ありふれた「三つ葉のクローバー」として・・・


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 私たちが目指すものは、生活に密着したぬくもりのある医療を提供することです
 特別なものでもなく、日常に溢れる延長の先に、より心地よい健康を見つける作業をお手伝いしたい
 いろいろな情報を通して、何よりも皆さまの心からの笑顔を感じたいと願っています



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    お知らせ


  • 小児科での受診はWEB予約をお願い致します。
     予防接種の際は必ず「母子手帳」をご持参ください。


    <更新情報>
  • 3/24 坪山医師のエッセイ「手を当てる」をアップしました。
  • 2/28 甲斐事務長のエッセイ「小林秀雄の『人形』を読んで」をアップしました。
  • 2/27 坪山医師のエッセイ「リバイバル『ながら族』」をアップしました。
  • 1/28 坪山医師のエッセイ「分かりやすさこそ深い」をアップしました。
  • 12/19 坪山医師のエッセイ「泣きじゃくる母」をアップしました。
  • 11/28 坪山医師のエッセイ「皇帝ダリア」をアップしました。
  • 11/10 甲斐事務長のエッセイ「九重山群トレイルランニング縦走記録(5座)」をアップしました。


  • 清川診療所は坪山明寛医師が月曜から金曜日まで診療致しますが、水曜日の午前中は休診し、三重東クリニックで診療(完全予約)致します。
  • 三重東クリニック、清川診療所では、睡眠時無呼吸症候群(SAS)の検査を実施しております。
  • 小児科 予約システムを導入しました。携帯電話やパソコンから診察の順番取りができます。
    「小児科の待ち時間について(お知らせ)」 (pdf) です。ご一読ください。
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  • 予防接種は予約制です。必ず電話をしてください。

  • 特定健診が受診できます。予約制です。受診券と保険証を必ずご持参ください。

    ご案内(pdf)
    診療受付 月〜土曜(水・土は午前のみ)
    午前 内科・小児科 8:30〜12:00
    午後 内科 13:30〜17:00
       小児科 15:00〜18:30

    〒879-7104
    豊後大野市三重町小坂4109-61
    TEL 0974-22-6333
    FAX 0974-22-6341

    統括管理者    内科  宇都宮 健志
    副院長      内科  飯尾 文昭
    院長       小児科 別府 幹庸
    清川診療所所長  内科  坪山明寛(水曜午前のみ)
    休診日 日曜・祝日・年末年始

    □関連施設のご紹介

  • 清川診療所
     院長 坪山 明寛
  • きよかわリハビリテーションセンター もみの木
  • きよかわ介護サポートセンター 三つ葉


    ■動画のページ
     FM大分、毎週金曜日の朝、7時50分より、「関愛ヘルシーミニッツ」で健康アドバイスをしています。


    ■患者さまからの声
     当クリニックでは皆さまからのご意見をいただきながら、今後の運営に活かしていきます。貴重なご意見ありがとうございます。


    ■スタッフのエッセイ集です
    過去記事: /2016年(18篇) /2015年(17篇) /2014年(19篇) /2013年(17篇) /2010年〜2012年(41篇)

    ■「手を当てる」清川診療所 所長 坪山明寛 2017.3.24
    ■「小林秀雄の『人形』を読んで」三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸 2017.2.28
    ■「リバイバル『ながら族』」清川診療所 所長 坪山明寛 2017.2.27
    ■「分かりやすさこそ深い」清川診療所 所長 坪山明寛 2017.1.28






