6月26日 祭りの後・・ビッグアイ


大分開催終了、日本の戦いも終わり・・大会終盤
6月26日。全てが終わった大分スタジアム、ビッグアイ。可動式椅子席のさらに前にある仮設席は、もうこれでなくなります。

誰もいないスタジアム・・
感慨深くなり思わず涙がでそうになりました。これからはJ1昇格を狙うトリニータの舞台となる。
















ワールドカップと中津江村 これまでとこれから
6月27日 大分経済同友会6月例会 鯛生スポーツセンター 所長 長谷俊介氏


6月例会「ワールドカップと中津江村 これまでとこれから」
講 師  鯛生スポーツセンター 所長 長谷俊介氏


 皆さん、こんにちは。鯛生スポーツセンターの長谷と申します。どうぞよろしくお願いいたします。まず、私がこういう席に立ってお話をしていいのかどうか、この席に来るまでどきどきしながらやってきました。演題に「中津江村のこれから」というのがありますが、私は村長ではありませんので、中津江の全般について語る立場ではありません。あくまでも私見ということでお聞きいただきたいと思います。

 今回の件でこれまでに経験のないことを3つさせていただきました。ワールドカップ公認キャンプ地には全国から84カ所が立候補しました。最終的には80カ所が公認されたわけです。中津江村は公認キャンプ地の中で最も小さい自治体ということで注目されまして、当時はマスコミも一番可能性のない自治体ということを暗に言っていたことも充分わかっていました。我々もそう思っていました。ところが、一番可能性のない一番小さな自治体が誘致に成功した。また、運良くニュースステーションの久米さんから生番組でインタビューを受けることになりました。多分、彼が今までインタビューした中で一番無名な相手の一人ではないかと思います。半年前には中津江村がこのようになるとは誰も想像しなかったことです。ワールドカップというものに訳も分からず手を挙げ、我々のスタッフもワールドカップがあれほどの大きなイベントだということに知らなかった。ワールドカップに対する認識が足りなかったというのが今の私の率直な反省でもあり、これをどうプラスに持っていくかというのが今後の中津江村にとっても大きな課題になろうかと思います。


 まず、これまでの事実経過のお話をしたいと思います。キャンプ地誘致に手を挙げた一番の理由は、宣伝効果です。鯛生スポーツセンターは平成2年に開業したわけですが、10年経って施設もかなり傷んできておりまして、利用した学
生さんたちが利用しにくいとか、グランドもでこぼこで、とても芝生のグランドとは言えない状態でした。リニューアルの時期に来ていました。それで、その準備に入りました。どこでもそうでしょうが、スポーツセンターは役場の一つの課ですので、リニューアルに幾らかけたのだから成果はどうかということを言われます。それで、何かよい宣伝効果はないかと考えた時に、ちょうどワールドカップのキャンプ地募集があったのです。立候補するには条件がいくつかありました。まず、飛行場から1時間以内であること。グランドが15分以内のところに2面あること。そして体育館、プール、記者会見の場所、ツインルームのホテルというのが条件でした。鯛生スポーツセンターはその最低限の条件をクリアーしただけでした。大分空港からは遠いのですが、熊本空港からだと1時間以内です。それで、どうにか条件はクリアーできるのではないか、一つの宣伝になればいいのではないかと思い手を挙げたのです。それくらいの可能性で立候補したのかと言われるかもしれませんが、中津江村のような小さな自治体の施設が、他の国立の施設などと同じ土俵で戦うには何か目玉がいるのです。鯛生スポーツセンターは施設的には430名泊まれます。料金は高校生1泊3食で3,050円です。小学生たちは2,550円という非常に安い施設です。そのために国立の青年の家や県立少年自然の家などの大きな施設がライバルです。相手はライバルとして見ていないでしょうが、我々も独立採算性でやっているものですから、どうしてもそこらを相手にせざるを得ない。国立の施設は料金的に非常に安いです。人件費はほとんど含みませんから、我々の施設より1,000円くらい安くできます。おまけに我々のところはネームバリューもないし、信用度も低い。学校へ営業に行って「鯛生スポーツセンターという合宿所をやっております」と売り込んでも、受付の事務員さんから「そこにパンフレットを置いていってください」と言われるだけでした。特に教育委員会への売り込みはなかなか難しいものがありました。どこの県も先生は基本的には県の職員ですから、県教育委員会などからのプレッシャーもあり県立や国立といった施設に行ってしまいます。ですから、私が欲しかったのは、「ワールドカップ公認キャンプ候補地」という看板が欲しかったのです。誘致が主ではなく看板欲しさの非常に消極的な立候補でした。

平成2年から平成8年まで鯛生スポーツセンターは、鯛生金山の付属施設でした。平成9年に初めて鯛生金山から独立しました。スポーツセンターのリニューアルの計画も始まりました。こういう状況で、キャンプ地に立候補したのですから、キャンプ誘致後援会というものもなく、誘致委員として私と村長が二人だけでした。誘致用パンフレットもワープロで打った3枚ものでした。その時私は何とも思わなかったのですが、他の立候補地は立派なビデオやパンフレットを作っており、中津江はこんなもので誘致をするつもりかと言われたこともありました。その時初めて少しは恥ずかしいなという気も起きました。

