生き残ってきたのでしょうか。
今から7,300年(6,300年ともいわれる)前に、種子島の西の海中火山が大爆発を起こします。鬼界カルデラ噴火です。このとき海を渡った火砕流は種子島や屋久島、大隈半島などを直撃します。多量の火山灰が九州から四国までを厚く覆い尽くし、北は青森県にまで達します。このときの堆積物がオレンジ色のアカホヤです。その噴火によって、直接に死に絶えたものもあります。暑さに耐えながら生き残っていた動植物たちも弱って、暑さに強い他の動植物に置き換わってきました。そのような環境変化の中で、草原のサクラソウなど貴重な植物はどうやって生き残ってきたのでしょうか。すでに、そのころから人類による野焼きが始まっていたのでしょうか。よくわかっていない問題です。
4.まだ分かっていないことがたくさんあります。当事者でない私たちや行政は、今残せるものは、たとえばボランティアや体験イベント、あるいは博物館としてでも残し、わかっていない部分の研究をすすめることが必要だと思います。
佐々木章
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