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ここでは私の好きな芸術家、最近気になる芸術作品などについて語らせていただきます。


 

032.『篠山紀信展 写真力』(2016/01/21

 

現在『大分市美術館』では『篠山紀信展 写真力 THE PEOPLE by KISHIN』が開催されています。「写真家」篠山紀信の代表作を網羅した写真展なのですが、僕はまだ見に行っていません。行く予定もありません。なぜなら僕は篠山紀信が嫌いだからです(笑)。

 

そもそも僕は篠山紀信のことを世間様が言うように「写真家」だとは微塵も思っていません。「写真家」に限らず「〜家」を名乗れる人=芸術家とは、その生み出す/作り出す作品を通じて世の中に何らかのメッセージを発する人だと思うんですよ。結局のところ写真だろうが絵画だろうが彫刻だろうが音楽だろうが建築だろうが、そんなものはただの「表現形式の違い」でしかなく、「〜家=芸術家」とはそれらの形式を超えたところで自分が考える思想や掲げる理想などを世に問う人、問おうとしている人のことをいうのだと思うのです1

 

1)  この点で「芸術家」に「餅は餅屋」は通用しない。優れた写真家が同時に優れた画家であり、優れた彫刻家であることは十分あり得る。彼らにとって「表現形式」は実はそれほど重要ではなく、それを通じて発信されるメッセージ、思想や理想の方が遥かに重要なのだ。それゆえに世人から押し付けられる「〜家」というカテゴライズからも彼ら「芸術家」は自由なのである。その意味で「芸術家」は全てのそれ以外の「〜家」よりも上位になると言えよう。「写真家」を「芸術家」より上位に置く篠山紀信はこの点でも誤っている。

 

そういう目で見ると、篠山紀信は被写体の表層をごく浅いところで写し取るだけの「カメラマン」であって、彼の作品=写真には何のメッセージも込められていません。撮らずにはいられない、撮ることでしか自分の想いを表現できない「写真家」とは違い、篠山紀信はクライアントの依頼を受けてその意向に沿う写真を撮って来るだけ。思想や理想とは全く関係ない彼の作品=写真は常にコマーシャルであり、篠山紀信はただの「商業カメラマン」(ただし最高の!)に過ぎない。僕はそのようにずっと思ってきました2

 

2)  「カメラマン」とは単に「写真家」以下の存在という意味ではない。篠山紀信は「カメラ=機械」と「マン=人間」とが完全に一体化した「カメラマン」なのである。撮影時の彼はカメラと一体化し、彼の目は被写体のありのまま=見たままを正確に映し出すただの機械になる。篠山紀信の写真では彼の全ての感情・思想・理想・メッセージなどレンズをくもらせる不純物に過ぎない。

 

もともと篠山紀信が学生時代から撮っていたのは、マン・レイのような写真だったと思うんですよ3。被写体(多くの場合はモデルの肉体)を徹底してオブジェクトとして撮影し、そのフォルムを以って全体のコンポジションとする「芸術写真」。それは視覚効果だけを狙った安っぽいオブジェクティヴィジュアリズムであり4、忌むべき肉体の物象化と言っても良いでしょう。

 

3)  マン・レイの写真と直接的に連関するイメージは見いだせないかもしれないが、被写体を徹底的に物体化・物象化する篠山紀信の視線は、間違いなくマン・レイのそれと驚くほど似ている。篠山紀信にはマン・レイの仕事場を撮影した『マン・レイのアトリエ』(1985)という作品もある点に注意。

4)  オブジェクティヴィズム(客観主義)とヴィジュアリズム(視覚主義)とを結びつけた筆者の造語。

 

しかし篠山紀信は早々にその路線を捨ててしまいます。なぜならその道を歩いてもマン・レイには追いつけないし、追い越せないから。そのことを理解した篠山紀信はその路線から「撤退」するのですが、それを「敗北」ではなく「勝利」だと嘯くのが彼の話術、巧みなビジネストークスキルなワケです5。篠山紀信はマン・レイなどが極めようとした写真を「芸術写真」と定義し、自分の写真はそれを超えたと喧伝する。実際はその道では勝てないことを悟って身を引いただけなのに、世間に向かっては自分が勝ったと言ってのける。そういう胡散臭いところも僕は嫌いです6

 

5)  「建築家」磯崎新もまた、自らに「デザインセンス」が無いことを悟ってそこから「撤退」したように思える。しかし彼は「丸・三角・四角」という誰もが知っている図形を駆使したデザインを行なうことで(「デザイン」に対する一般的な認識を反転させることで)、自身をデザインセンスとは別次元に立つ「勝者」だと自己定義した。この点で篠山紀信と磯崎新の戦略・戦術はとても良く似ていると言えよう。この2人が協働して作品集『建築行脚』シリーズ(1980)を出しているのは決して偶然ではないのだ。なお磯崎新アトリエが入居するビルのオーナーが篠山紀信であるというのは有名な話。

6)  この点で篠山紀信は旧帝国陸海軍大本営のような存在でもある。クライアントやファンは篠山紀信が発する景気の良い幻想から未だ抜けられないでいるのだろう。

 

そして彼が言う「芸術写真」に勝利した「篠山紀信の写真」とは、とどのつまり、芸能人や有名人、そういう「特別な人」を撮って、彼らのアウラにおんぶにだっこという写真でした7。篠山紀信の仕事(撮影)はもの凄く早いことで有名ですが、それは写真(を撮ること)によって何かを表現しようとか伝えようとか一切考えていないからです。彼はただただ被写体(芸能人や有名人)が放つアウラ、つまりは世人が共有しているその芸能人や有名人のステレオタイプな表層の姿=イメージを撮っているだけ。だから仕事が早いのです8。迷いが無いというか、迷いようが無いというか。

