浅田彰・椹木野衣対談「新世紀への出発点」

*この対談は白いろさんと(ナツ)による抜粋です。

椹木―[…]書く才能がないからおしゃべりで暇を潰しているとおっしゃるけれども、こういった対談とか、場合によってはもっと乱暴な形でいろんなものをまきちらしながら、あとは読んだ人にまかせる。その人に能力があれば思いもよらない活用法があるだろうし、なくても一種の啓蒙書として機能するのであればそれも悪くない。[…]僕が思うに、これらは単に啓蒙的な書物というのではなくて、むしろ硬直した啓蒙的な知に対して介入していって、それを複数の方向に押し広げていく、新しい批評のスタイルなんじゃないかと思います。

<中略>

浅田――少なくとも「ポケモン」的なものはどんどん強くなっていくんじゃないですか。

僕はそれを全く否定しないけれど、アートや批評の水準ではそういうものに介入する必要もなければ、そうすべきでもなくて、隠れた特異な存在に焦点を当てるべきだと思うわけです。ただ、それは必ずしも階級的なエリート文化の 復権ということではないですね。[…]美共闘か村上隆か、「美共闘」の歴史主義かポストモダン消費社会の歴史否定かというのは不毛な対立にすぎない。個人的に言うと、いわばその中間に隠れている岡崎乾二郎が圧倒的に重要だと思うんです。[…]アーティストとしても、ああいう理論的な人は世界的にはほとんど受け入れられない。日本人アーティストが理論的に考えるなどということは認められないので、アニメのパロディでもやってないと受け入れられないわけですよ。だとすれば、批評はまずそういう人存在にこそ焦点を当てるべきではないか。

椹木―しかし岡崎さんにしても、なかなかそういう構図に治まりにくい感じもありますよね。「あかさかみつけ」なんて、ある意味ではスーパーフラットじゃないですか。

浅田―逆に言えば、村上隆というのは岡崎乾二郎のポップ化なんですよ。

椹木―センスの違いがあるとはいえ、スーパーフラットなものに可能性があるとしたら、それは案外、岡崎乾二郎だったりするのだと思う。

浅田―まさにそう思いますよ。しかしそれがまったく国際的に評価されない。日本人の分際であいつは物を考えている、けしからん、と。

だから、そういう段階では、世界市場に勝手に勝利しているアニメやゲーム、あるいはそれらを再流用した「スーパーフラット・アート」よりも、世界の美術史を踏まえて考え抜きながら真の意味でスーパーフラットな表現を模索している岡崎乾二郎みたいな存在を応援したくなるわけです。

椹木―よくわかります。ただ一方では、そこで固有名の方に行きたくない気持ちもあって、60年代後半から現在にいたる線を引くとしたら、固有名というよりはほとんど無名の表現者たちを発掘して、それを非常に乱暴な線でつないでいきたい。そこで大きくも小さくもない歴史をもう一度組み直すことに興味がありますね。

浅田―そこが僕と椹木さんの違いでしょうね。ただ、僕は一方で岡崎乾二郎みたいな存在に非常に興味があるのと同時に、他方で音楽の池田亮司を含むダムタイプのような存在もすごく面白いと思うんです。彼らは、コンセプチュアルなことは一切喋らないし、そもそも考えていない。どれだけカッコよくできるかというセンスだけで勝負していて、そのために、波形をどれだけシャープに削れるかとか、ノイズをどれだけ減らせるかとか、そういうテクニカルなことしか考えない。これはこれで新しいし、面白いと思うんです。

椹木―池田さんのやっていることはとても面白いとは思ってるんですけど、それほど新しくはないと思っていて、サイン・ウェ−ブだけ流したり、位相を逆転させてスピーカーから出る音をチェックしたりというのは実はオーディオ・マニアの間ではかなり昔からあった。それが作品ないしは表現と認められていなかっただけで、固有名として彼らを持ち上げることにそれほど大きな意味はないと思うんです。

浅田―でもオーディオ・オタクがよかったかというと、それはそれで閉じた世界で、内輪だけでやっていたわけでしょう。池田亮司とカールステン・ニコライとかいった人たちはいわゆる音楽よりそういう流れに近いのは確かだし、そこが面白いわけだけど、しかし、徹底した洗練によってある閾値を超えて世界的に評価されるアーティストになった、僕はやっぱりそこを区別して考えるべきだと思うんです。オーディオ・オタクなら内輪でやっていればいいし、それをピックアップしてやる必要もないでしょう。

椹木―もちろんそうですが、わざわざピックアップするということではなくて、例外的な強度をもったものであればそれはどこかで内輪から浮いてくるし、逸脱せざるを得なくなる部分が必ずあると思うんですよ。そういう意味での浮上というのは、それがアートかどうかもわからないものであっても、無視できない特異なものをはらんでいると思うんです。

浅田―そう思いますよ。だから僕は、例えば「J文学」と括られている人たちにしても、一概に否定する気はないし、そこから面白い人が浮上してくればそれでいいと思う。

ただ、有象無象を無理矢理フレームアップする必要はないし、そうすべきでもない。特異な存在がいるとしたら、そういうグルーピングから外れるような形で残ってくるんじゃないかな。

