A < 信仰告白の言葉 > 

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1.
「わたしは子供のようにキリストを信じ、宣伝するのではない。わたしのホザナ(神への讃歌)は、疑惑の溶鉱炉 をくぐってきたのだ。」
(死の直前に記した「手帳」より。)
 
※、この言葉は、『カラマーゾフの兄弟』(11編第9「悪魔。イワンの悪魔」。新潮文庫の下巻のp257)
では、かつてのイワンの分身たる紳士(悪魔)の言葉として、
「人生にとってホザナだけでは不足だ、そのホザナが懐疑の試練を経ることが必要なのだ。」
と表現されている。


2.
「各編(=『カラマーゾフの兄弟』の前身たる「偉大なる罪人の生涯」という題で構想されていた大小説の各編)を通じて一貫している問題は、わたしが生涯にわたって意識的にも無意識的にも苦しんできたもの、つまり、神の存在ということです。」
(1870
325日付のマイコフ宛の書簡より。)

 
3.
「わたしは自分のことを申しますが、わたしは世紀の子です。今日まで、いや、それどころか、棺を蔽(おお)われる まで、不信と懐疑の子です。この信仰に対する渇望は、わたしにとってどれだけの恐ろしい苦悶(くもん)に値した か、また現に値しているか、わからないほどです。その渇望は、わたしの内部に反対の論証が増せば増すほど、 いよいよ魂の中に根を張るのです。とはいえ、神様は時として、完全に平安な瞬間を授けてくださいます。そういう時、わたしは自分でも愛しますし、人にも愛されているのを発見します。つまり、そういう時、わたしは自分の内部に信仰のシンボルを築き上げるのですが、そこではいっさいのものがわたしにとって明瞭かつ神聖なのです。 このシンボルはきわめて簡単であって、すなわち次のとおりです。キリストより以上に美しく、深く、同情のある、 理性的な、雄々(おお)しい、完璧なものは、何ひとつないということです。単に、ないばかりではなく、あり得ないとこう自分で自分に、烈(はげ)しい愛をもって断言しています。のみならず、もしだれかがわたしに向かって、キリ ストは真理の外にあることを証明し、また実際に真理がキリストの外にあったとしても、わたしはむしろ真理よりもキリストとともにあることを望むでしょう。」
(18542月下旬、ナタリヤ‐ドミートリエヴナ‐フォンヴージン夫人への書簡より。 河出書房新社版全集の第16巻のp153)
 
、書簡のこの箇所は、研究者がドストエフスキーの信仰を論ずる場合、必ずといっていいほど引用する有名な文章。
下から31行目は、のちに、小説『悪霊』の中(1部第1章の第7。新潮文庫の上巻のp392)では
「シャ ートフが直接聞いたかつてのスタブローギンの言葉として、 「たとえ真理はキリストの外にあると数学的に証明するものがあっても、 自分は真理とともにあるよりは、むしろキリストとともにあるほうを選ぶだろう。」
と表現されている。
1
2行目の箇所は、ドストエフスキーのうちの不信仰の存在を証する箇所として、評者によってしばしば引用されるが、そのあとの箇所との文脈的つながりを十分押さえて理解すべきでしょう。

 
4.
「貴女は、分裂ということを書いていらっしゃいますね? しかし、それは人間に、ただし、あまり平凡な人間ではありませんが……人間にきわめて多く見られる普通の精神現象です。一般的に、人間の本性に固有の特質ですが、しかし貴女のように強い程度のものは、あらゆる人の本性に見られるというわけにいきません。つまり、そういう意 味において、貴女は小生(しょうせい)にとって肉身なのです。貴女の内部分裂は、まさしく小生にあるものと同一です。小生には、一生を通じてそれがありました。それは大きな苦しみでもありますが、大きな享楽でもあります。それは強烈な意識であり、自己検討の要求であり、おのれ自身と人類に対する精神的義務の要求が、貴女の本性に存在することを示すものであります。これがすなわちこの分裂の意味するものであって、もし貴女の知性がそれほど発達しておらず、いますこし凡庸(ぼんよう)なものであったら、貴女はそれほど良心的でなく、そうした分裂もなくてすんだでしょう。それどころか、ひどいうぬぼれが生まれたに相違ありません。しかし、なんといっても、この分裂は大きな苦しみです。尊敬してやまぬ愛すべきカチェリーナ‐フョードロヴナ、貴女はキリストとその聖約をお信じになりますか? もし信じておいでになれば(それとも、信じようと熱望しておられれば)、心からキリストに帰依しなさい。そうすれば、この分裂の苦しみもずっと柔(やわ)らいで、精神的に救いが得られます。しかも、これが肝要なことなのです。」
(1880411日、カチェリーナ‐フョードロヴナへの書簡より。河出書房新社版全集の第18巻のp367)

