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私はこのたび、オンライン書店bk1のブリーダーを始めることにしました。皆さんが私の書評リンクからbk1に行って本を買うと、私に若干のポイントが付いて、私がbk1から本を買う際に代金として使えるようになります。そうして得たポイントは、できるかぎり世の中に還元するような使い方をするつもりです。コンテンツは追い追い充実させていきますので、よろしくお願いいたします。なお、bk1にアクセスする際はCookieを受け入れる設定が必要です。(2001年7月4日)
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戦争や平和や責任について考える人にぜひ読んでいただきたい本がある。小泉義之『弔いの哲学』(河出書房新社)がそれである。以下に、その一部を引用する。じっくりと味わい、かつ考えていただきたい。
「中国残留孤児」「サハリン棄民」「従軍慰安婦」という名辞で呼ばれる人々は、現に生存している被害者である。だから、その被害について論ずる者には、被害がどれほどのものであるかをきちんと言い表して、それをいかにして補償するべきかを明示する実践的責務がある。責任は無限であると語ることも、責任は零であると仄めかすことも、かかる実践的責務をおろそかにしている点では同罪である。被害は有限であるし、責任も有限であるからには、たとえ不可能に見えても、少なくとも思想的には実践的解決の道を示すべきである。それが言論人や政治家の最低の責務であるし、そこを無視した議論は、いかに誠実に見えても、あるいは、いかに蛮勇をふるっているように見えても、いかに政治的駆け引きに長けている振りをしようとも、単なるお喋りである。もちろん、被害も責任も有限であるとは言っても、その度合いは極めて高い。しかし、そこを言い表すために、神話的権力による「人道に反する罪」を持ち出したり、衝撃を与えることだけを狙って「性的奴隷」を持ち出したりする必要があるとはとても思われない。今まで私たちは、被害を的確に言い表すための言葉を持ってはいなかったとでも言うのだろうか。今まで私たちは、神話的権力や法や政治に頼らないで責任を負う仕方を考えたことがないとでも言うのだろうか。歴史を見直せ歴史を忘れるなと大声で叫ぶ者に限って、ひどく物忘れが激しいのはどうしたことか。
私は、問いを立て直すべきだと考えている。問われるべきことは、なぜサハリンから船に乗って海を渡れなかったのか、なぜ三十八度線を歩いて越えることができなかったのか、なぜ海峡を渡って男たちを殴りにやって来られなかったのかということである。この問いを徹底的に考え抜くなら、誰がいかなる責任を負うべきかがはっきりと見えてくる。条約を実効的たらしめている複数の人々、入管法を実効的たらしめている複数の人々、精神的暴力と身体的暴力をふるった複数の男たちを、その名で指し示して責任を問うことができる。そしてそのために必要ならば、国家公権力や行政を利用すればよい。国民や民族をひとまとめにしたり、被害者たちをひとまとめにした茫洋とした議論はやめるべきだ。被害は必ずや二者関係において発生するからだ。
数年前、私はある資格を取るため、専門学校で勉強していました。その頃読んで励みになったのがこの本です。著者は、『推定無罪』その他のベストセラーで有名なミステリー作家。本書には、彼が法律家の卵だったロースクールの一年間が描かれています。彼の猛勉強ぶりに私は、自分はまだまだだな、と痛感したものです。もっか勉強中の方にマジでおすすめ。
英語の教材は多々あるが、私はこのCDブックが取っつきやすいと思う。本書は中学3年の英語テキストから12のレッスンを抜粋したもの。本書の提唱するメソッドは、まず聞き、声を出して読み、言いながら書くというもの。巻末の表など、長続きしやすい工夫がこらされている。
本書に続いて、中学2年の英語テキストを抜粋した「入門編」[→bk1,amazon]、高校1年のテキストを抜粋した「挑戦編」[→bk1,amazon]も出た。各自、実力に合わせて選ぼう。(迷ったら、易しめのものから試したほうがいいと思う。)
余談だが、私はCDを付属のビニール袋に出し入れしているうちにCDをだめにしてしまった。CD用のプラスチック・ケース等を各自で用意したほうがいいだろう。
何年か前、私は自殺したくなったことがある。私が思いとどまることができたのは、意外なことに本書のおかげである。「こうやって樹海に迷い込もう」などと空想していると、自殺したい気分がなぜか解消に向かうのだ。こうした経験をしたのは私だけではないと思うが、どうだろうか。(本書を有害図書に指定した東京都の連中は自殺を奨励しているんだろうか? 馬鹿な。)