    2017年3月24日(金)
    「手を当てる」 清川診療所 所長 坪山明寛 

     古来「暑さ寒さも彼岸まで」と言われる。意味は読んで字のごとく、夏の暑さも秋分の日を過ぎると和らぎ、冬の寒さも春分の日を過ぎると和らぐということだ。3月21日東京は靖国神社の桜の標本木が五輪咲いたらしく「開花宣言」がなされた。春です、いよいよ春です。とはいえ清川の朝はまだ寒さが残っているこの頃だ。
      診察の手をあたためる余寒かな 明寛
    医師は患者さんの身体に直接手を当てることが多い。時々うっかり冷たい手を、背中やお腹(なか)に当ててしまい、びくっとされることがある。おもわず「あっすみません」と謝る。そんなことがないように、寒い日は、診察の前にストーブで手を温めることにしている。
     医師が手を身体に当てることは、「触診」という診察法になる。脈を診るのも触診になる。学生時代には触診を始め、打診、聴診の練習を一生懸命した。しかし医療機器、特に画像診断機器(超音波、CT・MRIなど)の進歩に伴い、これらの診察法は、立ち位置をなくしてきている感があるが、私は大切にしたいと思っている。勿論診断をはっきりさせるためには、診療所にはない各種の医療機器検査を、他院にお願いして利用していくことは、大事なことだと思う。
     ある日のことだった。お箸で食事が摂れないので、匙を使っているという高齢女性がいた。指の力がないのかなと思って、その方と指の力比べをした。私が「はい 力いっぱい曲げて」と合図すると、その方の指にグイッと力が入るのが分かった途端、私の指は伸ばされ、あまりの強さに体も引き込まれそうになりました。「イヤー参った。強いな・・」と言いながら手を見て触ると、指も太くがっしりして、皮膚も厚くなっていた。一生懸命に農作業をして生き抜いてきた手が、そこにはあった。私はその手の持つ迫力に心底敬意を覚え「働いた手ですね」と言った。すると「いや~汚いだけ」と言いながら、「先生の手は可愛いな」との言葉が返って来た。それを聞いて、改めて自分の手を見た。医師として幾百人もの方々の脈を、しこりを、熱を触って来た手ではあるが、この婦人の手と比べた時に、強さという迫力はなく恥ずかしくなり引っ込めた。土とともに生きてきた方の手を見ると、生き方に嘘がない手だと思う。
     啄木に「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る」という歌がある。啄木は26歳で命を落としたが、この短い人生で放蕩もしているが、彼なりに一生懸命生きたけど、母親と奥さん、二人の娘を抱え、生涯不遇な暮らし向きであった。これはその心境を歌にしたのだろう。私には、俯いて手をじっと見ている啄木の姿が浮かび、胸がいっぱいになる。私達は、何かお願いごとをする時には手を合わせる。敬意を表するときには手を叩く。目は口ほどにものを言うが、手もその人の言わんとすることを素直に表現する。特に手は、文字を記す力を持っている。文字ほど伝達手段として強力なものはない。
     文字と言えば、最近面白い事を知った。西郷隆盛と勝海舟の会談で、江戸無血開城が決まり、江戸は焼け野原を免れた。その背景に、大田垣蓮月という女人の文字があったそうだ。西郷の官軍が江戸に進軍し京都三条大橋にかかった時、蓮月が西郷に「あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の人と思へば」の和歌を渡したのだ。これを読んだ隆盛は、江戸城の武力解放には慎重になったとのこと(磯田道史「江戸の備忘録」)。手は力を持っている、生きる力、人を変える力を。私は医師という職業のなかで、触診という診察法の持つ力(情報を得る力、絆を深める力、癒す力・・)を大切にして、これからも患者様の体に、心を込めて手を当てていきたいと思う。






    2017年2月28日(火)
    「小林秀雄の『人形』を読んで」 三重東クリニック 事務長 甲斐敏幸

     先ずは全文を掲載します。
    “或る時、大阪行の急行の食堂車で、遅い晩飯を食べていた。四人掛けのテーブルに、私は一人で坐っていたが、やがて、前の空席に、六十恰好の、上品な老人夫婦が腰をおろした。
     細君の方は、小脇に何かを抱えてはいって来て私の向いの席に着いたのだが、袖の蔭から現れたのは、横抱きにされた、おやと思う程大きな人形であった。人形は、背広を着、ネクタイをしめ、外套を羽織って、外套と同じ縞柄の鳥打帽子を被っていた。着附け方はまだ新しかったが、顔の方は、もうすっかり垢染みてテラテラしていた。眼元もどんよりと濁り、唇の色も褪せていた。何かの拍子に、人形は帽子を落し、これも薄汚くなった丸坊主を出した。
     細君が目くばせすると、夫は、床から帽子を拾い上げ、私と目が会うと、ちょっと会釈して、車窓の釘に掛けたが、それは、子供連れで失礼とでも言いたげなこなしであった。  もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない。それも、人形の顔から判断すれば、よほど以前の事である。一人息子は戦争で死んだのであろうか。夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形を当てがったが、以来、二度と正気には還らぬのを、こうして連れて歩いている。多分そんな事か、と私は想った。
     夫は旅なれた様子で、ボーイに何かと註文していたが、今は、おだやかな顔でビールを飲んでいる。妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる。それを繰返している。私は、手元に引寄せていたバタ皿から、バタを取って、彼女のパン皿の上に載せた。彼女は息子にかまけていて、気が附かない。「これは恐縮」と夫が代りに礼を言った。
     そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て坐った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った。彼女は、一と目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応したようであった。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか。
     細君の食事は、二人分であるから、遅々として進まない。やっとスープが終わったところである。もしかしたら、彼女は、全く正気なのかも知れない。身についてしまった習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか。
     異様な会食は、極く当り前に、静かに、敢て言えば、和やかに終わったのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんな事を思った。“(朝日新聞 昭和37年10月6日)

