ありふれた「三つ葉のクローバー」として・・・


■スタッフのエッセイ集です
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2017年12月22日(金)
「愛の鞭はあるのか?」 清川診療所 所長 坪山明寛 

 厳冬のなか、こころもち背を曲げ小刻みに登校する子供達を、暖房のきいた車から眺めながら通勤する自分がいる。“老いたなあ”と情けなくなり、暖房を切り臍下丹田に気を込めることがある。そんな時思い浮かぶのは、自分が小学生の頃の通学風景である。60年前は裸足通学だった。厳冬で霜が降りている朝礼の時は、霜が溶け冷たさにもじもじ動くと先生の鉄拳が落ちた。今だったら「教師暴力!」となるだろうが、戦後10年、子供の人権なんてなく、教師は絶対的権威があり、スパルタ教育がまかり通っていた。
 今大相撲界で暴力が騒動になっている。私も暴力は絶対悪だと考えている。でも小学5年の担任の先生から殴られた痛みは、ほんわかした懐かしい思い出というより、むしろ忘れずに大切にしておくべき「譲れない教え」として脳裏にこびりついている。私はどちらかと言えば、親にも反抗せず友達とも喧嘩しない所謂良い子だったと思う。
 ある日、乱暴な子が「坪山は、やっせんぼ<鹿児島方言で“弱虫”>じゃ」とからかってきた。薩摩では、男が弱虫と言われたら最も卑下されたことになる。就学前から、崖の上に立ち「なこかいとぼかい、なこよっかひっとべ<泣くか飛ぶか、泣くより飛べ>」と叫びながら遊んだ。つまり崖から飛び降りるのを怖がり、泣く弱虫は薩摩男児ではないという意味と、男はいざとなったら理屈よりも勇気<蛮勇かも?>で生きよということが、遊びの中で教えられていた。
 おとなしい私も薩摩男児、「やっせんぼ」と言われたら腹が立ち「やっせんぼじゃなか!」と抗議した。するとその男の子が「やっせんぼじゃないなら、○○を叩いてみよ」と言った。○○とは、私の前に座っている頭のいい女の子だ。一瞬固まった、女の子を叩くなんて・・・。すると「ほ~らみろ、やっせんぼ~」と仲間と一緒に囃し立て始めた。私は〇〇の頭を叩いてしまった・・・。
 翌日、先生が朝一番に「昨晩、親御さんが来て、娘が叩かれたと泣いて帰ってきたと言われた。思い当たる者は立て」と言った。私の心臓は止まった。私はおそるおそる立った。するともう一人立った。私に「やっせんぼ」と言った子だった。先生は「坪山はよか、座れ」と言って、囃し立てた子の前に行き、平手でパシッと殴った。教室が静まり返った。先生の話では、○○が下校中にその子に殴られ泣いて帰ってきたのだった。先生は私の前に来て「坪山は、なんで立ったのか」と質した。昨日の出来事を正直に話した。「歯を食いしばれ!」と言った途端、先生の平手打ちが左の頬に炸裂した。先生は身長180cmを超えバレーボールのアタッカーだった。痛かった!「自分でも悪いと思ったことを、人から言われるがままやるのが、一番のやっせんぼじゃ!」と怒鳴られた。この言葉は今も耳の奥に残っている。小学5年のこの出来事は「自分が正しいと思うことは曲げまい」という生き方の礎になった。時々妻から頑固だと言われるが、平手打ちの痛みが残っている間は「譲れない教え」を守りとおすことになろう。
 心身を傷つける暴力は絶対にいけない。私も子供を叱ったことはあるが、手を出したことはない。しかし平手打ちした先生を憎むどころか、60年余経った今も、尊敬し感謝している自分がいるのも確かだ。
 教育と体罰を考える時に、暴力反対と叫ぶだけでよいのかと問われると難しい。例えば子供座禅会で、警策で肩を叩くのは許されるのか?愛の鞭と体罰の違いは?考え始めると悩ましい課題だが、大相撲騒動を契機に、考え悩むことを放棄せずに真向かってみたい。
 さて今年も「きよかわの風」を読んでいただき感謝します。来年も診療所・もみの木・三つ葉を、よろしくお願いします。
皆さまお元気で良いお年をお迎えください。






2017年11月27日(月)
「”もうこりた”で生きる」 清川診療所 所長 坪山明寛 

 寒気が日本列島に雪崩の如く押し寄せてきた。通勤途中に広がる刈田にも、霜の女神青女が舞い踊った跡が見られるようになった。
  山の影田にくっきりと霜残る 明寛
 先日、鶴見岳がうっすらと冠雪していた寒い日の朝、別府に講演をしに行った。対象者は来年3月で定年退職される先生方で、教員生活を終えて新しい道に踏み出すにあたっての健康がテーマだった。
 私の父も教員をしていたので、父の姿を重ねながらの話になった。高校の頃には、父の書棚をよく漁って、教育者ルソーやペスタロッチ、内村鑑三などの本を読んでいた。内村鑑三の本の中に「みだりに師となるなかれ」の一節があった。この言葉は、医師としての覚悟を突き付けられているようで、今も私の大切にしているフレーズである。 
   講演の中で、忘れられない先生の話をした。その先生は、退職後わずか5ヶ月余で亡くなったのだ。現職時代には高血圧で診療していたが、退職後から表情が暗くなり、食欲が落ちて痩せてきた。検査しても、これといった病気はなかった。外出もしなくなり家に閉じこもるようになってきた。ある日先生の家族から、自宅での急死の連絡があった。
 何が先生の死に影響したのか、特に生きる意欲を無くしたのは何故なのか。この方は、教職という仕事に、数十年情熱を注ぎ精魂を込めて来た。しかし退職後は何もすることが無くなっていた。教職一筋の生活のために、趣味もなく家庭も顧みず、地域活動にも参加することもなかったので、退職後に目標がすっぽり抜けてしまい、生きるエネルギーが燃え尽きた状態になってしまったのだ。平成2,3年ごろの流行り言葉で言えば、「濡れ落ち葉」状態になっていたのだ。
 職を去るということは、役割を失うことであるが、社会的責任から解放され、ホッとした時間的自由が得られることでもある。
 しかし、このような「時間的自由」には、油断すると怖い刑罰が待っている。それは「自由刑」という刑罰である。自由刑の中身は、懲役ではなく無期退屈が科せられるのだ。 無期退屈という刑は、日々することもなく、テレビを見るか昼寝をするか、お酒を飲むか奥さんの後を「濡れ落ち葉」のように後を付きまとうしかなくなる。こんな生活が長く続くと、所謂「生活不活発病」になってしまう危険性が高い。「生活不活発病」は、体を動かさない状態が長く続くことで、心身の機能が低下することである。具体的には、筋力低下、関節の拘縮、骨の委縮、心肺・消化器機能低下、認知症、うつ病などに悩まされる。先ほど紹介した先生は、まさにこの状態になり、生命力や免疫力まで尽きてしまったのだ。
 「生活不活発病」の危険性は、定年退職者だけでなく、仕事を退いた高齢者にもある。
 では自由刑である無期退屈という牢から、脱獄する鍵はないだろうか。
素晴らしい鍵がある!それは“もうこりた”の生き方をすることだ。「もう懲りた」ではなく『亡己利他』である。これは比叡山延暦寺の開祖最澄大師の言葉で、「己を忘れ他を利する」という意味である。換言すれば「ボランテイア精神」であろう。
 定年退職者や老い人には、自由な時間があり、培った経験や知識、技がある。これらを他の人、特に子供達に分かち与えられる。具体的には「語り部」として、子供達に民話や生死のこと、記憶に残る体験を語り、遊びを伝授することで成長を支えられる。ペスタロッチの言葉に「世界で一番有能な教師よりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子供は立派に教育される」とある。家庭や地域が子供を教えてこそ、社会を生きぬく力のある子どもが育つと思う。自由な時間を『亡己利他』の心意気で使うことは、子供達が立派になり、自分は、生活不活発病を招く無期退屈牢から見事に脱獄でき、一石二鳥の生き方である。






