「語り合うとは」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2015.12.14

「悪口を言わないから・・・」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2015.11.24

「宅配便が来た!」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2015.10.27

「豊後大野の秋を愛す」
   三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2015.10.15

「おもしろき一日」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2015.9.29

「原則の人」
   三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2015.9.5

「人間て小さいんだなあ・・・」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2015.8.27

「根はみえねんだな」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2015.7.24

「吉丸一昌のふるさと」
   三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2015.7.21

「あるひと言」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2015.6.26

「走ることは単純だから楽しい、そして深いから熱中する」
   三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2015.6.5

「好奇心を持つ媼」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2015.5.21

「清川町賛歌」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2015.4.24

「食について〜伊丹十三篇〜」
   三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2015.3.28

「愛おしむこととは」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2015.3.24

「小さき者の心」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2015.2.23

「年賀状よもやま話」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2015.1.26







2015年12月14日(月)
「語り合うとは」  清川診療所 所長 坪山明寛

 ある朝だった、いつものようにお茶を啜りながら新聞のコラム欄に目を向けた。そこにインドの詩聖タゴールの詩があった。「どの赤ん坊も、神はまだ人間に絶望していないというメッセージをたずさえてくる」(迷える小鳥 藤原定訳)
 今地球という人にとって唯一の住み家は、人の手によって様々な面で住みにくくなっている。喧々諤々の会議が開かれるが、明るい未来はないように思える。しかしタゴールの詩は伝える、人智に底知れぬ力があり赤ん坊達がいる限り、未来に向け希望の灯がともり続けると。読みながら、大人の言葉を理解し悪戯も始めた1歳5か月の孫が浮かんだ。
    いたずらは育ちの証冬ぬくし 明寛
まだ孫の言葉は、喃語交じりで分かりづらい。思うようにならないと泣き身振りで表現する。孫に語りかけ、ジェスチャーを交えていろんなことを教えてきた。それも特に深く考えることもなく、遊び感覚で・・。しかしこのタゴールの詩を読んだ瞬間、背筋が凍った感じがした。
 「どの赤ん坊も、神はまだ人間に絶望していないというメッセージをたずさえてくる」
わが孫もそうなのかと思うと、自分の喜びや癒しの対象として接していたような部分もあったのではと、反省し身震いがしたのだ。でも赤ん坊を可愛いがるのも悪いことじゃない、遊びの中で笑い、泣き、怒りながら心も知恵も豊かになるんだからと思い直し、これからも今まで通り楽しく遊び語り合おうと思う。
 しかし語り合うということは、なかなか難しい。相手に情報を100%伝える際、どの手段が有効なのかについては、メラヴィアンの法則がある。言葉力は7%、話し方が38%、表情や仕草が55%となっている。孫との語り合いを思うと、この法則は理解できる。例えば悪戯をした時に「こら」という時に、優しく言う「こら」より「コラッ!」と語気を強め怒り顔すると、すぐに止める。
 しかし診療現場ではどうだろうか。専門用語が飛び交い、患者さんが分かりづらいと言われている。国立国語研究所の調査では、もっと分かりやすい言葉で説明してという意見が8割にも上っている。この調査では、侵襲・炎症・耐性・生検・ターミナルケア・狭窄・虚血性心疾患などが、分からない言葉だ。文字を見れば推察できる言葉も、聞いた場合には、侵襲は信州、生検は政見、狭窄は凶作というように誤解されやすい。
 このように診察室の語り合いでは、言葉が重要な位置にあるように思える。私も診察室では、できるだけ分かりやすい言葉に言い換えたり、文字に書いたり、絵を描いて説明したりして、きちんと病状や検査の意味を理解してもらうように努めている。しかしまだ不十分で、最近反省させられたことがあった。インフルエンザ予防接種を受ける前に、問診票を記載してもらっている。70代の方の問診票を確認すると、一か所だけ回答がなかった。「ここはどうして書いてないんですか」と尋ねた。返事は「先生 意味が分からなかったんです」だった。質問票には「免疫不全と診断されたことがありますか」とあった。免疫不全が何を意味するのか不明だったので、記入しなかったのだ。なるほどと思い説明したら、「分かりました、“いいえ”に○します」と言われた。この方の賢明さには感心しつつ、これまで多くの方が分からないまま回答していたのではと不安が募った。
診察室は、医療者と患者さんが病気のことや生きることなどについて、語り合い分かり合う場であることを肝に銘じ、言葉や話し方に留意して診療して行こうと改めて思った。皆さん方も分からない言葉があれば、遠慮せずに聞きなおしてください。





2015年11月24日(火)
「悪口を言わないから・・・」  清川診療所 所長 坪山明寛

 立冬を迎えたのに暖かい日が続いている。
 羽ばたきのゆるやかなりや冬ぬくし 明寛
 先日六種の農林業振興公社で市主催の「こころをつなぐ仲間づくりフォーラム」に出席した。この事業は、豊後大野市の自殺者が大分県で一番多いことを改善しようと、平成22年度から始まっている。私は、人が健康に生きるには、身心ともに健やかであるべきと考えているので、市民が自殺予防のために考えたり行動する契機になればと、「ひとりぼっちにならないで」という演題で、講演の形で協力してきた。当日は100名の参加があり、緊張の中にも和やかに仕事を終えることができホッとした。
 負いたる荷ひとつ降ろす冬木立 明寛
 県道410号線沿いを帰りながら、診療所勤務医として出来るだけのことをして、住民の心身の健康を見守って行こうと意を強くするのだった。
 自分の診療姿勢として、受診する患者さんには、家族環境や日常生活、楽しみのこと、一日一回は笑うかなどを尋ね、語り合い、心の健康状態を把握するようにしている。
 ある日、インフルエンザの予防接種に来た方がいた。診療所には1年に1回予防接種に来る方で、「講演を聞きました」と言った。一人暮らしの90歳だが、表情からは70歳台に見え、不安や寂しさもなく穏やかな心持で生活していることが伺えた。
 昔は大家族でタバコ耕作をしていたが、今は一人で住み、野菜を育てているとのことだった。おそらくこの方も、猪や鹿の被害にあって、苦労されていることだろうと思い聞いた。「そうですか、野菜作りですか、大変でしょう、猪や鹿にやられて」と。
 勿論「そうなんですよ、とても困っています」という返事が来ると思っていた。ところが、「いや~全然、猪も鹿も自分の畑は荒らさないんです」との返事が返って来た。私は意外な返答に面食らって「へ~そうなんですか、電柵でしっかり防御してるんですね」と尋ねた。すると「いや~そんな物はしていません。30センチくらいの竹を組み、それに網をかけているだけです」という返事だった。
 今まで聞いていたのは、どんなに防護柵を施しても、猪は壊し鹿は飛び越えて侵入して、始末に負えないという話が多かったのに、簡単な防護柵で被害を防いでいるというのだ。「猪は来ないんですか?」と問うた。すると「いや来ています、でも畑の周りで遊んでいて、畑の中には入ってこないです」との返事だった。どういうことなの?何か特別な薬でも撒いているのかなと思ったが、それもないらしい。「畑で着物を燃やしています・・」と言った。「なんで着物を」と聞くと、「歳をとったので、迷惑にならんように始末しているんです」とのこと。ああ火を焚いているから猪も鹿も寄り付かないんだなと思ったが、燃やしているのは昼間だけとのこと。うう~ん、分からん!どうなってんだろう?
 その時だった「私は猪の悪口を言わないからかな」と話した。いや~参った、このひと言には。確かに殆どの人は、猪や鹿を迷惑だ、厄介だと言う。「私は悪口を言わないから、野菜畑に入らないのかも・・」と語る、90歳の穏やかな眼差しには、そうかもしれないなと信じさせる力があった。猪も人と同様、悪口を言われたら仕返しをするのかも。この方の「人に害をなす動物にも悪口を言わない」という姿勢は、先日のパリ多発テロで奥さんを殺されたジャーナリストが、『君たちに憎しみという贈り物は与えない』という言葉にも通じる、深い意味を感じさせてくれた。
 孔子は論語述而編で『子曰、三人行、必有我師焉(3人行<あゆ>めば、必ず我が師あり―宮城谷昌光訳―)』と教える。孔子の言うように、私は診療所で出会う多くの方々を師として、大きな学びを得ている日々である。





