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カラ兄弟 カメ 00年12月31日11時44分

    最近、ほんのちょと目を通しました。独断と偏見で読んだだけですが、どうし
    ても「この人物の為に、時間を潰さなければならないのか」などが「ジワー」
    と心に残り、気分が晴れません。
    べつに、自分の読みに確信を持つとかではありませんが、それが気になるのです。   


  & Seigo氏 00年12月30日16時13分

         皆さん、書き込み、どうも。

         【管理者より】
         下方に書いたように、
         今夕より、実家の方へ戻り、
         三日まで下関の方で過ごしますが、
         携帯のノートパソコンと実家にあるパソコンで
         下関の方よりも、ネット、ページ・ボードにアクセスできるので、
           (送られたメールもノートパソコンで見れます。)
         頻繁にはできないでしょうが、
         私Seigoの方は、年末・正月も、引き続き、両ボードに書き込みをする予定です。

         できましたら、
         こちらのボードは、ドスト氏関係の書き込みを書き込み、
         ドスト氏関係以外の内容の書き込みはあちらの「伝言・雑記」板に
         書き込むように、お願いしますね。>皆さん

         今年のアクセスを終える皆さん、
         よいお年を迎えて下さい。           

           一時退出。
         


目的はあるかもしれない 真間一 00年12月30日12時23分

ぼくは科学的思考を信じています。科学的思考は「第一原因」とか「創造者」とか「目的論」とかいう高尚な説明原理を一切使わないで世界を説明する思考です。ゆえに、進化には原因もなく目的もないと考えています。
しかしぼくは進化論を打倒しようと考えました。そこで、「未来の神」というアイデアを作りました。
なるほどこの宇宙の中では進化論は正しい。しかしたまたま人間が登場し、進化論に反して空想した。その空想が道徳です。
もしこの宇宙が終わり、未来の神が出現するなら、神は道徳を愛した人間を愛するだろう。これも空想ですが。
障害者とともに生きるとき、科学的に見てどうのこうのというよりも、未来の神という空想から見てどうかということを心にとめています。人生に目的はあるかもしれない。
未来の神については作品を書いていますからよかったら読んでください。真間一で検索すれば読めますよ。
なお、カントは、宇宙の第一原因は存在するかどうかについて、肯定と否定の両方が正しいことを証明しています。いわゆるアンチノミーです。人間の理性は全体を考えると、分裂した解答をだしてしまうようです。それにしても、カントによれば、第一原因は存在する可能性があるので、安心してください。


ありがとうございます。 かつこ 00年12月30日00時59分

   Seigoさんへ
   色々と勝手なことを、書き込みさせて頂いてありがとうございました。
   あまり気遣いのできる人間ではないので申し訳ありませんでした。
   まだ「カラ兄弟」を読んでいる最中ですが、お正月休みを利用して少しでもドストエフスキーの
   文学の世界を知ろうと思っています。ドストエフスキー氏を知ることによって
   ここに書き込みしているみなさんのことをもっと理解したいと思っています。

   カメさんへ
   私は心で神様をとらえることが、一番一番大切なことだと思っています。
   カメさんは心でとらえることが出来る人のようです。
   誰にでもできることではないですよ。
   〜箴言3章5節〜
       心をつくして主に信頼せよ、
       自分の知識にたよってはならない。
       すべての道で主を認めよ、
       そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

   真間一さんへ
   真間さんは日ごろから人の為に生きていらっしゃる方のようですね。
   相手のことを思って書き込みをしてくださっているようです。
   頭がさがります。

   今日は進化論について考えてみました。
   A、あらゆる生命は、環境に応じて偶然に進化していった。
   b、あらゆる生命は、目的があって設計どうり進化していった。
   真間さんはどちらの方が、観念論に近いとおもいますか?
   原因者がいるのと、原因者がいないのとどちらの方が観念的だとおもいますか?
   また生意気なことを言いました。許して下さい。

   コッキンさんはじめまして
   いきなり質問なのですが、最近「95%」と言う言葉を使う人がたまにいます。
   もともと誰が言い始めたことなのですか?


赤ちゃんを背負った老人の絵の話 真間一 00年12月29日01時25分

ぼくは無名の哲学者ですが、もし画家だったら、描いてみたい絵があります。
それは、「赤ちゃんを背負った老人の絵」です。
老人はやせていて、もうすぐ死にそうな顔をしている。
赤ちゃんはふくよかで、これからの命であります。
ものすごいアンバランスを表現したい。
「もうすぐ死ぬ命」と「これからの命」のどうしようもないアンバランスを描きたい。
だから、老人の顔の背景は黒。死を暗示している。
赤ちゃんの顔の背景は「若葉」がよい。
赤ちゃんはやすらかに眠っている。
そして老人の顔の表情は、ちょっと嬉しそうな顔。
老人は赤ちゃんを背負っている。
わかってください!赤ちゃんが老人を背負っているのではない。それは観念です。空想です。本当は、老人が赤ちゃんを背負っているのです。
実際にぼくはこの光景を見たことがある。老人が赤ちゃんを背負っている光景を。
そして激しいショックを受けました。
これから10年は生きられないだろう老人をかわいそうに思いました。しかし、それ以上に、老人の嬉しそうな顔にショックを受けました。
老人は「理性」の象徴です。
赤ちゃんは「万能感」の象徴です。
悟りをひらきたいと思っている人は多いでしょう。
しかし、そういう人の存在を支えている多くの人間がいることを考えましょう。
悟りをひらきたいと思っている人間は赤ちゃんです。それを下から支える多くの理性が存在する。本当です。自分の破滅を目前に控えながらも、赤ちゃん的人間のお世話をする理性。
自分の周りに自分を支えてくれる理性がいるかもしれません。嬉しそうに支えてくれる他者の善意があったら、この話を思い出してください。失礼しました。


カノンを聴きながら かつこ 00年12月29日00時04分

   かめさんはとても素直な方のようですね。
   私はいつも疑問と戦っていますけど
   でも幸いなことには、神様には何も疑問もなかったし、恨みももったなかったです。
   何故だかとても信頼しています。   


「未成年」についての情報ありがとうごがいました  00年12月28日22時04分

    >Seigoさん  >あさのさん
   情報ありがとうございました。
   今まで僕もかなり本屋さんをみてまわったのですが、「未成年」は一度もみたことが
   なかったのでこれで納得できました。(「罪と罰」はほとんどの本屋さんに置いてあ
   りましたが)
   今度から図書館をのぞいたりその他の本屋さんをあたってみます。
   それでもダメなときは、Seigoさんにメールでお願いします。そのときは宜しくお願 
   いします。
   今まで僕が読んだ作品は、「罪と罰」からはじまって「貧しき人々」「地下室の手記
   」「白痴」「死の家の記録」「悪霊」「賭博者」「永遠の夫」「虐げられた人々」「
   カラマーゾフの兄弟」の順だったとおもいますが、二年がかりで読んだのでわかりま  
   せんが。
   どれも一回ずつしか読んでませんが、どれもおもしろかったです。特に僕は「白雉」
   が一番好きです。
   それではどうもありがとうございました。 


「貧しき人々」についてです。 もろちょん 00年12月28日17時01分

   どうも、もろちょんです。最近「貧しき人々」の英語版を入手しまして、読
   んでみたらいろいろとおもしろい発見がありましたので、報告します。

   さっと一読しただけなのですが、日本語版の「貧しき人々」は映画向き、英
   語版の"Poor Folk"は演劇向き、という感じがしました。今回はその点につい
   て書き込もうと思います。

   六月一日のワーレンカの手帳に、ポクロフスキー老人とのこんなやりとりが
   あります。

    「ねえ」と老人はおずおずとつぶやくようにきりだしました。「ねえ、
    ワルワーラさん…どうでしょうね、ワルワーラさん?…」老人はしどろ
    もどろでした。「実は、あの子の誕生日がきたらですね、あなたはあの
    本のなかから十冊だけとって、ご自分で贈ってくださいな。つまり、別
    にですね。わしは残りの十一冊目をあの子に贈ってやろうかと思うんで
    すがね。つまり、自分だけの贈り物として。なに、こうすれば、あなた
    も贈り物ができるし、わしにもできるわけで、ふたりともお祝いできる
    わけですよ」老人はそういいながら、どぎまぎして、口をつぐんでしま
    いました。                  (木村浩訳)

   この部分は、英語版では、こうなっています。

    'Listen Barbara Alexeyevna ' he said timidly. 'Listen to what I
    have got to say to you. When his birthday is come do you take TEN
    of the books and give them to him yourself - that is FOR yourself
    as being YOUR share of the gift. Then I will take the eleventh book
    and give it to him MYself as being MY gift. If we do that YOU will
    have a present for him and I shall have one - both of us alike.'

   上記の英文で大文字になっているところは、もともとはイタリックで強調さ
   れていました。YOUとか、MYとか、それとIもです。

   日本語版の方ではポクロフスキー老人のしどろもどろ感が強く、英語版では
   しどろもどろしながらも、身ぶり手ぶりなども交えて、十五歳の女の子をな
   んとか説得しようと努力している感じが強いように思います。

   
     ちょっと、事情により一時退出します。   


もの言わぬ5%の役立たずが真の芸術の胚となりうる  コッキン  00年12月28日00時48分

「最近またビートルズ愛好家が増えてるみたいですよ」
「そうかね」
「文学好きでなおかつビートルズファンという人も多いみたいですね」
「ほう」
「ビートルズって今聞いても全然古臭くないし、これからもずっと人々
のハートにメッセージを送り続けていくんでしょうね」
「しかしなんだねえ、私に言わせればドストエフスキーとビートルズの
どこに共通する部分があるのかさっぱり分からないのだがね。共通する
どころかまったく相反する表現者というのが私の意見だよ」
「ええっ、どういうことですか」
「人間の物事に対する認識を五段階に分けたとしたらだね」
「ええ」
「一段階しか分からない人もいれば五段階まで理解できる人もいる。人
間全体の95%が一段階から四段階の人で占められ、そして世の中にお
ける慣習等は三段階に設定されているとしよう。ドストエフスキーがそ
の最高位の五段階にいることに異論はないだろう」
「はい」
「そしてビートルズは四段階にいる」
「それで四段階と五段階の違いってなんなのですか」
「ビートルズの世界観を崩さないでおこうとするとだね」
「ええ」
「どうしても目を背けたくなる人というのがいるのだよ、この世には。
とてもグロテスクな、とても醜悪な人というのが。ということはビート
ルズは何かに対して盲目になることによってビートルズたりえているわ
けだ。ビートルズの主張は95%の人々に当てはまる。95%の人がビ
ートルズを是とするのだから、5%の出来損ないどもなどこの世にいな
いことにしておけばいいのさ。そこが五段階への壁だよ。もっともビー
トルズはべつに五段階に行きたいとは思わないだろうけどね。分かるか
ね」
「なんとなく」
「結構」


プレゼント カメ 00年12月27日21時47分

     私は若いころは、全く神を認めていませんでしたが、ドストエフスキー
     の「こうしなさい」という指摘を受け入れたことから、神の存在を身を
     以て知ることとなったのです。

     ところで、かつこさんならご存知でしょうが、「栄光は神に」で、自分で
     考えたわけでないことを発言しにくいことは、多々あります。信仰は神の
     賜物です。大切にしていきましょう。


おじゃましています・・・。  りょー  00年12月27日02時28分

     はじめまして。
     ドストエフスキイ作品には超初心者です・・・。
     じつは、大学の課題提出のため
     ドストエフスキイさんの「貧しき人々」を読んでいます。
     作品・思想を他の作家さんの作品と対比して考えるというものです。
     それで、迷っていて<検索>の結果こちらを発見したのですが・・・。
     勝手に書き込みを見せていただいてます・・・。
     その分のお断りをしたかったので、書き込みさせていただきました。
     決して、写したりはしません!
     が、参考に見せて頂いていてよろしいでしょうか?
     みなさん深く広く読まれていて、とても勉強になります。

     でわ、みなさんの議論のお邪魔をして申し訳ありませんでした。


  ただいま、『貧しき人びと』を再読中 Seigo氏 00年12月27日01時52分

        旅人さんも、
        グノーシス主義の解説についての情報の書き込み、どうも。
         (中村雄二郎の『術語集』については、
          自分は、『術語集1』は持っていて以前愛読しましたが、
          『術語集2』の方は持っていないので、今度買い求めて読んでみます。)
        現代日本の国際的な哲学者のお一人である中村雄二郎氏が、
        近年、悪というテーマやドスト氏の主要小説に関心を向け、
        現代の諸問題に向けて真摯(しんし)な思索や対話を展開していることに自分は注目しています。
         (『中村雄二郎対談集 対話的思考 好奇心・ドラマ・リズム』(新曜社1999年8月刊)
          での、作家の島田雅彦氏との対談「文学という装置」でも、
          私の予想通りドスト氏のことや、今後のロシア正教におけるグノーシス主義のこと
          が、ちょっと話題に挙がっていますね。)

        グノーシス主義というのはこの世界における悪の起源について独自の見方を提示している
        と自分は思っているので、
        彼らの考えは、自分の今後の悪についての思索の参考にしたいと自分は思ってます。
         (皆さんは、グノーシス主義については、
          キリスト教史上におけるその位置付けや中東や東洋の思想との関わり
          などに関心があるのでしょうね。
          なお、
          ドスト氏は何かの文章でグノーシス主義について触れていたという記憶が自分にはあるのですが、
          ドスト氏におけるグノーシス主義ということは、
          ドスト氏における反ユダヤ主義、ドスト氏におけるフリーメーソン、
          といった事項とともに、まだよくわかっていない面があり、
          今後の研究を待つ必要があるようです。          
          .『19世紀ロシア文学とフリーメーソン』(笠間啓治著。近代文芸社1997年刊。)
          という本では、ドスト氏におけるフリーメーソンについて少々触れています。)

              * * *       

        しょしんしゃさん、
        下の、        
        『貧しき人々』を読んでの、感想や気付きの書き込み、どうも。
        しょしんしゃさんならではの洞察が見られて、大いに刺激的です。
         (ドスト氏の各小説の、花への喩(たと)えなら、こちらに、過去の書き込み記事あり。)
              
        じつは、私も先週から、新潮文庫の『貧しき人びと』を再読していて、
         (以前予告して書き込んだ、年内に『罪と罰』を再読するという自分の計画は、
          いろいろ忙しいいこともあって、遅々として進んでおらず、途中、この『貧しき人びと』
          に勝手に鞍替(くらが)えしました。『罪と罰』の再読の再開は、『貧しき人びと』完読のあとに
          また計画しなおします。>皆さん )
        今日で、読みは、全体の半分を過ぎましたが、
        『分身』と同様、面白く読み直しています。
         (今回は特に、マカール・ジェーヴシキンという人物の性格や人柄、自然などの描写、
          に注意して読んでいます。)
        年内に読み終えられるかどうかわかりませんが、
        SEXY F.M.さんが下で『貧しき人びと』の読書会の発表原稿を掲載してくれたこともあり、
        読み終えたら、私も、『貧しき人びと』についてあらためて気付いたことや思ったことを
        このボードに書き込んでみますね。

          * * *

        ルージンさんの下の書き込みについての私からの必要なレスは、
        また後日に。

          退出します。                    


  『いまこそそいつを……その正体を突きとめてやるぞ』(第8章)  ルージン  00年12月27日00時56分

      こんばんは。

      Seigoさん、異なるテーマを1回の書き込みで投稿したにもかかわらず、両テーマに関する
     レスをくださり、ありがとうございます。

      先日『分身』を読了いたしました。毎度のこと荒唐無稽(思弁?)なことをいろいろ考え
     ました。詳細は後日、私の拙HPで。(ちゃっかり自分のHPの宣伝をして、すみませぬ)

      さてさて、

     >Seigo氏
     >(新ゴリャートキン氏の実体については読者や研究家の間に一部誤解があるように思います。
     >職場の同じ部署に現れて勤め始めた名も姿も瓜二つの人物(=新ゴリャートキン氏)は、
     >「実際の人間」であり、新ゴリャートキン氏の自宅の部屋などに現れた人物は、
     >「幻覚としての人物(一部、夢の中に出てきた人物)」、と自分はみなしているのですが、
     (便宜上、改行させていただきました)

      旧ゴリャートキン氏が新ゴリャートキン氏と邂逅する場面は、第5章ですね。
      邂逅する前の旧ゴリャートキン氏は、クララ嬢の邸で理不尽な応対をされ、胸中おさまらない
     ものを抱いたことから邸内で大失態を犯してしまい、自虐的・自嘲気味になって

        まるで自分自身からどこかへ身を隠そうとでもしているようだ
           『ドストエフスキー全集1』p191 (岩波文庫ではp82)

     のごとく思いつめ、自分の歩いている場所さえ分からなくなっていました。あげく寒風と雪に体を
     さらしている状態だったことから、旧ゴリャートキン氏は熱を出し幻覚をみるようになりますが、
     そのあとに例の邂逅があります。
      そして新ゴリャートキン氏は旧ゴリャートキン氏の部屋に入りますが、その様子を見ていた
     旧ゴリャートキン氏は、抗議をしようと思いこそするが心労と疲労ゆえに部屋に入る前にへなへなと
     座り込んでしまいます。
      この場面で、ペトルーシカがツーショットを見たという記述がないことから、構成上の都合を適当に
     想像してしまう私なんぞは、この幻覚が起こったときに、偶然的に実在の新ゴリャートキン氏と邂逅した
     と、考えたいのですが…。
     (私は、何食わぬ顔をして堂々と部屋に入った新ゴリャートキン氏は、深夜であるにもかかわらず、
     何かもっともらしい理由をペトルーシカに言って出かけ、そのまま帰らず、いくらなんでも心配した
     ペトルーシカが様子を見に行こうとして扉を開けると、うとうとしながら座り込んでいた
     旧ゴリャートキン氏をみつけ、彼を寝室まで運んで寝かしつけた、と想像しています)

      旧ゴリャートキン氏が見る夢と、氏のまわりで起ってしまう出来事は、奇しくも関連性があるのは、
     ときに読者を混乱させてしまうように思えます。
      しかし、旧ゴリャートキン氏が見た、自分のそっくりさんが街中に出没し列を成して歩いている悪夢は、
     13章で奇しくも馬車に乗せられてしまった氏を「仇なす敵どもの甲高い叫び声」が追いかけ、その声の
     主(ぬし)たちが旧ゴリャートキン氏が乗せられた馬車を追いかけてくる場面を思わせますね。
     夢が、現実に起ることの暗示であり、象徴でもあるというパターンは、ドスト作品の特徴であり、
     また最大の魅力の一つであると、改めて思いました。

       ***

      『レ・ミゼラブル』が、直接的に『白痴』の内容に与えた影響を考えるのはむつかしいが、『白痴』執筆の
     活力の源になったとは、いえることができるようですね。
      『レ・ミゼラブル』と『白痴』の登場人物に共通性を見出すのは困難なようですが、
     その他の作品(『罪と罰』,『悪霊』など)に、ユゴー作品の影響がうかがえる情報があることには、、驚きました。
      しかし、

     >(ラスコーリニコフの造形には、ジャン・バルジャンという登場人物からの影響があるようです。)

     は、どうでしょうか。私は井桁氏の論文「『レ・ミゼラブル』『罪と罰』『破戒』」を、まだ読んでいないので横柄な
     ことをいってしまいそうですが、ラスコーリニコフはジャン・ヴァルジャンよりも、むしろ若くして思想的に閃光を放ち、
     「反乱」の際、政府軍の砲弾によって華々しくも倒れ、人事不省に陥るマリユスやアンジョルラスの影響を受けて
     いるように思えます。ストレートすぎますか?
      ただ、
       ◎ジャン・ヴァルジャンが徒刑場につながれるまでの生活苦、それによって
        引き起こされたパンを盗むという行為(踏み越え)
       ◎ラスコーリニコフは火事に遭っている家に果敢に飛び込み、人命を救っていること、
        マルメラードフの家に1ルーブルを置いて去ることと、
        ヴァルジャンが馬車の下敷きになりかけたフォーシュルヴァンを身を呈して助けたり、
        マリユスを助ける時に命を落しかけること、
        貧困にあえぐ街の人々に、浮浪者のような格好(服装)をしたヴァルジャンが、
        小銭を与えて歩き、それがちょっと噂になること
     などは、共通しているように思えます。

      Seigoさんの『カラマーゾフの兄弟』のガリラヤのカナの名場面が、『レ・ミゼラブル』でミリエル司教が
     「「未知なるもの」から降り注ぐ思想に、魂をひらいていた」場面を下地にしているという発見には、脱帽です!
     まいりました…。m(_ _)m
      Seigoさんの書き込みを読んでから、早速、読み比べてみましたが、かなり酷似しているように思いました。
      私事ですが、もうちょっとしっかり読まなけりゃ、いかんなぁと自省いたしました。
      ガリラヤのカナに強い思い入れがあるみなさん、関心がございましたら、ぜひ『レ・ミゼラブル』第1部1章の13を
     読んでみてください。

      それでは、また。


グノーシス主義  旅人  00年12月26日21時48分

  中村雄二郎は、『術語集2』(岩波新書、1997)にも一項目をたてて、
 グノーシス主義を論じています。書店で立ち読みできる程度の短さです。た
 だし、文章はわかりやすくても再読したくなる内容なので、購入をお薦めし
 ます。僅々640円です。


『貧しき人々』・・しょしんしゃ 風。 しょしんしゃ 00年12月26日16時18分

● その前に お花で例えると。から・・。
『地下室の手記』・・・蘭の花。
『罪と罰』・・・・・・チューリップ。
『カラ兄弟』・・・・・薔薇の大輪。
『貧しき人々』・・・・ひまわり。
『悪霊』 (まだ 途中)・・おおきな菊の花。
っと まえに Seigo氏さんが 問うてたなあっと・・・
書きたくて 書きました。

