スタッフのエッセイ集です

「良心」
事務長 甲斐敏幸 2012.12.10

「1歳のもみの木」
きよかわリハビリテーションセンター もみの木 後藤智穂 2012.12.6

「今も山は美しい」〜夏の想い出〜
事務長 甲斐敏幸 2012.10.31

「松下センセのこと」
事務長 甲斐敏幸 2012.09.04

「茶の湯のことば」
事務長 甲斐敏幸 2012.08.06

「禁煙してみませんか?」
看護師 松本眞弓 2012.06.07

「海風」
事務長 甲斐敏幸 2012.05.14

「水仙と開高健」
事務長 甲斐敏幸 2012.03.24

「千住家の教育白書」
事務長 甲斐敏幸 2012.02.16

「人生27のリスト」
事務長 甲斐敏幸 2012.02.05

Web予約システムについて
小児科 別府幹庸 2011.11.11

The power of words  ”ことばの力”
事務長 甲斐敏幸 2011.11.2

うたシリーズ その1 「蛍の光」 
事務長 甲斐敏幸 2011.08.25

clover garden 
ケアマネージャー 友江裕幸 2011.08.01

ワクチンのはなし 8:狂犬病は予防接種で治療する病気 
 小児科 別府幹庸 2011.07.12

ほんわかした1日 
 事務 森崎美津子 2011.06.30

ワクチンのはなし 7:「はしか」という恐ろしい病気 
 小児科 別府幹庸 2011.06.10

ワクチンのはなし 6:髄膜炎菌感染症, Waterhouse-Friderichsen症候群 
 小児科 別府幹庸 2011.05.20

ワクチンのはなし 5:日本脳炎 
 小児科 別府幹庸 2011.05.17

ワクチンのはなし 4:ポリオとの闘い(後編) 
 小児科 別府幹庸 2011.05.13

元喫煙者より現喫煙者に送る1通の手紙  
 事務長 甲斐敏幸 2011.04.28

ワクチンのはなし 3:ポリオとの闘い(前編) 
 小児科 別府幹庸 2011.04.27

ワクチンのはなし 2:他国との比較 
 小児科 別府幹庸 2011.04.19

ワクチンのはなし 1:歴史 
 小児科 別府幹庸 2011.04.16

三重東クリニックの隠れた名所 
 ケアマネージャー 友江裕幸 2011.04.12

本匠小学校校歌 「水の大地」  
 事務長 甲斐敏幸 2011.04.12

<私のお気に入り> ~読書篇~ 「次郎物語」  
 事務長 甲斐敏幸 2011.03.31

あなたの歩く速度はどのくらい?   
 内科 飯尾文昭 2011.03.14

郷土の力士 物見山団蔵   
 事務長 甲斐敏幸 2011.02.28

ありがとうの甲斐さん ~夫婦篇~    
 事務長 甲斐敏幸 2011.02.28

■> 『杵築市のひいな祭り』にて・・・     内科 宇都宮健志 2011.02.16

幸福度の高い人ほど長生き!!  
 内科 飯尾文昭 2011.02.10

『ためしてガッテン』見ましたか!?
 内科 宇都宮健志 2011.02.03

スモーカーズ・フェイス〜タバコの弊害
 内科 飯尾文昭 2011.01.29

カゼの予防に干しシイタケ??
 内科 飯尾文昭 2011.01.22

好きなタバコを楽しんでポックリ逝けたら本望?
 内科 飯尾文昭 2010.12.17

努力を続けるということ
 事務長 甲斐敏幸 2010.11.11

住み慣れた自宅で
 ケアマネージャー 友江裕幸 2010.10.22

十五夜「名月く〜れんな」・・子供たちに癒されて
 看護師 松本真弓 2010.10.10

私のこだわり??
 ケアマネージャー 友江裕幸 2010.09.10

私のお気に入り~読書篇~「山桜」
 事務長 甲斐敏幸 2010.09.03







2012年12月10日(月)
「良心」   事務長 甲斐敏幸

Tさんとグランドを一緒に走る。
Tさんは60歳を過ぎているが、筋骨隆々で走るスピードもかなり早い。
大手の銀行を退職されて、今は近くの金融機関で働いている。
家族は、妻とダウン症の長男、結婚している次男、今度結婚する28歳の娘さんという構成である。
一度娘さんにお会いしたのだが、美しい上に清楚な感じのするとても魅力的な女性だった。
家庭ではダウン症の息子さんがいるので、生まれた時からかなり精神的にも苦労をされたようだ。
その長男と娘さんのお話です。

娘さんが小学校6年生の時に、学校の近くなら自由に昼食を食べて良いという課外授業があったらしい。
彼女は何人かの友だちを誘って自宅に招き、お兄ちゃんと一緒に食べたかったからと言って、友だちみんなと弁当を食べたそうだ。
普通の子供であれば、肉親に知的障害者がいるということを隠そうとするかもしれない。まして友達に紹介するのは稀なのではないか。

立派なお父さんとお母さんに育まれた娘さん。
Tさんは、子供を通して人間の最善の良心を教えられたと話していた。あれから15年以上経た今でも、心の中に鮮明な感動を憶えているらしい。
夕食をしながら、娘さんからその日あった出来事を聞いた時、Tさんは「そうか、そうか」という言葉しか発することが出来なかったらしい。
それはTさんと奥さんにとって、無上の誇りであるに違いない。
純真無垢の娘さんはもうすぐ結婚する。様々な思いが去来し、果たしてTさんは冷静でいられるのか。
Tさん、ほんとにおめでとう。






2012年12月6日(木)
「1歳のもみの木」   きよかわリハビリテーションセンター もみの木 後藤智穂

清川診療所に併設して、もみの木という暖かい場所が開設されて11月で1年が過ぎました。介護保険事業所として、リハビリを主としたサービス提供を行う場所です。
生まれてから、細かった幹も少しずつ成長しています。笑顔と、人とのふれあいを大切に、あきらめない心で、みんなで日常を豊かにするための努力を日々頑張っています。
たくさんの病気や後遺症を抱えながら、もみの木に通い始めてくれた暖かい人々…。ゆっくりと、少しずつみんなで成長を続けています。
そしてそれぞれの成長をみんなが自分のことのように喜びあいながら過ごしています。

そんなもみの木にも、先日は悲しく寂しいお別れの出来事がありました。
リハビリでのご努力が成果となって現れ、お互いに喜びあい、来週からはもう少し頑張ろうと笑顔で話した仲間とのお別れが、突然やってきました。
また来週、がんばろう!は、叶わぬ夢となりました。明日かならず会えると約束された人は、この世の中に一人もいないのですね。
明日がわからないから、今日の一瞬、一瞬の人との触れ合いの時間を大切に過ごすことの大切さを感じた出来事でした。
このお別れに対し、もみの木へ通ってきてくださる方から、とてもうれしく感動した言葉を、私は受け取りました。
『もみの木として、何かする時には参加させてほしい』と言ってくれたのです。もみの木の幹や枝や葉は、私たちではなく、私たちともみの木に通って来てくださる方なのだと感じることの感動がありました。みんな、一人ひとりがもみの木であることを感じました。
もみの木に通うのではなく、自分自身がもみの木の一部だと思っていただけていることに、とてもとても深く感動した出来事です。

いつの間にか、もみの木はとてもたくさんの枝を持つ木に成長しようとしています。とても強くしなやかで、寒さの厳しい季節には暖かい多くの光をまとうことのできる大きな木に成長することができそうです。
体や心に笑顔を失っている方々の力になりたいと思っていた昨年の11月開所から1年が過ぎた今、私たちはお互いが笑顔を与えあえる仲間となりました。支えあい、強く結び付き、一つの木が成長しようとしています。
これからまた、ゆっくりと新しい枝も生まれ、より一層大きく成長していくもみの木の一部でいられることのうれしさを、悲しい別れとともに感じることができました。
会えなくなった人も、もみの木の年輪の一番中心に存在し続けると考えれば、また心も暖かくなりました。
人を支えあうことの本当の意味を、もみの木の中で学びながら、私自身が支えていただいていることに深謝し、手を携えてこれからも成長を続けたいと思っています。

開所以来1年、少しずつ、少しずつ成長をしているもみの木です。これからも少しずつ成長していきたいと願っています。
少しずつがいい…。少しずつだから、しっかりと手を握りあえることができると思っています。
大切なのは、リハビリプログラムより、相手の心を知るということ。繋がるということは、心と心が通い合うこと。
そして一年一年、しっかりとした輪(年輪)ができていくことで、もみの木の一人ひとりが、与えられる側から、暖かさを与える側にもなれると考えています。
同じ価値観を持った人たちが、自然に集まってくれていることに、私のそばに寄り添ってくれていることに、奇跡のようなものを感じるのでした。
よちよち歩きだからいい…と思うのです。
1歳のもみの木は、まだまだ、しっかりと一人で立てるほど強くないから、手と手を取り合って成長できています。
もみの木のみんなへ。笑顔とぬくもりをありがとう。
これからも誕生日を共に喜びあいましょう!!みんなが同じ誕生日を持っています。その日は11月1日です。






2012年10月31日(水)
「今も山は美しい」〜夏の想い出〜  事務長 甲斐敏幸

大学2年生の夏休み、クラブの夏期合宿で南アルプスへ10日間の山行に出掛けた。
ルートは南アルプス中央部の塩見岳から縦走して静岡の寸又峡温泉近くまで向かう。
総勢30名くらいの大パーティーなので、リーダーは大変だったと思う。
最初に登った山は塩見岳で、この日は暑くてバテた。
コーラが飲みたいと思い、粉末のコーラを持参していたので冷たい清水に溶かして皆で飲んだ。
この時の美味しさは忘れられない。今は粉末ジュースなんてあるのだろうか。
晴天が続いても困ると思っていたが、この日以降はずっと雨となった。
翌日からシトシト降り続ける雨の中を、雨合羽やポンチョを身に付けて黙々と歩いて行く。
時折強く降る雨は、水溜まりを深くし、スパッツを装着しても靴の中はずぶ濡れとなる。顔や身体はぐっしょり濡れて冷たくなっていく。
それでも標高差1000mの山々を踏破していく。これが数日続いた。

身体が疲弊し、体力の無い者は遅れていくので、全体も遅れてしまう。
NHKの気象通報で天気図を作成し、今後の天気を考えてみるとまだまだ雨は続くようだ。
リーダーは決断した。
停滞。
1日中テントの中にいて身体を休める。外は大粒の雨がシトシト降っている。
寝るときはシートから水が溢れ、シュラフも濡れて冷たくなる。2000m以上の高地なので、夏といっても震える。
何度も起きては寝てを繰り返し、長い夜を繰り返す。おまけに空腹だ。
全山縦走の目的を掲げている以上は、食料を大切に使っていかなければならない。
テント1張りに与えられた食料は、1日にインスタント焼きそば3個、ビスケット1箱のみである。これを5人で分け合う。
焼きそばは、バーナーやホエーブスの火力を使ってはいけない。燃料は貴重なのだ。
だから乾燥麺を少し砕いて、そこに粉ソースをかけて食べ、水を飲む。これがうまい。ビスケットも水でお腹を膨らませていく。
停滞が2日続いて、少し進んで再び2日の停滞となった。
身体と精神が病んできている。些細なことに怒り出す者、何も変わらず笑顔で饒舌な者、僕はといえば力無く沈黙を続けて時折の笑顔しかできない。
3、4年生が集まって、天候、体力、総合的な状況を考慮し、今後を協議した。
そして、下山と決まった。正直嬉しかった。

翌日の早朝、ルートファインディングしながら難ルートを下っていく。下界は雨も上がり、晴れ間ものぞくが、山々は雲に覆われている。
増水した川を半身濡れながら徒渉し、やっと林道に辿り着いた。
小渋という温泉場で、村に1件の食堂があった。
帰りのバスの時刻を気にしながらも、皆は注文してはしゃぎながら食べた。大いに食べた。
僕は昔から大食漢で、一番食べたのではないかと思う。
もり蕎麦大盛り、カツ丼、野菜炒め定食、再びもり蕎麦大盛り、饅頭、ペロリと平らげてしまった。恐るべし若き胃袋。
食堂からバス停まで約5Kmあり、すぐに走り出した。
キスリングザックの重たさ、靴擦れで両足の指の何本かは皮が大きく剝けてヒリヒリする。
それでも走る。痛い。この時の重たさの感触は今でも背中が忘れない。よくぞ走った。
皆健脚揃いで頼もしかった。バスに間に合って電車に乗り、東京へ向かう。
山手線に乗ると、乗客が蜘蛛の子を散らすように離れていく。
臭いのだ。一張羅の黒のユニフォームは汗の塩で波模様が出来ていた。

あれから40年が過ぎた。
今も同期の山仲間とは時折集まって、旧交を温めている。同じ釜の飯を食べた絆は深い。
何故あの時、あんなに食べることが出来たのだろうか。今でも不思議に思う。
精神的な食の貧困は、身体状況を超越して脳を満足させる。

夏が来れば思い出す。






2012年9月4日(火)
「松下センセのこと」 事務長 甲斐敏幸

松下竜一のことを地元の方は愛着をこめて「松下センセ」と呼ぶ。
彼の著作を初めて読んだのは「豆腐屋の四季」だった。
「泥のごとできそこないし豆腐投げ怒れる夜のまだ明けざらん」。
母の急逝のために進学を断念し、父の豆腐屋を手伝いながら、出来損ないの豆腐に怒りをぶつける。
どん詰まりの生活、明日が見えない暗さの中で、彼の唯一の楽しみは短歌であった。
そして11歳年下の洋子さんと出会う。その出会いは野菊の墓の政夫と民子のように美しく感じた。
「我が愛を告げんには未だ稚(おさな)きか君は鈴鳴る子鋏つかう」。
やがて結婚し、子供が3人生まれるが、年収は120万くらい、多い時で200万で、これで妻と子供を養っていく。

