ぜ ん じ ょ う
禅定

彼岸の心−人間らしい心

人はそれぞれいろいろな方向に
心を向けて生きています。
自分にとって最も大切だと思うものも、
人によって違います。
有名校への入学、一流会社への就職、
エリートコースにのっての出世、蓄財、
より快適な生活をする為に
種々の物の購入等々・・・。
これらを実現させる為には、
実に熱心に努力をし、心を配ります。

しかし−どの様な心を持った人間になるべきか−
ということについては、極めて無関心です。
物が豊かで満ちていても、
足りることを知らず心が荒れていれば、
餓鬼畜生の世界でしかありません。
本当の人間らしい心を見つめ直し、
問い直すのがお彼岸の心です。

いままで 迷の世界から、悟りの世界、
彼岸に到る為の六つの修行のうち、
布施、持戒、忍辱そして精進と、
四つの事をお話ししてきました。
次が「禅定」という修行です。

「禅」は梵語で、禅那の略。
定・思惟修または 静慮と訳します。
心を一所に集中して、精神の安定を計り、
散乱させないということです。もっと端的に言えば、
「精神集中」ということなのです。


私たちは、自分の心の持ち方によって、
接するものすべてを自分の都合のいいように
勝手に変形し、認識してしまう傾向があります。
食べ物でも、品物でも人間でも
みな自分本位に
「あれはいい、これは嫌いだ」と考え、
好きなものは大事にし、
嫌いなものは粗末にするという
感情を起こし、行動します。

ところが同じものでも、自分が好きでも、
人が嫌いなものがあり、
自分が嫌いでも人が好きなものがあり、
人によってみな一様ではありません。


「手を打てば 魚は寄りくる 鹿は逃ぐ
       下女は茶を汲む 猿沢の池 」


奈良の猿沢の池のほとりで、
パンパンとかしわ手を打てば、
エサをくれるのかと池の魚は寄ってくる。
音に驚いて鹿は逃げる。
茶店のお手伝いさんは、お客が呼んだのかと
お茶を汲むという、同じ一つの出来事も、
いろいろと解釈が立場によって違ってくる、
行動も様々に変わります。

私達のこころの働きは、いつも自分の立場にたって
自分にとって都合のよいように解釈し、
行動を起こしてそれに振り回され、
泣いたり笑ったりの生活を繰り返しています。

そうした 自分をいったん突き放して、
自分がしていることを、
自分が冷静に眺められたら、シメたものです。


私たちは、とかく自分のことだけしか考えず、
私利私欲に走って、利害打算の目でしか
周囲を見ないから、
自分勝手に描いた虚像に振り回され、
そこでいらぬ事を思い患い、
結果が思わしくありません。

物事はあくまで、独断と偏見を避け、虚心坦懐に
その全体像を透き通った目で眺めなければ、
その虚像の奴隷になってしまいます。
しかし、私たちは、絶えず自己中心の欲望に
負けそうになります。
こうした時こそ、自分の心を
澄み切った鏡のようにしておかねばなりません。


「明鏡止水」 という言葉があります。

汚れのない美しい鏡と、波立つことなく、
静かな水面のことで、
清らかに澄み切った静寂な心の状態を
表した言葉です。
このような美しく、静かな心境になるならば、
世間の姿を正しく写しだし、
よくとらえることが出来る。
私たちは常に、少しでも、
この様な心境を持つべきである
ということを教えた言葉です。


しかし、私たちは、日常のことに心を奪われて
あくせくと忙しい生活を送っています。
「忙しい」という字は 「心亡びる」と書きまして
自分の心を見失って、大切なことを忘れて、
することに「まごころ」がこもってないことを
意味します。



私たちは、どれ程仕事が山積みし、
時間に追われていようとも、
自分の心を見失ってはなりませんし、
「明鏡止水」の一点を、
常に持ち続けられる努力が必要です。
それでは、自分自身の心を澄ませるには
どうしたらよいのでしょうか。



仏教で「南無」という言葉であらわしてくれています。
南無阿弥陀仏、南無観世音の南無です。
南無は梵語で「帰命」と訳します。
阿弥陀仏様に 命をお預けします、
一切おまかせします。
南無観世音といえば、観音様に、
私の一番大切な命をおあずけします
ということですから、私のこと一切を
お任せしますということです。


したがって私と阿弥陀仏と一体無二、
私と観世音菩薩と一体無二で
「私」という我がなくなった状態、
「無我」の境地に立ち入ることです。

自分の小さな「私」「我」というものから離れて
信ずる仏様の境地になるのですから、
思念することも行動も一挙手一投足が
そのまま仏様ということになるのが
南無の世界です。

「念々歩歩声々」という、言葉があって、
心の中も歩いているときも、
何をしていても仏様と一緒。
私の身口意三業そのまま
仏様と同じ状態というわけで、
南無の世界を示してくれています。

こういう無我即仏様の境地で
今自分がせねばならないこと、
していることに心を集中したときが
「明鏡止水」の状態です。
なにも座禅と呼ばれている、
足を組んで静座する法によらなくても、
我欲我執から離れて一つのことに
集中してやればいいのです。
無我の境地は、一つのことに集中することから
生まれてきます。
見るときは見ることに、聴くときは聴くことに
心を集中させればよいのです。

当面する対象に心を集中することです。
私たちは、常に自分にとって
何が第一の問題であるか、
何が自分に最も押し迫っているものであるかを知って、
自分の心をそこへ集中させるのです。
これが禅定という、菩薩の道です。


仏教では「欲望」という名の誘惑を「煩悩」といいます。
毎日をあくせくと「忙しい」というなかで
すごす私たちは、ともすれば
煩悩のとりこになってしまいます。
したがって時には煩悩に染まる心を洗い清め、
動揺してやまぬ心を静かに一点にとどめることが
必要です。
しかし、煩悩は、雑草のように刈るそばから
生えてきます。

「掃けば散り、払えばまた散り積もる
          庭の落ち葉も人の心も」


と古歌にあるように
環境も人の心も、これで完全にきれいになったと、
終わることはありません。
油断すればすぐ汚れてゆきます。
自分の周囲も内心も、いつも「明鏡止水」の状態を
保てるよう、たとえ、いくらそれがつらくても、
つとめねばなりません。

天台宗の高祖 天台大師
(538〜597)
         チ キ
名を「智」といい、晋王より
54歳の時「智者大師」の称号を賜る。
釈迦の再現と敬われた。





中国の天台山(浙江省 天台県)で
ご修行、住まわれた為「天台大師」と呼ばれる。
法華経の理念によって、天台の三大部
「法華文句・法華玄義・摩訶止観」を講説された。






天台山の最高峰  華頂峰で悟りを得た。
華頂講寺の大雄宝殿(本堂)






天台山 国清寺

天台宗では、禅のことを「止観」と呼ぶ。
天台大師講説の「摩訶止観」による。
この講説が後の禅宗誕生の所依となる。






平成8年 天台大師1400年大遠忌にあたり、
日本より天台座主を団長として、報恩法要団を派遣。
国清寺で 大法要が行われた。






天台山 国清寺の現在の座主
可 明法師






804年 最澄上人 入唐
天台山に入る
天台の法門を学び帰国。
比叡山に天台宗を開く。






比叡山 延暦寺の現在の座主
第255世 渡邊 恵進大僧正猊下

中国 天台宗の開祖 天台大師によって
「摩訶止観」が講説されて「禅定」の
大切さがひろまり、伝教大師によって
日本天台宗が開かれる。そして 比叡山で
修行された栄西・道元の二師によって、
鎌倉時代に 臨済・曹洞宗の
禅を説く二宗が発生した。