[GOWの部屋][大分の部屋]


ここでは私の好きな大分について語らせていただきます。


 

028.忘却の『敗戦記念日』(20160902

 

はじめに

 

毎年この時期になると『大分と戦争』というテーマで原稿を書いているのですが、今年は『敗戦記念日』についてちょっと書いてみようと思います。

…と言っても多くの方が『敗戦記念日』という名称にピンと来ないかも知れませんね(笑)。一応書いておくと、今日「92日」はかつて大日本帝国が連合国に無条件降伏した日なんです。『太平洋戦争』を含む『第二次世界大戦』が終わったのは世界的には今日「92日」とされているのですが、日本では「815日」がなぜか『終戦記念日』とされているんですよ。そして現在の日本では「815日=終戦記念日」の方が「92日=敗戦記念日」よりも遥かに浸透しています。

そこで今回はこの忘却された「92日」つまりは『敗戦記念日』と大分について書いてみようと思うんですけど、例によって資料的価値はありませんので(笑)、そこのところは差し引いてお読みくださいませ。

 

 

 

『終戦記念日』と大分

 

1945815日正午に放送されたラジオいわゆる『玉音放送』によって、天皇自ら国民に広く「ポツダム宣言受諾の事実」を明かしました。「神州不滅」を疑わず、大日本帝国の勝利だけを信じて戦ってきた国民は、この放送によってようやく戦争が終わったこと、しかも日本が負けたことを知ったのです。

当時の日本では戦争を遂行する最高機関として『最高戦争指導会議』が設置されていましたが、以前この『大分の部屋』でも書いたように、『最高戦争指導会議』メンバーのうち、陸相阿南惟幾(竹田市出身)、陸軍参謀総長梅津美治郎(中津市出身)、海軍軍令部総長豊田副武(杵築市出身)の3人は最後まで降伏に反対で、この3人は揃って大分人だったんですね。

だからある意味、これら3大分人が降伏に反対し続けたがために日本の降伏は遅れに遅れ、連合国への『ポツダム宣言』受諾通告は814日になり、国民への周知は815日になったとも言えるでしょう(前稿でも書いたことだが、実際はトップである天皇が終戦を決断するまで、そのスタッフに過ぎない彼らは戦争を続けなければならないのであり、他に選択肢は無いのである。ただし天皇が終戦を決断した後も、この3人は国体護持=天皇の生命と地位が守られる確約が無い限りは戦争を続けるつもりだった)。

ですから『終戦記念日』には彼ら3人の大分人が深く関与していたと言って良いと思います。彼らがもっと早く降伏に賛成していたら、『終戦記念日』は815日よりもっと前になっていたかも知れず、広島や長崎が被爆することも無かったかも知れないのだから…。

 

 

 

終戦と敗戦の間で

 

しかしこの「815日」に戦争が終わったワケではないんですね。

この日はあくまでも『ポツダム宣言』受諾の事実が広く国民に知らされただけに過ぎません。連合国側には一足早く814日にそのことが通告されていましたが(ゆえに『終戦記念日』を「814日」とする向きもある)、それもただ大日本帝国が『ポツダム宣言』を受諾したというだけの話。戦争は日本が「降伏文書」に署名するまで実際は続いたワケです(それゆえに815日以降92日までの間、ソ連軍が満州や樺太、いわゆる日本の北方領土を攻撃占領しても、また防衛側の日本軍がそれに反撃しても、何らおかしくはないことになる)。

そこで日本側には次のステップとして「誰が降伏文書に署名するのか?」という問題が生じました。普通に考えれば国家元首(政府のトップ)であり大元帥(軍のトップ)である天皇が自ら署名すべきですが、天皇に「降伏文書への署名」などさせるワケには行きません。有史以来一度も負けたことがない皇国・皇軍では、「降伏文書への署名」は恥辱にまみれた屈辱的な行為に他ならなかったからです。当時政府中枢にいた人々は「陛下にそんな恥をかかせてはならない!」と考えたのでしょう。

