・2014年のエッセイ集です(19篇)

「老いることの魅力」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2014.12.26

「冬薔薇考」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2014.11.19

「たのしみの思想」
   三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2014.11.1

「呟きの真相」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2014.10.29

「路傍の踊り子たち」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2014.9.29

「外泊の理由」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2014.8.20

「ふたつの命に出会って」
   清川診療所 所長 坪山明寛 2014.7.26

「静けさは心の緑」
  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2014.7.18

「新渡戸稲造の悲しみ」
  清川診療所 所長 坪山明寛 2014.6.26

「クライミング」
  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2014.6.19

「メダカの家族」
  清川診療所 所長 坪山明寛 2014.5.27

「つがいの燕達」
  清川診療所 所長 坪山明寛 2014.5.13

「水仙」
  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2014.4.18

「山桜」
  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2014.4.4

「生きる形」
  清川診療所 所長 坪山明寛 2014.3.28

「待つこと」
  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2014.3.4

「雪の日の考えごと」
  清川診療所 所長 坪山明寛 2014.2.24

私のお気に入り「精神生活〜読書と日々」岩尾淳一郎
  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2014.1.24

「お正月に思う」
  清川診療所 所長 坪山明寛 2014.1.24







2014年12月26日(金)
「老いることの魅力」  清川診療所 所長 坪山明寛

12月22日は冬至。早い夕闇に子供たちも戸惑っていた。夕食にカボチャがあり、お風呂には柚子が5個浮かんでいた。
  でこぼこを手で味わいし柚子湯かな 明寛
「柚子湯に入ると風邪をひかない」ということに信憑性があるのか確信は持てないが、目の前にプカプカ浮かんでいる風情は、気持ちを和ませてくれた。
その瞬間、この和みこそが風邪の予防になるんだと思った。
その理由はこうだ。良い心地だと感じた時に、私の脳にはアルファ脳波が生まれる。
アルファ脳波は笑う時にも出て、病気を防ぐNK細胞を元気づけることが分かっている。
温まること、柚子の香り、柚子の浮かぶ風景の心地良さが相まって風邪をひかなくする、そう納得してお風呂をあがった。
身体には柚子の香りが纏わりついていた。
そんな気分で一冊の本を取った。それは父が残してくれた本だ。表題は「菜根譚講話」昭和35年初版とある古い本だ。
最近NHKの「100分で名著」でも放送されたので、読み返しているのだ。
その中で後集120の「子生而母危」の言葉にはっとした。「子生まれて母危うき」と読む。
意味は「子供が生まれる喜びの中で、お母さんには命の危険がある」ということだろう。
確かにそうだ。日本の明治32年頃の妊婦死亡率は409.8人(出産数10万人対)と高い。平成4年は4人に減少しているが、子供誕生という無比の喜びには、母親の死という危険が潜んでいることが分かる。
菜根譚は「物事には必ず両面がある。人は人生行路を歩む時、目の前の事象にどう心構えるかが大事だ」と教えているのだ。
この教えを顧た時に、診察室で気になるのが、「老いは寂しい」「お正月が来るとまた年取る、嫌だな」「白髪が増えて困った、早く染めなきゃ老けしまう」等の老いることを忌み嫌う言葉を聞くことだ。
確かに老いることは、体のあちこちに故障が来て、思うように動けなくなるので寂しい。しかし菜根譚は何事にも両面があると言っているのだから、老いにも両面があると思う。では老いの嬉しい面に何があるだろうか。
ある笑い話がある。病院で右膝だけが悪い85歳のお婆さんが診察を受けた。医師は診察してこう言った「あんたも85歳、歳じゃ、膝が悪いのは歳のせいだ、シップで我慢して」と。
それを聞いたお婆さんは「そりゃおかしい」と言って医師に詰め寄った。
医師が「何がおかしいんじゃ」と聞いた。するとお婆さんは「歳、歳というけど、右の膝と左の膝は同じ歳じゃ、どうして右膝だけ歳取るんか」と問い質した。
医師は「・・・・」返答に詰まったという話だ。
こういう会話は若い人ではあり得ない。何故か。
若い人は医師に対して、遠慮が働いたり理性が出てきて、このような問い質しはしない。
老いの人は遠慮がなく、変だと思ったことをズバリと聞けるのだ。
そうなんだ、老いは歩いたり、持ったり、正座したりするような力は失っていく。でもその反面「遠慮がいらない」「しがらみがない」等の「自由」を手に入れることができるのだ。
このお婆さんも「自由」を手に入れ、考えたこと、説明におかしいと感じたことを「自由」に言っただけなのだ。
私は老いの時を、悲観的・何かを失ったという引き算で生きるのではなく、「達観した気軽さ」「遠慮しない自由さ」「濃い経験に裏付けられた自信」等、老いが手に入れたものを十分に生かす、足し算的に生きて欲しいと考える。
是非「老いの持つ自由さ」と言う強みをフルに活かして清川町を元気づけて欲しいと願っている。
さて今年の「きよかわの風」は、これで最終号です。1年間の御愛読有難うございました。皆様良いお年をお迎えください。





2014年11月19日(水)
「冬薔薇考」  清川診療所 所長 坪山明寛

立冬を過ぎ、通勤途上の風景も様変わりだ。百枝平野は刈田に変貌し、藁小積が修行僧のように黙して佇み、冬到来の趣だ。景色の中に冬薔薇(ふゆそうび)を見た。
 卒寿人心音凛と冬薔薇 明寛
薔薇と言えば詩人リルケが思い浮かぶ。書棚の色褪せた「リルケ詩集」を取った。
あちこちに線が引かれ、若い自分が「生きる」ことを一生懸命考えていたことを知り心が高ぶった。
例えば『第九悲歌』の「一度だけ存在したということ 地上に実存したこと これはかけがえのない意味のことらしい」は正に「生の肯定」であり、このことは今でも大事にしている。
薔薇がリルケと結びつくのは、彼の墓碑銘のためだ。
こう書いてある「薔薇の花よ、おお、純粋な矛盾よ、たくさんの瞼の下で、だれの眠りでもないことの逸楽よ」(片山敏彦訳)。
純粋な矛盾が何を意味するのか不明だ。
若い時に私はこう考えていた「柔らかい花弁と鋭い棘という矛盾ゆえに美しい薔薇よ、たくさんの閉じられた瞼(花弁)の下で、たった一人、全ての物から解放された自分が眠りにつける贅沢な喜びよ」と。
ところで矛盾の語源は中国の故事に由来する。商人が何物をも突き通す矛と何物にも突き通せない盾とを売っていた。
客が、その矛で盾を突いたらどうなるかと尋ねると、商人は答えられなかったという逸話に由来する。
矛盾は負の意味にとられがちだ。しかし私は矛盾には力が、生きる力があると思う。矛盾あってこその人生であり、矛盾は生きる原動力にもなると思っている。
先程の故事だが、商人は職人にどんな盾も突き通す矛と、どんな矛も防ぐ盾を作る指示をした。
この矛盾する要求は、職人に途方もない情熱・エネルギーを沸き立たせ、最高の矛と盾ができたのだ。
矛盾は人間社会において変化・進化の牽引にもなってきた。
そもそも人は、死に向かって生きようとしている矛盾する存在なのだ。
それ故どっちがいいのか判断しかねる苦悩・難問に出会うのだ。私はそれでいいし、その方が生きる上で選択肢が広がることにもなり良いと考える。
私は医師として命を見つめてきたが、矛盾ともいえる葛藤をたくさん感じてきた。
例えば白血病治療の過程で、抗癌剤の副作用に苦しむ患者さんから「先生、殺して!」と言われたことが幾度もある。
生きようとする生命を助けようとしているのに、苦悩を与えている矛盾。
臨終の時、家族の方から「ああ、これで良かった、もう苦しまないですむから」との言葉を聞いた時、私も心の中で「そうですね、本当に良かった」と頷くことがあった。
医師は命を助けることを務めとする立場からすれば、死を「良かった」と認めることは矛盾そのものだ。
しかし振り返ると、このような矛盾の積み重ねが、良き医師になろうという力になったように思う。
患者さんもまた矛盾の中で強く生きている。「先生、早く死にたい」と言う方が、しっかり病院を受診される。これも論理的には矛盾だ。
しかしこれでいいと思う。いやこの矛盾を抱えているからこそ、生きる力が体内に湧くのだ。つまり「生きたい気持ち」と「死にたい気持ち」の矛盾のせめぎあいが、毎日を必死に生きるエネルギーを生んでいると考えるから。
何だか難しい話になったが、私はこう考える「多くの経験を積んできた老いた時こそ、考えることをする良い時期だ」と。
「人間は考える葦」と言われる。人は「考える」からこそ人たりうるのだ。
考える悩みの多いことは、人生を豊かに人らしく生きていることになる。
私も老いの時期を生きている今こそ、疑問に思うことを深く一生懸命考え、脳を刺激して認知症にならないようにしたい。
診療所での患者さんとの会話は、私の考える心を奮い立たせるので、何でも大いに相談し語りかけて欲しい。待っています。