     昭和30年代、僕は小学生でした。そこには、西岸良平の「三丁目の夕日」の世界が広がっていました。母は時々3人の子どもたちを街のデパートに連れて行き、屋上の小さな遊園地で遊ばせてくれました。お腹が空くと、広い大食堂で好きなものを食べるのがお決まりのコースでした。時々立派なレストランに連れて行ってくれましたが、子供心に不釣り合いな印象を持ちました。後年分かったことは、それは母の料理に対する探求心で、学習だったようです。
    街の辻々には、兵隊帽を被り白装束に身を包んだ復員軍人が物乞いをしていました。生の戦争を感じたのは、それが初めてでした。自分の目は、その異様さに釘付けとなると同時に、遊びの世界の戦争とは違った、得体のしれない怖さを感じました。

     この随想は新聞社への単なる寄稿文ではなく、優れた批評家の文章です。それは自意識をどこまでも削ぎ落とし、作者や老夫婦や大学生を客観視した文章だからです。それが小林秀雄の芸術性を高めています。自分にとって往時を偲ばせる文章です。懐かしくもあり多くのことを感じましたが、前述したように、先ず戦争の恐ろしさに思い至りました。
    自分はこういう場面に遭遇したときに、どんな対応をするだろうかと考えました。作者同様に推理し、黙して語らずということになると思いますが、時代性から戦争の残酷さを考えることになるでしょう。細君が乱心でないにせよ、周囲の好奇心と自己の羞恥心よりも深い悲しみを持っています。妻の取り違えた愛情への夫のまなざしに、深い愛情と決意を汲み取り、悲しみでいっぱいになります。恋が時には誤解の果実であったとしても、しかし愛の前提は生涯の規律と決断の継続だと思いました。

     社会の矛盾は、常に弱者に付きまといます。チエーホフの短編に、線路をつなぐ釘を盗んだ少年が死刑になる小説があります。少年を裁くのはたやすいことですが、その背後には多くの社会問題があることに気が付きます。人類は、不条理な戦争を途切れることなく続けています。人道的介入の普遍主義は去り、荒療治の過渡的時代に入りました。或る帝国は公正と偽善を織り交ぜながら、よくも悪くも何とか維持してきましたが、善意の国民はやっと気が付きました。野望の帝国の残滓は、まだまだ席巻しており、僕はそれを考える度に憂国の情に駆られますが、知識武装をするしかありません。戦争は強者や富者に優しく、弱者や貧者には嘆きであることを私たちは学びます。

     蓋然的な言い方になりますが、人間は誰とも共有できません。苦しみや悲しみを抱えていても、厳粛に考えればそれを言葉で表現することはできませんし、他人に分かることはありません。夫婦への共感や同情は当然のことでしょう。しかし、それを二人に伝え、証明するのは時に暴力となり、非情と映ります。人によっては、言葉の取り繕いをするかもしれませんが、多くの日本人は沈黙という共感を選択すると思います。相手の悲しみを感じ、察し、黙して感じ取ること、これが大切ではないでしょうか。それが日本人の自然さでもあります。もちろん、言葉は発言しなければ伝わりませんし、書かなければ残すことはできません。

     前提がそうであっても、場合によって感情や共感を言葉にする空々しさは残ります。その場面で言葉を発し沈黙は取り払われたとしても、違和感という空気は漂います。その悲しみが癒えてなくても、言葉をかける愚は避けねばなりません。もしかけるのであれば、それは自分自身に向けた言葉ではないでしょうか。

