韓国の歴史
その17、三国時代の生活B 高句麗、その二 鉄が歴史を動かした
その16では、韓国のオンドルや発酵食品文化の発祥が高句麗の時代だったというとっても興味深い事実を知ることができました。ヨンジュン様のドラマ「太王四神記」は、タムドック王を中心としたドラマですからきっときらびやかな宮殿や衣装などが目を引くと思います。しかし、そういう生活を支えた農民や普通の人たちの生活にも目を向けたいと思います。
広い満州平野を制圧し韓国の歴史の中で一番広い領土を持っていた国・高句麗、高句麗の人々の生活と文化その2回目です。

今の北韓の黄海道安岳カゲドアナク郡にある安岳3号古墳の壁画に描かれている高句麗の兵士は約250人。その兵士らはみんなよろいやかぶとで武装して、それぞれ槍や刀、おのや矢などの鉄製の武器を持っています。こうした軍隊の武装は優れた製鉄技術がなければ不可能でした。
青銅器とは違って鉄器はその時代のほとんどの構成員が手に持つことのできた最初の金属でした。
鉄器の到来によってまず農業用の道具、鋤、鎌、斧そしていろいろな鉄の容器が作られました。鉄器文化は高句麗人の生活を大きく変えました。ウルサン大学博物館長チョン・ホテ教授の説明です。日常生活のための道具を鉄で作るようになってから高句麗の人々の生活は大きく変わります。高句麗の鉄器の水準は当時の東北アジアの中でも優れていて高句麗時代の出土品の鉄の品質を見て非常に固くて耐久性が強いことが分かりました。これは鉄の純度を高める製鉄技術と深くかかわっています。
特に引き車は軍需物資の運搬に重要な手段でした。食料と武器の迅速な運搬が戦争の勝敗の決め手になっていました。高句麗が滅ぼされた後、唐は高句麗の復活を防ぐために引き車1080台を奪って帰ったといいます。

高句麗には少数民族がたくさんいました。漢族やキタン、タルタン、マッカツなどです。こうした民族を一つに統合するためには、交通の発達や便利な移動手段がとしての引き車のような運送手段が必要だったのです。引き車は幅広く使われて、牛や馬が引く荷物用の引き車から、いろんな階層の人々が使う多くの種類の自家用の引き車がありました。その引き車の車輪には薄い鉄が巻きつけてあったのですが、その薄い鉄こそ製鉄の優れた技術力の結果でした。 こうした引き車を使って活発な国際貿易を行って莫大な富を築いたのでした。
高句麗人のイキイキとした人物画も壁画に残っています。一種の自画像です。壁画の人物画の頭を見ると貴族も平民も頭が大きく描かれていることがわかります。トンドット女子大学イン・ミョンミ教授の説明です。当時は頭を大きく見せるのが流行だったようです。自分の髪の毛だけでは無理なので、かつらを使ったのですね。アナク3号古墳の壁画でも貴族の女性の髪の毛はかつらを使ってグルグル巻くようにして自分が尊い存在であることを見せ付けるためにも髪の毛を大きくしたのです。髪の毛の形は男の場合は髪を頭の上で結ぶ形が一般的で身分とは関係なく三角形の帽子を被っています。帽子の飾り物の数で身分を表していました。着物の模様が特徴的で、水玉模様が一般的に多かったのです。
国民大学ミン・ギルチャ教授です。現代風でいうと、型染め織物です。模様の部分だけ染める方法ですね。いわゆるサラサ染めという方式です。この方式はインドから始まり、2000年ほど前に東南アジアを経て韓半島にも伝わってきました。また中央アジアを経て高句麗の宮中や上流社会に受け入れられて、サラサ染めの織物がはやっていました。
また当時の結婚様式をみてみます。現在の韓国社会では女性の再婚に対する偏見がまだ残っているといえます。(そうなんですか?私にはその辺はまだよくわかりません・・・by Mie)しかし高句麗時代は再婚がかなり自由に行われたようです。これは高句麗だけではなく三国共通の現象だったようです。そして結婚してしばらくは妻の家に住む母系中心社会の伝統が一般的でした。