2017年10月25日(水)
「気にかかるダリ」 清川診療所 所長 坪山明寛 

 先日大分市美術館を訪れた。開催中の「奇才・ダリ展~もうひとつの顔~」を鑑賞するためだ。サルヴァドール・ダリ、スペイン生まれの芸術家だ。一度見たら忘れない顔、長いカイゼル髭をぴんと跳ね上げ、目を見開いたあの顔の人だ。私の知っている代表的な作品と言えば「記憶の固執」だ。3個の時計がぐにゃりと曲がっている絵だ。今回はその絵はなかったが、曲がった時計の彫刻はあった。
 ダンテの「神曲」の版画など200点余が展示されていたので、鑑賞時間は約1時間余になった。見終わった感想を俳句にした。
  ダリ絵画古文書のよう秋深し 明寛
 要するに「やっぱり分かりにくかった」ということになる。分りにくかったというのは、セザンヌやフェルメールなどの絵画を鑑賞した時のような、「うん、さすが」という納得感を覚えなかったということだ。ダリの芸術活動は、シュルレアリスム(超現実主義)と言われているのだから、分かりにくいのが当たり前といえば当たり前だと納得は出来る。ダリ自身が「私の作品は誰にもわからない。ダリにもわからない」と言っていたらしいのだから、分からなくて良いのだ、と思うのだが、奇抜な形、妙な取り合わせ<絵画と自分の写真>などが、いつまでも余韻として残って気になるのが不思議だ。ある意味で、このように気にかからせる所が、ダリ芸術、シュルレアリスムの神髄なのかもしれない。
 「気にかかる」といえば、医師として病む人と関わりをもっていると、診療が終わり帰宅しても気にかかり、思い浮かぶ人が時にある。熱は下がったかな、苦しんでいるのじゃないかな、食事はとれているかな、などと気にかかるのだ。翌日看護師さんに電話してもらい確認して、症状が改善しているとホッとする。医療現場は気にかかる事が多い。
 近頃気にかかることは、来院者の病状よりも、「稲刈りができない」「今年は米が食べられるだろうか」という来院者の呟きだ。長雨や台風により田がぬかるみ、コンバインを使っての稲刈りができないのだ。先日80歳過ぎの媼が風邪をひいたと来院した。状況を聞くと、風邪ひきの原因は稲刈りだった。
田圃を見たら稲が倒伏していた。このままではダメになると思うと、居ても立ってもおられなくなり、ぬかるんだ田に入り鎌で稲刈りをしたとのこと。6月から育ててきた稲が、倒伏し水につかっているのをそのままにしておくのが忍びなく、手作業で稲刈りをしたための風邪だった。私は、この媼の心の耳には、倒伏した稲の「助けて」という叫びが、聞こえたのだと思った。医師としては、「それはちょっと無謀ですね」と言うべきだったが、「ほっとけなかったんですね」と言うと、媼は「はい!黙って見ておれなくて・・」と返事があった。人は、なんでも気にかかると、気にかかったことに対して真剣に向き合い、一心不乱に動くものなんだと思いつつ診察した。帰り際には「あまり無理をしないでください」と声をかけた。媼は「はい」と言いながら帰っていった。媼の診療を終え、ひとつ納得できた。気にかかるということは、気にかかる対象を好ましく思っている証ということが納得できたのだ。
 ダリに話を戻す。今回ダリの多くの作品を鑑賞したが、鮮やか色、自在な線と形、奇抜な形の巧みさには驚嘆したが、何を意味しているかは不明だった。でもダリという人物は、これまでと同様、気にかかったままだ。それはダリという人物には好感が持てるということだ。彼の心の豊かさ・情熱・奔放さは、誰も真似できない個性であり才能であり敬服したい。ダリ展鑑賞後、時が経つにつれダリの自由さが羨ましくなってきている。
  秋天や時空を跳ねるダリ絵画 明寛
 これからも診療の際、老いてからこその自由の大切さ面白さを、語っていこうと思う。






2017年9月25日(月)
「笑みに見た底力」 清川診療所 所長 坪山明寛 

 出勤する朝だった。玄関を開けると彼岸花が咲き始めていた。我が家の彼岸花は黄色だ。「行ってきます」と心の中で声をかけた。
 あったあった、いつものように百枝の辺りの道端や畦道にも、真っ赤な彼岸花が整列していた。彼岸花を見ていると、「指先の芸術」と言われるタイ舞踊が浮かぶ。彼岸花の細い花弁が撓っている姿に、タイ舞踊の手の動きのえも言われぬ艶めかしさや神秘さが漂っているように感じるのだ。台風18号の通り過ぎた後で、雨上がりの朝だったので、一層妖艶な雰囲気の花の列だった。
  群青の空はろばろと彼岸花 明寛
 この日は、「台風の被害は?」の声かけで診療を始めた。「いや何も・・」と聞くとホッとした。でもある老い人は「大豆が全滅でした・・砂や石ころが田を埋めた」とぽつりと話した。ある壮年の方は「いやー稲が流された・・・後には板切れやゴミが田にいっぱい・・・電柵も流されてしまった・・・大赤字です」と語った。
 私は「そうですか、大変でしたね」と言ったが、自分の言葉が空しく感じた。今年はこの地域には天災がなく、稲も穂を垂れ豊作の感じがあったので喜んでいたのに・・大雨は冷酷にも作物を苛め人を打ちのめした。
 しかし私は救われた。「農家は大変です・・何年か前にもあった。ボチボチやります」との言葉が続いた。この時に口元に笑みがあったのだ。
 私はこの笑みを見た時に、ホッとした。そして農家の方の底力を感じ、「強い!」と感動し敬服した。同時に十数年前、腰痛で苦しんでいた老女を思い出した。その方に「年取ってからの農作業は大変だね」と労いの声かけたら「先生、百姓百品、退職金は神経痛じゃ」と日焼けした皺いっぱいの顔で笑いとばしたのだ。この媼は「百姓とは百にものぼるたくさんの品(農作物)を作ることのできる人」と理解し誇りを持っていたのだった。
 百姓の語源は別にあると知っていたが、私はこの媼の「百姓は百品作れる職能人」という解釈が妙に腑に落ち、今は「そうだ、その方が良い」と納得している。
 話は戻るが、水害の苦況にありながら、笑みを浮かべた農家の方々に、「負けないで生きていく!」という決意が見えたのだ。
 動物学者によると、笑いの表情ができるのは、ヒトとサルだけだそうだ。笑う動作は、口に入った有害なものを吐き出そうとする動作が起源であり、その後に親しみを表すことになっていった。最近笑いは、免疫力向上、健康増進にも効果があると言われている。このように、笑うことは身体だけでなく精神の健康(衝撃や挫折からの心の立ち直り)にも、影響を及ぼすことが分かっている。私が水害に会われた方々に笑みを見て安堵した理由は、この方々はきっとこの困難を乗り切るという確信を持ったからだ。「頑張って欲しい!」私はそう願って診察を始めた。
 ところで、笑いというとユーモアという言葉が浮かぶ。日本人はユーモアの不得意な民族と言われる。政治家の発言も固い内容が多く、たまに笑えると思ったら、嘲笑する内容が多い。ユーモアの豊かな国民と言えば英国となっている。私は時々英国の紳士淑女のユーモア話を読みながら、明日への英気?を養っている。皆様にも一つユーモア話をご紹介しましょう。笑ってもらえたらいいのですが。
 “無人島に男二人と女一人が漂着した。男達がイタリア人なら殺し合い、生き残った男が女を愛する。もしフランス人なら一人は夫、一人は愛人となってうまくやる。イギリス人だったら紹介されるまで口をきかないくらいだから、何も問題は起こらない。日本人なら、すぐ東京の本社に電話をかけ、どうしたらいいか問い合わせる。” 国民性が分かりますね。
 笑いは健康の元、一日一回は笑おう!。






2017年9月12日(火)
「近頃考えること〜多元的視点〜」 三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 

 1912年4月14日の深夜、北大西洋の海上で2,200人以上の乗客を乗せたタイタニック号は、氷山に衝突した。イギリス南部のサウサンプトンからニューヨークに向かう途中だった。船は衝突して2時間半後に二つに折れて沈没した。生存者は700余人。乗船していた日本人はただ一人で、名前は細野正文。鉄道官吏であり、ロシア留学の帰国途中のことだった。

 救命ボートに乗っていたイギリス人教師ローレンス・ビーズリーは、「無理矢理ボートに乗ってきた嫌な日本人がいた」と証言した。日本の新聞は外国から配信されたインタビュー記事をそのまま掲載し、国民は日本の恥だと言って細野を責めた。細野は職を降格させられ、やがてその職も辞した。そして何の弁解もせずに1939年、69歳で亡くなった。彼の遺品からタイタニックの便箋で、沈没時に克明に書かれた生々しい4枚の記録が見つかった。新聞は小さく報じたものの、既に忘れ去られた日本人のことなど国民の頭にはなかった。

 1997年、タイム誌が詳細を報道し、やっと細野の汚名は雪がれた。細野は乗員からボートにあと2人乗れると言われて乗ったことを武士道に照らして考え、罪の意識をずっと持っていたのかもしれない。乗員の指示は子供、女性、一般外国人客となるが、ビーズリーはさっさと先に乗船しており、彼の非難は当たらない。しかも、嫌な日本人というのは、中国人だったことも判明した。
 沈没して100年後の2012年4月、カナダ東部のハリファックス州で追悼式典が催され、細野の孫が参加した。細野晴臣は同じミュージシャンとして、沈没の時間まで演奏しながら犠牲になった8人の音楽家を想った。

 1968年12月、東京の府中市で三億円が強奪された。多くの遺留品を残し、すぐに解決だと思われたが、犯人はとうとう見つからずに時効になった。事件を担当した記者たちは犯人は分かっていたという。近くに住む青年で、事件直後に自殺した。3億円を燃やすほどの焚火の煙が、一日中その家の庭から上がっていたという目撃も寄せられていた。警察も新聞も何も言わなかった、それは「しがらみ」という言葉に片づけられるのではないかと元S新聞の記者は話している。情報を受け取る側のメディア、管理統制する側の警察、両者には微妙なバランスがあり、事件の真実よりもそちらを重視したのではないか。私たちには到底理解不能な記者クラブという歪さ、お互いの利益のために真実は葬られたということか。