 
5.
「神は、永遠に愛することのできる唯一の存在ですから、それだけでもう私にはどうしても必要なのです。」
(
『悪霊』より。)
 

6.
「世界を支配しているのは神と神の掟である。」
(『作家の日記』〔187756月号〕より。小沼文彦訳。ちくま文庫「作家の日記4」のp471)
※、米川正夫訳では「この世界を支配しているのは、神とその法則である。」
と訳している。(河出書房新社版全集の巻15p191)
 

7.
「神のうちに不死もまた存するのです。」
(
『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャの言葉。第3編の8。新潮文庫の上巻のp2545行目。)
「もし神が存在するとすれば、このぼくも不死なのです。」
(『悪霊』のステパン氏の言葉。第3部第7章の3。新潮文庫の下巻のp50710行目。)


8.
「不死の観念こそ――まさに生命そのものであり、生きた人生であり、その最終的な公式であり、人類にとって真理と正しい認識の最大の根源なのだ。」
(『作家の日記』より。)
「霊魂の不滅こそ一切の救いの基である。」
(
『作家の日記』より。)


9.
 「人間存在の法則は、ことごとく一点に集中されています。ほかでもない、人間にとっては、常に何か無限に偉大なものの前にひざまずくことが必要なのです。人間から無限に偉大なものを奪ったなら、彼らは生きていくことができないで、絶望の中に死んでしまうに相違ない。無限にして永久なるものは、人間にとって、彼らが現に棲息(せいそく)しているこの微少な一個の遊星と同様に、必要欠くべからざるものなのです。」
(
米川正夫訳。『悪霊』のステパン氏の言葉。)


10.
「世界を救うのは、道徳でもキリストの教えでもない。<ことば(ロシア語では、スローヴオ)>は肉体なり、と信じる、その信仰だけが救えるのです。」
(トルストイの『わが懺悔』を読んで聞かせたトルストイ夫人に向けて、ドストエフスキーが言った言葉より。言った時期は、調査中。)

 
11.
「キリストはこの大地が神を生み出しえた限りの、紛れもない神である。」
(
「メモ・ノート(18761877)」より。 『ドストエフスキー未公刊ノート』(小沼文彦訳、筑摩書房19977月刊)p152)
「キリストの来臨までは戦争が絶えることはないだろう。これは予言されたことである。」
(
「メモ・ノート(18751876)」より。 『ドストエフスキー未公刊ノート』(小沼文彦訳、筑摩書房19977月刊)p74)


12.
「すべては神の御手に委(ゆだ)ねられていることなので、僕はお前にただ、神のお導きに期待をかけながらも、 自分でもせいぜい気をつけるようにする、とだけ答えておく。」(書簡集より。) 「人は計画するが、これを決めるのは神の思(おぼ)し召し。」(評論集より。) 「神の御意志によることは、どんな力でも変えられるものてはありません。――運命というものはたいていこの世界を、まるで玩具(おもちゃ)のように弄(もてあそ)んでいるものなのです。――運命は人類にそれぞれの
割を振り当てますが……しかし運命は何も見ていません。――けれども神様はきっとあらゆる不幸から逃れることのできる道を示して下さることでしょう。」
(書簡集より。)
 

13.
「神のない生活は――苦しみでしかないのだよ。」
(『未成年』のマカール老人の言葉。第3部第2章の3)


14.
〔 ―以下は、のちに記入します。〕 


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