1969年に臼杵市の風成(かざなし)地区で、環境汚染の防止運動がおきた。
セメント会社がこの地区に工場を建設しようとしたことから、臼杵湾の自然を守れと、風成の漁民が反対運動に立ち上がった。
松下竜一は綿密な取材をして「風成の女たち」を書いた。この運動は漁師の留守を預かる女性たちが主役だった。
「自分たちの主張の、どこに間違いがあろう。鏡のように澄んだ心だ。自分たち女は酒も飲まぬ、補償金にもたぶらかされぬ、地位を欲しいとも思わぬ、ただ母として子供らにこの美しい村と海を残し続けたいだけなのだ。女たちはそう思っている。その一点だけを踏まえてなりふり構わぬ行動に走る。特別な指導者もない彼女らに、理論も展望も未だあるはずはない。ただわいわい集まっては、今日は何をするか、明日はどうするかを皆で考え合う。」
若い頃に読んだせいか、涙なしには読めないものであったと記憶している。
後年、室原知幸さんの「砦に拠る」の発表、豊前火力発電所の建設反対運動に繋がり、30年以上にわたり「草の根通信」を発行することとなる。
環境汚染を憂い、反対運動に一人の人間として立ち上がり、そして輪が広がっていった。
一本の小枝は折れるが、それを束ねると折れることはない。
その頃は、環境問題では「公害原論」の宇井純先生が被害者の立場に立って、水俣闘争などを繰り広げていた。しかし、環境権を提唱して活動を起こしていたのは松下竜一が初めてであり、時代を先取りしていたように思う。まして、今の日本においては、彼はもっと知られなければいけない。
「国家がすべての人々に対して公正であり、個人一人ひとりを隣人として尊敬をもって扱うようになる日を、僕は夢見る」。ヘンリー・デヴィッド・ソロー

NHKの「ラジオ深夜便」に出演した時に、彼のお話を聞いた。
九州の片田舎から列車に揺られて、はるばる東京まで来たということを語っていた。
滑らかな口調の女性アナウンサーとは対照的に、訥々とした語り、時には沈黙が続くような話し方。
生き方も話し方もぎこちない不器用さに、僕はホッとするような安堵と親近感を覚えた。

「松下竜一その仕事展」が開催された時に、友人の佐高信さんが記念講演した。
二人が結び付いた共通点は何かを考えたとき、飄々として何ものにも拘泥せず、常に市民と同じ低い目線を持っていることだと思った。
その時の松下さんのお話もいつものように訥々として、自身の言葉を噛みしめながら話していた。
彼は便利さとしての文明を分別なく受け入れるのではなく、人々や自然への犠牲を最小限に留めながら、いかに自然と共生できるかを考えた人だと思う。
その生涯を通じた一貫性こそが彼自身であり、今も煌めきの中にいる作家たる所以なのである。

晩年の松下さんは、洋子さんと毎日のように山国川の堤防に行き、時折もらってきた食パンの耳を飛び交う鴎にあげていた。
その光景に代表される演劇作品が「かもめ来るころ」で、高橋長英さんと斉藤ともこさんの二人芝居で全国を公演行脚した。
大分の音の泉ホールで見たが、とても感動的で温かな気持ちになった。
売れない作家の生活は相変わらず苦しかったが、洋子さんが仕事をすると、犬と散歩する時間が無くなると言っていたそうだ。
こんなほのぼのとした生活を垣間見るに付け、隣の青い芝生を羨みながら、どうすれば心の平安を伴う幸せを得ることができるかを考えてしまう。
松下さんは僕に取っては特別な存在の作家である。齢を重ねる度にその重みを感じる。
落ち着いたら彼の全集を古本屋で探して購入し、楽しみとして読みながらその息吹に触れられたらと考えている。
「人にとって、急がないという決断ほど有益なものはない」。ヘンリー・デヴィッド・ソロー

あとがき
ネットでお知り合いになった方がいる。その方は大分県出身の方で、俳優をされている。
「松下さんはもっと知られなければならないとの思いで書いている」とのメッセージをもらった。
自分もそう思っていたが、何も行動をしていなかった。そんな思いから駄文を認めてみました。






2012年8月6日(月)
「茶の湯のことば」 事務長 甲斐敏幸

いつから日本の文化に憧れるようになったのか覚えていません。
和の文化や精神を好きになったのは最近のことではなく、若い時から茶室に興味を持ち、噂を聞けば知らない家でも何度か訪ね、お話を聞いたことがありました。
桜の皮の天井、囲炉裏の柿の木、襖の鳥の子紙、桑縁の音、引手の上品さなど。
何故桜の皮なのか、何故柿の木なのか、何故桑の木なのか、とても興味があるところです。
これらのものは茶道の精神を彩る小道具ですが、作法は面倒くさいようにみえて理に適っているように思います。
いわば複雑さを削ぎ落とした単純さです。
深く興味を持つのは、その精神性に揺らぐ日本人の心を想起させ得るものだからでしょうか。
精神を操る小道具は、主人の思いの表出です。
日本は八百万の神が相和して西洋のように大きな宗教戦争が起きたことは殆どありません。
考えてみると、これは世界的スタンダードからみれば特別なことかもしれません。
「俺が、俺が・・」ではなく、「和」を尊ぶ心は、日本が誇るべきことです。
本書の内容ですが、もてなし、しつらい、よそおい、ふるまい、うつろいの五章に分かれていて、それぞれの言葉に趣きと風情があり、心が和みます。
例えば、もてなしの章の「涼一味」。
涼一味とは、亭主が演出した涼味の一瞬を、掬い取って味わう瞬間をいうそうです。
玄関の打ち水、水の打たれた露地の踏み石、手桶を持って迎付けに出た亭主が蹲踞(つくばい)に空ける水音、床の花の露・・・
例えば、「葉蓋」。
夏の酷暑に、水を張った水指の口を覆う、その葉のことを”はぶた”といいます。
日本人の情緒の繊細さは素晴らしいです。






2012年6月7日(木)
「禁煙してみませんか?」 看護師 松本眞弓

タバコを吸う理由は何ですか?
タバコが健康に悪いのは分かっているけれど、吸うと落ち着く、仕事に集中できる、ホッとする・・・と様々です。

禁煙に興味が湧いたら、気軽にスタッフに声をかけてみてください。
そしてもし良ければ、私達と一緒に禁煙治療を頑張ってみませんか?
禁煙の飲み薬やパッチを使うと、自力で頑張るよりも楽に禁煙できます。
当クリニックでは、12週間のスケジュールで2名の看護師が、医師と共に対応しています。
生活に深く関わっているタバコをやめることは、そう簡単ではありませんが、患者様と共にどう喫煙から離脱できるか、気持ちの整理を手伝ったり、その方法を一緒に考えます。

12週間のスケジュールを終え、無事卒煙された方のコメントを紹介します。

「体が軽くなった」
「食事が美味しくなった」
「咳が出なくなった」
「喫煙場所を探さなくてよくなった」
「部屋がきれいになった」
「家族から喜ばれた」

         など

喫煙は、性、年齢、ライフサイクルに応じて様々な健康障害をもたらします。
禁煙すれば必ずメリットが得られます。

気軽に窓口で声をかけてください!






2012年5月14日(月)
「海風」 事務長 甲斐敏幸

伊勢正三さんが作った「海風」(うみかぜ)という歌がある。
彼がアメリカにいた頃、小さな寂れた宿で曲を書こうとしていた。その時にふと頭に思い浮かんだのは、津久見の海に面した海岸通りの情景だった。
青い海のゆらめき、緑のみかん畑の白い花、防波堤を背にした初夏の微風、そんな海風を受けていたな、と思った瞬間にフレーズが浮かんで来たそうだ。
穏やかな丘とかぐわしいみかんの花の匂い、振り返ると青い海を望み、大小の船が波を曳いている。
そんな津久見の海で育った伊勢さんは、自然という大きな財産を心の中に持って、それらの結晶を音楽に反映させている。
単調な造形からは複雑な情緒は生まれない。感受性豊かな子どもの頃に、強烈な太陽と海を見て育った個性は、大人になって私たちの心を癒してくれている。
佐賀関も津久見に似ているように感じる。もちろん地形であるが、でも取り残された風景と言ったら、怒られるでしょうか。
核家族化が進み、おじいちゃんやおばあちゃんから離れ、そうした取り残された町が多くなっている。経済は利によって動いていくから仕方のないことかもしれない。
7月、佐賀関病院の前に有料老人ホーム「海風」が完成する。



2012年3月24日(土)
「水仙と開高健」 事務長 甲斐敏幸

水仙が咲き誇っている。水仙の花を見るたびに彼を思い出す。
もう過ぎてしまったが、12月9日は「悠々忌」だった。
太宰治の誕生日が6月19日で、彼の小説の題名をとって「桜桃忌」というのは周知の通りだ。
太宰治のファンは多いようだが、あまり読んでないので彼の良さは分からない。
桜桃忌に因んでだろうか、開高健の命日を「悠々忌」という。
「悠」という字は開高の著作「悠々として急げ」から命名されている。
僕はこの言葉が大好きで、悠々とした大らかさと拡がり、そして急げという不均衡な言葉が感性に訴える。
曖昧さの不思議、対比の美、成熟の悲しみ。警句の雰囲気を漂わせ、彼は言葉の紡ぎ手だった。
谷崎潤一郎は長い文章で描写するが、開高は見事な文章や単語、熟語で人の想像力を掻き立てる。
僕が中学か高校生だった頃、サントリーのCMがテレビで流れた。開高はその会社の社員だった。
言葉に敏感な自分は、流れる言葉の響きに聞き惚れた。そのコピーを作ったのが開高だったことを後から知った。
文章を作る作業と受け取る間には、作り手側と受け手側の様々な憶測があり、勘違いがあり、その不完全さが魅力かもしれない。
数年前妻と娘たちと一緒に茅ヶ崎の彼の自宅を訪ねた。自宅は記念館となって、今も人が絶えない。
庭先の細い道に水仙の白い花が咲いていた。
ベトナム戦争の取材で疲れた心身を休めるために福井の宿に泊まった開高は、越前海岸に咲き乱れる水仙を見て感動した。
庭先の水仙は福井から送られてきたもので、彼の遺徳を偲んでひっそりと佇んでいた。
彼の人生が起承転結であったかどうかは知らないが、とりわけ僕のようなファンは今も彼の言葉に惹かれ続けている。
そして路傍の水仙を見る度に彼の軌跡を思い描くのだ。





2012年2月16日(木)
「千住家の教育白書」  事務長 甲斐敏幸

千住3兄妹を育てたお母さん千住文子の著書です。
一番上の兄は千住博で、ニューヨークにアトリエを持つ日本画家。
一番先に知ったのはこの人だった。息を呑む作品に呆然とした。
銀河の明るさの中で、静謐な森に佇む鹿を描いているが、静寂を表現したいのかもしれない。
絵画というのは影を描くことで光が表現されるそうだ。
影というよりも夜の闇の中で、一寸の光を感じて下さいといわんばかりの微弱で緻密な計算が静寂に繋がってくる。
「星のふる夜に」という作品で、なんとなく彼の息吹が感じられるだろう。
次に二番目の千住明。
数々のテレビ番組のテーマを担当している。「自殺狂の詩」を聴いた時は、クラシックの奥深さを感じた。
もちろん妹の千住真理子がバイオリンを弾いている。
二人とも東京芸術大学を卒業した人で、卒業作品は大学買上で永久保存となっている。
千住真理子のコンサートは毎年大分市で行われており、2度ほど聴きに行ったが、300年の眠りから覚めたストラディヴァリウスの低音と水音のような高音が印象的だった。
他のものと聴き分けることは無理な話だが、300年間城に隠されて演奏家が弾くことが無かったようで、それを千住家が数億円で購入したとされている。
三人とも超一流の人達で、僕の心の琴線をくすぐり続けている。
彼らを育てた母と慶應義塾大学工学博士だった千住鎮雄氏。
父の子供に寄せる信頼と励ましと、そして子供達の血の滲むような努力が 今の彼らを形作っている。
才能は一朝一夕には完成出来るものではない。少しずつ一歩後退二歩前進で成長してきた。
彼らの作品には粗野が無い。
育ち方をみれば当然のことで、僕の対極にあるから魅力を感じる。
彼らの作品の中には郷愁に似た切なさと、人生の哀しみと、時折訪れる喜びが 上手に表現されている。



「星の降る夜に」



2012年2月5日(日)
「人生27のリスト」  事務長 甲斐敏幸

目標や夢は具体的なものがいいと思って、或る時期に自分の人生で是非やってみたいことを考えてみた。
家族のこと、読書のこと、学習のこと、音楽のこと、スポーツのこと、料理のこと、旅行のこと、モノに対するこだわり等々。
熟考していると自分がウキウキしてくるのを発見し、気分が益々高揚する。楽しいことをやろうとするのが自分への最高の親切だ。
あまり欲張っても不可能な夢のままに終わってしまうので、27に止めた。それが僕の「人生27のリスト」となった。
手帳に書いて時々それを眺めながら、立ち位置を考えてみる。今の自分はぶれていないか。本当に自分が楽しいことをやっているか。
享楽が過剰になっていないか。時間を大切に使っているか。人を大切にしているか。向上しているか。