 昔も今も報道は時には何の検証もなく、さも事実であるかのように社会を駆け巡る。誤報があったとしても反省や謝罪は紋切り型の会見で終り、捻じ曲げられた事実だけが残り、それはもう後の祭りである。ロッキード事件の米議会証言を真に受けた検察は正当だったのか、朝日新聞の慰安婦報道、サンゴ礁捏造事件をどう捉えるか。昨年のアメリカ大統領選挙は、トランプ氏がやや有利であったにも関わらず、アメリカや日本のメディアは反対のことを報じていた。政治家がオフレコと言ったにもかかわらず、ルールを無視して重箱の隅を誇大化してあげつらう姿勢は、ただ眉をしかめるだけのものでしかない。

 メディアの役割は何なのか。彼らの知性とは彼ら自身やその組織だけにあるのではなく、もっと大きなもの、それは国家の利益に供せられるべきだろう。偏向的で我執に囚われているように映るのは自分だけか。資本主義のルールが適用されるとしても、西洋の精神の蛮族化した倫理を正義として取り入れることもないだろう。
 悪意やフェイクに満ち、我々は自己責任において自分で学習し、考える習慣を身につけることが必要だ。 オーストリア人のアドルフ・ヒトラーは人間を透徹した目で見ていた。「大きな嘘は真実になる。大衆は小さな嘘より、大きな嘘の犠牲になりやすい」。「人々が思考しないのは政府にとって幸いだ」。

 セオドア・ルーズベルトは脅威的に感じた日本に対して、反日キャンペーンを実施した。時の駐日大使はその批判を聞き一理あると考え、相手を信じ反省する外交姿勢に転じた。それは今もなお継続しているかのようだ。70余年前にソ連の参戦で多くの人命が失われ、虜囚となった。アジアの植民地を奪われたヨーロッパ列強は賠償金を請求し、今もなお根底に恨みを持ち、差別を繰り返すのか。欧米の植民地主義、奴隷制社会、差別社会は反倫理ではなかったのか。キリスト教世界の倫理とはそういう酷いものだというのか。イタリアやスイスにまで支払ったのは何故なのか。

 日本人は生来自然と一体となり、自然とともに起居する生活を送ってきた。大自然を畏怖し、花鳥風月を愛で、そのなかで共に和すことができるかを考えてきた。日本人は正義を考えていない、というのは誇張になるかもしれないが、どうすれば自然であり得るか、人と人をつなぐ和というものを常に考えてきたように思う。

 たぶん私たちは、戦後教育の西洋化された日本において、独自文化を風化させてきたのではないか。私たちの生来の精神は、西洋的なものとは真逆に位置するのではないか。イスラム教は日本に皆無である。キリスト教は何故日本に根付かないのか。それは、正邪を区分する宗教のあり方、黒人を差別化し、アジアを劣悪化する西洋人の根底にある宗教観だからではないのか。私たちの歴史がすべて善であったとは言えないにしても、同じ人間を奴隷として扱った時代はない。自然主義の藤村の「破戒」に被差別問題の提示があったが、それは人を遠目に見るようなものではあっても、人間を売買するようなものでは決してない。 彼らの紳士然とした振る舞いに気を付けることだ。私たちが心しなければならないのは、西洋社会への帰属意識ではなく、むしろ日本文化の再認識を深めることではないだろうか。

 多元的とはどんな意味か。iPhoneの大辞泉を引いてみるとこう書いている。“物事の要素・根源がいくつもあるさま。「-な考え方」。反対語は一元的。”

 世界を日本と同等に見てはいけない。それこそ、多元的に考える必要がある。






2017年8月28日(月)
「偉大なるかな、母とは」 清川診療所 所長 坪山明寛 

 24時間テレビが今年も終わった。時々スイッチを入れて鑑賞した。今年のテーマは「告白」だった。チャリテイ番組にしては何だか似合わないな~と思っていたが、それぞれの告白に思わず涙していた。ずっと言いたくて言えなかったことを番組の力を借りて告白するのだ。すこしそこに違和感を感じたが、その違和感を凌駕する純なものを感じたから涙したのだ。番組を見ていて思ったのは、お母さんへの感謝が多かったことだ。
 ある子が言っていた「お母さん髪の毛を結んでくれてありがとう!毎日食事を作ってくれてありがとう!生んでくれてありがとう!」勿論お母さんは涙に埋もれていた。
 いつの日だったか、特攻基地知覧で兵士の手紙を読んだが、そこにもお母さんを偲ぶ言葉が多かった。終戦記念特集でインパール作戦の生き残りの方が語っていたのを忘れられない。「みんな死ぬ時には、お母さんと言って死んでいった。誰も天皇陛下万歳という人はいなかった、一人も」私はその方のふるえる口元を、悔しさと怒りをたたえた目を見て、それが真実だと思った。
 お母さんは凄い!と思うことが、診察室でもよくある。
 ひとりは40代の女性の方だ。ひと月ぶりに会ったのだが、「あれ~痩せている」と感じた。具合悪いのかな?と心配して「食べられるの?」と尋ねると「元気です!」と、いつものはきはきした声だった。「痩せたのでは・・・」と尋ねると、「はい頑張っています」と返事があった。もう20年以上この方には痩せた方がいいよ、あなたは子供たちに責任あるんだから。このままじゃ倒れるよ」と声をかけてきたが裏切られてきた方だ。
「母が死んだんです。急に」と呟かれた。「お母さんも、いつも私のことを心配していたので、痩せようと思って頑張っているんです」との言葉が続いた。そうなんだ、亡くなったお母さんの言葉を思い出し、噛みしめ、痩せることを決意したのだ。
 もう一人いました、お母さんの教えを忘れていない方が。80代の方です。この暑さのなかで、毎日草むしりに励んでいる方です。
診察室で草むしりの話になった時、手を取ってみると力強い掌と指がありました。爪に黒いものが見えました。土です。その方が「汚い爪じゃな、“らくづめくがみ”とお母さんが言っていた」とぼそりと言った。私はその言葉の意味が分からなかった。よく聞くと「楽爪苦髪」と言ったのだ。「どういうことですか?」と尋ねると「楽していると爪が伸び、苦労していると髪が抜けるということです。私は草取りで苦労しているので、爪が伸びないんですよ」と、爪を擦りながら話してくれた。「ということは、今の女性たちが爪を伸ばしているのは、大いに楽しているということですね」と言ったら、その方は「絵まで描いてるんだから楽なもんでしょうよ」と言って笑った。その笑顔には、苦労を苦労と思わない強さが滲んでいた。
 私はこの二人の話を聞いて“死せる孔明、生ける仲達を走らす”という格言を思い出した。中国は三国志の頃、諸葛孔明が死んで尚、敵の武将司馬仲達を追い払い、蜀の国を救った故事に因んだ格言だ。孔明の偉大さを示している格言だ。
 診察室で語られた二人のお母さんは、亡くなっても今なお、子供さんを導いているということになる。まさに“死せる母、生ける子の手を引く”ということか。
 思えば、103歳7カ月で亡くなった私の母は、小さな菜園で馴れない鍬を振るったり味噌を作ったり高菜の塩もみをしていた。朝早く起きて、自分で作った野菜の入った味噌汁を、必ず朝ごはんに添えてくれた。懸命に私たちを育ててくれた母を見倣い、医師の職を懸命に努めようと思った24時間だった。






2017年8月22日(火)
「手に学ばせる」 三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 

 或る人にお礼の手紙を書いた。
パソコンで考えた文章を、ボールペンを使い、楷書で丁寧に筆写する。
緊張で身体が硬直したような感覚になった。
というのは、間違えるとまた一から書き直さなければならないと思っているからだ。

 手書きの手紙を書くのは久しぶりだ。
手紙に限らず、手書きということをずっとしていなかった。
どうしても、便利さと効率が優先してしまうし、すぐに書き直すことができるパソコン上の作業を選ぶ。
今回反省させられたのは、漢字を思い出せなかったこと。思ったことと書くことの一体感がなくなったこと。書くことにたどたどしさと違和感を覚えたこと。
漢字の練習をしていても、文章を手書きしないということは、これほどの距離感をもたらす。

 ギターで新しい曲を覚えるとき、始めはぎこちない。
音符を目で追いながら先ずはゆっくりと弾いていき、少しずつ滑らかで無駄のない運指にもっていく。
同じフレーズを何度も繰り返していくと、少し見通しが立つ。
ある程度満足するには何千回も弾くことが必要だ。何万回でも厭わないし、それが普通だと思う。
頭は違うことを考えていても、手が自ずと動いていく。そういう練習の中から、技術や感性が生まれると思う。
境地なんていう大上段に構えた言葉を使いたくはないが、一体感とはそういうものだろうか。

 以前、漢字を忘れないために貝原益軒の「養生訓」を書写する人がいた。
隙間の時間が得られれば、それを小学生用のマス付のノートに書きこんでいく。
他愛のないことのように思えるが、それを継続した人は自分の血となり肉となっている。
元来日本人は、論語を始めとした素読をおこなってきた。声を出すことは記憶する効果があることは経験的に分かっているし、こういう単純な継続が力を持つことは明らかなことだ。
同様に、書写することは手が否応もなく覚えるし、己の潜在下の思いとなり、やがて行動化していくのではないだろうか。