 今度の誘致活動を難しくした理由の一つに、去年の6月頃までどこの国がワールドカップに出てくるのかわからずに誘致運動をしなければならなかったことです。多分、どこも一か八か賭けてやっていたと思います。そういう意味では、いろいろなものに踊らされていた部分があったと思います。出場国もはっきりしないのに、その国に行って、ある程度の話をする。そういうことをしなければいけないような、そういう雰囲気がありました。それは日本人がこれを機に経済や宣伝効果などを上げようとし、いつのまにか本質的な部分を見失ったのではないかと思います。

 代表チームのキャンプ候補地視察では去年の6月にカメルーンの大使が中津江村にお見えになりました。その前にジャマイカの大使がお見えになっており、我々も、もしかしたらジャマイカかなと思っていたのですが、残念ながらジャマイカは予選で敗退し、結局カメルーンになったわけです。カメルーン大使がお見えになったときの随行者にカメルーンサッカー協会の関係者がいて、「ここには2回目の視察に本国から必ず来ます」と言いました。はっきり言ってこれをあまり信じていませんでした。体のいい話で、なんだかんだふんだくられるのかなと思って信じられなかったのです。それは、皆さんが中津江村鯛生スポーツセンターにお見えになったら想像がつくと思います。エムボマ選手が鯛生スポーツセンターに来て私に最初に言ったのは、「こんな山の中に来たのは初めてだ」という言葉でした。実際に山の中だし、遠いし、何もない。それは後でお話ししますが、なにしろ周りは山が多く、そういう環境のために、私たち自身が誘致活動を消極的ものにしていたと思います。

 2回目の視察団でカメルーンサッカー協会関係者3名が8月に来ました。大分県の職員の方がついていました。大型バスに3人だけ乗って、途中で道を間違えたので1時に来るはずが3時になりました。来たときには3人とも非常に機嫌が悪く、施設を見て回ってもムスッとしているのです。服装もジャージー姿のラフなものでした。実は、その日の午前中に南アフリカの代表監督一行がお見えになっていたのですが、彼は大変紳士的な雰囲気できちんと話を聞くタイプでした。どちらかというとそちらの方が脈があるなと思っていたものですから、私もあまりカメルーン協会一行には愛想良くはしなかったのです。

 また、一番不安だったのが、いくら県の方が一緒についてきていても、名刺1枚なので本物のカメルーンサッカー関係者どうかわからなかったことです。証明書があるわけではないし、服装もジャージー姿。果たして本当にカメルーンチームのマネージャーなのかわからない。これは後で聞いた話ですが、カメルーンというのは、最初そういう感じで接触するのだそうです。最初からムスッとして、舐められてはいかんという感じできて、しかしなじんだらすごく優しくて素直なのです。私達も相手のことをもう少し理解していたら、誘致ももう少しスムーズにうまくいったのではないかと思っています。

 そして11月29日に県庁で調印になるわけです。県の方から調印になるかもしれないという話は来ていましたが、県の担当者の方も半信半疑だったようです。まだ信じられないとはっきり言われました。私自身も最後まで半信半疑でした。11月29日当日私も早くから県庁に行き、先ずカメルーンの関係者が成田に着いたことを、更に彼らが羽田から大分便に乗ったことを確認して初めてこれは本当に調印になるのだなという気がしました。私自身も山の中で育っており、そういう調印の場面に立ち会うことが無かったものですから、まさか12月の初めにあるソウルでの抽選会前に調印に来るとは思わなかったのです。ましてや中津江村には監督も来ていない、協会長も来ていないのでこれが本当に調印式なのか信じられませんでした。ソウルでの予選抽選会が終わり、それから協会長監督一行が中津江村にお見えになって、初めて、それまでに来てくれていた人が本物だとわかりました。

 今回の誘致活動で本当に悩んだのは、交渉相手になっている人がキャンプ地決定にどれくらいの力があるのかが分らないことでした。そのために日本中の立候補地が右往左往させられたわけです。ですから、当たり前も事ですが、交渉する上で一番大事なのは、相手をよく調べ上げるというのが本当に大切だとつくづく感じました。
全国のキャンプ地の中で中津江村が一番早い調印でした。一番小さくて、一番可能性がなかった自治体が一番早く調印したのです。それが、マスコミの中津江村報道の始まりでした。私がこういう場で話すのを負担に思ったのは、うまくいったと言うことが自分たちの自慢話になるのではないかと思ったからです。昨日まで、ほとんど毎日平均3本近いマスコミの方とお会いしています。お会いしなかったのは多分3・4日位だったと思います。そのくらい報道の方がお見えになりました。