しかしそれは彼らスタッフもまた同じでした。誰も「降伏文書への署名」などやりたくないのです(笑)。首相が行くべきだと主張する向きもありましたが、東久邇宮首相は皇族だったため、これも無理。副首相格の近衛文麿も固辞しました。海軍トップの豊田ももちろん拒否し、陸軍トップの梅津に至っては「署名して来いと言うなら腹を切る!」とまで言い出す始末…。

結局東久邇宮首相が政府代表として外相重光葵を、そして軍代表として梅津を直々に指名。天皇の裁可を得て両名が降伏文書に署名することになりました。天皇はわざわざ梅津を呼び出し、軽挙妄動(つまりは自決)を戒めたといいます。

もちろんこうした「たらいまわし」が行なわれている間にも、中国や朝鮮、東南アジアでは多くの日本人/日本兵が傷つき、殺されていました。中には終戦の事実も知らずに山中で自決/集団自決したケースもあったでしょう。

そこを考えるとなぜもっと早く決まらなかったのか?プライドに固執せず、天皇やそのスタッフが自ら国民のために働こうとしなかったのか?という怒りさえ覚えますが、大日本帝国とは最初からそういうくだらない帝国だったのかも知れません。

 

 

 

降伏文書調印

 

194592日未明。重光外相と梅津参謀総長を含む代表団11名は揃って首相官邸に集合。朝食をとった後、皇居を遥拝し、一同は4台の車で出発しました。東京憲兵隊10名が護衛していたといいますが、降伏反対派の青年将校などが攻撃して来れば、10名で11名を守り通せたとは到底思えません。

しかし一行は特に攻撃されることもなく、神奈川県庁に到着。米軍に既に接収されていた横浜桟橋からアメリカ海軍の駆逐艦ランズダウンに乗り込み、東京湾沖に停泊する巨大な戦艦ミズーリを目指しました。

ランチから移ってミズーリの長いタラップを上る際、義足の重光はかなり大変だったと思います。重光は外交官だった頃『日中戦争』初期の上海で爆弾テロに遭い、片足を失っていました。

ようやくミズーリ甲板にたどり着いて見回すと、周囲はたくさんのアメリカ人水兵で溢れています。誰もが「ジャップが降伏するところ」を見ようと集まっていたのですが、これでようやく戦争が終わり、家に帰れると思っている兵士も多かったことでしょう。

連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの短いスピーチの後、先ずは重光が降伏文書に署名しました。ローマ字か漢字か迷いましたが、随行していた内閣情報局第三部長加瀬俊一のアドバイスを受けて漢字で署名。

続いて梅津が署名しましたが、梅津は立ったままスラスラとサインしたそうです。帝国軍人としてこんな恥さらしなことはない。だから一刻も早く署名を終え、その場から立ち去りたかったのでしょう。

その後居並ぶ連合国各国代表が次々に署名し、230分ほどで式典は終了。アメリカ海軍のハルゼー提督は着席するにももたつく義足の重光を蹴っ飛ばしてやろうかと思ったそうですが(彼はジャップを心底憎んでいたので)、総じて調印式はビジネスライクに進み、連合国側に「勝者の驕り」は見られなかったといいます。

重光と梅津は素早く退艦して来た道を戻り、その日のうちに帰京。首相官邸で2人の帰りを待ちわびていた閣僚への挨拶もそこそこに、天皇に報告。こうして大日本帝国の長い、本当に長い戦争はついに終わったのでした。

鋭い方ならもうお分かりでしょうけど、ここに登場した重光葵もまた大分人(杵築市出身)なんですよ!

国家を代表して降伏文書に署名した日本人は、歴史上たった2人しかいません。それが2人とも大分人だったという驚きの事実!重光にとっても梅津にとっても、降伏文書への署名は決して愉快なことではなかったはず。同じ大分人として彼らの心中を察すると胸が痛みますよ。

 

 

 

敗戦から終戦へのすり替え

 

重光と梅津が苦悩しながら署名したことでようやく日本の戦争が終わったワケですが、その後のGHQによる占領統治時代には、この「92日」こそが「終戦の日」だったんですね(アメリカ国内では今も「92日」が終戦の日である)。「92日」はいわば『敗戦記念日』として多くの日本人に受け入れられていました。