とはいえ、念のために言っておかねばならない。本書の記述は決して鵜呑みにしないこと。とりわけ薬物については、本書を批判する専門家はいても、擁護する専門家は私の知る限り皆無である。
最後にもう一点。本書の94ページに以下の記述がある:
山田花子[評者注:漫画家。1968〜1992]の例もそうだが、いじめはもうしかたがない、としか言いようがない。いじめられるヤツはなにをしてもいじめられる。空手も自殺未遂も何の効果もないどころか、事態をより悪化させている。そもそもなんの共通目的もなく、ただ人間関係だけがあるクラスという奇妙な集団の中ですることと言えば、恋愛ゴッコかいじめくらいしかない。
父親は中1の息子に「あと2年半だからがまんしろ」となぐさめたそうだが、中学を卒業すれば幸せになれるなどとは誰も保証してくれないし、高校に進学しても事態が変わるとはかぎらない。しかもこの先2年半もいじめに耐えなければならないことを考えれば、彼の取った選択は正しかったと言えよう。むしろ、最初にマンションに登ったときに死んでいたほうがまだましだった。早めに自殺しておくこともまた大切なのだ。
私は前段に同意できない。ただ、本書の趣旨がいじめではなく自殺の方法にあることを考えれば、いじめに関する思考停止を批判してもしょうがないかもしれない(いじめに関する考察と処方箋については、例えば内藤朝雄氏のホームページを参照のこと)。
もっと問題なのは後段である。鶴見がここで取り上げているケースに関して言えば、「がまん」でも「自殺」でもなく、明らかに別の選択肢、例えば転校なり不登校なりを勧めるべきだろう。(もっとも鶴見に言わせれば、ここは煽りで書いたのであって文字通りに受け止められても困る、ということになるかも知れないが。)
この本は一見すると、宮台真司の言説に振り回されたあげく自殺したS君をネタにしてでっち上げた本、に映る(そのレベルでの批判や罵倒はネット上にあふれている)。しかし私はもっと丹念に読まれるべき本だと思う。
私見によれば、本書の核心は、試行錯誤の蓄積による自己信頼 self confidence と共同体からの承認にすぎない見栄 pride とはきっちりと分けるべきであり、両者はむしろ対極にあるという指摘にある。ここをしっかりと理解すれば、もしかしてあなたや私の人生が良い方向に向かうヒントになるかもしれない。
宮台真司は自殺したS君を、強度(濃密な体感とでも言うべきか)を求めて得られなかったがゆえに追いつめられたと分析する。その(宮台による)処方箋はこうだ。「とりあえずの目標を作ってみ」て「一生懸命になる」。「偶然に身をさらす」。「壁や障害にぶつかって悪戦苦闘する」。S君と似た(つまり、端から見れば何不自由なく暮らしていると見られがちだが実は悩み苦しんでいる、といったような)境遇にある人には大いに参考になるのではあるまいか。
なお本書には宮台真司じしんのゴシップめいたエピソードも数多く登場する。彼のファンにとっては宝の山だろうし、逆の立場の人にとっては攻撃材料が満載だ。それ以外の人にとっては、どうでもいい話かも知れない(面白いと言えば面白いが)。
この物語は新幹線の車内から始まる。いうなれば文学部唯野教授の教え子達の会話という感じが実に面白い。さて、そんな中、結婚を目前にした端正な主人公・式根は、大学以来音信不通となった恋人・翔子に対する自分の気持ちに決着をつけるため、かつて彼女と別れたコミューンのあった深い森の中にひとり向かうのだった…。
本書を読み終えた後のめまいのような感覚を私は忘れることができない。作中において何が本当の出来事で、何が虚構だったのか? 謎はますます深まるのである。(どなたか、スッキリした解釈を教えてくれないだろうか? 教えてやろうという方は私へのメールでお願いします。)
なお、文庫版の解説はミステリ作家の法月綸太郎が書いている。法月は、ミステリおよび小説の歴史に本書および筆者をきっちり位置づけようと懸命だ。法月ファンは必読だろう。
本書は、リストカット(手首切り)をする人の心理を、8人の事例をもとに浮き彫りにした本である。
私も本書を読むまで、リストカットは自殺未遂の一種だと思いこんでいた。しかし本書によれば、多くの場合そうではない。たとえば親との関係といったような問題を抱える人が、生きづらさを少しでも解消するために行う(ある意味で有効な)手段のひとつなのである。
なお、筆者のロブ@大月さんが作っている交流掲示板「自傷らーの館(ぱーと2)」はここ。関心のある人は行ってみよう。