 私がカメルーンに行ったのは2月の初めでした。なぜカメルーンに行ったかというと、表と裏の理由がありまして、表の理由は、当然ワールドカップキャンプ受け入れは初めてのことですから、カメルーンの食生活や文化について調べるためです。インターネットでもカメルーンについての情報はほとんどないのです。裏の理由は、実は、初戦が新潟スタジアムになったために、キャンプ地として中津江村が遠いということで、カメルーンキャンプ誘致の動きが裏舞台で再燃しました。先ず、5月17日の新潟の試合でJリーグとカメルーン代表チームとの試合をやらせて欲しい等その他いろいろな話が私の耳に入りました。確かに、私がカメルーンの関係者だったら中津江村のような遠いところではなく、第1戦の近くに行くことも考えると思います。それを狙っていろんな方がいろいろな夢を持ってカメルーンチームにアプローチしていく。しかし、中津江村は財政的にも厳しく、代理店や専門家などを雇うことが出来ないためにそういう折衝もこちらでしなければならなかった。もう一つの不安がアフリカ選手権で早く負けてしまったら、協会長や監督が変わるかもしれない。そうなればキャンプ地も変わる可能性がありました。私が最低限度出来る仕事は、一生懸命カメルーンチームを待っています、ベストを尽くしてますという気持ちを、現地で直接お会いすることで伝えられないかという気がしたわけです。これがもう一つの理由です。

 しかし、カメルーンチームの「良さ」がこの時も発揮されたわけですが、結局、誰もカメルーンチームとアポイントを取れなかったわけです。それはその時にマリ共和国でアフリカ選手権が開催中で、協会に電話やFAXを入れても返事も来ないのです。誰もサッカー協会とアポが取れなかったのです。カメルーンチームとのアポは非常に難しく、ワールドカップ事務局のJAWOCでさえ私に、カメルーンチームと連絡を取ってくれという依頼があったくらいです。それくらいカメルーンチームというのは連絡の取りにくいチームだったのです。それが中津江村にとっては幸いしたのですが、ほとんどのところがカメルーンチームと直接交渉が出来なかったのです。私も実際はカメルーンチームと連絡は取れませんでした。ですから、アポイントなしでカメルーンまで行きました。会える可能性があるのは、もし優勝すればカメルーンに帰ってくるわけだから、その祝賀会に飛び込んでいけばどうにかなると思いカメルーンに行きました。そういう方法をとったのは、これはもう仕方がなかったのです。というのは、2月25日が日本組織委員会に最終的にキャンプ地等を提出するリミットだったからです。アフリカ選手権が終わってしまったら、代理人がどっと行って、もしかしたらキャンプ地を再考するかもしれないという不安があったものですから、幹部と一人でも会えればという気持ちがありました。

 カメルーンに行った時に、フランス大会の時のキャンプ地にも行ってきまして、ワールドカップのキャンプ地というのはこういうものだということを知りました。その当時、ワールドカップのキャンプ地というのがどういうものか、私を含めて誰も知らないわけです。私は芝を担当しますから、芝はどんな芝を作ればいいかをあるサッカー関係者に聞いたことがありました。大分スタジアムでさえ年間5,000万円くらい維持費がかかっているとききましたが、中津江村でそれだけの経費をかけることは出来ないので、どの程度の芝を作ればよいのかを聞いたわけです。すると「高額な給料の選手たちが力一杯練習が出来て、さらに怪我をしないようなグランドを作ってくれ」というよく分らない抽象的な返事でした。グランドの芝ついては、全てのキャンプ地、スタジアムのグランドキーパーたちが、求められる芝のレベルで悩みながら、どうにか最終的には全部の会場が立派なグランドにしあげたように、今度の大会でキャンプ地として一番わからなかったのは、ワールドカップキャンプ地として求められる施設とサービスのレベルでした。どの程度のレベルが求められているのかが分りませんでした。確かにお金をかければそのレベルをいくらでも上げられますが、財源的に厳しいキャンプ地は中津江村を含めて難しかったと思います。そのレベルのイメージを私なりにつかんだのがフランス大会の時のキャンプ地を見てでした。

 そういう中でカメルーンに行ったわけですが、カメルーンに行って一番驚いたのは、食事に米を食べることでした。私は旅行が好きで東南アジアなどによく行くのですが、アジアならまだしも、カメルーンがまさか米を食べているとは思いもしませんでした。しかも日本と同じように炊いて食べている。つい1週間前でしたが、東京のJAから電話がありました。中津江村で米を食事に出していたと思いますが、どちらの米でしたかというものでした。中津江産の米ですと答えたのですが、ものすごく喜ばれました。「本当ですか!中津江産ですか!国産米ですね?」と。なんだか、中津江産の米は国産ではないような言われ方をしました。他のチームは自国の米を持ってきたらしく、地元の、国産の米を使ったのは中津江村だけでしたと言われました。選手もおいしい、おいしいと食べてくれました。彼らに出した食事で特においしいと言ってくれたのが鶏でして、おいしいチキンを選手に食べさせてあげようと思い、「豊の軍鶏」という大分県産の軍鶏を2月頃から飼いました。カメルーンの鶏はおいしいと言うカメルーンから来ている留学生の一言で、それなら大分県のおいしい鶏も食べて貰おうと頑張って飼ったのですが、選手たちにも非常に人気があり、これもこれから大分県の産物の一つになるのではないかと思いました。既に、カメルーンキャンプで使った鶏は何という種類のものかという問い合わせが全国から来ています。そういうお仕事をされている方は是非飼ってください。スポーツセンターで飼っていた40羽のうち36羽は選手の胃袋に入って、2羽は我々が食べてみました。間違いなくおいしいです。