 書くことをしなくなり、言葉や漢字が思い出せなくなったとき、僕は一つの時代の終わりのように感じるし、その正体は自責からの寂しさや後悔、或いは生き方の反省や喪失感だと思う。
“今日が死ぬ日だと思って生きろ”とテレビで話していたが、こういう言葉が胸に刺さるのは、怠惰な自分を認識しているからに他ならない。
時間がない、仕事で忙しい、面倒くさい、いろいろな理由をつけて回避しているが、新渡戸稲造の「武士道」を原文書写するのは、これはこれで刺激的かもしれない。






2017年7月27日(木)
「心の中の恩師」 清川診療所 所長 坪山明寛 

 それは7月18日(月)だった。午前の診療が終わり、お昼の休憩になり食事をしながらTVのニュースを観ていた時だった。字幕に「日野原先生死去」の文字があった。思わず「えっ!」と声が出て絶句した。しばらくアナウンサーの声に耳を澄ました。「7月18日午前6時33分に亡くなられた。105歳でした」そう言っていた。間違いないのだと確認し、しばらく動けなかった。
  ゆるやかにほぐれて行きし雲の峰 明寛
 日野原先生には直接お会いすることはなかったが、私にとっては恩師だ。心の中の恩師だ。日野原先生の書物を通して、私は医師としての心構えを学んだと言っていい。
 振り返ると、今から40数年前にもなる。私は栃木県の自治医科大学で、血液内科のレジデントとして勤務していた。診療している患者さんは、白血病や悪性リンパ腫など、血液の癌で苦しんでいる方々の診療に、徹夜の続く日々を過ごしていた。
 その頃は、まだ骨髄移植もない時代で、抗がん剤による治療が全盛だった。抗がん剤も今と比べると貧弱だった。日本でも有名な先生方の教えに従い治療しても、助けることは出来ずに、多くの方々が亡くなった。ひどい時は、自分の担当している患者さんが、1週間に7人も亡くなった。さすがに若く元気な自分でも、心が折れるほど打ちのめされたことが多々あった。当時書いた詩がある。

 一条のシーツの上に病める乙女の瞳
 “もう帰るなんて言いません
 先生にお任せします“
 徒ならぬ病魔を自覚し耐えることにした
 忍ぶことにした気迫が迫る
 口の中は壊死してしまった
 白血球は二千となってしまった
 高熱は連日身体を苛む
 “先生口が痛い”
 “そうだね ちょっとひどいね
   もう少し頑張ろうね“
 清らかな瞳が頷く
 私の言葉に安らぎを感じているのだろうか
   否!であろう
 それでもこの命をじっと見守るしかない
 言葉をかけ診察し手を握り
 眼を見つめ明日もノックしよう


こんな日々の私を支えたのは、日野原先生の著書だった。今も手元にある「癒しの技のパフォーマンス」「平静の心」「延命の医学から生命を与えるケアへ」である。特に「平静の心」は、内科医ウイリアム・オスラーの講演集の翻訳本であった。その中に「諸君は、将来、失望あるいは失敗に見舞われることもあるだろう。敗北に終わる闘いもあり、そのような苦しい闘いに堪えねばならない者も出るだろう。そんな時不幸にめげない明るい平静の心を身につけておくことが望ましい」という一節があった。
 医師は、困難な時にも逃げることなく、「平静の心」で対応せよという言葉に励まされた。また「教養を身につけるためには、ベッドサイドに蔵書を置き、寝る前の30分を聖者と呼ばれる偉大な人物との心の交わりに費やせと」いう教えは、今も習慣になっている。さらに「患者にタッチしないでは、患者の心を悩みを理解できません」「言葉に始まり、言葉で終わる医療」などは、私の心に沁みついている教えである。
 今述べてきたように、日野原重明先生は、私の医療人生で、悩んだ時に手をさしのべ、進む方向性を教えてくださった恩師である。
 その意味で、日野原先生の死は、とても寂しい事だ。しかし幸いに先生の教えは、書物として残っている。この機会に、本を読み返して、今の自分が先生の教えに反していないかを見つめたいと思う。
 最後に105歳の長きにわたる、幅広い無私の活動に、「ご苦労様、有難うございました」と感謝しご冥福を祈りたい。






2017年7月4日(火)
「ポッコリお腹の解消法〜プランクのすすめ〜」 三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 

 人にお勧めすることは滅多にないのですが、効果がありましたのでご紹介したいと思います。実体験して効果が確認されないとお勧めできませんので、3週間ほど体験して検証してみました。このトレーニングは、短時間で、しかも手軽にできるものですが、かといって負荷が軽いというわけでもありません。心構えとしては、きっちりやるというよりも、やったりやらなかったり、そのうちどうにかなるという気持ちを持つ方が長続きします。現在の自分のお腹ですが、上腹部の腹斜筋はくっきり付いていますが、腹直筋はうっすらで、まだまだこれからの状態です。継続することで横腹の脂肪は自然に落ちてくると思いますので、楽しみながら寝る前のストレッチのあとにやってみたらいかがでしょうか。

 トレーニングの方法は、俯せになって両肘を曲げて両手両足を肩幅くらいに開き、身体を一直線に静止し、その4点で身体を支えるというものです。シンプルこの上ないものですが、この姿勢を長く保つのは苦しくなるし、筋肉がプルプルしてきます。姿勢が真っすぐにならないで曲がったりすると、効果がないと思いますが、無理をすることは障害を引き起こしますから、8割の気持ちでいいと思います。それだけでも充分な効果が期待できます。最初は20秒程度の目安がいいかもしれません。もちろんそれ以内でもいいです。少しずつ時間を伸ばしていきます。僕は現在60秒以上ですが、1時間継続する人もいるようです。慣れてきたらいろんなバリエーションがありますが、自分なりの型を見つけてみたらいかがでしょうか。

 次に食事制限です。プランクをしているからといって、過食は禁物です。僕は以前と比べると、朝食はそのままで、昼食や夕食は意識的に少なめにする程度です。もちろん甘い物も食べますし、一週間に一度ですがビールを飲みます。摂取カロリー過多を自覚している人は、先ず食事制限をするという強い意志を持つことが必要です。その強い意志をよどみなく継続していくことで、小さな成功を手に入れ、それを励みとしてステップアップできる筈です。また、並行してランニングを続けています。冬の間は距離が短いのですが、5月頃から月に200キロ程度、一日平均7キロを目標に走っています。走ったあとで腕立て伏せやハーフスクワット、ブルガリアンスクワット、縄跳びをしていましたが、回数を多くしたら肩や膝を痛めてしまい、現在は休止中です。最後にゴムマットを敷いてプランクをしますが、走らない日は寝る前やお風呂に入る前に少しだけ汗をかくようにしています。

 プランクというトレーニング方法を知り、3週間で身体が締まり、筋肉が少しは見えてきたようです。体幹トレーニングとしても最適です。比較的容易にできるトレーニングですし、障害も無いように思います。それぞれの生活スタイルがあると思いますので、工夫してやってみたらいかがでしょうか。継続することは苦しいし、面倒くさいものです。あまり完璧を目指さないで、テキトーにやって先ずは小さな喜びを見つけることだと思います。







2017年6月27日(月)
「学び合う喜び」 清川診療所 所長 坪山明寛 

 聞こえてくる、子供らの声が・・診察室の窓越しに。そうなんです、診療所の隣にある幼稚園が、ほぼ1年ぶりに新築され開園した。いいものだ、子供の元気な声が響き渡るのは。
  園児らの弾ける声や梅雨に入る 明寛
 時折子供らの声に混じり聞こえてくるのは燕の鳴き声だ、チュチュルルー・・、風を切って遠ざかる。燕は「土食って虫食って口渋い」と聞きなしされているが、ウグイスの「法華経」やホオジロの「特許許可局」と比べると、燕の聞きなしはちょっと無理に感じる。懐かしい音の飛び交う中で、診療を始めた。
 「聞こえない方が良い」との言葉が、患者さんの口から出た。このフレーズは、高齢者の多い診療所では珍しくはない。理由は、人間関係を難しくしたくないのだ。「我慢こそ美徳」の精神である。自分さえ堪えておれば、毎日が穏やかに過ぎてゆく。それで良いのだという気持ちなんだと私は思っている。
 この日も「そうですね」という私を押しのけて、もう一人の私が登場するのを止められなかった。
 「耳は健康にとって、大事なんですよ」と言ってしまった。患者さんは怪訝そうな表情だった。私は以前学んだ心理学実験の話をした。学生を音楽の流れる暗闇の部屋と明るいけど音の全くしない部屋に閉じ込めると、どういう行動を取るかという実験だ。結果は、音のある暗闇には耐えられたが、無音の部屋には1時間も耐えきれず飛びだしたのだ。ある実験では、無音の部屋にいると40-50分で幻視が現れてきたのだ。これは人にとって、耳から情報が入ることは、精神的安寧に大事だということを意味している。
 更に話を続けた。皆の嫌がる認知症にも、聴力障害を放っておくほうが悪いことや、難聴高齢者を6年間研究したリン教授の報告では、難聴の程度が強い人ほど、脳萎縮が強く 、認知機能や精神的安定さも失われていたことなどを話した。そしてこう続けた、確かに人は、情報の70%は視覚から得ているので、視覚が大事なことは言うまでもない。しかし「聞こえなくていいことは聞こえないままにしておきたい、静かに暮らしたい、波風立てずに穏やかに過ごしたい」という気持ちは良くわかるが、高齢者の関心の高い認知症予防に、聴覚、聞こえるということは、大変重要なことだと話した。患者さんは、私の話を静かに聴いていた。もともとしっかりした方なので、理解した表情だった。私が前回の検査結果を説明しようとしたら、患者さんが「眼も大切ですね、昔から『いちがんにそく』と言いますから・・」と言った。私は聞いたことのない言葉に戸惑い、「えっ『いちがんにそく』??、何ですかそれ・・」と尋ねた。患者さんは「へ~先生も知らないことがあるんですね」と言った。そして「眼が第一で足が第二に大事なことだと教えてえてくれた。
  「ああそういうことですか、確かに眼も足も大事ですね」と応対したが、どんな字でどんな意味かなと疑問だった。後で「大辞林」「ことわざ辞典」「格言集」「語源辞典」を漁ったが見つからなかった。インターネットで調べたら「一眼二足三胆四力」の熟語が出てきた。剣道修行の教えで「第一に相手を見る目、第二に足さばき、第三に何事にも動じない強い気持ちや決断力、第四に技を発揮する身体能力が重要であるという意味を知り、なるほどと感心した。
 診察室では、患者さんの健康管理のお手伝いをしていると、何倍もの生きた知恵や知識を授かることが多い。
 これからも清川町の老人力に負けないように、自学自習を深めつつ患者さんに語り問いかけ、診察室を学び舎として学んでいきたい。
 燕と言えば、今年も3羽の燕の子が巣立ってゆき、空っぽの巣だけが残っている。
  燕の子巣立ちてひとつ空き家かな 明寛