現実との相剋のなかで自分自身の逡巡が顕著であったりすると、僕は父の考え方をなぞってみる。
父の志操に届かなくても、それは一つの基準となっている。でもいつも後悔や反省ばっかり。
やり遂げたことは現在5つでしかないが、次の目標や夢に向かって進行中だ。
人がそのリストを見れば他愛のないことかもしれないが、自分にとっては大切なこと。
夫婦でスイス・トレッキングに行く。再び5Km19分台の記録を作る。ギターをうまく弾く。世界文学全集を読み漁る。等々。
手が届くものもあれば、夢のままで終わってしまうのもある。
でもね、何も達成できなくても、その過程が楽しいことに気が付くんです。


由布の嶺



2011年11月11日(金)
Web予約システムについて  小児科 別府幹庸

今回、携帯電話やパソコンから診察の順番取りができる予約システムを導入することにしました。
これを適切に使うことにより、クリニック内での待ち時間を減らすことができ、その分の時間を有効に利用することができます。また、体調の悪いお子様を長時間待合室で待たせることなく診察に向かうことができるようになります。

従来、診察の受付はクリニックに来ていただいた時にしていました。もちろん、これからもクリニックに来ていただいて受付をすることは可能ですが、もう一つの受付方法として携帯電話やパソコンからアクセスしていただき診察の順番をとることが可能となります。(定期的に受診している患者さんは診察の中で次回の診察予約を取りますが、このようなかたは予約した日にそのまま来院されてください。なるべく早く診察ができるようにします。)順番取りをしていただいた後は、携帯の画面から『いま何番の患者さんの診察が終了した』という情報を確認していただき診察前に来院していただく事になります。
また、携帯のメールアドレスを登録していただく事により、順番の5人前で『もうすぐ診察』を知らせるメールを受け取ることができます。
導入当初は携帯電話やパソコンから順番取りをしていただいた患者さん2人と実際に来院されて受付をされた患者さん2人を順繰りに診察していく様に設定しています。来院されて受付をされた患者さんは、それよりも早く携帯電話などで順番取りをされた患者さんが先に診察になることがあり、『あれっ』と思うことがあるかもしれません。でも、意図的に順番を入れ替えているわけではありませんので御理解ください。
そして、是非このシステムに慣れていただいて、次回からはお家で予約を入れてきていただきますようお願いいたします。

携帯電話などで予約された患者さん2人
       ↓
来院されて受付された患者さん2人
       ↓
携帯電話などで予約された患者さん2人


将来的には、実際に来院されて受付される患者さんの数を減らし、携帯電話やパソコンからの順番取りの患者さんの割合を増やしていきたいと考えています。

最後にこのシステムを使うにあたって一つだけ守っていただきたいことがあります。携帯電話やパソコンで順番取りをした後、順番が来ても来院されない場合は、後の患者さんに対して待ち時間を増やしたりする影響があります。ある程度の時間、お待ちしても来院されない場合は、その順番は一旦キャンセルとなり来院時にとれる順番となることがあることを御理解下さい。



2011年11月2日(水)
The power of words  ”ことばの力”  事務長 甲斐敏幸

今にも雨が降り出しそうな鉛色の空が重く拡がっていた。
初老の男性は、トラファルガー広場の階段の前にダンボールの厚紙を敷いてうつむき加減に座り、通行人に憐みを乞うた。
厚紙の看板にはこう書かれていた。
”私は目が見えません。どうぞお恵みを”
通り過ぎる人々の群れは無視しているようにみえた。
その証拠にお金を入れる空き缶には殆ど入っていなかった。
そうして時間はどんどん過ぎていく。
サングラスをかけた若い夫人が通り過ぎ、振り返って戻ると段ボールの紙を取り上げて裏返し、置いてあったマジックで文章を書き綴った。
男性は目の前に立っている女性の品の良い緑の靴を触って、何を書いたかを訝った。
女性は厚い紙を置き、静かに立ち去った。
しばらくすると、前を通行する人たちがコインを投げ入れる回数が増えてきて、空き缶もいっぱいになってきた。
通り過ぎる人達がどんどん投げ入れて行くので、男は戸惑っていた。
ふたたびサングラスの女性が通りかかり、前に立った。男は緑色の靴を触り質問した。
「看板に何をしたんだい?」
女性は座って、男性と対坐しこう答えた。
「同じことを書いただけよ・・ただ、違った言葉を使ったの」
男性の右腕に優しく触りながら、サングラスの女性は静かに立ち去った。
石畳に響く靴音を聞きながら、初老の男性は「ありがとう」と告げた。
紙の看板には、こう書かれていた。
「今日もいい日だね。でも、僕にはそれが見えないんだ」
       ※You Tube 「ことばの力」を文章に起こしました。実際の動画をご覧ください。



2011年8月25日(木)
うたシリーズ その1 「蛍の光」  事務長 甲斐敏幸

自分のお気に入りの曲、気になる曲などを中心にat randomにご紹介していこうと思います。
隠れた名曲、思い出の名曲はたくさんあると思いますが、あなたにとっての曲はさて何でしょうか?
先ずは思いついた曲からです。

「蛍の光」

螢の光 窓の雪
書読む月日 重ねつゝ
何時しか年も すぎの戸を
開けてぞ今朝は 別れ行く

止まるも行くも 限りとて
互に思ふ 千萬の
心の端を 一言に
幸くと許り 歌うなり

筑紫の極み 陸の奥
海山遠く 隔つとも
その眞心は 隔て無く
一つに尽くせ 國の為

千島の奥も 沖繩も
八洲の内の 護りなり
至らん國に 勲しく
努めよ我が背 恙無く

「蛍の光」の作詞は稲垣千頴(いながきちかい)という茨城県出身の方だそうです。
3番、4番があることを知らなかったのですが、これは軍国主義的内容の言葉があったり領土が変わって歌われなくなったようです。
また、韓国は1948年まで国歌だったり、モルディブでも国歌の時期があったということです。
原曲のAuld lang syne はスコットランド言語で、Old long sinceという英英訳になるそうで、意訳すれば Times goes byとなるようです。
訳は「久しき昔」、なんとなく分かります。
作詞はRobert Burnsで、Comin Thro' The Rye「故郷の空」が有名です。
彼は民謡収集家として多くの曲を採譜し、詞を作り直して普及に努めたということです。
この曲はヨナ抜き長音階(CDEGAC)、つまりファとシがなくて、雅楽がこの音階です。
因みにニロ抜き長音階(CEFGBC)は琉球音階で、レとラがありません。
ですから、蛍の光の親近感は慣れ親しんだ音階と稲垣の大和言葉が融合して、日本古謡の瑞々しさを醸し出しているようです。




2011年8月1日(月)
clover garden  ケアマネージャー 友江裕幸

毎日暑い日が続いています。
全国的に‘節電’と言われていますが、体調を崩してしまってはなんにもなりません!無理ない程度で行っていきましょう!

《三重東クリニックもIT化!》
三重東クリニックは現在、内科と小児科を診療科目としています。そのため患者様の年齢層は幅広くなっています。
多くの方にいろいろな情報が行き届くようにと考え三重東クリニックの‘QRコード’を作成しました。



今はIT社会と言われるように、一人一台携帯電話やパソコンを持ち、いろいろな情報をその場で調べたり手に入れたりすることが出来ます。 今まで全く経験したことがない方も、是非これを機会に携帯電話でQRコードを読み取ってみてください!
(全く使い方などが分からない方は、三重東クリニックで職員に聞いてみてくださいネ☆)

《ありがとうございます》
7月に、三重東小学校の生徒さんからお花の贈呈を受けました。
どのお花もこの暑さにも負けずに元気に育っています。
これからも大切に育てていこうと思います。ありがとうございました!




2011年7月12日(火)
ワクチンのはなし  8:狂犬病は予防接種で治療する病気  小児科 別府幹庸

狂犬病は犬などの動物にかまれたときにウィルスが体の中に入り発症する病気です。そして、一旦発症すると病気の進行を止められずにほぼ100%の方が亡くなってしまうという非常に重症な病気でもあります。

犬などとことわったのは、犬以外の哺乳類であっても狂犬病の病原体を持っていることがあるからで、例えばコウモリなども持っています。アメリカの連続ドラマ「ER」でも、ホームレスの少年がコウモリに咬まれて狂犬病を発症するというシーンがあります。北米ではコウモリやアライグマなどから感染する患者さんもおり、狂犬病は犬だけが原因ではないということに注意が必要です。

日本ではどうかというと、1950年以前は狂犬病で亡くなるヒトがかなりみられていました。しかし、同年「狂犬病予防法」という法律が制定され、犬の登録制度、犬への予防接種が導入された後、1956年に最後の「国内での感染例」がみられたあとは、国内での感染例はみられていません。1970年に1人、2006年に2人発症された患者さんがいましたが、いずれも外国での感染事例でした。世界を見渡すと、日本以外には北欧諸国、オーストラリア、イギリスあたりが「狂犬病のいない」地域となってますが、それ以外の国々ではまだまだ狂犬病が発生しています。

さて、狂犬病が発症するまでの仕組みです。まず動物にかまれた傷から狂犬病ウィルスは体内に入り、神経を脳にむかって徐々にさかのぼります。そして、脳に入ったときに病気が発症します。このとき、ウィルスが神経をさかのぼっていくスピードは日に数ミリから数十ミリとされており、発症までに要する日数は2週間から数ヶ月(最も長いものでは2年ということも...)とされています。そして、脳からより遠い部分を咬まれれば、より発症までの時間が長くなります。

発症するまでに時間がかかること、神経の中だけを進むことなどから、咬まれて早いうちにワクチンで備え(免疫)を作ってしまえば発症が阻止できます。つまりワクチンが治療になるのです。咬まれた後のワクチン接種は海外と日本のワクチンで微妙な接種スケジュールが違いますが下の通りです。

欧米製のワクチン 5回接種(0=当日及び3、7、14、28日後)
日本製のワクチン 6回接種(0=当日及び3、7、14、30、90日後)

予防としてのワクチンは、日本では犬に対して行われています。(日本では)犬が狂犬病を起こさなければほとんどヒトに狂犬病が発生しません。実際、狂犬病予防法で犬の予防接種が開始されてからは、日本での「ヒトの」狂犬病は急速に姿を消しました。CDC:アメリカ疾病予防管理センターでは、狂犬病が発生している地域へ渡航するヒトのうち、獣医師、野生動物保護の従事者、獣医学科の学生、適切な医療をすぐに受けることが難しい地域を訪れる方には狂犬病ワクチンの予防接種を勧めています。(その他のヒトには勧めていません)

発症後はほぼ100%の死亡率を示す狂犬病はコワい病気です。海外へ行く場合、その渡航先が狂犬病発生地域であるか?動物に咬まれた場合、予防接種を受けることのできる医療施設が近くにあるのか?などの情報は収集しておく必要があります。また、獣医師などで動物に咬まれる可能性のある場合は、渡航前にワクチンを接種することも考慮するべきです。





2011年6月30日(木)
ほんわかした1日  事務 森崎美津子

ダンゴムシ・・
ダンゴムシって触った事ありますか?
黒い昆虫?の仲間みたいな小さな虫で、触ると黒豆みたいに丸くなり、コロコロ転がるんですよ(驚)
先日、クリニック内に2匹転がっており、私は触れないので、ケアマネージャーのTさんに除去?を頼みました。
躊躇なく、ダンゴムシを拾い、手の平に置き、1匹は既に息耐え動かなかったダンゴムシを見て、Tさんが、『可哀想に~~1匹踏まれてもう動かないですね~』と、優しく言ってナデナデしてる姿をみて・・・、ワー素手で触ってる!!信じられない!!私には無理!!絶対無理!!気持ち悪い!!と、正直心の底では思いながら・・・、虫に対しても人と接する時のように、温かい気持ちで接する同僚のTさんに私は感動しました(泣)その後、野球のピッチャーのように軽快にボールを飛ばす様に、Tさんが遠くに投げた2匹のダンゴムシがどうなったのかは・・疑問ですが(笑)

私は、カエルが全くダメで、見るだけで凄く憂鬱な気分になります。そのカエルが更に大・大・大嫌いになった事件があります!!
つい最近・・・(本当は遠~~~~い昔)・・・中学生の頃
お風呂に入ろうと、浴槽のフタを開けた瞬間。。な・な・なんと・・・カエルが湯船にプカプカ浮いてました。。ギャ~~~~~~ッッ!!と叫び、驚きでお風呂場でこけて足を負傷しながら、『おかあさ~~~んカエルがでた~~』と無意識に母の名前を叫びながら、一目散で、裸でお風呂場から居間まで猛ダッシュした所、夕飯を食べてる父母に、『あんた何してるん??』と無言で、おまけに冷たい視線で見られ、その後も何事もなかったように食事を続けてた両親の顔を鮮明に覚えてます。(笑)
何事にも、オーバーアクションな私を知ってる、両親ならではの行動に私もそそくさとお風呂場に引き返し無言で服を着て、その日はお風呂に入らず、次の日友達に、みつ!髪が臭い!!と言われ、からかわれた苦い?青春時代の思い出があります。部活動で剣道をしてたので、防具の臭いと汗の臭いで、堪らなく周りには悪臭を発してたと思います(泣)

その嫌いなカエルを、Tさんのように、触り、優しく触れ合う事(笑)は、今後絶対できませんが、虫や、爬虫類に対しても人に接するように優しい気持ちで接する気持ちだけはもっていこうと思った、Tさんに感謝した1日でした。^^
次回、ダンゴムシを発見した時は、勇気をもって素手で触って、Tさんを見習いナデナデしてあげます。
この続きは又のお楽しみに!!