2015年10月27日(火)
「宅配便が来た!」  清川診療所 所長 坪山明寛

 秋深き隣は何をする人ぞ(芭蕉)の句のように、百枝平野にも刈田が増え、広々とはなったが、どことなく乾いた寂寥感が漂い、秋の深まりを感じる。
 ひいふうみ日毎に増える刈田かな 明寛
刈田には藁小積が坐している所もある。藁小積は、田毎に若干異なり個性を感じる。小積の形、頭の長さ、藁のひねり具合など、お百姓さんの個性が滲み出ていて面白みを感じる。昔は藁塚と云う大型の物が多かったが、農家から家畜が消え、藁草履・藁筵・藁人形、藁縄など藁細工が消えてしまい、稲藁が不要になったから小積なのだろう。私が小さい頃は、藁塚に登ったりかくれんぼしたり、刈田は遊び場だった。今刈田で走り回る子はいない。だからこそ一層刈田の広さに寂寥感が漂っていると感じるのかもしれない。
 藁小積にも個性があるように、人にもいろいろ個性がある。私が診療の場で大切にしているのは、患者さんそれぞれの個性を尊重することだ。医学的知識を、これこそ正しいと皆に画一的に当てはめることなどできないと考えている。個性は、素質に加え家族や友達との交流、学校、職場などで学んだ知識や経験により培われたものである。診療の場で語り合っていると、一人一人の個性の違いに、時には驚かされ時には愉快になる。この個性を読み取ることは至難である。
 例えばこんなことがあった。31年前、私が自治医大から県立三重病院に異動した頃だった。首や脇の下のリンパ節が腫れた70代の男性が紹介されてきた。病気は悪性リンパ腫。早速抗がん剤治療を始めた。しかし抗がん剤の副作用が原因で肺炎を起こし高熱を出した。この方は、70代まで農業一筋に生きてきた方で、頑固な人だと思っていた。苦しいとかの泣きごとも言わなかった。私は「今は苦しいけど歯を食いしばって頑張ってください」と励ましたが、返事はなく黙っていた。傍にいた奥さんに病状を説明していたら、突然この方が「先生!」と呼びかけた。びっくりして「はい どうしました」と尋ねたら「先生 歯を食いしばろうにも歯がないんじゃ」と言った。一瞬私は唖然として言葉を失ったが、次の瞬間笑ってしまった。奥さんも看護師も笑った。ふと見るとその患者さんもニコッとしていた。重苦しい雰囲気が吹き飛んだ。この方は、頑固どころかユーモアの心がいっぱいだったのだ。私や奥さんの憂鬱そうな表情を見て、和ましてやろうとしたのだ。この日から、治療の間いろんなことを語り合うことができた。語り合いお互いを理解しあうことで、抗がん剤治療という苦しみを乗り越え、寛解状態という良い結果を得られた。
 患者様には、無口な人・おとなしい人、しっかりした人・のんびり屋さん・激しい人・頑固な人と、いろんな個性がある。私はどんな人とも語るのを楽しんでいる。診察室には喧嘩をしに来る人はいないと信じているので。
 最近心の和むひと言があった。88歳の媼に敬老の日にちなみ「百歳になると市長さんがお祝に来るから頑張って」と言った。すると「県から米寿のお祝いが届いた」と言った。「知事さんが来たの」と聞くと、「いや宅急便が来た」と言った。その顔はとても嬉しそうだった。気難しい人だったら「宅急便で送りつけてきた」と言うかもしれない。この媼は、本当に穏やかな物言いの方で、笑顔が絶えない。生きていること、ご主人の世話になっていること、診察してもらうこと、全てに心から感謝していることが滲み出ている、素直さいっぱいの個性の持ち主だ。私はあの「宅急便が来た」という喜びに満ちた声と柔かい笑顔が忘れられない。
 刈田の藁小積達は、お百姓さんの個性あふれる、田圃への感謝の造形なのではと思う。
  労いのひと仕事なり藁小積 明寛





2015年10月15日(木)
「豊後大野の秋を愛す」  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

 三重町から清川町へ向かう。収穫前の黄色い稲穂が美しい。
後方には、日本百名山の祖母山とそれに連なる傾山の雄姿を仰ぎ見ることができる。
日本近代登山の父と言われる宣教師 ウォルター・ウェストンも、明治23年にこれらの山々を登り、四方の景色を賛美したそうだ。
その麓に豊後大野の町が端坐する。以前、奈良の長谷寺を旅した際に、「 いくたびも参る心ははつせでら山も誓いも深き谷川」という句を知った。
奥嶽川の青い流れは、その句のように深き谷川であり、緑と静けさがよく似合う。
 私共のクリニックと診療所は、三重と清川の町にあり、地域の方々の医療を担っている。
月に一度の僅かな時間だが、クリニック付近の道路をスタッフ全員で清掃をする。
気持ちがいい、ただそれだけの理由で始めてもう5年になる。爽やかな秋の早朝、道に散乱する落ち葉を竹箒で掃いた。
土埃が舞い、杉の枯葉が竹箒にくっ付いた。箒から一つ一つ丁寧に取り除き、再び落ち葉を寄せ集め、隅に捨てた。
時折、視線を遠くにやる。くっきりと傾山が見える。傾山とは、富士山のように裾野が対称ではなく、北から眺めると西側が一気に下降して傾いて見える。
辛くなった腰を伸ばし、しばらく山を眺め、再び竹箒で掃いて行く。道が美しくなること、それが自分へのご褒美だ。
通勤時、犬飼町を通過する時に、地区の住民たちが時々ビニール袋を持って、国道沿いのゴミを拾い集めている。
そういう精神というのは、どうも日本人特有のものらしい。
雑然ではなく、シンプルで整頓されることは美しいではないか。そう思う。
 138年前、1877年(明治10年)、大森貝塚を発見したエドワード・S・モース博士がアメリカから日本へ来た。
モース博士は、東海道五十三次が広くて美しいことに驚き、その美しさが街道沿いの住民によるものと聞いた。
世界でも稀有な徳性を保有し、それを思い起こしながらずっと続けていきたいと思う。
モース博士の著書、「日本その日その日」には、私たちの先輩の生き様が誇らしく描かれており、それ自体が現代人の教科書に思えてくる。

「巡査がいないのにも係らず、見物人は完全に静かで秩序的である。上機嫌で丁寧である。悪臭や、ムッとするような香が全然しない……これ等のことが私に印象を残した。そして演技が終って見物人が続々と出てきたのを見ると、押し合いへし合いするするものもなければ、高声で喋舌る者もなく、またウイスキーを売る店に押しよせる者もない(こんな店が無いからである)。只多くの人々がこの場所を取りまく小さな小屋に歩み寄って、静かにお茶を飲むか、酒の小盃をあげるかに止った。再び私はこの行為と、我国に於る同じような演技に伴う行為とを比較せずにはいられなかった。」 (1巻, p. 18)

「人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。」 (1巻, p. 34)

「いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致する事がある。それは日本が子供たちの天国だということである。この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少なく、気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。」 (1巻, p. 37)

「外国人は日本に数ヶ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於て道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生れながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり……これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。」 (1巻, p. 40)

「日本人の清潔さは驚く程である。家は清潔で木の床は磨き込まれ、周囲は綺麗に掃き清められているが、それにも係らず、田舎の下層民の子供達はきたない顔をしている。」 (1巻, p. 55)

「日本人が丁寧であることを物語る最も力強い事実は、最高階級から最低階級にいたる迄、すべての人々がいずれも行儀がいいということである。世話をされる人々は、親切にされてもそれに狎れぬらしく、皆その位置をよく承知していて、尊敬を以てそれを守っている。」 (1巻, p. 171)

「日本人のこれ等及び他の繊美な作品は、彼等が自然に大いなる愛情を持つことと、彼等が装飾芸術に於て、かかる簡単な主題(Motif)を具体化する力とを示しているので、これ等を見た後では、日本人が世界中で最も深く自然を愛し、そして最大な芸術家であるかのように思える。」 (1巻, p. 222)