2014年11月1日(土)
「たのしみの思想」  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

そうだ。僕が40代の半ばを過ぎた頃だ。
遠い記憶の中で、きらりとした思い出がある。
休日に友人と二人で久住山の麓の渓流に分け入り、ヤマメを釣りに行った。
早朝の渓流を遡行しながら、きらきらと輝く緑と清澄な冷気に、学生時代の北アルプスの思い出が重なった。
渓流釣りはあまり上手ではなく、友人の半分くらいしか釣ることができなかったが、子供たちに食べさせてと言って彼の釣果の半分をもらった。
帰宅して何十匹というヤマメの腹を出し、妻が焼き魚にしてくれ、夕食のおかずとなった。
3人の娘たちは、「美味しい」を繰り返しながらあっと言う間に全部食べてしまった。
僕は殆ど食べなかったが、子供たちは美味しさを分かっているんだと思った。
幸福感が強く印象に残った。

神一行の「橘曙覧『たのしみ』の思想」を読んだ。
”たのしみは まれに魚烹(に)て 児等皆が うましうましと いひて食ふ時” 橘曙覧(たちばなのあけみ)
食べるさまを見て、この充実感は何だろうと不思議に思ったが、この句を詠んで分かった。
その時から橘の句が好きになった。
”たのしみは 朝起き出でて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見るとき”
生活の苦しさや不幸をあからさまに嘆く姿勢は生理的に好きではなかった。
そういうなかにあっても、どこか光明を探していたかった。
人にしても然り。誰でも短所があり、でも長所はもっとたくさんある。
そんな明るさを探していたいし、人を褒めそやす訳ではないが、いいところを認識して欲しいと願った。
啄木の歌は、時にどこか不遇や愚痴の句があり、あまり好きになれなかった。
曙覧の句は明るさと喜びに満ちて、困窮した生活のなかでも恬淡とした味を持ち、あるがままの小さな喜びを素直に歌っていると思った。

私たちの生活は、確かに昔には戻れない。
懐古主義ではなく、現実の経済をいかに理解し、分析し、知恵を出していかなければならない。
社会起業家の田坂広志さんは、著書の中でヘーゲルの弁証法を繙いて、「事物の螺旋的発展の法則」を書いている。
”物事の変化・発展、進歩・進化は、あたかも「螺旋階段」を登るようにして起こる。螺旋階段を登る人を横から見ていると、上に登っていくが(進歩・発展)、この人を上から見ていると、階段を一周回って、元の位置に戻ってくる(復古・復活)。ただし、これは螺旋階段であるため、必ず、一段高い位置に登っている。すなわち、物事の変化・発展、進歩・進化においては、古く懐かしいものが、新たな価値を伴って復活してくる。”
現実を見回すと、「螺旋的発展の法則」の事例は枚挙に暇が無い。
私たちの生活は、常に二律背反の対立する概念に囲まれ、それを発展させることの困難に直面している。
しかし、弁証法的止揚(アウフヘーベン)のなかで、螺旋的に上がっていかなければいけない。
人が集まったり、去って行ったり、そこには複雑な人間の感覚が棲んでいる。
田坂さんの言うように、「知識」、「関係」、「信頼」、「評判」、「文化」、そんな共感資本の蓄積は必須である。
そして、その中に人が「充実感」、「幸福感」を見い出すことが出来れば、真の意味で「地域貢献」が可能となる。





2014年10月29日(水)
「呟きの真相」  清川診療所 所長 坪山明寛

通勤の道沿いに一匹の飼い犬がいる。私が帰宅する頃には、私の方に背を向けて座っていることが多い。
犬も物思う秋に溶け込んでいるように思えた。いやきっと犬も「私の生活はこれでいいんだろうか」「飼い犬が幸せか、自由な野良犬が幸せか」なんて考えているのだろう。
そう思わせるほどに、犬のうしろ姿には哲学者の風情が漂っていた。
 座りたる犬の背細く秋思かな 明寛
犬のうしろ姿に誘われたわけではないが、秋の夕暮は、県立三重病院勤務の頃の診察室の会話を思い出させてくれた。
80歳を過ぎた一人暮らしのお婆さんがいた。どうしてこの方を思い出したかというと、私自身が非常に考えさせられた「呟くような問い」を投げかけてきたからだ。
どんな内容だったかを思い出し綴ってみましょう。
お婆さん「先生、なして迎えが来んのやろか、もうそろそろ来てもいいんじゃが」
私「何をそんなに急ぐんな。まだゆっくりしていけばいいがな」
お婆さん「いやーもう随分ゆっくりした。これ以上は子供たちに迷惑をかける。いつ頃じゃろか、先生ならわかるやろ」
私「いやーあなたの迎えの車の時刻表を貰っちゃおらんからな。それに最近は年取った人が多いから、向こうも混んでるんじゃろ」
お婆さん「そうやろかな、今度ぐらい私の乗る番だと思うんじゃが」
私「まあ、もうちょっと私と会いに来ちょくれ。あなたがいなくなると寂しいがな・・」
お婆さん「そうな それじゃまあ、もう少しまっちょくかな」
ざっとこんな内容だった。お婆さんの問いかけは一度ではなく、いつも診察は「迎えはいつだろうか」という問いから始まるのだった。
「もう生きた、悔いはない」「若いもんに迷惑をかけられん」と表現は異なるが、老いを背負っている方々は同じような問いを胸に潜めている方が多い。
人は本当に死にたいんだろうか?なぜそう思うのか?人を長生きさせる仕事の私に、お婆さんは、大きな問いをくれたのだ。
私は、養老孟司著「バカの壁」を読み、この問いに対して一つの確信を得た。
この本に、ある自殺者の話が引用してあった。
要約すれば、自殺しようとした人が、「ああーびっくりした。首を吊ったら枝が折れて落っこちて身体を打った。死ぬかと思った」と血相を変えて、死ぬ事から逃げてきたという話だ。
私は、この逸話を知り得心した、「そうなんだ、人は本来死にたくはないんだ」と。
じゃー何故人は死にたいと思うのか、何故お婆さんは「早く迎えが来ないかな」と問うのか?
診察の度に語り合って分かった。お婆さんは「死にたいのではなく、死にたいほど生きているのが寂しい」のだと。
子供は都会に出てしまい、隣近所の話し相手だった同世代はすでに鬼籍に入り、足腰が弱り菜園いじりの楽しみもなくなり、生きていることに喜びを感じなくなっていたのだ。
人は何故生きるのか?難しい問いだが、喜びを求めて生きているのだと思う。
喜びの中で最も大きいのは、人と触れ合い語り合い笑うことではなかろうか。
「生きているのが死ぬほど寂しい」のは「ひとりぼっち」と感じているからだ。
お婆さんの心は「ひとりぼっち」という寂寥で埋め尽くされているため、この世から逃れ彼岸の世界への旅立ちを願うのだ。
私はお婆さんの問いの形の「呟き」の真相を知り、「ひとりぼっちではないよ」という意味を込め、「またおいで」と診療を終えることにしたのだった。
犬のうしろ姿が思い出させたお婆さんの「呟き」は、私の診察時の語り合いに大きな影響を与えた大切な思い出だ。
今日もあの犬は、身じろぎもせず、秋の夕暮の中、背を見せ物思う風に座っていた。