** 『貧しき人々』 自分なりの まとめかた。**
● 主人公は マカール・ジェーヴシキン。そして 精神はドスト氏自身である。
● 貧しい人々を 訴える 灰色の色彩の 小説 ではなくて。
そうなると ゴーゴリになる。貧しいなかにも あなどりなさんな。!!。
極彩色の世界が あるんですよ。〜〜!!。ちゃんと 愛 やら 楽しみやら
人生の機微が 存在してるんですよ。〜〜!!。
富んだ人達の方が ほんとの愛をしらなかったり、人生の深みを知らなかったり
するんですよお〜〜〜!!。っという・・・・小説。
● ワーレンカは 天真爛漫な 女の子。貧しさは 人一倍だけれども 幸せを 追い求める
そして 回りを 自分のおかれている状況を 把握できる 賢い女の子。
貧しさを こころだけは 乗り越えていたいために 空想したり 夢想したりして
現実を 明るくすごす 前向きな 明るい性格である。
● マカール・ジェーヴシキンは 完全なる夢想家。現実と夢が 日頃の生活で すでに
ワーレンカに出遭ってから 混乱 混沌している。
これは ワーレンカという 貧しい女の子を どうしても 救ってあげたいという
マカール・ジェーヴシキンという人間のやさしさと だんだんと 愛してしまって
・・夢ここちの 毎日。
● ここで ドスト氏は このふたりを 対照てきに 描きあらわしていると 思います。
人間は 『地下室』でも 然り。『罪と罰』のラスでも然り。すヴぃでも然り。
・・・・・・・・ 人間が 死ぬとしたら・・・・大きな宇宙から眺めてみたら・・
・・・・・・・・・・ 生きている時に 悩んでるって・・怒っているって・・
・・・・・ほんと・・!!・・ まるで 喜劇です。・・・・・・・・・
そして ドスト氏の この本で 初めて ”喜劇”っという 面を小説で 感じたのですが。
マカール・ジェーヴシキンっていう人は まるで 喜劇的 役割を 演じています。
何故かというと。ほんとうは もっと 楽な 暮らしが できるのに 貧しいワカール と
こころも 身体も 同心円で いたい。っという ほとんど ひとりよがりの
”あなたのため・・つまり・・ワカールのため”っと どん底の暮らしを
します。そして すべて ワカールにささげている。
たとえば。
人間は ある球に 透明の球に入りこんでしまうと それは 透明のシャボン玉の
ようで。つまり 透明で 破れるから。そこに 入りこんでい人たちは
@外部とさかいはなく 自由に心身ともに 行き来していると確信している
Aそして 強固な意志 あるいは このことが 大事なことで 『直感』 『天真爛漫』
が その透明の球の膜を破る唯一の方法である。
Bその球面では 乱反射するものの いつになっても 固定的な観念の領域(球)を
抜け出れず、結局 どうどうめぐり 、心身ともに 疲れる。同じ道を
ぐるぐるぐるぐる回っていたり 抜け道 突破口のない同一色の空気の中で
もがいているも同然である人間。そして 人間の悲しみ。
====== 新しい 空気を 見つけないと どうしても いけない。
または 天心爛漫さの自由な 飛び回りで 抜け出よう。======
●● ワーレンカは 透明なシャボン玉の球の表面にいたので 外界と二人の世界の間を
自由に飛び回れた。
●● マカール・ジェーヴシキンは 透明なシャボン玉の球の内部の中心にどかっと
居座っているので 外部にでられない状態。勿論 ワーレンカに対する
貧しい人々に対する同情と愛から 一心同体を 演じている。どかっと
居座って 外部に出たくない。
●問題点 マカール・ジェーヴシキンが 現実味を持たないのは 書簡でのやりとりの
夢のような楽しさ。ワーレンカの困難をわすれさせてあげているんだろうなあ。
っという自負。夢想。しかし ふたりで 将来一緒に住もうというのは ない。
ふたりで 書簡だけ つずけていたら ・・ふたりとも 飢え死に しかなかった
かも。
結局 二人は 貧しさ つらさの気持ちの焦点をぼかすことで こころの解放
をしていたのかもしれません。
書簡は 貧しさの解決にも なっていなくて。ますます貧しさが 意に反して
すすんでしまうようで。混沌の中の 混沌さを含んだ書簡で。ただ 『元気??』
っという内容で。やはり 混沌 混乱の書簡でしょう。
マカール・ジェーヴシキンにとっては 正の蟻地獄にはまってしまった
愛と同情というポジチヴだけど。蟻地獄。混沌のシャボン玉の中から
でれない シャボン玉の中の乱反射。ちょっと 喜劇的に見えてしまう。
相手ワーレンカは 冷静なのに マカール・ジェーヴシキンは 道化者と
見えてもしかたがない・・まわりが 見えない状態。
ワカールは 現実に 飛び出せるところに つまり シャボン玉の表面に
いつも いたので 結局 生きていける方を選びました。
マカール・ジェーヴシキンにとっても この選択の方が いい。っと
ワカールは 賢いので 思っていたでしょう。
● 一方 マカール・ジェーヴシキンは 最後まで ワーレンカが 自分から いなくなる
っという 現実が 見えなくて、 ワーレンカとの 至福の幸福を味わえた書簡
のやりとりという 夢 は なかなか 醒めませんでした。
この至福の幸福は 自分のためなのか・・ワーレンカのためなのか・・
自分がもたらしているのか・・ワーレンカがもたらしているのか・・。混沌。
いなくなって 1週間後くらいに 世の中が キラキラしていない現実に
きずかなければ ならなくなるでしょう。
● しかし 実際は マカール・ジェーヴシキン存在の目的は ワカールを 守りとおす
ことだったので。しばらくたってからの 現実を見るマカール・ジェーヴシキンの
眼は こころは 一応 喜んでいるのかもしれません。
● マカール・ジェーヴシキンのことばで ドスト氏が 貧しさとは・・・どういう状態
のことをいうのかを 勿論小説で書いてあります。でも その描写だけではなくて
貧しき人々の 極彩色のこころ ユーモアっぽい こころ 愛すべきこころ。
決して 富んだ人達にも 全く 劣っていない 精神の豊かさを 現したかったんじゃ
ないのかと 思います。ワーレンカのような かわいくて 天真爛漫な人で
やさしくて。そんな人を 描きたかったと 思います。
●書簡風が バルザックに 似ていた。
●貧しい大学生が なんか ドキドキして ホフマン風でした。
たとえば 部屋に2度目に入った ワーレンカを 怒るのではなくて 本を貸したところに
ちょっと 怖かった。そして そのうちに ワーレンカと愛しあうようになって
結婚するのかなあ。っと 思ったら 突然 亡くなってしまって 怖かった。
ホフマン的怖さを感じた。この小説で 明るくなったり 暗くなったりが
何回か 繰り返されていたように 思います。そこが ホフマン的。
● お婆さんが 出てきた時も なんか ホフマン的怖さを感じました。
● 『貧しき人々』という題名から さらあっとした 小説を想像していましたが。
途中から やはり『『取り憑かれてしまって』』・・そこが やはり ドスト氏風
の小説だなあっと思いました。ドキドキ 次は どうなるの??っと 読者を
やはり 離しません。
● つまり 題名とは 裏腹に これ以後の ドスト氏の作品の萌芽を すべて 含んでいる
内容の濃い作品だと 思いました。

◎ 結論としては マカール・ジェーヴシキンは 人のために 生きる
マカール・ジェーヴシキンは 人の癒しをする
マカール・ジェーヴシキンは 人を楽しませる
マカール・ジェーヴシキンは 主役を相手に与えたかに見せる
そうなんです。☆★☆ 裏方の神様 ☆★☆であったのです。
とある男が 女の子のために 哀しみを 貧しきゆえの悲しみを なくなるまで
永遠に癒してあげるために 二人の詩的空間 癒し空間を 創ってあげた。
貧しさゆえの 哀しみを忘れる遊び空間が ほしい。おとぎの国のような
あまあーーい空間を創った。

・・・・・・・・ お・・わ・・り・・・・・ 自分流 まとめ・・・・・・・
( 小説から 抜粋の言葉が あったら よかったのですが)


  & & Seigo氏 00年12月26日01時11分

        P.S.

        清水さん、
        下の、ドスト氏におけるイエス・キリストについての種々の書き込み、どうもです。

        下に箇条で書き挙げてくれたことは、私もほぼ同意見です。
        ドスト氏は晩年は、ロシア正教の熱心な一信者であった、 という点を、
        たしかに、私たちは忘れがちです。

        あさのさん、
        『カラ兄弟』のゾシマ長老の腐臭事件について、あらたに問題提起してくれましたね。
        このテーマについては、これまで、このボード何回か議論されてきましたが、
        中途半端で終わっている面もあったので、
        >なぜアリョーシャは立ち上がることができたのか
        といった点を初め、 再議論、歓迎します。
               
           100%退出。 


   『分身』、及び、『レ・ミゼラブル』のドスト氏の小説への影響について  >ルージンさん Seigo氏 00年12月26日00時23分

         >ルージンさん
            (レスが遅れましたが、以下は、「ルージン 00年12月19日01時06分」に対するレスです。)

        ルージンさんが今読んでいるドスト氏の『分身』については、
        私は一昨年の冬に再読した時に、あらためて、面白く読みました。
         (小沼文彦訳の岩波文庫の分で読みました。この小沼訳も、読みやすい名訳です。)
        『分身』が踏まえている先行する内外の文学は、SEXY F.M.さんが下に挙げた通りですが、
        一方で、
        この小説は、ドスト氏の過去の一年間の就業体験やドスト氏自身のことを色濃く描いている点から、
        自分はその再読の際は、ゴリャートキン氏(=旧ゴリャートキン氏)の言動やその性格にドスト氏の姿
        を重ねて読んでいきました、
        今でも、ゴリャートキン氏と言えば、ドスト氏の姿が重なってしまいます。
        そのほか、『分身』は、登場人物の「名・父称」が各々長いので(「名・父称」の形で長く書いているので)、
        人物の区別などにやや閉口すると思いますが、
        ゴリャートキン氏の滑稽的な、冒険的な行為の数々やその過程での氏の心の動き、
        終盤における氏の従僕ペトルーシカとのかけ合い、
         (ドスト氏は、主人と従者との、逆転をはらんだ上下関係を描くのもうまいですよね。)
        現れた新ゴリャートキン氏との攻防、
         (新ゴリャートキン氏の実体については読者や研究家の間に一部誤解があるように思います。
          職場の同じ部署に現れて勤め始めた名も姿も瓜二つの人物(=新ゴ リャートキン氏)は、
          「実際の人間」であり、新ゴリャートキン氏の自宅の部屋などに現れた人物は、「幻覚とし
          ての人物(一部、夢の中に出てきた人物)」、と自分はみなしているのですが、
          読んだSEXY F.M.さんやルージンさんなどはどうみなしてます?
           (ルージンさんの読書は、新ゴリャートキン氏の出現の箇所まではまだいっていないのかな。) )
        など、
        読みがいのある箇所は、多いです。
        『分身』についての論文は、「ドストエーフスキイの会」発行の機関誌『ドストエーフスキイの広場』に、
        数多く掲載されています。
        読了したあとの、ルージンさんのページ内の読後感の感想の書き込み、楽しみにしてます。

          * * *
      
        ドスト氏の『白痴』の内容や箇所への、ユゴーの『レ・ミゼラブル』の影響
        については、自分は、その指摘はこれまで聞いたことがありません。
        実際、その指摘は、これまで、研究者の間で、ほとんどないようですね。
        ルージンさんが挙げてくれた、
         『白痴』のテーマを自ら述べた有名な書簡の中の、ジャン・バルジャンへの言及は、
        ムイシュキン公爵とジャン・バルジャンを、読者からの同情という点で比較したに過ぎないようです。
        ドスト氏は、若い時から、ユゴーの小説群にはかなり親しんでいて、
         (ユゴーの小説の、ロシアへの翻訳状況やドスト氏の小説への影響、
          『罪と罰』『レ・ミゼラブル』の比較研究などについては、
          中村健之介氏や早稲田大学の井桁貞義氏にいくつかの指摘があります。
          中村氏によると、
          ユゴーの『ヴァチカンのキリスト』『死刑囚最後の日』は、ドスト氏の
          『カラ兄弟』の大審問官や『悪霊』のキリーロフの手本になっている、
          とのことです。
          また、中村氏は、
          ユゴーとドスト氏との思想的結びつきは、疎外された者の復権という考え方である
          と述べてます。      
          井桁氏の論文「『レ・ミゼラブル』『罪と罰』『破戒』」によると、
          『カラ兄弟』のスメルジャコフ、ゾシマ長老には、
          『レ・ミゼラブル』のジャヴェル、ミルエル司教との類似が見られるそうです。)
        ドスト氏は、 『レ・ミゼラブル』を、 
        1862年7月の最初の欧州滞在中や、1867年5月の長期欧州滞在中
        に、熱中して読み、読み返していて、
        時期的にも、前者の『レ・ミゼラブル』体験は、
        1866年に連載された『罪と罰』に影響を与えています。
         (ラスコーリニコフの造形には、ジャン・バルジャンという登場人物からの影響があるようです。)
        一方、
        『白痴』に取り組み始めたのは1867年8月頃であり、後者の『レ・ミゼラブル』再読の直後ですから、
        その再読は、『白痴』の創作面での刺激になった(刺激にした)ことは十分考えられます。
        『白痴』の内容や箇所への影響の指摘は見あたらないにしろ、
        ルージンさんのような、両作をじっくり読んだ人からの、内容や箇所に
        おける影響関係の気付きの指摘は今後可能でしょうから、気付いた箇所
        などがあれば、指摘してもらえれば、うれしいです。>ルージンさん
         (自分は、『レ・ミゼラブル』は、中学生用に短く書きかえた分は、
          中学生の頃に読んだ読んだことはありますが、完訳分は、初めの
          箇所しかまだ読んでません。
          先日、某書で、比較的長く書いている『レ・ミゼラブル』のあら
          すじに目を通してみましたが、両作に共通する内容や登場人物は、
          ちょっと見あたらないようですね。)

        ちなみに、
        『レ・ミゼラブル』の最初の部分を読んで自分が気付いて一驚したことですが、
        ディーニュ司教のことを語っている第一部の第一編の十三「彼の信仰」の末部
        の場面と内容は、
          (私所持のそのテキストは、河出書房新社の世界文学全集の
           13・14・15『レ・ミゼラブル』(井上究一郎訳・1961年初版)です。
           箇所は、本文では、
           「すでに見てきたように、祈祷、聖務日課の祭式、〜 地上には
            数種の花、空には満天の星。」。)
        『カラ兄弟』の「ガリラヤのカナ」の章の、アリョーシャの感激の僧院
        の中庭のシーンの場面と内容
        と少なからず重なるようで、
        アリョーシャの感激の僧院の中庭のシーンは、
        『レ・ミゼラブル』のこの箇所を下地にしたことは間違いない、
        と自分は見ています。
         (この二箇所の相似は、両書をじっくり読んだ人なら、すぐに気づく
          と思いますが、その指摘はこれまで聞いたことがありません。フラ
          ンス本国でのユゴー研究家たちの論文にあたれば、すでにあるとは
          思いますけどね。         
          ルージンさんの方で、両書のその箇所を今度比較し
          てみて気づいたことがあれば、報告をお願いしますね。)
         


  >駒さん Seigo氏 00年12月26日00時22分

        >駒さん

        岩波文庫の『未成年』は、昨年の12月に重版されてますが、
        今では、残念ながら、すでに品切れのようです。
         (ほかの主な分として、新潮文庫の分は、とうの昔に品切れになっています。)
        したがって、現在では、文庫本『未成年』は、古書店か図書館で入手するか、
        市販中の新潮世界文学の中の分で読むしかないようです。
        自分は、岩波文庫の『未成年』(初版の分と昨年の12月に重版された分)と新潮文庫の分
        は持っていますが、
        自分所持の文庫の分を駒さんに有料あるいは無料で譲ってもいいという人は、
        このボードに書き込むかメールで申し出て下さい。>皆さん
         (申し出があれば、駒さんに連絡しますので、
          駒さんのメールのアドレスを今度メールで教えて下さい。>駒さん )
        
           * * *

        グノーシス主義についての解説の書き込み、どうもでした。勉強になりました。>SEXY F.M.さん

        哲学者の中村雄二郎氏は、その著 『悪の哲学ノート』(岩波書店1994年初版)で、
        悪という問題を、ドスト氏の小説 『白痴』・『悪霊』・「大審問官の章」を挙げつつ論じていますが、
        悪について論究していく上で有効な思想として、グノーシス主義も取り上げて言及していますね。

        カメさん、かつこさん、書き込み、どうも。
         
        カメさんは、自分にひきつけて、聖書を身読し、支えにしてきたということなのでしょうね。


    孤独な聖人 あさの 00年12月26日00時17分

     ゾシマの腐臭騒ぎの時のアリョーシャの絶望の原因は単に厳しい現実というよりは「決してゾシマは
     人々から愛されていなかったということ」すなわち神の義は人類愛と両立しえないということを認識
     せざるを得なかったという点にあるのでしょうか。なぜアリョーシャは立ち上がることができたのか、
     そのへんを再読してよくよく考えたいと思います。「アリョーシャ、お前が帰ってくるまでわしは死
     にはせん。なぜならお前はわしを愛してくれとるからの」全ての人から愛され、尊敬されているよう
     に見えたゾシマは、本当に自分を愛している人は実はわずかであるということを知っていたのでしょう。


   「未成年」 あさの 00年12月26日00時03分

   駒さん、初めまして。
   岩波文庫「未成年」は京都周辺の書店では1ヶ月ほど前になぜか次々と姿を消していきました。
   たまに中巻だけ、あるいは下巻だけ置いている書店を見かけます。
   探しまくれば全部揃うかもしれません。場末の小さな書店が意外と狙い目だと思います。
   電話帳に載っている近所の本屋さんに電話しまくるのが一番だと思います。


ほっと一息 かつこ 00年12月25日23時10分

   かめさんへ
   >私にはカナンの地は、拒むことができない存在です。
   >そのことは、神さまもご存知です。
   うれしい言葉です。神様を信じているし、信仰も持っているようですね。
   ゆだねて行くことは大変、勇気がいることだと思います。
   
   一人も神様を信じている人がここにはいないのかな〜と思っていたので
   ちょっぴり安心しました。ねむります。  
                        みなさんおやすみなさい。 


初めまして&質問  00年12月25日19時05分

    皆さん初めまして。
    いきなりですが質問させてください。
    文庫本で「未成年」が、どの本屋さんにも置いてないんです。
    売っているんでしょうか?
    どなたか教えてください。 


  母なる自然は測りがたしですよ。(第6章)  ルージン  00年12月25日02時20分

      突然ですが、コタツの中に入って蜜柑をつまみながら『分身』を読むというのは、
     季節柄にばっちりはまっていて、なかなか至福な一時を味わえるのであります。
      夏には『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』、冬には『分身』と『地下室の手記』、
     寒さに震えながら帰宅の途につくと、ゴリャートキン氏の気持ちがちょっぴりわかった
     ような……。

      SEXY.F.M.さん、私の「ある程度ネタがわれてもけっこうですので、」といった
     身勝手なお願いに対して、作品への理解をより深く掘り下げることができる
     ように参考文献を紹介したいただき、ありがとうございました。SEXY.F.M.さんに
     紹介していただいた書籍のなかの、『ドストエフスキーの方法』、書店に注文
     いたしました。フロイトの論文は、『フロイト著作集3』(人文書院)の分で、手に
     することができました。(訳者は同じ)
      さっそく「無気味なもの」に軽く目を通しましたが、いままで心理学的な著作を
     まるで読んでいなかったものですから、新鮮かつ非常におもしろく感じ、これからも
     興味を覚え続けるような気がします。
      正直、それなりに小説を読んでおいてよかった、と思いました。ホフマンの
     『砂男』はまだ読んでいませんが、「無気味なもの」の内容は、なるほど、
     お奨めのとおり、『分身』への理解を深めたい意欲に燃えているときの
     人間の期待を裏切りません。
      ゴーゴリは古書店で数冊購入してますが、来年に読むつもりでおります。
     またドスト作品はプーシキンの影響もかなりあるので、『貧しき人びと』,『分身』
     の両作品が、先人の作品のパロディ的要素を含んでいるのを見つけられば
     それはそれで楽しかろうと、今から期待しています。

      それにしても毎度思うのですが、ドスト作品には、登場人物やその言動や思考などを
     物で例えるような描写があって、ときに手でひざを打ってしまうほどのおもしろいものが
     ありますね。
      後期の作品群では、

      『悪霊』には、「傘くらいの値打ちは誰にでもあるさ」
             「ロシアの無神論は駄洒落の城を出たことがないのです」   
             「あれは紙でできた人間です」

     『地下室の手記』には、「自分は人間であって、ピンではないぞ!」

     などがありますが、 『分身』では、

         『あの男さえ折れてくれたらな』とゴリャートキン氏は考えた。
         『なに冗談ですよ、とさえ言ってくれたら、おれは赦してやる
         んだがな。なに、もっと赦してやったっていいんだ、ただあの
         男がそれをはっきり口に出してさえくれたらな。しかし、靴拭
         きの雑巾扱いされることだけは、断じて許さんぞ。もっと立派
         な人たちにだって雑巾扱いはさせなかったのだもの、まして
         やあんな下等な人間にそんな真似をさせてたまるものか。
         おれは雑巾じゃないぞ。いいかね、きみ雑巾なんぞであるも
         のか!』

         それにしても、雑巾とは!!ものすごい表現ですが、絶妙な味を醸し出しています。

       ***

      『白痴』と『レ・ミゼラブル』に関する文献について、質問させていただきましたが、
     この素人頭であとから考えると、そもそも『白痴』を研究する上では、そこまで
     気を回す必要がないように思えてきました。たしかにドスト氏は『レ・ミゼラブル』
     から何らかの影響を受けていたとはいえ、そのことだけを主題に論を立てようと
     するのは無理があるように感じております。
      それに加えて、Seigoさんがこちらで紹介されている『白痴』に関する書籍は、その大半がいずれも私が通う図書館に
     所蔵されていないのであります。(ちなみに『ドストエフスキーの方法』や『ドストエフスキーの詩学』
     その他主要の著書も無いのです。どういうことなんでしょ…?初版はいつだ!?
     まあこの際だから、バフチンの『ドストエフスキーの詩学』と
     小沼文彦編訳『ドストエフスキーの言葉』の2冊、休日を利用して購入希望を提出しましたが…)
      それはともかく、何とか入手できたモチューリスキーの『評伝ドストエフスキー』(筑摩書房)
     から読んでいこうとおもいます。

      来年、早めに読もうと思うドスト作品は、『永遠の夫』、『冬に記す夏の印象』です。


      おくれましたが、
     メリークリスマス!& 年末年始の独特の忙しさをどうにか乗り切りましょう!>みなさま

     http://www.d8.dion.ne.jp/~rudin_dn/index.htm


ドストエフスキ−とイエス・キリスト 清水 00年12月24日19時36分

 キリストの誕生日が来るので、特に何の資料も無いのですが思い浮かぶまま書き込みさせていただきます。
*ドストエフスキ−の小説は、小説そのものとして面白い。その作品群は世界文学の最高峰の一つを形成している。
*当然ながら私も手に入る主な作品は全部読みました。
*ドストエフスキ−の小説はキリストに深く関連している。Seigoさんの資料によればにアレクサンドル・ネフスキー大寺院に埋葬されていることからして、ドストエフスキ−自身も当然クリスチャンだったようだ。
*ドストエフスキ− の小説を読んでいくと必然的に、イエス・キリストやキリスト教とは、何なんだろうと関心を持たざるを得ない。
*イワンの「大審問官」とゾシマ長老、アリョーシャの対決は二元論的に単純化すれば、
神と悪魔の対決、無神論と信仰の対決、キリストを信仰するのか・しないのかの対決とも読める。
*作品論的には「大審問官」がゾシマ長老より勝っている、説得力があるとの見方があり、あながち否定できない。その理由の一つとして、ドストエフスキ−はロシアの作家でありロシアないし西欧はキリスト教がもともとの存在(ザイン)との条件があり、もともと当然視されているキリスト教の存在証明は、キリスト教の否定よりもはるかに難しいという事情が思い浮かぶ。日本においてはキリスト教は現在少数派(信者は40万人ぐらいですか?)であり、一般的教養としてもまだまだ馴染みが薄いようだ。そのようにキリスト教がザインでない日本的な状況の中で、私は、戦後の無神論的事態がますます加速する中、ゾシマ長老と、その信仰を世俗の人間関係の中で体現しているアリョーシャに非常にひきつけられた。それはイエス・キリストないしキリスト教への関心に結びついて行った。
*これほど面白い小説を成立させることのできる、イエス・キリストとはどういう存在なんだろうという流れです。しかも、ゾシマ・アリョーシャ系により惹きつけられる自分にとっては、以前にも書きましたが、ドストエフスキイの小説群は「イエス・キリストのPR小説」にもなるわけです。私の今現在の考えでは、革命前夜的状況、無神論的精神状況の進行及び現実の政治社会現象ないしそれらを反映した事件、犯罪をまのあたりにした ドストエフスキ−は執筆当時、小説による宗教復権・キリスト教復活を意図したのかもしれないなとも思えるのです。
*少なくともドストエフスキ−の小説群は非常に多様な相貌を呈した人間(円球的人間)が現実に即しても説得的に描かれていますが、その中の幾つかの重要な作品は基調には最も単純化すれば、善と悪、神と悪魔の対決の二元論的対決がありイエス・キリストに流れが昇華されていく。福音書以降、イエスという人間像を最も説得的に展開している書物の一つように私には思われます。
*私自身は善・悪、神・悪魔の対立構図では現状では善・神にひかれるタイプだと考えますし、有り体に言って別のタイプの人間も多々いることは知っています。キリストを信仰するかしないかは、これは、「するか・しないか」の選択の問題になるわけで、非常に重要な部分ではありますが、今後の選択課題と考えています。
*明治以降の日本の近代化にあたり、西欧の経済社会システムを採用するについて、「洋魂洋才」の選択は理論的には自然の流れであり、選択肢の一つとしてあるべきだったと考えます。よって立つ土台としての精神・宗教観の伴わない技術としてのシステムは効率を最優先するため、結果的な急進性・過激化に走るのはある種の必然だと考えるからです。現在日本に於いては、公共・協同組合・福祉といった分野の少なからざる部分がよって立つべき根本の精神を骨肉化出来なかったために崩壊の危機に直面しています。
*私を含めたほとんどの人は、現在キリスト教信者ではないし、ましてやペテロでも聖フランチェスコでもマザー・テレサでもありません。信者的な愛の実践の真の意味も知らなければ、まして実践の責任も負っているわけでもありません。忙しい実社会の中で「自分の頭のハエも追いきらない」というのが、実際でしょう。しかし、ドストエフスキイを介して日本では非常に少数派であるキリスト教やその源のイエス・キリストを学び知ることは人生に意義あることだと考えます。そして自分がなくなるまでは、「するか・しないか」の選択はいつまでも可能なわけです。


カナンの地 カメ 00年12月24日10時38分

     聖書にはカナンの地、エデンの園などときどき出てきますが、
     例えば東京のように、単なる地名ではなく、心の中のことを、
     そのように表現されていると思われます。そのため、表面を
     見ても聖書は良く分からないことが多々あります。例えば、
     屋根に穴を開けて、病人を部屋に入れたりなど、聖書には、
     それを体験として与えられないかぎり、分からないことや、
     また公表することを禁止されていることなどもあります。

     私にとってカナンの地は、拒むことのできない存在です。
     そのことは、神さまもご存知です。

     今日はこのへんで。     


カナン かつこ 00年12月24日05時12分

   >カナンの地を示され何も考えず、ハマッた人間がここにいます。
   >いざ自分の身に起こると、そうでもありません。
   よく意味がわからないのですが、カメさんは現実的にこのような状況におかれているということですか?
   