2017年5月29日(月)
「診察室という場」 清川診療所 所長 坪山明寛 

 いやー見事な景色だ、岩戸の橋を渡ると、眼前に色づいた麦畑が広がり、その向こうを2両の赤い電車が通っていく。通勤の朝うまくいけば、こんな風景に出会う。帰宅の時間には、岩戸橋から御嶽川を眺めると、夕陽が川面に映えて思慮深き哲人の風情に出会う。
  麦秋や豊かな語り懐に 明寛
 岩戸橋の辺りは、私の好きな場所だ。朝は仕事を始める意欲を高めてくれ、帰りは一日の仕事に意味を持たせてくれ、私にやすらぎをもたらしてくれる場所だ。 私はあまりストレスを感じないたちだが、何かあれば花や自然相手に写真を撮ったり、本を読んだりしているとストレスもいつのまにか和らいでいる。今は孫と戯れることが加わった。自然を相手にしていると、何故に安らぐのか?あまり深く考えたことはないが、自分を取りもどすこと、自分の由って立つ軸足に戻れるからではないかと思う。
 自分をよりどころに生きると言えば、先日、大分県立美術館で「北大路魯山人展―和の美を問うー」を鑑賞した。魯山人は自由闊達な生き方をした、稀代の天才書家、篆刻家、画人、陶芸家、料理人と称される人で、漫画「食いしん坊」の海原雄山のモデルと言われた人だ。私は栃木にいた頃、人間国宝濱田庄司が作陶していた益子町に遊び、陶器が好きになった。笠間町で魯山人の移築された旧宅「春風万里荘」を訪れ、魯山人の作品に触れたことがあった。織部焼伝承者として人間国宝に推挙されたのを断ったほどの陶芸家が、便器や風呂場のタイルなど日用品を作っていることに驚くとともに興味を抱いていた。
 今回会場には多くの陶磁器、書、篆刻、漆器が展示されていた。彼の芸域の広さ深さに改めて感服したのは勿論だが、展示品を見ていて、私が魯山人の何に惹かれるかのヒントを見つけた。それは「用の美」と「良寛和尚」だった。
 「用の美」について言えば、魯山人の作品は、日常生活で使用されることで美しさが引き立つことだ。料理を盛りつけた時、料理が引き立つ形と色、絵の配置がされている。まさに「用の美」だ。そこには、魯山人の普通の日常生活を大切にする姿勢が明確だった。
 次に魯山人の書には、良寛和尚の漢詩が多く引用されているのを今回知った。良寛は、「この里に手毬つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし」のような和歌や漢詩、書を残し、孤独と自由を好んだ人だ。魯山人は特に良寛の書に感銘を受けて、「“芸術も人なり”で、作者の人格はその作品に反映しているものである。良寛様の書の価値は、とりもなおさず良寛様の人格の価値であると断じて間違いはない。縦横自在の変化を見せて、かりそめにも一つや二つのよりどころに膠着するところがない」と記載している。このことは、魯山人が備前焼、織部焼、志野焼と焼き方に拘らず、また書・篆刻・漆など幅広く立ち向かい、自分の内面から出てくるエネルギーを縦横自在に表出していることに通じると思った。彼の風聞を意に介さない自在に生きる強い意志は、絶作陶器の絵柄が、蟹がハサミを高々と上げて立ち向かう姿であることにも見て取れて、「さすが魯山人」と心で叫んだ。
 魯山人、40数年前に知り心に残っていた人物の多くの作品に出合い、魯山人の日常生活を大切にし、そこに美を見出す姿勢、こよなく愛する良寛さんの書のように、縦横自在に自分の心を偽らず、自分の由って立つ軸足をぶれることなく生きた強さなど、彼の生きざまに触れ、改めて魯山人が好きになった。
診察室では、病への不安に加え様々な日常生活が語られる。この語らいに込められている、生きる必死さの尊さ、流される汗の美しさ、苦労を笑う豊かさなど大切なものを見逃さないように、診察室では、魯山人に倣い自在な心で耳を傾けようと覚悟を新たにした。







2017年4月27日(木)
「有頂天の先には」 清川診療所 所長 坪山明寛 

 朝起きて庭を眺める。今我が家の庭は白の世界だ。まず飛び込むのは、コデマリだ。かすかな風にも戯れる、私の大好きな花だ。そして白の山吹、ハナミズキ、シャガと続く。あっ白だけではなかった、軒下に3mに渡って十二単が紫の列をなしていた。

コデマリの りずむに合わせ ややあやす  明寛

 診察室では、メダカが産卵間近という具合で、私の周りには春の息吹が満ちている。そんな私の心地良さを、無残にも打ち砕くニュースを耳にした。小学生を殺めた交通指導員の話もあるが、北朝鮮と米国の鍔迫り合いもあるが・・・今私が嘆かわしいと憤っているのは、復興大臣の発言であり態度である。東日本大震災について、「これは、まだ東北で、あっちの方だったから良かった。もっと首都圏に近かったりすると、莫大な甚大な被害があったと思う」と述べていた。就任の時、この人は「現場主義を徹底し、被災者に寄り添い、司令塔の役割を果たしつつ、被災地の復興に全力を尽くしてまいる決意であります」と殊勝なことを述べていた。わずか大臣就任8カ月で、『更迭辞任』だ。当然である。いや大臣だけではなく、国会議員の衣も潔く脱ぎ捨てるべきだ。何故なら、社会的リーダーである国会議員として、復興相の発言や態度は、新渡戸が「武士道」で説いた、仁・礼・信・誠を貫くという「ノブレス・オブリージュ(社会的リーダーの義務)」に反する態度だからだ。彼が普通の常識を備えた大人であれば、自分の発言態度の愚かさを、心の底から悔いているはずだ。そうでなければ、何をか言わんやである。
 何故彼はこのような事態を招いたのか、自省を込めて考えてみた。その謎解きをしている過程で、「有頂天」という言葉に辿り着いた。「有頂天」は喜びで夢中なこと(大辞林)とあったが、元は仏教語だ。詳細は省くが、この世は三界(欲界、色界、無色界)からなっており、欲望を超越した無色界の頂点にあるのが「有頂天」という世界とのこと。つまり誰もが簡単に手に入れられる世界ではない、修行に修行を重ねた人が、やっと辿り着く天の世界なのだ。
 「末は博士か大臣か」という言葉が、ひと昔前に人口に膾炙され、子供たちの理想は、博士か大臣になることだった。おそらく失言大臣もこの世代の人だろう。棚ぼたか心太かは知らないが、待ちに待った大臣の地位を手に入れ、「有頂天」になっていたのだろう。有頂天には「喜びに溺れ他を顧ないこと」の意味もある。まさにこの大臣は、大臣になれて有頂天になり、他を顧ることが出来ない心地に溺れていたのだ。その結果が、『更迭辞任』だ。仏教世界には六道輪廻という考えがある。有頂天の隣にある世界は「地獄道」である。滅多に踏み入れることのない「有頂天」に上り詰めたと勘違いし、他を思いやり顧ない態度を取れば、足を踏み外し「地獄道」に落ちるのだ。この大臣は、まさに有頂天に上り詰めたと勘違いしたために、足を踏み外したのだろう。こう考えると、大臣の無様な結末も納得がいくし、自分も軽々に有頂天に入り込まないよう、気をつけようと思った。
 このニュースの日、90歳の媼(おうな)と診察後に話した。一人暮らしを嫌がる風は微塵もなく、鍬を使って春耕に勤しみ愉快そうに暮らしている。耕している土は、阿蘇の火山灰が混じり水はけが良いそうだ。私は、この媼が春光を浴び、ひと鍬ひと鍬振りながら、畝を作り苗を植える姿にこそ、お天道様に恥じぬ生き方があると思われ、頭を垂れた。
 診察を終え目をあげたら、窓際の花瓶に生けられた数多のコデマリが、純白を一層輝かせ、私の苛立つ心をそっと宥めてくれた。