2014年9月29日(月)
「路傍の踊り子たち」  清川診療所 所長 坪山明寛

この季節、朝の通勤路に足長の踊り子たちが、赤毛のアンよろしく赤い髪をカールさせて迎えてくれる。
脇見運転は禁止だが、AKB48どころではない、すらっとした踊り子たちが稲穂の横で、道端で万とポーズをとっているのだから、ついつい見とれてしまう。
この踊り子達のグループ名は「彼岸花」だ。
 今日ひと日素直にあらむ彼岸花 明寛
この花は、「死人花」「地獄花」とも呼ばれ嫌う人もいるが、私は好きだ。何故好きなのか説明するは難しい。
赤色と天を向く花弁や蕊に心が高鳴るが、しばらくするとすーっと落ち着き素直な気持ちになる。
この気持ちは、般若心経を唱えている時と同じなので、彼岸花は般若心経と通じる。
私はそれほど信心深くはないが、毎朝、仏壇にお仏飯とお茶を添え、線香をあげ般若心経を唱える。仏壇には、私の父と妻の両親の位牌と遺影が置いてある。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時 」で始まる「般若心経」は、「色即是空、空即是色」の有名な言葉が書いてあるお経だ。
何を言わんとしているのかと、解説書を読んだこともあった。それは知りたいという知識欲を満たすためだった。
般若心経には「空」が7回、「無」が21回ある。まるでこの世の全てを否定しているかのように思えたが、そうではなくこの世はすべて「縁起」によって成立しているということを知った。
つまり「私」は、私以外の全てとの関わりがあるからこそ、存在しているということを学んだ。
私の仕事である医師業においては、生老病死はいつも目の前にあった。
まさにお釈迦様が悩まれた四苦との付き合いの日々だった。時には、こんな良い人になぜこんな病が科せられるのかと怒りに震えた。
その怒りを鎮めてくれたのも般若心経の「智慧」だった。
しばらく遠ざかっていた般若心経にもう一度向き合おうと思ったのは、2011年3月11日の東日本大震災の惨状を目にした時だった。
津波の被害、原発の人災、どれも阿鼻叫喚の世界だった。普段の生活を普段通りにできることの有難さをどれだけ強く感じたことか。
4歳の子が行方不明のお母さんに“ままへ。いきてるといいね おげんきですか”と、覚えたばかりの字で書いた紙の上で寝ていた姿は、私を再び「般若心経」へと導いた。しかし今度は意味を知ることより、「唱える」、「唱えたい」という願いに強く駆られた。
しかしこれがなかなか難しい。最初は276文字を見て唱えた。
しかし「無苦集滅道」「遠離一切顛倒夢想 究境涅槃」と文字をみると、意味を理解したい心がムラムラと湧いてきて「唱える」ことを邪魔した。
意味の分からないことを覚えるのは、これまでの医師の生活、科学的態度が許さないのだった。
しかし最近やっと、そうでなくなってきた。「摩訶般若波羅蜜多心経」から「般若心経」まで、276文字を「唱える」ことができる。
唱えて何になるか、何かいいことがあったかと尋ねられると返答に困る。
しかし唱え終わると、心身がすっきりするのだけは確かだ。特に「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆苛訶」の行では声が強くなる。
この部分が、呪文と知ったからだ。まさに子供が怪我した時に「痛いの痛いの飛んでけー」とか、雷が鳴るときに「クワバラクワバラ」という呪文と一緒で、今日を生きるのに肝要である素直な心になれる呪文だと思うと、愉快な心地になるのだ。
「般若心経」を唱えると、3人の親の遺影も安らかに見える。また診察室で患者さんと語り合う時、私も四苦八苦している人なんだからと、自然体になれる。
これからも毎日親の供養を兼ね、日々の世の苦の解放を願い、般若心経を「唱え」ていこうと思う。
秋彼岸、路傍の踊り子たちも、般若心経のひと文字ひと文字のように尊く思えた。





2014年8月20日(水)
「外泊の理由」  清川診療所 所長 坪山明寛

 6月に生まれた孫が2か月を過ぎた今、あやすと笑うようになった。
仕事から帰った時に遊びに来ていることがある。カバンを置くのもそこそこに声をかける。
「ここちゃん あそびにきたの」「ほらほらじ~じだよ」と、他愛もない声掛けだ。すると手足をばたつかせ、口元に笑みが浮かんでくる。
いや~嬉しい瞬間だ。心が通い始めたのだと思うから。
  赤子の目ほほの笑い初め月見草 明寛
 笑い顔を見ると、気持ちが和み疲れも癒される。赤子の純な笑いは尚更だ。
笑いと健康の関係については、さまざまな研究もなされ、その効果が明らかになってきている。
 私は病院にこそ笑いがあるべきと考えている医師である。
笑いにもいろいろある、微笑、爆笑、冷笑、嘲笑、苦笑、照れ笑い、愛想笑い、作り笑い、泣き笑いなど。冷笑、嘲笑は虐めにもなるので、ちょっといただけないが・・・。
 アルフォンス・デーケン先生の講演で「真のユーモアは悩みや苦しみのさなかで発揮される。ユーモアは笑顔や微笑で十分に表すことができる。
医師の微笑が消えると患者との連帯性も切れてしまう」という話を聞いた時に、医療者には笑顔が大切だと学んだ。
 病院という深刻な場所で笑うなんてとんでもない、という考えもあるだろう。しかし人は苦しみの中でも笑うということを、幾度も見てきた。
そしてその瞬間、その人は生きていることを実感し、生きていて良かったという合図こそ笑いだと思った。
 こんな方がいた。80過ぎのお爺さんだった。白血病の方で治療の限界がきていて、肺炎も併発していた。その方がある朝こう申し出てきた「先生、外泊したい」と。
私は病状から無理だと思ったが、無下に断るのは可愛そうだなと思い尋ねた「外泊して何するんかな」と。
お爺さんは答えた「葬式の写真を決めたいんじゃ」と。私は一瞬あっけにとられた、でもすぐに返事した「いいでしょう、行ってらっしゃい」と。
この方は死期が近いことを分かっており、葬式の写真くらいは自分の好きな写真を飾ってほしいという気持ちが分かったからだ。だが発熱したために帰れなかった。
その日の夕刻、私はお爺さんの個室を覗いた。帰れずにがっかりしているだろうなと思ったから。
でも、なんとその部屋から笑い声がしていたのだ。どうしたんかなと入ると、家族と一緒にアルバムを見ていた。
「どうしたんですか?」と尋ねると、「皆で葬式の写真を探しながら、昔のことを思い出し笑っているんじゃ」との返事だった。
お爺さんの顔は実にいきいきしていた。家族と伴に今という時を生きている喜びがあった。私は、人は死ぬ間際まで笑えるんだと確信し、笑いは生きている喜びの証だと確信した。
その後幾度も死ぬ間際の人の目に、口元に僅かながらも笑みを見ることができた。
 笑いの力を科学的に示した実験が、平成7年吉本興業で行われた。
吉野先生という方が、慢性関節リウマチの患者さんに落語を1時間聞かせた。患者さんたちは笑いこけたのは勿論ですが、痛みも和らいだのだ。
同時に血液検査をしたら、リウマチを悪化させるインターロイキン6という物質が、落語の前後で3分の一に減少していたのだった。
このように、笑いは人の体に良い刺激を与え、病気を防いだり治したりする免疫力を高めることがわかってきている。
そうそう女性が男性より長生きするのは、女性の方がよく笑うからではないかと私は秘かに思っている。
 待合室に笑いがあると、私はとても愉快になり、笑い声に誘われ診察室で一人笑いながら、さあ一日頑張ろうと元気をもらっている。
涙は悲しみを流してくれるが、笑いは生きる力を与えてくれると信じている。
これからも、たくさんの孫の笑いや患者さんの笑いに出会いたいと思っている日々である。






2014年7月26日(木)
「ふたつの命に出会って」  清川診療所 所長 坪山明寛

6月23日の朝、診療所に着いて間もなく携帯電話が鳴った。娘のお産の始まりを伝える妻からの連絡だった。
「そうか、頼む」と言って切った。診療を終えて産婦人科医院を訪れた。ベビーベッドに赤ん坊が寝ていた。
5人目の孫だ。体重2910gの女の子だ。孫は全員女の子だ。抱いてみた。いやあ小さい、かわいい、愛らしいと思った。
 産声の天空揺らす梅雨晴間 明寛
産後1週間目、娘と孫が我が家へ来た。居間に孫を寝かせた。その瞬間から生活の中心に孫が居た。
沐浴が帰宅した私の担当だった。久しぶりだったが、昔取った杵柄よろしくすぐに慣れた。
左手で両耳を押さえ、顔頭首、両手両足、お腹背中お尻の順にしっかり洗うと、見事な赤ん坊に変身するのがたまらなく嬉しかった。
新しき命を抱くと、喜びと深い感謝の心が体を包み、祖父として、この命を見守ろうという気持ちが湧いてきた。
 嬰児の声に皆向く夏座敷  明寛
さて孫の宮参りの日、遠方から知人が訪ねてきた。以前から知人の孫(しおりちゃん:仮名)の病のことで相談を受けていた。
いつも予断を許さない病状だった。最近電話がなかったので、安定したのかなと思っていた。
訪問は、知人だけでなく家族全員だった。知人の両手には、一人の子供が抱かれていた。
ああその子は私が相談を受けていた、しおりちゃんだった。しおりちゃんは、体が硬直し鼻からカニューレを挿入していた。
名前を呼んだが反応はなかった。私は一瞬戸惑い、知人にかける言葉を失った。
知人は言った。「相談をしていた子です。何とか命は助かりましたが、こんな状況です。あなたにひと目会って貰いたくて、皆で来ました。有難うございました」と。
その時しおりちゃんのご両親も頭を下げられた。私は「いやーお役に立てませんでした」と返事するのが精いっぱいだった。
しおりちゃんの頭をさすり、両足をさすった。医師としては、この子の病状の難しさが分かったが、虚空を向く瞳に曇りのない輝きを見、神はこの子を見捨てなかったのだから、きっと改善する日がくると信じた。
しおりちゃんの傍で、私の孫はすやすや眠っていた。その時、しおりちゃんのお母さんが「ああ、この子もこんなだったよね~」と呟かれた。
ご家族は「そうだったね~」と頷いておられた。知人は私に「みんなでこの子を見守っていこうと言っているんです」と言われた。
しおりちゃんを抱いている知人の腕は、太く逞しかった。私は自分の孫が、この雰囲気の中にいて気の毒だと思っていた。
しかし知人も家族もみんな明るく、孫の宮参りを祝福してくれた。病と闘う子を孫を皆で支え、希望をもって生きていこうという家族の絆、慈愛の心を間近にして深い感動を覚えた。
知人の帰った後、一編の詩を書いて送った。