結婚して妻の家に住み、子どもが大きくなると独立して場合によっては妻の家で一生を過ごすのが伝統でした。男は結婚にこぎつけるまで手間ひまをかけ、やっと妻のお父さんの許しが出るとその義理の父は妻の家の隣に新婚夫婦の小屋を造ってくれます。そこを婿やといいます。
高句麗の女性はよく働きました。だから娘が嫁に行ってしまうとその家では労働力の損失になるわけでその損失補てんのためにも新郎は新婦の家にしばらく滞在して自分の労働力を提供したのでした。体を張って礼を尽くすというのが一種の伝統だったのですね。また嫁の立場からすると子どもを自分の実家で産んで育てるという気軽さがあったのでお互いに得になったのでしょう。こうした結婚の伝統は朝鮮後期である17世紀まで続きました。しゅうとめと嫁とが同居する伝統は、むしろわずか200年にも満たない新しい伝統です。
活発な高句麗の人たちの遊びの文化もまたダイナミックでした。相撲が始まったのもこの時代からです。また手や足を使ってあいてを制圧する格闘技も生まれたのですが、当時はシュウアクドといいましたが、今のテコンドの原型です。
記録がほとんど残っていない1500年前の高句麗の人々の生活の様子。それを現在の我々に教えてくれるのが古墳劇画です。古墳壁画を独自に発展させた高句麗。中国にも古憤壁画がありますが、当時の社会の生活の様子を残しているのは数少ないのです。しかし高句麗の古墳壁画は1500年前の高句麗の社会を生々しく伝えています。
古墳壁画が長い間保存されてきたのは、当時の科学知識が優れていたことの現われです。古墳内部の空間を完全に密閉することが必要で湿気が90%以上になりますと古墳が壊れてしまいます。すなわち木の根っこが入り込んできたり、雨水が入ってきて細菌やカビが繁殖するのを防ぐことが出来るくらいの建築、数学、物理、土木、科学、生物学などの総合科学の結集体がその古墳壁画の保存には必要だったのです。
高句麗の人々は墓を作る時、花崗岩を1メートルから3メートルの厚さに大きく切って、平らな面の上に石灰を何回も塗って、その上に壁画を描きました。そうすると壁そのものが破壊されない限り絵は残ります。もちろん科学の技術も用いられています。5世紀末に造られたサンヨムチョンの壁画の破片を分析した結果、古墳壁画の絵の具の成分がわかりました。国立中央博物館保存科学室のアン・ビョンチャン研究員の説明です。赤い色は水銀と硫黄の濃度が高いことがわかりました。黒い色は炭素系の炭を利用していたのがわかります。高句麗の壁画では赤茶色が一番多く使われていますがそれは黄土から取ったのでしょう。壁画で使われている絵の具は天然の材料を酸化させて作っていました。まだ濡れている石灰の上に天然の絵の具を用いて描いて、壁全体が乾くと絵の具が石灰の隅々に入り込んで、石灰と一緒に岩のように硬くなります。これが高句麗の人々の生活ぶりを1500年後の我々に正確に伝えてくれることができた秘訣でした。
鉄の神様を崇拝した高句麗の人々、彼らは水準の高い鉄器文化を元に効率的な農機具や運送手段そして強い武器を作って高句麗を強大国に造り上げたのでした。そしてそのダイナミックな生活ぶりを古墳壁画を通じて残しています。そのおかげで我々は高句麗の高い自尊心を生々しく感じることができたのです。
なんて素晴らしい国ではありませんか、その国の王がヨンジュン様、演じられるところのダムトック王なんです。頭の上に髷を結い、飾りの一杯ついた三角の帽子を被り、水玉模様の着物を着て????今まで想像していたお姿とはちょっと違うんですが、そこはまあ、ファンタジーということを前面に出して頂いて、カッコよく決めていただきましょう。肩にかかる黒髪が風になびく、というのも私的には希望ではあるのですが、そしてまたどんな引き車に乗っておられるか、どんな刀が王の刀と呼ばれるのか?いろいろ楽しみではあります。
広開土大王(カンゲドテウァン):374〜412 朝鮮・高句麗第19代の王(在位391〜412)。正しくは国岡上広開土境平安好太王。略して好太王・広開土王という。
その16、三国時代の生活A 高句麗、その一山城と味噌の文化 三国時代の生活C 瓦の家と詩(うた)の国、新羅