話を戻しますが、カメルーンでは、アポなしで行ったのに、チームが優勝して帰国したときに偶然協会長とホテルの前でバッタリ会ったのです。本当に運が良かった、運がずいぶん味方してくれたと思います。彼らにとっては不運だったかもしれませんが、偶然会ったのです。その時までに会長さんとは一度しか会っていませんでした。しかし、覚えていてくれたらしく「中津江村から来ました」と言うと、「よく来てくれました」と休日にもかかわらず、サッカー協会に招待してくれました。

 カメルーンではサッカーの代表選手というのは神様扱いです。痛感させられたのは、日本人がサッカーに持つ想いと向こうの人がサッカーに持つ想いは全く違うと言うことです。カメルーンがアフリカ選手権で勝ったその日に帰国することを聞いた民衆が、出迎えるためになんと20キロ離れた空港まで、夜歩いていくのです。20Hをです。数万の民衆が沿道を埋め尽くし、選手達を出迎えていました。そのくらい選手達は英雄です。


 優勝祝賀会があることを聞いてこのときなら監督、選手に会えるチャンスだとおもいました。特に監督にはどうしても会いたいと思いました。ちょうど私が泊まっていたホテルで優勝祝賀会が開催されました。ホテルの周りを警官が厳重に警備して、ホテルの中も厳重な警備がされていましたが、会場に行けるところまで行こうと思っていました。日本人なのであまり警戒されずに祝賀会の会場の入り口まで入ることが出来ましたが、後ろから警備員に呼び止められ、それを振り切って中に入りました。うまい具合にカメルーンチームのマネージャーがおり、彼に挨拶していたので警備員もそのまま帰りました。本当にラッキーだったと思います。この図々しさがなかったらもしかしたら会えなかったかもしれません。その時にエムボマ選手に会いまして、彼は日本でプレーしていたので日本語が少し出来ますので、キャンプ地の中津江村から来たことを告げました。とにかく、中津江村がキャンプ地だということを印象づけたかったのです。「together number1」という村のスローガンを伝えました。彼も年齢的に最後のワールドカップになるかもしれない時でしたから大変喜んでくれました。今着ている私のジャンパーに英語で「together number1」 と書いてあるのですが、図々しくもエンボマ選手に、スタッフジャンパーにこのスローガンを入れたいので、「together number1」をいれたサインをしてくれとお願いしましたら、快くOKしてくれ、次の日わざわざ英語、フランス語で8枚も書いてきてくれました。その中にはカタカナでエムボマと書いてくれたものもあるのですが、カタカナでエムボマと書いてくれても、日本に持って帰って誰も信じてもらえないと思いました。

 とにかく中津江村を印象づけることが目的でした。確かに印象づけて、さらにうまくいったのは、向こうのマスコミの方に来てもらえまして、私のことがちゃんと新聞に出ていました。そのマスコミの方とはワールドカップ開催中静岡の浜松で偶然お会いしました。非常に懐かしく感じ、手を取り合って再会を喜びあいました。

 そして5月19日を迎えるのですが、私もその時にカメルーンが遅れるのではないかと20%くらいは思っていました。実際にこんなに遅れるということではなく、カメルーンだからきっと定刻通りではないだろうと思っていました。以前彼らと話していてわかったのは、彼らには出発時刻という概念がなく、カメルーンではスタートした時が出発時刻だと。それでは、あなた達の「予定」というのは何なのかと聞きましたらが、「スタートした時が出発時刻だ。それがなぜ悪いのか」と言われました。そう言われると確かにそうだなと変に納得しました。