しおりちゃん
あなたのお耳は聞いている
お父さんの声
お母さんの声
お兄ちゃんの声
お爺ちゃんの声
お婆ちゃんの声
あなたに寄りそう人の
ひと言ひと言を

しおりちゃん
あなたのお肌は分かっている
お父さんの温もり
お母さんの温もり
お兄ちゃんの温もり
お爺ちゃんの温もり
お婆ちゃんの温もり
あなたを大切に思う人の
優しい温もりを

しおりちゃん
ゆっくりでいい
声を聴き
温もりを感じ
ゆっくりお目目を覚ましてね
皆待ってるから
その日を


生まれたばかりの私の孫の命、生まれて生きている途上で病に倒れた知人の孫の命、この二つの命に出会い、命は関わりのある者に見つめられておればこそ、何物にも代えがたい意味と尊さを持つことを教えられた。
診療所を訪れる方々が、自分の命の尊さを感じてもらえるように、私はこれからも病む方々と関わりを深めていきたい。






2014年7月18日(金)
「静けさは心の緑」  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

そう言ったのは作家の城山三郎である。
「静けさは基本的人権の一つと言っていい。そこから文化も生まれる。住みよく美しい環境づくりに、静けさは不可欠のものである。(中略)静けさは心にとっての緑であり、肉体の生存のため緑が必要なのと同程度に、心の生存のためには静けさが必要なのである」。
僕がとても大事にしているのは、朝の静寂のなかで、一人で集中して黙々と絵を描くことだ。
窓を開放して明るい光を取り込み、庭に集まる小鳥たちのさえずりを聞きながら静かな時間に身を置いていると、沸々と情熱が湧いてくる。
以前、NHKの文化センターに1年間通って水彩画を習った。
習っていくに従って、絵を描く行為そのものが自分を離れてまるで第三者が描いているような錯覚を起こした。
静けさを友にして描くことが、心地よいものに変化していった。
長野県安曇野の「いわさきちひろ美術館」を訪ねたとき、小さな原画を見て色彩の美しさに感動した。
画集に決して表れることのない絵画の表情は、勢いで輪郭が壊れてしまった線さえも、ちひろの息遣いを想起させる。
本物の感動は、決して言葉や論理では分からない、到底言葉に置き換えられない世界だった。
どのようにしてこんな色彩を出したのか、乾く前はどんな色だったのか、どんな順番で描いたのか、この線は見事な省略だ、色彩の滲みはどれくらいの量を筆につけてどのように動かしていったのか、速度はどれくらいか、描き上げた時間はどれくらいか・・・さまざまな思考が駆け巡って、寡黙にならざるを得なかった。
感性を研ぎ澄まし、自分に自信を持ち、自分の世界を信じて表現したいと思うのはやまやまだ。だが、基本的な技術は絶対に必要だ。

学生時代、徹夜麻雀をすると朝帰りの頭の中で麻雀牌がグルグルと回っていた。
好きな曲を何度も聴いていたりすると、その後もずっと頭の中でその音が鳴っている。
想い出を手繰り寄せた時、その時の光景、光り、風、言葉、そんな余韻ともつかぬ残滓のようなものを貴重に感じる。
芸術を鑑賞するときに、様々なことが頭に入ってくると、自分がぐらついてしまい、本当に好きなものかどうかさえ分からなくなってくる。
高価という情報が頭に入ると、それだけで目の前の絵画は芸術性が高められ、自分はそういう目に見えないものに左右されっ放しである。
芸術を見る目は弛まぬ努力と経験や時間の経過、或いは心のありようによっても変化する。
芸術そのものに意味はあるのだろうが、自分がどう捉えるか、個の集合が多ければ芸術性は高められるかというとそうでもなく、市場という訳の分からぬものに振り回されているのではないか。
自分にとって価値のあるものを見つけるのは、ずっと努力を続けるしかない。
刺戟が無ければ成長も無い。
好みの度合い、目に見えぬものに対する評価基準、目も弛まぬ努力によって熟練に達する。
素人と玄人の目は、時に真逆でさえあり得る。
一つだけ言えることは、それぞれの段階で芸術を楽しむこと、何事も瞬時にことは運ばない。
人間は厄介だ。
美を浮き彫りにさせるには、対照としての醜を提示させなければならない。

絵を通した自己との対話は、心のそぞろ歩きを楽しみながらとどまることはない。
~立ちまじるとりどりの木に風ぞ見ゆ松は静けき青葉の山に~ 若山牧水
~たのしみは 艸(くさ)のいほりの 莚(むしろ)敷(し)き ひとりこころを静めをるとき~ 橘曙見
夙(つと)に起き、遅く臥して、「絵を描く日常」、心の緑を楽しみながら、そんな時間が欲しくなった。





2014年6月26日(木)
「新渡戸稲造の悲しみ」  清川診療所 所長 坪山明寛

”しとしとぴっちゃん・・”子連れ狼の歌詞のような今年の梅雨は、心が塞ぎがちになる。
何か明るい話題を書こうと思うが、昨今暗~い事件ばかり。
机に座り庭を眺めていたら、沙羅の花が、一輪す~っと音もなく、仄かな白い影をひいて落ちた。
 沙羅の花薄闇ゆらし落ちにけり 明寛
その瞬間書くことが浮かんできた。それは、ある日の診療所でのできごとだ。
その日は、ちょっと患者さんも多かった。風邪気味のお婆ちゃんの診察をした。肺の聴診をすると、呼吸するたびにブツブツと音がした。気管支炎?肺炎?と考え胸のレントゲンを撮ることにした。
撮影する前に、お婆ちゃんに「○○さん、大きく息を吸って、止めてと言いますからね、その通りにしてください」と言った。
「はい」の返事を待ったが無言だった。あれ?耳は遠くないはずだが・・と思いつつ、近くに寄って「○○さん、分かりましたか」と大きな声で言った。
やっぱり返事がない。更に大きな声で「○○さん 聞こえますか?」と言った。
その時お婆ちゃんは、私の方に怪訝そうに顔を向けて「○○さんて誰ですか?」と言った。
そう、この方は□□さんで、○○さんはこの方の前に診察した方だったのだ。
すぐさま「ごめんなさ~い、間違えました」と謝り、あらためて「□□さん、息止めてと言いますからね、しっかり止めてください」と言ったら、「はい!」としっかりした返事が返って来た。
撮影終了後「名前を間違って御免なさい」と言うと、ニコニコしながら「大丈夫です、先生も患者さんが多いから、大変ですね」の優しい声。
ああ、こんなうっかりミスをするとは、情けないと反省し、その後レントゲン撮る時には、カルテで名前を確認するように修正した。さて私の失敗談を読み、笑って梅雨の重苦しさが晴れたと願うばかりです。
ところで謝罪といえば、最近都議会議員が、女性議員に言うべきでない野次を飛ばす出来事がありました。
世の中の糾弾を怖れてか、発言者はしばらく名乗りをあげませんでした。私はこの事態に、新渡戸稲造の著した『武士道』のことを考えていました。この本は、新渡戸が日本文化の根底にある「武士道」を多方面から分析し、西洋社会に大きなインパクトを与えた本です。
この本には、義・勇気・仁・礼・信・誠・名誉・克己・切腹・刀・武士の魂などについて書かれている。この本を読むまでは、武士道について「武士道と云うは、死ぬ事と見附けたり」という「葉隠」のフレーズでしか理解していなかった。
この新渡戸の「武士道」を読み、武士の生きざまを支えていた哲学が、現代社会を生きる私たち日本人にも流れ、大事にしなければならない教えもあると知ったのだった。
そういう立場から今回の野次を考えると、私は都議の野次は言わずもがなだが、それよりも名乗りをあげないことに腹がたったのだ。
日本人は古来名誉を重んじ、恥を知る国民のはずだ。日本は言論の自由の国だから、自分の野次に自信があるなら、堂々と名乗り出て野次の正当性を語ればいい。また間違いだったと認めるのなら、潔く謝罪すればいい。どっちもせずに、隠れてだんまりを決め込む態度は、日本人が忌み嫌うことだ。何故なら新渡戸の「武士道」に説かれている「ノブレス・オブリージュ(社会的リーダーの義務)に反する行為だからだ。
野次った都議は、社会的責任ある立場にある自覚と責任感が欠けている。こんな大人社会を未来を担う子供にどう説明すればいいのか、困惑するのみだ。
皆さん方の長雨の憂さを晴らそうと思い筆をとったが、怒りの文章になってしまった。
最後に「武士道」の一節を記載します。
「わが櫻花は、その美の下に刃も毒も隠しておらず、自然が呼ぶときにいつでも生を捨てる準備ができている。」
桜の清い美と潔さに乾杯!






