中山別荘
©伊藤輝和


©伊藤輝和(ビーコン・タワーから2000年に撮影)


©伊藤輝和(ビーコン・タワーから2000年に撮影)


©伊藤輝和(1986年(昭和61)2月撮影)


©伊藤輝和(1986年(昭和61)2月撮影)


→別府の建築遺産 大正・昭和 浪漫のかほり

ビーコンタワー近くの歴史的な建物にある中山別荘は、もともとは富士紡績の創業者(大分県中津市出身)である和田豊治が建てた別邸「致楽荘」 である(大正9年[1920]5月27日に竣工)ことから、別府では旧和田豊治邸とも呼ばれる。和田豊治はこの別府の別邸以外にも伊豆長岡にも別邸「時来荘」 を持っていた。本邸は東京・向島(むこうじま)にあった。
この和田豊治邸の洋館を設計したのが東京に本拠を置く建築設計施工会社の「あめりか屋」の建築士「山本拙郎(やまもと・せつろう)」(日本最初の 住宅作家と呼ばれる)、工事監督はあめりか屋での山本の後輩「遠藤健三」(元大日本土木会長)、棟梁は渡邉源四郎である。この頃、別府は関西などの 財界人を対象とした別荘地の分譲を開催していた。


この和田豊治邸を譲り受けたのが、九州出身で中山製鋼所を興した中山悦治である。中山は、和風部分は京都の棟梁である平田雅哉に設計・施工を 依頼、また庭園の改造のために造園家の椎原兵市(大分市生まれで、京都高等工芸に学び宮内省、大阪市などに勤務)に依頼して旧和田豊治邸に手を 入れた。これが現在の中山悦治別邸(通称 中山別荘)である。中山は熱海にも大観荘という別邸を建てている。本邸は関西の芦屋市。中山別荘には戦前、 大正12年[1923]5月22日に久邇宮良子(くにのみや・ながこ)女王陛下(現皇太后様)が別府を訪れた際に宿泊している。


第2次世界大戦の敗戦後、別府に進駐軍がきて、中山別荘は接収され、最高司令官(米187空挺部隊のウィリアム・ウェストモアランド中佐 (William C. Westmoreland)の官舎となった。ウェストモアランド中佐はこの中山別荘に昭和26年[1951]6月15日〜昭和30年[1955]7月5日もの 長期間居住した。ウェストモアランド中佐は後に50歳で米国史上最年少の将軍(ゼネラル)となった。彼は昭和45年9月に別府を訪れた際には まっ先に中山別荘を訪問している。

(注)山本拙郎
明治24年[1891]2月22日 高知県香美郡岩村に生まれる 大正 3年[1914] 早稲田大学理工学部建築学科入学 (高知中学→三高→早稲田大学) 大正 6年[1917] あめりか屋へ就職

山本拙郎はキリスト教の環境に育った影響から、明治式の立身出世的人生観から切れていて、三高から帝大でなく早稲田に行ったこともその一端と 考えられる。性格もやさしく温厚で、あめりか屋の「啓蒙面」として健筆をふるった『住宅』誌上の文章も、大変ロマンティックなものであった。 また村野藤吾・吉村順三・池田武邦ら後の時代の建築家たちが直接・間接に山本の存在に触れる機会があり、吉村氏も「私が最初に好きになった 建築家なんです」と語っている。その作品もやはり温厚、素直なものであった。

(注)あめりか屋
明治42年[1909]に橋口信助が創立。橋口は若い頃一旗あげようとアメリカに密航し、さまざまな職業を転々として日本へ帰国。その時、アメリカ から組立式のバンガロー住宅(現在で言えば、プレハブ住宅)を持ち帰えり、それを東京・乃木坂に建てることで住宅供給の第一歩を踏み出した。 アメリカ風の中小住宅をセールスポイントにしていた。あめりか屋は経営面を橋口信助、技術と啓蒙面を山本拙郎という体制で住宅建築の世界に 新時代を切り開いて行くことになった。あめりか屋の作品は中山別荘以外には軽井沢の旧別荘地域にプリンスホテルの晴山ホテル(旧根津嘉一郎別邸) など数点残るのみである。本社の所在地は当時のよび方では「東京市芝区琴平町1番地(虎の門)」