   エジプトを出発したイスラエル民族でカナンの地に入ることができたのは
   ヨシュアとカレブだけだったです。イスラエル民族を率いたモーセすらカナンの地に
   入れなかったのです。
   もう少し具体的に、カメさんが言われている「カナン」というのが、どういう意味を
   もつのか教えて下さい。
   神様はどうしてもイスラエル民族をとうして、摂理をされて行こうとしました。
   エジプトを脱出して何もないような荒野でイスラエル民族を訓練され信仰の
   基礎を建てて行ったのです。食べ物がない、水がない、エジプトの生活の方が
   よかったと言って不信仰を言ってモーセを困らせました。
   実際カナンの地を目の前にして、モーセが12人の偵察隊をカナンに送ります。
   帰って来た12人のうちヨシュアとカレブだけが信仰的な報告をしました。
   しかし他の者は不信仰の報告をしました。
   (民数記13章25節〜14章38節)
   その後、ヨシュアを中心としたイスラエル民族は神様の前に信仰を立ててカナンの地に
   入っていきましたが、ようするに神様とイスラエル民族が一つになっていたら
   すぐにカナンに入れたのですよ。エジプトからカンナまでの距離は何十年もかかって
   たどりつくような距離ではないのです。いったんカナンの地へ出発したならば
   神様と一つになるまではカナンに入れないです。
   カメさんの言われている「カナン」とはどう言う意味を示しているのですか?
   具体的な場所なのか、それとも理想郷みたいなものなのか?
   大変なことですよ。


ヘブルの民 カメ 00年12月23日21時09分

    信仰には、もう一つのタイプが有ると思います。カナンの地を示され、
    何も考えず、ハマッた人間がここにいます。あのときは、40年か30年で
    60万人のうち2人の合格だったそうです。聖書を読んでいると、簡単
    そうですが、いざ自分の身に起こると、そうでもありません。
    
    ところで、SEXYF.Mさんの詩篇22篇参考になりました。今後
    とも何かありましたら、教えてください。


頼りになるなあ。  地下室人  00年12月23日02時35分

 数多くのアドバイス、ありがとうございます。地下室人です。

 何気ない質問にあまりに多くの返答が帰ってきたので、かえって
戸惑ってしまいました。(笑
 感謝、感謝です。>SEXY F.Mさん、Seigo氏

 SEXY F.M.さん、本を貸していただけるとのことですが、
本当によろしいのでしょうか。年末の忙しい時期ですので、非常に心苦しい
のですが、ぜひ貸していただきたいです。つきましては今回メールアドレスを
書いておきましたので、そちらの方に都合の良い日時、場所等ご連絡をいただ
けるとありがたいです。

 Seigo氏、詳細な情報ありがとうございます。何分原稿用紙十枚程度
の小レポートなのですべての情報を盛り込むとそれだけでいっぱいになって
しまいそうなので、なんとかある程度自分で読んで、取捨選択しなければ
いけませんね。
 「家族会議」、「純粋小説論」、そしてできれば「紋章」は読んでみたいと
思います。よろしければ、他の参考文献を記したメールをこちらのアドレスに
送ってください。時間の許す限り、当たってみたいと思います。

>わがページ内の情報やこのボードを少しでも利用してもらえたのなら、ほんとにうれしいです。

 とのことですが、少しどころの利用ではありませんのでもっと喜んでいただいても
いいくらいですよ。(笑
 ジッドのドストエフスキー論や川喜多八潮の文章も引用させていただいてます。
大変参考になりました。重ねて感謝致します。

 それでは失礼します。  
 


  & Seigo氏 00年12月23日01時10分

       両ボードにほかに書き込みたいことは種々ありますが、
       続きは、また明日(23日)書き込みます。
       
        皆さんから書き込みが続いているキリスト教関係の書き込みなど、
        大いに歓迎していますから、
        各人、その方面の情報や思っていることを、両ボードに、
        思いのまま自由に書き込んでみて下さいね。>皆さん 

         退出。  


  将棋の盤面はここ(=『悪霊』)では円形をしているのです。(横光利一) Seigo氏 00年12月23日00時05分

     >地下室人さん

     卒論の無事提出の完了、お疲れさまでした。作成の過程で、
     わがページ内の情報やこのボードを少しでも利用してもらえたのなら、ほんとにうれしいです。
     さらに卒業に向けてのレポート提出があるとのことで、
     この年末・正月も気が抜けないのでしょうね。

     お尋ねの
      >横光利一のドストエフスキー受容
     に関してですが、
     下でSEXY F.M.さんがさっそく挙げてくれた資料がまず役立ちます。
     その中の、
     『文芸読本 ドストエフスキーU』に所収の
     >横光の「悪霊について」というエッセイ
     には、
      ・ドストエフスキーの小説は二十歳前後に読み飛ばした。
      ・それ以降はドスト氏の作品は読み返すこともなく過ごしてきた。
        (その間、邦訳されている外国のドスト氏論書はいくつか読んだ。)
      ・今回(昭和8年11月)、ある偶然から、ドスト氏の『悪霊』を手にして、
       『悪霊』を初めて読むことになったが、 『悪霊』を読みすすめていくうちに、
       この小説は世界における最高の傑作だと思うようになり、物語をすす
       めていく作者の手法に大いに興味を持った。
     等の貴重な発言が記されています。
      (以前このエッセイを読んだ時、横光氏が、作者ドスト氏の筋の進め方を、将棋
       にたとえているのが、自分は印象に残りました。
        ・『悪霊』では、作者は詰め手がある王手をしながら、いつまでも詰めずに
         逆に逃げてばかりいて、最後には、王を抛(ほう)り放してしまって作は終
         わっている。
        ・将棋の盤面は、『悪霊』では、円形をしている。
       と横光氏は述べています。(う〜ん、円形の将棋盤とは、どういった将棋盤?) )

     さて、その『悪霊』体験の横光氏の創作への影響ですが、
     横光利一研究家の間では、
      その翌年に発表された長編小説『紋章』はドスト氏の『悪霊』の影響下に書かれた
     というのが定説になっているそうです。
       (日置俊次の論文「『紋章』」〔至文堂2000年6月刊『特集 横光利一の世界』に所収〕での指摘。)     
     自分は以前から、『紋章』を収めている筑摩書房の現代日本文學全集36『横光利一集』
     を所持してますが、『紋章』はいまだ読んでいません。そのあらすじを確認した限りで
     は、内容の面では『悪霊』等と共通するものは見受けられないようですが、
     『紋章』における「私」という語り手の存在や役割は、『悪霊』の語り手でありかつ作中の登
     場人物である「私(=G君)」と重なるものがあるようですね。
     SEXY F.M.さんが下で挙げてくれた、
     翌々年に出た横光氏の評論『純粋小説論』では、
     氏の唱える純粋小説(=通俗小説にして純文学である小説)の具体例として、
     ドスト氏の『罪と罰』が挙げられており、
     四人称を導入する小説手法の考えを初め、
     評論『純粋小説論』の形成には、ドスト氏の小説の読書体験や
     ジイドの『ドストエフスキー論』からの影響があることはたしかなようです。
     『紋章』『純粋小説論』のあとには、
      『家族会議』(昭和10年作)、そして大作『旅愁』(昭和12年〜昭和21年作)
     が書かれてますが、『旅愁』はともかくとして、
     小説『家族会議』を読んでみて、ドスト氏の小説の影響はないかどうか、みていくと面白いかもしれません。
     小説『家族会議』は、自分は古書の新潮文庫の分を持っています。(この小説もまだ未読。)
     横光利一氏の小説は、以下のように、
     近年、講談社学芸文庫で、近年、数多く刊行されているようです。
     1992年刊の『紋章』はいまだ市販中か今確認できませんが、
     『家族会議』は先月刊行されていますから、大きな書店なら現在置いてあるでしょう。>地下室人さん
     横光利一の小説に関心のある人は、この講談社学芸文庫の分で読んでみたらいいですね。

         上海 (1991年刊)   紋章 (1992年刊)   寝園 (1992年刊) 
         愛の挨拶・馬車・純粋小説論 (1993年刊)   夜の靴・微笑 (1995年刊)
         旅愁 (1998年刊)   家族会議 (2000年11月刊) 

     なお、横光利一研究家サイドの、横光氏へのドスト氏の影響を論じた論文なら、
     ほかに、三つばかり知っているので、
     必要なら、メールを送ってくれれば、その論文を収めている文献を、折り返し、
     お知らせしますが。>地下室人さん

     それから、
     >大正期前後の日本の作家
     というなら、
     宮澤賢治や浜田廣介へのドスト氏の影響を見ていくのも面白いでしょう。
      (宮澤賢治への影響については、日本大学の清水正氏による指摘が知られていますが、
       宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』の末部の会話は、『カラ兄弟』の中のものを借用している
       と私は見ています。
       浜田廣介の大正年12年作の童話『龍の目の涙』にも『カラ兄弟』の影響が私には感じ
       られました。)

     以上、何か役に立つのなら、参考にしてみて下さい。>地下室人さん
      (>卒業論文のキリーロフについての部分を書きこみ
       を今度してくれるとはありがたいです。
       レポート提出や試験が終わって余裕ができた時にでも、
       どうぞ、お願いしますね。)

       一時退出。


  ここ数日、仕事に追われてました Seigo氏 00年12月22日01時43分

       皆さん、両ボードへの書き込み、まいど、どうも。

       私Seigoは、ここ数日、勤め先の残業が続き、申し訳ないながら、両ボードに書き込む余裕がありませんでした。
       その仕事は今日(21日)の晩に一段落ついたので、
       下でのお尋ねの件については、今晩はもう遅いので、
       遅れますが、私の方からは、明日(22日)の晩方に、
       その情報提供や書き込みをさせてもらいますね。>ルージンさん、卒論を無事提出した地下室人さん
       
         退出します。
             


人生を楽しむこと 真間一 00年12月21日21時18分

ままはじめです。まずはおわびをしなければなりません。私の挑戦的な言葉に傷ついた人へ。すいませんでした。しかしそれでも、暖かい励ましをしていただき、光栄に思っています。「敵を愛せ」とは、このホームページに流れる伝統なのでしょうか。私の一番いけないところは、むちゃくちゃなところです。私にも欠点は多く、あさはかなところも多い。私は神ではありません。すいませんでした。またよろしく。


   smoky さん、SEXY F.M.さんへ あさの 00年12月21日20時11分

   「生の歓びをもっと知るべきだ」と言う smoky さん、
   「微笑みをもて正義をなせ」と言うSEXY F.M.さん
   表現は違ってもお二人の言いたいことは伝わってきたように思います。
   「情けは人のためならず」と言いますが、正に自分自身の歓びのために
   人の歓びに役立てればこんなにいいことはないですね。
   アリョーシャもイエスのカナでの最初の奇蹟が好きだと言ってましたし。。。


微笑みをもて正義をなせ SEXY F.M. 00年12月21日19時00分

「断食をしている時には、偽善者のように陰気な顔つきをしてはならない。彼らは断食をし
ていることを人に見せようとして、顔を洗わず、髭をそらず、わざと顔を見苦しくするので
ある。アーメン、わたしは言う、彼らは褒められた時、すでに褒美をもらっている。あなた
が断食をするときは、頭に油をぬり、顔を洗いなさい。これは断食をしていることを人に見
せず、隠れた所においでになるあなたの父上に、見ていただくためである。そうすれば、隠
れたことを見ておられるあなたの父上は、褒美をくださるであろう」(マタイ6章16−18
節『福音書』塚本虎二訳・岩波文庫)

 氷室京介の歌に、「不器用さを器用に振舞う愚かなロマンチストたち」という歌詞があっ
て、グサッときたことがあります。僕もどこかで、自分の不器用さに酔う愚かなロマンチス
トだったことが、しばしばあるからです。
 真間さんの預言者的な憤りは貴いものだと思います。感じることも考えることも知らず、
「楽しければいいじゃん」などとヌケヌケと言い放ち、のうのうと暮らしている大多数の愚
民どもに較べれば、真間さん圧倒的に義しい人だと思います。その憤りをいつまでも忘れな
いでいて欲しいと思います。
 僕もドストエフスキーの、

「キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である。地上の人性
の掟がこれをしばり、自我が邪魔をする……人間はこの地上で、自身の本性に反した理想(自
他への愛を融合させたキリスト)を追求している。そして、この理想追求の掟を守れないと
き、つまり、愛によって自身の自我を人々のために、他者のために犠牲に供しえないとき、
人間は苦悩を感じ、この状態を罪と名づける。そこで人間はたえず苦悩を感じていなければ
ならず、その苦悩が、掟の守られた天上のよろこび、すなわち犠牲と釣り合うのである。こ
こにこそ地上的な均衡がある。でなければ、この地上は無意味になるだろう」

 という苦悩哲学に惹かれ、彼の真骨頂は、神の信仰を高らかに謳い上げたことにあるので
はなく、信仰と不信の端境で苦しみ続けたことにあると思っています。
 けれども、それは人前で苦悩を曝してみせることや、ましてや他人に苦悩を強要すること
を意味するとは思いません。馬鹿が多いのは確かですが、心ある人も少なからずいます。こ
この掲示板に書き込んでいるような人は、僕は相当魂のレベルも高い人たちだと思っていま
す。よそのHPと見ると、無法地帯と化していたり、廃墟と化していたりで、殺伐とした気
分にさせられ、このページの品のある雰囲気にほっとさせられます。このページの登場人物
では、僕が一番下品といってもいいでしょう。みなさん、それぞれの悩みや悲しみや矛盾を
抱えて、それでもそれを人に見せず、ぐっと堪えて、快活に生きていられるのだと思います。
そして、それこそ本当の自己犠牲というものではないでしょうか。人に自分の苦悩を見せび
らかすなんていうのは、何か悲愴な昂揚を味わえるし、結構気持ちのいいもので、しかも大
して苦労せずに出来ることですから。
 冒頭に挙げたイエスの言葉は、正義をなそうという程の者なら、くれぐれも心得ておくべ
き大切な思想だと思います。ドストエフスキーも、一生懐疑に苛まれた一方、また、楽しむ
ことも知っている人でした。イエスだって、娼婦と仲良くしたり、仲間と酒を飲んだりと、
なかなかの粋人です。ゲッセマネやゴルゴダだけ見ていたのでは、イエスの言葉をしっかり
と理解することは出来ないのではないかと思います。彼は、飛び抜けたユーモアのセンスを
持っていて、だからあれ程までに人びとに愛されたのだと思います。彼が闘ったのは、何と
言っても、人びとと共に喜ぶためであったのだと思います。
 理想は、それがどんなに素晴らしい理想でも、他人と共有されなかったら、それは結局理
想の名に値しません。言葉が他者と共有されてはじめて意味を持つように、他人と共有され
て、はじめて理想は理想となるのです。「初めに言があった。言は神とともにあった。言は
神であった」とは、このことを言っているのだと僕は思っています。言葉、そして理想の本
質的な共同性に思い至った時、人は理性的にも神を看取することが出来るのかも知れません。
 何か高い理想を心に持っているのであればそれだけ、他人と共に喜ぶことを諦めてはいけ
ません。もろともに苦悩するのは、むしろ楽なことです。共に喜ぶことを求めることこそ、
本当に骨の折れる、困難な仕事のはずです。
 小説は見させて頂きました。内容についてはともかく、これだけのこと書くからには、言
いたいことが山程ある人なのだろうし、書きたいという気持ちも並々ならず持っている人な
のだと思いました。その気持ちと、そして、何より言葉を大切にして、これからも書き続け
ていけば、いつか傑作が書けるかも知れません。期待しています。
 何か偉そうなことばかり書いてしまいました。それも真間さんの憤りが他人事と思えなっ
たからです。ドストエフスキー読んで、自分の義憤なんだか私憤なんだか分からない気持ち
を彼に仮託して、内心、自分が一番ドストエフスキーのことを分かっているつもりになって、
他人の感想にいちいちチャチャを入れる、僕もこのページで、いままでそんなことばかりや
って、皆さんに迷惑を掛けてきました。自己愛と世界愛がごっちゃになった、青臭いファン
心理ですが、僕はそれでも、その情熱は貴いと思います。若くして落着き払っているような
やつより、青い暴走をしてしまう若者の方がずっと好きだし、ものになる、というようなこ
とを、『カラマーゾフ』でドストエフスキーも書いてましたよね。笑われたっていいから、
突き進んでいって欲しいです。


   そうですね、まずはできることから あさの 00年12月21日18時15分

     あさのです、こんばんは。最近Seigoさんは忙しいのでしょうか。
     真間さんの実体験を踏まえた言葉には重みを感じるし、強く共感を覚えます。その通りだと思います。
   僕はぬくぬくと生きている人間なので、お気楽楽観主義になってしまいがちだと思います。アフリカに行
   って活動することはできなくても、それこそ障害者教育の現場のお手伝いをするとか身近な困っている人
   の相談にのったりして愛を実行すればもっとずっと実感を伴った感想が得られるだろうと思います。
     僕自身が僕なりに困難な境遇になった時、人の親切を受けたことによってかえってみじめな気分にな
   ったこともあります。「善は100%行われなければ意味がない」(河合隼雄)たいへん厳しい言葉です
   が、自分が善を行おうとする時には常に心に留めておこうと思ってます。
     また実行の愛は地味で忍耐の要るものではありますが、喜んでそれらを行わなければ良い結果をもた
   らさないとも感じます。そういう意味でも100%でないと。まずは僕でもできる身近な小さなことから
   始めていこうと思います。


あさのさんへ2 真間一 00年12月21日02時27分

結論が「実行的な愛」ならば、私はあなたにしたがいましょう。「実行的な愛」を実行すれば、矛盾の前に立たされることは明白である。たとえば知的障害者の教育をやるとする。現場は矛盾だらけだ。「健康に近づけよう」という考え方もある。反対に「障害者はありのままでよい」という考え方もある。「健康に近づけよう」という人は、トイレのしかたや食事の仕方、着替えを訓練する。体罰も使う。そして健康な人と同じ行動ができるよになると、親も喜ぶ。しかし「ありのままでよい」という考え方も必要で、そう考えないと差別になってしまう。健康という価値がすべてではないからだ。現場は混乱し、苦しみの中に実践が行われる。理論も混乱しており、救いがたい矛盾に陥っている。それでも障害者とのつながりを楽しんで歩く。楽しいばかりでなく、心を痛めるときもある。「神を信じれば道が開ける」という論理は通用するときとしないときがある。ドストエフスキーの作品は「矛盾」を描いた。だから十字架に近づいた。だから人の心をうつのだ。まさしく「実行的な愛」をするべきです。もちろん自分が崩壊しないていどに。あさのさんが「実行的な愛」を実行し、発狂したらたいへんだ。できることからやりましょう。おたがいに。ちなみに私は、アフリカやユーゴにはいかなかったが、大崩壊してしまいました。笑ってください。


『裕福な人びと』 SEXY F.M. 00年12月21日01時21分

 真間さんの義憤は多分真実なものなのだろうと思います。僕もあんまり気楽に「神」とか
「愛」とか口にする人を目にすると、「自衛隊に入って根性叩きなおしてこい!」と訳の分
からない怒りを感じてしまうことがママあります。
 ただ、本当に真間さんが世界中の飢えた人びとの苦しみを自分のものとし、どうにかした
いと考えているのなら、どうにかすればいいのです。シュバイツァーとか、マザー・テレサ
とか、お手本は少ないながらもあるのだから、明日にでもアフリカにでもユーゴにでも行け
ばいいのです。
 けれど、それが出来ないのなら、それほど声高に同朋を非難することも出来ないでしょう。
つまるところ、義人を気取るために、どこか遠くの不幸な人々をダシにしているということ
になりかねません。目の前にいる人を嫌な気分にしてまで追求されなければならないような
理想なんてそうそうあるものではないし、また、人がそれほどの義憤を持つに値することも
そうそうあるものではないでしょう。
 現代の日本は物質的に恵まれた人が多いのだから、そのことを教条主義的に批判するので
はなく、その恵まれた環境をいかに引き受けていくかということを考えるのが、「現実的」
なことではないでしょうか。この国に生まれてしまった僕たちは、ある意味、否応なく恵ま
れているのです。金持ちの家に生まれた子供に、その環境を呪え、というような洗脳をいく
らしたって、おそらく、それはよい結果より、悪い結果を齎すことにしかならないでしょう。
 人は自らの意志で飢餓に陥るわけではないように、自らの意志で裕福になるというばかり
でもありません。世界にある貧富の問題は、常に人類に突きつけられた「呪われた問題」で
す。わが飽食に憤りを感じている真間さんは「悔い改めた貴族」と言えるでしょう。
 いまの生活水準を放り出したいのなら、放り出すことはいつでも出来ます。それは真間さ
んの自由です。しかし僕にはいまのところその気はない。本当に他者の苦しみを自分の苦し
みと出来るかどうかも疑問です。我々の「裕福である」という運命をどう引き受けていくの
か、それが恵まれた生まれてしまった人間の務めではないかとも思います。


