A<「」について>

1.
「もしほんとうにがあって、地球を創造したものとすれば、がユウクリッドの幾何学によって地球を創造し、人間の知恵にただ空間三次元の観念のみ賦与(ふよ)した(=与えた)ということは、一般に知れ渡っているとおりだ。ところが、幾何学者や哲学者の中には、こんな疑いをいだいているものが昔もあったし、今でも現にあるのだ。つまり全宇宙(というよりもっと広く見て、全存在というかな)は、単にユウクリッドの幾何学ばかりで作られたものではなかろう、というのだ。最も卓越した学者の中にさえ、こういう疑いをいだく人があるんだよ。中には一歩進んで、ユウクリッドの法則によるとこの地上では決して一致することのできない二条の(=二本の)平行線も、ことによったら、どこか無限の中で一致するかもしれない、などという大胆な空想をたくましゅうする者さえある。そこでぼくはあきらめちゃった。このくらいのことさえ理解できないとすれば、どうしてぼくなんかにのことなど理解できるはずがあろう。ぼくはおとなしく自白するが、ぼくにはこんな問題を解釈する能力が一つもない、ぼくの知性はユウクリッド式のものだ、地上的なものだ、それだのに、現世以外の事物を解釈するなんてことが、どうしてぼくらにできるものかね。アリョーシャ、おまえに忠告するが、決してそんなことは考えないがいいよ。何よりいけないのはのことだ。はありやなしや?なんてことは決して考えないがいいよ。こんなことはすべて、三次元の観念しか持たない人間にはとうてい歯の立たない問題だよ。〔以下、略〕
(米川正夫訳。『カラマーゾフの兄弟』の、アリョーシャに向けてのイヴァンの言葉。新潮文庫の上巻のp451p452)


2.
フョードル「アリョーシカ(=アリョーシャ)、不死はあるか?」
アリョーシャ「あります」
フョードル「も不死も?」
アリョーシャ「も不死もあります。の中に不死もあるのです。」
(『カラマーゾフの兄弟』の第3編の8。新潮文庫の上巻のp2545行目。)

は永遠に愛しうる唯一の存在だというだけの理由でも、私にとってなくてかなわぬものです……〔途中、略〕もし私がを愛し、かつ自分の愛に喜びを感じたら、が私という人間も、また私の愛も消滅さして、無に帰()せしめるということが、ありうるでしょうか?もしがあるなら、私はすでに不死なのです!」
(『悪霊』のステパン氏の言葉。新潮文庫の下巻のp506p507)


3.
「流刑囚は神さまなしには生きて行けない。流刑囚でないものよりいっそう生きて行けないのだ。」
(
米川正夫訳。『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイの言葉。新潮文庫の下巻のp161)
「わしはどうしてもキリストをさけることができない、最後に、孤独になった人々のあいだに、キリストを想像しないではおられないのだよ。〔以下、略〕
(『未成年』のヴェルシーロフの言葉。第3部第7章の3内。新潮世界文学のp572)


4.
コーリャ「を信じていなくても人類を愛することはできるのです。ね?
ヴォルテール
(注:18世紀のフランスの啓蒙思想家)を信じていなかったが、人類を愛していた!」
アリョーシャ「いや、ヴォルテールはを信じていました。が、それはほんのちょっぴりでした。だから彼は人類を愛していたけれど、それもほんのちょっぴりだった、と思うのです。」
(米川正夫訳。『カラマーゾフの兄弟』の第10編の6。新潮文庫の下巻のp84)


5.
「世界を支配しているのはと神の掟である。」
(『作家の日記』〔187756月号〕より。小沼文彦訳。ちくま文庫「作家の日記4」のp471)

※、米川正夫訳では「この世界を支配しているのは、神とその法則である。」と訳している。(河出書房新社版全集の巻15p191) ドストエフスキーの信念(信仰)が述べられた言葉。


6.のない生活は――苦しみでしかないのだよ。」
(『未成年』のマカール老人の言葉。第3部第2章の3)