2015年9月29日(火)
「おもしろき一日」  清川診療所 所長 坪山明寛

 秋晴れの澄んだ空が広がっていた。シルバーウイークの佳き日に、妻と佐伯市を訪問。目的はふたつ。一つは国木田独歩を偲ぶこと、二つ目は佐伯の海鮮丼を食べることだ。
混雑を避けて早めに家を出て、ナビを頼りに独歩館を目指した。佐伯鶴城高校の近くの寺の駐車場に車を止めた。
お寺は「養賢寺」だ。佐伯藩毛利家の菩提寺だ。立派な屋根が秋空を受け止めていた。門に「拝観お断り」の立て札があった。
門構えから覗くと、禅寺らしく重厚な玄関口が見えた。ここで「頼もう!」と修行僧が声をかけるのかな・・などと想像しながら後ろ髪を引かれる思いで独歩館に歩みを進めた。
この道は「歴史と文学の道」に相応しく、時代を偲ばせる佇まいであった。穏やか秋の陽を浴びながら、ゆっくりと歩みを進めた。
程なく「国木田独歩館」の立て札が見えた。木造二階建てのこじんまりした建屋だ。玄関から二階に行く狭く急な階段を上ると、独歩が弟の収二と過ごした部屋だ。
部屋の隅に昔風のランプが添えられた文机があった。独歩の息遣いを感じようと座った。木の手すりが秋の日差しを浴びていた。
   秋の陽の手すりに残る独歩館 明寛
 庭の景色を眺めていると、中学の授業で読んだ「春の鳥」を思い出し、「六蔵が亡くなったのは何故だったと思うか」と先生に質問され、「六さんは死ぬつもりはなかった、自分が楽しげに飛ぶ鳥になれたと思ったので、飛んだと思う」と答えた場面が蘇った。
 独歩館の裏庭には、小さな池があり水連が咲き、柿の実もたわわに実っていた。改造した蔵には、独歩の作品集があったので、「武蔵野」のページをめくって独歩を偲び、武蔵野の描写の美しさに改めて息をのんだ。
 独歩館を後にして食事に行こうと、ゆっくり歩いていくと、腰に手を当てた下着姿の老人に出会った。「どちらから、時間ありますか?」と聞いてきた。
「大分市から、時間・・ええまあ」と曖昧な返事をした。このご時世なので老人ではあるが、ちょっと警戒した。「養賢寺を案内しますよ」と言ったので、「拝観お断り」でしたと言うと、「私が案内します」ときっぱり言った。
聞くと、この老人は90歳で、毛利高正公に従って日田からやって来た日田八人衆の坂本家(独歩館旧持主)の現当主とのこと。海鮮丼に早く行きたかったが、熱心な誘いに負けて「じゃ~お願いします」と言った。ご老人は顔をほころばせ、家に帰り上着を羽織って自転車に乗って来た。
老人について養賢寺の門をくぐった。どこからか、「こらー!」と禅坊主の怒りが落ちてくるのではと心配しつつ歩いた。庫裏は屋根が高く講堂は堂々としていた。芙蓉が見事な花を咲かせていた。
しばらく行くと毛利家の墓所に着いた。扉越しに覗くと二万石にしては立派な五輪塔型墓石が林立していた。突然老人は閂をはずし墓域へ入っていった。イヤー驚いた。手招きされたので従った。
 老人は墓石に腰を下ろし初代高正公から高標公などについて、細かく来歴や奥方の由緒について説明した。途中井伊直弼、近衛文麿という錚々たる名前が次から次へと出てきた。
墓域での説明が終わり閂を下ろしたら、老人は石段に座りこんだ。そして坂本家の来歴を語り、その後ご自分の歩みを話し始めた。老人の人生も波乱万丈で、引き込まれてしまった。
石段の木陰が、西から東へ30センチ移動する間、約1時間余の語りが終わった。90歳とは思われない老人の記憶力と気力に脱帽し「有難うございました」とお礼を述べた。
老人は「ボケ防止と元気をもらうため」と笑って自転車に乗って去った。
 さあ美味しい海鮮丼をと港へ車を走らせた。が店は大混雑。待ち時間は1時間半以上。仕方なく握りずしの弁当を買って食べた。
秋空には鰯雲が見事に輝いていた。海鮮丼は食べ損なったが何とも面白き一日であった。







2015年9月5日(土)
「原則の人」  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

先日、帰宅時の車中でラジオを聞いていたら、気象予報士が「低温が続いているので、“のうさくもつ”にご注意ください」と話していた。
「農作物」という意味だろうが、あまり聞きなれない言い方なので正しいかどうか考えた。判然としないので、あとで調べてみた。
「のうさくもつ」と読むのは、誤りではないにしても普通は用いない。単に読み誤りから発した言葉が慣用読みになったようである。
同じ構成の「工作物」「著作物」なども、「~さくもつ」ではなく「~さくぶつ」である。
言葉に対しては、少し正確で殆どいい加減だが、気になることは徹底して調べてみたいと思うし、正解は常に知っておきたいと思う。

学生時代、コンサイスの英和辞典をトンボ鉛筆の赤青鉛筆で線引きしていき、いつしか見開きの頁には必ず朱筆が塗られていた。
最も、すぐに記憶が飛んでしまっていたが、手間を惜しまずに調べていった行為に対する自負は残った。
何においても今はネット環境で、確かに素早く検索し回答を得られるし、スマホにも国語辞典があり、いつでもどこでも検索可能だ。これを利用しない手はない。
順天堂大学の小林弘幸教授が書いていたが、手術後の反省として、三行日記を手帳に記入していたそうだ。
自律神経には交感神経と副交感神経があり、車に例えればそれぞれアクセルとブレーキの役割を持ち、ブレーキが強い人はうつ病になったりする。
三行日記は、反省・賞賛・希望のエッセンスで成立し、書くことによるストレスの発散、振り返り、そういう作業が自律神経を安定化させるそうだ。
辞書を読むことだけで覚える、確かに時間の効率という点においては、ベストな方法かもしれないが、人間はどうもそういう仕組みになっていないようである。
一見無駄と思える行為、時間の遅延、そういう遠回りな作業が自律神経を落ち着かせ、呼吸の安定を深くさせる。
ストレスを感じるというのは、グレーゾーンを持っているときに副交感神経の不安感が顕著になってくるそうだ。
グレーを透明にするには、散歩をしたり、スポーツをしたり、日記を書いたり、お喋りしたり、そういう一見無駄と思える行為の中に人生の質が隠されている。

伊丹十三のエッセイに「原則の人」というのがある。
生活のあらゆる細目に亘って独自の見識を確立し厳密なプリンシプルを設け、それに従って行動しなければ気がすまないという人を指している。ビールはドイツが発祥であり、ジョッキで飲むのが正しい。温度は7~9度で泡がどうのこうのと薀蓄を傾けながら飲む、といった具合の人だ。
確かに聞く耳は持つ。それはその方法が美味しいと思えるからだ。でもねえ。
“全く言葉が乱れてきたねえ。撒水(さっすい)をさんすい、洗滌(せんでき)をせんじょう、直截(ちょくせつ)をちょくさい、情緒(じょうしょ)をじょうちょと読むのが当たり前になってしまった。次の文字を正せというので、快心の笑み、寺小屋、頭骸骨、首実験と書いたりする。等々・・“(正解は、会心の笑み・寺子屋・頭蓋骨・首実検)
自分は今まで、上記の慣用句を使っていたが、彼は31歳で正しさを認識していた。想像するに、ひとつひとつの言葉を丹念に辞書で確認していたに違いない。

あまり偏向すると、人間は崩れていく。行動合理性を駆使するのも良いが、利得に終始すると、人間は、社会はバランスを失う。
「今更言ってもどうにもならない」を前提にするのはどうか。戦争に突入する空気に日本国民は抗えなかった。皆がそう言ってるからそれを信じた。原子力は安全だ。政府が言ってる。
考えないことは逃走と同義かもしれない。そこに個人の意識は皆無である。
日本国民は忘れやすい民族だという。過去を検証するのではなく、翻って美化したり、過ちから逃げようとする。
検証の過程で、その合理性や妥当性を議論するのはとても重要なことだと思う。自明性に依存するのではなく、疑うことも必要ではないか。
いま目の前にあること、それはとても重要なことだ。
開高健は書いている。
「でも、自分の嫌いなものをあれこれ考えるのはとても愉しいことです。美的感覚とは嫌悪の集積である、と誰かがいったっけ」。

