韓国の歴史
その25、三国の統一戦争、高句麗の滅亡、その3新羅と唐の連合軍によって滅びる
いくら気が向いた時に更新すると言っても余りにも月日が経ちました。ヨンジュンさんの「太王四神記」も完成し、日本でも既に2回目?3回目のドラマ放映となっています。あまりにも長くここを留守にしていました。その間に、何度か続きはどうなったか、というメールを頂き、こんなページにも読者が居てくださることに恐縮すると共にありがたいと思いました。ラジオ放送のKBSでも、もう時間が経ちすぎて更新されてしまって無くなっているかと心配しましたが、ちゃんと未だにラジオも聞けます。訳文も読むことが出来ます。ありがとうございます。訳文とラジオを併せてのアップとさせて頂いています。
それではどうぞ。
唐の太宗が死に息子の高宗が王になります。

唐と高句麗が戦っていた頃、百済と新羅の間でも領土争奪戦が起きていました。 百済の義慈王の攻撃に悩まされていた新羅の金春秋は、唐との関係改善を模索します。新羅の金春秋の努力によって647年に唐と新羅は同盟を結びます。両国が手を結んで百済と高句麗を征服すれば、高句麗の一部と百済の領土を新羅にやるという約束でした。新羅が唐と手を組むことで、三国の統一戦争はさらに複雑な展開を見せます。

660年の夏、新羅と唐の連合軍は、まず百済を攻撃します。
百済の征服に成功した唐の高宗は、今度は高句麗の征伐を決めます。百済降伏直後の660年から新羅と唐は南と北から高句麗を攻撃します。本格的な戦闘は661年でしたが、これは失敗してしまいます。しかし戦争は毎年繰り返して起きました。毎年起きた戦争のため、高句麗の国力も弱くなり、農業もできなくなって、高句麗の財政も底をつくようになりました。
その頃、24年間も高句麗の政治権力を握っていた淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)が660年に死を迎えます。彼には3人の息子がいました。「お前たちは水と魚のように仲良くしなさい」というのが遺言でした。

しかしながら、彼の息子たちは権力争いを起こしました。この争いで、淵蓋蘇文の弟が新羅に亡命し、淵蓋蘇文の長男が権力を握りました。しかし長男が国境の視察に出た隙に次男と三男が権力を掌握します。結局、長男は唐に亡命して、高句麗侵略の道案内をするようになります。淵蓋蘇文が死んだ後、高句麗の王室と貴族階級は完全に分裂状態になってしまいました。

667年、こうした高句麗の分裂のさなかに、唐と新羅がまたも高句麗を攻撃してきます。
内紛のため団結できない高句麗の城は次々に降伏をし、668年、唐と新羅の連合軍は高句麗の首都、平壌城を包囲しました。新羅と唐の連合軍に囲まれてから、一ヶ月間抗戦を続けた高句麗の寶藏王ホジャンオウは力が尽き、結局降伏してしまいました。

668年9月に700年間の歴史を誇る高句麗の首都である平壌城がついに落ちました。

華麗で壮大な平壌城の陥落によって三国の激しい争いもその幕を閉じたのでした。平壌城の陥落後も鴨麹]の北の40余りの城は抵抗を続けました。安市城がその中心でした。しかし高句麗の抵抗も結局671年にその最後を迎えます。
滅亡の原因はなんでしょう、
まずは内部の分裂ですね。権力争い、戦争が長かったこと、新羅と唐の両方からの攻撃、700年間も東北アジアの強力な国であった高句麗が滅びたことで韓半島と東アジアの秩序に大きな変化が起こります。

大きな変化の第一は、高句麗の滅亡によって、大陸への発展の機会がなくなりました。
新羅が唐と手を結んだことで外国の勢力に依存する性格が強くなりました。また文化的にも大陸の文化、海の文化、農耕文化が共存していたのが新羅の農耕文化だけが主導する性格が強化されたことが指摘できます。
平壌城を陥落させた唐は、高句麗を支配しようとしました。高句麗の民の組織的な抵抗を防ぐために中国内地に移住させるなどの分散政策もとりました。高句麗の住民の中には、百済、新羅、日本などに移住した人もいました。
しかし、残った多くの人は高句麗復興群を組織し抵抗運動を興しました。
そのリーダーは金剛山という人でした。彼はポジャンオウの息子のアンスンを王に推挙し大きな復興勢力を作りました。居座っていた唐の勢力を韓半島から排除しようとしていた新羅もこの高句麗復興軍を支援しました。

高句麗の抵抗勢力が強いのでその中心勢力の支配階層28000世帯を中国に強制移住させました。
しかし、698年に唐に連れ去られた住民たちが脱走して高句麗に戻ってきて、彼らの指導者である大祚榮テジョヨンが高句麗を継承した「渤海」(ぼっかい)を建国したのでした。渤海は高句麗を継承した国であることを宣言します。また渤海は素早く高句麗の領土を回復します。高句麗のほとんどの領域を回復することができました。
渤海の後にも、高句麗の国名をそのまま使った高麗によって、そして朝鮮王朝でも高句麗は誇らしい祖先の歴史として受け継がれていました。高句麗は滅びてしまいましたが、その精神は歴史を通じて我々民族の精神の中に根強く生き残っているのです。
高句麗第19代のタムドク王を演じたヨンジュンさん、そして、脇を固めた俳優さんたちが大挙して大阪へ来られましたのは2008年6月1日のことでした。そして、今、ドラマはまさにヨンジュンさん演じるタムドクが王となった回を放映しました。しかし、この「韓国の歴史」では、その高句麗の滅亡です。高句麗は滅んでも、高句麗の精神は今に引き継がれていると韓国の歴史学者たちの言葉でした。誇り高い民族は、タムドクの心を引き継いでいるというのです。この韓国の歴史も、高句麗が滅びても、受け継がれた高麗、今の韓国への歴史を見ていかなくてはなりません。また少しずつ頑張りますね。(2008.6.22 by Mie)
広開土大王(カンゲドテウァン):374〜412 朝鮮・高句麗第19代の王(在位391〜412)。正しくは国岡上広開土境平安好太王。略して好太王・広開土王という。
その24、三国の統一戦争、高句麗の滅亡、その2 : 安市城の戦い その25、三国の統一:その1、統一の英雄、金春秋と金庚信