7.「もしも人間がというものを考え出さなかったら、そのときは文明もまったく存在していなかったでしょう。」
(米川正夫訳。『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンの言葉。新潮文庫の上巻のp254)


8.「もし神さまがいらっしゃらなかったら、私などがどうして大尉でいられよう?」
(
『悪霊』での、ある大尉の言葉。新潮文庫の上巻のp354)


9.
(もし永遠のがないなら、)すべては許される。」
(自分こそがだという己れの立場を自覚し人神という新しい地位につけば、)すべては許される。」
(『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンの言葉。新潮文庫の下巻のp23934行目・14行目、p27112行目・1718行目。)
「もし永遠のがないなら、いかなる善行も存在しないし、それにそんなものはまったく必要でない。」
(
『カラマーゾフの兄弟』のイヴァンの言葉。新潮文庫の下巻のp23956行目。)

※、イヴァンの有名な「神がなければすべてが許される」という命題が述べられた箇所。

「だが、そうすると、人間はいったいどうなるんだね?も来世もないとしたらさ?そうしてみると、人間は何をしてもかまわない、ってことになるんだね?」
(『カラマーゾフの兄弟』の、ドミートリイがアリョーシャに語る、ドミートリイが過去にラキーチンに向けて尋ねた言葉。新潮文庫の下巻のp155)


10.
「イヴァンはラキーチン(注:登場人物の名。神学校出の軽薄才子の学生。)と違って、自分の思想を隠している。イヴァンはスフィンクスだ、黙っている、いつも黙っている。ところが、おれはのことで苦しんでいるのだ。ただこのことだけがおれを苦しめるんだ。もしがなかったらどうだろう?もしラキーチンの言うとおり、は人類のもっている人工的観念にすぎないとしたらどうだろう?そのときは、もしがなければ、人間は地上の、――宇宙のかしらだ。えらいもんだ! だが、人間、なしにどうして善行なんかできるだろう?これが問題だ!おれはしじゅうそのことを考えるんだ。なぜって、そうなったら人間はだれを愛するんだね?だれに感謝するんだね?まただれに向かってヒムン(頌歌(しょうか)=相手の功績をほめたたえる歌)を歌うんだ?こういうと、ラキーチンは笑い出して、がなくっても人類を愛しうる、と言うんだが、それはあの薄ぎたない菌(きのこ)野郎がそう言うだけで、おれはそんなこと理解できない。ラキーチンにとっちゃ、生きてゆくことなんかなんでもないんだ。」
(米川正夫訳。『カラマーゾフの兄弟』のドミートリイの言葉。新潮文庫の下巻のp162p163)

※、上の9・10の中の神の存在の有無について述べている命題は、いずれも、仮定形で言われていることに注意すべきじゃないかと思います。「(もし永遠の神がないなら、)すべては許される。」という命題には、逆にした命題としての「神が存在しているから、人間にすべてが許されているわけではない。」という命題が、ドストエフスキーによって暗に示されているとも読みとれるでしょう。


11.
「わしはときどき、がなくて人間がどんなふうに生きていくのだろう、いつかそんなことの可能な時代が来るのだろうか、と考えてみないわけにはいかなかった。わしの心はそのたびに不可能だという結論をくだしたよ。しかし、ある時期が来れば可能かもしれない……〔以下、略〕
(『未成年』のヴェルシーロフの言葉。第3部第7章の3内。新潮世界文学のp570)

12.
のない良心は恐怖そのものである。そんな良心は、最も不道徳なところにまで迷いかねない。」
(
小沼文彦訳。晩年のメモより。筑摩書房1997年刊『ドストエフスキー未公刊ノート』のp158)

「いったんキリストを拒否したならば、人間の知恵は驚くべき結果にまで暴走しかねない。これは公理である。」
(
小沼文彦訳。187312月号「市民」掲載の『作家の日記』第16章より。ちくま学芸文庫『作家の日記1』のp399)

