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( アジア・日本についての言及 )

1.「ねえ、トーツキイさん、話によると、日本じゃ恥辱を受けた者が恥辱を与えた者のところへ行って『きさまはおれに恥をかかした、だからおれはきさまの眼の前で腹を切ってみせる』と言うそうじゃありませんか。そして、ほんとに相手の眼の前で自分の腹を切って、それで実際に仇討(あだう)ちができたような気分になって、すっかり満足するらしいですがね。世の中には奇妙な性質もあるもんですねえ、トーツキイさん!」「それじゃ、今度の場合にもそんなところがあったときみはお思いなんですね?」
トーツキイは微笑を浮かべて答えた。
「なるほど! しかし、きみはなかなか機知にとんだ……おもしろい比較をもちだしたもので すねえ。 ―以下、略― 」
(『白痴』の第1編の16のプチーツィンの言葉。新潮文庫上巻のp331)


、ドストエフスキーの書き残したものの中で、日本について言及している唯一と言っていい箇所。第一編の末部、夜会における、自分を囲ってきた庇護者トーツキイに向けてのナスターシャ‐フィリポヴナの振る舞いについて、彼女がロゴージンと共に去った後に、プチーツィンが、似た自虐的な行為として、日本の武士の切腹のことをトーツキイに語ったもの。 私などは、日本の武士に関する上の話を、ドストエフスキーはいつどこで仕入れたのか、ということが気になるわけですが、その背景についての指摘は未聞未見です。
以下は推測の域を出ませんが、『白痴』は1867年の9月に起稿され翌年「ロシア報知」に連載されて完成していて、その構想・執 筆期間は、同1867年の4月から始まり4年余りにわたった夫妻での欧州滞在の期間にあたっており、
上の箇所の「話によると」という言い方に注意するなら、この日本の武士についての話は、その滞在先で新聞なり日本通の人の話なりから得たのではないか、と私は推測しています。 ( 1867年までのドストエフスキーの交友においては、日本通の知人は見当たらないようです。1867年は日本では江戸幕府が閉じられた年であるわけですが、ヨーロッパに運びこまれた江 戸時代の浮世絵や陶器などを趣味として収集していて日本の武士の風習についていろいろ知っていた日本通のドイツ人はいたであろうし( 欧州滞在中アンナ夫人の日記には、滞在していたドイツの町を散策した際、夫ドストエフスキーと、日本の花瓶や陶磁器が展示されていた「日本宮殿」のそばを通ったことが記されています。)
そういった人から日本の話を聞いたか、あるいは、 ドストエフスキーは欧州滞在中も当地の新聞は熱心に読んでいますから、明治維新前の日本の国情も伝えられていたと思われる欧州での新聞記事で得た可能性も大きいと思われます。)
また、これはドストエフスキーが書き残したものではないが、 ニコライ主教(1863年に来日以来、50年にわたって、東京を中心にロシア正教の布教活動をした宣教師。)1880年に6月にロシアに一時帰国した際、ドストエフスキーはニコライに会っていて、 その時の語らいの中で、ドストエフスキーはニコライに、「日本人はキリスト教を受け入れるにあたって何か格別変わっている点はありませんか?」 と尋ねたことが、その日のニコライの日記に記されているそうです。 ニコライの日記を読みそのことを確認した中村健之介氏は、 『ドストエフスキーのおもしろさ』(中村健之介著。岩波ジュニア新書。岩波書店1988年初 版。)で、「ドストエフスキーは日本におけるロシア正教の宣教活動に関心をもち、日本人に興味をいだいていたようです。」(p104p105)と指摘しています。

 

2.それ(=アジヤへの進出・侵略)が必要なのはほかでもない、ロシヤはヨーロッパばかりではなく、アジヤにもまたがっているからである。ロシヤ人はヨーロッパ人であるばかりではなく、アジヤ人でもあるから である。いやそれだけではない、アジヤには、ことによると、ヨーロッパなどよりもはるかに多くの希望 があるかもしれない。いや、それどころか、わが国の将来の運命において、もしかすると、アジヤこそわれわれのいちばん大事な出口であるかもしれないのだ!
(『作家の日記』の18811月号の第二章の三「ゲオク・テペ。われわれにとってアジヤとはなんであるか?」より。ちくま学芸文庫の『作家の日記6』のp227)


※、『作家の日記』の末部にあたる、二つの文章「ゲオク・テペ。われわれにとってアジヤとはなんで あるか?」「質問と回答」では、ロシアにとってのアジアというテーマが論じられているが、上の言葉は、その中の発言の一つ。ドストエフスキーは、氏の最晩年に、アジアや日本に注目したのであり、その注目は、直後の氏の急逝によってドストエフスキーの中で引き継がれなかったことが、惜しまれます。 また、東洋の思想や文学に対しては、トルストイやニーチェは、その著書の中で、しばしば、東洋思想に言及しているのに比べ、ドスト氏の晩年が1880年代の初めだったことによるためか、ドストエフスキーの小説や「作家の日記」などに、ブッダ、孔子、老子、日本などと書いて東洋思想のことに言及している箇所は、読んだ範囲では、上の1以外には、見当たりません。ドストエフスキーは、東洋思想(古代インドの仏教思想・中国の儒教や道教・日本の思想)やその真髄にはほとんど触れずじまいに生涯を終えたようです。 ドストエフスキー没後に、トルストイはそのあたりのことを知ってか、トルストイには、「ドストエフスキーは孔子か、さもなくば仏教徒の教えを知ったらよかったのだ。そうすればかれは気持ちが安らぎ落ち着いたことだろう。これは大事な点で、みんなこのことを知るべきだ。」 という発言もあり。ただし、ドストエフスキーの蔵書として、1874年にペテルブルグで刊行されているA‐クーゼフ著『仏教の精神的理想』があったことが、グロスマン編『ドストエフスキー蔵書目録』で報告されていて、ドストエフスキーは、その本を読み仏教思想の一端に触れていた可能性はあり、また、ドストエフスキーの晩年に親交のあった思想家ソロヴィヨフは、東洋に関する教養や見解も持っていて、ドストエフスキーは、 ソロヴィヨフとの対話を通して、東洋や東洋の思想に触れていた可能性を指摘する研究家もいるようなので、今後の研究によって、その方面の新たな事実や指摘が出てくるかもしれません。


3.―〔以下は、後に、追加します。〕 



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