     世の中を2つに大別すると、支配する側と支配される側に分かれると思います。はっきりと定義せずに概念的に考えてみると、支配する側の人は謙虚な言葉を使います。人の上に立つ人ほど、言葉を注意深く扱い、感情的な言葉を言わないし、批評をしない傾向があります。批評をする人は自己満足で言うことが圧倒的に多く、周りの雰囲気を壊したり、相手を簡単に傷つけてしまいます。人の感情を高揚させたり、いい気分にさせたりする人は、やはり支配する側が多いように見受けます。結果的に、それらがグループとなっていき、2つに大別されていくのだと思います。言葉というのは使い方によって、死に至らしめることもあれば、命を救うことだってあります。

     テレビを見ながら時々批評してしまいます。そういう自分自身を振り返る時、幾許の優越を感じるためにやっていないかと反省します。批評は自己満足のためではありません。 様々な立場からの視点を持ちながら、その人の立場に立つことが必要です。自分が良心的に共感した善意は、真の第三者とならなければ、暴力的な善意の第三者となります。日本人はそういう国民ではなく、沈黙という言葉を語り、相手の悲しみに少し触れることを選びます。批評したり所構わず言葉を並べたてる人は、人形の言われを推理し、その正しさの証明を得るためだけの言葉に終始し、善意からはいったにもかかわらず、その真逆をおこなっていることに気が付きません。平易に発した言葉や、時宜を弁えない笑顔も時には暴力となり、相手を傷つけることもあります。そのことを察知した人間が、大学生であり、俯瞰した目で見たのが作者ではないでしょうか。

     自我を排除することで伝わりやすくなるときがあります。それは押しつけではなく、受け手の能動に任せるという姿勢だからでしょう。受け手を素直にする言葉の選択は、コミュニケーションの第一歩です。自意識をどれだけ捨て去ることができるでしょうか。煩悩を捨てる努力を重ね、残った言葉を掻き集めたとき、その人の集合された人格が決まり、思いやる心が持てるのではないでしょうか。

     意識と言葉には、乖離があります。言葉は心を正確に伝えることはできません。言葉は観念に過ぎず、普段使っている言葉は具体的です。固定的観念である言葉を、個別的な人に正確に伝えるのは不可能です。
     旧約聖書の冒頭文は使い古された引用なので、今回は日本の書物を引用します。稗田阿礼が編纂した、日本最古の神話「古事記」に、表現することの困難さが書かれています。
     “然れども上古の時は、言と意を並朴にして、文を敷き句を構ふること、字におきて即ち難し。已に訓によりて述べたるは、詞心におよばず。全く音を以て連ねたるは、事の趣さらに長し。是をもちて今、或は一句の中に、音訓を交いて用ゐ、或は一事の内に、全く訓を以ちて録す。即ち、辭理の見えがたきは、注を以ちて明かにし、意况の解り易きは更に注せず。”
    (訳文)“しかしながら、上古においては、言葉も、またその意味も飾り気が無く、漢字を用いて文章を書き表すことは困難でした。すべて訓を用いて記すと、思っているとおりに表現することができず、また、すべて音を用いて記すと、文章がいたずらに長くなってしまいます。そこで、今「古事記」を記すにあたり、ある場合は一句の中に音と訓を交えて用い、またある場合は一つの事柄を、すべて訓を用いて記すことにします。そして、言葉の筋道の分かりにくいものには注を加えて意味を明らかにし、また意味の分かりやすいものには注を加えませんでした。”(竹田恒泰:現代語古事記)

     古の人たちは言葉にとらわれない生活を送っていたと思いますが、中国から漢字が入ってきて、生活様式も精神も変化していったようです。沈黙という言葉の使い方、言葉による誤解、意識との相違、多くを注意しなければならないと、この随想を読んで感じました。ただ、沈黙の美徳は日本特有の美意識であり、国際的には理解不能です。自分の意見を正確に伝え、行動することが外交においては誠実の証となります。意識と言葉は、相互に規定されるのではなく、補完の意識を持つことが必要だと思います。

     2009年に、村上春樹氏はイスラエル賞を受賞し、「壁と卵」というタイトルでスピーチを行いました。反イスラエルの立場を取り、戦争や暴力行為を批判しました。常に弱者の側に立つという姿勢は、巨大なシステムや戦争の前には恐怖であり、勇気が必要です。しかし、その巨大なシステムは、この随想に出てくる細君のように、人の魂まで奪い去っていく代物です。スピーチの最後の一節を掲載します。