※、上の文章内の「神のない良心」「キリストを拒否する」といった表現は、ドストエフスキーの思想の大事なキーワードの一つ。ドストエフスキーには、類似表現として、
キリストなしの善行」(『未成年』より。)
(社会主義は、)を除外して建設されているバビロンの塔」(『カラマーゾフの兄弟』より。)
キリストを抜きにして、人類の運命を解決すること」(『作家の日記』より。)
といった言い方も見られる。


13.
のない世界ほど恐ろしい世界はない。」
(『?』より。)

※、この命題は、含蓄から言っても、人類史上、もっとも意味深長な命題の一つではないか自分は思っています。じつは、上の言葉は、ドストエフスキーが残した文章や発言の内のどこにある言葉なのか、現在も、確定できないでいます。上の言葉を得たのは私が大学に入学した年のことだったと思うのですが、ドストエフスキーに関して論じた本の中の著者の言葉、あるいは、その本の中に引用されていたドストエフスキーの言葉だったという記憶があり、上の言葉の深い含蓄にいたく感銘を受け、それ以来、私の頭の中に刻まれている言葉です。これまでその所在を見出せないということは、もしかすると、似たような言い方のドストエフスキーの言葉(たとえば、上の12の言葉)を私が勝手に上のように言い換えたのかもしれないし、あるいは、ドストエフスキーに関して論じた本の筆者がドストエフスキーの思想を要約して言った言葉だった可能性もあります。)今後所在が見つかれば、その所在を文章の下の(   )内に記すつもりですが、万が一ドストエフスキー自身の言葉でなかったとしても、ドストエフスキーが思っていた言葉(考え)としてもおかしくはないと私の方で判断して、いちおう、上に掲げておきました。ドストエフスキーの文章やドストエフスキーに関して論じた本を広く読んでいるお方で、上の言葉の所在を知っていたら、どうぞ教えて下さい。)上の言葉を通して私が考えてきたことは、いつか、ページ内のコーナーにまとめて述べてみるつもりでいますが、皆さんの方でも、上の言葉について思うことがあったら、掲示板で聞かせて下さい。現在、事項・テーマ別ボードに、トピ「「神のない世界ほど恐ろしい世界はない」について」を設けています。

14.―〔以下は、後に、追加します。〕http://www.coara.or.jp/~dost/BT-2.gif




B
<「自由」について>

1.
「人間と人間社会にとって、自由ほど堪()えがたいものは、いまだかつてなかった。」
(
『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の言葉より。新潮文庫の上巻のp486)

※、以下の言葉にもみられるように、ドストエフスキーには、生涯、「自由(過度の自由、民衆がうまく使えない自由)」が人間や人間社会にもたらす結果に対して、否定的・批判的な見方が顕著である。

2.
「確固(かっこ)たる古代のおきてに引き換えて、人間はこれからさき、おのれの自由な心をもって、何が善であり何が悪あるか、自分自身できめなければならなくなった。〔以下、略〕
(
『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の言葉より。新潮文庫の上巻のp490)

「おまえは人間にとって平安のほうが、いやときとしては死でさえも、善悪の認識界における自由な選択より、はるかにたいせつなものであることを忘れたのか!それはむろん、人間としては、良心の自由ほど魅惑的なものはないけれど、またこれほど苦しいものはないのだ。」
(『カラマーゾフの兄弟』の、再来したキリストへ向けての大審問官の言葉より。新潮文庫の上巻のp490)

3.
自由は、大多数者を、他人の思想への隷従にみちびくにすぎない。なぜなら人間は、既成のものを、あてがわれるのが好きだからだ。」
(『作家の日記』より。ちくま学芸文庫『作家の日記4』のp131)

4.
「人間というあわれむべき存在は、生まれるときにさずかった自由を、できるだけはやく誰かに引き渡したいといつも思っている。そしてそのひきわたすべき人を見つける苦労よりも、大きな苦労は人間にはないのである。」
(『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の言葉より。新潮文庫の上巻のp489)