実を言うと私は桜井亜美の殺伐とした文体があまり好きではなく、どうしても彼女の小説を読み通せなかった。しかし、私はこの作品を一気に読んだ。そうせざるをえないような力がこの作品にみなぎっていたのである。
本書は、かの酒鬼薔薇聖斗事件を題材にしている。桜井亜美はこの作品で、酒鬼薔薇少年の内的世界を(むろん、フィクションとしてであるが)想像力を駆使して大胆に構成してみせた。これは、まさに離れ業である。本書が成功作たりえた一番の理由は、おそらく、自分にとってだけの神を戴いて猟奇殺人を犯した少年の内面という(一歩間違えば単なる際物で終わってしまいかねない、ある種危険な)テーマと、桜井亜美の文体との幸福な結びつきによるものではあるまいか。
桜井亜美がこの作品で示した新境地を私は忘れないだろう。そして私は今、彼女が再びこの作品のような傑作を書く日を心から待ち望んでいるのである。
タイトルを見ただけで「ああ、ありがちだなあ。アホらし」と思われるかたもおられるでしょうし、じっさいツッコミ所も満載(例。春山茂雄『脳内革命』への肯定的言及)なのですが、この本のメリットはそうした瑕疵を補って余りあるものです。すなわち、この本には日常を生きるのがラクになるメソッドが多数紹介されているのです。具体的には、
といったものです。もっとあるのですが、あえて割愛させていただきます。だまされたと思って読んでみるといいかも。なお、この本は中学生が読んでも分かるように書いてあります。
私はある時期からミステリを読まなくなった。ミステリなんて暇つぶしの最たるものであり、老後の楽しみに取っておけばいい、問題はパズルを解くことではなく世界を変革することである! というわけだ。若さゆえのありがちな短絡である。
やがて私は少しだけ年を取り、その手の考え方の窮屈さにふと気が付いた。考えてみれば、人生とは味わい楽しむものである。そしてそれは必ずしも、「世のため人のため」と相反するものではない。こうして私は、幼い頃に慣れ親しんだ怪盗だの名探偵だのの活躍する世界への扉を再び開いたのである。
私は「犯人当て」が好きである。そしてけっこう当たるのである。この間は『金田一少年の事件簿』の犯人を、キャラクター設定の段階で(!)見事に当てたのである(えっへん)。しかし、『十角館の殺人』には見事に完敗してしまった。
この作品は冒頭の犯人の独白から始まる。犯人の動機は復讐だ。犯人は呟く:
「一人一人、順番に殺していかねばならない。丁度、そう、英国のあの、あまりに有名な女流作家が構築したプロットのように−じわじわと一人ずつ。そうして彼らに思い知らせてやるのだ。死というものの苦しみを、悲しみを、痛みを、恐怖を。」
このあたりがミステリ読みの琴線に触れるところだ。犯人の独白は一見したところ情念の吐露に見えるが、ほかならぬミステリ(有名な女流作家の構築したプロット!)への自己言及によってそれが無化され、言説の虚構性が際立つのである。
そして綾辻は登場人物の一人に(「新本格」なるジャンルへのマニフェストとしてしばしば引用される)次のような台詞を言わせている:
「僕にとって推理小説は、あくまでも知的な遊びの一つなんだ。小説という形式を使った、読者対名探偵、読者対作者の刺激的な論理の遊び。それ以上でも以下でもない。だから、一時期日本でもてはやされた”社会派”式のリアリズム云々は、もうまっぴらなわけさ。1DKのマンションでOLが殺されて、靴底をすり減らした刑事が苦心の末、愛人だった上司を捕まえる。−やめてほしいね。汚職だの政界だの内幕だの、現代社会の歪みが生んだ悲劇だの、その辺も願い下げだ。ミステリにふさわしいのは、時代遅れと云われようが何だろうが、やっぱりね、名探偵、大邸宅、怪しげな住人たち、血みどろの惨劇、不可能犯罪、破天荒な大トリック…。絵空事で大いに結構。要はその世界の中で楽しめればいいのさ。ただし、あくまで知的に、ね」
「無粋きわまりない警察機構−黄金時代の名探偵たちが駆使したような、華麗な”論理”や”推理”とは似つかない、でいてそれを越えてしまった捜査技術の勝利に拍手を送る気にはなれないってことだ。現代を舞台に探偵小説を書こうという作家は、必ずここで一つのディレンマに陥ってしまうことになる。そこで、このディレンマの、最も手っ取り早い−と言っちゃあ語弊があるか−有効な解消策として、さっきから云ってる”嵐の山荘”パターンがクローズ・アップされてくるわけさ」
ああ、またも自己言及が。(^_^;)
ともあれ、この作品のトリックはコロンブスの卵のような斬新なものである。本書を読了した人は、その手があったか、と感嘆し嘆息した。その声は全国津々浦々で観測されたと伝えられる。未読の読者諸君。綾辻行人による挑戦を、あなたも受けて立ってみてはどうだろうか?