椹木―ただ、一方でそういう存在は放っておいて残るものでもないと思うんですよ。外部からの何かしらの導入なり介入は最低限必要だし、批評家にできることはせいぜいそういうきっかけを作ることだと思うので、それは積極的にやっていきたいと思いますね。

浅田―ただ、いわゆる文学や芸術というのは、依然として固有名に依存していて、結局は固有名として突出する人が現れるかどうかだということは否定しがたいでしょう。例えば文学だったら、[…]中上健次が死んだ後、、急激にテンションが下がっちゃって、みんな能天気になっちゃったわけだから。近代作家主義は否定するとしても、結局は新たにそういう特異な存在が現れるかどうかが状況を変えると思うんです。

椹木―そう思いますが、その時に、その登場の場が必ずしも文学であったり、音楽であったり、美術であったりということはないし、必要ないと思うんですね。

率直に言って、19世紀から続いてきた芸術の延長線上に新たな固有名が現れることはもう多分ないと思う。例えば小説で言っても、現状で中上健次のような人が固有名として突出してくるということはちょっと想像できない。そういったジャンルの混淆の中から予想外のフレーミングが再編成されて、その中から突出して固有名が現れてくるということのほうがリアリティがある。

浅田―たしかに小説というジャンルがかなり可能性を使い果たしてはいるんでしょうね。

逆に言うと、台湾でもイランでもいい、近代化の渦中にあって農村と都市のダイナミズムがはたらいているようなところであれば、今でも面白い小説や映画がどんどん出てくる。日本で候考賢やアッバス・キアロスタミみたいな映画が撮れないのは無理もない。ただ、彼らがどこまでアクチュアルかというと、それも疑問ではあるんですよね。歴史のある段階を台湾やイランが通過しているにすぎないということかもしれないわけだから。

椹木―実はけっこう退屈だったりしますよね。だから今は、むしろスーパーフラットな状態を前提として、そこに亀裂を入れられるとしたら何かということを考えていかなければいけないと思うんです。

それは最終的には依然として固有名によって起こることなのかもしれないけど、一方では批評による文脈の刷新というのも当然あるだろうから、そこはどうしても押さえざるを得ない。ただ、結構騒がれているわりには、これが映画や小説に関してのことなのかは疑問があります。

実際、ある程度才能があって技術もセンスもあれば、今の時代だったらどのジャンルを選んでも成功できると思うんです。だったら、やっぱり今なら音楽をやると思いますよ。そこから少しずれた形で映画をやったり美術をやったりという層があって、そのいずれにも挫折して追いつめられていくと、最後に小説を書く。大芸術を装っているけど、小説の内実なんて、今ではそういう人たちが大量に吹きだまっている状態にすぎないと思うんです。まあ、だから面白いとも言えるんでしょうが。

浅田―実際、古い形の小説や映画が滅びたって問題ないと思いますね。すでに十分にあるんだから。ただ、例えばコンピュータを使った新しい表現で、前代未聞の驚きをもたらしてくれるようなものは、まだ出てきていないと思う。ちょうど端境期なんでしょう。

映画に関しては、ゴダールの『映画史』で事実上総括されて終わったようなものですよ。彼はいわばそのエピローグとして『21世紀の起源』という短編まで作っちゃってるけど。もちろん、さっき言ったように、いわゆる第三世界の人とか、性的マイノリティの人とか、いろんな問題に直面した人たちによって内容的には切実な映画が作られ続けていくとは思うけれど、形式的にものすごい革新があるとは思えない。

映画とは別のジャンルでそういうものが発生してくるというのが21世紀なんでしょう。ただ、それはまだ見えないですね。[…]もちろん、ゴダール自身がすでに映画やヴィデオでやっているように、知的所有権の問題とか、テクノロジーに関わるコストの問題とか、そういうところから考え直していく必要もあるでしょう。

そう言えば、ジョゼフ・コスースが、アートも数学なんかに近くなるべきだと言っていた。数学だと、論文が専門誌に載って世界的に評価される、しかし原稿料もないし、たいてい応用もできないからお金にはならない、それでも楽しいわけでしょう。見ようによっては究極のオタクだけど、あれだけ歴史のある巨大なゲームとなるとほとんど普遍的なゲームであるかのように見える。

アートも、作品を作って売るなどということはやめて、ああいうふうになればいいのかもしれない。[…]実際、文化史的に広く見ると、21世紀の頭は人類のフロンティアはおそらく数学と物理学に戻るんじゃないかと思うんです。もちろん生命科学や情報科学は応用段階でどんどん進んでいくけれど、だいたい方向は見えている。

他方、20世紀の頭に相対性理論とか量子力学が出てきて、量子力学はちゃんとした数学的裏付けを欠いたまま今まで来たのが、今や数学が爆発的な進歩をとげて量子力学に追いつきつつあるし、同時に、量子コンピュータがただちに実現するとは思わないまでも、単純なものなら原子一個というような量子力学レヴェルの実験が可能になりつつある。量子力学の世紀が理論的かつ実証的にかなり近づいて来たという感じで、それがすごく面白い。そのあたりを中心に、数学や物理学は百年前と同じような沸騰寸前の状態にあると思います。

21世紀の未来はおそらくそっちにあって、当面文学や美術にはないんじゃないか。言い替えれば、そういう未来に徹底的に背を向けたものだけが文学や芸術として残るのかもしれませんけれども。

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