5.
「彼らは自由を強調していて、これは、最近に至って、ことに、はなはだしいが、このいわゆる自由の中に発見しうるものはなんであろう。ただ、隷属と自滅にすぎぬではないか!」
「人々は自由を目して、欲望の増進と満足というふうに解釈することによって、自分の自然性を不具にしているのだ。それは、自己の中に無数の愚かしい無意味な希望や、習慣や、思いつきを生み出すからである。」
「僧侶の歩む道は、これとまったく異なっている。人々は服従や精進や、進んでは祈祷(きとう)さえ冷笑するが、しかしこれらのものの中にのみ、真の自由に至る道が蔵(ぞう)されているのである。われらは、無用の欲望を切りはなし、
自尊心の強い倨傲(きょごう)な意志を服従によってむち打ち柔(やわら)げ、神の助けを借りて精神の自由と、それにつれて、内心の愉悦(ゆえつ)を獲得するのである!」
(以上、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の言葉より。新潮文庫の中巻のp98p100)

「今日、世間では、自由ということを放縦の意味にとっている。しかしながら真の自由は、自分の意志にうちかつこと、克己にあるのだ。」
(『作家の日記』より。ちくま学芸文庫『作家の日記4』のp174)

6.
「わたくしの結論は、出発点となった最初の観念と、直角的に反対している。つまり、無限の自由から出発したわたくしは、無限の専制主義をもって論を結んでいるのです。しかし、一言申し添()えておきますが、わたくしの到達した結論以外、断じて社会形式の解決法はありえないのです。」
(『悪霊』のシガリョフの言葉。新潮文庫の下巻のp101)

※、シガリョフの有名な「無限の自由は無限の専制でもって終わる」という命題が打ち出された箇所。

7.
「われわれにもっと多く自主性を与え、われわれを自由に行動させ、活動範囲をひろげ、監督をゆるめてみたまえ。われわれはすぐにまた、もとどおり監督してくださいとたのむにきまっている。」
(米川正夫訳。『地下室の手記』より。新潮文庫のp204)

「弱い人間に自由をやってごらんなさい。自分でその自由を縛(しば)りあげて、返しにきますよ。」
(『主婦』より。米川正夫個人訳愛蔵版全集の第1巻のp395)

8.
「わがロシアの自由主義者はまず何より下男なのさ。誰か靴を磨(みが)かしてくれる人はないかしらんと、きょろきょろあたりを見まわしているのだ。」
(『悪霊』のシャートフの言葉。新潮文庫の上巻のp216)

9.
「そうとも、われわれがいなかったら、彼ら(=民衆)は永久に食を得ることができないのだ!彼らが自由である間は、いかなる科学でも彼らにパンを与えることはできないのだ!しかし、とどのつまり(=結局のところは)、彼らは自分の自由をわれわれの足もとにささげて、「わたくしどもを奴隷にしてくだすってもよろしいですから、どうぞ食べ物をくださいませ」と言うに違いない。つまり、自由とパンとはいかなる人間にとっても両立しがたいものであることを、彼ら自身が悟るのだ。じっさいどんなことがあっても、どんなことがあっても、彼らは自分たちの間でうまく分配することができないにきまっているからな!また決して自由になることができないことも、彼らは同様に悟るであろう。なぜと言うに、彼らはいくじなしで、不身持ちで、一文の値うちもない暴徒だからな。」
(『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の言葉より。新潮文庫の上巻のp487)

10.
「専制主義のないところに自由も平等も、いまだかってあったためしがない。」
(
『悪霊』のピョートルの言葉。新潮文庫の下巻のp125)

11.
自由とは、生きようと死のうとおなじになったとき、得られるものです。」
(
『悪霊』のキリーロフの言葉。新潮文庫の上巻のp179)

12.
「わたしには金は必要でない、というよりは、わたしに必要なのは金ではない、と言ったほうがよかろう。威力でさえもない。わたしに必要なのは、威力によって得られるもの、そして威力がなければぜったいに得られないもの、それだけなのである。それは一人だけのしずかな力の意識である!これこそが、世界中が得ようと思ってあれほどじたばたしている自由の、もっとも充実した定義なのである!」
(『未成年』のアルカージイの言葉。第1部の第5章の3内。新潮世界文学のp107)

13.―〔以下は、後に、追加します。〕http://www.coara.or.jp/~dost/BT-2.gif