韓国の歴史
その21、三国の統一戦争:百済の滅亡、その3
ヨンジュンさん演じるタムドック王がチェジュで馬に乗っているとの報告が飛び交っています。髪を束ねて、質素な衣装に身を包み、群集と共に座っている姿を写真で見ました。そのような身なりで大勢の中にいらしても際立っているヨンジュンさんです。聡明な王の風貌が漂っています。これから本当の王になっていかれるヨンジュンさんはどんなに素晴らしい姿でしょうか。韓国の歴史、久しぶりになりました。栄枯盛衰は世の習いとはいいますが、どうも百済の滅亡という文字が気になって、仕方ありませんでした。滅ぶ国あれば興る国ある、分かっているのですが、何故か先に進むのがためらわれました。しかし、いつまでもそうも言ってられません。それでは思い切って・
660年、金?信が率いる新羅軍と蘇定方が指揮する唐の連合軍が陸と海の両方から百済に襲いかかります。義慈王は最後の手段として階伯ケベン将軍が率いる5千の決死隊を黄山伐ハンサンボルに派遣します。しかし新羅軍は10倍の5万人。家族さえ犠牲にした階伯の率いる百済軍は全力で戦いますが、もう百済の運命はその先が見えていました。
愛する家族の生命を自らの手で絶った階伯の激励は兵の士気を高め、その結果は驚くほどのものでした。10倍も多い新羅軍を連破したのです。 新羅軍は緒戦に敗れて慌てていました。何とかして百済軍を突破しないわけにはいきませんでした。
新羅の将軍たちは自分の息子で花郎ファランでもあるバングル、クァンチャンらに一騎打ちを命じます。一騎打ちに行ったクァンチャンは百済軍に捕らえられましたがすぐに追い返されます。ケベク将軍がまだ幼いクァンチャンの勇気を称えて返してくれたのでした。しかしクァンチャンは再び百済の陣営に一騎打ちを敢行します。今回はクァンチャンの首だけが戻ってきました。父である新羅のキンプミ将軍は息子の首を持ち上げてその勇気を讃えます。「国のための死、悔やむことはなかろう、」花郎であるクァンチャンの死が新羅軍を奮い立たせたことはいうまでもありません。
戦意に燃えている新羅軍が百済陣営に雪崩れ込みました。階伯ケベン将軍と5千の決死隊は死ぬ覚悟で新羅軍と戦いましたが、結果は百済の敗北でした。百済の最後の防御線である黄山伐ハンサンボルがついに破れてしまいました。黄山伐の戦いで階伯ケベン将軍は最後まで壮烈に戦いましたが、戦死してしまいました。今も百済の古都、扶余の町には勇敢に戦った階伯ケベン将軍の銅像があります。ハンサンボルでの敗北は百済にとって決定的な打撃になりました。百済の中央軍はすでに回復できないまひ状態になりました。残っているのは都のサビ城ソンの守備隊と地方の兵隊だけでした。
蘇定方が率いる唐の13万の大軍は錦江クンガンの河口を通ってサビ城に向かいました。すでに1万以上の兵を失った百済に残っている手段は何もなかったのです。義慈王は皇太子を連れて前の都のウンジンに逃げ込みました。サビ城に残った王族らは勝手に義慈王の二番目の王子が王になったと宣言しました。そして一部の勢力は唐に降伏することにしました。
勝手に王位の交代を宣言しているため、仮に唐軍が引き上げてもサビ城に残っている勢力の安全は保障できないとしてして皇太子の息子であるムンサが城から出て行って唐の兵隊に降伏しました。そうすると残っている住民たちも城の外へ出てきて降伏したのでした。一気に降伏する雰囲気になってしまうともうブレーキが効かなくなります。サビ城に残っていた勢力は全員降伏してしまいました。
百済の没落は目の前に見えていました。義慈王としても黙っているわけにはいきませんでした。義慈王は4回も唐の陣営に使いを出して妥協を模索します。彼は宝物などを贈って切実に唐軍に引き上げるよう願い出ます。
唐軍の立場から見ると新羅の要請によって介入したわけです。高句麗とは違ってもともと百済に悪い感情がある訳ではありません。それで唐軍は百済に唐に従う政権を作らせて撤兵しようとします。しかし新羅としては百済の滅亡が目の前に見えているのに引き上げることは到底出来ませんでした。
サビ城を占領した唐軍は略奪に走りました。戦争での一番の犠牲者になるのはやはり弱い婦女たちです。宮城の女性たちがその略奪の格好の獲物になりました。女官たちは唐軍に追われてサビ城の後ろの山である扶蘇山へ逃げました。しかしもう逃げ場もなく、女官たちは山の絶壁から川に身を投げたのでした。この絶壁を後の世の人たちは花が落ちた岩と書く「落花岩」と呼んでいます。そこで死んだ女官は3千人という話ですが、これは全然現実性のない話です。19世紀末期の朝鮮王朝の女官が6百人だったのに、百済に3千人もの女官がいたことはありえない話です。しかし、「落花岩」の悲しい伝説は多くの文学作品や歌謡を生み出しました。また韓国の演歌になって今も歌われています。
サビ城が陥落すると、義慈王に残っている道は現実を受け入れることだけでした。彼は降伏を通告し、サビ城に戻りました。新羅の太宗武列王、唐の蘇定方の前にひざまずいて、降伏の盃を差し出したのでした。
それは漢江の周辺に根を下ろして国の基盤を築き、7百年間も栄えた文化を誇った百済王国がついに歴史から消えた瞬間でした。 今も錦江クンガンの河口には唐に連れられて行った義慈王が祖国と最後の別れをした場所としてイオウテイという小山があります。当時の百姓らが王との別れを悲しんだサンユハの歌は今も伝えられています。

660年8月錦江クンガンの河口から義慈王と皇太子をはじめ12000人の百済の人々が捕虜の身となって唐に連れて行かれました。この時既に60歳を過ぎていた義慈王は大変疲れていたと思います。彼は唐に連れて行かれるとすぐに死んでしまいます。記録によれば唐の洛陽の北望山に墓があると言われていますが、文化革命の後の今ではその場所を探すことすら出来ません。
扶余では6年前の2000年に中国の洛陽の北望山に眠っている義慈王の霊を慰める儀式が行われました。これで少なくとも義慈王の魂だけでも百済に戻ってきて安らぐことが出来たと思いたいですね。
国が亡びるとは、どういうことなのか、この最後を書きながら、涙が流れて仕方がない。百済の人々は唐へ運ばれた、また日本に来た人たちもたくさん居ると聞く。今に伝わる大陸からの文化の色々は百済の人たちによってもたらされものが多いと言われている。海の彼方の歴史が私たちの今に大きく関係していることを思うと、世界は一つ、と改めていうまでもなく、地球人との思いを強くする。 (2006.11.3文化の日に by Mie)
広開土大王(カンゲドテウァン):374〜412 朝鮮・高句麗第19代の王(在位391〜412)。正しくは国岡上広開土境平安好太王。略して好太王・広開土王という。
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