真間一さん、あさのさんへ smoky 00年12月21日01時14分

   お二人の対話を興味深く拝見しました。
   真間一さんのダイレクトな書き込みは、これも誠実さの現れだったんですね。
   謎が少し解けました。
   さて、お二人の対話に対して、僕なりの問題提起をさせてください。

   真間一さんwrote:
   >世界では8億人の人が飢えています。まさかごちそうを食べながら、
   >「苦しみのあとの肯定はよいものだ」なんて、インチキはしないでくれ。

   なるほど、と思いましたし、僕なりに共感もしました。
   しかし僕としては、その逆に、もっともっと人は人生の歓びを知るべきだとも思います。
   たとえば、僕は〈残念ながら、あまりそういう経験は少ないのですが〉
   グランドシャンパーニュのコニャックを飲んだときには
   「・・・こ、こ、こんなうまい酒があったのか、今日まで生きてて良かった。
    生きてるって素晴らしい!そしてこの酒を、あいつにも飲ませてやりたいな!」
   と思ったり、素晴らしい音楽を聴いたときには
   「・・・耳が遠くなる前にこの音楽に出会えて良かった。。。
    この音楽を今日ここで僕に聞かせしめた、この世界のすべてに感謝したい!」
   とか思ったりもします。
   僕としては、こういう時間をこれからももっと増やしたいと考えています。
   自分が生の歓びを具体的に感じることも、結構必要なことではないでしょうか。
   「カラマーゾフ万歳!」からは、そんなことも読みとれるような気がします。   


   真間さんへ あさの 00年12月20日23時53分

     真間さん、ありがとうございます。しかし、誉められると嬉しいと同時に心苦しくもあり
   ます。というのは、今すぐ手軽に人に誉められたいという「空想の愛」によって行動している
   のではないか、という疑惑を払拭できないでいるからなのです。「カラ兄弟」の登場人物中で
   僕が最も心の底から共感できる人は他ならぬ「信仰のうすい貴婦人」なのです。
     たちの悪い偽善者を赦すことは難しいですが、幸福な人々の愚かさはその幸福さに免じて
   赦すべきなのではないかと思います。僕自身が偽善的な要素を払拭できないでいるからそう考
   えているだけなのかもしれませんが。。。。結局世界を救うのは地味で忍耐のいる「実行の愛」
   なのでしょう。


あさのさんへ 真間一 00年12月20日23時23分

あさのさんの書きこみは非常に誠実でした。もし世界があさのさんのような人ばかりならば、私も悪役を買って出る必要はありません。「苦しみの人にこころから共感しながら、しかし最後は肯定する。それは決して楽観主義の肯定ではない」。そのとうりです!ところが口先では「苦しみに共感する」と言いながら、実は共感せず、単なる楽観主義の肯定になっている連中が多い。苦しみに共感してください。世界では8億人の人が飢えています。まさかごちそうを食べながら、「苦しみのあとの肯定はよいものだ」なんて、インチキはしないでくれ。おねがいです。「血しおしたたる、主のみかしら。とげにさされし、主のみかしら。悩みと恥にやつれし主を、われはかしこみ、君とあおぐ。主よ主のもとに帰る日まで、十字架のかげに立たせたまえ」。私の好きな賛美歌です。「十字架のかげ」に立ちましょう。「矛盾」のかげに。苦しみを、それが他人のものであれ、苦しみを苦しむこと。


 肯定と肯定 あさの 00年12月20日18時56分

     「起こったことは全て良いことである」という考え方は2つの観点からなされるように思います。
   一つは世界の悲しみを認識しないで済んだ楽観主義の観点、もう一つは世界のあらゆる苦悩に共感しつつ
   全てが救済の対象であると認識するに至った地点からの観点です。後者は smoky さんの表現を借りれば
   「境地としての自由」ですね。
     先日引用した「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」の文章も主人公の死ぬ直前の言葉なのです。
   極限的な状況で述べられた言葉でなければ上滑りな楽観主義的印象を与えたかもしれません。
   周囲の人々から愛され、「自分は人から侮辱を受けるようなことは決してないと心から確信していた」
   アリョーシャは世界に対する無邪気な信頼によって信仰を支えられていた部分もあったと思います。
   しかし、ゾシマの腐臭騒ぎという厳しい現実に接し、そこを乗り越えたからこそ彼は現実に耐えうる強い
   信仰を獲得できたのではないかと思います。以前はるこさんが「カラ兄弟には極限の偏在とその乗り越え
   が書かれている」と書いてましたが、それはこの「ガラリアのカナ」におけるアリョーシャのことで
   はないかと思います。どうでしょうか?


巨大な自己肯定でなく、矛盾のなかを歩く 真間一 00年12月20日18時05分

この世界には、神への不信を持たないで済んだ「恵まれた人間」ばかりではない。神を呪うほど悲惨な状況のなかにいる「不幸な人間」もいるし、そのような「人間」も理解することが必要だ。「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか」という言葉は、神の側と人間の側の両方に立つことのできた人の言葉である。神の忠実な犬となり「人間」を裏切った人は、いずれ神からも捨てられるだろう。


生きていることを素晴らしいと感じることが罪ではないという考えを心に深く持っている者たちのために SEXY F.M. 00年12月20日02時07分

 地下室人さん、こんばんは。
 横光のドストエフスキー受容に関しては、『近代日本文学とドストエフスキー』木下豊房
(成文社)で触れられています。同書によれば、横光のドストエフスキー受容の最も端的な
現れは、昭和10年に書かれた『純粋小説論』(『現代日本文学論争史』)という小説論だと
いうことです。ちなみに、木下豊房先生は、「ドストエーフスキイの会」のメンバーですの
で、「ドスト会」の例会に出ればお会いできると思います。
 また、『文芸読本 ドストエフスキーU』(河出書房新社)には、横光の「悪霊について」
というエッセイも収録されています。
 これらの本、探すのが大変なようだったら、お貸ししますよ(もしよければ、ですが)。

 ルージンさん、こんばんは。
 『分身』を論じたものとしては、『ドストエフスキイの方法』新谷敬三郎(海燕書房)所
収の「合わせ鏡の中の自分――『分身』について――」という論文が、他者性、関係性とい
うものの認識を軸に『分身』を考察していて、僕にはとても面白かったです。この本の帯に
はこんな言葉があります。
「言葉の意味とはモノと私とあなたの三者の関係の位置解析である」
 この言葉を念頭に『分身』を読んでいくのも面白いかと思います。
 また、直接『分身』を論じたものではないのですが、フロイトの『芸術論』高橋義孝・池
田紘一訳(改訂版フロイド選集第七巻・日本教文社)所収の「不気味なもの」という論文も
参考になると思います。これはドストエフスキーが「分身」というアイディアを得るのに決
定的影響を受けたであろうホフマンを主に論じたもので、たとえば、「自我批評に不快な内
容のみがドッペルゲンガー(分身)になすりつけられるのではなくて、空想がいまだにそれ
に執着しているところ、実現されることのなかった運命形成の一切の可能性、また外的な不
運によって貫徹されなかったところの一切の自我の目標、同様にまた意志の自由という錯覚
を生んだところのあらゆる抑圧された意志決定も、同じくこのドッペルゲンガーに委譲され
るのである」など、ドストエフスキーの『分身』を読む上でも非常に示唆的な考察に満ちて
います。ちなみにこの本には、有名な論文「ドストエフスキーと父親殺し」も収録されてい
ます。
 あと、『分身』に影響を与えたと思われる先行作品、たとえばゴーゴリの『鼻』『狂人日記』、
ポーの『ウィリアム・ウィリアムスン』、ホフマンの『大晦日の夜の冒険(映像を売った男)』、
シャミッソーの『影をなくした男(ペーター・シュレミール』などと読み較べてみるのもま
た面白いと思います。


わかりました かつこ 00年12月20日00時33分

   そうですか旧約聖書詩篇第22章が、そういった意味があるとは知りませんでした。
   とにかく十字架上での信仰はゆるぎないものだということですね。
   
   出エジプト記7章8節〜13節に二匹の蛇が出てきます。
   聖書にも多くの個所に蛇が登場しますが、悪の象徴の蛇も登場し、
   善の象徴の蛇も登場します。


グノーシス  岩手のGO  00年12月19日23時17分

自分もグノーシスについてはよく知らなかったのですが、その構図をよく見ると
殆ど曼荼羅の世界ですね。それと少々稚拙ですが・・・かのウルトラマンも、グ
ノーシス主義の影響を受けて製作されたような話しを聞いたことがありますよ(^^;

例えば・・・。

>人間は,本来神の内にあったが何らかの偶然によって地上に転落し,身体の中に
>閉じ込められて,自己と異質な物質世界に投げ出されている。

>人間は覚醒する――その際〈知識〉の啓示者が登場することが多い。すると魂は
>身体を脱却し,神のもとへと帰還の旅を続けて,敵対する星辰神の領域をも通過
>し,やがて至高神の内に入って再び神となる。

そそ!これは↑まさしくウルトラマンです(^^;

で蛇の扱いについてですが、エデンの蛇もグノーシスの蛇も良い意味、悪い意味、
どちらとしても知識あるものとして扱われていますね。原始的での蛇は元々、余分
なものを全て排除した理想の姿として崇められていたと聞きます。幾分東洋的では
あるけど、太極拳みたいな”円思想”に近いものであったのでしょう。

つまり元々人間より秀でていたものが蛇であった為、誘惑者として、もしくは賢者
として常に人間の前にいたのです。

川の連なりを見て、蛇を想像したのは日本人だけではないのです。川があって文明
が栄え、宗教が生まれた。民俗学的に全ての元に蛇の存在があったのは否定できま
せん。日本に於いては、現代おける今でも毎年の正月、どの家でも蛇を飾る習慣が
あるほど蛇は神的な位置にいるのに、キリスト教では”誘惑者”のレッテルを貼ら
れている事こそが自分には解せない・・・うっ!と・・・ドス氏とまったく関係無
くなってしまいました、すみませんです(^^;


多神教  岩手のGO  00年12月19日23時04分

>神様は そこの石の上にも そこの石のなかにも 空に浮んだ 雲にも
>道端の 街路樹にも いる。

自分はギリシア神話とか八百万の神々とか好きだなぁ。昔の人が、全
てのものを慈しみ愛し大事にした気持が出ている宗教観だと思うよ(^^;


『かみさま』 しょしんしゃ 00年12月19日09時32分

* 神様は 権威が あっては いけない。権威があっては 強制があっては・・神様ではない。*

神様は 権威が あっては いけない。 権威があっては 強制があっては ・・神様ではない。
神様は あまあーーーく とろけるように やさしく
自分に とって 地球人のなかの 誰にも どんなものにも なんによってでも
癒されなかった 癒すことが 不可能だった 自分のこころを
癒してくれる・・・それが 神様。
無限色 であり 夢幻色である。
なんーーーーーーーーっと きれいなの??!!。
なんーーーーーーーーっと うつくしいの??!!。
そ・・れ・・が・・・・・・か・み・さ・ま 。。。!!。。。

神様は そこの石の上にも そこの石のなかにも 空に浮んだ 雲にも
道端の 街路樹にも いる。
ひょっとして 地球上の人間の数よりも 多いのかもしれない。

密度は ずいぶん 違う。地球上の人間すべてを あわしたよりも
大きい。いや・・・なんといったら よいのか・・はかれない
存在しない 数 表現なのかもしれない。

オーーー マイ ゴホオオッド 〜〜〜〜〜〜〜〜!!。

ワタシノ マワリニ イツモ イテクダサイ。

・・・・・・ おわり わたくしてき 神論 ・・・・・・


謝辞 地下室人 00年12月19日07時41分


 おかげさまで、卒業論文を提出することが出来ました。地下室人です。

 卒業論文が終わったばかりでまた、と思われるかもしれませんが、
再び質問させていただきます。

 一月提出のレポートに横光利一の授業のものがあります。
テーマはほぼ自由なので、自分は「横光利一のドストエフスキー受容」
というテーマで書きたいと思っています。ページ内を調べてみたところ、
ページ「ドスト氏の後世への影響」のところでも「悪霊」の手法について多少
言及があるのみで、どの作品に影響が見られるのかまではわかりませんでした。

 出来れば、その作品名を教えていただければありがたいです。もし具体的に
語られている文献がないようでしたら、個人的にこの作品なんか影響が
あるんじゃないか、というものでも結構です。
 また、大正期前後の日本の作家ならば誰を扱ってもいいことになっているので、
他の人でも構いません。よろしくお願いします。

 ずうずうしいお願いをして申し訳ありません。このお礼、と言ってはなんですが、
今この掲示板ではキリーロフについて語られているようですので、今度、
卒業論文のキリーロフについての部分を書きこみたいと思います。

 それまで議論が続いているといいのですが…。なお、キリーロフの人神論を
具体的に解読しようと試みておりますので、僕なりの読み方ではありますが、
Seigo氏のご期待に多少は応えられるのではないかと勝手に思っております。

 それでは、よろしくおねがいします。


 え?ちょっとは自分で調べたらどうだって?…あはは。


旧約詩篇第二二篇 SEXY F.M. 00年12月19日02時15分

>「わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

 このイエスの言葉は、これだけ見るとイエスの絶望の断末魔のように思われますが、聖書
学者の間では、これは旧約詩篇第二二篇の冒頭の言葉をイエスが口にしたものと解釈されて
いるようです。
 そしてその詩篇二二の全文は以下のようになっています。

「わが神、わが神、
 なにゆえわたしを捨てられるのですか。
 なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
 わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
 わが神よ、わたしが昼よばわっても、
 あなたは答えられず、
 夜よばわっても平安を得ません。
 しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる
 あなたは聖なるおかたです。
 われらの先祖たちはあなたに信頼しました。
 彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。
 彼らはあなたに呼ばわって救われ、
 あなたに信頼して恥をうけなかったのです。
 しかし、わたしは虫であって、人ではない。
 人にそしられ、民に侮られる。
 すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、
 くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、
 「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。
  主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。
 しかし、あなたはわたしを生まれさせ、
 母のふところにわたしを安らかに守られた方です。
 わたしは生まれた時から、あなたにゆだねられたました。
 母の胎を出てからこのかた、
 あなたはわたしの神でいらせられました。
 わたしを遠く離れないでください。
 悩みが近づき、助ける者がないのです。
 多くの雄牛はわたしを取り巻き、
 バシャンの強い雄牛はわたしを囲み、
 かき裂き、ほえたけるようにししのように、
 わたしにむかって口を開く。
 わたしは水のように注ぎ出され、
 わたしの骨はことごとくはずれ、
 わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで熔けた。
 わたしの力は陶器の破片のようにかわき、
 わたしの舌はあごにつく。
 あなたはわたしを死のちりに伏させられる。
 まことに、犬はわたしをめぐり、
 悪を行う者の群れがわたしを囲んで、
 わたしの手と足を刺し貫いた。
 わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。
 彼らは目をとめて、わたしを見る。
 彼らは互いにわたしの衣服を分け、
 わたしの着物をくじ引きにする。
 しかし主よ、遠く離れないでください。
 わが力よ、速く来てわたしをお助けください。
 わたしの魂をつるぎから、
 わたしのいのちを犬の力から助け出してください。
 わたしをししの口から、
 苦しむわが魂を野牛の角から救い出してください。
 わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、
 会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。
 主を恐れる者よ、主よほめたたえよ。
 ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。
 イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。
 主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、
 またこれにみ顔を隠すことなく、
 その叫ぶときに聞かれたからである。
 大いなる会衆の中で、
 わたしはひとりわびしく苦しんでいるのです。
 わたしの心の悩みをゆるめ、
 わたしを苦しみから引き出してください。
 わたしの苦しみを悩みをかえりみ、
 わたしのすべての罪をおゆるしください。
 わたしの敵がいかに多く、
 かつ激しい憎しみをもって
 わたしを憎んでいるかをごらんください。
 わたしの魂を守り、わたしをお助けください。
 わたしをはずかしめないでください。
 わたしはあなたに寄り頼んでいます。
 どうか、誠実と潔白とが、
 わたしを守ってくれるように。
 わたしはあなたを待ち望んでいます。
 神よ、イスラエルをあがない、
 すべての悩みから救いだしてください」

 お読みになると分かるように、これは数多の苦難に堪え、それに打ち勝ち、その苦難によ
って鍛えられた信仰の強さを謳い上げたものです。当時のユダヤ人は詩篇をあらかた暗記し
ていて、とくにこの第二二篇は有名なものだったらしく、冒頭の「わが神、わが神、なにゆ
えわたしを捨てられるのですか」というフレーズを聞いただけで、あたかも現代人が「イマ
ジン」のイントロを聴いただけでラヴ&ピースな気分になるように、そのラストの高らかに
信仰を謳い上げるところまでを想起したそうです。
 だからイエスの「わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という十字
架上の言葉は、絶望の呻きではなく、自らの揺るがぬ信仰を詩篇二二に託して謳い上げよう
としたものだと受け止めるべきもののようです。
   
 ……今日はまた、いつもにも増してたくさん書き込み、疲れ果ててしまいました。
 では、おやすみなさい。 


  適量の酒もまた仇ならずですな。 ルージン 00年12月19日01時06分

     こんばんは、Seigoさん、みなさん。

     標題にあるとおり、『分身』を読みはじめました。12月は『ゴリオ爺さん』を
     読むつもりでしたが、『レ・ミゼラブル』を読み終えた後、心的飽和状態に
     なりまして、少々映画三昧の数週間を過ごしました。
     そんな中、先のSEXY.F.M.さんの『貧しき人びと』に関する投稿のなかの、
     ゴリャートキン氏というドスト小説を語る上では欠くことができない名キャラ
     に興味をおぼえたことや、以前、私が『貧しき人びと』について木村浩氏と
     江川卓氏の解説を、よく読みもしないのに同じように考えてしまったことを
     反省したこともありまして、この機会に久々のドスト作品『分身』(ドストエフ
     スキー全集1所収の江川訳)と、『ドストエフスキー』江川卓著(岩波新書)
     を読みはじめました。
     ドストエフスキー全集の手触りといい、ドスト作品の独特の文体といい、
     たかだか半年のブランクしかないのに妙に懐かしい気がしています。

     現在、第4章を読んでいますが、第2章にある他人といざ顔を突き合わせ
     ると途方に暮れてしまい、自己を卑下してしまうヤコフ・ペトローヴィチ・
     ゴリャートキン氏と、クレスチヤン・イワーノヴィチ・ルーテンシュピッツ医師
     とのやりとりはおもしろいですね。
     クララ・オルスーフィエヴナ嬢の誕生日にあたった晩餐会の様子を述べるに
     あたり、作者がプーシキンに対して謙遜している箇所は、ゴリャートキン氏
     のことがどこかへ飛んでいってしまっていますが、クララ嬢とゴリャートキン
     氏の運命の分岐点が描かれているので、ここは油断せずに読もうと思い
     ます。

     いつもいつも、ボード上で話題になっていることと外れたことばかり、投稿
     して、恐縮ですが、『分身』を読む上で、ある程度ネタがわれてもけっこうです
     ので、アドバイスがありましたら、お願いいたします。>『分身』を読んだ方々

       ***

     (上の話題と、がらりと変わって、またまた恐縮ですが…)

     『白痴』といえば、『ドン・キホーテ』との関わりをよく指摘されますが、
     『レ・ミゼラブル』と『白痴』の内容について本格的に論じられることはないのか、
     ひょっとして論じられている書評があるならば、それは誰の書評か、
     教えていただきたいのです。無いならば無いで、いいのですが…
     『白痴』の執筆動機を著したドスト氏の書簡で、ジャン・ヴァルジャンに触れら
     れていることを、引用している書評はけっこうあるように見受けられますね。

     では。


SEXYF.Mさんへ 真間一 00年12月19日00時57分

グノーシスについて発表していただき、ありがとうございました。私もくわしく知りませんでしたので、勉強になりました。私の友人は私の作品の中の「未来の神」がグノーシスににていると言うんですが、そんなことはありません。というのも、私はこの宇宙の悪いところは否定するが、よいところは肯定しますので、全面否定などできません。「この宇宙に生まれてきてよかった」と思っているので、キリーロフのように自殺する人を見ると、ついつい「グノーシスくさいなあ」と思ってしまったのです。すいません。なお、私の作品は真間一で検索すれば読めます。幼稚な作品ですが。「宗教哲学」という小説が一番人気があるのでよかったらどうぞ。smokyさんもぜひ読んでください。「宗教哲学第二話こずえ」などを読んでいただけると、誤解が解けると思います。ではまた。


グノーシス主義 かつこ 00年12月19日00時50分

   はじめまして SEXY.FMさん
   「グノーシス主義」ですか、大変おもしろいですね。
   イエス様は悪の主体のことを「サタン」とはってきり言われているのですけど
   人間が霊と肉体で創造されているとします。
   イエス様が生まれた以降、人間は努力すれば霊的な救済は可能ですが
   依然と肉体へ入ってくる「サタン」←(霊的な存在)によって
   肉体の救済は不可能です。信仰の道はまず自身の肉体の否定からです。
   
   参考ですが(マタイによる福音書23章33節)
        (ヨハネによる福音書8章44節)

   はじめまして真間さん
   わたしもドストエフスキーの神観をしりたいのですが
   ロシア正教の信仰をもっていたのですか?

   >「わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
   イエス様は救い主として生まれましたが
   完全に目的がはたせなかったからだと思いますが。

   SMOKYさん今晩は
   自由をあまり深く考えたことがないのですが
   私は、非常に自分自身に対して恨みをもっていた人間でした。
   自分は罪から解放されることが自由だと漠然と思ってきましたが・・
   あと自分の中に完全に近い愛、絶対的な愛、真実に近い愛を
   感じる時にとても開放感というのか自由を感じます。
   ドストエフスキーはどんな自由観をもっていたのでしょうか?   