2011年6月10日(金)
ワクチンのはなし  7:「はしか」という恐ろしい病気  小児科 別府幹庸

「はしか」は現在でもいろいろな合併症を起こし、重症になる可能性のある感染症です。「はしか」は麻疹ウィルスによってヒトからヒトにうつりますが、非常に感染力が強く、免疫を持っていないヒトが患者さんと同じ部屋にいるだけで感染してしまいます。(電車の中で感染したと思われる方もいます。)

「はしか」は感染すると、ヒトの免疫力を調整しているTリンパ球に入り込み、破壊していきます。このTリンパ球はヒトの体を病原菌などから守るための仕組みのなかで重要な細胞であり、「はしか」にかかり、これが破壊されると病原体の感染を受けやすくなります。(これを免疫力が落ちるといいます。)「はしか」が治ってしばらくすると、この「免疫力」は回復するのですが、かかっている間に重症になることがあります。実際、「はしか」にかかったヒトは10人に1人程度で肺炎や中耳炎を合併するとされています。また内攻型といって、「はしか」の経過中に急に発疹が消えて、その後、心臓が衰えて急に亡くなってしまうという重症型の「はしか」もあります。

「はしか」にかかったヒトの1000人に1人程度で急性脳炎が起こります。発症すると重症で生命にかかわることもあります。数年前の流行時に30歳代の女性が「はしか」にかかり、経過中に脳炎を発症して亡くなるということもありました。さらに、一旦はしかが治っても数年から10数年して発症するSSPE:亜急性硬化性全脳炎というゆるやかな経過の脳炎があり、これは一旦発症してしまうと根本的な治療法がなく、徐々に認知機能が低下して亡くなってしまうという不治の病です。(現在は病気の進行を遅らせる作用のある薬はありますが、根治は期待できません。)自然の「はしか」に罹患したヒト約10万人に1から2人程度にSSPEは発症するとされています。「はしか」の予防接種の後でもSSPEが発症することがありますが、最近の研究では「予防接種後にSSPEを起こしたヒトの脳からウィルスを検査すると、予防接種に使った麻疹ウィルスは見つからず、自然界にある麻疹ウィルスが見つかる」ということがわかりました。これはどういうことかというと、おそらく麻疹ワクチンを接種するちょっと前に、自然の「はしか」のウィルスが体の中に入っていて、その「自然」の麻疹ウィルスがSSPEを発症させたということです。つまり、予防接種ではSSPEは発症せず、ワクチンを受けることでSSPEになる可能性を低くできると考えられます。

日本の歴史上では平安時代以後、たびたび文献に登場する疫病の一つ「あかもがさ(赤斑瘡/赤瘡)」は「はしか」であろうといわれています。江戸時代には13回の大流行がみられ、1862年の流行では江戸だけで、約24万人の死者が出たとされています。

典型的な「はしか」の症状は、まず鼻水、せき、めやになどのカゼのような症状とともに38度程度の熱が2日程度でます。その後、半日から1日程度熱が下がります。そして、急に顔、からだにボタン雪くらいの赤い発疹がでてきて、熱が急に高くなります。このときに、口の中の粘膜をみると、小さな白いブツブツがいっぱいできていることがあります。(それを、Koplic斑(コプリック斑)と呼びます。)その熱が数日続いて自然に下がります。発疹は茶色の痕(あと)を残して消えていきます。「はしか」の免疫を持たないヒトが「はしか」のヒトと接触して病気が発症するまでの時間(これを、潜伏期間といいます。)は約2週間程度で、発症する少し前から他のヒトに感染させるコトがあります。病気が終わっても1から2日程度は感染しますので、学校への登校は解熱後3日経過してからということになっています。

さて我が国では、「はしか」ワクチンは1966年に始まりました。その頃の「はしか」ワクチンは生ワクチン(つまり、生きている麻疹ウィルスを弱くしてワクチンにしている。)が開発されていたのですが副反応が強くそのままではなかなか使いにくいという状況でした。そこで、「この生ワクチンを接種する前に不活化ワクチン(はしかのウィルスを殺菌して感染力をなくして作ったワクチン)を接種して少し免疫をつけておけば、副反応も少ないのでは?」という考えのもとに不活化ワクチン(K)接種したのちに、生ワクチン(L)を接種するという方式で接種されていました。しかし、この不活化ワクチンを接種したお子さんが、その後に麻疹ウイルスに接触すると、「異型麻疹」と呼ばれる特殊な状態になりやすいことが後に明らかになりました。これは、まず高熱が出て、その後すぐに、手足だけが赤くなるような発疹がでます。小さな出血が集まったような発疹になることもあります。これは「はしか」の典型的な発疹ではありません。そして怖いのは、それからすぐに重症の肺炎を来たす、ということです。この「異型麻疹」のため、KL法のワクチンは1969年には弱毒生ワクチン(FL)に取って代わられます。

その後、「はしか」弱毒生ワクチンは1978年から定期予防接種となり広く接種できるようになりました。この当時は一生のうち1回だけ「はしか」のワクチンを受けることとなっていました。1988年には「はしか」のワクチンに三日ばしか(風疹)、おたふくかぜ(流行性耳下腺炎)のワクチンを混合したMMRワクチンが認められて接種可能となりました。しかし、このワクチンは接種後に「無菌性髄膜炎」という副反応が多発し、1993年に中止されています。

その後は単独の「はしか」ワクチンが続けられていましたが接種率は低く、とうとう、2000年からスゴい勢いで麻疹が流行しはじめました。私もこの当時のことを記憶していますが、次から次に10代後半の子供たちが「はしか」にかかり入院してきました。このことを受けて、小児科医会や政府も必死にワクチン接種率向上に努力するようになりました。しかし、その後も目立って接種率は伸びず、2006年や2007年にも中規模の流行が起きています。

2006年からは「はしか」ワクチンに「3日ばしか」ワクチンを混合したMRワクチンが接種開始となり一生のうちに2回接種を受けることとなりました。さらに、2008年からは2回接種に漏れた子供たちのために中学生と高校生で接種を行う3期、4期が時限を区切って行われるようになり、接種率の向上が期待されています。

このように、かなりの努力をもってワクチンを勧めているのですが、先進国の中で比較するとまだまだ接種率が低く、そのためか最近も関東での小流行が起こっています。アメリカでは定期予防接種として「はしか」ワクチンが2回終了していないと小学校に入学できないため、接種率はものすごく高いです。そして、2000年には「はしか」を根絶しています。

日本でのはしかワクチン接種率は第2期で70%程度です。「はしか」を根絶するにはこの接種率が95%以上ないと難しいとされているようです。日本でもこの恐ろしい病気が正しく認知され、接種率が上昇し根絶できることを願ってやみません。





2011年5月20日(金)
ワクチンのはなし  6:髄膜炎菌感染症, Waterhouse-Friderichsen症候群  小児科 別府幹庸

「ワクチンのはなし 6:髄膜炎菌感染症, Waterhouse-Friderichsen症候群」この原稿に着手したのは2011年5月18日夜です。稿を始めるにあたり宮崎県小林市において髄膜炎菌感染症にて亡くなられた高校生および御遺族の方々に、衷心より哀悼の意を表します。

さて、このニュースを聞いて医師はある病気を頭に思い浮かべたと思います。それは、Waterhouse-Friderichsen症候群(ウォーターハウス・フリドリッヒセン症候群)です。これは劇症型の髄膜炎菌感染症で、突然発症し頭痛、高熱、けいれん、意識障害を示し、DIC(播種性血管内凝固症候群:全身の血管中で小さな血の塊ができてつまってしまう状態→血液の巡りが悪くなり臓器障害がでる。血を固める成分が大量に使われるので血が止まらなくなる重症の状態。)を伴いショック状態となり亡くなってしまう状態です。感染症などのストレスにさらされたときにでてきてヒトを守る物質(急性期ホルモンとも呼びます)が、副腎というところから出てくるのですが、このWaterhouse-Friderichsen症候群では、その副腎に出血してさらに悪化させるとして有名な病気となっています。

髄膜炎菌(Neisseria meningitidis:ナイセリア メニンギティディス)は1887 年にWeichselbaum という研究者により髄膜炎の患者さんの髄液から発見されました。ヒト以外にはこの菌はいません。この菌はくしゃみなどによる飛沫感染によりうつり、ノドなどから血の中に入り、さらには髄液にまで入って敗血症(血の中に菌がばらまかれて、なおかつ血液中でも菌が生きている非常に重症な状態。)や髄膜炎(脳の外側で頭蓋骨の内側にある髄液という液体に菌が入り炎症を起こす状態。これも非常に重症。)を起こすことがあります。血液の中に菌が入り込む段階までで良くなるヒトもいますが、髄膜炎を起こすと重症で、有効な治療を施さないかぎり非常に高い死亡率を示します。

ただ、我が国では現在非常に稀な感染症であり、患者さんの数は年間で数人〜20数人程度です。患者さんが多いのは、アフリカ北部のサハラ砂漠以南でその地域を髄膜炎ベルトと呼ばれることがあります。中近東でも流行がみられ、特にイスラム教の巡礼で感染が拡大することがみられ、巡礼に参加する際に予防接種を義務づけているところもあります。また、アメリカ国内でも軍隊宿舎などで流行がみられたこともあり、特にアメリカ、イギリスの全寮制学校に入学する際、予防接種を求められることがあります。世界全体では毎年300,000人程度の感染者と30,000人程度の死亡が出ている状況です。

髄膜炎菌は検査することによりおおまかに約13種類に分けることができます。そのうちヒトに病気を起こすのはA, B, C, Y, W-135の5種類とされています。そして予防接種でA, C, Y, W-135の4種類を予防できます。髄膜炎菌Bに関しては予防接種を作ることが難しいとされていますが、ニュージーランドで行われていたワクチンは髄膜炎菌Bのある一種類だけを予防できるようにしたものでした。これは、髄膜炎菌B全体を予防することはできず、Bをさらに細かく分けた一つの種類のみ効くものでした。 髄膜炎菌ワクチンには大きく分けて2種類あり、一つは精製莢膜多糖体ワクチンというもので、これは髄膜炎菌を殺菌して感染力を無くしたあと、菌の一部を精製(必要な部分だけを純粋にとりだそうとすること)してワクチンにしたものです。このワクチンは年長児や成人の方々には有効ですが、特に2歳以下の子供たちには接種しても免疫がつかないという特徴があります。2歳以下の子供たちのために抱合型ワクチンといってジフテリア毒素を無毒化したものに髄膜炎菌の成分を一部くっつけて作りました。これは、2歳以下の子供でも免疫ができますので、イギリス(生後3ヶ月)、アメリカ(11から12歳)では定期接種として行われています。イギリスやアメリカで髄膜炎菌ワクチンが定期接種となっている背景には、発生している患者さんの数が多いということがあげられます。(ちなみに、アメリカでは年間1,000〜3,000人の患者さんが発生し、2004年には125人が死亡しています。)

日本では1945年(昭和20年:終戦の年)患者さんの数が4,384人になったのが最高で、前述しましたとおり現在では数人〜20数人/年と極めて発生数が少ない状況です。そのため予防接種は国内で認められておらず、特に旅行で髄膜炎菌感染症が蔓延しているところに行く、あるいは留学するなどのときにワクチンを個人輸入している医療機関で接種するといった状態です。今回の集団発生が拡大して多数の患者さんが発生するならば、緊急でワクチンを導入しなければならない事態になることは考えられなくはないですが、現在のところは経過をみていくというところでしょう。 治療に携わる医療者も感染することがあり、予防に関しては有効な髄膜炎菌ワクチンとともにリファンピシンという抗生物質を内服することがあります。今回の集団発生においても、その髄膜炎菌の型にもよりますが、濃厚に接触された方々にはワクチン接種と予防接種が効果を発揮するまでの間の予防としてリファンピシン内服などを考えるべきかもしれません。

この集団感染が、これ以上拡大せずに終息することを願います。





2011年5月17日(火)
ワクチンのはなし  5:日本脳炎  小児科 別府幹庸

日本脳炎は日本脳炎ウィルスにより起こる脳炎です。このウィルスは豚の体内で増えて、その血を吸ったコガタアカイエカという蚊が、ヒトの血を吸うときにヒトの体に入り込みます。その後、多くのヒトでは風邪の症状程度で治りますが、約1000人に1人程度で脳炎が起こります。脳炎の症状は頭痛、発熱で発症し、進行するとさらに高熱となり髄膜刺激症状(項部硬直:首が固くなりあごを胸につけることができなくなる徴候など)がでて、さらに意識障害、けいれん、昏睡がみられるようになります。いったん日本脳炎が起こると、効果的な治療法はなく対症療法しかありません。脳炎を発症した患者さんは5人に1人(約20%)が死亡し、半分以上の方が重い後遺症が残ります。 その他の脳炎とくらべても、重症な脳炎であるといえます。