 そしてカメルーンチームは実際に5日遅れたのです。この遅れた理由がボーナス騒動だと言われていました。関係者の方がおられると悪いのですが、このことをマスコミに真相?を話したのはカメルーンの日本大使館です。日本大使館から、あれはボーナス闘争だという記事が載ったフランスの新聞がわざわざ送られてきました。その前に報道されていた原因の一つは、ビザ発給が遅れているというものでした。私も日本大使館の方と一緒にカメルーンで歩き回っていましたので、彼らが本当に一生懸命やってくれているのは知っていました。それで、電話がありまして、「ビザは確かに発給している。日本の新聞にそういうことが出ているのは非常に心外だ。長谷さん、フランスの新聞にはボーナス闘争だと出ている。」と言いました。案の定その後の報道はそういうように切り替わってきました。私も通訳なしで行ったわけですが、日本大使館の方には非常に協力していただきました。私は片言の中学1年くらいの英語しか話せません。フランス語も全くダメです。ですから、せめて向こうの協会長さんと村長の親書を渡す公式の場での通訳を手配して欲しいと日本大使館お願いしました。カメルーンに着くのが2月9日でした。しかし、10日がアフリカ選手権の決勝戦。月曜日が国民の休日のため12日しか大使館が開かないので12日においでなさいということでした。12日にはもしかしたら選手達がヨーロッパに帰ってしまうかもしれないが仕方がないなと思っていました。しかし、フランス視察中に私のフランスでの通訳の方の携帯電話に外務省アフリカ一課から直接電話がかかりました。「カメルーンにワールドカップのキャンプ地として訪問するのでしたら外務省が全面的にバックアップします」と。信じられないような電話でした。大変有り難かったのですが、どうして急にそういうことになったのかと思いましたら、ちょうど外務省のいろいろな問題が起きた時期と重なっていまして、これもその一因かなと思いましたが、これもラッキーでした。
              
 そういうラッキーなことが重なりましたが、カメルーンに着いた時には空港に日本大使館の方が3名も出迎えに来てくれていました。更に親切?なことには、私が予約していたホテルは3,000円くらいの安いホテルでしたが、危ないから替えなさいと言われ、さっさと私が取っていたホテルをキャンセルしてヒルトンホテルに替えられました。もちろんヒルトンホテルは素晴らしいホテルですけれども、外務省がお金を出してくれるわけではないわけです。村の旅費規程では、その国の生活水準によって違うのです。カメルーンでは1泊9,500円しか出ないのに、17,000円くらいの部屋で7泊もさせられました。ですから1日1万円くらい自腹を切って泊まらなければならない。ガックリ来ましたけれども、仕方がない。

 結局、それが幸いしてそこで協会長に会えたわけです。ですから私がマイナスだと思ったことが、どんどんプラスに変わっていったのです。
これもその一つかもしれませんが、カメルーンの到着が遅れましたが、遅れたことで中津江の名前が全国的に広まりました。12月から5月までのマスコミの取り上げ方と、実際に遅れたあとでは取り上げ方が明らかに違います。実際に到着が遅れた時から以降の報道の主役は、中津江村の人です。それまでは、カメルーンであり、中津江村であり鯛生スポーツセンターです。しかし、5月19日以降はあくまでも村の人の人柄の良さや優しさが前面に出たのです。ですから、このワールドカップキャンプで中津江村の知名度を上げた一番の功労者は村のおばあちゃんたちであり、村民一人ひとりです。ああいう形で全国の人が、テレビ、ラジオ、新聞などで村の雰囲気を見たり聞いたりして、サッカーのキャンプ地としてではなく、「気持ちの優しい村人がいる中津江村」の名前が売れたわけです。

 5月19日から、スポーツセンターは警備が厳重になり私は外から完全にシャットアウトされていました。マスコミの方も一日15分程度はセンター内を取材できたのですが、それ以外は入れない状態でした。スポーツセンターも中に70人くらいのスタッフを抱えていました。実際に、19日に来る予定が24日の朝になったのですが、早めに5日間は遅れると言ってもらえればやり方もあったのですが、次の昼、そしてまた次の日とどんどん延びるのです。そのたびに食事の準備に入るのです。朝7時に中津江に来るのなら先ず食事だろうと、その係りの人たちは夜3時には準備を始めなければならないわけです。それをずっと繰り返していましたので、ずっと緊張したままだったのです。その頃、藤枝市の担当の方が気苦労から自殺されました。それで、「長谷さん大丈夫ですか」という電話をマスコミ方から何件もいただきました。実はその時、そういう中で私達はバーベキューをしていたこともありました。70人のスタッフにはボランティアの学生さんも多く、また、互いに顔も知らない人の集まりでした。いつ来るのかわからない緊張感が続きますのでどこかで気を抜かなければならないと思いバーベキューなどをしたわけです。

 けれど、そういう緊張感が続いていても、カメルーンが来ないとは一度も思いませんでした。それは、私がカメルーンにも行っているし、彼らとも話しているし、多分、あの時点では私が一番カメルーンの方と接していました。カメルーンの方もJAWOCよりも私たちの方を信じていました。しかし、間違いなく来るとは思いましたが、いつ来るのかがわからない。また、あんないい加減な飛行ルートで来るとは思いもしませんでした。まさかエチオピアに、そしてインド、更にはタイを経由してきたのです。あまりにも非常識なルートです。しかし、どうにか無事に福岡空港に着き、中津江村には午前3時30分に到着しました。私も緊張して待っていましたが、まさか村の人があんなにたくさん出迎えに来てくれるとは思いませんでした。その中に私のお袋も居たらしいのですが、夜中の3時30分に100名の超える村民が迎えに出てくれるというのは、村の人口が1,300人ですから、約1割の方が出迎えた事になります。私は、この歓迎が中津江村のキャンプが成功した第一の要因だと思っています。カメルーンの代表チームもフランスを出発して40時間経っていましたが、その間3食くらいしか食事をしていないのです。エチオピアから先はジュースなどの飲み物くらいしか取っていない。24時間くらいはほとんど食べていなくて、夜中の3時30分に中津江村に着いたのです。余談ですが、キャンプ期間中、あれだけ有名な選手たちが、40時間もかかってきたことに対して文句は聞けませんでした。それは国の名誉のため、国を背負っているというプライドだと思います。

