9. 北杜夫氏の論。( 『貧しき人びと』について )
〔新潮社版全集の発刊記念の際に編まれたパンフ『ドストエフスキー読本』に所収の
「『貧しき人びと』の抒情性とユーモア」より。〕
私は高校二年のころ、ドストエフスキーをほぼ読み切った。ところが、その後ほとんど読み直していない。というのも、かつておぼろげに受けとめた巨大な作品群を今となって読んだとしたら、昔よりは彼の思想や構成力などが理解できようから、もう自分で小説を書くなどという意欲を失ってしまうかもしれぬと危惧(きぐ)した(=心配した。)からである。古い記憶の中で殊(こと)に印象に残っているのは『罪と罰』(私は後半はこれを探偵小説のように読んだ)、『死の家の記録』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』などであった。
それらの体臭があまりに強烈すぎたので、処女作『貧しき人びと』はそれほどの作品とも思っていなかったが、十年ほど前、偶然のことからこれを読み返した。すると、もはや若からぬ私の目からひっきりなしに涙が流れ、かつとめどなく笑わざるを得なかった。これまた、しかも、二十四歳の作品として驚くべき名品と言えよう。世間では、ドストエフスキーは怕(こわ)い(=恐い。)作家であると思われている。しかし、この作品に見られる類(たぐ)い稀(まれ)な抒情(じょじょう)、よい意味での感傷、敬愛していたゴーゴリをしのぐとも思われるユーモアはただ事(ただごと)ではない。 (途中、略) ときに難解で怕(こわ)い小説と思われているドストエフスキーが、実に抒情的でよい意味で感傷的で、しかも思わず笑いださずにはいられない作品から出発したことを忘れてはなるまい。
※、北杜夫(もりお。1927〜。)氏は、作家。
10.山路龍天氏の言葉。( 『悪霊』について )
〔山路龍天・筆「『悪霊』ノート ――スタヴローギンをめぐる図像論的分析の試み」(『ドストエフスキーの
現在』(江川卓・亀山郁夫共編。JCA出版1985年初版。)に所収。p5。〕
『悪霊』という、表題からして恐ろしい、ドストエフスキーの「不安な途轍(とてつ)もない作品(注:小林秀雄が用いた表現)」のなかでもとりわけ不安にみちた小説は、スタヴローギンが舞台の前面に踊り出るや、それまでのステパン氏とワルワーラ夫人との牽引確執(けんいんかくしつ。=互いの駆け引きやもめ事。)相半(あいなか)ばするサロン喜劇から、急転直下にほとんどの登場人物の破滅へと突進する。巻末の奈落(ならく)は死屍累累(ししるいるい。=死体が数多く重なり合うさま。)、自殺・他殺・横死(おうし)あるいは病死をひっくるめ、十一才の少女と生れたばかりの嬰児(えいじ。=赤ん坊。)を含めて、十一人の名のある屍(しかばね。=死体。)を数える。有象無象(うぞうむぞう)の(=この世の有形無形のあらゆる。)悪霊たちが跳梁(ちょうりょう)する(=わがもの顔に走り回る。)運命の夜の魔宴(まえん)は、ボッシュ( → 下に注。)の地獄絵図にも似て、対岸の大火災(注:第3部第2章の3における町の大火のこと)を背景に荒れ狂った。この不安このうえない雰囲気、この猛烈な墜落の速度に匹敵するのは、ひとり(=ただ一つ。)シェークスピアの『マクベス』あるのみの感がふかい。
・ボッシュ(ボッス)=欧州のフランドル(現在のオランダ・ベルギー地方)の画家。1450頃〜1516。
自由奔放な想像力で、妖怪や地獄、人間の欠陥を風刺する題材を描いた。
代表作として、[聖アントニウスの誘惑」「十字架をになうキリスト」など。
・『マクベス』=シェークスピアの四大悲劇の一つ。
※、山路龍天氏(やまじ・1940〜。)は、プルーストなど、フランス文学の研究家。
現在、同志社大学言語文化教育研究センター教授。
上の箇所は、『悪霊』の雰囲気や後半における内容の一気のすさまじい進行について、たくみに述べた文章であり、
その表現ぶりには大いに感心しました。
上の文章のような、語感やイメージ(比喩)やリズムにすぐれた表現を用いた名調子の文章を読むのは、私は大好きです。