ワクチンが広く接種されていなかった1960年代、日本では年間約1000~2000人ほどの患者さんが発生していました。日本脳炎のワクチンは1954年に開発され、勧奨接種(つまり「接種することをお勧めします」という方式)となっていました。当時のワクチンは高度の精製(つまりワクチンの純粋な成分だけを抽出すること)が行われていなかったため、思わぬ副反応があるかも?と考えられたのでしょうか?1965年に高度精製された日本脳炎ワクチンができると、政府は1967年から子供と高齢者など広い範囲で積極的にワクチン接種を開始しました。そのおかげもあってか、1970年代には数10人から200人程度の患者数と明らかに患者さんの数は減ってきました。そして、近年は年間数人単位の患者さんの数で推移しています。

日本の各地で田んぼが減ったりして、蚊の数が減ったことも患者さんが減ってきた原因ではないか?との意見もありますが、ワクチンが広く接種されはじめて数年で患者さんの数が10分の1以下に減っていることは、おそらくワクチンの効果だろうと考えます。日本脳炎ワクチンは有効であると考えるべきでしょう。

さて、このように有効な日本脳炎ワクチンですが、後になり一つの問題が持ち上がりました。このワクチンでADEM:急性散在性脳脊髄炎というアレルギーが関係した脳炎が起こるのではないか?と考えられたのです。実際に、日本脳炎ワクチン接種を受けた方々の中で年間1人程度にこのADEMが発症していました。日本脳炎ワクチンはマウスという実験動物の脳に日本脳炎ウィルスを注射してマウスに日本脳炎を起こさせてから、マウス脳のウィルスを不活化(病気を起こさせないようにウィルスを殺してしまう)して、さらに精製後にワクチンを作っていました。すごく高度に精製するのでほとんどマウス脳の成分は残っていませんが、理論的にはマウス脳の成分が残るのを0にはできず、この残ったマウス脳の成分がヒトの体に入ってアレルギーを起こしADEMを発症させる可能性が考えられたのです。

日本脳炎ワクチン接種後にADEM疑いの脳炎脳症を発症し、その後に寝たきりとなられた方がおられたため、厚生労働省は2005年5月30日に日本脳炎ワクチンとADEMとの因果関係を否定できないとし、定期接種としながらも「積極的勧奨の差し控え」(つまり、あまり接種をお勧めしないでくださいということ)を急遽発表しました。その後は、作る時にマウス脳を使わない新しいタイプの日本脳炎ワクチン開発を進め、親御さんには「ADEM発症の可能性を理解した上で、日本脳炎ワクチン接種を受けます」という承諾書を書いていただいた方のみ旧型ワクチンを接種するという方法をとりました。この状況に、接種を受けられる方はほとんどいなくなり「事実上の接種中止」ということになったのです。

ところで、ADEMは日本脳炎ワクチン接種後のみに起こるのではなく、何らかの感染症(例えばインフルエンザや、おたふく風邪など)の後や、原因がわからない(特発性といいます)で発症することがあります。日本脳炎ワクチン接種後のADEM発症率と自然の方々のADEM発症率はかわらないというデータもあり、日本脳炎ワクチンが日本脳炎ワクチンを接種された後にADEMを発症された方々のADEMの本当の原因であったかどうか?は疑問であるという意見もあります。

日本脳炎ワクチンの積極的勧奨中止から、新しい「マウス脳を使わない日本脳炎ワクチン」が使えるようになるまでに4年間の時間がかかりました。(新しいワクチンは2009年6月2日より使えるようになりました。)徐々に、接種は拡大の方向になっていますが、完全に元通りのペースに戻るためには時間がかかりそうです。

厚生労働省が行った日本脳炎ウィルスに対する中和抗体(体の中で日本脳炎ウィルスから体を守るための備えと思ってください)がどの程度あるのか?という調査があります。これは各年齢層ごとに示されていますが、2008年になって6歳以下の中和抗体の保有率が著しく低くなっているのがわかりました。この中和抗体は日本脳炎ワクチンを接種すると体の中にできてきますので、積極的勧奨中止が影響しているのは明らかです。一方、豚が保有する日本脳炎ウィルスに対する抗体は今までと変わらず検出されており、豚は日本脳炎ウィルスを育てています。また、日本以外の東アジアの国々では年間1万人以上の発症がみられており、日本人に日本脳炎に対する備えがなくなっていけば、再び日本でも日本脳炎が大量発生する可能性は残されています。

とにもかくにも、日本脳炎ワクチンは接種再開されました。早いうちに日本脳炎ワクチンの接種率が向上することを願うばかりです。

(尚、北海道では従前より日本脳炎の発症がほとんどなく、日本脳炎ワクチンも接種されていないという状況があります。)





2011年5月13日(金)
ワクチンのはなし  4:ポリオとの闘い(後編)  小児科 別府幹庸

さて、日本は経口ポリオ生ワクチン:OPVでポリオの危機を乗り越え、ポリオの大流行を抑え込むことができました。自然のポリオは1981年からみられていません。

ただ、問題点がもちあがります。このワクチンで「非常に稀」なことですが、ワクチンによるポリオが発症してしまうということがわかったのです。この「ワクチンによるポリオ」は医療のコトバでVAPP: Vaccine Associated Paralytic Polio ワクチン関連麻痺性ポリオと呼びます。ポリオを予防するために行っているポリオワクチンで、予防すべきポリオが発生してしまうのは スゴく大きな問題です。世界を見渡すと、他の先進国ではほとんどが「ワクチンによるポリオ」VAPP発生の可能性がまったくない不活化ポリオワクチン:IPVに切り替わっています。日本でもようやく数年後にはIPVに切り替わるように開発を開始しているところです。

このVAPPは世界的にOPV接種200万~300万に1人の割合で発症しています。我が国では1971年~2000年の間に33例、年間約1人の割合で発症しています。このように極めて稀な副反応ですが、 VAPP発生の可能性があるワクチンを使い続けることには大きな問題があります。ただIPVにしてもある一定のリスクがあることは考えておかなければなりません。最近、Hibワクチンと小児用肺炎球菌ワクチンが広く行われるようになって、残念なことですが接種後数日以内に亡くなった患者さんがまとまって発生しました。ワクチンとの関連は否定されていますが、欧米でも150万接種に1人程度の死亡が確認されており、それだけ多くの方に接種を行うとワクチンとは関係のない死亡例も一定の頻度であらわれてくるのです。IPVに切り替えて再び死亡例が多数発生することもあるかもしれませんし、そのときに、キチンと「これはワクチンに関連する死亡ではない」といえるよう立派なワクチンを開発しなければいけません。いままでOPVでずっとやってきた我が国がIPVに乗り換えるには「超えなければならないハードル」は低くないのです。

ここで、核心の「今、どうすればよいのか?」について考えます。

1.まずIPVが国産化されて「定期接種」として始まるまでにはまだ数年かかるでしょう。

2.現行のOPVはわずかにVAPPの発生があります。しかし、OPVは定期接種として認められており接種年齢の範囲では何か起こった際の補償が手厚いといえます。

3.外国産のIPVを個人的に輸入して接種されている先生もおられます。ただ、この場合は「国のお墨付き」は得られておらず、重い副反応が起こった場合は通常の医療保険でカバーしなくてはなりませんし、日本人でのデータはありませんので、若干のリスクがあるかもしれません。

4.ポリオワクチンを全く受けないという手もありますが、これは「禁じ手」だといえるでしょう。なぜなら、接種率が低下した地域に輸入された自然のポリオが発生するというデータがあること、現行のOPVが接種後におなかの中でで毒性の強いウィルスに変化する例がごく稀にみられ、それが免疫をもたない他のヒトにポリオを起こした例があることなどが理由です。やはり、OPVにしろIPVにしろ接種を受けてポリオに対する備え(免疫)をつけておかないといけません。

箇条書きにした事柄を合わせて考えると...OPVには極わずかにVAPPの可能性がありますが、現在の日本で受けるとすれば残念ながらOPVが最良の選択となるのです。日本小児科学会が「提言」として出している内容も要約すると、「日本でIPVが定期接種化されるまではOPVを接種してポリオワクチンの接種率を低下させないようにしましょう」というものです。ただし、定期接種としてのIPVの早期導入を厳しく求めていかなくてはなりません。

最後に未承認のIPV接種に対する私の考え方を述べておきます。 なお、これはあくまで私個人の考え方ですので、他の先生とは考え方が違うかもしれません。

【親御さんがいろいろな情報を吟味されて「OPVを受けさせたくない、IPVを輸入してでも受けさせたい」という希望があるならば、日本では認められていないワクチンであること、何か大きな副反応が起こった場合は国の補償を受けることができないこと、IPVはVAPPのリスクは0だけれども、その他の通常ワクチンが持つリスクはあるということなどを御理解いただいた上での接種を妨げるものではありません。】

できるだけ早い時期に日本でもIPVが受けられるようになることを望みます。



2011年4月28日(木)
元喫煙者より現喫煙者に送る1通の手紙  事務長 甲斐敏幸

18歳の夏、僕らの周りの誰もがそうしたように普通に煙草を吸おうと思いました。確かに、罪悪感を感じていましたが、それでも始めたのは大人になることへの願望であったり、単に恰好を気取っていたからだと思います。
周囲では父親と兄が、友人も殆ど吸っていたし、大学のクラブの先輩、同輩も美味しそうに吸っていました。山のクラブにいましたので週に2回皇居の周りを走っていましたが、煙草をやめようとか思ったことはありませんし、むしろスポーツ後の爽快感とともに美味しく感じていました。ただ、その頃から副流煙や煙害という言葉もチラホラ出てきていましたので、周囲の人には気を使っていたと思います。
新幹線に乗車した時に隣に年配の女性の方が座られたので、恐る恐る喫煙の許可をいただき、短い時間で吸ったこともありました。そんなおおらかな時代風景でした。

就職してからも1日に40本、2箱喫煙が続いており、朝歯磨きをすると嘔吐感や何ともいえない不快感に襲われていました。
余暇においては登山を続けていましたので、登山口から山頂まで吸っていたイメージがあると、その頃の友人から今も冷やかされます。仕事が予防医療だったので、健康教育用の「タバコ」というビデオなどを見たことがありますが、それも煙草を吸いながら「なるほど・・」なんて頷いていましたから、不道徳極まりない話です。

職場でラグビーチームを作って、医学部の学生たちとも何度か試合をしていたので、身体を鍛えるためにグランドでよく走っていました。ラグビーは集散といって、集まったりばらばらにフォーメーションを変えたり、それもダッシュでその位置に行かないとうまくボールがつながりません。加えて肉体の衝突で筋肉を使いますから、最初の頃はよく酸欠になっていました。酸欠で気分が悪くても、ボールをもらったらトップスピードで駆け抜けていきます。練習中は何度もそんなことを繰り返していました。すると、いつの間にか長距離を速く走れるようになりました。
学生時代も週に2回走っていたし、合宿で山中湖一周16Kmを何度も走っていましたが、まさか自分が長距離を速く走れるなんて思ったことはありませんでしたし、大の苦手でした。そんな苦手意識を持った者が、今では大好きになっています。だから人生は楽しい。本格的に走り始めたのは、たぶんラグビーの練習をしていた頃からだと思います。ダッシュを繰り返して筋肉を使う。そんな練習でしたから呼吸が苦しくて苦しくて。その時に煙草をやめようかなと仲間と話していましたが、練習後の喫煙はやはり美味しい。
禁煙を決定的にしたのは結婚して長女が生まれてからで、素直にやめようと思いました。実は過去に2度の禁煙宣言をして、「366日目に吸う。1年間は吸わない」と公言してその通りにしたこともあったのですが、吸い始めるとやはり美味しく感じられなくなってすぐに禁煙生活に戻りました。禁煙に関しての逡巡はあまり覚えていないのですが、そんな繰り返しがあってやっと禁煙したというのが事実です。

僕の場合は意識的に自分でスポーツを味方につけたり、職場柄喫煙者が減少していったのも後押ししたと思います。自分の強みを味方につけるのもいいと思います。禁煙してからはラグビーの練習は少しずつ楽になってきました。表現が難しいのですが、肌理の細かいフィルターを取り除いたあとのような呼吸の爽快感を覚えました。また食事の美味しさ、食材一つ一つの香りや味わいを感じるようになりました。食事が美味しくなったので体重増加という側面も生じたのですが、ランニングを続けていたので、それも免れることができました。

煙草の匂いを感じなかった人間が、強烈に煙草の匂いを感じるようになったのですが、飾りのない自然の匂いをそのままに受け取ることができるよろこびを今つくづく感じています。
禁煙したよろこびは、必ず受け取ることができると思います。
10代の頃の身体に戻ってみませんか。
小川の風景を取り戻してみませんか。
たとえ禁煙に挫折しても何ら気にすることはありません。それは誰でもあり得ることですし、だから何度もチャレンジすればいいと思います。
健康を感じる喜びは、生の最大のよろこびであり、大きな財産です。煙草前科者の人間の戯言を書きましたが、そんな人間が身近にいて今は心地よく人生を享受しているということ、そしてそれが「禁煙しよう」という目覚めにつながり、ほんの気持ちの支えになれば望外のよろこびです。
現喫煙者のあなたに幸いあれ。