「のうさくもつ」から端を発していろんなことを静かな通勤の車中で考えた。






2015年8月27日(木)
「人間て小さいんだなあ・・・」  清川診療所 所長 坪山明寛

 強い台風15号の九州直撃のため、診療所は午前中休診としたので、住民の方々に迷惑をかけ申し訳なかった。台風一過の雲の合間に、僅かながらとても美しい青空があった。
  野分あと青の真珠の空にあり 明寛
 この青は、フェルメールの「真珠の首飾りの少女」のターバンの色だ。命あるものを優しく包み、癒してくれる色だ。この青を見ていると、生きている喜びを感じる。色には力がある。色彩心理学では、「青」は爽快感、冷静さ、精神的静逸さをもたらすと説かれている。悩みや考えることがあり、精神的に疲れた時、空や海を眺めると心が落ち着くのは、この青の持つ心理的力なのだろう。
 悩み事といえば、ある日診察室で素敵なひと言、いやそんな軽い表現では言い足りないひと言、まさに哲学的なひと言を聞いた。
 それは「人間て小さいんだなあ・・・」という患者さんの呟きだ。私はその一言を聞き、一瞬体が凍りつき、次の瞬間鮮烈な衝撃が、頭から足の先まで走った。ここは診察室であり、大学の哲学教室ではない。診察室で「人間て小さいんだなあ」という呟きを聞くとは、毛頭考えていなかったので、衝撃が大きかった。
 私はその方の顔をまじまじと見つめ、ひと呼吸おいて尋ねた。「どうしたんですか?どうして“人間て小さいんだなあ”と思ったんですか」と。40代女性の方は、「えっ、どうしてって、そう思ったんです。久住の朝日台展望所に行ってきたんです。そこから高原や阿蘇の山並みを眺めていたら、人間て小さいんだな・・・と思えて、気持ちが落ち着いたんです」と語った。表情にはすっきりした笑顔があった。
今日はこの方の診察予約日でなかった。かといって具合悪そうでもない。どうして久住まで行ったのか、気持ちが落ち着いたとは、どういうことなのか、といろいろ疑問が湧いてきたので尋ねてみた。
 経緯はこうだった。昨夜の勤務で同僚の仕事ぶりに不満があり、苛立ち気持ちが塞がっていた。帰宅前に久住の朝日台展望所までドライブし、久住高原、阿蘇の五岳を眺めていたら、ふと「人間て小さいんだなあ・・・」と思えてきた。そうしたら夜勤の出来事を許せないと、くよくよしていることが、些細なこと、取るに足りないことに思えて、塞がっていた気持ちが晴れ晴れとなったので帰って来た。途中に診療所があったので、予約日ではなかったがついでに寄った。こういう経緯だった。
 私は話を聞いて「覚知」という言葉が思い浮かんだ。覚知とは、教えられて知るのではなく自分自身で知るということだ。契機は仕事での悩みだったが、地球誕生後46億年の月日が作りなした、久住高原・阿蘇連山の雄大な自然の中に、自分を置くという純粋な経験から、「人間て小さいんだなあ」ということを、この方は自ら知った、覚知したのだ。このような経験に基づく学びは強い。
アジア人として初めてノーベル賞(文学賞)に輝いた、インドの詩人タゴールは、詩の中でこう書いている。
 ひとの肉体は脆くて小さい、それなのに、苦痛に耐える力のなんと限りなく大きいことか!(病床にて)
 この方も、この学びがあれば、これから仕事上は勿論、生きる道で遭遇する悩みや苦労を、きっと上手く乗り越えられると確信した。
私はこの方が自ら「人間て小さいんだなあ」ということを、体験の上で覚知されたことを、羨ましく思った。帰り際に「凄いですね、あなたは」と声をかけた。「いやー」とはにかんだ笑顔は、とてもすっきりとしていた。
 診察室では、患者さんから途轍もなく大きなひと言が、さらりと語られるので、耳を澄ましていようと肝に銘じている毎日である。






2015年7月24日(金)
「根はみえねんだな」  清川診療所 所長 坪山明寛

 梅雨の晴れ間の夕刻だった。
帰宅して新聞を読んでいた時に、その瞬間を見た。
1歳の孫がすっくと立ったのだ。
僅か10秒ほどだったが、何の支えもなかった。女房から時々立つと聞いてはいたが、この目で確認したのは初めてだった。
イヤー感動した。孫の両足は震えていた。立つという途方もない出来事を、達成できた快感を心に感じたのか、孫がにこっとしたのが印象的だった。
 立ち初めし足震えをり合歓の花 明寛
 誕生してから今まで、「初めての出来事」をいろいろ見せてくれた。天使のスマイル、ハンド・リガード、寝返り、這い這い、拍手、そして二本足直立と。
いずれもある日突然に目にしたので、新鮮な驚きと同時に成長の証としての喜びを感じた。
 これらの仕草は、ある日偶然にできたものか?そうではないと思う。誕生の日から家族は抱き、語りかけ、玩具で遊び、そよ風に触れさせ穏やかな陽の光を感じさせてきた。
孫はじっと黙って見て聞いて時に笑っていた。黙っている時間は、思慮と記憶の時間なのだ。
体内では、遺伝子情報と外部からの情報が絡み合い熟成した結果が、いろんな「初めての出来事」だ。
つまり見えないところで見えない力が「初めての出来事」を創出したのだ。
 見えない力による結実と言えば、7月16日の芥川賞受賞発表を聞いた時にも思った。
受賞者は又吉直樹氏だ。受賞作「火花」は、文学界に掲載され話題になっていたので、私も単行本を購入し読んでいた。
若い芸人と先輩芸人が、「笑い」をテーマに私生活を織り交ぜながら、とにかく語る文体が続く小説だ。
芥川賞は、新人作家の登竜門であり、これまでも「蛇にピアス」や「共食い」など、ギョッとする内容の小説もあったが、「火花」はそこまでは思わなかった。
ただ最後に先輩芸人が豊胸手術をうけて登場したシーンには一寸引けた。そこまでして笑いを取るのか、いや芸人魂って凄いなあとは思ったが・・。
 小説の内容は別にして、私は又吉直樹という芸人の、人知れず積み重ねてきた努力に、感心した。
プロフィールによると、これまで2000冊もの本を読み、芥川龍之介、太宰治の愛読者で俳人でもあるとのこと。芸人としての修業をしながら、これほどの読書量は並大抵ではない。
ストーリ・テラーとしての素養を、じっくり人には見えないところで涵養していたのだ。この人知れずの努力が、純文学の金字塔「芥川賞」を射止めたのだ。
さらに努力以外に、又吉氏と交流した人、読者を含めた又吉氏の知らない人々の存在も、金字塔獲得の裏方的存在になったのだろう。
 相田みつをさんに「根はみえない」という詩がある。
    花を支える枝
    枝を支える幹
    幹を支える根 
    根はみえねんだな
 先日まで庭に桔梗の花が咲いていた。薄紫の花が青空に向かって咲いていた。清しい花だ。
この花を咲かせるには、見えている枝や幹も大切だが、一番大事な役割をしてくれたのは、根っこだ。
でもその根っこは、誰にも見えないのだ。美しい花の裏方に見えない根という途轍もない存在があるのだ。
  さて自分にとって「目に見えない根っこ」は何か?それは父母、恩師、友人、同僚、患者さん、書物、そして家族が「目に見えない根っこ」だと思う。
 来年は私も古希だ。これからも私を日々支えてくれる根に感謝し、自分という花を咲かせるために歩みたい。
花は花になることで終わりではない、次の世代に命を繋ぐことに花の咲く意味と意義がある。
私も今少し懸命に生きて、生き様の花を咲かせ、私の命のバトンを子供や孫たちに繋げるように、猛暑に負けず生きてみるかと、自分に鞭打つ今夏だ。