2017年4月4日(火)
「ランニングとアンチエイジング」 三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 

 先日、サウジアラビアのサルマン国王が来日した。飛行機からエスカレーターで降り、数百台の高級車に分乗し、都内のホテルに消えて行った。なんでも、脱石油を掲げ国内経済改革で投資促進のためにやってきたらしい。日本は安請け合いをしたようだが、宗教、文化、国民性の違う国に、多くの産業を根付かせるのは可能なのか。
 ここ数年のサウジアラビアは、原油安で国家財政の将来は破綻に近づきつつある。ロシアにしても然りで、経済特区などを考え、日本に接近している。石油の勢力図は、アメリカのシェールオイル増産によって、中東からアメリカに変わってきた。以前より、石油資源という化石燃料は、あと数十年で枯渇すると言われ続けてきたが、全く無くならない。いったいどういうことか。これは全くのデマゴギーだ。現在の利益を最大限に保つためのプロパギャンダに過ぎない。代替エネルギーの芽が出現しても、その芽は常に摘み取られてきたのだ。

 ブルック・グリーンバーグは、1歳のまま20歳を迎え、成長(老化)することはなかった。成長しないことに、人々は不老の夢を見た。しかし、彼女は20歳と9ヶ月で亡くなった。
 成長の機序を解明するには、ツールとしてのスーパーコンピュータが必要で、専門家は、近づきつつあると言う。100年前の日本人が現代を見てどう思うだろうか。恐らく信じられないことばかりだろう。しかし、文明や科学は加速度的に進歩し、これからも益々発展していく。エクサという京の100倍もの演算処理速度を獲得する日は近い。それを使って多くの仕組みが解明されていく。エネルギーフリーになれば、電気料金は無限に提供され、食料は豊かに溢れ、社会の仕組みや価値観が変革を迎える。
 エネルギーを掌握する国家が世界の帝国となる。スーパーコンピュータは、中国が一歩先んじている。二番では駄目だ。中国やアメリカよりも、日本が一番になってほしいのはそういう訳だ。しかし、日本も官僚統制の危うい国家でしかない。

 昨年の11月にNHKの「ガッテン」で放送されたが、NASAが老化防止に作用する「耳石」の機能を見つけた。宇宙飛行士が帰還したときに、何故筋力や平衡感覚が低下しているのか。無重力状態では、耳石が浮遊して殆ど動かないため、耳石のリンパ液が揺れずに感覚毛に伝えることができないので、筋肉に刺戟が行かない。従って、筋肉は緊張と弛緩が無いので、筋力は低下し、骨密度や免疫力など、多くの機能に影響を与えていく。耳石の働きは、驚くほど重要だった。ずっと座りっぱなしは、1時間で22分間も寿命を縮めていく。
 では、老化防止はどうすればいいか。30分間に一度立ち上がって、耳石を動かし、刺戟を与えることをすれば、血液の改善や老化防止に役立つそうだ。ガッテンでは、その運動を二週間継続して血液のデータを比較したら、中性脂肪15%減、悪玉コレステロール5%減、善玉コレステロール11%増という結果を得た。

 30分間に一度立ち上がるのは面倒だし、もっといい方法が無いものかと考えた。座ったままで頭を前後左右に動かせるが、上下運動はできない。やはり立ち上がらなければいけない。立ち上がって、猫のように背伸びをして、ストレッチでもしてみよう。そう考えながら、自分のランニングを振り返ってみた。この年齢になっても山を走れる体力を持っているのは、途切れながらも、なんとか細々と続けてきたからだろうか。ランニングは、着地を繰り返しながら前進していく運動だ。着地時は足に負荷がかかり、その衝撃は頭にも伝達していく。頭を動かせば、耳石も揺れる。何でもそうだが刺激が必要なのは言うまでもない。

 毎日欠かさず走り続けていると、身体変化の感覚に気づくのは難しい。しかし、数週間ぶりに走ったりすると、直後や翌日の感覚は研ぎ澄まされたみたいになる。蛹が脱皮し、生まれ変わった身体で瑞々しい五感を得たような爽快感を得る。筋肉を使用することで新たな筋力を生み出し、すべての臓器を若返らせてくれるかのようだ。
 汗びっしょりになってグランドの水道で顔を洗う心地良さ、冷たい水の美味しさ。走り始めて気が付いたことは、普通の食べ物や水が美味しさに満ちているということだった。そこに存在する当たり前を、当然の如く無意識に捉えるのではなく、僕は愛おしいと思うようになった。

 シンギュラリティという言葉は、特異点という意味である。2045年頃に技術的な特異点が生じ、これまでの世界とは全く違い、SF映画のような世界が出現すると言われている。2000年問題とは比べものにならず、2045年問題は、想像を絶するような価値の転換が必要だという。例えば、先に書いた成長の機序、そしてAIが人を超えるのもその頃だと言われている。アメリカでは、シンギュラリティ大学が創設され、有名企業が争うように出資をしている。産業革命や情報革命を超える、大きなパラダイムシフトとなる。アメリカは国家レベルの支援を行っているが、日本は「二番じゃダメですか」と言っている。
 耳石とランニングの関係は、経験による素人の憶測でしかなく、今後の研究を俟ちたいと思う。100年先、10年先さえ想像できない科学の発展は、一気に代替エネルギーやアンチエイジングの解明が為されるだろう。
 しかし、そんな不均衡な世界はどうなのだろう。ジョージ・オーウェルは「1984年」で統制社会を描いたが、今後の世界はどのように変化するのだろうか。
 アンチエイジングは分相応でいいのだろうか。果てしない人類の夢は、夢のままであってほしいとも思う。







2017年3月24日(金)
「手を当てる」 清川診療所 所長 坪山明寛 

 古来「暑さ寒さも彼岸まで」と言われる。意味は読んで字のごとく、夏の暑さも秋分の日を過ぎると和らぎ、冬の寒さも春分の日を過ぎると和らぐということだ。3月21日東京は靖国神社の桜の標本木が五輪咲いたらしく「開花宣言」がなされた。春です、いよいよ春です。とはいえ清川の朝はまだ寒さが残っているこの頃だ。
  診察の手をあたためる余寒かな 明寛
医師は患者さんの身体に直接手を当てることが多い。時々うっかり冷たい手を、背中やお腹(なか)に当ててしまい、びくっとされることがある。おもわず「あっすみません」と謝る。そんなことがないように、寒い日は、診察の前にストーブで手を温めることにしている。
 医師が手を身体に当てることは、「触診」という診察法になる。脈を診るのも触診になる。学生時代には触診を始め、打診、聴診の練習を一生懸命した。しかし医療機器、特に画像診断機器(超音波、CT・MRIなど)の進歩に伴い、これらの診察法は、立ち位置をなくしてきている感があるが、私は大切にしたいと思っている。勿論診断をはっきりさせるためには、診療所にはない各種の医療機器検査を、他院にお願いして利用していくことは、大事なことだと思う。
 ある日のことだった。お箸で食事が摂れないので、匙を使っているという高齢女性がいた。指の力がないのかなと思って、その方と指の力比べをした。私が「はい 力いっぱい曲げて」と合図すると、その方の指にグイッと力が入るのが分かった途端、私の指は伸ばされ、あまりの強さに体も引き込まれそうになりました。「イヤー参った。強いな・・」と言いながら手を見て触ると、指も太くがっしりして、皮膚も厚くなっていた。一生懸命に農作業をして生き抜いてきた手が、そこにはあった。私はその手の持つ迫力に心底敬意を覚え「働いた手ですね」と言った。すると「いや~汚いだけ」と言いながら、「先生の手は可愛いな」との言葉が返って来た。それを聞いて、改めて自分の手を見た。医師として幾百人もの方々の脈を、しこりを、熱を触って来た手ではあるが、この婦人の手と比べた時に、強さという迫力はなく恥ずかしくなり引っ込めた。土とともに生きてきた方の手を見ると、生き方に嘘がない手だと思う。
 啄木に「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る」という歌がある。啄木は26歳で命を落としたが、この短い人生で放蕩もしているが、彼なりに一生懸命生きたけど、母親と奥さん、二人の娘を抱え、生涯不遇な暮らし向きであった。これはその心境を歌にしたのだろう。私には、俯いて手をじっと見ている啄木の姿が浮かび、胸がいっぱいになる。私達は、何かお願いごとをする時には手を合わせる。敬意を表するときには手を叩く。目は口ほどにものを言うが、手もその人の言わんとすることを素直に表現する。特に手は、文字を記す力を持っている。文字ほど伝達手段として強力なものはない。
 文字と言えば、最近面白い事を知った。西郷隆盛と勝海舟の会談で、江戸無血開城が決まり、江戸は焼け野原を免れた。その背景に、大田垣蓮月という女人の文字があったそうだ。西郷の官軍が江戸に進軍し京都三条大橋にかかった時、蓮月が西郷に「あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の人と思へば」の和歌を渡したのだ。これを読んだ隆盛は、江戸城の武力解放には慎重になったとのこと(磯田道史「江戸の備忘録」)。手は力を持っている、生きる力、人を変える力を。私は医師という職業のなかで、触診という診察法の持つ力(情報を得る力、絆を深める力、癒す力・・)を大切にして、これからも患者様の体に、心を込めて手を当てていきたいと思う。