2011年4月27日(水)
ワクチンのはなし  3:ポリオとの闘い(前編)  小児科 別府幹庸

ポリオはポリオウィルスが起こすヒトからヒトへとうつる病気で、熱、下痢、吐くことから最終的に「麻痺」(力が入らず動けなくなること)をしめす病気です。患者さんからポリオウィルスはウンチの中に出されますが、何らかの形で別のヒトに口から入ります。口から入ったウィルスは腸の中で増えて、下痢や吐いたり、熱などの症状があらわれます。< その後、このウィルスは腸から血の中に侵入し、脳の周りにある髄液という水の中や脳から指令を伝える「太い電線」である脊髄に入り込みます。多くのヒトではこの段階で終わるのですが、ごく一部のヒトで脊髄の中の灰白質と呼ばれる部分に入り、その中の前角細胞という筋肉への指令を伝える細胞を壊していきます。そうすることで、脳からの指令が筋肉に伝わらなくなり「麻痺」が起こります。もっとも重症になると、延髄という脳の下の方にある部分に入り細胞を壊してしまい、ここが息をするための指令を送る部分であることから息ができなくなるようになります。救うためには人工呼吸器を使わなくてはなりませんが、ポリオが流行していた時代は、まだ人工呼吸の技術も発達しておらず「鉄の肺」という機械もあまりありませんでした。そのため、重症になった患者さんたちの多くが亡くなられたりしました。

このような恐ろしい病気ですが、現在の先進国ではポリオワクチンのおかげで自然にいるポリオはほぼ根絶されていて、発展途上国などから輸入される例とワクチンに関連するポリオ以外はみられない状態です。
ポリオワクチンは2種類に大きく分類することができます。一つは、生きたウィルスを弱くして入れている経口生ワクチン(飲むワクチンです:英語略でOPVといいます)もう一つはウィルスを完全に殺してしまって「病気は起こらない」がポリオに対する備え(免疫)がつく不活化ワクチン(注射剤です:英語略でIPVといいます)の二つです。

さて、日本でのポリオとの闘いは1960年に大きな転機を迎えます。その当時、日本でもポリオは猛威を奮っていました。
当初、日本でも国内で不活化ワクチン:IPVの開発に着手し、1961年から使用開始しました。しかし、できたワクチンの質が悪かったようで厚生省の検定に通らない。おかげで、接種予定者の2割程度しかワクチンがないという状況に陥りました。

当時、ポリオは予想外の大流行で、年間5600名以上の届け出患者さんがおり、ポリオパニックとなっていましたが、その状況の中、小児科医、ウィルス研究者、行政関係者は「生ワク協議会」を立ち上げ、ある製薬会社から贈られた36万人分の経口生ワクチン:OPVを未承認、未検定の状態で臨床試験として九州地方で広く接種。しかし、社会はこれに満足せず連日のデモで、1961年6月、当時の厚生大臣であった古井喜実を動かし、超法規的措置としてソ連などから1000万人分以上を緊急輸入。これを
ブランケットオペレーション*1として、9歳までの小児に一斉接種しました。

その当時はまだ、交通の状況も良くなかったのですが、約1ヶ月で全国隅々まで接種が行われ、効果は絶大。1963年には患者さんの数が100人以下となり、1981年以降は自然のポリオはみられなくなり、2000年にWHOに対して根絶宣言を行いました。そして、現在まで、日本では自然のポリオは発生していないのです。

今までの経緯でわかるように、日本では経口ポリオ生ワクチン:OPVが救世主といってよい存在なのです。国も当初、不活化ワクチン:IPVで行く方針でしたが、この経緯から生ワクチンを選択する方針に変更し、製造業者を後押ししました。そして1968年からはこの業者を公益法人としました。(つまり、国のお墨付きを与えた訳です。)1971年に改称して「財団法人日本ポリオ研究所」が日本の経口生ポリオワクチンを製造しています。現在は他の先進国のほとんどが不活化ワクチン:IPVに切り替わっているのですが、なかなか日本では切り替わらないのはこのような歴史があるからかもしれません。

ポリオワクチンは論争のまととなっているワクチンです。後編では、日本で行われているOPV:経口ポリオ生ワクチンと他の先進国で行われているIPV:不活化ワクチンについて考えます。

(後編に続く)

*1:現在ではNID(National Immunization Days)と呼んでいるようです。



2011年4月19日(火)
ワクチンの話  2:他国との比較   小児科 別府幹庸

ワクチンは世界中で病気から子供たち、そして、大人たちをも守るために行われています。
国によって違う制度がありますが、先進国ではだいたいの標準があります。
ここで、日本とアメリカの間で、ワクチンに関してどのような差があるのか?少し紹介してみましょう。

まずは、定期予防接種という「国がこの予防接種は受けましょう」といって勧めているワクチンの数です。
この定期予防接種では、接種に関わる費用が補助されます。また、万一健康被害が生じた場合は予防接種法に基づいて補償を受けることができます。

日本では...

1.BCG
2.DPT(三種混合:ジフテリア 百日咳 破傷風)
3.OPV(経口ポリオ生ワクチン)
4.MR(麻疹風疹混合ワクチン)
5.日本脳炎
6.インフルエンザ(高齢者)

の9種類です。(DPTは3種類、MRは2種類と数えます)最近、補助の対象となった子宮頸がんワクチン、Hibワクチン、7価肺炎球菌ワクチンについては実は定期接種という括りには入っていません。
国と自治体が接種に関する費用を補助しており、接種に費用は生じませんが、万一の健康被害の際には医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構という団体が補償します。

話がそれましたが、もとにもどしてアメリカでの6歳程度までの定期接種です。

1.B型肝炎
2.ロタウィルス
3.DTaP(三種混合:ジフテリア 破傷風 百日咳)
4.Hib
5.PCV7(7価肺炎球菌ワクチン)
6.IPV(不活化ポリオワクチン)
7.インフルエンザ
8.MMR(おたふくかぜ麻疹風疹混合)
9.水痘
10.A型肝炎
11.髄膜炎菌

実に、15種類の定期接種があり、さらに驚くことにこれらの定期接種を小学校入学前に終わらせていない場合、入学を拒まれます。
これだけ多くのワクチンを接種するために、複数のワクチンを同時接種することがずいぶん以前より行われています。(一度にDPT+IPV+Hib+PCV7などの6種類というパターンもあります。)
そして、接種にかかる費用は、無料かスゴく低額です。
これも、余談になりますが...例えば、日本人の学生がアメリカの大学に留学する場合、州にもよりますがDPT、IPV(OPVでも可)、MMR、水痘などの接種歴を証明しておかないと、これも入学を拒否されることがあります。

このように厳しい予防接種政策を行っているため、麻疹などの接種率はほぼ100%で、日本で時折みられるような麻疹の流行などはみられません。
このようにキッチリとしたスキのない政策が日本にそぐうのか?、本当にこのような厳しい政策がよいのか?ということはわかりませんが、予防できる感染症ではアメリカ国内にほとんど流行がみられないというのは事実のようです。

もちろんアメリカ合衆国国内でも、このように厳しい予防接種政策に反発する方々もいます。
そして、ヨーロッパ諸国の一部では日本と同様に、定期接種の数は多くないが、任意接種で対応しているところもあります。
ただ、ワクチンによって避け得る病気(VPDといいます)をワクチンを受けないがためにかかってしまい、そして、最悪の場合は亡くなってしまうということを考えると、今後、日本においても姿勢を変えていかなければならないのかもしれないと思っています。
to be continued



2011年4月16日(土)
ワクチンの話 1:歴史   小児科 別府幹庸

ワクチンは予防したい病気の病原体を弱くして体に入れることで、病原体に対する備え(免疫)を作り、その病気にかからなくすることです。
日本語では「予防接種」ということがあります。

昔、西暦1770年ごろまでは天然痘(痘瘡)は非常にコワい病気でした。(かかった場合の死亡率は40%だったともいわれます。)
この病気は、天然痘ウィルスという病原体により、ヒトからヒトへとうつります。
そのころには、アラブの世界ではヒトの天然痘ウィルスを人為的に「まだ、天然痘にかかったことのないヒト」にうつして、その後は天然痘にかからなくするという原始的なワクチンがありました。
しかし、これは処置を受けた人の100人のうち2人程度が重症化して死亡するという危険なものでした。

また、そのころ「牛痘」という牛に発症する天然痘があり、これにかかったヒトは、その後、天然痘にかからなくなるという言い伝えがありました。
このころにイギリスにいたエドワード・ジェンナーというお医者さんが、そのことに対して研究を進め、1796年5月14日、ジェームズ・フィップスというジェンナーの使用人の子である8歳の少年に牛痘を接種しました。
その後、この少年は少しの熱と気分不良を訴えましたが重い症状は出ませんでした。
ジェンナーはさらに、牛痘接種から6週間後、フィリップスに天然痘を接種してみました。(ちなみに、このような実験的医療は現在では許されないでしょう...。)
そして、フィリップスは天然痘にかからなかったのです。

これで、牛痘を接種すると、天然痘にかからなくなるということがわかり、近代での初めてのワクチンということになったのです。
それから、この天然痘ワクチンは種痘とよばれ、1976年まで行われました。
そして、世界中から自然の天然痘はなくなってしまい、種痘は中止され、現在はアメリカとロシアで天然痘ウィルスは厳重に保管されています。

病原体を弱くして体の中に入れて、病原体に対する「備え」を作ることで、病気にならないようにするという現在のワクチンの基礎がこのエピソードの中にあります。
to be continued



2011年4月12日(火)
三重東クリニックの隠れた名所  ケアマネージャー 友江裕幸

みなさん こんにちは!あんなに「寒い…寒いよ~」と凍え、エアコンの室外機が凍りついて動かなかった頃が嘘のように、ぽかぽかの日が続いてます。
朝晩はまだ少し寒いですが、それでも暖かくなりました。
三重東クリニックの玄関から出て真正面に5本桜の木があります。クリニックを作る時に植えたものです。
幹や枝が細く「今年は花を咲かせることは無理か…」とあきらめていましたが、祈りが届いたのか4月2日なんと咲いてくれたのです。
見つけたときは、もしかしたらゴミが飛んできて付いているのではないか?(笑)と目を疑いましたが、本当に咲いていたのです。
植物の生命力の強さを改めて感じた瞬間でした。そして、桜の木の下に緑に萌え、クリニックのロゴマークにもなっている「三つ葉のクローバー」。
このクローバーにもかなり思い入れがあります。
医師をはじめスタッフ総出で、草むしりをしたのを思い出します(あれはきつかった…)そのクローバーも冬場は‘しなしなぁ~’としていたのが、今は元気いっぱい、どんどん成長してくれています。
この三重東クリニックの広場は、クリニックにこられた患者様の心を少しでも癒せる場所になればいいなぁと思っています。
今年の春は忘れられない春となりました。毎日のように流れる災害のニュース。見るたびになんとも言えない思いで胸が苦しくなります。 被災された方は春を楽しむような余裕はないのかもしれませんが、皆で助け合いあきらめずに前に進むことで、三重東クリニックの細い桜の木や、クローバーのように元気に成長していくことが出来るのかなと考えました。
それぞれが出来ることをする。それしか出来ないし、それが最善の方法だと思います。
また来年桜の木が咲く頃には、少しでも復興され春を皆で楽しめることを心から祈って…。

クリニックの桜と三つ葉です。


2011年4月12日(火)
本匠小学校校歌 「水の大地」   事務長  甲斐 敏幸

伊勢正三さんが本匠小学校の校歌を作ったことは、以前新聞に掲載されていたので知っていた。
ネットで伊勢さんのCDを2枚注文して、その中に「水の大地」が入っていた。
人を感動させるものは強さや技術や美しさなど。
しかし、この歌は暖かさですべてを包み込むような、そう、許しあえるような大きな暖かさを感じた。
折しも東北の被災という悲しい状況のなかで、この歌は日本人のすべてに勇気と希望を与えるようなLove songだと思う。
校歌として作ったことに間違いはないが、校歌を遙かに超えている。

数十年前、義兄が本匠診療所に着任していた頃、家族で遊びに行った。
やまめ釣りをしていた僕らに、下校中の小学生数人が集まってきた。
「おじちゃん、川の虫を餌にするとよく釣れるよ!」。
そう言って、ザブンと服のまま川に飛び込んで、僕に川虫を持ってきてくれた。
彼らの言葉、眼差し、行為、去り際、一連の素朴さに僕らは感動した。本匠にはそういう強い想い出がある。

この歌を作った伊勢正三さんに最大の感謝を申し上げたい。
そしてこの優しく力強い日本人の心に残るような歌を本匠だけではなく、偶然に知った人たちに分けてあげたくなった。
是非聴いてください。

1 川の光りと ふるさとの山々よ
 いつも心に 清き水の大地を
 緑のこの星に 僕らは生まれてきたんだ
 澄みわたる青さの 番匠の流れよ

2 今は小さな 希望をふくらませて
 西と東が 出会ったこの場所で
 未来の自分と いつかは語りあえるんだ
 学び舎の窓から 大空の向こうへ

3 森のしずくが せせらぎに変わるまで
 時に抱かれた 美しいホタルの里
 緑のこの星を みんなで守ってゆくんだ
 果てしない命の 番匠の流れよ

本匠小学校校歌 「水の大地」 作詞・作曲 伊勢正三  編曲・佐藤準




2011年3月31日(木)
<私のお気に入り> ~読書篇~   事務長  甲斐 敏幸
「次郎物語」 下村湖人 新潮文庫  上・中・下


中学入学時に叔母から分厚い装丁の本をお祝いとしていただいた。
立派な単行本で、頁をめくるパラパラとした軽やかな音を今も思い出す。
人生の転機において「次郎物語」を何度も読んだ。
それは自分を投影していたわけではなく、少年時代の多感な情緒と相容れるものがあったと思う。
例えば社会正義という理想が届かぬ夢であったとしても、また、明日世界が滅ぶとしても、今日りんごの木を植えたいではないか。
何かに取り憑かれたように邁進する人は輝きを放つ。
本田次郎の波乱万丈の青春は、父俊介のどっしりとした父性愛、乳母のお浜の直接的な愛情に支えられ、それに対する祖母の嫌悪があったとしても、それでも次郎は「常に自らを省みながら、生きる意味を考える」という命題の中で真っ直ぐに成長していく。
平凡で恬淡とした人生は何も得ることができない。
変化や波乱万丈の中にこそ成長のエッセンスが隠されているのではないか。
所属することの安心と連帯は時に自分を埋没させ、やがて流され、命題から遠ざかっていく。
私たちすべてがそれを放棄しているとは言わない。
なぜなら今の東北を見るがいい。イザベラ・バードが見た、純朴で礼儀正しく希望に満ちた日本人がそこにいるではないか。