2015年7月21日(火)
「吉丸一昌のふるさと」  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

 大分県は多くの有名人を輩出しています。
ただ、人物によっては、県民は何となく知っているというだけで、どんなことをしたかを正確に言える人は少ないのではないかと思います。
 私たちは地域医療という分野に焦点を当てて、住民の方々の支援を行って行きたいと考えています。
そのためにはあらゆる分野を知らなければいけないし、そのことが地域を大事にしていくということに間接的に繋がっていくと思います。
 今回知っていただきたい人は、ご存知でしょうが、「早春賦」の作詞で有名な、臼杵市出身の吉丸一昌です。
吉丸は臼杵市海添村出身で、大分中学、熊本の第五高等学校、そして東京帝国大学国文科に進みました。熊本時代は、小泉八雲や夏目漱石、後に東京音楽学校の校長となる湯原元一に教えを受けており、特に漱石とは生涯にわたり親交があったようです。
下級武士の生まれで裕福ではなかったので、フンドーキン醤油の小手川家からずっと支援を受けており、多大な恩義を感じていました。自分がしてもらったことを人にも分け与えていく。吉丸は「修養塾」という私塾を開き、大学生の時から地方からの苦学生10人くらいと起居を共にし、卒業してからも衣食住から就職の世話まで行っていたということです。
作家の野上弥生子は小手川家の人間ですが、夏目漱石に小説を書くように勧められて多くの作品を残しました。夫は野上豊一郎で、能研究に寄与した人であり、後に法政大学の学長となり、吉丸とも親交がありました。
大学を卒業した吉丸は、東京府立第三中学(現在の両国高校)で教鞭をとりましたが、芥川龍之介はその時に教えを受けた一人です。
 その後東京音楽学校の教師に抜擢され、文部省の唱歌編纂委員会の責任者として、自ら作詞したりしました。
両国高校の校歌も吉丸の作詞であり、学窓としての理想、高らかに歌い上げる文語体は素晴らしいと思います。
地方からたくさんの校歌のお願いもあり、長野県大町高等学校校歌を依頼された時に安曇野を訪れました。
その時の早春の風景に着想を得た詞が「早春賦」だと言われています。
 作曲は音楽学校教師の中田章で、息子二人も作曲家となりました。一次は次男、三男は喜直で、「小さい秋見つけた」、「夏の思い出」が有名です。
ドイツ民謡を訳詞した「故郷を離るる歌」は、 六ヶ迫峠から振り返り見た臼杵の町を強く思って書いたということです。
吉丸は熊本時代から剣道を始めて、塚原卜伝の研究、武士道訓話などを著しており、情緒的な詩情とは裏腹に頗る豪放磊落、大酒飲みであったようです。
大酒が祟ったのか、心臓発作により43歳の若さで亡くなりました。
 人の心に残る音楽や文学は、長い歴史の中で色褪せることはありません。
関愛会はこういう心に残る文化も改めて深く紹介しながら、自信が持てる地域でありたいと考えています。
臼杵市市浜の夫人の実家は、吉丸一昌記念館・早春賦の館として彼が遺した書、楽譜など、ゆかりの品々が展示されています。






2015年6月26日(金)
「あるひと言」  清川診療所 所長 坪山明寛

 梅雨のさなか、田植えも終わりが近くなった。百枝平野は早苗が揃い、薄緑に染まった。まさに豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいあおきのみずほのくに)の始まりだ。
  梅雨晴間に安岐町の孫の家に遊びに行った。そこにも植田が広がっていたので、8歳、5歳、11ヶ月の孫と一緒に農道散歩に出かけた。
孫たちと語り戯れ30分ほどの歩みだったが、風が体を通りぬけ清しい散歩だった。代田に水輪(みなわ)があちこちに生まれていた。
目を凝らすと、水輪の主は水馬(アメンボ)だ!畔に近づくと、スイスイと軽やかに走っていく。懐かしくなり孫たちとしばらく眺めていた。
  百点を取りし子のごと水馬 明寛
 8歳の孫が「アメンボはどこからきたの」と聞いてきた。「うっううう・・知らない」というしかなかった。
残念千万!何でも知っているじーじだったのに、ヒーローのイメージが崩れた瞬間だった。早速に家で調べた。
孫たちと見たアメンボは、産卵を終えて死ぬ。そして孵化した成虫は、田の草の下で冬眠し春に這い出すと記載されていた。
次に孫たちに会ったらしっかり教えて、何でも知っているじーじに復活するぞ!
 さてアメンボを調べながら考えが廻った。生きとし生けるもの全てに死は訪れる。アメンボの一生は1~数か月。人の平均寿命80年を考えると、アメンボの一生は儚い。
でも哀れとは思えない。それは、やるべき役割をしっかり果たし生き抜いているからだ。
 人もそうだろう、生き抜いたという心地が味わえたら、幸せだろう。「心残り」という言葉がある。何かを果たせなくて、後に心が残り残念に思うことである。
心残りのある人生の終わり方をしたくないというのが、人の願いだろう。「一日一生」は、この願いを叶えるための格言である。しかし「言うは易し行うは難し」である。
 あるお婆ちゃんの遺言書のことを思い出した。80歳過ぎで亡くなったお婆ちゃんの遺言書の余白に、追伸が書き足してあったのだ。
内容はこうだ。「家族の皆様、お寺の皆様、世の皆様、大変お世話様になりました。なつかしいお同行の皆様 御きげんよろしう慈恩のもと、お念佛の日々を、お大切にお過ごしなされませ。一寸お先に失礼。合掌」。
私は最後の「一寸お先に失礼」を読んだ時、ズドーンと脳天を叩かれたような衝撃を受けた。
この一文には、「私は生き抜いたよ。私の人生を生き抜き、何の心残りもない」という、お婆ちゃんの家族や知人への強いメッセージが込められているように思えたのだ。
 歴史に名を遺した人が、終焉にあたり残した辞世の句や和歌がある。
例えば、吉田松陰は「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と、死して尚この世に生き続けると詠み、細川ガラシャには「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」と覚悟の和歌がある。
秀吉は「露と落ち露と消えにしわが身かな浪速のことは夢のまた夢」と人生の儚さを詠んでいる。俳聖松尾芭蕉は「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と旅の俳人らしく、夢でも旅を続けていると、旅への激しいまでの思いを句にしている。
 私はこれら有名な辞世の句や和歌を読んでも、歴史には名を残さなかった市井の民、お婆ちゃんの「一寸お先に失礼」ほどの衝撃は受けなかった。
この一行には、死ぬ事は近所のお店に行くようなものと思わせる、淡白さ、穏やかさ、軽やかさ、そしてユーモアさえ溢れている。そう思わせるのは「私は人生を悔いなく生き切った」という、お婆ちゃんの満ち足りた喜び故であろう。
 孫たちの驚きの質問に、直向きに向き合い「何でも知っているじ~じ」の立場を転げ落ちないように学び、孫たちに「一寸お先に失礼」と言える人生にしたいと思うこの頃だ。






2015年6月5日(金)
「走ることは単純だから楽しい、そして深いから熱中する」  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

さて、あなたにお話があります。
彼は身長170センチ、体重80キロ、半年前まではそうでした。
バーベキュー大会をすれば最後まで肉を食べ、鏡開きの時は何杯もお代わりをし、それは気持ちいいほどの食べっぷりでした。
そういう彼を見かねて、クリニックの医師がウォーキングに誘いました。
お二人の自宅が近所であることが彼にとって幸運だったのかもしれません。
医師の半ば強制的で熱意のあるお誘いは、仕事が終わって河畔の堤防を何キロも散歩することでした。
冬の川風、海風は冷たかったに違いありません。でも、その頃彼は既に運動に目覚め、走ろうとする意欲を持っていました。
彼は中学、高校時代は、三重町でトップクラスの速さを誇っていました。
野球部に所属していたにもかかわらず、何かの大会があると必ず短距離ランナーとして参加を要請されました。
仕事も積極的で常に動いているというイメージがあります。
そんな彼だから、歩きはまどろっこしく感じてきたのでしょう。
歩いたり走ったりを繰り返しながら、やがてほぼ100%のランニングになりました。
もちろん走り始めの時期は、足腰が痛くなったり、何週間も走れないこともありました。