2017年2月28日(火)
「小林秀雄の『人形』を読んで」 三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

 先ずは全文を掲載します。
“或る時、大阪行の急行の食堂車で、遅い晩飯を食べていた。四人掛けのテーブルに、私は一人で坐っていたが、やがて、前の空席に、六十恰好の、上品な老人夫婦が腰をおろした。
 細君の方は、小脇に何かを抱えてはいって来て私の向いの席に着いたのだが、袖の蔭から現れたのは、横抱きにされた、おやと思う程大きな人形であった。人形は、背広を着、ネクタイをしめ、外套を羽織って、外套と同じ縞柄の鳥打帽子を被っていた。着附け方はまだ新しかったが、顔の方は、もうすっかり垢染みてテラテラしていた。眼元もどんよりと濁り、唇の色も褪せていた。何かの拍子に、人形は帽子を落し、これも薄汚くなった丸坊主を出した。
 細君が目くばせすると、夫は、床から帽子を拾い上げ、私と目が会うと、ちょっと会釈して、車窓の釘に掛けたが、それは、子供連れで失礼とでも言いたげなこなしであった。  もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない。それも、人形の顔から判断すれば、よほど以前の事である。一人息子は戦争で死んだのであろうか。夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形を当てがったが、以来、二度と正気には還らぬのを、こうして連れて歩いている。多分そんな事か、と私は想った。
 夫は旅なれた様子で、ボーイに何かと註文していたが、今は、おだやかな顔でビールを飲んでいる。妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる。それを繰返している。私は、手元に引寄せていたバタ皿から、バタを取って、彼女のパン皿の上に載せた。彼女は息子にかまけていて、気が附かない。「これは恐縮」と夫が代りに礼を言った。
 そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て坐った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った。彼女は、一と目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応したようであった。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか。
 細君の食事は、二人分であるから、遅々として進まない。やっとスープが終わったところである。もしかしたら、彼女は、全く正気なのかも知れない。身についてしまった習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか。
 異様な会食は、極く当り前に、静かに、敢て言えば、和やかに終わったのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんな事を思った。“(朝日新聞 昭和37年10月6日)

 昭和30年代、僕は小学生でした。そこには、西岸良平の「三丁目の夕日」の世界が広がっていました。母は時々3人の子どもたちを街のデパートに連れて行き、屋上の小さな遊園地で遊ばせてくれました。お腹が空くと、広い大食堂で好きなものを食べるのがお決まりのコースでした。時々立派なレストランに連れて行ってくれましたが、子供心に不釣り合いな印象を持ちました。後年分かったことは、それは母の料理に対する探求心で、学習だったようです。
街の辻々には、兵隊帽を被り白装束に身を包んだ復員軍人が物乞いをしていました。生の戦争を感じたのは、それが初めてでした。自分の目は、その異様さに釘付けとなると同時に、遊びの世界の戦争とは違った、得体のしれない怖さを感じました。

 この随想は新聞社への単なる寄稿文ではなく、優れた批評家の文章です。それは自意識をどこまでも削ぎ落とし、作者や老夫婦や大学生を客観視した文章だからです。それが小林秀雄の芸術性を高めています。自分にとって往時を偲ばせる文章です。懐かしくもあり多くのことを感じましたが、前述したように、先ず戦争の恐ろしさに思い至りました。
自分はこういう場面に遭遇したときに、どんな対応をするだろうかと考えました。作者同様に推理し、黙して語らずということになると思いますが、時代性から戦争の残酷さを考えることになるでしょう。細君が乱心でないにせよ、周囲の好奇心と自己の羞恥心よりも深い悲しみを持っています。妻の取り違えた愛情への夫のまなざしに、深い愛情と決意を汲み取り、悲しみでいっぱいになります。恋が時には誤解の果実であったとしても、しかし愛の前提は生涯の規律と決断の継続だと思いました。

 社会の矛盾は、常に弱者に付きまといます。チエーホフの短編に、線路をつなぐ釘を盗んだ少年が死刑になる小説があります。少年を裁くのはたやすいことですが、その背後には多くの社会問題があることに気が付きます。人類は、不条理な戦争を途切れることなく続けています。人道的介入の普遍主義は去り、荒療治の過渡的時代に入りました。或る帝国は公正と偽善を織り交ぜながら、よくも悪くも何とか維持してきましたが、善意の国民はやっと気が付きました。野望の帝国の残滓は、まだまだ席巻しており、僕はそれを考える度に憂国の情に駆られますが、知識武装をするしかありません。戦争は強者や富者に優しく、弱者や貧者には嘆きであることを私たちは学びます。

 蓋然的な言い方になりますが、人間は誰とも共有できません。苦しみや悲しみを抱えていても、厳粛に考えればそれを言葉で表現することはできませんし、他人に分かることはありません。夫婦への共感や同情は当然のことでしょう。しかし、それを二人に伝え、証明するのは時に暴力となり、非情と映ります。人によっては、言葉の取り繕いをするかもしれませんが、多くの日本人は沈黙という共感を選択すると思います。相手の悲しみを感じ、察し、黙して感じ取ること、これが大切ではないでしょうか。それが日本人の自然さでもあります。もちろん、言葉は発言しなければ伝わりませんし、書かなければ残すことはできません。

 前提がそうであっても、場合によって感情や共感を言葉にする空々しさは残ります。その場面で言葉を発し沈黙は取り払われたとしても、違和感という空気は漂います。その悲しみが癒えてなくても、言葉をかける愚は避けねばなりません。もしかけるのであれば、それは自分自身に向けた言葉ではないでしょうか。

 世の中を2つに大別すると、支配する側と支配される側に分かれると思います。はっきりと定義せずに概念的に考えてみると、支配する側の人は謙虚な言葉を使います。人の上に立つ人ほど、言葉を注意深く扱い、感情的な言葉を言わないし、批評をしない傾向があります。批評をする人は自己満足で言うことが圧倒的に多く、周りの雰囲気を壊したり、相手を簡単に傷つけてしまいます。人の感情を高揚させたり、いい気分にさせたりする人は、やはり支配する側が多いように見受けます。結果的に、それらがグループとなっていき、2つに大別されていくのだと思います。言葉というのは使い方によって、死に至らしめることもあれば、命を救うことだってあります。

 テレビを見ながら時々批評してしまいます。そういう自分自身を振り返る時、幾許の優越を感じるためにやっていないかと反省します。批評は自己満足のためではありません。 様々な立場からの視点を持ちながら、その人の立場に立つことが必要です。自分が良心的に共感した善意は、真の第三者とならなければ、暴力的な善意の第三者となります。日本人はそういう国民ではなく、沈黙という言葉を語り、相手の悲しみに少し触れることを選びます。批評したり所構わず言葉を並べたてる人は、人形の言われを推理し、その正しさの証明を得るためだけの言葉に終始し、善意からはいったにもかかわらず、その真逆をおこなっていることに気が付きません。平易に発した言葉や、時宜を弁えない笑顔も時には暴力となり、相手を傷つけることもあります。そのことを察知した人間が、大学生であり、俯瞰した目で見たのが作者ではないでしょうか。

 自我を排除することで伝わりやすくなるときがあります。それは押しつけではなく、受け手の能動に任せるという姿勢だからでしょう。受け手を素直にする言葉の選択は、コミュニケーションの第一歩です。自意識をどれだけ捨て去ることができるでしょうか。煩悩を捨てる努力を重ね、残った言葉を掻き集めたとき、その人の集合された人格が決まり、思いやる心が持てるのではないでしょうか。

 意識と言葉には、乖離があります。言葉は心を正確に伝えることはできません。言葉は観念に過ぎず、普段使っている言葉は具体的です。固定的観念である言葉を、個別的な人に正確に伝えるのは不可能です。
 旧約聖書の冒頭文は使い古された引用なので、今回は日本の書物を引用します。稗田阿礼が編纂した、日本最古の神話「古事記」に、表現することの困難さが書かれています。
 “然れども上古の時は、言と意を並朴にして、文を敷き句を構ふること、字におきて即ち難し。已に訓によりて述べたるは、詞心におよばず。全く音を以て連ねたるは、事の趣さらに長し。是をもちて今、或は一句の中に、音訓を交いて用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録す。即ち、辭理の見えがたきは、注を以ちて明かにし、意况の解り易きは更に注せず。”
(訳文)“しかしながら、上古においては、言葉も、またその意味も飾り気が無く、漢字を用いて文章を書き表すことは困難でした。すべて訓を用いて記すと、思っているとおりに表現することができず、また、すべて音を用いて記すと、文章がいたずらに長くなってしまいます。そこで、今「古事記」を記すにあたり、ある場合は一句の中に音と訓を交えて用い、またある場合は一つの事柄を、すべて訓を用いて記すことにします。そして、言葉の筋道の分かりにくいものには注を加えて意味を明らかにし、また意味の分かりやすいものには注を加えませんでした。”(竹田恒泰:現代語古事記)

