6. ジイド著『ドストエフスキー』(改造文庫。秋田滋訳。1936年初版。)所収の
                「ビュー‐コロンビエ座における連続六回講演」(p14p15)より。  
   ※、旧仮名遣い・旧表記は、現代表記に改めました。

真の芸術家は、自分が制作する時には、常に自分自身のことについては半ば無意識である。彼は己(おの)れがいかなるものであるかということを確然(かくぜん)(=たしかには)知ってはいない。彼はただ、自分の作品を通し、自分の作品により、自分の作品を書いてしまった後にのみ、己れというものを識()(=知る)ようになるのである。ドストエフスキーは決して己れを知ろうとはしなかった。彼は夢中になってその作品の中に己れを打ち込んだ。己れの書物の各人物の中に彼は没入したのだ。それゆえ、作中人物のひとりひとりの中にドストエフスキーが再び見出されるのである。われわれは、やがて、彼が自分の名でものを言うと、甚(はなは)だ不手際であるが、逆に、彼自身の観念が自分の生かす人物の口を借りて述べられる時には、非常に雄弁になることがわかるであろう。これらの人物に生命を与えて、彼は存在するのである。彼はその人物のひとりひとりの中に生きているのだ。そして、その人物の多様性のうちに己れを委(まか)せ切ってしまうことが、第一の効果として、彼自身の矛盾を擁護(ようご)することになるのである。私はドストエフスキーほど、撞着(どうちゃく=前後に言ったことのつじつまが合わないこと)・矛盾に富む作家を知らない。ニーチェに言わせたら、「反対性」に富んだ作家である、とでも言うだろう。彼がもしも小説家でなくて哲学者であったとしたら、必ずその観念を整(ととの)えようとしたに違いない。そんなことをしたら、彼の最もすぐれたところを、われわれは見失ってしまったに違いない。

★アンドレ・ジイド(18691951)氏は、フランスの作家・批評家。代表作は『狭き門』『法王庁の抜け穴』。
ドストエフスキーの文学に早くから傾倒していたジイド氏は、講演活動を中心に、フランス文壇にドストエフスキー文学の重要性を初めて本格的に啓蒙することに貢献しています。氏の小説『贋金(にせがね)づくり』とドストエフスキーの小説『未成年』との類似が研究者によって指摘されています。上の
「ドストエフスキーは、まさに、小説の中で生きた、と言える。それによって、ドストエフスキーは、自己の内にせめぎあう対立や矛盾を、損なうことなく維持し、また、豊かにしていくことができた。」
というジイド氏の指摘は、ドストエフスキー及びドストエフスキーの文学に関する深い洞察であるとともに、ジイド氏は、そのことをドストエフスキーの文学から学び取って、自己の創作や生きざまに生かしていった、とされています。 
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7. 吉村善夫著『ドストエフスキイ ― 近代精神超克の記録』 (新教出版社1965年初版。)の「序」より。

ドストエフスキイをキリスト教的思想家ないし(=あるいは)文学者とする通俗的な見解ほど、ドストエフスキイの真意にもとる(=背く)ものはない。けだし(=思うに)ドストエフスキイの全努力は、キリスト教の信仰からそのような通俗的キリスト教をことごとく清算してこれを純化するところにあり、超人論や人神論のような彼の独特な思想はまさにその清算の悩苦(=苦悩)にほかならないのであるから。私はドストエフスキイを理解するにあたって諸家(しょか)のすぐれた研究に教えられたことの少なくないことは言うまでもないが、しかしそのもっとも根本的な点においては聖書をその最善の鍵、というより唯一の鍵とした。あるいは逆に、ドストエフスキイに教えられつつ聖書を読んだ、と言ってもよい。すなわち私はドストエフスキイの意図が現実の世界における聖書の真理の解明にあったと考えるのである。それゆえに私は、極限すれば、文学者ドストエフスキイを何よりもまずキリスト教神学者であり、彼の文学作品を何よりも聖書の注釈書である、と考えている

★吉村善夫(1910)氏は、元信州大学教育学部教授。ドストエフスキーや夏目漱石の文学とその思想を、独自のキリスト教的立場から捉えて論じた独自のすぐれた著作があります。
上の文章の前の箇所で、従来のドストエフスキー研究家にはしばしば「キリスト教信仰に対する的確な理解の欠如」が見られることや、「その信仰の的確な理解なしに彼(=ドストエフスキー)の思想をつかむことは、およそ不可能のわざとせねばなるまい」ということを、氏は強調しています。特に、上の文章の中の「ドストエフスキーの文学作品は、聖書の注釈書(あるいは、パロディー)という面がある」という指摘は、すべての作品がそうだとは言えないでしょうが、ドストエフスキー文学の大事な一面を突いている言えます。
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8. 森 有正著『ドストエーフスキー覚書』(筑摩叢書。筑摩書房1967年刊。森有正全集巻8)の「あとがき」より。

私の心はまったくかれに把(とら)えられた。神について、人間について、社会について、さらに自然についてさえも、ドストエーフスキーは、私に、まったく新しい精神的次元を開いてくれた。それは驚嘆すべき眺めであった。私にとって、かれを批判することなぞ、まったく思いも及ばない。ただ、かれの、驚くべき巨大なる、また限りなく繊細なる、魂の深さ、に引かれて、一歩一歩貧しい歩みを辿(たど)るのみである。

★森 有正(19111976)氏は、哲学者。
氏は、ドストエフスキー及びドストエフスキーの小説に終始敬愛の念を持ち続けた日本の近現代の哲学者の一人である。
氏のこの著『ドストエーフスキー覚書』は、哲学者らしい概念的説明もしばしば見られるが、ドストエフスキーから与えられた「愛」「自由」といった近現代社会の切実なテーマを、各小説の内容や登場人物の言動を豊かに深く分析しつつ、真摯(しんし)に論じたドストエフスキー論として、名著の誉れの高い書である。
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9. ベルジャーエフ著『ドストエフスキーの世界観』(斎藤栄治訳。ベルジャーエフ著作集の第2巻。白水社1960年初版。)より。

ドストエフスキーの作品は極めて高度にディオニュソス的(=動的・激情的・生成的な混沌さを有しているさま。)である。ディオニュソス主義は悲劇を生む。なぜならばディオニュソス主義はただ高揚された人間性を示すからであり、こうした光景に接した後では、一切のものが色褪()せたものに見える。それは別の宇宙、別の世界を訪ねたあとで、測定され、組織されたわれわれの世界、三次元のわれわれの空間に帰ってくるようなものである。ドストエフスキーを入念に読むことは、人生の一事件であって、精神はそこから火の洗礼を受ける。ドストエフスキーによって作られた宇宙に生活したひとは、まさに存在の未聞の形態の示現を見たのである。なぜならばドストエフスキーは何よりもあらゆる形態の沈滞と硬化に対立した偉大な精神の革命家であったから。

★ベルジャーエフ(18741948)氏は、ロシアの哲学者。
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