     “私が今日、皆さんに伝えたいと思っていることは、たった一つだけです。私たちは皆、国家や民族や宗教を越えた、独立した人間という存在なのです。私たちは、“システム”と呼ばれる、高くて硬い壁に直面している壊れやすい卵です。誰がどう見ても、私たちが勝てる希望はありません。壁はあまりに高く、あまりに強く、そしてあまりにも冷たい。しかし、もし私たちが少しでも勝てる希望があるとすれば、それは皆が(自分も他人もが)持つ魂が、かけがえのない、とり替えることができないものであると信じ、そしてその魂を一つにあわせたときの暖かさによってもたらされるものであると信じています。“






    2017年2月27日(月)
    「リバイバル『ながら族』」 清川診療所 所長 坪山明寛 

      冬の朝影もくぐまる通学路 明寛
     2月になり一段と寒い朝が多かった。こんな時は、いつもはステップも踏みながら登校する小学生も、ポケットに両手を押し込み、身を屈めてトボトボ歩いている。先の句は、通勤途上で見たこんな情景を句にしたのだ。
     私の句作は、こんな風に通勤途上が多い。運転しながらふと目にしたひとこまを、五七五にまとめている。昔風に言えば「ながら族」になるだろう。「ながら族」と言う言葉は、昭和30年代に流行り、ラジオや音楽を聴きながら勉強や食事をする若者をさしていた。今なら流行語大賞になったと思う。その当時は、物事に集中できない人と言う意味で、あまり褒められた言葉ではなかったように思う。
     しかしそれから約60年経った今、ちょっと「ながら族」に光が当てられようとしている。何故か?「ながら族」には、高齢社会に役立つヒントがあったのだ。
     診察室には、転倒で怪我して来る方もある。階段、玄関先の段差や畳のヘリ、雨上がりの道などで躓いて転倒するのだ。何故転倒するのか?階段を上がる過程を医学的にみると、①階段を見る(意識・注意)②階段だと知る(感覚(視覚)③段差に合わせて動く(判断・行動)を同時に働かせている。脳・目・筋肉・骨・神経が、同時に協働して動いて、初めて階段を上れるのだ。言い換えれば「注意深く足元を見ながら階段を上がる」、まさに「ながら族」をやっているのだ。「ながら族」は体と脳を同時に動かすことだ。このことがうまく出来ないと、転倒してしまうのだ。
    まさに「ながら族」の脳と身体の上手い連携に、高齢社会を生きる上で立ちはだかる「認知症」「転倒」予防のヒントがあったのだ。
    認知症も、同時にいくつものことが出来なくなっていく傾向がある。認知症の方が、料理が出来なくなるのも、献立を考え、食材を集め、包丁で怪我しないように切り、火をつけ、味付けし、途中で火加減を行うなど、実に多くのことを考えながら、身体を動かさなければならないからだ。
     最近認知症予防に「脳と身体」を同時に動かすことが、推奨されている。国立長寿医療センターでは、「コグニサイズ」と言っている。これは「認知」と「運動」を組み合わせた造語です。
     例えば散歩しながら引き算をする、しりとりをする、歩行数が3の倍数になったら手を叩くなどがある。二人で一緒に散歩するときにも、ただ真っすぐ話もしないで歩くだけではなく、散歩道でであった花の名前を言ったり、出会った車の色を覚えて、帰り着いた時に黄色が何台、黒が何台と記憶力を競ったりすることもいいでしょう。
     このように「運動と脳」を使い、二つのことを同時に行うことを「デュアルタスク」と言い、研究によるとデユアルタスクを行うと、脳にある「脳由来神経栄養因子」が増えて、記憶に関与する海馬が大きくなることも報告されている。
     このように私たちが小学生の頃には、良くないと叱られた「ながら族」でしたが、認知症予防や転倒予防にも役立つ訓練法として脚光を浴びてきている。
     診察室で元気そうな方に「元気ですね」と声をかけると、「先生、元気なのはここだけ」と指で口を指す方が幾人かいる。その方々は、顔の表情も生き生き、認知症もない、庭掃除、剪定、木の伐採、趣味と、80歳過ぎとは思えない毎日を過ごしている。きっと「おしゃべりしながら手足を動かしている“ながら族”」なのだ。いくら「ながら族」がいいと言っても、歩きながらスマホ、歩きながらポケモンGOはいただけませんね。
     春到来も間近、私も運転しながら道端の風景を眺めながら一句をひねる、トリプルタスク(3つの仕事)のコグニサイズに励もう。