そういう変遷を経て、今は体重が65キロ、15キロの減量となりました。これは苦しんで得た結果ではないことに大きな意味があります。
走ることが楽しくて生活の中の大きな位置づけとなり、健康を希求する姿勢を周りの方も大いに感じています。
いろんな障害があったのに、そういうブランクにもめげず、継続して走り続けることができたのは何だったのかと考えました。
大きな要因はやはり医師のメンターとしての役割、精神的、技術的なサポートがあったからでしょう。
走ることそのものが健康であるとは言えません。でも精神を緩和し、身体鍛錬の連続が健康へのステップになることは確かなことです。
普段は健康でいることは当たり前のように思っていますが、ひとたび病気になるとその大きな存在に気付きます。
また、さまざまな誘惑のなかで、ぶれない心を継続することは非常に難しいと思います。
しかしランニングの快楽を覚えてしまうと、継続はいたって簡単なことなんです。
是非チャレンジしていただきたいと思います。最初は歩くことからでもいい。
最初の一歩を走り出すのは恥ずかしい筈です。
でも周りの誰も気にしていません。気にするのはあなた自身です。
あなたの未来を創ることはすばらしいことです。
二十歳のあなたに戻るのは簡単なことです。
単に継続すればいいだけです。
お金はそんなにかかりません。
飲みに行くと、食べたり飲んだりで高くなりますが、一回行くのをやめれば立派なシューズを手に入れることができます。
ランニングの魅力が何であるか、いまだによく分かりません。
得体のしれない心地よいものに動かされ続けています。

私も学生時代に登山のトレーニングとしてランニングを行っていました。
靖国神社を横切り、皇居一周をしたり、千鳥ヶ淵公園から北の丸公園に抜けて筋力トレーニングをしました。
30歳を過ぎて再び走り始め、フルマラソンも何度か経験をしました。
その後は適度に走り続け、継続のためにはレースに出場し絶えず自己啓発を行いながら継続してきたつもりです。
走行距離は48,000Kmを超えて、地球2周目を走り続けています。
30年も走り続けることができたのは何故だったのでしょうか。
頑張ったこと、頑張り過ぎなかったこと。友がいたこと、競争しあったこと。健康でありたかったし、太るのがイヤだったこと。
速く走りたかったし、速さが魅力だったこと。
でもやっぱり走るのが好きだったことです。こんな単純なことが好きになるとは思ってもいませんでした。
人間とは不思議な生き物です。

彼はレースに3度も出場し、夫婦でスリムになり、今スーパーアスリートへの階段を上り続けています。






2015年5月21日(木)
「好奇心を持つ媼」  清川診療所 所長 坪山明寛

 新緑がいつもより早く濃くなっていく。今年竹もぐんぐん伸びて,孟宗竹の節の白さに、これからを生き抜いてゆく力を感じる。
   節ごとの白さに覚悟今年竹 明寛
 今年竹の周囲は、黄色い古葉を落とし始めている。竹は古来日本人の生活になじみ、縄文の頃から生活道具の素材だった。
先日開館した県立美術館OPAMに千利休作の竹二重花入があった。武骨さと簡素さが相まって趣があった。
この様式の花入は千利休の創作だ。創作の源は何か?好奇心もその一つだと思う。
 好奇心とは何か?大辞林によると「珍しい物事・未知の事柄に対して抱く興味や関心」とある。好奇心は生きる力になると考える。
未知の物、珍しい物に気持ちが動くと心がワクワクする。このワクワク感こそが、生きる力を生むのだ。
 私に11ヶ月の孫がいる。孫と遊んでいると、ひとつの玩具でしばらくは遊ぶが、だんだん飽きてくる。そこで目新しい玩具を与えると、目が輝き夢中になる。
聞いたわけではないが、きっとワクワク感が湧きでているのだと思う。
 さて生きとし生けるものには「老い」が忍び寄る。知らない間に「老い」は、傍に寄ってきている。濡れ落ち葉のように、振りほどこうにも振りほどけるものではない。
老い神より死神を求める人もいるくらい、殆どの人が「老い」を忌み嫌う。
  でもいるのだ!明るく愉快に「老い」の日々を、しかも病も体力の衰えもありながら、生きている人が。
 ある日、96歳のお婆さんが受診した。小柄で柔和なお顔立ちの方だった。診察後にいつも尋ねる質問をした。
「毎日何をしていますか?」と。「折り紙」と即座に返事が返って来た。
「いいですね、折り紙は脳を活性化するので、認知症の予防になりますから続けてください。この次に来る時に見せてください」と言った。
「いいですかね」とはにかみの素振りを見せ退室した。お婆ちゃんの1か月後の診察日、診察が終わった時、診察台にお婆ちゃんの掌から何かがこぼれた。
最初は何だか分からなかった。よ~く見ると、それは鶴だった。折鶴だった。大きさが1センチに満たない小さな小さな鶴だった。
色は赤や白、黄色で模様のある鶴もあった。あまりにも小さいので「これ手で折ったんですか」と聞くと、「はい」と返事があった。
折り目はやや歪み、形も少しいびつで、確かに手で折ったことを示していた。「凄いでね。びっくりですね」と言うと、「500個ぐらい作りました、もっと小さいのもあります」との返事。
きっかけはテレビか何かで小さい折鶴を見て、自分でもやってみようと思ったとのこと。お婆ちゃんの好奇心にめらめらと火がついたのだ。
 坂村真民氏に「感動」という詩がある。
  

すべては感動だ
わたしはそう思っている
木に会えば
木の感動が伝わり
石に会えば石の感動が伝わり
花に会えば
花の感動が伝わり
生きていくことが
ありがたく・うれしく
光り輝いてくる
老いても衰えない
感動の人となろう

  感動  坂村真民
 まさにお婆ちゃんは、小さい折り鶴をつくることに感動を覚え、生きる毎日が感動に満ちているのだ。
「老い」とは白髪や顔の皺、腰の曲がりなど体の変化ではなく、感動する心を失った時から「老い」が始まるのだ。
お婆ちゃんは96歳、年齢的には「老い」の世界だ、でも老いてはいない、生きる上では。
小さい、より小さい折鶴を作ろうという好奇心、感動する心に毎日が満ちているのだから。
 古来日本では、能でも「翁」は別格演目であるように、老人は「翁(おきな)」「媼(おうな)」と呼ばれ神に近い存在だった。
「老い」であることを卑しむことなく、身の回りに好奇心を持ち、ワクワクして歩みたいものだ。

   坂村真民記念館公式サイトへ





2015年4月24日(金)
「清川町賛歌」  清川診療所 所長 坪山明寛

 通勤途上の風景は、私のおおきな楽しみである。目にする一木一草、人の営みに心を寄せると、さまざまな問いかけが聞こえてくる。
その問いに考えを巡らせ文字にすることは、私をワクワクさせる。
 さて清川にはネオンはない、でも山藤がある。今でしょう!山藤を楽しむのは。
道すがら山あいに、道端の雑木に絡みつつ天にかけ上る紫の灯、山藤を私は好む。
特に雨上がりの山藤は高貴そのものだ。クレオパトラの胸飾りも及ばない気品を漂わせている。
   山藤の気品添えたる鄙の道 明寛
 さて私が清川診療所に赴任して3回目の春を迎えた。赴任当初の戸惑いも消え、患者さん達の顔も覚え、診察室での語りあいも楽しめている。
これも清川町の方々の優しさのお蔭と心から感謝しています。
 この2年間に診察室で出会った方は、総勢517人になる。出会いが1回だけの方もあれば、2週間毎に出会う方もある。
この方々との出会いの印象をひと言で言えば、「愉快」と言うことになる。出会った印象深い方々を少し紹介してみましょう。
 先ずは待合室で笑いを振りまく方だ。病を持った方々がよもやま談義に花が咲き、腹の底から笑っている。私もつられて「いいことだな」と呟きながら笑う。
明るい屈託のない笑いに、苦労をものともせず笑い飛ばしながら生きる洒脱でしとやかな力強さを感じる。
スマートフォンを睨みつけてばかりの若者はいない。清々しい瞳を輝かせ寄ってくる幼児や親を守り介護に汗をかく息子や嫁がいる。
高層マンションはない。でも先祖伝来の土地がある。その土地を荒廃させてはいけないと、土で爪を汚し農作業に勤しみ、一分一秒がもったいないと草取りに精出す老い人がいる。
認知症は、老いた時の自然現象と達観し、苦にもせず、小林一茶の「雀の子そこのけそこのけお馬がとおる」とばかりに、大手を振って大らかに生きている痛快愉快な人がいる。
診察前に「先生 元気かな」と私に声をかけ、医師として「お元気ですか」と言う私の役割を奪う方がいる。
また帰り際に「悪かったらいつでもおいで」と言うと「先生の顔を見に来るわ」と帰る方がいる。
「ええ~ここは診療所だよ、顔見世寄席ではないけど」と私を苦笑させる人だ。
更に「ちょっと痩せなさいよ」と言えば「でも太っている方が格好いいよ」と言いながら大きな胸を誇示する老い人がいる。
私も負けちゃいけないと思い、「医師は体の外ではなく、体の中を見ているんだよ」と言い返しながら、この大らかさがこの人の生きる力なんだと納得するのだ。
 ああでも清川人も、はつらつ生きる方々だけではない。「孤独だ」「寂しい」と呟く方々もいる。
「忍」の一字で、「独居を」「人間関係を」「介護を」耐えて生きている方々もいる。
元禄時代の「松の葉」に「声に現れ泣く虫よりも、言わで蛍の身を焦がす」という歌詞がある。人を恋う心情を表しているのだが、私は「言いたいことも言わずに堪えてばかりいると体をこわす」という警句でもあると思う。
人生とは表現であり、食う、働く、言うなどの日常生活全てが表現である。
「沈黙は金」の格言もあるが、言わないと分かってもらえないこともある。
言う、そして聞いてもらう、それだけで癒され生きる喜びを得られることが多い。我慢だけでは辛い人生になる。
言いたいことは言ってほしい。私も聴診器を外したら、愚痴や呟きに耳を傾けていくので、何でも語って欲しいと思う。
このように診察室から見た清川町には、朗らかで、逞しく、悠然と、ちょっとペーソスを感じさせる生き方をしている、素敵な人があふれていると思う。
   山笑い翁も笑う鄙豊か 明寛
 二年間のご支援に深く感謝いたします。