2014年6月19日(木)
「クライミング」  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

山岳技術講習会に参加した。
延岡市から30分くらいだろうか、高千穂へ行く旧道をしばらく走り、右折して3Kmくらい行くと比叡山登山口駐車場に参加者が待っていた。
今回の参加者は18名くらいで、先ずは初心者向けの50mくらいの岸壁を登攀して練習する。
初心者向けの講習会といっても、高さもあるし、角度もある。命懸けで壁に取り付き、真剣に登っていく。
どうして僕はここに来てしまったんだろう、そんな後悔の気持ちが頭を過る。
破れそうな心から悲痛な叫びが洩れてくる。右足は震えないが、左足はずっと小刻みに震えている。
ビレイ(確保)されているといっても、恐いのは恐い。足の震えはまだ止まらない。
かなり登った場所で、前にも進めないし、下にも降りられないという状況に陥った。
荒い呼吸を繰り返しながら、ビレイされてるから落ちた時は落ちた分だけまた登ればいいと、半ばやけくそな気分で小さな岩の突起に足を掛ける。
力を入れてすっくと立ち、やや上方の岩をつかんで全身を確保する。ああ、落ちなくて良かった。
ゴム製のクライミングシューズは、足にぴったりフィットして、爪先が痛いくらいがちょうどいい。

大きな問題、小さな問題が目の前に立ちはだかる。それらを解きながら、少しずつ登って行く。
神経は研ぎ澄まされて、ゴールまで到達したいという執念と集中心は恐怖心を凌駕する。
登り切ったら、声をかけてすぐに下降する。やっと下まで降りても、足は地に着いていないようだ。
しばらくして再び2回目の登攀練習をし、死に物狂いで登り、そして下降する。
一通り終えて、これから本格的な比叡山への登攀をするために、一旦林道に降りて南斜面の取り付きに登っていく。
今度はピッチが長く、もっと垂直だし、登りにくいようだ。Aさんがリードしてスイスイと登っていく。
フォローはセカンドが僕で、サードがNさん。少しずつ慣れてきたが、まだ足が震えており、次への体重移動がスムーズではない。
背筋を伸ばして立ったり、這いつくばったり、肩で息をしながら登る。
ずっと下を見ていない。下を見ると、たぶん恐怖心が勝って登れなくなる。

上からカラビナが落ちてきて、僕の左肩に強く当たった。顔を上げてなくて良かった。
以前、阿蘇根子岳の岸壁を懸垂下降して下で待っていた時に、次に下降している人が大きな岩を落とした。
自分が待機していた3m前にドスンと落ちた。もしそれが岩に当たって跳ね返ったら即死だった。
登山人口が増えている。比例して事故や遭難も増大している。
それらの殆どが安易な思い込みや判断ミスによるもので、自然を甘く考えている。
自分で考えようとせず、安全を他人に任せ切っているケースも多い。
何でもそうだが、他人に委ねるのではなく、自主的に考え、山では自分の命は自分で守っていかなければいけない。

第1ピッチが終わり、そしてまた第2ピッチが始まる。今度も同じような登りで、上を見る限りは掴みようのない岩に思える。
それでも登っていかなければならず、後戻りは出来ない。ルートファインディングで分からない時は、トップでビレイしてくれているAさんに聞く。
僕にとってはどのルートも進めない気がするが、Aさんの言葉で自信を持って進むことが出来る。
やっと次のテラスに辿り着きアンカーにセルフビレイし、それでも下を見ないようにする。
次に登っているNさんの体調はかなり悪いようで、途中で嘔吐した。筋肉の急激な酷使か、とても心配だ。
今まではセカンド、サードも2本のロープで登ってきたが、Nさんの状況を見てAさんが変更し、1本のロープでビレイしながら登っていく。
登る角度が幾分和らいできて、心理的負担が少し軽減される。
次のテラスに登る時に、大きな岩を持ったらグラグラと動いた。浮き石だ。
これを落としたら、下から登ってくる人を直撃するかもしれない。
第4ピッチ、第5ピッチと登っていく頃は、足の疲労がピークに達した。予想しなかった負荷量だ。
長距離を走ったり、スクワットやレッグプレスで足を鍛えてきたつもりだが、筋肉の損傷は甚大だ。
腕も足も萎えた状態だが、ピークに到達しなければ降りる方法は無い。
我慢しながらやっとピークに着いて昼食。

こんなに安堵したことは無い。緊張からの解放は実に晴れ晴れとしている。
もうここに来ることも無いだろうと思った。
昼食を終えて、1本のロープで3人をビレイしながら比叡山山頂まで歩く。危険な箇所が多い。
山頂には久留米の山岳会の人たちがたくさん登って来ており、写真を撮ったり撮られたり。
持参していた地図の著者のAさんを前にして、Aさんは記念撮影で大もてだった。
下山してやっと落ち着いた。足も腕も疲れた。
僕にとっては恐ろしくもあり、痛快でもあり、積年の夢を果たした最初で最後のクライミングだった。





2014年5月27日(火)
「メダカの家族」  清川診療所 所長 坪山明寛

私の働いている診療所に可愛い仲間が増えた。診療の合間に、その仲間を見ていると癒され元気を取り戻す。
土日と二日も会わないと、元気かな、病気にならないかな、気になる。よく見ると目がパッチリと大きく、スマートな美魚だ。
そうです、仲間とはメダカです。患者さんから頂いたのだ。
私が小さい頃は水路にたくさんいたが、最近はとんと見られなくなり、ついに平成11年2月絶滅危惧種になった。
そう考えると、ひとしおメダカ達が愛おしく思われる。メダカと言えば、すぐ思い出すのが唱歌「メダカの学校」だ。確かに水槽のメダカを観察していると、歌詞にある「~みんなで元気に遊んでる」のように、すいすい泳ぎ遊んでいる。ある時は、家族のようにまとまって語り合ったり、水草の根っこに休んでいる。とても元気なメダカ家族だ。
家族と言えば、健康に生きる上でもっとも大事な要素だと思う。子供は勿論大人にとっても家族の力は、健康な生活に欠かせないと私は考えている。
特に心の健康にとって大きな力を発揮する。生きる上で様々な悩みが人を襲ってくる。この悩みを抱え込んでしまうと、体にひずみが生じ心身の健康を損なってしまう。この悩み事(愚痴)は、外に発散することが大事で、ため込むと災いの元だ。発散するのは、故郷の山や川を相手でもいい。でも信頼できる人に語り聴いてもらうことが最も効力がある。友達でもいい、でもその場合少しお金がかかります。お酒代やケーキ代など・・。一番いい相手は家族だ、お茶一杯飲みながら聞いてもらえるから。
相田みつをさんの詩に「ぐち」という詩があります。

 ぐちをこぼしたっていいがな/弱音を吐いたっていいがな/人間だもの/たまには涙をみせたっていいがな/生きているんだもの 

私は、家族とは「ぐち」をタダで聞いてくれる人達と思う。一人暮らしの場合でも、電話や手紙でもいいから、時々愚痴をこぼすことは、健康作りの秘訣だと思う。子供にとっても家族の存在は大きいと思う。
最近「子は親の鏡」という詩を知りました。作者はドロシーという方です。そこには20個の警句が記載されている。たとえば「とげとげした家庭で育つと、子供は乱暴になる」「愛してあげれば、子供は人を愛することを学ぶ」とあります。この詩を読むと、いかに子供の成長に家族・家庭が重要な存在かが分かる。私は家族の力を考える時に「おふくろの味」も重要だと思っている。私の世代は、小さい頃貧しかったが、毎朝目が覚めると、炊事場からおふくろがトントンとまな板をたたく音が聞こえ、味噌汁の匂いがしてきた。私もこれまでいろいろ悩んだ時に、故郷を思い浮かべることがあった。その時は、この「トントン」と「味噌汁の匂い」が浮かび、「おふくろさん、頑張るわ」と乗り越えられたこともあった。
しかし最近は夫婦共稼ぎが多くなり、時間的ゆとりがなく、冷凍食品の登場が多くなってきた。冷凍食品には電子レンジがつきものだ。
今の子供たちが将来困難に突き当たった時、思い出すおふくろの味には、あの電子音「ち~ん」が思い出されることになる。この音が生きる力を与えることができるか?なかなか難しいように思える。このレンジによる料理は、別名「仏壇料理」とも言われている。私は「ち~ん」より「とんとん」の音にこそ、子供を守り育てる力、家族の力が象徴されていると思う。多忙複雑な現代は、このようなゆとりを許してくれませんが、子育て中の親御さんには、可能な限り子供達の脳裏に、いや心に「おふくろの味と音」を刻んで欲しいと願っている。
ひょんなことから、水槽のメダカ達も診療所での家族になった。朝夕には「おはよう」「じゃあ、また明日」と挨拶する。
でもエサは、残念ながら“お袋の味”ではなく、出来合いのものですが・・。