    2017年1月28日(土)
    「分かりやすさこそ深い」 清川診療所 所長 坪山明寛 

     明けましておめでとうございます。みな様佳いお年を迎えられたことと思います。今年もよろしくお願い致します。
     私は、初日の出を家のベランダから拝んだ。山の端から放たれた光は、とても神々しく、光を浴びた瞬間、身も心も清められ、生かされていることへの感謝の念が、沸々と湧いてきた。

      艶やかに真円の陽の初日の出 明寛

     今年のお正月は、三社参りをしようと決めていた。「三社参り」を知ったのは、大分に移って来た時だった。故郷鹿児島では聞いたことはなかった。県立三重病院で仕事していた時、お正月明けの診察室で、患者さんが「内山観音、狐頭様(扇森稲荷神社)、護国神社へ三社参りした」と話していた。大分に来て33年、期するところもあり、大分県人として一度は実行したかったのだ。今年参った三つの神社は、娘の嫁いでいる安岐町の瀬戸田八幡、大分市内の柞原八幡神社と春日神社だ。
     拝殿に向かい、女房と二人で神道式に二礼二拍一礼をし、家族の健康、今年生まれる予定の6人目の孫の安産を祈った。
    柞原八幡での参拝を終え、心身脱落した気分で鎮守の森を散策しながら降りると、参道脇に大楠があった。説明には、樹齢三千年、幹周囲18.5m、樹高30mと記載。樹皮はゴツゴツとし苔が生え、空洞がありいかにも老木の雰囲気満々。幹には真新しい注連縄が張ってあり、柞原神社の御神木なのだ。
    樹齢三千年の長きにわたって、生き抜いてきた大木を前にすると、ものも言えないくらいの圧力いや畏怖を感じた。
     この感覚は、西行法師が伊勢神宮参拝時に「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と詠った感覚そのものだった。
     日本国は、仏教伝来までは八百万の神々を信じる多神教の国だった。この世のありとあらゆるもの、森羅万象に神が宿ると信じていた。6世紀半ば百済から仏教が伝来した。国は大騒動になり、仏教を敬う派と神道を守る派で争いが起こった。しかしこの争いは、日本人の智慧と寛容さで終息した。どうしたかと言えば、インドに生まれた仏たちが日本には神として降りてきたと考えた(本地垂迹説)〉。つまり天照大神は大日如来、八幡神は阿弥陀如来の垂迹神だとし、神仏習合が完成したのだ。この考えが日本人に刷り込まれてきた。だから大晦日にお寺で除夜の鐘を叩き手を合わせ、お正月には神社に初詣に行き、手を合わせることに違和感を感じない。悪く言えば「いい加減さ」良く言えば「寛容さ」、この日本人の精神性は、日本民族が丁寧に醸成してきたものであり、今という不穏な時代に極めて重要な文明ともいえる。
     話は楠の大木に戻るが、お寺には森は必須ではないが、神社には大樹や鎮守の森が必須だ。これは神代の時代の精神性の象徴である。先日NHKで「今蘇るアイヌの言霊―100枚のレコードに込められた思いー」を鑑賞し、「なぜ人は大木に神を感じるのか?」という疑問が氷解した。アイヌの人達は「人間の能力を超えた能力を持つものは、神(カムイ)が宿る」と信じていた。つまり茶碗は、熱い汁を平然と受け止め、一滴もこぼさない。人の手では出来ない事をしている、だから茶碗も神であると考えるのだ。この考えに従えば、樹齢三千年の楠の大樹は、到底人の及ばぬ生命力を持っているので、神と崇めることになる。分りやすい、でも奥深い考え方だ。
     丁酉の今年、世界は風変わりな指導者の出現で迷走しそうである。こんな時こそ、寛容さを文明の底流にすえる日本国の役割は大きいと、ちょっと大袈裟に言えば形而上的思いを巡らしてみた、今年のお正月でした。
     診療所の力は小さいが、今年も精一杯、皆様のお役に立つように頑張りたい。












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