 福岡空港に出迎えている職員から、中津江村に着いた時に軽食を用意して欲しいとの連絡が入り用意していましたが、実際は軽くではなく、とてもよく食べました。私達も夜中の3時に着いた選手に重たいものを食べさせるのは心配でしたが次から次に追加で食べるのです。選手たちは福岡空港から中津江村にバスで来たわけですが、中津江村方面に見えた方はわかると思いますが、中津江村に近づくにつれてどんどん暗く寂しくなるのです。夜中だと外灯がポツンとあるくらいでどんどん寂しくなってくるのです。最後に800メートルくらいのものすごい登りがあるのですが、選手たちも不安だったと思います。そんな中、村の人が温かい歓迎をしてくれ、選手たちも疲れているのに笑顔で応えてくれました。この出会いのシーンがキャンプを成功に導いた一番大切な場面だと思います。この出迎えを見て、キャプテンのソング選手が「家族になった」と答えました。それから先の彼らとの交流がとてもスムーズで、テレビ等でご覧になった方もいらっしゃると思いますが、子供たちと踊りを踊ったり、サインにも気軽に応じたり、お掃除をしているおばちゃんと写真を撮ったりしていたのですが、そのくらいスムーズに進んだ理由の一番は、あの到着した時だったと今更ながら感じます。

 キャンプが始まっても彼らは1滴の酒も飲まず、実にシンプルな生活を送り練習も順調に進みました。中津江村が立候補しても誘致の可能性は少ないと思った理由としては、遠いこと、周りに家、繁華街がない山の中だという2点だったのですが、結局、今考えてみれば、彼らの要求を具体的にわからなかった私達自身の反省があるのです。これはこれからの地域づくりにとって大変大切なことでして、私も行政マンになりまして25年になりますが、今でも中津江村は山の中でいろいろと難しいと思っています。けれども、彼らから教えていただいたのは、それは少しもマイナスではないということです。彼らはキャンプ地についていろいろな候補地を見たり聞いたりした中で中津江村を選んでくれた。条件さえ整えばマイナスと思っていたことがプラスになるということを教わりました。話は戻りますが、昨年12月2日に私が福岡で監督とゆっくり話せる機会がありました。その時彼からの要望は「泊まるところと食事はスタンダードでいいが、サッカー選手にとってグランドは大切だ。グランドが悪いとストレスがたまる。練習に集中できればいい」というものでした。そして更に協会長を乗せて福岡空港から中津江に行く途中、先に言っておこうと思い、「協会長、中津江には酒を飲むところも繁華街も何もありません」と言ったのですが、協会長が「ワールドカップまで来て酒を飲みに行く選手は居ません。」と言いました。ということは二つとも条件を満たしているのです。最初に立候補したときにどうして私が無理だと思ったのかというと、その山の中で何にもないといことでした。これは行政マンとしての反省です。非常にだめな行政マンだったとつくづく感じています。

 そして、選手がキャンプを終えて試合に出発していったわけですが、予選リーグだい2戦目サウジアラビアとの1戦でカメルーンが勝利した翌日、カメルーン主将のソング選手から「この1勝は中津江村民に捧げます」という電話をいただいたのです。これには私もびっくりしました。彼らが非常に義理堅い、人情味のあることをよく表しています。実際にこれまで接してきて感じてはいましたが、これほどまでとは思いませんでした。日本人であれば義理堅いとか人情深いというのもわかるのですが、まさかアフリカの一番ドライと思われるところの人で、しかもサッカー代表のトップの選手がキャンプ地にこの勝利を捧げると言うとは思いませんでした。想像ですが、日本代表のキャプテンがキャンプ地にあんなことを言うなんて考えられません。私も静岡のスタジアムまで応援しに行ったのですが、残念ながら負けました。けれども、次の日にホテルに行きまして、私のような者が1国のワールドカップ代表を慰めるのも変なのですが、“お疲れさまでした”というのを一言でも言いたくて行きました。その時も協会長とソング選手が、「中津江村に悪いことをしたね」と言ってくれるのです。本当に彼らに人情を教えられた感じがしました。カメルーンの方との交流は、そういう部分で最初の出会いが非常にドラマチックであったことで一度に打ち解けた良い出会いだったと思います。そして、私も驚いたのは、私はいつも9時か10時頃家に帰るのですが、お袋がワールドカップの準決勝を見ていたのです。76歳のお袋がまさか一人でテレビの前に座りワールドカップを見ているなんて、ワールドカップとはこんなにも影響があるのか。ワールドカップが何であるかを知らずにここまで突き進んできて、この大会のすごさを改めてみたような気がしました。

