豊後の国海部郡丹生臼杵両荘の境、九鹿猪山 円通寺は古老伝え言うに、往古聖徳太子の御時、百済国沙門日羅上人来朝し、崇峻天皇四年(五九一)当国古国府の岩屋寺(後に円寿寺と改める) を開く時、毎朝日輪拝せり。この時にあたり慶雲この峰にかかり、揺々曳々霧にあらず、郁々粉々五色をなし、光彩遍く目を射る。上人謂く、瑞雲の下には必ず神仙遊化の勝地ありと一日錫を携え西坂より 登山す。半腹に至れば山勢峨々、老樹茂り、奇峰奇岩重畳にして容易に登ことを得ず。

猶思う時に奇なるかな九匹の鹿猪数多くの鹿猪を率い来り上人の前に至り、礼拝し峰に向かいよじ登り即時に路をなす 。上人その跡を踏み山の頂きに至り四方を眺望すれば衆峰環列八葉を分かち蓮華の形を表しながら補陀落山に似て自ら天然仏陀の霊地なり。上人歓喜する処に異形の人猪に乗り来たり、上人に告げて云く、 『我はこの山の地主摩利支天の垂迹なり、この山を掌ることすでに年久、即是れ補陀台岳の妙境、観音遊化の勝地、龍神衛護の福所なり、これより未申に当たり幽谷に滝あり、広さ三尋半深さ深さ測るべか らず、龍王常に此に住み醍醐の法水を湛え願いに応じ四生の干苦を洗う。また視就の嶺高く秀て衆峰に冠たり、是れ即ち如意宝珠にして無量の福智を雨とし衆生に施す誠に殊勝つ上人宣くこの地に円通尊を  安置し衆生を済度せよと伝い惣然と見えず時に香木に鶯のさえずるあり。これ嘉兆の良材なりと伐りとりこれをもって千手観音の立像を彫刻し長さ二尺五寸一宇を建ててこれを安置し九鹿猪山円通寺と号す 。

将来を慮り銀杏の実を門前に植え誓願して云く、法灯永く龍華の暁に至らばこの樹年を歴てますます栄えよと、即ち法弟俊覚法印に附しこの地に住せしめ円頓の宗風を崇拝し無仏灯を眺め、そのご建久年 中に大友能直豊府居城時祈願として寺領若干を寄付せしめまた大友貞親公の時にあたり八十町四方の貢税を免除し、境内八町四方を画して殿堂、多宝塔、鐘楼、山門、方丈、法堂に至るまで悉く再建し、並 にび十二坊を建てて壱百名の僧徒を住せしめ常に仁王会を講じて国家の瑞慶を祈らす。しかのみならず毎年正、五、九月十八日以て席を設け祭祀を行う、殊に正月一七日徹夜鬼走際会を勤行す。この時遠近 の人民疫難を消する為この座に参会するもの数万人に及ぶ、この法会に参ずるもの疫病にかからずと言い伝う。時人称して一九鹿猪、二霊山、三神角これを豊後の三大寺と唱え、当山その一に居れり。この 山老樹茂り黒いろを帯びる故黒越山とも言う。而して本尊の威光ますます広大無辺にして幾多の霊験世に著しく遠近の男女日夜歩を運び貴賤群衆現代未来の願望を満足せずということなし。

然りと言えども 世移り時変じ大友義統公の時にいたり、天正十四年(一五八六)冬一二月薩州島津義久の兵当国に乱入し当山もまた陣営となりついに兵火にかかり堂塔伽藍悉く焼失、荒野となれり。ただ日羅上人の植えお き給いし銀杏の森ばかり大樹五、六株在す。その後星霜四十七年を経、寛永九年(一六三二)量海法印、大野郡野津院蔵薗村に居住の時、正月十七日の夜、夢に紅衣を着たる異相の老僧来り告げて言う、こ れより北方五里を隔てて山あり、九鹿猪山という彼所に銀杏の森あり、その中の五囲の大樹、洞中に観音の霊像まします。これは往古百済国日羅上人の刻み給う所なり、汝この地に宿縁あれば急ぎ行きて再 興すべしとただしく霊夢を蒙れりそこにおいて多福寺の雪窓和尚に依託し臼杵城主稲葉一通公に願い奉りその許可を得、同年三月十八日九鹿猪山に登り洞中を見れば奇なるかな霊夢の通り観音尊像厳然とし て存在せり。量海歓喜愉悦限りなく礼拝恭敬浅からず直ちに志を励まし、所縁を募り草堂を営み尊像を安置奉り側に一院を造建し、同十九年正月二十一日家族五人を率いこの地に移住し再び仏灯を豊土の一 隅に灯し、国家鎮護の、祈祷、災いを払い、福を招く霊場なり、

その後万治三年(一六六0)量海法印の嫡男清雄法印江戸に於いて領主信通公に観音堂改造を願い、木材を乞い得て四間半の殿堂を造り瓦を もって茅葺きに換え大いにその観を改める。寛文二年(一六六二)三月上棟の式を行ない尊像を遷し奉り、道場を装飾し供養す。同五年黒越山内竹木伐採の免許を蒙れり。同八年清雄江戸に在り、その時 牧野飛騨野守某公帰依して祈祷坊とす、公、嗣子なし、清雄をしてこれを祈らしむ。清雄遙かに当山の観音に祈願修法せり、程なくして奥方懐妊期満ちて男子誕生す。後に駿河守某公と称す。その報恩とし て黄金若干を贈り鐘を寄付す。同年十二月鐘完成、多福寺賢厳禅師その銘を撰す、その時九鹿猪の文字を九六位と改める。当山の事跡古老の言伝える所を以っ是れを記し永く後世に伝えるものなり。 維持元禄三庚春三月鬼宿日     九六位山 中興二代  量邊誌