韓国の歴史
その12、高句麗の古墳壁画
昔の人たちがどういう人たちだったのか、どんな生活をしていたのか、どんどん想像が広がりますが、何と言っても本当にその時代に造られたもの、書かれたもの、描かれたものが存在していたら、そこから大きくイメージが広がってきます。きっと広開土大王(カンゲドテウァン)を演じられるヨンジュンさんも、まず最初になさることは、イメージを膨らますということだったと思います。高句麗の人々を知るよすがは何処にあるでしょう。
2004年7月、ユネスコの世界遺産委員会は中国と他にある高句麗一帯の古墳群を世界文化遺産に指定しました。このように高句麗の古墳が世界の注目を引くのはその古墳の壁画の規模やレベルが世界的な価値を持っているからです。
高句麗の古墳は東洋の古墳美術史の中で独特の地位を占めています。まず3世紀から7世紀までの高句麗民族の文化や社会生活像を生々しく表現しているのがその特徴です。

高句麗は紀元前37年から西暦668年まで存在し、数多くの古墳を残しました。現在までに発掘された古墳は約2万基で、その中で壁画が描いてあったのが95基です。高句麗の古墳壁画は大きく2つの時期に分けられます。

主に3,4世紀の前期の壁画には生活の図が多く描かれています。仏教関係のものも出ています。後期の6世紀のものには東西南北に青竜、白虎(びゃっこ)、朱雀、玄武を描く四神図が現われ、王の権力や貴族などの支配階級を中心にする社会の成立を物語っています。
非常に多様であり当時の社会や生活状態、精神世界や世界観まで描いていることが注目に値します。高句麗の生々しい歴史が現れているのです。
北韓の黄海道安岳(ハンエドアガク)にある安岳3号古墳は、今から1500年前のもので、タテ、ヨコ30メートル以上あり、高さは7メートルあります。その壁画にある行列の図は規模が一番大きなもので、高さ2メートル、長さ6メートルの板状の石に描いてあります。登場人物だけでも250人あまり。

王の楽隊が先頭に立ち、その後を武装した兵士らがついて来る、一種のパレードのようです。その兵士たちも馬に乗った騎兵から槍を持った兵士、腰に弓をつけた弓の兵士、といった具合に次々に出てきます。これが当時の大陸を駆け巡り領土を拡大していった高句麗の部隊の姿です。

壁画に描かれている馬や弓などの武器から当時は騎馬戦が盛んだったことが分かります。そして国王の行列図からは王を中心に臣下や近衛兵などかなり体系化した行列になっていたことから、4世紀頃には国王の権力が確立されていたことが分かります。 実際に4世紀の領土拡張から5世紀にかけて高句麗の国力はその全盛期を迎えます。壁画に描いてあるように騎馬戦を行いながら今の中国の東北地方から韓半島中部までの領土を手に入れ百済や新羅にも影響力を行使しました。
壁画によく出ている「引き車」の意味は何でしょうか。牛などの力で前から引っ張る「引き車」です。

高句麗は生産力が発達して、農耕も発展していました。対外交易のためには船や引き車は欠かせないものでした。中国の史料には‘高句麗では人々の家ごとに蔵があり、引き車があった’と記されているほど、高句麗の経済が繁栄していたことが分かります。引き車はそれを象徴する意味を持ちます。

壁画に出ている高句麗の引き車を見ると車輪が薄いのが特徴です。車輪に鉄を巻いているのです。鉄が豊富に生産され丈夫な車輪を作り、また活発な国際交易を行い莫大な富を蓄積していったのでした。
豊かだったのは経済だけではありません、日常生活にも余裕が現れています。

中国吉林省集安(チーアン)にある舞踊塚。歌に合わせて男女が集団で踊っているので舞踊塚と名づけられました。この壁画には14人の踊り手と楽師が登場します。その中では韓国民族の独特な肩で踊る舞が出てきます。みんなで一緒に踊る群舞です。楽師と踊り手二人だけの二人踊りもあり、天井の壁画には天女や神仙が登場しますが、天を飛ぶ天女である飛天は中央アジアの仏教洞窟でみることができる長い笛や琴、琵琶などのいろいろな楽器を演奏しています。