 こういう分析は大学の先生にお話を聞かれた方がいいと思いますが、日本人はオリンピックなど、これまで全てがアメリカや先進国中心のイベントを見ていたのを、アメリカや先進国中心ではない、本当の世界的な視野で見たイベントがワールドカップではなかったかと思いました。そういう意味では、日本人の目がやっと、アフリカや南米、ヨーロッパなど、平等に外国に向く良い機会になったのではないかと思います。こういう席で私のような者が言うのもどうかと思いますが、そういうことを実感いたしました。

 それから、大分経済同友会の地域委員会のもう一つのテーマである市町村合併についてです。
中津江村には毎年1月に村民互礼会というのがあるのですが、村民が100名くらい集まります。市町村合併について、昨年の5月頃急に日程がばたばたと決まったあとの最初の互礼会でした。村民にとって村がなくなるというのは寂しいことですから、きっと寂しい互礼会になると思っていました。その互礼会にカメルーンの留学生であるAPUの学生を一緒に連れて行ったところ、みんなにとても喜んでいただけました。それを見ていて、ああ、ワールドカップのキャンプを呼んできて本当に良かったとつくづく感じました。逆に言えば、村の人も市町村合併があるので、これが村の最後の花火のようなつもりで取り組んできたのではないかという気がします。先週の日曜日に、中津江村から外に出ていった若い20歳くらいの人が帰ってきて、村で働きたいということを言いました。それを聞いていて自分の地域に誇りを持つことというのがどんなに自分の生活にとっても、地域づくりにとっても大切なことかということをつくづく感じました。

 まだ今回のワールドカップで驚いたことがあります。私がカメルーン対ドイツ戦の応援のために、静岡に行ったときに新幹線の中でも駅でも色々なところで写真を一緒に撮らせてくださいといわれたのです。実は、テレビを見る暇がなくて、テレビに自分がどれだけ出ているのかというのはわかりません。ましてや籠の鳥のように外との接触が出来なかったのでどういう報道をされていたのか全くわからなかったのです。ですから、外に出たときに初めて、中津江村から発信した報道量多さを実感し、私自身でワールドカップがものすごい大会だったのだということをつくづく感じました。

 やっと今、村も落ち着きを取り戻している状態です。皆さん方のテーマと一緒で、今後これをどう活かすかというのが非常に難しい問題だと思います。特に中津江村は焼酎なども売れましたし、スポーツセンターにも日曜日300人からの人が見学に来られるのです。鯛生金山もかなり入場者がプラスになっています。しかし、そういうものではなく、村に対する誇りというようなものをベースにした村づくりがもう一度出来ないだろうかと感じています。これは市町村合併を拒否しているわけでも何でもないのです。

 それともう一つ感じたのは、どうしてここまでマスコミの方が中津江を取り上げたか。テレビも視聴者の要求があるからこそ報道するわけです。これだけ多くの時間を割いて報道されたことは一種の社会現象だと思います。都会の人たちが村民みんなが一緒にやっている姿を羨ましいと思ったのではないか、一つのことを仲間として一緒にやれることを羨ましく思ったのではないかと思います。それが今、日本人に欠乏している大きなものの一つではないかと思います。ですから、市町村合併をうまくやるためには、そういう地域の、みんなで一緒にやるんだというまとまりをどこかで作ってやらないと、安易に合併して地域の名前が無くなったり、吸収合併で地域の核が無くなったという道筋ではダメなんだろうと思います。やはり、そこでまとまりやすい範囲というのをうまく作り上げていくということが大切ではないかと、今回の中津江騒動を通してつくづく感じました。

 今、私もこういう風に話していますが、いつ首になるのかわからない公務員でして、だからこそこういうことが出来たのだと思います。私は、芝の管理もやりますし、プールの監視もします。毎年2〜3名おぼれている子供を助け上げるのですが、その度にもしここで亡くなったらやめなければならないなということを思っておりまして、今年も7月からそのプールを開くわけです。この次お目にかかるときにはスポーツセンターの所長ということではなく、辞めざるを得ない立場になっているかもしれません。そういう意味ではいつも緊張感を持って取り組んでいるつもりです。ですから好きなことも言える様な気がします。そういう者に対してこういう席を設けていただき心から感謝申し上げます。
そして、この講演を私が引き受けた第一の目的は、スポーツセンターの営業であります。どうぞ皆さん、企業研修などに是非利用してください。鶏や手作りのパン、ソーセージもあります。ましてや新入社員には周りに何もないところで研修できるわけですからどうぞ利用していただきたいと思います。もちろん30分も車で走れば菊池温泉に行けますのでそちらにもご案内いたします。是非とも鯛生スポーツセンターに来ていただきたいと思います。
本日のご静聴誠にありがとうございました。