2014年5月13日(火)
「つがいの燕達」  清川診療所 所長 坪山明寛

それは4月7日、診療所に到着した朝だった。
電線に二羽の燕がいた。
つがいだろうか?南国から渡って来たのかな?越冬つばめかな?と想像しつつ見つめていた。
燕は首を傾げて私を見ていた。
「おはよう」と声をかけたら郵便局の方へ飛んでいった。
  御空あり燕尾つややか朝燕 明寛
燕は「越冬燕」だと思った。長旅後にしては疲れている風もなく、燕尾服も艶やかだったから。
温暖化のため、西日本で越冬する燕もいると聞いた。でも今冬は、清川でも大雪が降った程の寒さ、さぞかし辛く、森昌子の「越冬つばめ」の歌詞‟季節そむいた冬のつばめよ 吹雪に打たれりゃ寒かろに ”そのものだったと思われ、お早うではなく「大変だったね」と言ってあげたらよかったと反省した。
また燕は、清川で子育てをするんだろうなと思うと、「頑張れよ」と声をかけてあげればよかったとも思った。
燕の行方を追っていたら、隣の幼稚園から子供の声が聞こえてきた。時々帰る時に、園庭で遊んでいる子供達に声をかけられることがある。
「チューリップが咲いたよ」「ばいばーい」とたわいもない言葉だが、仕事を終え帰る身には心がほぐれ、値千金の言葉だ。そう、純な子供には不思議な力、癒しを感じる。
  啓蟄や手足はじける園の庭  明寛
私には孫が4人いる。今年次女に孫が生まれるので5人になるが、この子も女の子だとの知らせがあったので、孫は全員女の子になる。
私は特に気にしていないが、次女がある日「お父さん達に謝らなければいけない」と言ったので、流産したのかなと心配したら「女の子だった」と言われた時には、ほっとすると同時に、これまでの会話でプレッシャーをかけていたのかなと反省した。
孫の話になったが、孫の成長を見守ることは、私の生きがいの一つでもある。
「孫は可愛い、目に入れても痛くない」と巷間言われる。依然流行った大泉逸郎の歌にも「なんでこんなにも可愛いのかよ 孫という名の宝物・・」と書かれている。
住民の健康に関するアンケート調査で、「あなたの生きがいは何ですか?」という問いに、仕事、趣味に混じって「孫」が上位にあった。当時は孫がいなかったので、そんなものかなという印象しかなかった。
孫を持ち、孫と語らい遊び、育ちを見守っている今、孫を生きがいにすることが分かる。
遊びに来ると、本を読んだり絵を描いたり、遊園地で遊び、馬になれと言われたら馬にもなる、お風呂場でお店屋さんごっこにも付き合う。
遊んでいる時は感じないが、孫達が帰ると疲れがどっとくる。それでもまた逢える日が待ち遠しい。孫は可愛い、理由はどうでもいい。可愛いものは可愛いのだから。
孫への思いを詩に綴ったことがあった。

「孫」


書けばひと文字
まご
読めばふた文字
ちいさな存在である

見つめられ
語りかけられ
駆けよられ
抱きつかれると
途方もなく
おおきな
おおきな存在である

     坪山明寛

これからも電話し葉書を出し、育ちを見つめていくことを、生きがいの一つにして、医師の仕事を続けていこうと思う。
さてこんなことを物語るきっかけになった燕が、診療を終え帰宅する時、つばめ返しさながらに飛び回っていた。燕達の安寧な子育てを祈りながら帰途についたのだった。







2014年4月18日(金)
「水仙」  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

中学生の頃、友達と自転車でよく県立図書館に出かけた。
親には勉強に行くからと言って出かけるのだが、もちろん目的はそうではなくフォークソングを聴きにいくのだ。
後年、フォークソング狂いのバカ息子という台詞の入った歌がヒットしたが、僕は苦笑せざるを得なかった。
レコード・ライブラリーにはいくつかののブースがあり、申し込みをするとLPレコードをターンテーブルに載せて聴かせてくれる。
高級そうなヘッドフォンを耳に押し当てて、つい大声になることもあった。
よく聴いていたのが、Brothers Fourのレコードで、そのLPの中に「七つの水仙」(Seven daffodils)という歌があった。
清潔で丁寧な歌い方、落ち着いたメロディー、それでいて単純なコード進行だった。
daffodilという単語が水仙というのも初めて知った。
余談だが、歌が好きになれば当然歌詞の意味を知りたくなってくる。
Beatlesの歌を訳し始めたのは、高校時代だった。友達と一緒に歌の大意を察して、意訳していくのが楽しい作業だった。
正解のある物語を訳すのではなく自分たちの感覚で決めていくわけだから、楽しいに決まっている。
でもそれが学習に役立ったとは思わないが、困難な語句は今でも覚えていて、あの歌のあのフレーズと共にその時の情景を思い出す。
友達3人が集まって、ギター2本、コントラバスで、「七つの水仙」を演奏した。
僕は一応リードギターなのだが、俄仕込みのコピーなので、全く自信が無い。
ボーカルの友達は丁寧な歌い方で、とても上手だ。ベースは時折半音が上がったり下がったりする。
それでも僕たちは楽しかった。
「七つの水仙」は貴重な青春の一コマだ。

マグナ・カルタ。1215年、イングランドのジョン国王によって制定された憲章であり、国王の権限の制限を内容としたものだ。
君主制から脱却し、国王の実体的権力を契約、法で縛り、権力の行使には適正な手続きを要するといった諸則は、現在の法の支配へ移行する画期的なものとなった。
現在では成文憲法が多いが、イギリスに代表される不文憲法も弾力的で羨ましいと思ったりする。
下記九章は、開高健が週間プレイボーイの編集長に贈ったもので、今も出版業界のなかではバイブルとされている。
「出版人マグナ・カルタ九章」 開高健
①読め。
②耳を立てろ。
③両眼をあけたままで眠れ。
④右足で一歩一歩歩きつつ、左足で跳べ。
⑤トラブルを歓迎しろ。
⑥遊べ。
⑦飲め。
⑧抱け。抱かれろ。
⑨森羅万象に多情多恨たれ。
補遺一つ、女に泣かされろ。
右の諸則を毎日三度、食前か食後に暗誦、服用なさるべし。
御名御璽

茅ヶ崎の彼の自宅は今は記念館となり、この原稿が展示されている。
玄関の前に大きな石があり、「悠々と急げ」と書かれている
。 そういえば彼はアイザック・ウォルトンの言葉を引用して、よく色紙に書いていた。
”Study to be quiet.”(穏やかなることを学べ)
庭に咲き誇る水仙は、越前の方から送られてきたものだ。
水仙の日本三大群生地の一つである越前岬水仙郷は、空と海と丘と水仙の風景である。
開高はこの地に何度も足を運び、花を愛で平和を愛した。

時は流れて、歌人の俵万智もこの風景に魅せられてふるさとのように愛し歌を作った。
海鳴りに耳を澄ましているような水仙の花ひらくふるさと 俵万智
そういえば、長野を旅した時に、藤村がよく通ったという千曲川の中棚温泉の宿に宿泊した時に、俵も同宿していた。
彼女の色紙にはこう書いてあった。
「この味がいいね」と言ったから 七月六日はサラダ記念日
「寒いね」と話しかければ 「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

こうやって水仙を見る度に思いを巡らしながら、心の旅を続けている。






2014年3月28日(金)
「山桜」  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

うなばら を こえ ゆく きみ が まながい に かかりて あをき やまとくにばら
(海原を 越え行く君が まながいに かかりて青き 大和国原)      会津八一
以前、佐伯市米水津村の元越山に登ったことがある。春の光は穏やかで、鶸萌黄(ひわもえぎ)のがくを付けた山桜は、薄桜(うすざくら)の花びらを開花させていた。
丘に登るような明るく開けた山道は、照葉樹林帯に特有な、緑の葉っぱが光っていた。
振り向けば青い海が見えた。美しい入り江から漁船が波を曳いている。
頭の中にメロディーが繰り返されていた。
  みかんの花が 咲いている
  思い出の道 丘の道
  はるかに見える 青い海
  お船がとおく 霞んでる
米水津湾の入り江に、居立海岸というところがあり、神武天皇が小浦に上陸した際に、その海岸で弓矢を穿ったところ、水が出た。
水と米を補給し再び出立した。米水津という地名はそこからきており、津は船が停泊する場所という意味だ。
山頂からの絶景を眺めながら、八一の歌をなんとなく思い出していた。君とは神武天皇のことである。
元越山は一等三角点だが、全国には970点も存在する。
必ずしも山頂という訳でもなく、風格のある山容、優れた眺望、高い知名度、概ね1,000m以上が基準である。
深田久弥の日本百名山が有名だが、一等三角点百名山というものもある。選定は、上記基準によるが、大分県は英彦山、由布岳、久住山、祖母山の4山である。
残念ながら標高が足りないらしく、元越山は入っていないが、国土地理院の技官が、日本の四大展望地に挙げたというエピソードもあるほど美しい。
国木田独歩が佐伯に赴任していた頃(明治26年)、彼はこの山に登り、「欺かざるの記」に感嘆の文を記している。
「山嶺に達したる時は、四囲の光景余りに美に、余りに大に、余りに全きがため、感激して涙下らんとしぬ。ただ、名状し難き鼓動の心底に激せるを見るなり。太平洋は東に開き、北は四国の地、手に取るがごとく近くに現れ、西および南はただ見る山の背に山起り、山の頂に山立ち、波のごとく、潮のごとく、その壮観無類なり。最後の煙山ついに天外の雲に入るがごときに至りては・・・」