2015年3月28日(土)
「食について〜伊丹十三篇〜」  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

 松山市の伊丹十三記念館を訪ねたことがある。
彼の多岐にわたる博学と、正確無比な文章の原点を知りたかった。
イタリア料理の本格的なパスタに触れたのは、彼のエッセイからだった。
当時29歳の若者が紡ぎ出した厳格で説得力のある文章は、自分を虜にさせた。
彼の文章は論理的で精緻で絵画的だった。
随筆名人の井伏鱒二を耽読したかのような、具体性と知性と感性に満ちた立体的な文章、それでいて平易で読みやすい。
語学、料理、ブランド、深い教養、頑固なまでの紳士力を集合させたエッセイ集は、今も輝きを失うことはない。
 日本のスパゲティにアル・デンテの概念を持ちこんだのは、彼が最初だったのではないか。
当時、母の作るスパゲティは、ビニール袋に平たく入った生麺を炒め、トマト色の粉末をふりかけて調理したものだった。
それが不味いとは思わなかったが、本に拡がる世界は新しい文化に触れたようで、知的好奇心をくすぐった。
セモリナ粉から作った麺なんて、どこにも無かったのではないか。
否、プロの料理人からすれば分かりきったことを何をいまさらということだったのかもしれないが、それを広く浸透させたのは彼の功績にほかならない。
兎に角、読んだら必ず実践したい性分なので、自分なりに作って本物に近づこうと努力した。
 いろんなレシピに挑戦してみたが、ニョッキがうまくいかなかったり、タリアテッレの舌触りが悪かったりした。
その中でアーティーチョークに関するエッセイがあり、それはどうしても想像できなかった。
どんな味がするんだろうと心の中にずっと燻っていたが、ホノルルのホテルで見つけた時にしめたと思い、真っ先に注文した。
外国人の舌の感覚がどうも分からなかった。
 林檎についての記述があった。
伊丹は例の口調で林檎は甘味ではなく、小粒で酸味があるのを良しとした。
緑の林檎を齧ると口の中でシュワッっとする、あの酸味を林檎の醍醐味としたのだ。
ニュートンの林檎は酸っぱさの極致だったのかもしれないし、イギリスにおいては糖度の向上ではなく、酸味を頑なに守っているのかもしれない。
そう考えると、甘ったるい日本の林檎について、向上の意味を考えてみたくなる。
以前、妻の実家の裏山の桃を食べた。
たいていの年は梅雨時期に生育するので、水っぽいバシャバシャした桃ができる。
それはそれで新鮮で美味しいのだが、空梅雨の年があり、日光をよく浴びた桃ができた。
水分が不足してるから小粒で、堅くて甘い桃ができた。囓ってみてびっくりしたのは、甘さが凝縮されていたことだ。
林檎ではないが、固くて酸味があり、それでいて糖度は高くて美味しかった。
それ以来、あんな美味しい桃に出会ったことがない。
雁屋哲の「美味しんぼ」にも、凝縮されたトマトのことが書かれていた。
永田農法というもので、常に飢餓状態に追い込むことによって、植物が本来持っている力を最大限に引き出すのが狙いだそうだ。
できたトマトは、水耕栽培よりも遥かに多くの栄養素を持ち、実に美味しいのだ。
 伊丹十三の影を求めて数十年が過ぎた。
地元の苺は甘味の中に僅かな酸味を感じ、思わず十代の頃苺畑で食べた緑の青臭さ、空の青さ、そんな情景を思い出すのだ。





2015年3月24日(火)
「愛おしむこととは」  清川診療所 所長 坪山明寛

 春分の日だ。庭の日向ミズキは満開、小手毬にも新芽が見える。祝日法によると、この日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」だ。
しかし現実は、命を慈しむ愛おしむどころか、主義主張や感情の赴くままに、いともたやすく命が奪われている。
   白梅や惨きことなす人の性 明寛
 この不安の時代をどう生きてゆくべきか?と考える時、ふと思い出す本がある。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びて、ひさしくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖とまたかくの如し」鴨長明の「方丈記」の書き出しの文だ。
この本は戦争・大火・台風などの災害、長明自身の歩みを通し、人の世の無常を記した随筆だ。
長明の言わんとすることは「執着を捨てよ」だろう。でも長明も捨てきれないものがあった。琴・琵琶・和歌そして方丈だ。方丈は四方が1丈(3m)の家と言う意味だ。
 私はこの方丈と言う言葉を聞くと、必ず思い出す夫婦がいる。「愛おしむ」姿の美しさと豊かさを考えさせられた夫婦だ。
それは5年前だった。市民病院に赴任した時、訪問看護に同行した。県立病院時代には、病院でしか診療をやっていなかったので、在宅医療・看護がどういうものか知っておくべきと考え、訪問看護師にお願いし同行したのだ。
看護師は3件の訪問先を準備していた。私が人を「愛おしむ」ことが、何なのかを目の当たりにしたのは最初の家だった。
「こんにちは」と声をかけて、看護師は玄関を入り、ひとつの部屋に入った。私も彼女に続いた。そこは4畳半の部屋だった。
 看護師は挨拶をして辺りを片づけ、看護師と私の据わる場所を確保した。確保したというのは、辺りには座る空間がなかったのだ。
窓際のベッドには奥さんが寝ていた。脳梗塞後寝たきりで、意識も定かでなかった。部屋の入口近くには、ご主人のベッドがあった。
奥の隅にご主人が座っていて、猫が横に寝ていた。高齢の御主人も足が悪いとのことだった。洗濯物が積まれ小さなテーブルもあった。
4畳半にこれだけあれば、自由になれる空間はわずかだった。この時に鴨長明の住み家、方丈が思い浮かんだのだ。
 看護師はおむつ交換の準備を始めた。私は奥さんの診察をした。窓の外はすぐ道路なので、トラックが通ると聴診もままならなかった。
診察を終え看護師が清拭やおむつ交換をしている間、ご主人に話しかけながら部屋の様子を観察した。
看護師によると、お家はとても大きく部屋もいくつもあるのだが、ご主人も不自由なので、この部屋で全てを済ましているとのことだ。
話を聞きながら部屋を見回していると、変わったものが目に入った。奥さんの頭側に点滴セットがあった。でもそれは点滴をしているのではなかった。
点滴セットの管には針はなく、切られた管の先から液が垂れていた。ポトリポトリとゆっくり落ちていた。その下には洗面器があり、そこに液は落ちていった。あれ~と思った。
何だろうと不思議がっていると、「それはこの部屋の湿度を調整しているんです」と看護師が言った。
私の心に衝撃が走った。意識のない奥さんのために、部屋が乾燥しないようにご主人が考えた加湿器だったのだ。
「凄い!」とご主人を見たが、猫の背中を静かに撫でていた。効果があるだろうか?なんて疑問は無意味だった。
奥さんを思う、愛おしむご主人の心に、私は只々黙するだけだった。この方丈の間は、人を愛おしむこととは何ぞやと言う問いかけを、私に投げかけた。
点滴セットの水滴は、キラキラ輝き落ちようとしていた。
 この文を書きながら窓外を見た。親雀が隣家の庇に潜り込むと、雀の鳴き声が騒がしく聞こえた。子雀だろう。必死に愛おしむことの美しさと豊かさが見えて心が和んだ。