透明な大地 smoky 00年12月18日23時55分

こんばんは、smokyです。

僕は、沢山書き込みすぎると往々にして支離滅裂な文章になってしまうのです。
ああっ、自分のスタミナの無さが恨めしい。。
集中力を高めたり、それを維持するための有効な方法はないのでしょうか。
何かあったら教えてください。「ブランデンブルク協奏曲を聴くと頭がすっきりして
考えがまとまりやすい」ということを聞いたことがあります。試してみようかな。
反対に、ハードディスクの音って、思考には絶対良くないような気がします。

そんなわけで無用の誤解を避けるためにも、反応が遅くなってしまいました。
僕の書き込みペースはきっとこんなものなので、どうぞご理解の程よろしくお願いします。

真間一 さんwrote:
>神との両思いは幸福であり、清らかなエクスタシーだと思いますが、
>それならばなぜ「現代人」はそのような幸福を捨てたのか

教義の問題だと思います。ほとんどの現代人はおそらく、神の存在を疑ってはいない
と思いますが、そこには教義がない。教義というのは、例えは悪いかも知れませんが
方程式のようなものだと僕は考えています。必ず既存の方程式を利用しなければ
答えが見つからないとは言えませんが、限られた時間のなかで試行錯誤を繰り返しながら
闇の中に潜む、いくつかの矛盾のない方程式を探し出すことは難しいでしょう。
僕は、過去のすぐれた思想家や、科学者、音楽家などは、膨大な仮定法と消去法により
これらの方程式を発見した人たちだと思っています。
だから、ほとんどの現代人は何となくその存在を感じてはいるんだけど
(あるいは、感じようとしているんだけど)
よっぽど運が良くなければ、明確な答えが出ない。
では、良くできた方程式があってもなかなか答えが出ないのはなぜか、
それは、一度も答えを見たことがないために、懐疑は拭えず
ほとんどの人がその方程式を利用しようという気などないからだと考えます。
いくら答えを見た人が、「答えは出るよ」といっても
それはやはり他者の胸の内、確認のしようはなく、
その不信感は簡単に埋まるものではないでしょう。
譬えるならば、自分の目には、目の前が切り立った崖に見える
しかし、その先には目に見えない透明な大地がある、という状況のなかで
命がけの飛躍をするようなものではないでしょうか。
(映画「インディジョーンズ 最後の聖戦」でもこんな譬えがありましたよね)

それから、神の存在を証明することが出来ないように、その不存在さえも証明することは
出来ないのではないでしょうか。キリーロフの自殺について意見交換が行われていますが
肉体的死を神が阻止しなかったからといって、それが不存在の証明になるとは思われません。
我々は必ず肉体的死を迎えますが、精神の救済がないとどうして言えるでしょうか。
僕としてはむしろ、それが目に見えるような形などで行われないからこそ
生も死も、高尚なのだと思います。
神の存在を考えるなら、「死とは何か」ということから見つめ直す必要があるように思われます。

そして最後となりましたが、それが倫理的である限り、
他者の信仰は尊重されるべきだとも考えております。
不完全な人間である限り、(答えが出たといっても)信仰もまた不完全でしょう。
(完璧に信仰している、というのは盲信であり、やはり危険ですよね)
もしかしたらこの信仰は幻想なのかも知れない、という懐疑は常につきまとうでしょう。
それでも、信念を持って生きる人は幸せであり、その神が本物であるならば
異教の者も、不信の者も、必ず救おうとするはずだし、救うに違いない
と僕は信じています。それが絶対者としての、絶対条件だと思います。


グノーシス主義とは何か?――平凡社百科事典から引用 SEXY F.M. 00年12月18日21時08分

グノーシス主義
【総説】 キリスト教と同時期に地中海世界で興った宗教思想運動。〈グノーシス gnosis〉
はギリシア語で知識を意味するが,ヘレニズム宗教思想の場合意味が限定され,人間を救済
に導く究極の知識をさす。
 グノーシス主義もこの流れに属するが,それと別に既成の世界に対する鋭い批判を含んで
いる。この思想運動は後1世紀のローマ帝国辺境に興り,2〜3世紀に最盛期を迎える中で
次々と新しいセクトを生んだ(ただし,しばしば誤解されるようにキリスト教の分派〈異端〉
としてではなく,独立に成立した)。発生地域はローマ辺境すなわち地中海沿岸のエジプト,
シリア・パレスティナ,小アジアにほぼ限られている。こうしてグノーシス主義はキリスト
教やギリシア哲学諸派との間に緊張を引き起こすことになり,当時の思想界に少なからぬ衝
撃を与えた。しかし4世紀以降一部を除いて急速に衰える。そもそも当初から運動の主体は
知識人であり,大衆層に根をおろすことにはあまり成功しなかったようである。
 グノーシス主義の作品といえる図像は残存しておらず,他面(文盲者には理解できない)文
書は多大な量が執筆された。現代のグノーシス研究に大きな刺激となったナグ・ハマディ文
書(ナグ・ハマディ)が,20世紀中葉に上エジプトで発見されたのもこれと関連する。このよ
うな著作活動に見られる特徴の一つは,グノーシス主義者が活発に神話を創作したことであ
る。
[神話] グノーシス神話は主として,宇宙や人間の創造物語を扱っている。しかしそこに
は特異な思想の表明があり,既成の観念に対する逆転ないし拒絶の意図が表れている。たと
えば,旧約の《創世記》が語るエデンの園の誘惑者は蛇であり,創造神は法的正義をもって
これに対立しているが,グノーシスの一派はこの話を解釈し直し,蛇こそ人間に知恵を授け
た恩恵者,創造神の正体は抑圧者だと逆転している。グノーシス神話は,ユダヤ教,キリス
ト教,ギリシア神話,プラトン主義などから素材をとり入れ,それを解釈し直して成立して
いることが多い。言いかえれば,グノーシス主義は既成のものを改作しうるだけの思想原理
を備えているのである。この固有の原理を核として,神論,創造論,世界論,人間論,救済
論が一体となったものがグノーシス思想である。したがってそれを単なる混交主義(シンク
レティズム)などと説明するのは正しくない。思想素材の混交現象だけでなく,それぞれの
出自をもつ素材を変形させて一つに組み合わせる原理もそこに見られるからである。20世
紀のグノーシス研究は,その原理が何かという問いをめぐって進められてきた。これは,グ
ノーシス思想の本質規定の問題と呼ばれ,つまるところ,グノーシスの二元論をどうとらえ
るかという点に議論が絞られる。
[二元論] この課題に対して,われわれとしては次のような見解をとる。まず,ローマ帝
国時代にパラダイムとして受け入れられていた宇宙像は,図のような幾何学的構造を持って
いる。この同心球構造はプトレマイオス天文学の基本でもあり,当時のほとんどあらゆる著
作家が思考の前提にしている。やや図式的に言えば,神→星辰界→月下界→地上世界の階層
構造は,この順に神的影響力が衰退していく段階を示している。したがって可視的世界の範
囲内で見れば,星辰界はもっとも神的であり,秩序と善の支配する領域であるのに対し,地
上世界は悪と無秩序が支配している。人間の身体はもちろん後者に属すると考えられた。し
かし人間の本来の意味での〈自己〉は魂であり,それは神的領域の側から発しているので,
つねに身体および地上世界と対立し,みずからが〈異邦人〉であることを意識する――〈自
己〉と身体性が対立する身体的二元論。ただしその場合,〈自己〉と星辰界との対立を含め
てはならない。星辰界は魂がそこから発した神的領域に属し,魂の〈故郷〉だからである。
しかしこの点でグノーシス二元論は明確に区別される。グノーシス主義は,当時としてはま
ったく例外的に星辰界をも悪魔視し,〈自己〉が身体・地上世界のみならず星辰界にも敵対し
ていると主張した――〈自己〉と(星辰界も含めた)世界が対立する宇宙的二元論。これこそ
がグノーシス思想の中核をなしている。星辰を神々と呼び(星辰宗教),その規則的な運動に
自然の秩序のみならず法的・倫理的・社会的秩序の範型を見ていたローマ世界の中では,星辰
界敵視が意味するものは決して小さくなかった。建国の祖ロムルスもカエサルもアウグスト
ゥスも,ローマに対する功績のゆえに星辰神の内に数えられた。そういう世界においては,
星辰拒否は既成の秩序を転倒し,価値体系を逆転することになる。キリスト教教父だけでな
く,ギリシア・ローマ文化の伝統に立つプロティノスほかの知識人が,グノーシスの宇宙論
に非難を浴びせたことは当然だったのかもしれない(もっとも,道徳的に放埒(ほうらつ)な
生活をしているという中傷は信じがたく,文献資料の上ではむしろ徹底した身体の否定と禁
欲主義が支配的である)。
[救済論] グノーシス派によれば人間は,本来神の内にあったが何らかの偶然によって地
上に転落し,身体の中に閉じ込められて,自己と異質な物質世界に投げ出されている。これ
は人間にとって非本来的姿であり,魂の〈無知〉〈迷い〉〈眠り〉〈酔い〉〈忘却〉の状態であ
る。しかしある日自己本来の姿について〈知識(グノーシス)〉が与えられるなら,人間は覚
醒する――その際〈知識〉の啓示者が登場することが多い。すると魂は身体を脱却し,神の
もとへと帰還の旅を続けて,敵対する星辰神の領域をも通過し,やがて至高神の内に入って
再び神となる。以上のようなグノーシス救済論は,ウァレンティヌス派などの場合,世界史
観にもなっている。というのは,それが,神の充足の段階→充足が破れ神性が世界内に拡散・
展開する段階→神性が帰還・収束して再充足がなる段階を含む正反合のドラマになっている
からである。この歴史観は,その現代的意義を含め,研究者の注目を集めている。
[キリスト教との摩擦] グノーシス主義は当初からキリスト教に浸透し,教職の位階制度
を批判するなどした。その結果教会は,自己の内部にキリスト教グノーシス派という危険な
敵を抱えることになった。2世紀に登場する一連の反グノーシス教父にとっては,この似て
非なるキリスト教と自己を区別することが課題であり,その努力は〈正統〉的教理の形成と
いう側面を持っていた。その過程で明らかにされた教義上の対立点には次のものがある。星
辰界も含めて被造世界を悪とするグノーシス主義が,創造神の行為を否定的に評価する点。
同様に人間の魂は被造物ではなく,神と同質のものであるとする点。このように神と人が本
質的に同一であるならば,人間は本性上救われていることになり,改めてキリストの救済を
必要としない(ことになりかねない)点。人間の身体がいやしい被造物であると考えるため,
しばしばグノーシス主義は,キリストの身体性を否定する仮現説(ドケティズム)をとってい
た点など。


 ……文学的には、たとえばヘッセの『デミアン』(とくにそのアブラクサスの表象)がグ
ノーシス主義に強い影響を受けているようです。心理学ではユングなんかもグノーシスには
強い関心を持っていたとのことです。
 最近では平野啓一郎の『日蝕』もグノーシスへのアプローチが感じられました。


ハンバーガー屋の社長の話 真間一 00年12月18日18時33分

ぼくは俗な人間ですので時給800円とか1500円とかいう話を書きたいと思います。あるハンバーガー屋の社長がバイト全員を集めて会議を開きました。そして、「お客様を幸せにするために高級レストランの店員のように働いてくれ」と言いました。ある大学生が「時給は上がるんですか」と質問したら、「上がらない」とのことでした。社長は「他人を幸せにすることは自分にとっても幸せになる。それは神の愛である」と言いました。ある美少女が感激して「わたしはがんばります。お客様のためですもの」と言いました。しかし多くのバイトは不安そうに沈黙していました。大学生が勇気を出して言いました。「社長、高級レストランの店員の時給は1500円です。うちの店は800円です。700円分ボランティアをしろと言うのですか」。社長は深い哀れみの目で大学生を見つめ、「君は悟っていない。もっと立派な人間になりなさい。それが自由というものだ」と言いました。社長にしてみれば、自分は神の信者であり、正義の人なのでした。おわり。ところで神の信者であるドストエフスキーは、どうして神への不信や神への懐疑を好んで書いたのでしょうか。ぼくは最近、現実主義というものに興味をもっております。ではまた。


両想いと片思いのお話、そして自由へ smoky 00年12月18日01時16分


先ず最初に、Seigoさんはじめドストエフ好きーのみなさんへ
まだ「カラ兄弟」を読了しただけにもかかわらず
あっちこっちに書き散らしていることにたいして、
少なからず心苦しく思っています。どうかご容赦を。
僕としては、次の作品(「罪と罰」か「貧しき人々」)に進みたくもあるのですが
それよりもむしろ今は、「カラ兄弟」を深く掘り下げたいと考えています。

こんばんは、かつこさん。
連夜に渡る丁寧な書き込みありがとうございます。
表面的かつ曖昧な知識しか持ち得なかったキリスト教に対し
少しですが理解を深めさせてもらい、またさらなる魅力も感じました。感謝します。
ところで無用な配慮かも知れませんが、書き込みの方、無理されませんように。
 
〜マタイ福音書18章18節「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、
あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。」〜
>私はこの地上に天国を創れなかった人間が死後、天国へいけるとは思っていません。
>たとえ個人的な罪が清算できたとしても連体的な罪があります。
>地獄があるかぎり天国はありえないでしょう。悪の世界と善の世界の両方ある
>矛盾している世界は本来はありえないと思っています。

僕はキリスト教を大いに誤解していたようです。
自分に内在する罪の告白・懺悔によって、絶対者である神による
受動的な救済を目指すものなのかと思っていました。
かつこさんの書き込みを拝見するに、そうとう能動的な自己実現が求められているし、
考えようによっては、神に限りなく近い存在になる自由すら与えられているんですね。
いままでは単純に、そういう行為は禁止されているのではないかとも思っていました。

しかし、、、かつこさん
相当苦難の道を選ばれたようですね。
前にも書きましたが、人にものを伝えるには、伝えられる側の同意が必要です。
そこにこそ、伝える側の悲しみのすべてがある。
そして、それが素晴らしいものであればあるほど、伝わらない苦しみはどこまでも募る。
素晴らしき思想、教えというのは、そのほとんどが確信的誤解にさらされているのです。
こんな事は重々ご存じで、日々感じられているのでしょうが、
やはりそれでも、心中お察しします。
      
〜マタイ福音書5章3節から「こころ貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。 悲しんでいる人たちは、さいわいである。
彼らは慰められるであろう。・・・・」〜

>イエス様が生きている間、彼のそばにいたのは律法学者、パリサイ人ではなく、
>遊女や収税人や病人だったのです。
>キリストを待ち望み、準備していた者はイエス様が誰だかわかりませんでした。

僕は仏教的世界観がその根底にあるのですが、「カラ兄弟」のゾシマ長老の言葉に触れ
ロシア正教と仏教の一流である親鸞浄土教(浄土真宗)との、共通点の多さが印象に
残ったのですが、このあたりなどはまさに、親鸞の「悪人正機説」に相当近いものがある
と感じました。
もしかしてかつこさんは、このようなまったく違う宗教と比較されることに
不快感を感じられるかも知れませんが、似ているものを似ているものと片付けず、
類似点と相違点を見つけだしていくことで、お互いの基本となる考え方に
さらなる理解が深まってゆけば良いのではないか、と僕は考えています。
どうぞご理解を。

歎異抄第三章より引用
『善人なおもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。』

smokyの意訳(分かりやすくするためにあえて簡略化しました)
「善人が往生できるなら、悪人が往生できないわけはない」

自己の罪悪性が自分のなかで明らかになった瞬間に
「どうしようもない救われざる罪悪性を持ったものをすべて救う、
それが出来ないならば(一人でも漏らすことがあるのならば)自分は仏にはならない!」
と誓って仏になった、阿弥陀仏の救済と存在を確信することになるのが
親鸞浄土教による飛躍の瞬間(両想いになる瞬間)です。
たしかキリスト教においてはこの瞬間を「回心(かいしん)」というのでしたよね。

>結局、心満たされて生活している人ほど、「救い」がわかりません。

つまりそのような人は、心底からの充足を得ていないのであり、そういう意味では
その人たちこそ、不幸な、憐れむべき人たち、ということになるのでしょうか。
   
>なぜ神様は直接干渉しないかといいますと
>人間を創造した目的は神様の子供として創造しました。
>成長して神様と同じ位置に立つためには神様と同じ創造性がなければいけません。
>人間は自らを創造して神様と同じ創造主の立場にたつことが出来るようになります。

上でも書きましたが、この点が一番驚いたところなのです。
神に(限りなく近いものに)なることが許されているとは。。。
でも、これで頭のなかでいままで整理されていなかったものが
ずいぶん整然としてきたような気がします。

>あと人間の犯罪行為を神様が干渉したならば、悪の世界の創造を神様自身も
>認めることになり、本然の世界にも天国と地獄と両方の世界が存在するこにもなります。

上記の理由からあえて仏教的な考え方を紹介しますと
仏教の到達点においては、悪と善が一体となっていきます。
まるでプラスイオンとマイナスイオンが結合することによって
その電位が消滅するように、どちらも消滅しまうわけです。

つまり、善と悪は表裏一体であり、善無くしては悪もなく、
悪無くしては善もないわけです。
悪だと思っているものも、善に導くためのきっかけにすぎず
善だと思っているのも、悪に陥るためのきっかけにすぎない。
すべては流れの中にあり、その流れを感得したとき
すべてのこだわりが消え、「自由」が訪れる。

意外にキリスト教的な天国の顕現も、そのあたりの理解をすべての人間が獲得する
ところにあるのかな、なんて思ったりしました。
とすれば、少し前にあちらのボードで皆さんに論じられていた
「自由」ということについても面白い見方が出来ると思うのです。
イエスが悪魔からの三つの誘惑を退け、
民衆にあらゆる苦痛をもたすことも厭ず求めた(あらゆる犠牲を払っても求めさせた)
「自由を!」という叫びは、Seigoさんが議論の基準としてあげてくれた
a)条件としての自由 でも
b)自由感としての自由でもなく

c)『境地としての自由』 だったのではないだろうか、と。

どう思われますか?Seigoさん、そしてみなさん。  


さいごさんへ 真間一 00年12月18日00時04分

こんばんわ。ままはじめです。成功か失敗かわかりません。それこそ未来に神があらわれて、判定してくれるでしょう。そんな便利な判定はありえないかもしれませんが。とにかくぼくにはわかりません。「聖書」のなかに「わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉があって、謎めいていますが、それとよくにていると思います。名作には謎めいたところが必ずあって、読者をつかんではなさないと思いますが、どうでしょうか。人間の自由というのも、考えれば考えるほど謎めいています。例をあげましょう。「10発なぐられた他人と1発なぐられた自分はどちらが痛いか」。こたえはふたつあります。「他人のほうがいたい」。「他人がなぐられても自分はいたくないが、自分がなぐられると自分はすごくいたいから、自分のほうがいたい」。他人の方がいたいことは明白だから、それを「事実」とよぶ。しかし自分がなぐられて感じる痛みは生々しいから、やはり「事実」とよべる。どっちの事実が大事なのかよくわからない。事実が不安定ならば、自由だって不安定になってしまう。何が本当の自由なのか、ぼくはわかりません。大事なことは、謎の前に立たされても、あきらめずに答えをさがすことではないでしょうか。一時的な結論なら出ますからね。明日になれば、またまたわからなくなるにしても、そのときはもう一回考えればいい。希望を持ちたいですね。そしてキリーロフは希望の人でしょうか。ぼくはそうは思えない。だから否定したい。ところが否定できない魅力がありますね。日本の特攻隊の人たちのことを考えるときも、にたような迷いのなかに陥ります。ながくなってすいませんでした。ではまた。


  深酒(ふかざけ)は控えていたドスト氏 Seigo氏 00年12月17日17時41分

     >岩手のGOさん

     下でドスト氏の飲酒のことでGOさんに問い返したことについては、
     以前、ドスト氏関係の本で、
      『カラ兄弟』におけるイヴァンのアル中の事実などから考えても、
      ドスト氏は、じつは、父からの遺伝としても、生来、お酒は好きであって、      
      晩年、たとえば、創作の時間帯である深夜、一人閉じこもった書斎でお酒をこっそり深飲みしていた時
      もあったのではないか、
      とする指摘の箇所を自分は読んだ記憶があり、
      その方面のことで岩手のGOさんは何か興味深い情報や見方を持っているのかな、
      と思って、ちょっと聞き返してみた、という事情もありました。       
      (もっとも、アンナ夫人の書き残したものをチェックしてもわかるように、
       後半生、欧州滞在中の時期などに、夫人との外食の際にビールなどをいくらか嗜(たしな)んだ、
       という事実はあるにしろ、
       自分の書斎でお酒をこっそり深飲みしていたという事実はないんじゃないかと思います。
       氏は先天的にお酒を好む体質であったのでしょうけども、
       酒ぐせが致命傷になった父の二の舞はすまいという固い決心があったようです。
       ちなみに、
       氏が甘いお菓子や果物を仕事の合間にしばしば間食した甘党であったのは、
       氏がお酒を控えていた反動という面もあったのでしょう。
       また、一方でかなり好んだタバコやコーヒーは、お酒をあまり飲まない分、
       その代用となっていた点もあったのでしょう。)

     >コミック版『罪と罰』
     については、日本で刊行されている主な分を、
     ページ内のこちら内の「◇その他」に、掲載しているので、
     知りたければ、見てみて下さい。>岩手のGOさん
      (大島弓子画『ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ=罪と罰より=』
       はまだ読んだことはないのですが、
       自分がすでに読んだ他の三作品は、いずれも、岩手のGOさんが予測しているように、
       作画のお方には失礼ながら、出来は今一つです。
       岩手のGOさんの下の、
       >どうもドス氏の小説そのものは視覚を通して楽しむものではなく、
       >直接脳に作用して楽しむものみたいなのでね(^^;
       は、名言ですね。)    

        一時退出。
            


 キリーロフの自殺は、成功それとも失敗? Seigo氏 00年12月17日17時17分

     皆さん、書き込み、どうも。

     真間一さん、
     連続してのキリーロフについてのコメント、どうもです。
     >キリーロフの自殺はグノーシスににている。
     という指摘は、おもしろいですが、
      (この世界における「悪」の存在理由(起源)についてのグノーシス主義の考え
       は自分も以前から気にかけていたのですが、
       自分はグノーシス主義の考えの全体像をもっと知りたく思っているので、
       グノーシス主義についてわかりやすく解説している本(あるいは、ある本の中の箇所)
       が他にあれば、また、今度教えて下さい。>真間一さん )
     >肉体を軽蔑します。肉体をつくったのも悪の神だから。
     というよりも、
     キリーロフの自殺の目当ては、
     神の在不在を自ら命を犠牲にして問う思想的自殺・犠牲的自殺として、
     自分の自殺が難なく成功することによって、
      ・じつは神は実在しない
         (=神は教会側や人間によってでっちあげられた観念に過ぎないこと)
     あるいは、
      ・人間を支配している実在の神があるとしても、人間はその神の支配に抗する「自由」を持っている
     ということを世間に向けてあらたに証明することにあったのではないか、
     と私は思ってます。人間側の「自由」の新たな宣揚とその擁護ということです。
      (上のような意味においては、
       作中での彼の最期(さいご)の場面の「自殺」は、
       成功だったのでしょうかね、それとも、失敗だったのでしょうかね。)
        


キリーロフについて6 真間一 00年12月17日01時05分

神との両思いは幸福であり、清らかなエクスタシーだと思いますが、それならばなぜ「現代人」はそのような幸福を捨てたのか。それにはそれなりの「理由」があるのでしょう。その「理由」があるから、「解決があってもなお懐疑を創造する」必要があったのでは?その「理由」を理解することをやめてしまえば、楽ですね。カントによれば、感覚や経験の範囲を超えた問題、つまり神の問題には、「二つの答え」が生じてしまう、とのこと。キリーロフは、赤ん坊を愛し生を「肯定」したのに、自殺して生を「否定」した。肯定と否定が同時に成立してしまうことをアンチノミーと言います。つまり神を前提としない考えも、前提する考えとともに、有効となるのでしょう。神を警戒する「現代人」については、いずれまた。失礼しました。


続・両思いと片思いの話 かつこ 00年12月17日00時39分

   smokyさん今晩は
   >わたし達はなんのきっかけもなければ、神様の愛や救いを求めることはないでしょう。
   そのとうりだと思います。  
   まず神様は生命の創造主としての責任がありますので、救済をあきらめることはありえないです。
   
   〜マタイ福音書18章18節「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが
                         地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。」〜
   宗教者には大きく二つの考え方があります。天国へ行こうとする人、天国を建設しようとする人と
   私はこの地上に天国を創れなかった人間が死後、天国へいけるとは思っていません。
   たとえ個人的な罪が清算できたとしても連体的な罪があります。
   地獄があるかぎり天国はありえないでしょう。悪の世界と善の世界の両方ある矛盾している世界は   
   本来はありえないと思っています。
   たしかにきっかけがなければ、「救い」すら考えないですよね。
   
   〜マタイ福音書5章3節から「こころ貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
         悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。・・・・」〜
   イエス様が生きている間、彼のそばにいたのは律法学者、パリサイ人ではなく、遊女や収税人や病人
   だったのです。キリストを待ち望み、準備していた者はイエス様が誰だかわかりませんでした。
   結局、心満たされて生活している人ほど、「救い」がわかりません。
   むずかしいですね。でも遅いか早いかの問題であって一人ももれることなく救済がなければ
   神様の愛の完成もなければ、創造の完成もないということです。