花ざかりの山、そう呼ぶに相応しい風景が、ここ豊後大野市には点在する。
千歳町から犬飼町に抜ける中九州道路を走らせていたとき、息をのむ山肌の美しさに出会った。
まさに独歩同様名状し難い風景だった。
山容を深緑(ふかみどり)が蔽い、生命の息吹を感じる青葉のグラデーションが滔々と流れている。
淡萌黄(うすもえぎ)、薄萌葱(うすもえぎ)、若緑(わかみどり)、浅緑(あさみどり)、薄緑(うすみどり)、若菜色(わかないろ)、若苗色(わかなえいろ)等々。
その中で弧を描くように、桜色が広く点在する風景は、絶句するばかりだった。
華やかな猩猩緋(しょうじょうひ)、山吹色(やまぶきいろ)の紅葉も美しいが、僕は緑の美しさに加えて生命の躍動の美しさを感じさせるこの季節が好きだ。

元越山。あの頂を踏んでから随分と歳月が流れた。
再び耳にしたのは山岳会の仲間の登山報告だった。
また、あの日に戻りたくなった。
誰もいない早朝に、ひんやりとした外気の中を一人で登ろう。
そうだ、あの日の山桜は今も咲いているだろう。






2014年3月28日(金)
「生きる形」  清川診療所 所長 坪山明寛

桜の開花宣言があり、春本番の季節が巡ってきた。歳時記を紐解くと「麗、風光る、山笑う、雲雀・・・」等が目に入り心うきうきする。
雲雀といえば、久しぶりに雲雀の囀りを聞いた。青空から降り注ぐ囀りは、辺りを清めているかの如くあり、私もその鳴き声を全身に浴び清しい気持ちになった。
  囀りの四方すがしく雲雀野や 明寛
雲雀の囀りを聞き、最近診療所で出会い、生き方について教えられた人を思い出した。
雲雀は、私達に春を告げるために囀っているのではない。雲雀の子孫保持のために、求愛行動として、抱卵時期に卵を守るために囀っているのだ。
この行動は、遺伝子に組み込まれていることに加え、親の教えに裏付けされた生き方なのだ。春が来ると、雲雀は淡々と迷うことなく囀る。それが雲雀の生き方なのだ。雲雀の囀りを聞いていると、その一生懸命さに心が揺さぶられる。身に着いたこと、生きる形を必死に守る姿に感動さえ覚える。
さて私は、一生懸命生きるとはどういうことなのか、生きる形を持つことはどういうことなのか、をある日の診察室で教えられた。
ある日、高血圧のお婆ちゃんの診察をした。前回診察の時に、家庭血圧を測ってくるようにお願いしていたので「血圧を測ってきたかな?」と尋ねた。「はい」とお婆ちゃんは答え、バッグから手帳を取り出した。あれ、広告紙の裏でもいいよと言ったはずなのに、まさか買ってきた手帳に記録してきたのではないだろうな、と心配になった。
そう思わせるような立派な手帳に見えた。表紙に「血圧帳」と書かれていた。文字は印刷でなく手書きだったので、手帳が手作りと分かった。
一枚めくった。そこには定規で引いた線がきちんと並んでいて、日付、朝・夕、血圧値の欄があり、家庭血圧の記録が丁寧な字で書かれていた。表紙の裏には、赤い字で広告の品が書かれていた。この手帳は、紛れもなく広告紙で作られた手作り手帳だった。これまでも広告紙を雑に切ってホチキスで止めたり、輪ゴムでまとめた血圧記録用紙はあったが、この手帳は違っていた。
用紙の縦横が、一寸の狂いもなく揃っていた。背表紙には緑色の紙が当てられ糊付けされ、まさに製本されていたのだ。驚きと感動を沈めつつ「これは誰が作ったの?」と尋ねた。お婆ちゃんは「主人」と落ち着いた眼差しで答えた。そしてこう付け加えた「最初は広告紙の裏に走り書きしていた。それを見ていた主人が、それは何なのかと聞いたので、先生に見せると言ったら、それはいかん、先生に見せるのにそんなものを持って行っちゃいかんと作ってくれた」と。
経緯は分かったが、誰もがこれ程の仕事ができるものではない、と思う程の精巧な手帳だったので、「ご主人のお仕事は何ですか」と尋ねた。
「80過ぎたから、今はしていないが、昔は建具屋だった」と言った。建具屋は障子・襖・扉・家具などを、一寸の狂いもなく作る技を持つ仕事人だ。ちょっとでもずれがあると、いわゆる建てつけが悪くなる。私は「なるほど」と合点がいった。しかし、血圧を記録する広告紙なのに、こんなに手をかけてなくても・・と思いかけた。でもお婆ちゃんが「今でも昔使った道具はきちんと整理し、いつでも使える状態だ。
部屋もきちんと整理し丁寧に生きている。私と違って・・・」と言うのを聞いた時、端正な姿で丹誠を尽くし日々を生きている老人の姿が思い浮かび、生きるとはこういうことなのだ、一生懸命に生きてきた生き方は、身に沁みつき、たやすくは崩れないのだ。私は改めてその手帳を手に取り撫でまわした。丹精こめられた手帳は質素な中に気品を放っていた。私は、恐れ入りましたと呟いた。
清川の地に筋のある生き方をしている方がいるのを知り、揚雲雀の囀りを聞いた時のような、清しさを覚えたのだった。






2014年3月4日(火)
「待つこと」  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

先日、教育界の方とお話をした。その中で心を動かされることがあった。
教育の最前線で働いている人たちは、周知の通り理想と現実の間で様々な苦悩を抱えている。
性の低年齢化、いじめ、学級崩壊、モンスターペアレント等々。
その方は、家庭において、小学校において、いつも「待っている」と言われた。待つことを自分の規範として考えていると言われた。
子育ても、しっかりと待つ。相手のことを絶えず気にかけて、慌てなくていいよと笑顔で伝える。
それは信頼を確認し合うことなんでしょう。
「あなたを信じているよ、急がなくてもいいよ、一緒に歩いていこうね。」
「待ってたよ、待ってるよ、待つよ」。とても優しく愛情あふれる言葉だと思った。

お父さんが夕方に帰ってきて、子供たちと一緒にお風呂に入り、そのはしゃぐ声を聞きながら妻は料理に勤しむ。
そこに拡がる風景は、かつて僕たちが経験した豊かな日本の原風景です。
少なくなったけれど、そんな風景の中で子供たちを育てることが、どんなに素晴らしいことか。
「今日はお友達とこんなことを話したよ、今度そのお友達を家に連れてきていい?」
豊饒な時間のなかで繰り返される親と子の会話は、大人になってもかけがえのないシーンとして胸に刻まれていきます。
「いただきますを言おうね、それはお魚の命を自分が引き継ぐことで、感謝しますという意味だよ。」
「そのお箸の持ち方はこうすると持ちやすいよ、やってごらん。」
「お口を閉じてたくさん噛もうね、いい姿勢で食べてるね。」
躾という財産を子どもたちに伝え、しっかりと成長させてあげたいと思わない親はいません。

僕たちは忙し過ぎていないだろうか、そんな反省の念が頭を過る。
採算、効率を重視し、多様性を認めず、自立の心を育てることを見失っていないだろうか。
僕たちの故郷の先人である福沢諭吉は、「独立自尊」を説いた。その理念は、今も慶応学舎に引き継がれている。
彼は「福翁自伝」の中で、こう述べている。
「・・・国勢の如何は果して国民の教育より来るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコデ東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較してみるに、東洋になきものは、有用において数理学と、無形において独立心と、この二点である。」
彼がそう考えたのは、「一身独立」の考えを持っていたからに他ならない。
「一身独立して一家独立、一国独立、天下独立と。其一身を独立しむるは、他なし、先ず智識を開くなり」と書いている。
そして、彼は実践の人であった。「学問とは、唯難しき難き古文を読み、和歌を楽しみ詩を作るなど、世上に実のなき文学を云ふにあらず。」
実学の人であり、「学問と生活との結合、学問の実用性の主張自体にあるのではなく、むしろ学問と生活とがいかなる仕方で結びつけられるかという点に問題の核心が存在する」と、丸山真男も評価している。
丸山は『「である」ことと「する」こと』の中で、福沢の「日々のをしへ」の一節「本を読み、物事を考へて世間のために役に立つことをするはむつかしきことなり」を引用し、「である」価値から「する」価値への転換を促し、福沢を評価しているのだ。

今の日本はどうだろう。評論家ばかりの横行には辟易している。
自分たちができる方法で、たとえ小さなことからでも始めてみたいと思う。
そんな方を応援したいと思う。
そして、何より故郷の先輩、福沢諭吉を本当に読んでみたいと思わずにいられない。