ところがGHQによる占領統治も末期になると、先ずは『読売新聞』がこの「92日」を否定し始めます。1951年を境に「92日」に関する敗戦記事は忽然と消えました。同年に締結された『サンフランシスコ平和条約』によって日本が再び独立と主権を回復すると、『読売新聞』だけでなく『朝日新聞』なども一斉に「92日」に関する記事を載せなくなり、それに代わって「815日」が急激に浮上してきたのです。

戦争に負けたという「敗戦」よりも、戦争を終わらせたという「終戦」の方が、新生日本国のメンタルに相応しいと思われたのでしょう。まだまだ戦えたし、戦っていれば逆転勝利していたかも知れない。さすがにそれは無理としても(笑)、本土決戦で敵に痛撃を与えていれば、大日本帝国はもっと有利な形で戦争を終えられていたかも知れないのだ。…そうした幻想が「815日」という新しい虚構と神話を生み出したワケです。

1954年頃からは新聞に続いてラジオ報道からも「92日」が消し去られ、1955年を境に92日の新聞紙面から「降伏」に関する記事は完全に消え去りました。

そうした状況の中、1963年の閣議決定(池田内閣)によって『全国戦没者追悼式実施要項』が正式決定。現在に至る「815日正午の儀式」がいよいよ始まりました。その瞬間、武道館だけでなく甲子園でもまた、多くの人々が黙とうし、こうべを垂れます。しかし彼らが頭を下げる相手は単に「戦没者」ではありません。彼らが頭を下げるのはその時間に始まった『玉音放送』に対してでもあり、さらに言えば戦争終結を決めた天皇に対してでもあるのです。

現在の日本では「815日」における天皇の終戦決断は「英断」「聖断」といって讃えられがちですよね。しかしそれは1951年頃に始まり、1963年頃から定まった新しい価値観にすぎません。

戦後の、より厳密に言えば1951年以降の日本は、「戦争に負けた国」ではなく、「戦争を終わらせた国」になったのです。完膚なきまでに叩き潰されて戦争に負けたダサい国から、日本は「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」世界平和のために戦争を終わらせたカッコイイ国(!)になったんですよ(驚)。

このすり替えは戦後(正確には1951年以降)日本の先祖がえり/右傾化をさらに助長しました。日本は戦争加害国から戦争被害国へすり替えられ、「815日」と同じく戦後突然浮上してきた「86日」には世界に向かって破廉恥極まりない「世界唯一の戦争被爆国」イメージが喧伝されます。

そしてその代わりに連合国から押し付けられた屈辱的な「92日=敗戦記念日」は国家とマスメディアによって国民の前から永遠に隠蔽されたのでした。

 

 

 

おわりに

 

苦悩して降伏文書に署名した重光葵と梅津美治郎。彼らの苦渋のサインこそが戦争を終わらせたのに、戦後日本人は「92日」の記憶を消去しました。戦争は「815日」の天皇の聖断によって終わったことにされ、今ではそれ以降のソ連軍の攻撃を「戦争が終わった後の不法行為」だと言う日本人まで出て来る始末。

日本政府とマスメディアによるすり替え工作は完全に成功し、今や多くの日本人が何の疑いもなく815日正午のサイレンで黙とうし、頭を下げるようになりました。

その結果、重光と梅津の苦悩も、戦艦ミズーリ甲板上での降伏文書調印式も、日本人からは忘れ去られようとしています。

戦後日本人は知らぬ間に歴史修正主義者たちによって既に改造されてしまったんですよ。

でもせめて僕ら大分人だけは、そこで忘却された「92日」と2人の大分人のことをいつまでも覚えていたいものです。

 

 

 

 

 

■■■参考文献

 

『日本の選択 第二次世界大戦終戦史録』外務省編纂(山手書房新社)

『孤高の外相 重光葵』豊田穣(講談社)

『参謀総長梅津美治郎と戦争の時代』清原芳治(大分合同新聞社)

『増補・八月十五日の神話』佐藤卓己(ちくま学芸文庫)

 

 

 


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