質疑応答
Q「辻」
専門が政治学なのでお尋ねするのですが、村議会の最初の反応やその後のことをお聞かせ下さい。
A「長谷」
議会は、私がこんな人間ですから最初からまあ宣伝になるならやってみたらどうだという反応で、すごくバックアップしていただきました。それに対しては私も大変感謝しています。その後も、ヤフーのホームページを見ていますと、写真で、カメルーンのサポーターとアイルランドのサポーターが握手しているシーンがデカデカとホームページ上に出ていました。よく見ると村の議員たちなのです。議員がカメルーンのちゃんちゃんこを着てアイルランドのサポーターといっしょになって写っている写真がありまして、いろいろな場面で今回フォローしていただきました。
Q「秋月」
長谷さんのお話は、村長さんの若いときの話を聞いているようでした。今回スポーツセンターでは地産地消ということでいろいろ地元の産物を使っていましたが、中津江村がどういう産物をスポーツセンターに合わせて観光客に販売するのか、そのあたりの戦略を聞かせていただきたいと思います。
A.「長谷」
私がスポーツセンターの所長になりまして一番思ったのは、九州の○○村といわれるところは大抵どこも産物がわさび、こんにゃくなのです。ところがセンターに来る学生さんはほとんどがそういう食材が苦手なのです。それでまず学生の好む食材がないということで、パンとソーセージを作り始めました。現在スポーツセンターでの食材としているものに60%から70%の割合で村の産物が入っています。今考えているのが、味噌や醤油など村のおばちゃんたちの技術をもう一度活かせないかということです。スポーツセンターの利点は、自分で完全に食材まで把握できるということです。ですから、私がOKすればその食材が入るわけです。100%に向けて今努力しています。そうすることで加工技術や物をもう一度見直し、それを外から来た学生たちに体験学習として提供する。いろいろな役目があると思いますが、農山村の特に林業などの分野での村づくりという部分では、やはりセンターがそういう資料を作り実際に体験させて、そして実際に食べるという部分を担っていると思っています。ですから100%を目指して、例えばジャム、パンなどまで村でやれるような取り組みをしています。
Q「秋月」
中津江村はわさび漬けを売り出しており、静岡の物よりおいしいという話を聞きました。
A.「長谷」
わさび漬けは、村の3セクの会社で作っており、静岡に運んでいるという理由もあるのですが、きっと良い物が出来ると思います。そしてそれを体験させることも非常に大切だと思っています。よろしくお願いいたします。
Q.「挾間」
今回、中津江村にカメルーンが来たということを村の資産として今後どのようにしていくかという点について伺いたいと思います。

A.「長谷」
カメルーンが距離的に遠いという一つの大きな問題があるわけですが、今回の記念に「カメルーン坂」というのをひとつ命名していただきました。スポーツセンターも夏までは「鯛生スポーツセンター」、秋以降は「レス・ライオンズホテル」というようにそういう名前で残そうということと、もう一つはカメルーンの子供たちにサッカーボールなどを送って少しでも彼らのプラスになるように努力をしていこうと思います。私がカメルーンに行った時に、子供たちが裸足でサッカーをしていまして感心したのですが、後で聞くと靴がなく裸足でするので破傷風になり亡くなる子供たちが多いということを聞きました。それでこれはもう、何か自分たちでやれることからやっていこうという気持ちでおります。来年は、監督さんが鯛生スポーツセンターでもう一度やってみるかというような話をしています。他に、善意とお金に余裕のある会社にスポンサーになっていただいて、カメルーンの青少年のチームと九州の青少年のチームとの試合をやってみたいと考えています。


 写真は鯛生金山のカメルーン弁当です。






ピアッツァパーティ
6月30日 韓国vsトルコ3位決定戦を見ながら〜


ワールドカップの開幕戦を前回ピアッツァパーティで見てはや一ヶ月、もう3位決定戦、あすの決勝戦で終了。

みんなでわいわいがやがやワールドカップの思い出話を。

やはりトルコ強し。
・・・もうワールドカップが終わる。
もっとず〜と続いて欲しい。楽しかったです。

その他、ピアッツァパーティ・レポート




ワールドカップ最終日
自宅でおとなしくTV観戦しておりました。


決勝戦のイベント。フィナーレですね。
ああ、寂しいですねぇ
感動の一ヶ月が終わった。また4年後。




ここからは2003年です。

あとがき
2003年5月  尾野文俊




大分は少しだけ・・2002年6月以降、変化が起きている。
市民の意識に・・・スポーツ文化に、変化が起きている。
これがJ1昇格したトリニータとどのように相乗効果がでてくるか・・
みんなで楽しみ、大分を誇りに思い、大分での生活もまた楽しむ。
そんな文化を期待します。

     
   

よっし!次回ドイツに行くぞぉ〜!









   

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