 古の人たちは言葉にとらわれない生活を送っていたと思いますが、中国から漢字が入ってきて、生活様式も精神も変化していったようです。沈黙という言葉の使い方、言葉による誤解、意識との相違、多くを注意しなければならないと、この随想を読んで感じました。ただ、沈黙の美徳は日本特有の美意識であり、国際的には理解不能です。自分の意見を正確に伝え、行動することが外交においては誠実の証となります。意識と言葉は、相互に規定されるのではなく、補完の意識を持つことが必要だと思います。

 2009年に、村上春樹氏はイスラエル賞を受賞し、「壁と卵」というタイトルでスピーチを行いました。反イスラエルの立場を取り、戦争や暴力行為を批判しました。常に弱者の側に立つという姿勢は、巨大なシステムや戦争の前には恐怖であり、勇気が必要です。しかし、その巨大なシステムは、この随想に出てくる細君のように、人の魂まで奪い去っていく代物です。スピーチの最後の一節を掲載します。

 “私が今日、皆さんに伝えたいと思っていることは、たった一つだけです。私たちは皆、国家や民族や宗教を越えた、独立した人間という存在なのです。私たちは、“システム”と呼ばれる、高くて硬い壁に直面している壊れやすい卵です。誰がどう見ても、私たちが勝てる希望はありません。壁はあまりに高く、あまりに強く、そしてあまりにも冷たい。しかし、もし私たちが少しでも勝てる希望があるとすれば、それは皆が(自分も他人もが)持つ魂が、かけがえのない、とり替えることができないものであると信じ、そしてその魂を一つにあわせたときの暖かさによってもたらされるものであると信じています。“






2017年2月27日(月)
「リバイバル『ながら族』」 清川診療所 所長 坪山明寛 

  冬の朝影もくぐまる通学路 明寛
 2月になり一段と寒い朝が多かった。こんな時は、いつもはステップも踏みながら登校する小学生も、ポケットに両手を押し込み、身を屈めてトボトボ歩いている。先の句は、通勤途上で見たこんな情景を句にしたのだ。
 私の句作は、こんな風に通勤途上が多い。運転しながらふと目にしたひとこまを、五七五にまとめている。昔風に言えば「ながら族」になるだろう。「ながら族」と言う言葉は、昭和30年代に流行り、ラジオや音楽を聴きながら勉強や食事をする若者をさしていた。今なら流行語大賞になったと思う。その当時は、物事に集中できない人と言う意味で、あまり褒められた言葉ではなかったように思う。
 しかしそれから約60年経った今、ちょっと「ながら族」に光が当てられようとしている。何故か?「ながら族」には、高齢社会に役立つヒントがあったのだ。
 診察室には、転倒で怪我して来る方もある。階段、玄関先の段差や畳のヘリ、雨上がりの道などで躓いて転倒するのだ。何故転倒するのか?階段を上がる過程を医学的にみると、①階段を見る(意識・注意)②階段だと知る(感覚(視覚)③段差に合わせて動く(判断・行動)を同時に働かせている。脳・目・筋肉・骨・神経が、同時に協働して動いて、初めて階段を上れるのだ。言い換えれば「注意深く足元を見ながら階段を上がる」、まさに「ながら族」をやっているのだ。「ながら族」は体と脳を同時に動かすことだ。このことがうまく出来ないと、転倒してしまうのだ。
まさに「ながら族」の脳と身体の上手い連携に、高齢社会を生きる上で立ちはだかる「認知症」「転倒」予防のヒントがあったのだ。
認知症も、同時にいくつものことが出来なくなっていく傾向がある。認知症の方が、料理が出来なくなるのも、献立を考え、食材を集め、包丁で怪我しないように切り、火をつけ、味付けし、途中で火加減を行うなど、実に多くのことを考えながら、身体を動かさなければならないからだ。
 最近認知症予防に「脳と身体」を同時に動かすことが、推奨されている。国立長寿医療センターでは、「コグニサイズ」と言っている。これは「認知」と「運動」を組み合わせた造語です。
 例えば散歩しながら引き算をする、しりとりをする、歩行数が3の倍数になったら手を叩くなどがある。二人で一緒に散歩するときにも、ただ真っすぐ話もしないで歩くだけではなく、散歩道でであった花の名前を言ったり、出会った車の色を覚えて、帰り着いた時に黄色が何台、黒が何台と記憶力を競ったりすることもいいでしょう。
 このように「運動と脳」を使い、二つのことを同時に行うことを「デュアルタスク」と言い、研究によるとデユアルタスクを行うと、脳にある「脳由来神経栄養因子」が増えて、記憶に関与する海馬が大きくなることも報告されている。
 このように私たちが小学生の頃には、良くないと叱られた「ながら族」でしたが、認知症予防や転倒予防にも役立つ訓練法として脚光を浴びてきている。
 診察室で元気そうな方に「元気ですね」と声をかけると、「先生、元気なのはここだけ」と指で口を指す方が幾人かいる。その方々は、顔の表情も生き生き、認知症もない、庭掃除、剪定、木の伐採、趣味と、80歳過ぎとは思えない毎日を過ごしている。きっと「おしゃべりしながら手足を動かしている“ながら族”」なのだ。いくら「ながら族」がいいと言っても、歩きながらスマホ、歩きながらポケモンGOはいただけませんね。
 春到来も間近、私も運転しながら道端の風景を眺めながら一句をひねる、トリプルタスク(3つの仕事)のコグニサイズに励もう。






2017年1月28日(土)
「分かりやすさこそ深い」 清川診療所 所長 坪山明寛 

 明けましておめでとうございます。みな様佳いお年を迎えられたことと思います。今年もよろしくお願い致します。
 私は、初日の出を家のベランダから拝んだ。山の端から放たれた光は、とても神々しく、光を浴びた瞬間、身も心も清められ、生かされていることへの感謝の念が、沸々と湧いてきた。

  艶やかに真円の陽の初日の出 明寛

 今年のお正月は、三社参りをしようと決めていた。「三社参り」を知ったのは、大分に移って来た時だった。故郷鹿児島では聞いたことはなかった。県立三重病院で仕事していた時、お正月明けの診察室で、患者さんが「内山観音、狐頭様(扇森稲荷神社)、護国神社へ三社参りした」と話していた。大分に来て33年、期するところもあり、大分県人として一度は実行したかったのだ。今年参った三つの神社は、娘の嫁いでいる安岐町の瀬戸田八幡、大分市内の柞原八幡神社と春日神社だ。
 拝殿に向かい、女房と二人で神道式に二礼二拍一礼をし、家族の健康、今年生まれる予定の6人目の孫の安産を祈った。
柞原八幡での参拝を終え、心身脱落した気分で鎮守の森を散策しながら降りると、参道脇に大楠があった。説明には、樹齢三千年、幹周囲18.5m、樹高30mと記載。樹皮はゴツゴツとし苔が生え、空洞がありいかにも老木の雰囲気満々。幹には真新しい注連縄が張ってあり、柞原神社の御神木なのだ。
樹齢三千年の長きにわたって、生き抜いてきた大木を前にすると、ものも言えないくらいの圧力いや畏怖を感じた。
 この感覚は、西行法師が伊勢神宮参拝時に「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と詠った感覚そのものだった。
 日本国は、仏教伝来までは八百万の神々を信じる多神教の国だった。この世のありとあらゆるもの、森羅万象に神が宿ると信じていた。6世紀半ば百済から仏教が伝来した。国は大騒動になり、仏教を敬う派と神道を守る派で争いが起こった。しかしこの争いは、日本人の智慧と寛容さで終息した。どうしたかと言えば、インドに生まれた仏たちが日本には神として降りてきたと考えた(本地垂迹説)〉。つまり天照大神は大日如来、八幡神は阿弥陀如来の垂迹神だとし、神仏習合が完成したのだ。この考えが日本人に刷り込まれてきた。だから大晦日にお寺で除夜の鐘を叩き手を合わせ、お正月には神社に初詣に行き、手を合わせることに違和感を感じない。悪く言えば「いい加減さ」良く言えば「寛容さ」、この日本人の精神性は、日本民族が丁寧に醸成してきたものであり、今という不穏な時代に極めて重要な文明ともいえる。
 話は楠の大木に戻るが、お寺には森は必須ではないが、神社には大樹や鎮守の森が必須だ。これは神代の時代の精神性の象徴である。先日NHKで「今蘇るアイヌの言霊―100枚のレコードに込められた思いー」を鑑賞し、「なぜ人は大木に神を感じるのか?」という疑問が氷解した。アイヌの人達は「人間の能力を超えた能力を持つものは、神(カムイ)が宿る」と信じていた。つまり茶碗は、熱い汁を平然と受け止め、一滴もこぼさない。人の手では出来ない事をしている、だから茶碗も神であると考えるのだ。この考えに従えば、樹齢三千年の楠の大樹は、到底人の及ばぬ生命力を持っているので、神と崇めることになる。分りやすい、でも奥深い考え方だ。
 丁酉の今年、世界は風変わりな指導者の出現で迷走しそうである。こんな時こそ、寛容さを文明の底流にすえる日本国の役割は大きいと、ちょっと大袈裟に言えば形而上的思いを巡らしてみた、今年のお正月でした。
 診療所の力は小さいが、今年も精一杯、皆様のお役に立つように頑張りたい。










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