   なぜ神様は直接干渉しないかといいますと
   人間を創造した目的は神様の子供として創造しました。成長して神様と同じ位置に立つためには
   神様と同じ創造性がなければいけません。
   人間は自らを創造して神様と同じ創造主の立場にたつことが出来るようになります。
   自然の法則も創造しました。それを無視して干渉すれば、この森羅万象の法則の完全性の
   欠如を認める立場となり、創造主としての絶対性、完全性がなくなります。
   あと人間の犯罪行為を神様が干渉したならば、悪の世界の創造を神様自身も
   認めることになり、本然の世界にも天国と地獄と両方の世界が存在するこにもなります。

   すみません。うまく表現できなくて・・・むずかしいです。
   簡単にいうとエデンの園で人間は生まれたのですが、アダムとイブはエデンの園を出て
   外の世界で子供を産み人間の歴史がはじまったのです。
   ですので、神様と人間はなんの関係もない立場なのです。  
   


両思いと片思いの話 かつこ 00年12月16日04時06分

   smokyさん今晩は
   >実は、神様が人間に片思いをしている状態なのではないでしょうか。
   はい、私もそう思っています。人間の魂は壊れている為、神様の思いに気ずくことが出来ないのです。
   たとえ話ですが、音も目に見えませんね。でも聴覚という機能が備わっている為、この世界に
   音があるのがわかります。匂いとか香りも目にみえませんでも嗅覚という機能が人間に備わって
   いる為、匂いとか香りがしてきます。相対的に出来ています。セットになって出来ています。
   授ける側、受ける側と・・・神様と人間の関係は愛を受ける側の機能の故障しているため神様の思いが
   伝わらないです。

   >すべての人が神様の愛に与ることは難しいのではないのでしょうか。
   キリスト教の特徴の一つで神様=親という意味があります。
   イエス様が神様を「父」と呼んだことからはじまったことなのですが、
   生き物の世界での親子の関係と同じで、親はどんな子供にでも愛情があります。
   子供も親を慕うのはあたりまえのことです。本然の世界では神様と人間の関係は
   親と子供の関係になります。親は無条件に子供を愛します。
   子供には成長期間というものがあって、まず親が一方的に愛して行きます。
   愛されることによって、今度は逆に愛していくこと、与えて行く事を
   おぼえて行きます。神様の愛を実感することができないのが人間の問題(罪)です。 
   
   >わたし達はなんのきっかけも〜    
                      つづく (すみません) おやすみなさい。   
   


キリーロフについて5 真間一 00年12月15日21時34分

キリーロフの自殺はグノーシスににている。グノーシスによると「この世界を作った神は悪の神だった。だから人間は苦しんだ。しかし別の神様が人間を救おうとしてリンゴをあたえた。すると人間は善悪がわかるようになり、この世界を作った神に反逆した。そして、この悪の世界を去り、別の神様のところへ旅立った」。グノーシスは肉体を軽蔑します。肉体をつくったのも悪の神だから。しかしぼくは肉体を愛し、「カラマーゾフ万歳!!」と言いたい。グノーシスについては「トマスによる福音書」荒井献、講談社学術文庫をみてください。ではまた。


片思いと両想い smoky 00年12月15日17時59分

   かつこさん、こんにちは。お返事ありがとうございます。

   >自己愛というものを「愛」とよばない観点からお話すると
   >愛というものは、愛する対象があって成立する相対的なものだとします。
   >神様が愛の完成者になるためには、対象が必要なのですよ。
   >神様おひとりでは、愛は成立しないということなのです。

   そうですね。そういう意味では、神様と“両思い”(良い言葉ですね、気に入りました)になる為の
   主導権は、人間側にあると言えるでしょう。
   片思いの状態というのは、人間が神様に片思いしているようでありながら、
   実は、神様が人間に片思いしている状態なのではないでしょうか。
   そしてそれが双方向で通じ合ったとき(両想いになったとき)、誰がなんと言おうと
   その人にとっては、神様の存在をありありと感じることが出来るのでしょう。
   とても素晴らしいことだろうし、美しいことだと思います。
   しかし!主導権が人間にある以上、すべての人が神様の愛に与ることは難しいのではないでしょうか。
   また、純粋に信仰を持たれる人もいらっしゃるでしょうが、
   多くの人間には、自分勝手な解釈を許してしまうでしょう。
   ここに人間の悲しみがあるし、僕としては救済の限界性を感じてしまうのです。
   もしかしたら、ある人は、救われざる人たちの責任を問うかも知れません。
   しかし、わたし達は何のきっかけもなければ、神様の愛や救いを求めることはないでしょう。
   それらのきっかけを与えられなかった人を、安易に責めたりは出来ないと思います。
   それらの人たちを見捨てないでいただきたいと思うのです。
   このあたり、キリスト教では、どのように考えられているのでしょうか。

   こんな事を言いながらも、僕はキリスト教に魅力を感じていますし、もっと知りたいと思っています。
   先日、このサイトの皆さんお勧めの、塚本虎二訳「新約聖書 福音書」を購入し
   時間を見つけてはページをめくっています。素晴らしい言葉が多いですね。
   僕が興味を持っている仏教には、このような分かりやすい言葉がほとんどないので。
   これから少しずつでも、皆さんの書き込みも参考にさせてもらいながら、
   キリスト教に触れてみたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
   
   また、以前書かれた、
   >神様の人間の救済の方法についてですが、
   >まず神様は人間には直接干渉しません→(理由はまた今度)
   ということにも興味津々ですので、お時間のあるときに、またよろしくお願いします。


これからは 家でした飼い猫 00年12月15日12時47分

     これからは家系図とか人物の特徴とかをメモしながら読もうと思った。
     そうしたら、もう混乱しないと思う。

     どうもありがとうございました。

     かみさまはいる。でもかみさまを思弁ではその存在を確信できまい。  


キリーロフについて4 真間一 00年12月15日11時36分

キリーロフは問題の立て方は正しかったが解決の仕方はまちがった。「正しい電車にのったが正しい駅でおりなかった」ようなものだ。「すべての人が卑劣なら善など言葉だけになる。しかし言葉だけには終わらせたくない」というのは正しい。「必要なものが存在しないことに耐えられない。何億という人間は平気でも、ぼく一人は耐えられない」というのは立派。しかし「死の恐怖さえ克服できればよい」というのはまちがった。もっと探求すべきだった。カントの「純粋理性批判」をよむべきだった。ではまた。


キリーロフについて3 真間一 00年12月15日02時12分

神に片思いするキリーロフ。神へのあこがれ。それはいいことだ。しかし神と両思いになった人間は危険だ。なぜなら神はいないから。しかし、神へのあこがれを軽蔑する人間も、やはり危険だと思う。無神論者は宗教家とおなじくらい危険なのだ。「悪霊」。なるほどいまは神がいない。しかし未来はわからない。「何のために生きるのか、君が人間であるなら、答えてみたまえ」とキリーロフは言った。答えはない。自殺してもだめ。要するに希望をもって探求をつづけるべきだ。こたえになってなくてすいません。ではまた。


解決があってはじめて創造する事の可能な懐疑というものの現実性(小林秀雄) Seigo氏 00年12月15日00時34分

     岩手のGOさんの、下の、
     >ドス氏が創造したキリーロフの人格は、
     >ドス氏自らの神へ対する信仰心の不安から来る葛藤の表れではないのかと。
     >もしくは
     >ドス氏のブラックジョーク的な存在ではないのかと・・・。
     という書き込みは興味深く読みました。
     私は、後者の、
     >ドス氏のブラックジョーク的な存在ではないのか 
     という見方は大事じゃないかと思います。

     ちなみに、前者の、
     >ドス氏自らの神へ対する信仰心の不安から来る葛藤の表れではないのか
     という方は、『カラ兄弟』を今読んでいるかつこさんの、下の、
     >今カラ兄弟を読んでいますが、私も作者の信仰の不安みたいなものを感じています。 
     >うまく表現できませんが、なぜか痛々しいものを言葉から感じます。    
     >ドストエフスキーも痛々しい方なのでしょうか?
     という鋭い感受と関わってきますが、
      ・『カラ兄弟』を書いた時のドスト氏の日常の信仰面での状況はどういうものだったのか、
      ・『カラ兄弟』にうかがわれる「信仰の不安」というのは、そのドスト氏の日常の信仰面での状況
       とどう関係付けられるか、
     という事柄は、私たちドストエフ好きーにとって、もっと正確なところを知りたい、最大と言ってい
     い興味尽きないテーマです。
     このテーマに関しては、自分は、評論家の小林秀雄氏のある発言が、ずっと気になってきたので、
     参考として、次に引用します。
     難解な文章ですけど、意見のある人は聞かせて下さい。

       彼(=ドスト氏)は解決を求めて模索する思索人ではなかった、
       一点に止(とど)まって円熟する芸術家であった。逆説的に言えば、
       彼の後期の諸作品に現れたすさまじい懐疑も、
       解決に達しようとする絶望的な計算ではないのだ、寧(むし)ろ、
       解決があってはじめて創造する事の可能な懐疑というものの現実性
       なのである。
          (小林秀雄「「白痴」についてT」より。
           ※旧漢字・旧仮名遣いは、現代の表記に書き改めました。)

      退出します。
         


 キリーロフの考えの柱は何か Seigo氏 00年12月15日00時30分

     真間一さん、
     さっそくのレス、どうもです。

     >「人類の不幸があるから神は存在しない。人類の不幸があるから神は必要だ」。キリーロフの解決は
     >つぎのとうり。「必要なものが存在しないのであれば、人間が神になるしかない。そのためには、
     >とにかく不幸を不幸と感じない新種の人間が必要だ。
     という箇所は、キリーロフの考えの過程についての真間一さんの鋭い理解を述べていて、
     内容自体、私たちの胸にこたえるものとして、意味深長です。
     そして、そのあとの
     >ところで死が最大の不幸だから」あとは省略。そして、「ふいに高らかな銃声が聞こえた」。(=A)
     という箇所こそが、キリーロフの考えの過程の中の大事な部分じゃないかと思います。
     哲学の教養に裏付けられて明晰な真間一さんの鋭い理解・洞察は、
     私たちのキリーロフの思想の理解に大いに参考になるので、
     Aの箇所についての真間一さんが理解していることを、
     よければ、また、詳しく聞かせてもらえればうれしいです。>真間一さん

     自分は、上のキリーロフの考えは、彼の考え全体の柱というよりも、
     彼の考えの一側面・一観点じゃないか、
     と思ってます。
     キリーロフは、『悪霊』の中で、
     彼の部屋に訪れた人物(「私」、スタヴローギン、シャートフ、ピョートル)
     との対話の流れの中で、そのつど、彼の考えを断片的に述べていっているわけですが、
      ・それらの彼の考えの中で、どの考えが彼の考えの柱になるのか、
      ・彼の他の考えは、その柱となる考えとどういう関係にあるのか、
     について、意見のある人は、ぜひ、聞かせて下さい。
      (これらについて近年自分が考えてきたことは、
       このボードに、今度、書き込んでみます。
       キリーロフの思想についての過去の自他の書き込み記事は、
       その一部を以前からこちらに掲載しているので、
       まだ閲覧していない人は参考にしてみて下さい。)
         


お詫びですm(__)m   岩手のGO  00年12月15日00時16分

>酒好きな面という情報は、どこから得たのでしょう。>GOさん 

いやあ、申し訳ない!どうも自分の勘違いだったようで、お詫びいたしますm(__)m 

ロシアといえばウオッカ!ロシア人を殺すには、ただウオッカを取り上げるだけでよろし
いという逸話に加え、カラ兄弟の長男フョードルと何故かドス氏のイメージがダブった為
でしょう。それと自分はいつも、その場で頭に浮かんだ言葉だけを書き綴っている為に確
証の無い文章となってしまった感があります。それを世間一般では、適当と言いますが(^^;

>コミック版『罪と罰』も置いているのでしょうか。

おお!そんなのがあるのですか?是非読んでみたい!って・・・多分つまらんでしょう。
以前、映画「カラマーゾフの兄弟」も観ましたが、つまらなかった。ドス氏の小説に登
場する個性的な面々をビジュアルとして観るには無理がありそう。どうもドス氏の小説
そのものは視覚を通して楽しむものではなく、直接脳に作用して楽しむものみたいなの
でね(^^;

それと小説内でのキリーロフの死は、それなりには納得していますよ。神と人間の違い
は、生への執着心と感じたキリーロフが神の高みに近づく為には死を選ぶしかなかった。
それとキリーロフに近い人神論的なものを唱えたラスコーリニコフは、ソーニャによっ
てか、生への執着が湧きあがり死を選ぶことが出来なかった。過去に人間として生への
執着心を断ち切ったのは、かのキリストだけか?して、このことから「誰をも咎むる事
なかれ、我自らなり。」として死んでいったスタヴローギンもやはり、神に近づいたの
であろうか?(^^;


キリーロフについて2 真間一 00年12月14日18時51分

キリーロフのアンチノミーはつぎのとうり。「人類の不幸があるから神は存在しない。人類の不幸があるから神は必要だ」。キリーロフの解決はつぎのとうり。「必要なものが存在しないのであれば、人間が神になるしかない。そのためには、とにかく不幸を不幸と感じない新種の人間が必要だ。ところで死が最大の不幸だから」あとは省略。そして、「ふいに高らかな銃声が聞こえた」。ぼくはキリーロフの解決に反対です。ぼくは「必要なものは未来に出現するかもしれない」と考えます。ではまた。 


 キリーロフ論も再燃の気配 Seigo氏 00年12月14日01時54分

     皆さん、書き込み、どうも。

     かつこさん、お初の岩手のGOさん、引き続いて、どうもです。
      (かつこさん、今回、メールも、どうも。
       GOさんが経営している食堂にドスト氏全集を置いているとは、ユニークですねえ。
       コミック版『罪と罰』も置いているのでしょうか。
       それと、ドスト氏の、
       >酒好きな面
       という情報は、どこから得たのでしょう。>GOさん 
       ドスト氏は酒は控えめにしていたという認識が我々にはあるのですが。)

     「家でした飼い猫」さんの質問に対しては、
     そのあとの、あさのさんのアドバイスがグッドですね。

     お初の真間一さんの、キリーロフの考えをめぐっての意見には、興味しんしんです。
      (下に挙がったキリーロフの、
       >「神は必要だから存在するはずだ」・そのすぐあとの「しかし神は存在しない」
       という発言自体、訳者によって日本語訳文の言い回しも微妙に違っており、
       また、キリーロフ自身、自分の考えの結論を断片的に述べるだけで、自分の考えの理由説明
       などをしていない場合が多くて、(上の場合でも、なぜ「神は存在し得ない」のかの理由など。)
       キリーロフの思想というのは、読者サイドは、いろんな点で、内容の捉え方は難しいと思います。
       そういう意味で、自分は上のキリーロフの言葉についての理解は、いまだしっくりいきません。        
       真間一さん自身、上のキリーロフの言葉をどのように深く理解したのか、
       もう少し詳しく聞かせてもらいたいです。)

     GOさんの下のキリーロフ観も面白いですね。

     smokyさん、こちらのボードへも、どうもです。
      (smokyさんの、仏教の立場からのドスト氏論も、また、おいおい、聞かせてもらいたいです。)

     SEXY F.M.さん、
     「ドストエーフスキイの会」の今回の読書会の貴重な発表原稿及びレジメを、
     参加できずSEXY F.M.さんの発表を聞けなかった人のためにも、下に掲載してくれて、
     ほんとにありがたいです。
     また繰り返しじっくり読んでみて、思ったことや聞きたいことがあれば、
     今度書き込ませてもらいますね。

       ほかに書き込みたいことは種々あるのですが、また明日以降に。
       退出します。
          


ドストエフスキーへ愛をこめて かつこ 00年12月14日01時04分

   岩手のGOさんはじめまして
   今カラ兄弟を読んでいますが、私も作者の信仰の不安みたいなものを感じています。 
   うまく表現できませんが、なぜか痛々しいものを言葉から感じます。    
   ドストエフスキーも痛々しい方なのでしょうか?
   
   SMOKYさんはじめまして
   「伝言・雑記」板を読まして頂きました。私は単純な者で理論が解る者ではないのですが
   自己愛というものを「愛」とよばない観点からお話すると
   愛というものは、愛する対象があって成立する相対的なものだとします。
   神様が愛の完成者になるためには、対象が必要なのですよ。
   神様おひとりでは、愛は成立しないということなのです。
   神様が人間に自己創造を与えたのは、神様の完全な愛の対象になる為だと思います。
   私は宇宙は愛を目的に創造されたと思っています。

   その自己創造性があるがゆえに悪の世界も地獄も創造してしまうと思っていますが・・・
   性善説?性悪説?・・私は人間の悪性は後天的なものだったと思っています。   
   


キリーロフ  岩手のGO  00年12月13日23時37分

そそ!キリーロフの存在は、とても気になってました。ドス氏が創造したキリーロフの人格は、
ドス氏自らの神へ対する信仰心の不安から来る葛藤の表れではないのかと。もしくはドス氏の
ブラックジョーク的な存在ではないのかと・・・。

キリーロフの言葉から、神とは絶対的な存在であり、無くてはならないものとなっている。が、
その絶対神をすぐさまに否定しているのには、神への不信と切羽詰った神への思い入れを感じる。

絶対的な神という言葉に御幣があるかもしれないけど、パスカルの「パンセ」に”人間は宗教
的信念をもってする時ほど徹底して悪を行うものである”(←だいたい合っていると思う(^^;)
という言葉がある。とにかく人間は絶対的に信じるものがあればこそ、信じてやまないからこ
そ人間とは盲目になり過ちを犯すものでは?という葛藤の表れがキリーロフの存在じゃないか
なぁと感じていましたね。とにかく無心論者のなれの果てはキリーロフのように破滅へと向か
うという解釈とは違って、信仰心の厚い者こそ陥りやすいパラドックスがキリーロフではない
のかと思っています。

まあ信仰の解釈は非常に難しいもので、例えばキルケゴールなんぞ神の真理に目覚めた為に当
時の婚約者であったレギーネとの婚約を解消している。その理由はというと「わたしはレギー
ネを愛しているのではなく、レキーネと一緒になる事によって自分自身が幸せになれるからレ
ギーネを求めるのだ。つまりそれは自己愛でしかない。そしてそれは神の真理に反するものだ。」
(↑だいたいこんな内容だった筈・・・ですね(^^;)

しかしこれを現代的に照らし合わせてみれば、ちゃんちゃらおかしい。一人の女性だけを愛し慈
しむ行為が神の真理に反するなら、そんな信仰はやめた方がよい。更に神の真理に目覚めた筈の
キルケゴールでさえ、婚約を解消した筈のレギーネを未練たっぷりに、その後延々と追い掛け回
している。まるでストーカーのようにね(^^;

恋も信仰信も、盲目に成り易い点では似通っている。とにかくキリーロフの存在は、神に恋し、
恋焦がれた男の顛末を描いているのでは?とも考えてしまうなぁ・・・(^^ゞ


神様と浄化 smoky 00年12月13日03時06分

こちらのボードの皆さん、始めまして。

皆さんの神観、それにともなう世界観を、またそれを語る真摯な態度に
いつも感動しながら拝見しております。

僕は、概念的神様に強いあこがれを抱き、許されざる自分の存在を中心に見据えたときには
これをほとんど信じたりもしているのですが、その反面、それらの徹底的否定から導き出される
無形の法則性、関係性の総体としての神により強く引かれています。
カラ兄弟の「神がいなければすべては許される」に関連していますし、皆さんの議論の流れから、
本来ならこちらに書き込む内容だったのかも知れませんが、
僕なりの神観をあちらの「伝言・雑記」版に書き込んでおきましたのでよろしければご覧ください。

繰り返しとなりますが、かつこさんはじめ皆さんの真摯なる神様への態度
感動的であります。神様はそれを一心に見ようとするものの心を浄化するのでしょうね。

真間一さんwrote:
>キリーロフが「神は必要だから存在するはずだ」と言い、
>そのすぐあとで「しかし神は存在しない」と言いました。
めちゃめちゃ気になる話ですね。
「神がいなければすべては許される」の命題にも深く関わっていそうです。
今度ゆっくりサイトにお邪魔します。

【追伸】SEXY.F.M さん
ご報告ありがとうございます。これから印刷して、線を引きながらゆっくり読ませてもらいます。

それではおやすみなさい。


読書会レジュメ SEXY F.M. 00年12月13日01時10分

*『貧しき人びと』の対比構造

  リアリスト             |            ロマン主義者
                    |
  ブイコフ              |           ジェーヴシキン
  アンナ・フョードロブナ     ワーレンカ         ポクロフスキー
  閣下                |           ポクロフスキー老人
                    | 


○ワーレンカはカマトトか、それともいたいけな少女か?
・ 江川卓氏の、ワーレンカはエゴイスティックなちゃっかり娘なのだ、という指摘
・ ベリンスキーの激賞以来、リアリズム文学の傑作として読むというのが通説
・ 同じ作品の、こうした正反対な読み方・感想が出てくる所以
○ワルワーラは本当にちゃっかりしているか?
・ジェーヴシキンとワルワーラの手紙の遣り取りは漫才のボケとツッコミ
・ジェーヴシキンのエゴイズム
・ワーレンカがブイコフとの結婚を決めるまでの巧妙な伏線
○ワーレンカの二面性
・ 当時のヨーロッパの文学状況……ロマン主義から自然主義への移行期
・『貧しき人びと』の後日談としての『白痴』
・ ワルワーラとナスターシャの共通点、ジェーヴシキンとムイシュキンの共通点
○ドストエフスキーの小説作法を貫く二元論……その原点としてのワルワーラの性格
・「分身」……ドストエフスキーの創作を貫く対比の手法
・幻想的リアリズムとは何か?
・『貧しき人びと』では何が笑われていたのか
・ワルワーラ……ドストエフスキーの永遠の女性
・読者が何者であるかまでを問う物語空間の創出


ワーレンカはカマトトか、それともいたいけな少女か?〜幻想的リアリズムの原点としての『貧しき人びと』〜
                                      SEXY F.M. 00年12月13日01時07分

 二週間前の「ドストエーフスキイの会」に初参加し、急遽今回のプレゼンを引き受けるこ
とになりましたSEXY F.M.と申します。頼む方も頼む方なら、引き受ける方も引き受け
る方だという感じもしますが、こんな無茶も人生にスパイスを効かせてくれることになるの
ではないかと考え、とにかく勢いで発表させて頂きたくことに致しました。
 とは言ったものの、筋金入りのドストマニアであられる皆さんを前にして、専門の研究を
したことがある訳でもない、単なる一文学ファンに過ぎない若輩者の僕が何か目新しいこと
を話せるとも思えず、この際独断と偏見で強引に話を進めるしかないので、かなりいい加減
なことを言ってしまうかとも思いますが、その辺のところは、どうかご容赦下さい。

 さて、本題に入る前に、一つ紹介させて頂きたい文章があります。

「まあ、綺麗。お前、そのまま王子様のところへでもお嫁に行けるよ。」
「あら、お母さん、それは夢よ。」
 この二人の会話に於いて、一体どちらが夢想家で、どちらが現実家なのであろうか。
 母は、言葉の上ではまるで夢想家のようなあんばいだし、娘はその夢想を破るような所謂
現実家みたいなことを言っている。
 しかし、母は実際のところは、その夢の可能性をみじんも信じていないからこそ、そのよ
うな夢想をやすやすと言えるのであって、かえってそれをあわてて否定する娘のほうが、も
しや、という期待を持って、そうしてあわてて否定しているもののように思われる。
 世の現実家、夢想家の区別も、このように錯綜しているものの如くに、この頃、私には思
われてならぬ。
(太宰治『フォスフォレッセンス』)