往年のフランス思想界の巨星、ジャン・ポール・サルトル。本書は、サルトルのアナーキズム的、反−ヒューマニズム[評者注:ここでは、人間中心主義のこと]的側面に光を当て、新しいサルトル像を提示しています。分かりやすい記述も高ポイント。
本書の趣旨はタイトル通りです。本書でとりわけ私の興味を引いたのは、人間の脳は「快感を求める怠け者」(108頁)であり、その「快感」を満たす方向での英語学習法を提案している点です。
ここでは、本書で紹介されている多数のメソッドの中から、私にとって効果が大きかったものをあえて一つだけ紹介しましょう(115-117頁)。
(*)ここは、英語圏ならばどこでもいい。例えば Yahoo! UK&IRELAND あたりでもいいかもしれない。
(**)米国ヤフーの場合、何も指定しなければ同世代の集うチャットルームに振り分けられる。
(***)もしかしたら人種差別主義者に"GET OUT, FUCKING JAP!"などと言われるのではないかと心配かも知れないが、その手の心配は無用だ。もっとも100回のうち1,2回はそういうこともあるかも知れないが…
ともあれ、私はこうして外国のおねーちゃんたちとメル友になることができました。本書のコスト・パフォーマンスは実に高かったわけです。:-)
私は連載中からこの対談に注目していたのだが、本にまとまったものをあらためて読んでみると、あまりにも当たり前のことを言っているなあ、と感じたのである。(残念なことに、社会的にはまだ当たり前にはなっていないのだが。)
なお本書には、宮崎哲弥が『世界』の小林よしのり『戦争論』[→bk1,amazon]批判特集に小熊英二(注:歴史社会学者。主著に『単一民族神話の起源』[→bk1,amazon]や『〈日本人〉の境界』[→bk1,amazon]、最新刊に『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』[→bk1,amazon]がある)を推薦した話が出てくる。私はこの話を聞いて宮崎哲弥を見直したのである。
岡崎京子はなんてすごい漫画を描くのだろう。たとえば『リバーズ・エッジ』(宝島社)[→bk1,amazon]を読むたびに私は(涙ぐみつつ)そう思うのである。本書は、すべての岡崎ファンにとっての必読書である。
宮台真司が『Untitled』(角川書店)に収録された作品に即して展開する岡崎論はなかなか興味深い(ただし、宮台インタビュー自体はやや散漫のきらいがある。もっと本格的な岡崎論が期待される。)
本書に収録された、岡崎京子自身の手によるテキストもまた興味深いものだ。ほとんど完璧とも言うべき『リバーズ・エッジ』の後書き!