(注)久邇宮(くにのみや)
旧宮家のひとつ。明治8年[1875]伏見宮邦家親王の第4王子朝彦(あさひこ)親王が創立。昭和22年[1947]廃号。

(注)良子(ながこ)[1903〜]
昭和天皇の皇后。久邇宮邦彦の第1女。1924年結婚し皇太子妃宣下。1926年立皇后。1989年昭和天皇死去により皇太后。

(注)ウィリアム・ウェストモアランド(William C. Westmoreland)
ウェストモアランドは1914年に米国サウス・カロライナ州のスパルタンバーグ区(Spartanburg Country)に生まれた。1931年〜1932年、 サウス・カロライナ州チャールストンの陸軍大学「Citadel」(要塞という意味)に学び、そのごニューヨーク州のウェストポイント (West Point)にある米国陸軍士官学校に入る。士官学校では優れたリーダーシップを持つ学生に贈られるパーシング賞(Pershing Award)を受賞。 1936年に士官学校を卒業すると佐官(field officer)として、第2次大戦中(1939-1945)は北アフリカおよびシシリー島における第9歩兵部隊の 司令官として勤務。1944年6月6日のノルマンジー上陸作戦(the D-Day landings in Normandy)にも参加した。朝鮮戦争(1950-1953)の時には 第187空挺部隊の連隊の戦闘団(the 187th Airborne Regimental Combat Team)を指揮した。1956年に彼は第101空挺部隊の司令官として米陸軍で 最年少の将軍(major general)になった。1960年〜1963年、彼は米国士官学校(U.S. Military Academy)の最高責任者となった。ベトナム戦争 (1959年〜1975年)では米軍の最高司令官(1964年〜1968年)を務めた。ウェストモアランドは1989年に「A Soldier Report」という著作を出版している。


【2000/05/21 岡本明雄、主参考文献:地霊】

本日の大分合同新聞夕刊3ページの「21世紀への遺産」という連載に、中山別荘が少しだけ取り上げられていますが、「現在、別府の貴重な 近代化遺産であるが、市民の保存の動きもみられず風前のともしびの状態にある。」と書かれていました。非常に気になる文章ですね。 私は中山別荘の名称だけは知っていましたが、敷地内にも入ってみた事がありません。赤銅御殿(あかがねごてん)のように無くなって しまうのでしょうか?
【2000/05/17 吉永秀生】


吉永さんの発言より
> しだけ取り上げられていますが、「現在、別府の貴重な近代化遺産であるが、
> 市民の> 保存の動きもみられず風前のともしびの状態にある。」と書かれて
> いました。> 非常に気になる文章ですね。
うーーん これも早く取り組まねば・・・と自分にプレッシャー掛けて見ます(-_-;) 内部の見学はこのところ許可されていません。
> 赤銅御殿(あかがねごてん)のように無くなってしまうのでしょうか?
のようにはしたくないけど、どうもそんなニュースも聞こえたりはしています。
【2000/05/17 菅 健一】

> ヨッシ−@別府温泉です。
>
> 本日の大分合同新聞夕刊3ページの「21世紀への遺産」という連載に、中山別荘が少
> しだけ取り上げられていますが、「現在、別府の貴重な近代化遺産であるが、市民の
> 保存の動きもみられず風前のともしびの状態にある。」と書かれていました。
> 非常に気になる文章ですね。
> 私は中山別荘の名称だけは知っていましたが、敷地内にも入ってみた事がありませ
> ん。
> 赤銅御殿(あかがねごてん)のように無くなってしまうのでしょうか?
ずーっと以前、指月会(河村会長)が別府の古い建物の調査をしていた頃、敷地内を見学したことがあります(写真は河村さんが恐らく持っていると思いますが)。一丁角の広い敷地内の庭の高木に、白鷺が営巣していたのを記憶しています。建物も確か木造洋館づくりで風格がありました。現在の状況(持ち主・保存状態)は分かりませんが、みんなが関心を寄せなければ、今後どうなるか分からないでしょうね。なくなった後で、悔やんでもはじまりませんから。(何とかしてほしい気がします)
【2000/05/17 伊藤輝和】