 これは太宰治後期の短編『フォスフォレッセンス』の冒頭の文章です。ドストエフスキー
とは直接になんの関わりもない文章ですが、今回のテーマのいわば通奏低音として、この現
実と夢想の区別の不確かさに言及した太宰の言葉を念頭に置いて、これからの発表を聞いて
頂けたらと思います。

 さて、今回の発表のテーマである「ワーレンカはカマトトか、それともいたいけな少女
か?」というのを思いついたのは、皆さんも読まれていることと思いますが、江川卓氏の『ド
ストエフスキー』(岩波新書)において、普通文学史的には、『貧しき人びと』はリアリズム
文学の傑作であり、ワーレンカはいたいけな薄幸の少女であるとなっているが、作品をよく
読んでみれば、案外ワーレンカはエゴイスティックなちゃっかり娘なのだ、という指摘がな
されているのを読んだことによります。江川氏は、ワーレンカが、ジェーブシキンからのプ
レゼントを、口先では辞退しながらしっかり受け取っていることや、チョッキを縫う約束を
していながら、結局その約束は果たされなかったらしいことを、ワーレンカ=ちゃっかり娘
説の根拠として挙げています。そしてそこから敷衍して、『貧しき人びと』が単純なセンチ
メンタル小説ではなく、様々なパロディ効果を狙った一種のメタ文学である、という論を展
開しています。
 ベリンスキーの激賞以来、この小説をリアリズム文学の傑作として読むというのが通説と
なっているらしく、新潮文庫の裏表紙の解説にも「写実的ヒューマニズム」の傑作という言
葉があり、翻訳した木村浩氏もその線に沿って、訳者解説ではワーレンカをいたいけな少女
として説明しています。一方、江川卓氏のように、この作品をパロディ文学の傑作として捉
え、ワーレンカはカマトトであり、作中の場面に逐一アイロニカルなユーモアを見出してい
こうという読み方もあります。
 同じ作品であるにも関わらず、こうした正反対な読み方・感想が出てくるというのが興味
深く、ワーレンカは果たしてカマトトか、それともいたいけな少女か? ということを考え
ながら読んでみるのも、また面白いのではないかと考えました。

 さて、そうした点に注目しながら、今回ゆっくりと『貧しき人びと』を再読したのですが、
たしかにワルワーラは、ジェーヴシキンから色々とプレゼントを受け取ったり金銭的援助を
受けたりしていますが、そのためにジェーヴシキンは給料の前借までやり、とうとう破産し
た挙句、あれほど気にしていた世間体を丸つぶしにし、あまつさえ今度は逆にワルワーラか
らなけなしの援助を受けることになります。
 それからは閣下に施しを受けるまでは、ジェーヴシキンはワルワーラの援助で辛くもその
日その日を凌ぎ、時には泥酔してワルワーラの部屋に担ぎ込まれるという醜態を演じます。
 これでは、ワルワーラに聖女並みの自己犠牲の精神でもなければ、ジェーヴシキンに愛想
をつかすのも無理はないのではないかと思います。少なくとも、僕だったら、もうこの男と
は縁を切りたいと思うでしょう。ブイコフとの結婚を決めたことを報せる手紙に、ワルワー
ラは「あたくしの決意を変えさせないでくださいませ。そんなお骨折りはむだでございます。
あたくしがこのような行動をとるにいたった事情を、ご自分の胸の中でよくよくお考えにな
ってくださいまし」と書いています。この小説を初めに読んだ時には、ただただ感傷的な気
分になったのですが、今回落着いて読み直してみると、ジェーヴシキンとワルワーラの手紙
の遣り取りはまるで漫才のボケとツッコミのようで、ジェーヴシキンの駄目さばかりが感じ
られました。
 ワーレンカに家庭教師の口がかかった時に、その仕事に就かせておけば、ワルワーラはジ
ェーヴシキンのものにもならなかったでしょうが、ブイコフのものにもならなかったでしょ
う。しかし、ジェーヴシキンは、ほとんど理由にもなっていないような理由を並べ立てて、
ワルワーラの就職に反対します。話を持ち込んできた小間使いのフェドーラを罵倒した挙句、
「たとえどんな事があっても、いけません! それにもしそんなことになったら、このわた
しはどうなるんです? いや、いけませんとも、ワーレンカ、そんな考えはきれいさっぱり
頭の中から捨ててしまってください」「それに第一、わたしは年をとってからひとりぼっち
でどうしたらいいでしょう、このさき何の役にたてましょう? いや、どうかこの点をこそ
考えてみてください。つまり、自分がいなくなったら、あの人は何の役にたつだろう? っ
てね。わたしはすっかりきみと親しくなってしまったので、もしきみがいってしまったら、
どんなことになるでしょう? わたしはネヴァ河へでも飛びこんで、それでもうおしまいで
すよ」などと書き送ります。
 その就職がワーレンカのためになるかどうかに就いての具体的なアドバイスはなく、ただ
ひたすら彼女を自分の手許に残しておくための脅迫まがいの懇願をするばかりです。そして
無理にワルワーラを自分の側に引きとめていたため、やがてワルワーラどころか自分の生活
も立ち行かなくなり、最後にはブイコフの結婚の申し出をワルワーラが断ることも出来ない
状態に追い込んでしまいます。江川氏によると、ワルワーラがブイコフとの結婚を決めるの
が唐突で、小説を終らせるための作為しか感じられないと言っている研究者もいるようです
が、注意深く読んでみれば、事態はワルワーラがブイコフとの結婚を承諾せざるを得なくな
るように周到に伏線が張られ、推移しているように思われます。自分と一緒にいる限り、ジ
ェーヴシキンはこれからも無理を続けるだろうし、彼にとてもではないけど二人の人間を養
っていく甲斐性がないのは、伴に過ごした数ヶ月でワルワーラも痛感していたことでしょう。
閣下に施しを頂いた後、もうこれからは心配事は何もない、というようなことをジェーヴシ
キンは書きますが、貧困の根本原因が何も解消されていないのに気付かずにいるその言葉は、
かえって空しいばかりです。貧困と二人分の気苦労で死の予感に捕らわれていたワルワーラ
がブイコフとの結婚を選んだのは、自分のためというより、これ以上ジェーヴシキンに無理
をさせないためではないかという読み方も出来るかと思います。
 その自己犠牲の自覚があればこそ、想いを振り切るために、ブイコフとの結婚が決まって
から、ワルワーラがまるでジェーヴシキンを下男扱いするかのように様々の用事を言いつけ
るのだと読むのは、穿ちすぎでしょうか? 結婚決定後の手紙で、下着がどうしたとか、円
枠縫いがどうしたとか、飾縫いがどうしたとか、それまでの感傷的な内面吐露と打って変わ
って、卑俗で散文的なことばかり話題にするのは、そうすることによって、ワルワーラ自身
の引き裂かれんばかりの想いを覆い隠す為であるように思われてなりません。人は、内心が
ひどい悲しみと動揺に満たされている時、かえってその悲しみに直接触れるような言葉は避
け、月並みで事務的な言葉を口にすることで平静を装おうとするものです。それまでの詩に
酔ったような言葉の何倍も強いワルワーラの想いが込められている「飾縫い」という卑俗で
事務的な言葉は、だからこの小説の中で一際切なく、鮮烈な響きを持って読者の印象に残る
のです。こんな描写にも、現実的なものの本質をなしているのはまさに空想的なものである、
というドストエフスキーの信念が現れているように思われます。

 ワーレンカはカマトトか、それともいたいけな少女か? ということを気にしながら今回
『貧しき人びと』を再読したのですが、カマトトと言い切ってしまうには、ワルワーラには、
やはり健気なところが多々あるように感じられ、また、いたいけと言い切ってしまうには、
これもやはり現実的なしっかりしたところが多々あるように感じられました。
 そこで思い出されるのが、『白夜』の中の「ペテルブルグの一角で営まれている生活は、
なにかおとぎ話そっくりの理想主義的なものと、味気なく散文的なものとが混ざり合ったも
のなのです」という言葉です。ワーレンカに感じられる、ある種の二面性は、ドストエフス
キーがワーレンカの中に理想主義的なものと散文的なもののアマルガムを描こうとしたこと
によるのではないでしょうか。当時、ヨーロッパの文学状況は、大雑把に言って、ロマン主
義から自然主義への移行期にあたり、ドストエフスキーが『貧しき人びと』を発表したのは、
まさにその端境期にあたります。E.H.カーなどが指摘するように、ドストエフスキーの
文学史上の新しさは、バルザック等によって完成された一人の人物の中に不変の一性格を付
与する小説作法を、一人の人物の中に矛盾した性格を付与する小説作法で乗り越えたことに
あると言われています。また、グロスマンなどは、先行するロマン主義文学や写実主義文学
からの影響を細かく分析し、『貧しき人びと』がロシア自然派の写実主義小説とセンチメン
タルなロマン主義文学の総合であることを論証しています。そうした総合への試みが、個々
の情景描写や事件の描き方にだけではなく、ヒロイン、ワルワーラの性格にもっともよく現
われているように今回感じました。そして、一人の女主人公の中でリアリズムとロマン主義
が激しく対立し、闘争するドストエフスキー作品の代表的人物として、『白痴』のナスター
シャ・フィリッポヴナが第一に挙げられます。

 身寄りのない少女が、金持ちの妾となる運命を辿るというのは、ドストエフスキーによく
見られる主題で、『白痴』のナスターシャ・フリィッポヴナや『カラマーゾフ』のグルーシ
ェンカ等が、その代表として挙げられます。ことに、ワルワーラの生い立ちを語った手記は、
『白痴』のナスターシャの前半生を思い出させます。ドストエフスキーの作品を追ってイデ
ーを発展させていく創作手法を考えると、『白痴』は『貧しき人びと』の後日談として読む
ことも出来るかと思います。ブイコフと結婚した後のワルワーラの運命という誰もが想いを
馳せる物語を、ドストエフスキーは『白痴』のナスターシャ・フィリッポヴナで描いている
のです。情欲の玩具とされる辛酸と屈辱を舐め挙句、飽きがきた途端に棄てられたワルワー
ラは、世界と男性に対する復讐と憎悪の化身ナスターシャ・フィリッポヴナとして再び読者
の目の前に「復活」するのです。そしてジェーヴシキンもムイシュキンも、これら善良な無
能者たちは、その弱さに支えられた善良ゆえ、ヒロインを破滅から救うことができず、また
自らも破滅して終ります。江川氏によれば、ムイシュキンという名前はロシア語の「鼠」が
元になっているということであり、また、ジェーヴシキンも役所の同僚から「鼠」という有
り難くない仇名で呼ばれているというところにも、二人の共通点があります。
 ナスターシャ・フィリッポヴナを強烈に特徴づけているのは、ムイシュキンとロゴージン
という両極端の愛人の間でバランスを取りながら全編を通して際どい綱渡りをしているよう
なあやうさにあります。彼女を破滅させる二律背反、ムイシュキンとロゴージンの象徴する
両極への志向性、そこには地上の王国と天上の王国の痛ましい分裂、精神と肉体の二元論が
至るであろう一つの悲劇的結末があります。
 乱暴に言い切ってしまうと、ムイシュキンはロマン主義の人格化であり、ロゴージンはリ
アリズムの人格化です。『白痴』執筆の段階では、ドストエフスキーは未だロマン主義とリ
アリズムを調和させる芸術的形象を得るには至っておらず、死以外に、ナスターシャの悲劇
的分裂を救済する手だてはありませんでした。晩年に至り、ロマン主義とリアリズムを調和
させる形象の萌芽的人物として、ドストエフスキーは『カラマーゾフ』のアリョーシャを誕
生させたものと思われます。
 ドストエフスキーの全作品を貫く二元論はリアリズムとロマン主義の錯綜した対立であり、
その対立は『カラマーゾフ』のイワンとアリョーシャにおいて最高潮に達します。そして、
その対立、ドストエフスキーの創作の原動力となるリアリズムとロマン主義の二元論は、す
でにデヴュー作の『貧しき人びと』のワルワーラおいて措定されていたのです。
 『貧しき人びと』においては、リアリズムはブイコフによって代表され、ロマン主義はジ
ェーヴシキンによって代表されています。
 ブイコフは語ります。「そんな考えはみんなくだらないことだ、みんな小説のロマンスだ、
あんたはまだ若くて詩なんぞを読んでおるが、小説のロマンスなんか若い娘を破滅させてし
まうばかりだ、大体、書物なんてものは道義を頽廃させるだけで、自分はいかなる書物も認
めない」「わしくらいの年まで生きたうえではじめて人間の話をしてもらいたい」「そうした
ら人間もわかるさ」一方、ブイコフに対抗すべくはずの地位を与えられているジェーヴシキ
ンやポクロフスキーは、風に吹かれただけでも怯えるような繊細な感受性を付与され、些細
なことで身も世もあらぬ嘆き方をし、何か甘い夢想に耽り続け、現実と渡り合う力は全くな
いまま、ついにワルワーラを我が物とすることが出来ず、自らも破滅します。『貧しき人び
と』において、リアリストと夢想家を対比させる構図はまことに鮮明です
 そしてその対立の最も先鋭化する場所が、実にワルワーラの心なのです。「いや人間は広
いよ、広すぎるくらいだ、俺ならもっと縮めたいね。何がどうなんだか、わかりゃしない。
そうなんだよ! 理性には恥辱と映るものも、心にはまったくの美と映るんだからな。ソド
ムに美があるだろうか? 本当を言うと、大多数の人間にとっては、ソドムの中にこそ美が
存在しているんだよ――お前はこの秘密を知っていたか、どうだい? こわいのはね、美が
単に恐ろしいだけじゃなく、神秘的なものでさえあるってことなんだ。そこでは悪魔と神が
たたかい、その戦場がつまり人間の心なのさ」というドミートリー・カラマーゾフの熱烈な
告白によって顕わにされた神と悪魔の闘争は、すでに『貧しき人びと』のワルワーラの心の
中で始まっていたのであります。ドストエフスキーは彼の二元論の決戦場として、よくヒロ
インの心を選びます。
 ブイコフ、すなわち『貧しき人びと』におけるリアリズムは、後の作品に較べ、まだ遠景
的に描かれているに過ぎず、リアリストの内面の掘り下げはまったく行われていません。し
かし、遠景的であるからこそ、その存在は不吉に作品全体へと影を落とし、ほとんど世界の
法則の権化のように、主人公たちの運命を抗う術もなく決定していきます。この金権の持つ
機械的なまでの決定論は、当時全ヨーロッパを覆っていた、七月王政下に全盛をきわめるブ
ルジョワ資本主義の人々の心に与えていた印象を反映したものだと思われます。
 七月王政下の金権支配と、それに反抗する形で勃興したロマン主義の見取り図に就いて、
ドストエフスキーは後年、『作家の日記』で次のように回想しています。
「革命が終ると(ナポレオン一世以後)、新しい希望と新しい理想を表明しようとする、新
しい試みが現われた。識者は、専制主義が単に衣をかえたにすぎず、Otes-toi de la que je m’y
mette(お前そこをどけ、おれが代る)といったふうのことが生じたまでのことであって、
世界の新しい勝利者(ブルジョア)は、あるいは前の専制者(貴族)に劣るかもしれず、「自
由、平等、博愛」は、ただかけ声ばかりやかましい麗句にすぎないことを、いやというほど
合点した。のみならず、それらかけ声のやかましい麗句は結局、実現不可能な文句であるこ
とを暴露した。こんなふうに教えるものが現われてきた。勝利者たちは早くもこれら三つの
神聖な言葉を、冷笑的な調子で発音する、というより、むしろ想起するようになった。科学
(経済学者たち)すら、折しも同様に新しい言葉をひっさげて乗り出した目ざましい代表者
に、この冷笑の尻押しをさせ、あれほどの血を流させたこれら三つの言葉の、ユートピヤ的
意義を非難させたのである。かくして、これら得意満面の勝利者とならんで、悵然としたう
れわしげな顔が現われて、勝利者たちを驚かすようになった。ところが、ちょうどこの時期
に、突如として真に新しい言葉が生まれ、新しい希望がみなぎった。ほかでもない、事態が
停頓したのは困ったことで、間違った話である、勝利者の政治更迭では何事も達成されては
いないから、仕事を継続しなければならない、人類の更新は根本的、かつ社会的でなければ
ならないと、はばからず宣言する人々が現われたのである……」(一八七六年六月「ジョル
ジュ・サンドについて」より)
 この「新しい言葉、新しい希望」の先頭に立っていたのがジョルジュ・サンドであったと、
ドストエフスキーは述べています。そして、そのジョルジュ・サンドらに代表されるフラン
ス文学の影響から空想的社会主義へ惹かれつつあった若きドストエフスキーが、幼少時の貧
救院の経験なども相俟って、「貧しき人びと」への同情を強めていたであろうことは想像に
かたくありません。彼の貧しき人びとへの同情は、他の多くの空想的社会主義者と同じく、
これもロマン主義にその根を持っていると思われます。『貧しき人びと』に描かれる貧乏人
たちが、あまりにも戯画的過ぎることからすれば、あるいは貧救院の経験などより、ロマン
主義文学に培われた同情の方がずっと強いのかも知れません。シクロフスキーが『貧しき人
びと』を評して「徹頭徹尾書物的」であると言っていますが、こういう点にもそれは現われ
ているように思われます。ドストエフスキーは『貧しき人びと』執筆の時点ではまだ大した
人生経験を持っておらず、『貧しき人びと』に描かれた多くの事柄は、彼が現実からではな
く、小説の中から学び取ったものです。ジェーヴシキンもワルワーラもブイコフも、いずれ
どこかの小説から移植された人物形象でしょう。しかし、その性格にはそれぞれドストエフ
スキー自身の内面が反映されています。未だ現実よりもずっと書物に親しい若きドストエフ
スキーは、その作中人物の性格に多くの小説から得たイメージと自分自身の内面を付与する
しか術がなかったと思われます。またしかし、だからこそ『貧しき人びと』の登場人物たち
には、その後の創作活動を通じて追究される問題意識が、最も純粋な形で提示されているの
です。

 当時のロシア文学界の流行として、ドストエフスキーはその処女作を一見生来のロマン主
義的性向と相反する自然派的なものとして仕上げましたが、それは単に自然主義的なものと
はいえず、ジェーヴシキン、ポクロフスキーなどによって、ロマン主義の激情は弱々しいも
のながら作中に持ち込まれています。これら貧乏人は、現実的な存在というよりは、ドスト
エフスキーが多くの小説の中で知り合った、ロマンチックな人びとです。
 そして、ブイコフらリアリストとジェーヴシキンらロマンチストは、ワルワーラという一
人の少女によって接点を持ち、ワルワーラの心の中ではリアリズムとロマン主義がせめぎ合
うことになるのです。ワルワーラには、すでにナスターシャ的な分裂の兆しが見えています。
 九月三日の手紙にワルワーラは次のように書いています。
「フェドーラはきょう一日じゅうどこかへ出かけていて、あたくしは独りぼっちでおります。
いつごろからか、あたくしは独りぼっちでいるのが怖くなりました。いつも自分の部屋に誰
か別の人がいて、その人があたくしと話をしているような気がしてくるのです。とりわけ、
あたくしが何か物思いにふけっていて、急にわれに返ったときなど、とても怖ろしくなって
しまいます……」
 この文章は、どこか『罪と罰』でスヴィドリガイロフが現われる場面や、『カラマーゾフ』
でイワンのもとに悪魔が訪れる場面を思わせます。人によって、ワルワーラがカマトトと見
えたり、いたいけと見えたりするのは、こうした彼女の作中における不安定な心理の反映で
あろうと思われます。そしてこの内心の不安な二律背反は、やがて人格の分裂――二重人格
――分身を惹き起こすだろうことを容易に想像させます。中村健之介氏や新谷敬三郎氏はジ
ェーヴシキンのその後がゴリャートキンであろうと書かれていますが、分身の兆候は、むし
ろワルワーラにおいてより顕著になっていると僕は考えます。

 シクロフスキーは、その「『貧しき人びと』論」の中で、ドストエフスキーの小説作法に
特長的な「分身」に着目し、プルタルコスの『対比列伝』や『福音書』、ドイツ・ロマン派
のホフマンやシャミッソーなどに言及しつつ、「対比は、種々様々な方法によって実現が可
能である。たとえば、福音書は、弟子とみなされている何人かの人々が一人の人間について
物語るという型をとってつくられている。伝説が集められ、対比されるために、四篇からな
る福音書に共通する類似そのものが、同一の素材を反復しながら意味づけていくような主題
の構成をつくりだして、現実味を帯びた幻想を与えているのである」と述べています。
 「現実味を帯びた幻想」――この言葉は、ドストエフスキーの「空想的なものが、現実の
まさに本質をなしている」という言葉を思い出させます。ドストエフスキーは、現実と夢想
を強烈に対比させながら描く自らの幻想的リアリズムに並々ならぬ自信を持ち、自分こそ最
高の意味でのリアリストなのだと語っています。そして具体的には、それは様々なパターン
の「分身」を提示していくというやり方で、ドストエフスキーの全創作を通じて繰り返し描
かれます。いわゆるリアリズムと、いわゆるロマン主義とを、ともども笑いのうちに昇華す
ることが出来たところに、もっと深い意味での「現実」が開示される幻想的リアリズムが成
立するのです。

 ワルワーラは、ドストエフスキーがその後繰り返し描いていく女性像の原型と言えます。
彼女は、リアリズムとロマン主義の間に引き裂かれて破滅の瀬戸際に立っています。彼女の
本当の痛ましさはその点にあります。味方からも敵からも正しく、全的に理解されることが
ないのです。ブイコフもジェーヴシキンも、彼女を自分の好きなように誤解します。リアリ
ストから見れば、彼女はしたたかな少女であり、ロマン主義者から見ればいたいけな少女と
されてしまいます。そうした既成の枠組みで性格を単純化して見つづける限り、誰も彼女の
生きた内面にまで思い至すことは出来ないでしょう。『貧しき人びと』では、ワルワーラと
いう複雑な生きた人間を媒体として、ロマン主義者とリアリストの双方の愚かしさが皮肉ら
れているのです。このロマン主義者とリアリストがともども同時に皮肉られている点にこそ、
『貧しき人びと』の涙と笑いの真骨頂があるのではないでしょうか。そしてその涙と笑いの
向こうには、人類永遠の対立の調和を求めるドストエフスキーの祈りがあるように思われま
す。そういう意味で、ワーレンカは、人の心の分裂の調和を求めるドストエフスキーの願い
の象徴、ドストエフスキーの永遠の女性像と言えるでしょう。

 デヴュー二作目において早くも作中に分身的人物が横行するようになったのを目にするに
至り、ベリンスキーはその幻想性を批判しますが、しかし、その萌芽はすでにベリンスキー
の激賞した『貧しき人びと』の、複雑な性格を付与されていたワーレンカの裡にあったと言
えるでしょう。
 対立の自覚は、とりもなおさず、対立の調和の希求へと繋がるものです。人間の心の裡に
リアリズムとロマン主義の対立を見出したドストエフスキーは、それを描き出し、調和を目
指すための芸術的意匠として、幻想的リアリズムという手法を案出し、それを生涯を通じて
深めていくことになります。ワーレンカの心が最初の戦場となったリアリズムとロマン主義
の相剋は、その後ドストエフスキーの生涯の主題となり、全創作活動を通じて追究されてい
くことでしょう。
 ドストエフスキーは作中でジェーヴシキンにこう語らせています。
「文学は絵のようなもので、つまり、一種の絵でもあり、鏡でもあるのです。情熱の表現で
もあれば、微妙な批評でもあり、道義の教訓でもあり、そして記録でもあるのです」
 読む人によって作品の意味合いが一八〇度変わってくるということは、すなわち、読者自
身が何者であるかが問われている、ということにもなります。この時、小説はまさに読者に
とって鏡となっているのです。ドストエフスキーは、生きた人間を描く比類ない方法のよす
がをここで手にしたように見えます。そして、それこそかつてなく開かれた、読者が何者で
あるかまでも俎上に乗せる物語空間の発見へと繋がるものだと言えるのではないでしょうか。
 言い残したことは多々ありますが、それは今後の課題というか、楽しみにしていきたいと
思います。