2015年2月23日(月)
「小さき者の心」  清川診療所 所長 坪山明寛

 庭の豊後梅が咲きほころび、メジロが一羽花の蕊をつついていた。女房が「いつもは二羽一緒に来るのにね」と呟いた。
  はつらつと豊後の空に豊後梅 明寛
 2月は時が早く過ぎる感じがする。豆まき、立春、梅が咲き家の玄関には雛飾りがお目見えだ。今年は孫の初桃節句だ。その孫も8カ月となり、寝返りを自慢げに見せている。
  軽々と寝返り見せて梅の咲く 明寛
 あやすと良く笑い、はにかみの仕草も見せる。孫に他者と心を通わす育ちが垣間見えてきた。
孫は可愛い、小さいが途轍もなく大きな存在だ。だからこそ、子供の犠牲のニュースは堪らなくなる。
小さき者の心を大人は砕いてはいけない、小さき者の心の目を大人は疎かにしてはいけないと考える。私にそういう考えを強くもたらした一人の子供がいた。
 20年位前の診察室に、母親が男の子を連れてきた。ちょっと太めのおとなしそうな子だった。
実は事前に養護の先生から相談を受けていたのだ。問題は給食のことだった。
母親に改めて尋ねた。「今日はどういうことで来られましたか」と。30半ばの母親は、子供の方を見ながら「この子が給食を食べないんです。気分が悪いわけでもなく、お腹が痛いわけでもないようですが…食べないんです」と困惑顔で言った。
それを聞きながら、食事が摂れない割に栄養状態は良さそうなので、一瞬おかしいなと思った。
「そうなの」と男の子に尋ねると、ちょっと頷いた。母親が「いろいろ病院に行き、胃カメラもしたんですが、異常はないと言われました」と続けた。それを聞き、内心「困ったな、何の病気かな」と思いつつ、ふと口をついて出たのが「お家でも食べないんですか」という質問だった。
すると母親が顔をまっすぐに向けて「いいえ、家では食べるんです。オヤツも朝も晩もパクパク食べるんです」と口調を強めて言った。
ああそれで栄養状態はいいんだと理解できた・・が、えっ家で食べるのに給食は食べられない・・そんな病気があるかな?ちょっと考えた。
そして母親を診察室から出して子供だけにした。子供に聞いた「どうしたのかな、給食を食べないのは」と。男の子はしばらく黙って俯いていた。
「笑われたんです」とボソッと言った。経緯はこうだった。ある日の給食時間、食べた物を吐いた。同級生は一寸びっくりした後笑った。この子は戸惑って先生を見た。
そこには笑っている先生がいたのだ。助けてくれると信じていた先生までが笑っていたことが、心の傷、いわゆる心的外傷後ストレス障害となり、給食は回避するようになったのだ。
胃腸は異常ないので、家では楽しく食事ができるのだ。私は「よく分かった、辛かったんだな、養護の先生にきちんとお話しするから、もう大丈夫。給食は好きか」と言った。男の子は「うん」と返事した。診療後このことを養護教諭に報告しきちんと対応して貰った。
 小さき者の心や物事をみる視点や感性は、儚いほど繊細で適格と思う。それは次の詩にもうかがわれる。
これはTVで紹介されていたのを急いで書き写したので、作者は小学生としかわからない。題は「おかあさん」だった。

おかあさんは
出かけるときには化粧します
きれいにみせるためです
おかあさんは
誰かが玄関にきたときには
エプロンをします
きっと
自分が働き者だと思われるためです

  作者不明  おかあさん
  どうです、見事な感性でしょう。小さき者は大人を見ているのだ、的確に。
ニュースで知る子供の悲鳴や無言の屍には、大人社会の裏切りが映し出されていると思う。
ドロシーさんが言っている「私がここにいる、いつでも助けてあげる」大人社会ではないのだ、今は。
大人が子供の信頼を裏切ると、犠牲は子供だということを、給食拒否の子も教えてくれた。
温もりのある社会の春は未だ来ずだ。





2015年1月26日(月)
「年賀状よもやま話」  清川診療所 所長 坪山明寛

 皆さま明けましておめでとうございます。
ご家族皆さま明るい年を迎えられたことと、お慶び申し上げます。
   元日や五十鈴の水に手を浸す 明寛
 私は気になる鹿児島の母の見舞いを年末に済ませ、今年の新年は伊勢で迎えた。母は5月に103歳を迎える。認知症状態にはムラがあるが、訪問時には私の名前をしっかり呼んでくれたので素直に嬉しかった。
 さて何故伊勢での正月かと言えば、感謝参詣だ。一昨年市民病院を退職し、清川診療所で第三の医師生活を始めた。
第一は大学病院、第二は県立三重・豊後大野市民病院である。年齢を考えると、診療所が最後の職場だろう。
そこで日本の国造りと稲作の原点、伊勢神宮にこれまでの感謝を捧げたいと思った次第だ。
夫婦岩の二見置玉神社、伊勢外宮、内宮と参詣し、とても清しい気持の新年を迎えた。
しかし元日の夜、帰り着いた大分空港は一面の雪景色、路面は凍っていたので大分の自宅には帰れなくなり、安岐の娘宅で1泊する羽目になった。
 2日にやっと自宅に辿り着くと、郵便受けに賀状があった。賀状は、これまでの人生で出会った方々の今を知り昔を偲ぶ縁であり、読むのが楽しみだ。
今年は450名を超す方々と再会した。一枚一枚宛名を見、文面を読むと瞬時にお顔が浮かび思い出が蘇った。その中に「ああ~」と溜息をした賀状があった。
  年賀状今年限りと書かれをり 明寛
 そうです、「高齢のために賀状は今年限りとさせていただきます。お世話になりました」と弱々しい字体があった。
とてもお世話になった方だ。年月の重みが怒涛の如く伸し掛かってきた。その賀状を見つめていると、覚悟という文字が浮かんできた。
高齢になり賀状を書く気力がなくなり、筆を折ることにした覚悟だ。私は寂しさを感じつつ「有難うございました」と呟いた。
 子供との家族写真の賀状があった。高校時代不登校で、毎週カウンセリングや自立訓練をして立ち直った子が家庭を持ったのだ。
こんな賀状に出会うと医者冥利に尽きる。退職し悠悠自適の友、大学教授になり研究会を立ち上げ前向きな友、病を得た人、病を克服した人、地域医療に頑張れの励ましをくださった恩師と、いろんな賀状があった。
「診療所はオアシス」とのひと言の添えられた賀状には、深い喜びと責任を感じた。
 賀状捲りをひと休みしようと思いながら捲った時、一瞬息が止まりそして大笑いした賀状が目に飛び込んできた。
賀状いっぱい7人の人物が描いてあった。全員大口を開けた全身像だ。なんだこれは、誰だ差出人はと探すと、絵の間に拙い平仮名で名前が大きく書いてあった。
4歳の孫からの賀状だった。人物像の下に、娘が名前を書いていた。私と妻に加えて、次女夫婦と赤ん坊だった。
変だな、全員で5人なのに人物は7人だ。なんと次女の婿が3人描いてある。どういうことだと娘に電話すると、皆を大きく描き過ぎ、婿の足がうまく書けず2回書き直したのだった。私と妻は、この葉書を見て笑った、笑って笑って笑い転げた。
   孫からの賀状イラスト初笑 明寛
 寂しい賀状もあったが、孫の一枚に大いに元気を貰った今年の賀状だった。
皆さまは如何でしたか?賀状と言う一枚の葉書は小さいけれど、私を支え育ててくれた方々との大きな絆の証だ。
人はひとりぼっちでは、生きることも育つこともできない。ジョン・スタインベックも「あんまりひとりぼっちの人間は、しまいには病気になるもんだ」と言っている。
 今年の干支は「未」。豊作と家族の安寧を意味する。診療所は健康に関するよろず相談の場だと思う。
診察・検査そして心に空洞があき寂しい時には話し相手もするので、今年も気軽に診療所を訪ねてください。









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