> 岡本@ML辞書編集人です。
> 中山別荘の歴史については産研による「地霊(ゲニウスロキ)」(限定出版書籍)
> に詳細が書かれていますし、内部の写真も掲載されています。
確か、駐留米軍将校の宿舎として接収されたとの記事もあったように記憶しています。この本が出版されて随分たちますが、いまだ目立った動きが無いのが残念です。先のことは分かりませんが、もし分譲住宅地として開発されるようなことを想像すると、いたたまれない気持ちです。
> この致道博物館に最初に行った時には、西郷隆盛関係の遺品が多く
> 展示されていたのにビックリしました。
> これは西郷が戦いに敗れた庄内藩に対する措置が極めて寛大であった
> からで、その時のことを恩義に感じて、西南戦争の時に援軍として
> 庄内・鶴岡から西郷軍に加わったというわけです。現在でも鶴岡と
> 鹿児島は姉妹都市です。
西郷さんもりっぱなら、庄内藩もすばらしい。選挙の後によく報復人事なんてこと耳 にしますが、西郷さんを見習えないものでしょうか。
> 歴史的建築物を取り壊すことは反対です。それを活用する方向に進める
> べきです。それができないなら、移築・復元をすべきです。
> 歴史はカネでは買えません。
古いものを取り壊して、すぐ新しいものを建て替える。歴史的価値の重さの分からない政治屋がはびこる世の中を、住民の意識でなんとか変えていかなければと思います。この中山別荘が残るか残らないかは、ひとえに別府市民の意識にかかっていると思いますが。(歴史は時と人の心でしか作ってくれませんからね)
【2000/05/17 伊藤輝和】

★井上@大分市です。
 平川秀徳 さんどうも・・・

>> 本日の大分合同新聞夕刊3ページの「21世紀への遺産」という連載に、中山別荘が少
>> しだけ取り上げられていますが、「現在、別府の貴重な近代化遺産であるが、市民の
>> 保存の動きもみられず風前のともしびの状態にある。」と書かれていました。
>> 非常に気になる文章ですね。

★気にもなりますし 村松先生の悲痛な叫びにさえ聞こえます。
 危機感さえ感じさせる 一文だと思います。

★最後の
 <私欲に走る財界人の報道を読むたびに、和田豊治の日本再生の遺志を伝えるこの建築
  文化遺産を残したい・・・>
 この一文も印象的でした。

★ある意味で
 <別府の真の文化度>が 問われているのだと 思います。
【2000/05/17 井上正文】

甲斐@別府八湯鉄輪(はっとう かんなわ)温泉です。

菅さん。いつもご活躍、ご指導有り難うございます。
年齢的に見ても私のパパみたいな方ですので
つくづく親心に感謝しております。

> 菅@別府です。
>
> 吉永さんの発言より
> > しだけ取り上げられていますが、「現在、別府の貴重な近代化遺産であるが、
> > 市民の保存の動きもみられず風前のともしびの状態にある。」と書かれて
> > いました。非常に気になる文章ですね。
>
> うーーん これも早く取り組まねば・・・と自分にプレッシャー掛けて
> 見ます(-_-;) 内部の見学はこのところ許可されていません。
> > 赤銅御殿(あかがねごてん)のように無くなってしまうのでしょうか?
> のようにはしたくないけど、どうもそんなニュースも聞こえたりは
> しています。
>

取り組む筆頭は産研がいいでしょうね。「地霊」のながれからみても、、
そこから広がっていけばいいと、常々思っております。
このMLには産研のメンバーもたくさんいますし、近代化遺産に理解の
あるかたもたくさんいます。頑張っているパパの心臓に負担をかけるような
ことはしません。後を信じてGOーだけだしていただければ幸いです。
できるだけのことを、できるかぎり、するしかありません。
【2000/05/17 甲斐賢一】