ドストエフスキーから受けた影響

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ドストエフスキーの「文学や思想」及びドストエフスキーから、これまで私が影響を受けた諸影響

ドストエフスキーの小説は、「文学」というものの面白さ・感動・力・可能性を、私に大いに教えてくれる端緒(たんしょ)になりました。

特に、
容易ならざる思想性・問題性を孕(はら)んでいるドストエフスキーの主要小説は、私を惹()きつけ、中学の一年生だった私の「自我」「自意識」を強烈に目覚めさせ、その結果、最初は理系志望だった私は、高校は文系コースを選び、
大学は文学部へ進むことになり、
文学を享受(きゅうじゅ)し文学の価値を考えていくことが、その後()の自分の「趣味・課題」の一つになってしまったのでした。


ドストエフスキーがしばしば取り上げる、
・「自由」であること(自分で自由に選んでいくこと)の、人間にとっての重さ・苦しさ
・「自由」の中で我々や社会に生じがちなマイナス面(自由人たちの孤立化、人々が物事を自由に選んでいく過程において生じかねない悲劇性・危険性、など)

を通して、
・「自由」の中で自意識過剰の人間に意識される、人間の生の「実存」性
・「自由」の「両刃の剣」性
・「自由」をめぐる、個人及び社会における、そのほかの諸問題
について、私は、必要以上に、知らされ、感じさせられ、考えさせられてしまったと思います。
(
→《参考》ドストエフスキーの小説の中に見られる「自由」についての発言)

「自由」をめぐっての私のこういった問題意識は、ドストエフスキーとの長年の付き合いの過程で、私の中に、根強く、固定観念のように、すりこまれてしまって、これまで、
自分の生を苦々(にがにが)しく苦しめる害毒にもなってきたような気がしてならず、(実際、この問題の中には、今後解消すべき、「自由」というものに関する私の誤った強い思い込みも、多分に含まれているのでしょう。)

現在も、生きるということに対する意識の中から、そのすりこまれた害毒が抜け切れていないように思います。
ドストエフスキーの世界の中にあるこのあたりの害毒性に対しては、読者は一方的に悪影響を受けないように対すべきでしょう。

もちろん、「自由」についての上のような問題意識は、一方で、
・「自由であること」「自由意識(自由な物の見方や生き方に対する意識)」というもののありがたさ、
・ハイデッガーが言ったように、いわゆる「人(ひと)化」していくのではなく、
物事は自分で独自によくえて自分で選んでいくということの大切さ、
を私に教え、この「自由意識」というものは、これまで私によい方向に働いた面もある、とは思っています。
最終的には小説『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章に凝縮された、個人や社会が「自由であること」の是非(ぜひ)をめぐってのドストエフスキーの切実な問いかけは、社会のあらゆる問題の根底に横たわる容易ならざる大テーマである
と私は考えています。

ドストエフスキーから与えられた「自由」をめぐっての諸問題を、今後、どう捉(とら)え、どう解決していったらいいのか、ということは、今後の、私の、そして、私たちの社会の、大きな検討課題である、と思っています。


ドストエフスキーの類(たぐ)いまれなる心根(こころね)の表れとして、ドストエフスキーの文学にしばしば現れてくる、
・心やさしい感情、広い愛の精神
・世間から見捨てられ愛想を尽かされた罪人や嫌われ者
にまで至る、思いやり・あわれみ・いたわりの精神
の質には、強いインパクトを受けてきました。

ドストエフスキーの文学に表れている、ありがたい尊い感情(精神)の感得は、ドストエフスキー文学の読者たちの人生における貴重な尊い体験になるだろうと思います。


ドストエフスキーの文学は、
宗教的な尊い感情・発想、宗教的世界観への関心というものを私に大いに啓発してくれました。

言い換えれば、人間やこの世界を、謙虚に、より広い視野やより大きな価値から、根底的に捉え、考え、感じていくということであり、
世界や人生や人間に関する私の視野(見方、感じ方)や信頼をぐーんと広げることになったこの点は、ドストエフスキーにほんとに感謝したいことの一つです。
(は言っても、宗教や信仰に関しては、世間には、金や権力目当ての間違ったまやかしの宗教組織も少なくはないので、信奉する宗教や信仰の選択には私たちはぜひとも慎重さを持つべきだと思います。
とんでもない間違った教えを実践する宗教に入信してしまうと、信仰心が純粋なだけ、生命的にも金銭的にも、わが身の破滅や、家族や世間への迷惑を招いてしまうので、私たちは宗教や信仰の選択には、くれぐれも注意すべきでしょう。

ドストエフスキーの小説の主要登場人物のありようや考えを通して、私は、以来、「神」「無神論・有神論」の意味するものについて、深く考えさせられてきました。
(
ドストエフスキーの小説を広く読んでいる梅原猛氏(日本の古代史研究家・哲学者・劇作家)の、
「彼自身の内面にひそむ、天使と悪魔の深い葛藤(かっとう)を通じて、ドストエーフスキイは「神ありや否(いな)や」という問いを問う。一見、この「神ありや否や」という問いは無用な問いのように見える。日本人は、特に戦後の日本人は、合理的な啓蒙主義を信じて、このような宗教的な問いを無用な問いとしてきた。しかし、この問いこそは、おそらく、今後の人間にとってもっとも根源的な問いなのである。」
といった発言には、私は、すこぶる、心ひかれ共鳴するものがあります。

ドストエフスキーが打ち出した、「神のない世界ほど恐ろしい世界はない」「神がなければ善行も不死もない」(以上の命題における「神」とはいったい何なのかということは、また、あらためて問われなければならないでしょう。)
などの、意味深長な命題を通して私に与えられたこの世界や人間についての見方や考えは、生涯、私の世界観や人間観の中心から消えることはないでしょう。


ドストエフスキーの文学との付き合いの中で、私は、キリスト教の教えやその精神(ドストエフスキーが独自に理解していたロシア正教的な教えや精神)について、親しみ、教えられ、それらから、かなりの影響を受けてきたわけですが、
一方で、私は、キリスト教の発想や現行のキリスト教に関しては、共鳴できない点もあり、
私は、現在でも、ドストエフスキー文学の影響からクリスチャンになる、という事態には至っていません。

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代の後半以降は、私の思想上の関心は、仏教の「世界観・人間観」へと移り、仏教の「世界観・人間観」に共鳴する私は、ドストエフスキーの思想の一面に対しては批判的であり、キリスト教的な発想が顕著なドストエフスキーの思想に限界があるとするなら、ドストエフスキーがほとんど知ることのなかった仏教の「世界観・人間観」こそ、その限界を克服するのではないか
と、近年、私は考えています。
このあたりの
「ドストエフスキーの思想」批判は、恐れ多いながら、ページ内や意見交換ボードで、適宜、展開していくつもりでいます。

    
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