ただし最後に一つだけ指摘しておかねばならない。63ページの、「コミケって税金かからないから、売ったお金は全部入るでしょ。」という認識は、間違い。一定以上の収入はきちんと税務署に申告しましょうね。
表題作「果報は海から」は、婿入りした青年がある逸脱を通じて一人前になる物語である。ここに描かれたコミュニティーの懐の深さと豊饒さに私は感嘆した。読後感は非常にすばらしく、何だか勇気がわいてくるような気がした。本書はまぎれもない傑作である。
なお本書を手に取るきっかけとなったのは、『沖縄タイムス』紙の書評です。評者の大野さんにあらためて敬意を表します。
私が本書を手に取ったのは、『サイゾー』誌2002年9月号で宮崎哲弥氏が、建国当時のアメリカの宗教性について論じた本として参照を求めていたからである。しかしながら、この本ではむしろイギリスのピューリタン革命の論究に力点が置かれており、建国時のアメリカについては最後のほうでちらっと出てくる程度だった。私はいささか拍子抜けした。
とはいえ、別の角度から見れば本書は実に興味深い。千年王国論とは何か、その切り口からピューリタン革命がどのように見えてくるか、などがまとまった形で提示されており、私は刺激を受けた。
なお本書には、ピューリタン革命はもとよりアメリカ独立革命、千年王国論、終末論などに関する参考文献が多数紹介されている。こうしたテーマをより深く追求するために本書は格好の糸口となりうるだろう。
【付記】宮崎氏は、新大陸に渡ったピューリタンたちがいかにカルト的な信念を持っていたかを詳しく述べた本として本書を紹介していました。前のほうの文章は早とちりでした。ごめんなさい。
このレビューを書かなければならないのは残念なことだ。かつて『東大一直線』や『おぼっちゃまくん』のような笑える漫画を描いていた小林よしのりは、もういない。国を愛せと大声でわめく馬鹿なオヤジがいるだけだ。少なくとも私にはそのように見える。
今となっては昔のことだが、『週刊SPA!』誌上には、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」と宅八郎の連載が仲良く(?)並んでいた。やがてオウム真理教問題その他で二人は論争し合うようになり、宅八郎が「公開決闘状」を小林に突きつける。その結果、小林は『週刊SPA!』の連載を辞め、『SAPIO』誌上に「新ゴーマニズム宣言」を連載することになって現在に至っている。本書は、その顛末を丹念に追っている。
なお、本書は「逆ゴーマニズム宣言」という人を食ったマンガで始まる。内容は、宅八郎が小林に対してゴーマンをかます、「ゴーマニズム宣言」のパロディーだ。アンチ小林の人はこのマンガを読むだけで溜飲が下がることはほぼ間違いない。アンチ小林の人にとっては、このマンガのためだけにでも本書を買う価値があるのではなかろうか。
最後に一言。よしりんファンの人も、だまされたと思って読んでみるといいかも知れません。自分の立ち位置を相対化することは、人を成長させるものです。
*この本は、amazonで買うことができます。
良い文章はしばしば人を動かす。では、そんな文章を書くにはどうすればいいのだろう。本書は、この問いに正面からこたえるものである。
本書は作文マニュアルとして秀逸である。たとえば進学や就職の自己推薦書などの文章を書く際に本書は威力を発揮するだろう。しかし、本書は単なる作文マニュアルにとどまってはいない。筆者は、文章で大切なのは、自分の根っこにある気持ちや生き方にうそをつかないことだと言っており、この考え方は本書全体に貫かれている。私は心から同意する。
なお、筆者はネット上におとなの小論文教室というページを持っている。興味を持った人は行ってみよう。
本書を要約すると次のようになる:
本を読んでいて大事だと思ったところには青線を、非常に大事だと思ったところには赤線を、個人的に面白いと思ったところには緑線を引け。線は重なってもよい。積極的に書き込め。
これは確かに精読の方法論として優れている。それにしても、たったこれだけのことを言うのに一冊を費やしている著者に私は興味を覚えたのだった。
複雑化した社会では、何が良いことなのか自明ではなくなり、未来から輝かしさが失われる。それゆえに人は、「偽者の父親」による破壊的カルトにつけ込まれやすくなる。それを防ぐには我々がコミュニケーション・スキルを高め、輝きのない未来を生きる知恵を身につけることだ。以上が本書のおおまかな要約である。
なぜオウム真理教は地下鉄にサリンを撒いたのかの答えを本書に求めても無駄である。本書はあくまでも、なにゆえにオウム真理教的なるものが信者にリアリティーを持ったのかをテーマにしている。いいかえれば本書は、オウム真理教を題材にした世紀末日本の時代診断の書である。
本書のモチーフは宮台真司の以後の著作へと引き継がれる。そこでは、例えば試行錯誤の大切さやそれに向けた行動を動機づける「承認の供給」といった課題が取り上げられるだろう。その意味で本書は、宮台真司の「世直しモード」での諸提言に向けた一里塚をなす。新世紀となった今本書を読む意義は、我々の出発点を確認することにある。