2014年2月26日(水)
「雪の日の考えごと」 清川診療所 所長 坪山明寛

2月13日だった。昼食を取り始めた時は霙だったが、食べ終わる頃には隣の保育園の滑り台がかすむほどの雪になった。
でもでも翌日診療所を休診にするとは思いもしなかった。
明けて2月14日、自宅ベランダから見た大分市内は銀世界に変貌し、新聞取りに玄関を開けた途端不安がよぎった。
10センチ程の雪が道路一面にあり轍の跡はなかった。当然新聞受けは空だった。今日の診療は・・・何とか出かけようと準備したが、清川町は更に雪が深いとの情報。仲間の医師や看護師と相談して休診とした。
利用者の皆様にはご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。
しばらく窓から庭を眺めていた。水分の多い雪らしく、木が必死に撓んで耐えていた。
枇杷の木の撓みて撓む雪の朝 明寛
いつの間にか唱歌「雪」を口ずさんでいた。雪は童心を呼び起こすものらしい。“雪やこんこ 霰やこんこ ・・・山も野原も 綿帽子かぶり 枯れ木残らず 花が咲く”目の前の景色はまさにこの歌詞の通りだった。
二番を歌っていてふと考えることがあった。“犬は喜び庭かけまわり 猫は火燵で丸くなる“のフレーズがある。犬は子供のように元気で健康そのものだが、猫は高齢者のように動かず不健康のように思えた。でも健康とは、犬のように体力のあることで、猫のように体力のないことは、不健康なのかという疑問が湧いてきたのだ。
長年診療をしながら、健康とは何だろうと考えてきた。医師になった当初は、世界保健機構(WHO)の健康の定義が染みついていた。
「健康とは身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない」と書かれている。
つまり健康は、病気でなければいいのかと言うとそうではない。体力や知力もしっかり保たれ、人間関係も豊かで、精神的にも落ち着いている完全に良好な状態だというのだ。
だがこのような健康観が、医療の進歩があり高齢社会となり、服薬し体の障害を抱えながら生きている方が多い現代に、当てはまるとは思えない。何故か?現代社会は、WHOの定義する「完全に良好な状態」からはほど遠いと思うから。
では今の時代の健康とはどういう状態を示すのか?私は診療する時、目の前に座っている方が、今健康なのかそうでないのかについて、次のように考えて判断する。
健康とは、人生において自分のやりたいことをやり、自分の心に満足・幸福・喜びを感じるための手段であり、健康は人生の目的ではない。たとえ肉体的、精神的に不具合(病)があっても、今生きていることに満足し、家族や地域の方と話をしたりすることに幸せを感じ、仕事や趣味に喜びを味わい、一日の中で笑うことがあれば、その人は立派に健康だと考えている。
だから私は診察の時に、「毎日何をしていますか」「笑うことがありますか」と尋ねることが多い。その答えに「毎日野菜つくりをする」「旅行に行く」「押し花や大正琴を習っている」「サロンにでかける」等と答える方は健康と判断する。
その一方、「何もすることがない」「早く迎えが来ないかなと待っている」等と答える方は、不健康な人と考え、いろいろと生活のありようについて話す。
さて炬燵の中の猫は健康ではないのか。寒さから身を守り、家の主の話に耳を傾ける好奇心を持ち、時に手足を伸ばし、心は安らぎ幸せな笑み浮かべているのであれば、猫も立派に私の考える健康だと言える。
あれこれ考えていたら、「遊んでよ」と雪の誘いが聞こえてきた。雪に体は閉じ込められたが、小さな雪だるまを作る遊びをし、冷たい中にも心が弾み愉快になってきた。
心の持ち方、心のありようこそ、健康を生み出し、人生を有意義に愉快に生きる原動力だと確信した雪の日だった。





2014年1月25日(土)
私のお気に入り「精神生活〜読書と日々」岩尾淳一郎  三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

僕にとっては大変な本であった。
長い間心の底に払拭できない蟠りを抱えながらも、絶えず何かを探し求めていたのは、自分にとっての 文学だったと思う。それが僕にとっての探しものであり、余暇における学びであり、いとも簡単に疑問符を投げかけて返答が出来たとすれば、これほど嬉しいものはない。
また、与えられた命題に対して己の中で燃える血をもって醸成していくことは、これはこれで更なる楽しみの一つであるかもしれない。

以前、岩男氏が選挙に出馬した時は、何か違うのではないかという違和感を覚えたものだ。
しかし、夏目漱石が南画を愛し隠遁の作家でありたいという願いがあり、奇しくも岩男氏の夢と合致したことは二人ともに共通して人間世界への鳥瞰的な視点をもっていたことにならないか。
そういう意味で政治と結びつかない独とした人間観が窺えたからである。
岩男氏の文章は精緻であると思う。
精神の流れは緩やかであると思う。
言葉を大切にしていることが 嬉しいかぎりだが、井上究一郎氏との出会いで、言葉の感覚を磨くには日本古典文学やとりわけ王朝文学の熟読を勧められた。
そして、「小説を書きなさい」と。
とにかく、本好きにはたまらない一冊であると思う。ベストセラーが店頭にいくら並んでも、それらの本がどれだけ残っていくかと思うと暗澹たる思いである。
氏が書いているように名作というものは 忽ちにして絶版となる。
一企業としての書店を考えれば、間違いは無いのだろうが、文化として また日本人の精神史に繋げるものとしてとても慚愧に堪えない。
由布院から送り続ける精神文化は、洒落てしかも普遍である気がしてならない。
氏の本がバブル全盛の時代に出版されたことも驚きである。
いつの時代にも「人」はいる。





2014年1月24日(金)
「お正月に思う」  清川診療所 所長 坪山明寛

「みなさま明けましておめでとうございます」。ご家族皆様で良き新年を迎えられたことでしょう。
清川診療所に勤務し始めて、8か月を迎えました。住民の皆さまのご支援を得て、この診療所で新しい年を迎えることができ、心から感謝申し上げます。
今年は午年であります。馬の瞳は大きく澄み癒されます。
私どもの清川診療所・きよかわリハビリテーションセンターもみの木・きよかわ介護サポートセンター三つ葉が、澄んだ馬の瞳のように、皆さま方の癒しの場・安心できる拠り所となるように、職員一同誠心誠意努めていきますので、今年もよろしくお願いいたします。
    百と二の母のおわすやお元日 明寛
私は、お正月鹿児島へ帰省し母に会ってきました。母は今年で102歳になります。
今は施設に入所しています。少し記憶も曖昧になってきて、帰省の直前には寝てばかりいると、姉からの情報が伝えられていたので心配していました。
施設に会いに行きますと、車椅子に座っていました。近づいて声をかけると、驚いた表情で私を見て「はらー」と言いました。
「誰か分かいな」と聞きますと、「明寛じゃっど」と懐かしい鹿児島弁で、はっきり答えてくれました。
その瞬間、私の心は嬉しさで一杯になりました。認知する力が衰えているはずの母が、私を息子と認知してくれたことが、何故かとても喜びでした。
長男である私は、大学を卒業してから故郷を離れたために、40年近くの間、母がどのように毎日生活していたか具体的には分かりません。
現在も年に5~7日位しか会えません。その意味でどこかで「申し訳ありません」という気持ちがあるのも事実です。
そして102歳まで長生きしてくれて、こうして私を息子と理解してくれているのです。私にとって何よりの「お年玉」です。
母は多くを話してくれますが、内容は時折ずれてしまいます。
   時折にあらぬ世界や母の春 明寛
 それでも有難いと思うのです。何故そう思うか?生きているのです、ここに。声をかけると返してくれるのです、声で。触れると暖かいのです、しっかりと。この事実は何物にも代えがたい、有り難いことだからです。
 大分に帰る日、「また来るから」と声をかけて帰ります。「さようなら」と言えば寂しがる様なのです。
また夏に会える日まで、時々曾孫や私の顔や花の写真を載せて手紙を書くことにします。
 さてさて私が母のことを今回書いたのは、診察室での会話で良く聞く言葉が気になっているからです。
それは「もう長生きした、早く迎えが来ないかな」とか「長生きしても迷惑をかけるばっかりじゃ」とか「認知症になったら生きている意味がない」というような言葉です。
そう思う心根は分かるつもりです。それでも言いたいのです「生きているということは、尊い」と。親が生きているということは、それだけで子供にとっては強い支えになっているのです。親より先に死んではならないと考えることもある、親が必死に生きているんだから、辛さに負けてはならないと思うのです。親がいればこそ・・・ということがたくさんあるのです。
 私の母は老いて認知症になっています。でも生きてくれています。そのことに子供として深い感謝こそすれ、迷惑とは思っていません。
今回は老いた母を持つ子が、親をどう思っているかを述べてみました。
生きとし生けるものに永遠はありませんので、どうぞ彼岸の主からお招きがあるその日まで、老いるまで生きられたことを誇りに思い、堂々と自由気侭に一日一日を大切に過ごしてください。
あるお婆ちゃんは、遺言の最後にこう書きました。「ちょっとお先に失礼」と。
こう書けるような悔いのない生き方を求めて、この午年の1年を私も生きていきたいと、お正月にあたり思ったことでした。









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