また相撲を見学する老人とか馬に乗ったまま弓を放す競り合いの絵などもあります。そしてサーカスを見物する貴族の絵や棒踊りやボール遊びをするピエロみたいな人もいます。サーカスを見るほど当時は生活に余裕があったことがうかがえます。
古墳壁画は韓国古代の三国の中で高句麗だけに集中しています。発見された古墳壁画は、百済は2基、新羅は1基に過ぎないのですが、それも高句麗の影響を受けたものと考えられます。
東北アジアの強国だった高句麗はほかの民族を包み込み中国と対決するためには彼らのアイデンティティが必要だったし壁画にはそれが現れています。
高句麗の人々には「天の孫」つまり天孫意識が強かったようです。国の始祖朱蒙ジュモンが天の精気を受けているとされそのような意識が壁画では太陽や月の絵でそして末期には太陽と月の神様がよく出ていることで表現されています。天孫の国という意識が中心的な理念の一つでした。
高句麗壁画は後期になると四神図を通じて高句麗の人たちの世界観をより具体的に表現するようになります。東西南北に想像の動物である玄武、白虎、朱雀、青竜を描いているのがそれです。
北の玄武は雄と雌が一緒になり向かい合う亀と蛇が火を吐き出しています。西の神は白虎、南の神である朱雀は鳳凰の形をして羽ばたく翼と長い尻尾を見せています。東の青竜は鬼のような顔と大きな目で何かを見張っています。天井には王を象徴する「こう(どういう字を当てるのかわかりません)竜」が描かれているしその周りにもいろいろな動物や神仙が飛び回っています。

これが高句麗の人々が想像した天の世界です。四神が死んだ人の魂を導いていくと死んだ人が神仙になれるということを表現しています。ここに高句麗の人々の天孫に対する意識が表れています。そして何よりも高句麗の人々はこうした自分たちの様子を誇りとして未来に残したいと考えたかもしれません。
高句麗の人々は単にほかの国を征服する好戦的な国ではなく文化国家でもありました。

壁画には三つ足のからすが出てきますが、足が三つで頭に角が出ているこのからすは、正と反のかっとうや対立を3と象徴される合意の状態を実現しようとするいわば弁証法の一種で、東洋思想での調和を求めていた文化を示しています。その意味で高句麗の古墳壁画は当時の世界観を表現し、それを子孫に伝えるメッセーであると言えるでしょう。

高句麗の古墳は単に死んだ人を埋める場所ではなく柱を作ったり壁画を描いたりした所、即ち魂が住む場所だったのです。したがってそこには永遠に死なない高句麗の人が1500年後の我々に伝えるメッセージが入っているのです。これが今日、世界が高句麗の古墳壁画を注目する理由でしょう。
高松塚古墳・キトラ古墳 この名前はよく聞きます。高松塚古墳は1972年に発掘調査、キトラ古墳は1982年にファイバースコープが入れられて調査が始まった。いずれも7世紀末から8世紀初頭にかけての,今からおよそ1300年前に築かれた円墳で,古墳の時代区分からいえば終末期の古墳になる。注目を浴びたのは、見事な彩色壁画が描かれていることがわかったから。四神と星宿が描かれている。それらが高句麗の古墳壁画と似ていることから注目を浴びている。なお、星宿とは天体図のことで、そこに描かれているのは高句麗の空だというのた。

堀田啓一・高野山大学教授(考古学)は「7世紀代の高句麗壁画は四神図が主体で、技法などにもかなりの違いがある。しかし、高松塚古墳には高句麗の画題がすべて統合されており、それを視野に置いて被葬者を考える必要がある」と話す。

 日本の横口式石槨を編年した堀田氏は、高松塚古墳の築造年代を680〜700年ごろとみる。高句麗の滅亡は668年。「故国を追われた人々が向かうのは日本列島しかない。亡命してきた高句麗の王族クラスを被葬者と考えることもできるのでは」。亡命から数世代後の絵師が日本化された壁画を高松塚古墳に描いた―。堀田氏はそのように推定している。

あ〜あ、なんだかとってもロマンを感じます。ヨンジュンさんの広開土大王(カンゲドテウァン)がにわかに身近に感じられてきました。きっとヨンジュンさんもこのように、歴史の勉強などしておられるのでしょう。
そして、騎馬隊を中心とした軍隊を率いて領土拡大に努めた王、一方では踊りを見たり、サーカスを見たりする心の余裕も持っていた、四神の思想、天体への興味、鉄の普及、まさしく文武に長けた王だったのでしょう。動く広開土大王(カンゲドテウァン)それもヨンジュンさんなんですよ、本当に楽しみです。
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