昨年の5月に佐賀県神埼市の湖人の生家を訪ねたが、次郎物語の世界が時を超えて端坐し、僕はそれらのきらめきをたくさん集めることができた。
2階の子供部屋、そこから見える中庭の井戸、祖母からお仕置きされて閉じ込められた暗い納戸、そして限りなく拡がる小麦畑とクリークの風景。
先日、橋本豊後大野市長とお話しする機会があり、下村湖人の最後の愛弟子である吉田嗣義さんの人となりを伺った。
数ヶ月居座ってアメリカに旅立つつもりだった市長は、吉田氏の薫陶を受け、長らく「任運騰々」の精神を守る砦となった。
湖人の意思は連綿と受け継がれていると思う。
ここ豊後大野市はそんな気風の漂う町であり、湖人が指差した町だったのだ。
                                          (橋本市長既読、掲載了解済み)



2011年3月14日(月)
あなたの歩く速度はどのくらい?
歩行速度と余命には強い関連があります! 
Gait Speed and Survival in Older Adults ,January 5,2011 et al.305(1):50 JAMA  内科 飯尾文昭


生活習慣病の予防や「健康長寿」の実現に、日頃からの運動習慣が欠かせません。

今年の一月、海外からこんな興味深い研究が報告されました。
65歳以上の34,485名の歩行速度と余命について6〜21年にわたって追跡調査したものです。
65歳以上の方の平均歩行速度は0.92m/秒(時速3.3キロ)でした。

歩行速度が早い(運動能力が高い≒元気である)方ほど、見事に余命が長いことが男女ともに確認されました。

あなたは運動習慣をお持ちですか?
少し速足でのウォーキングを心がけておられますか?
速足ウォーキングを心がければ(運動習慣がつけば)余命が延びるかもしれませんよ!


     男性65歳で時速4Km/hで歩行される方の余命は、約20年!               時速3Km=0.8m/s、4Km=1.1m/s、5Km=1.3m/s



2011年2月28日(火)
郷土の力士 物見山団蔵   事務長 甲斐 敏幸


大分が生んだ不世出の横綱「双葉山」の名前は、県民の誰もが知っていることだろう。
69連勝という輝かしい連勝記録と、「相撲道」を窮めたことでも有名だ。双葉山は片目が殆ど見えなかったにも拘わらず、これらの偉業を成し遂げた。
身長179㎝、体重135Kgで、今で言えば引退した若乃花と殆ど同じ体格をしていた。
しかし、横綱を維持し勝ち続けるというプレッシャーは、常人には及ぶことのない余程凄まじいものがあるのだろう。
精神的な支えを中村天風に求め、彼の弟子となった。
勝負の世界は、紙一重で天国と地獄が入れ替わる。
そういう断崖絶壁の縁に絶えずさらされていると、精神的にも参ってしまうから神仏に頼って強い己を認識させようと努めるのかもしれない。

さて、大分県は力士を多く輩出しているのだが、大分市出身の力士はご存知だろうか。
もちろん、碩田中学出身の千代大海が大活躍したのは周知の通りである。この他にも有名な力士がいるのである。
今も記念碑が残っており、大横綱と呼ぶにふさわしい力士だ。
その名は「物見山団蔵」という。
団蔵は元禄14年(1701年)、臼杵藩稙田郡宗方村の下宗方に生まれた。
1701年の日本は、「藩幹譜」の新井白石、「筑前続風土記」の貝原益軒などが活躍した年である。
翌年は赤穂浪士の仇討ちがあり、尾形光琳、「曾根崎心中」の近松門左衛門が世に出ている。
世界では、スペイン継承戦争でプロイセン王国が成立し、1706年にはイングランドとスコットランドで大ブリテン王国も成立した。
バッハやヘンデルの楽曲が出たのもこの頃である。江戸の元禄文化も華やかなりし時代背景であった。

団蔵は幼い頃から体格は逞しく大きく、14歳の頃には身長6尺有余(188センチ)で、筋骨隆々の力持ちであった。
14歳のある日、村道を牛を牽きながら薪をたくさん運んでいる時に、隣りの府内藩の殿様の巡行に出会った。
前払いの武士に牛の退去を命じられて、平然として牛の4本の足を縛り上げ、軽々と両手で持ち上げて道の外に侍らせた。(この話の信憑性は薄いが、それだけ特異であったことだけは確かであろう。)
その様子をじっと見ていた府内藩の殿様は、その怪力と剛胆さに驚きながらも、団蔵を呼んで、力士になって相撲に精進するよう勧めた。
後日、臼杵藩主の稲葉候に会った時に団蔵の話をした所、大変驚きながらも感心し、力士にしようと考えた。
そして元文二年(1737年)、お抱え力士として団蔵にいくらかの支度金を与え、根〆金団蔵という名で大坂(現大阪)に上った。
この年、大坂の天満奉納相撲での10日間、団蔵は全国の強豪力士を破竹の勢いで倒し続けて全勝優勝した。
また、京都祇園林での奉納相撲大会においても、泉州八角、筑前秋津嶋の二大関に勝ち、全勝で優勝号を奉納した。
その獲得した賞品、引き出物が土俵に山を成して、これを見物に来る人が何日も後を立たず、門前市のような賑わいだったという。
それで団蔵の四股名は「日下開山物見山団蔵」というように改名した。(ヒノシタカイサンと読む。意味は、天下に肩をならべる者が無いほど強いこと)
団蔵が全盛の頃の体重は、今に換算すれば200キロくらいはあった。ちょうど元横綱武蔵丸の同じ身長と体重であるから、その風格が分かる。
こうして、京都、大坂には団蔵に及ぶ力士がいなくなったという。
しかし、あまりにも強かったので、他の力士たちに恨まれて毒を盛られ、体が弱くなり次第に病気になっていき相撲も取れなくなった。
後年、病のため下宗方に帰り、寛延二年(1749年)48歳で没した。

団蔵の墓地には碑文が認められ、その栄誉を讃えている。
惜しむらくは、団蔵の資料が余りにも乏しく、郷土では碑文から当時の模様を推測するしか方法が無い。
蔵前国技館に併設されている相撲博物館には、「日下開山物見山団蔵」の墓地の写真等が所蔵されている。
「日下開山物見山団蔵」の名は、相撲の歴史の中に燦然と輝いており、郷土の誇りであることに異論は無いだろう。




2011年2月28日(火)
<ありがとうの甲斐さん> ~夫婦篇~   事務長 甲斐 敏幸


ちょっとノロケ話をひとつ。
もう10年以上前のことであるが、妻が10日間ほど入院した。
ベッドの隣は大分銀行の女性行員の方で、妻と仲良くしていただいた。
僕と子供たちは毎日のように見舞いに行き、その方ともよくお話をした。
ちょうど妻が席を外している時に、その方が僕に話した。
「甲斐さんはネ、この部屋ではネ、ありがとうの甲斐さんて呼ばれているのヨ」。
おっしゃる意味は、僕にはよく分かったが、子供たちには皆目分からずのようだった。
妻は、ほんのちょっとした気配りや行動、言葉に、必ず「ありがとう」を言うのだ。
結婚前から、この言動は好ましいと感じていたが、あえて深くは考えていなかった。
その方から、改めてそう言われてみて、自分自身の言動を考えてみた。
人の好意に対して、「すみません」と言うことはあっても、「ありがとう」という言葉は少なくなかったか。
もっと「ありがとう」という言葉を素直に表現できたら・・
その時から、僕も「ありがとう」をたくさん言えるようになった。
今は子供達も大きく育って、「すみません」ではなく、いっぱいの「ありがとう」を周囲に告げている。
人への感謝の気持ちがあれば、不平、不満の入る余地はない。
「ありがとうの甲斐さん」、ありがとう。




2011年2月16日(水)
『杵築市のひいな祭り』にて・・・   内科 宇都宮健志


2/11の午後から杵築市にひな祭りを観に行ってきました。
商店や旧武家屋敷などを中心に合わせて26か所で様々な雛飾りを展示してあり、スタンプラリー形式になっているために、小学生の子供たちも参加しやすくなっていました。
今回は、十分な時間がとれなかったので、11か所しか見学できませんでしたが、非常に勉強になることもあり、大変楽しめました。
大原邸では、非常に熱心なおじさんから雛飾りについて説明をいただきました。

1、本来お内裏様は、向かって右側に配置される。
(御所である紫宸殿は南向きに建てられており、南を向いて東(日の昇る)側に、上位の者が配置される。)
2、三人官女は、お内裏様側に長い柄の柄杓を、お雛様側に柄の短い柄杓を持たせる。
(お内裏様に、お酒をお酌する者の息がかからないようにするための配慮。お雛様は、甘酒だから短くて良い?)
3、五人囃子は、お内裏様側から、謡い手・忍笛・小鼓・大鼓・太鼓と配置する。
(お内裏様に謡がよく聞こえ、また、大きな音の楽器は出来るだけ遠くにという配慮。)
4、仕丁は従者をあらわし、通常、祖父・父・子からなる3人1組である。
(祖父が最も偉いので、向かって右。父は左。子は中央だが、祖父・父より、やや下がって位置する。)
5、菱餅は、緑・赤・白の三色が正式。

(各色には様々な意味が持たされており、その都度順序を入れ替えて、子供に教育することもあったらしい。)
その他にも為になる話を沢山伺う事が出来ましたし、非常に有意義な時間が過ごせたました。かなり寒い日ではありましたが・・・
3/6(日)まで催されていますので、お時間のある方は是非行かれてみては如何でしょうか?



2011年2月10日(木)
幸福度の高い人ほど長生き!!  内科 飯尾文昭


皆さん、「笑う門には福来る」ではないですが、こんな研究から明らかになったことがあります。
「幸せを感じることがよくある」「よく笑う」人ほど、そうでない人に比べて15年に渡る追跡調査で長生きであることがオランダの研究でわかりました。
ぜひとも、ごきげんな毎日を心がけたいものですね!!

Koopmans TA et al.Effects of happiness on all-cause mortality during 15 years of follow-up:The Arnhem Elderly Study.J Happiness Stud 2010;11:113-124

幸せな人(Happy)は、不幸せ(Unhappy)な人よりも長生き(死亡が少ない)ことが分かります。



2011年2月3日(木)
『ためしてガッテン』見ましたか!?・・・(内科 宇都宮健志)


☆ がん発見!最先端スペシャル ☆ でしたね。
  すごい!すごい!すごい!の連続だった事と思います。
     せっかくの機会ですので、ひとつずつ解説しておきましょうね。

①仮想内視鏡(Virtual Endoscopy:バーチャル内視鏡)
皆さんご存じのCT検査で腸管のCG(コンピューター グラフィックス)画像を作成し、あらゆる角度から確認することで非常に小さな病変も見つけられます!すごい!
ただし、腸管内を完璧にきれいにしておく必要があります。
野菜や果物の種などが、ポリープとして検出されます。(昨日の番組でも小さな金属球がまさしくポリープのように描出されていましたね!?)
つまり、通常の内視鏡検査と同様に腸管洗浄液は飲んでいただく必要があります。
食べ物のカスなどが残っていれば、それがポリープと間違われる可能性が高いのです。
また、ポリープなどが疑われた場合には内視鏡検査による組織検査が必要となります。
幸い日本の医師は、海外でも内視鏡技術が秀逸だと評判で、麻酔薬を程よく使用することにより安楽に内視鏡検査を受けられますし、その場でポリープ切除などの処置が行える利点があります。
一方、CG(コンピューター グラフィックス)画像作成用のコンピューター ソフトは非常に高額な上、画像を作成する際に膨大な時間が必要です。
1人分でも数時間かかり、一般検診にはまだまだ導入に時間がかかります。(番組でも検査代¥3万円程度。全国に10施設程度って言われてましたよね。




結局、当面は通常内視鏡検査を受けることが最善となります。

②喀痰細胞診(肺がん検診)から喀痰遺伝子検査へ・・・すごい!
非常に画期的な診断法で、間違いが少なく、また、診断をする側の負担もかなり軽減されますネ \(^o^)/
しかし、肺がんには、小細胞がん・大細胞がん・扁平上皮がん・腺がん・肺胞上皮がん・・・などの種類があり、この癌遺伝子マーカーは最もメジャーである小細胞がん以外のがんに特異的なマーカーです。
また、私たちの母校である自治医科大学 呼吸器内科で開発された方法ですが、まだまだ全国どこでも受けられる検査ではありません。

<肺癌の新規癌遺伝子の発見>

Identification of the transforming EML4-ALK fusion gene in non-small-celllung cancer

③がんになる確率がわかる?・・・すごい!
番組では、一般男性54%、女性41%と言っていましたね。
また、これに喫煙・飲酒・肥満などの要因が加わることで更に確率は上昇するとも言っていましたネ (>_<)
更に、リンチ症候群などの遺伝性疾患についてもふれられていましたネ・・・
人はいずれ死を迎えます。つまり、自らを死に至らしめる状況(“がん”とは限りません!)に必ず遭遇するわけです。
だからこそ、生ある今この時を元気に楽しく生きていたいですよネ!
今回の『ガッテン』で言わんとしていたことは、『がんになる確率70%!・・・おまえはもう死んでいる・・・(by ケンシロウ)』ではなくて、がん検診の診断能力向上により、早期発見・早期治療がより確かなものになってきているので、しっかり検査を受けましょう!!!なのです。

人の一生は、コンピューター ゲームのようにリセットしてやり直すことは出来ません!
“今”を元気に楽しく生きるために、恐れすぎず・高をくくらず、出来る努力を惜しまないで下さい!! 私たちも微力ながら、お手伝い致します。
一緒に身も心も健康になりましょう!!!