 

7)  結局のところ、「篠山紀信の写真」が凄いのではなく、「篠山紀信が撮影した芸能人や有名人」が凄いだけなのだ。「篠山紀信の写真」とは、芸能人や有名人が放つアウラをただただ記録しているだけに過ぎない。そして篠山紀信は前述のようにただの「カメラマン」になる。

8)  『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』によると、最近ナイナイは篠山紀信に写真を撮ってもらったらしい。そして岡村が言うには、そこでも篠山紀信の仕事ぶりは驚くほど早かったとのこと。岡村は、篠山紀信は相方矢部浩之の撮影にばかり時間を割いて、岡村の撮影は終始なおざりだったと言う。このため岡村は「篠山さんは俺にハマってないんちゃうかな?」と言っていたが、おそらくそうではない。篠山紀信にとって「世間が抱いている岡村隆史というイメージ」を撮影することは簡単なことなのだ。一方そのイメージが明確になっていないからこそ、矢部の撮影には苦しんだのだろう。「矢部浩之が最も矢部浩之らしく見えるショット」を撮影することは、岡村のそれよりも遥かに難しいのである。

 

今回の写真展の最後には『東日本大震災』で被災した人々の姿も展示されていますが、彼らもまたある意味での「有名人」なのです9。被災したことで、大切な人やモノを失ったことで彼らは「特別な人」になった。篠山紀信は彼らの姿をただそのまま撮影するだけ。それは世人が思い描く「被災者」のステレオタイプなイメージを写し取っているに過ぎません。それでは被写体=モデルの中に灯っているかもしれない希望や、燻っているかも知れない怒りを撮影することは出来ないでしょう。篠山紀信は、ただただ世人が容易に理解できる「被災者」の姿を写しているだけ。彼の写真は「被災者」の表層だけを写し取って「被災者」を世人に理解可能な存在へと矮小化させます。「被災者」は篠山紀信の写真によって典型的な「被災者」になり、世人は被災者のことも被災のことも理解したつもりになる。想像の範囲内に収めてしまう。

 

9)  極めて不謹慎な言い方になるが、「被災者」は彼らが被災したという意味においてその時代を代表する「アイドル」になったのである。そして「アイドル」とは周知のごとく篠山紀信の大好物なのだ。「被災者」は被災したことでアウラを放つようになり、篠山紀信はそのアウラをここでも冷徹に記録する。全ての感情・思想・理想・メッセージを排して。だからこそ筆者は篠山紀信の『ATOKATA』(2011)を酷く残酷な作品集だと思っている。悪趣味で、被災や被災者を根本的な部分で冒涜している写真集だと。篠山紀信は、有体に言えば、「被災者」という時代の「アイドル」に憧れてさえいるのだから。

 

篠山紀信は被写体=芸能人や有名人に寄生し、彼らが放つアウラ(彼らが彼らだと見なされる所以のもの)を手っ取り早く写し取って、それを「芸術写真」を超えた「篠山紀信の写真」だと強弁しているに過ぎません。

 

もちろん、そうした写真をここまで撮り続けたこと、それを以て「篠山紀信の写真」だと極めたこと、についてはやはりなかなかの人だとは思いますよ。それを喜ぶクライアントがいて、それを欲するファンがいて、篠山紀信はそれで金を稼いでちゃんと食べて行けているのですから大したものです。それに「表層的な見たまんま」をそのままありのままに撮影する技術も、自分で実際に写真を撮ってみると、それがどんなに優れているのかも思い知らされますからね。

 

ただそれでもやっぱり僕は篠山紀信が嫌いです。彼の撮った写真が嫌いです。

 

彼の作品=写真は世人を安心させ、安堵させる装置に過ぎない。思想も理想も無い彼の作品=写真は、「あの頃はこんな芸能人が人気だったよね」というノスタルジーを喚起させるだけで、見る者を少しも不安にさせません。不安にさせないのはその作品=写真が容易に理解され得るから。人は理解不能なものに恐れ(畏れ)を抱くのですが、篠山紀信の作品=写真は誰にでも理解可能なので見る者に何の恐れも抱かせません。全く以て安心・安全な写真。それが篠山紀信「写真力」の正体でしょう。「この人はこういう人だろう」と世人が考えれば、その通りの写真を撮って来るのが篠山紀信というカメラマンなのです。

 

…ここまで読んできて「そこまでボロクソに言わなくても良いだろう?」と思われたかも知れませんね(笑)。これは僕が篠山紀信とその作品=写真について勝手に思い描いている個人的なイメージに過ぎません。篠山紀信をごく表層的に写し取っただけであり、あるいは彼の放つアウラにまんまと取り込まれているだけなのかも知れない…!?

 

僕が写し取った篠山紀信のイメージは果たして正しいのか?それとも何か重大な部分を見落としているのか?

 

そこはぜひ美術館で自分の目で確かめてくださいませ。

『大分市美術館』限定かも知れませんけど、大分出身の指原莉乃の写真も展示されておりますので、篠山紀信の作品=写真を未だあまり見たことがないという人には良い機会だと思いますよ☆

 

 

 

 

 

『篠山紀信展 写真力 THE PEOPLE by KISHIN』は『大分市美術館』にて201618日から221日まで開催中。

 


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