2011年1月29日(土)
タバコの弊害、有名なスモーカーズ・フェイスです ・・内科 飯尾文昭


みなさん、下の画像を御存じでしょうか?
〜Action on Smoking and Healthホームページより〜

22歳の双子が40歳になったときを予想した写真です。(実はコンピューター画像)
双子なのにかなり顔に差がありませんか?
左の方は喫煙者です。
顔色が悪い、肌に張りがなくなり、しみが増え、乾燥したしわの多い皮膚ですね。
また歯にはヤニがつき、歯肉の色も悪いです。
タバコは見た目も10歳以上老化を進めます。





2011年1月22日(土)
<カゼの予防に干しシイタケ??> ビタミンDの免疫力への効能・・・内科 飯尾文昭


インフルエンザの流行する季節となってきました。
予防には、手洗い・うがいの重要性が言われていますが最近、以下のようなビタミンDによるインフルエンザ予防の研究 結果が日本(東京慈恵医大)より報告されました。

6歳から15歳の子供を対象に、一日1200単位のビタミンDを4ヶ月間摂取した群とプラセボ薬(ビタミンDは入っていない)
を摂取した群を比較し、A型インフルエンザにかかった数を調査しました。

     ビタミンD

ビタミンD摂取群・・・18人/167人(10.8%)がインフルエンザにり患


     プラセボ

プラセボ摂取群・・・31人/167人(18.6%)がインフルエンザにり患


グラフを見るとあまり差がないように見えるかもしれませんが、統計の計算を行うと、有効性が確認されています。

では、どのような食品にビタミンDが多く含まれているのかというと、干しシイタケやイワシの丸干しなどに含まれているんですね。



参考文献:Randomized trial of vitamin D supplementation to prevent seasonal influenza A in school children 1-3


2010年12月17日(金)
好きなタバコを楽しんでポックリ逝けたら本望?・・・(内科 飯尾文昭)


当クリニックも開院以降、禁煙外来をご利用いただいています。
頑張って禁煙に励む患者さまがいる一方で、「好きなタバコを楽しんで、ポックリ逝けたら本望だ!禁煙で我慢するよりは、好きなことをやった方が体に良い」とばかりに禁煙に耳を貸していただけない方もおられます。
本当にタバコを楽しんで「ポックリ逝けるか」5,811名を調べたデンマークの調査があります。
その結果は 「喫煙者は健康な人生が12年短く、5年長く病気に苦しみ、7年早く死ぬ」 という結果が出ました。
人生を楽しむためには、やはり禁煙が必要なのではないでしょうか!? (参考資料:禁煙センセイの楽しく禁煙)




2010年11月11日(木)
努力を続けるということ・・事務長 甲斐敏幸


1987年にアカデミーのアーヴィング・タールバーグ賞を受賞したビリー・ワイルダー監督のスピーチ。
川本三郎著「アカデミー賞」(中公新書)から引用。

”ジャック・レモンからタールバーグ賞のトロフィーを受け取ったこの老名監督は、何百万人ものファンに感謝すると言ったあと、
「とりわけウィル・ロジャースに似た名前もわからないアメリカ人の紳士に感謝したい。彼がいなかったらいまの私はない」
とこんなエピソードを語った。
ビリー・ワイルダーは1943年にナチス・ドイツを逃れてアメリカに亡命しようとした。
しかしメキシコでアメリカへの正式入国許可証がないことがわかった。
彼はメキシコのアメリカ領事館へ出頭した。ここでヴィザが降りなかったら彼はドイツに送り返される。
それは死を意味する(彼の母親はアウシュヴィッツで死んでいる)。
不安な気持で彼は一人のアメリカ人の役人の前に立った。役人は職業は何かと聞いた。
ビリー・ワイルダーは「ライト・ムービーズ(映画の脚本を書く)」と答えた。
すると役人は「いいのを書くんだ」といって入国許可証をくれた。

「それ以来、私はいい作品を書くように努力してきた。あの名前もわからないアメリカ人のおかげでいまの私がいる。彼に感謝したい」。
授賞式の会場じゅうが大きな感動の拍手に包まれた。”



ビリー・ワイルダー(Billy Wilder, 1906年6月22日 - 2002年3月27日)はアメリカ合衆国の映画監督、脚本家、プロデューサー。
50年以上映画に関わり、60本もの作品に携わった。



2010年10月22日(金)
<住み慣れた自宅で>・・ケアマネージャー 友江裕幸


どんな方でも平等に訪れる「死」。とても辛く、悲しいことではありますがその「死」をどこで、どのようにして迎えたいか。
みなさんは考えたことがあるでしょうか?
今の日本では、約80%の方が「死」を病院などの医療機関で迎えられています。
決して医療機関で最期を迎えるのが悪いわけではありませんが、「住み慣れた自宅で最期まで過ごしたい」と望んでも、それがかないにくい現実があります。
以下は、読売新聞掲載記事の抜粋です。

~住み慣れた自宅で最期を迎える。その実現には何が必要なのか。
認知症や心臓疾患のあるある女性の要介護度は現在、最重度の「5」。
家族が朝と週末に訪れるほか、訪問介護・看護、医師の往診を受けている。
しかし、一人の時間も多い。万一の事態がいつ起きてもおかしくないが、「救急車は呼ばない」と以前から約束している。
家族やヘルパーが異変に気づいた時は、田中さんの勤める訪問看護ステーションに連絡し、そのうえで往診医を呼んだりすることになっている。
女性の次女(64)は「母にとってはこの家こそ『自分の居場所』。最期は家で迎えさせたい。
訪問看護や往診の先生たちが支えてくれるので安心です」と話す。
厚生労働省によると、2009年の1年間で、最も多かった国内の死亡場所は、医療機関で81%。自宅での死亡は12%にすぎない。
08年の別の調査では、一般国民の63%が終末期の自宅療養を望むと回答。
一方で66%が「家族に負担がかかる」「急変した時の対応に不安がある」などから、家で最期を迎えるのは実現困難と答えている~


本人、家族が自宅での「死」を…と望んでも、それを実現することは容易ではありません。
しかし、記事にもあったように、その希望を少しでも叶えるため本人・家族と一緒に、医師や看護師、ケアマネージャー、ヘルパー等が協力することが出来ます。
家族だけが全てを背負ってしまっては出来ないことも、みんなで一緒に支えあうことで出来る事もあります。
初めにも書きましたが、決して医療機関で最期を迎えるのが悪いのではありません。
少しでも本人、家族様が「死」を迎える場所を選択できるようになればよいのではないかと思います。
当クリニックでも‘訪問診療’を行なっています。
在宅で生活を続けたい方のご協力ができればと思っています。




2010年10月10日(日)
十五夜「名月く〜れんな」・・子供たちに癒されて・・看護師 松本真弓


「名月く〜れんな!!」、「名月く〜れんな!!」と子供たちの元気な声が響きます。
私の住んでいる地区では、毎年十五夜、子供たちが「名月く〜れんな」と言いながら家々を回って、お菓子などをもらいます。
私の家でも、毎年50〜60個ほどのお菓子を準備します。
夫から「もうやめてもいいのでは?」と言われます。でも、元気な子供たちの声を聞けるのが楽しみで続けています。
昨年は、9月22日が十五夜でした。
霞みかかった月明かりの中、元気な子供たちの声が、玄関灯の明かりを目当てに「名月く〜れんな!!」、「名月く〜れんな!!」とやってきます。
買い物袋一杯にお菓子をもらって重たそうに歩いてくる子供、我先に駆け込んでくる子供、目当てのお菓子を真剣に探す子供、「おばちゃん、今年も僕来たヨ!」とニコッとする男の子。
姉弟でしょうか?二人にお菓子をあげたら、「お礼いわんな」とお姉ちゃんが弟に言い、弟が「ありがとう」とお姉ちゃんの背中に隠れながら恥ずかしそうに言う。
本当に子供たちの笑顔を見ると自分も嬉しくなり、心が癒されます。(年をとったせいでしょうか?)

「名月く〜れんな」とは、農家の方々が豊作を祝って、十五夜の日に、取れた作物を月にお供えします。
ウサギがその作物を取りに来ないため、子供たちに分け与えたのが始まりと語り継がれています。
昔ながらの風習とはいえ、子供たちには地区の方々からのいただきものを、感謝の気持ちで食べてほしいと思います。
もうしばらく、野津っ子の元気な笑顔を見るため、十五夜には玄関の明かりを消しておこうと思います。




2010年9月10日(木)
<私のこだわり>・・ケアマネージャー 友江裕幸


私のこだわり…と言う程大したことではないのですが、続けていこうと思っていることを紹介させていただきます。
それは「空の写真を撮ること」です。
もともと空を見るのが好きで、いつまで見ていても飽きません。(ただすぐに夢の世界にいくことが多いです…。)
空の写真を撮り始めたきっかけは、友人の一言から。

「良いことがあった日の空って覚えちょん?」

それから良いことがあった日や何かの記念日等には、その日の空の写真を撮るようになりました。

撮り始めの一枚目は、長女の誕生日の空。
7月1日生まれで、ちょうど梅雨時期でした。妻がうーん…うーん…と、声にならない声をあげている最中は、大雨だったことを覚えてます。
そんな中、長女は生まれました。長女を初めて抱き、感動し目からも大雨が降っていたことも併せて覚えてます。
少し落ち着いてから、入院中の部屋の窓から外をみると、雨はあがり少し日が射してました。

そこで一枚…ピシャリ!! 今でも、その写真をみてはその時のことが思い浮かびます。

最近では、三重東クリニックの開院。9月1日に空の写真を撮りました。
いろいろなことがありながらも、さまざまな方々の支援を頂きながらやっと開院にこぎつけたことに喜びを感じながらも、いよいよ…という緊張感も感じました。

そこで一枚…ピシャリ!! 下に載せている写真がその時の写真です。

これから10年、20年と経った頃、この写真をみて開院した時の新鮮な気持ちに立ち返りながらも、「あん時はきちかったなぇ!(笑)」など、みんなで話ができればいいなと思っています。

まずはスタッフ一同一丸となり、地域の方々のお役に立てる三重東クリニック、三重東介護サポートセンター三つ葉になれるように邁進して行きたいと思います。




2010年9月3日(金)
<私のお気に入り> ~読書篇~「山桜」 藤沢周平 事務長 甲斐 敏幸


「時雨みち」という文庫本の中に収められている僅か26頁の短編です。映画にもなりました。
藤沢周平に関しては、「蝉しぐれ」等で映画化したもの、市井人情ものなどで数篇しか読んでいません。
司馬遼太郎は「竜馬がゆく」を始めとしてかなりの小説を読んでいますが、読後感は明らかに違います。
両者はそれぞれに素晴らしく大好きなんですが、藤沢周平は細やかな深さが感じられて味わいがあります。
まだ数点しか読んでいないのでよく分かりませんが、弱者の視点から書いているものが多いようです。
日本人は確かに判官贔屓といわれますが、それを差し引いても藤沢周平の作品に流れる概念 は「誠実さ」であるように思います。

何かの本で読んだことがありますが、2.26事件で教育総監の渡辺錠太郎が青年将校らによって射殺された。
その射殺現場に子供の頃居合わせた娘が渡辺和子で、ノートルダム清心女子学園の理事長です。
彼女はマザーテレサが来日した時の通訳だったのでご存知かもしれませんが、彼女がアメリカに留学していた時の話。
渡辺さんが修道会のテーブルに皿を配っていた時に、一人のシスターが、「渡辺さん、今あなたは何を考えながらこの皿を配っていますか?」と聞いた。
渡辺さんは、「えっ、何も考えていません・・・」と答えた。
シスターは、「渡辺さん、あなたは時間を無駄にしています。あなたはこの皿を使う人の幸せを祈りながら配ることができます。
世の中に雑用という仕事はありません」と言った。

簡単な仕事とか難しい仕事とか区別している内は、その程度の仕事しか出来ません。
頼まれた仕事をどれだけ誠実にやっているか。
お茶を入れる仕事は難しい仕事ではないかもしれませんが、それをきちんとこなせないのであれば、責任のある仕事はその人に任せることは出来ません。
社長から言われたことも、部下からお願いされたことも、一旦引き受けたなら淡々と確実にß遂行していく。
1,000人との約束だからする、1人との約束は後回しでは無い筈だ。
10,000人の前でも一生懸命にお話をする。50人でも一生懸命にお話をする。
それが誠実であるということでしょうか。
藤沢作品の底に流れる清らかさは、誠実であるということかもしれません。
そういう匂いがするのだ。









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