参考文献:
『ドストエフスキー論――肯定と否定』シクロフスキー(水野忠夫訳・勁草書房)
『ドストエフスキー』江川卓(岩波新書)
『ドストエフスキイの方法』新谷敬三郎(海燕書房)
『ドストエフスキイ』グロスマン(北垣信行訳・筑摩書房)
『ユリイカ――特集ドストエフスキー その核心』(青土社)


感想 あさの 00年12月13日00時45分

   真間さん、さっそく「新しい哲学、超未来神話」読ませていただきました。
   「神のイメージと両立する無神論」という言葉がすごく印象に残りました。
   これは「伝言・雑記」板で今話題の
   「現実主義的なものとロマン主義的なものとの間で二元論的に引き裂かれた存在」
   というドスト氏の小説の主題とオーバーラップする言葉ではないかと感じました。
   真間さんが「これ」というのもそういうことなんでしょうか?
   全然僕の勝手な解釈だったらごめんなさい。
   
   でも改めて、神って何?「神様は人間には直接干渉しません」(かつこさんの言葉より)
   では、自由とは?
   僕は来週までいなくなるので「言い逃げ」になっちゃいますが、今後の展開が楽しみです。


キリーロフについて  真間一  00年12月13日00時10分

はじめまして。ままはじめといいます。キリーロフが「神は必要だから存在するはずだ」と言い、そのすぐあとで「しかし神は存在しない」と言いました。これ、ぼくは好きなんです。カントの「純粋理性批判」にでてくるアンチノミーが「これ」にあたることをあとで知りました。ドストエフスキーの本質は「これ」であると思いますがどうでしょう?なお「これ」は解決できると思います。「いま神は存在しない。しかし未来は存在するかもしれない」。ぼくはそんなテーマで小説を書いてます。真間一で検索すれば読めますよ。ではまた。


今夜もドストエフスキー かつこ 00年12月12日23時46分

   今晩は、しょしんしゃさんは無神論者なのですか?
   そうですね〜神様を信じている人と信じていない人とは生き方からなにもかもちがいますね。
   信じている人の中にも神観が異なるし・・・

   神様の定義というのか・・創造主、第一原因者、親、というおおまかな意味があって
   作者(神様)→作品(被造物世界)、原因(神様)→結果(被造物世界)みたいなことなのですが
   
   >そして神様を作り出した人間には神性がすべての人に備わっている・・・・書いてありますが
   神様を信じている人達は、神様が人間を創ったからすべての人に神性が備わっていると
   思っていると思うのですが・・・

   カメさん人の数だけ個性があります。カメさんにしかみえない世界もあるし
   カメさんしか感じることが出来ない世界もあると思います。
   またいろいろと心に感じた世界を教えてください。
   


一粒の麦について カメ 00年12月12日21時48分

    なかなか鋭いご指摘があり、私が決してそれに異議を挟むつもりはありませんが、
    十字架についても、私はすこし違った見方をしていると思いました。
    今日はこのへんで。 


いろいろ。ふたたび カラ兄弟『大審問官』 しょしんしゃ 00年12月12日14時39分

結局 同じ人間で。
ラスも すヴぃ も 人間 ・・分身であった。・・

『カラ兄弟』の大審問官の章の やはり 数パーセントの指導者を信じている
95パーセントの大衆 と 本気で 地球の宇宙の未来の平和を考えている
本当の指導者(利権に走らない。大衆 人民の幸せ 平和を考えている)
がいる 状態が 未来まで 地球が 存続する 唯一の 方法なの??
って それは "絶対主義"かもしれなし
けれども 指導者は 人間イエス キリストの ような人物に 遺伝子が 正義に
集約された人でないと 勿論 いけない条件であるらしい。
すると 大衆 民衆は 日頃 疑問を あまり もたずに 現状の生活に甘んじて。
ただ アラーの神に 人間イエス キリストの如き人物=指導者が 出現 政治を
つかさどってくださることを 祈るばかり。
そして 大衆 民衆は 馬鹿にならなければいけない。植物人間みたいに。
苦悩という文字は 大衆 民衆に まるで 似合わない 叉は不必要な 辞書から
忘れられた文字の如くに。
・ ・・・・・・。
あなたは?? 指導者??大衆??
指導者は 未来の人間イエス キリストは 苦悩のかたまりで 日頃息をしていなければ
ならない。
・ ・・・・・・。
・・・・・・・。
** ?そ*れ*で* ** い*い*の*か*な*あ ?**

●『文芸読本』ドストエフスキーU 河出書房 より。埴谷雄高"ドストエフスキーの二元性より
・ ・・・ 引用 始まり ・・・・
『この定式はつぎのようにい大審問官によって反復される。
彼らはわれわれのほうへ押し寄せながらも、同時にわれわれを崇めて恐れて
、荒れさあわぐ数億の羊の群れを鎮撫し得る、偉大な力と知恵を持ったわれわれを、誇りとするに
至るであろう。・・・無論、われわれは彼らに労働を強いるけれども、暇な時には彼らのために子供
らしい歌と、合唱と、罪のない踊りの生活を授けてやる。
ちょうど子供のために遊戯を催してやるようなものだ。・・・こうして、すべての者は、
幾百万というすべての人間は幸福になるであろう。しかし彼らを統率する幾万人かの
者は除外されるのだ。つまり、秘密を保持しているわれわればかりは、不幸に陥らなければならぬのだ。
つまり何億かの幸福な幼児と、何万人かの善悪認識の呪いを背負うた
受難者とが出来るわけだ。
このような『『灰色の天国』』の描写ばかりでなく、革命を担う組織の体制に必用な
条件として、官僚主義とセンチメンタリズムと自分自身の意見にたいする羞恥の三つが
挙げられ、さらにその体制を維持するため、互いを監視している密告の制度が必用で
ありと『『悪霊』』のなかで容赦もなく摘けつ?されているのを見るとき、私達に
極度の反省を要求するそのドストエフスキーの皮肉な洞察は当時の分析というより
むしろ数十年後の混乱を見透しての予言であるかのごとき感がある。ドストエフスキー
の現在的な意味は、この地点から逆に見返されねばならないのであって、相反する両端にわたって
鋭くみつめたその作家的洞察力の深さが・・・・・。単なる反動的な見解
という以上の深い、瞠目するほどの示唆をふくんでいることを私達は現在から振る返らねばならない。
人間と存在のあいだをみたす思想と情熱の苦しさと狂おしさと、
そして、恐ろしいような陶酔について知るところのドストエフスキーは未来社会に
ついても文学がなし得るかぎりの徹底的な洞察を試みたのであって、深い苦悩をもって堅くとらえられた
裸の真実のもつ苦悩のかたちが無惨な解剖図のごとくにそこにある。恐らく、ドストエフスキーは現代が
未来へ向かって推移するにつれてますます
深く考察されねばならぬ種類の深い手きびしいヴィジョンをもった少数な作家のひとり
であって、年を経るごとに厚い非難の外被をとりのぞかれいよいよ巨大になりゆくであろう。
((1956年12月))
・ ・・・・・・引用 おわり ・・・・・・
そして 埴谷 裕高 は 大好きです。
・ ・・・・・・・そ・・し・・て・・・・・
イエス・キリストのような 完全な 心身ともの 指導者が あらわれたとしても。
民主主義といったら その指導者にさえ そのほかの指導者 または 民衆 大衆 は
ほんとうに 立派な指導者であるか 日々 瞬間瞬間 みとどける事が 義務であるような。
やはり 指導者 そして 大衆 そして 民衆は いつも 互換性があるのが ・・民主主義であるような。
大衆が 明日には 指導者であるのもありうるわけです。そして それが 民主主義であるような。
つまり。
指導者は 大衆の一員であるから。謙虚に。
そのときの大衆 民衆 は 明日 指導者にも なり得る身であるから。指導者には 信頼と
エール と 批判の眼を。・・・っと いうこと??。
そして だから 現実は 理想的な民主主義への希求のまっただなかであるから。
社会には いやな事件も おこってしまう。自分自身内で解決オーバー して 問題解決できないときに
嫌なじけんが おこってしまいます。そのためにこそ 苦難のときの 芸術家の作品であったり 詩であったり
文章であったり 絵画であったり そして 助けあったり・・・。そこに 共通点 共有点
救い 癒しを 求めます。芸術が 苦難を救う。
そして 神様を つくりだした 人間には 神性がすべての人に備わっているということ。

ながく なりました。



  Re:からまーぞふのきょうだい あさの 00年12月12日13時50分

  家でした飼い猫さん、初めまして。しおりに登場人物をメモりながら読むと良いのではないでしょうか?
  「戦争と平和」でもこの作戦は有効でした。複数の名前が使われるのが慣れるまでやっかいですよね。


からまーぞふのきょうだい 家でした飼い猫 00年12月12日12時10分

     初めまして。
     さいきんこの本をよみだしたのですが、なにぶん登場人物がおおすぎて
     とちゅうまで読むと、どのひとがどのひとだったのかわかがわからなく
     なります。記憶力がおとろえてきたのではないかと心配になりますが、
     みなさんにはそのようなことはないでしょうか?


  ドスト氏の小説は人間百科事典? あさの 00年12月11日20時51分

    かつこさん、「カラ兄弟」にはまりましたか。素晴らしいですね。
    僕は「カラ兄弟」を読んでから聖書とかに興味を持ったので順番はかつこさんと逆になりますね。
    初めまして、岩手の GO さん。かつこさんともどもドスト氏の輪が広がっていいですね。
    食堂に来る奇妙な客を見てドスト氏の小説の登場人物を思い出されるとのこと、いいですね。
    「カラ兄弟」を読んで思ったのですが、フョードルにしろラキーチンにしろスメルジャコフにしろ、
    どんな人間であろうと一人残らず共感と愛情を持って生き生きと描かれていますね。
    ドスト氏の「人間」に対する飽くなき興味の産物なんでしょうか。
    変わった人間を「変な奴!」と片づけるのではなく、
    「待てよ、こういう人こそ人間性の隠された一面を良く現しているのかもしれないぞ」
    とよくよく観察して喜んで理解しようとする、これがドスト流なのかもしれません。
    いろんな人のことが理解できたほうが人生楽しいと思いますし、僕も見習いたいです。


ただいまドストエフスキーに夢中 かつこ 00年12月11日00時56分

   私も清水さんの一粒の麦の書き込みの内容に同意します。
   イエス様のご自身への予言みたいな内容だし、イエス様を信じて殉教者となる者への
   予言みたいな内容だですね。でもイエス様の十字架によっての私達の贖罪はどの程度の
   ものなのでしょうか?

   神様は人間を救済するためにイエス様を地上に誕生させたのですが
   私の勝手な意見ですが、イエス様は最初から十字架への道を行く予定ではなかったと
   思います。単純にキリストを待ち望んでいたユダヤ人がイエス様を信じることが
   出来なかったために、十字架の道を選んでいかざるおえない道だったと思います。
    ユダヤ人がイエス様を信じることができなければ十字架の道
    ユダヤ人がイエス様を神様から来た者である方と信じていたら、ユダヤ民族の王の王として
    迎えられ、人間の罪の清算がその時代がらはじまったのではないかと
    勝手にに思っています。

   信じることが出来ないユダヤ民族のために十字架への道を用意していたというのか・・
   でもイエス様の十字架は 完全な人間の救済ではなかったです。
   一粒の麦は色々な意味がありますね。とても深いです。

   ☆補足なのですが、神様の人間の救済の方法についてですが、
    まず神様は人間には直接干渉しません→(理由はまた今度)
    人間社会の中に罪のない立場で生まれてくる方を
    神様と人間の中保者とたたせてその方を通うじてのみ贖罪がなされて行きます。
    マタイによる福音書第一章にイエス様の系図が書かれています。
    ユダヤ民族は血族を重要視する民族なのですが、系図をみると本当に
    神様がイエス様という種を産み落とすのに、どれだけの犠牲の内容があったのかと
    思いめぐらすのです。

   Seigoさん、おじゃましています。
   カラマ兄弟、仕事の行き帰りのバスの中、お昼の休憩時間、もう時間さえあれば読んでいます。
   じっくり考えながら読んでいるためペースが遅くなってしまいますけど・・
   新潮文庫の56ページの「真実がこの地上で滅びることはないわけだし
   つまり神の約束なさったとおり、そのうちに真実がわれわれのところにもやってきて、
   全地上に君臨すようになるのだ」
   「御心の中には万人にとっての更生の秘密と、最後にこの地上に真実を確立する力とが
   かくされているだ。やがてみんなが聖人になって、互いに愛し合うようになり、
   金持ちも貧乏人も、偉い人も虐げられている人もいなくなって、あらゆる人が
   神の子となり、本当のキリストの王国が訪れることだろう」
   こころ打たれる文です。私もこの文の内容を信じています。     


はじめまして(^^;  岩手のGO  00年12月10日22時32分

いやぁ、こんな場所があるとは思いもよりませんでした。自分もドストエフスキーが好きで好きで、
何度も作品を読み返したものです。同人誌に何か書いてくれと頼まれた時もペンネームをN・M・
スタヴゴージンとか・・・ドストエフスキーの影響かなり大でした(^^;

今から20年前に両親と喧嘩し、面白くないので扉に「誰をも咎むる事なかれ、我自らなり」と
書き殴り、山へ散歩しに行ったら・・・家では自殺だと思われ大騒ぎだったようです(^^;

わたしはあれだけの思想を書き綴りながらも、ギャンブル好きで酒好きなだらしない一面を持つ
ドストエフスキーが、何故か大好きです。ヤヌスの鏡ではないけれど、自分の二重人格性という
か性格の多面性を小説の登場人物を通して表現していると感じていました。が・・・最近、小説
に登場する人物像の図式は、汚れ無き天使を中心に取り巻く個性的な悪魔の面々が基本パターン
では?とも考えたり・・・(^^ゞ

とにもかくにも、いろいろ楽しませてくれるのが自分にとってのドストエフスキーですね(^^;

現在わたしは民宿と食堂を営んでいるのですが、変な客と遭遇する度にドストエフスキーの作品
に登場する変人達の個性を思い起こし、後でパラパラとページをめくり客と変人達の照らし合わ
せ?をして遊んでいます。ドストエフスキーの全集をドーンと食堂に置いている食堂って多分、
日本中捜しても自分のとこくらいじゃないでしょうか(笑)


   さらに一粒の麦 あさの 00年12月10日20時17分

    あさのです、こんばんは。
    Seigoさん、先週も Hard Days だったようですね、お疲れさまです。
    清水さん、一粒の麦に関する記事の紹介、ありがとうございます。
    >この譬えの意味を一般化するならば、
    >この譬えはイエスの受難の影がのしかかる時期において語られたことを忘れることになる。
    僕自身はこの譬えを一般化していましたが、一般化によって死の必然性、目的を忘れてしまっては、
    単なる脳天気者になってしまいますね、確かに。自戒をこめつつ。。。。
    >「わたしが十字架にかけられるならば、すべての人をわたしのところに引きよせよう」
    「反逆」でイワンに反論するアリョーシャの言葉を思い出しました。
    >「自分を愛する者はそれを失う」
    「自分を愛するように隣人を愛せ」という言葉とは見かけ上のパラドックスがあるようですが、
    実はこのパラドックスの中にこそイエスの教えの本質があるのではないだろうか、という気がしてます。
    これは依然のSEXY.F.M.さんの書き込みにあった
    「エゴイズムの追究の果てが最高の愛他精神の実現になる」ということと相通じることではないかな、
    とも思っているのですが。。。どうでしょう?

     彼はすべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、みずからも赦しを乞いたかった。
     ああ、だがそれは自分のためにではなく、
     あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことに対して赦しを乞うのだ。
     『僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる』
     ふたたび魂に声がひびいた。


 ドスト氏 ― 登場人物の殺しマニア Seigo氏 00年12月10日17時27分

     皆さん、書き込み、どうも。

     キリスト教信仰を持っているかつこさん、
     今『カラ兄弟』を読んでいるということですが、
     『カラ兄弟』の中でゾシマ長老が説くキリスト教思想というのは、
     欧米や日本におけるキリスト教思想とはちょっと異なる面が含まれているので、
     『カラ兄弟』の中のキリスト教思想に触れて、
      (第2編の、ゾシマ長老と僧院を訪れる民衆との対話の中に、ゾシマ長老の抱(いだ)くキリスト教思想
       は、さっそく、出てきます。)
     かつこさんの信念に比べて、何か違和感などがあれば、ぜひ、聞かせて下さいね。

     『戦争と平和』を読み終えたという中学生のザク君、
     ザク君は将来の貴重な人材なので、
     こちらこそ、今後もよろしくね。

     カメさん、
     遠慮しないで、
     ドスト氏やその思想について思っていることがあれば、
     ボードに書き込んで聞かせて下さいね。
         
     しょしんしゃさん、
     下の、
     ラスコーリニコフとアリョーシャ、ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフのユニークな比較、
     興味深く読みました。
     ドスト氏は、小説の中では、登場人物の殺しマニアです。
     スヴィドリガイロフにしろ、
     神の道から外れてしまい袋小路で生(せい)に陰(いん)に苦しんでいる、嫌悪する登場人物には、
     愛情を注ぎつつも、最後は、決まって、「死(という安らぎ(?))」を与えています。
     そういう点では、
     「死」を与えていないラスコーリニコフやイヴァンは、特別な存在でしょう。

       一時退出します。


「一粒の麦」の譬えの解釈 清水 00年12月10日17時25分

「一粒の麦」の譬えについて、専門家の解釈の一つを以下にご紹介します。
 御国の到来と成長についての譬えは、ガリラヤで語られた。その後、十字架の陰がイエスの道の上に次第に濃くなり始めた。イエスは、エルサレムの宣教の最後の日、まかれた種とその収穫の比喩を再び語った。
 ヨハネは、一粒の麦の譬えを、イエスの宣教の第三日目の最後の過越の祭の少し前に置いている。ヨハネが語ったように、この譬えは、あるギリシャ人がイエスに会見したいという願いに促されて、語られたものである。イエスにとって、この願いは、自分の宣教─異邦人に対する宣教─の広い新しい局面が近づいた前兆であった。「人の子が栄光を受ける時がきた」と叫んだ(ヨハネ12.23)。しかし、イエスは、また同時に、「今、わたしの心が騒いでいる」とも語った(12.27)。なぜであろうか。一つの暗示は、この時において、悪魔がイエスを神の定めた道と神の定めとからそらすために最後の試みをした、ということである。なぜ、エルサレムとイエスの要求に従わない同胞とを捨てて、もっと広い異邦人の世界におもむいてはならないのだろうか。イエスは、この誘惑をはねつけた。どうしても、十字架を避けることなどはできない。そこでイエスは、二重の「よくよく」という言葉を前置きとして、「一粒の麦」の譬えを語った。この譬えは、第四福音書に出てくるけれど、その比喩的表現・話しぶり・用語などから、最初の三つの福音書の譬えのように、イエスが語った確実な譬えであることが分かる。
 「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のまま
である。しかし、もし死んだなら、豊かな実を結ぶようになる。」
 イエスは人間生活全体に関して厳格な法則を定めていると、理解するものがいる。
   人生の全般に、わたしは十字架を見る。
   十字架上で神の子らは自分の命を捨てる。
   失うものなくしては得られるものはなく、
   死なくしては命はない。
しかし、このようにこの譬えの意味を一般化するならば、この譬えはイエスの受難の影がのしかかる時期において語られたことを忘れることになる。イエスは、「贖い」について語ったように(マルコ10.45)、この譬えでご自分の死の必然性と目的について考えている。イエスは、ご自分の全き受難がもたらす豊かな贖いの収穫を予告している。
 イエスは、少し以前に、かつて、聖なる焦燥をもって叫んだことがある、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けなければならないバブテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなに苦しい思いをすることであろう」(ルカ12.49,50)。福音の火が燃え上がる前に、福音を担う者は死ななければならない。イエスの血によるバブテスマは、ローマ人もユダヤ人もイエスの真理を阻止することのできない世界の中に、イエスが伝えられていくようになるために、より十分でより自由な活動を始めるのに必要なものである。このことは、陰喩は違うけれど、本質的に、イエスが「一粒の麦」の譬えで語ったことである。イエスの死は、必然的に、イエスの宣教が広い世界において大いに実を結ぶようになるための条件であった。実が豊かに実るようになるためには、まかれた種は、苦難の血の汗によって水をほどこされなければならなかった。
 紀元前三世紀、アルキメデスという名のギリシャ人は、「わたしに適当な地位が与えられるならば、その世界を動かすであろう」と語った。しかし、イエスは、「わたしが十字架にかけられるならば、すべての人をわたしのところに引きよせよう」と語った(ヨハネ12.32)。
 この言葉に、主の現臨が立証されているのではないだろうか。「キリストの十字架は、わたしにとってキリストのあらゆる奇跡以上である」と、ハミルトン・キングは書いた。カーライルとエマソンがガロウェイの荒野を歩いていた時、「あそこにダンスコア教会を建てたのは、十字架上で死んだキリストである」と、カーライルはエマソンに語った。
 しかし、この譬えがキリストの死の必然性と目的に関するものであるならば、それに続く「自分を愛する者はそれを失う」(ヨハネ12.25)というイエスの言葉は、真にキリストに従うすべての者の当然の結果について述べるものである。ここに、ある新しさがあった。ウィリアム・テンプルは彼の『ヨハネ福音書読本』の中に書いている、「ギリシャ思想の中には、自己犠牲がすぐれていることに対する評価が全くない。…福音の倫理がギリシャの倫理よりもはるかにすぐれている点は、この点であり、これは決定的な点である。」
 イエスは、自己犠牲は自己実現の道であると語る。クリスチャンは死んで生きる。パウロが知っていたように(コリント4.8〜13)、このことは、深い意味において、また最も良い意味において、クリスチャンの生活の法則である。そして殉教者の血は、ステパノからボンヘッファーに至るまで、教会の種である。 
A・M・ハンター 「イエスの譬えの意味」(1979) 新教出版社(82年)


こんばんは ザク 00年12月10日03時35分

遅くなりましたが、Seigoさん、レスありがとうございました。
「戦争と平和」、読み終わりました。
正直言って、戦闘の細かい描写とか、少しわかりにくいところがありましたが
登場人物は、皆とても魅力的で、とくに、ぼくはカラターエフに惹かれました。
今、「復活」を読み始めたばかりです。
従姉からさかんに、自分がトルストイの中で1番好きな作品「アンナカレーニナ」をすすめられたのですが、、、、、、、。
それと、僕はSeigoさんの言われている米川訳全集を読んだのではないです
ぜひ、読んでみたいですね、今度、図書館で探してみます

正直言って、このBBSに投稿されるような方々のように、ドスト氏や、その時代のロシア、その時代の文学については、もう、まったくといっていいほど、知識がありません。
でも、こちらのHPで知識を増やしていければ、と思います
よろしくお願いします


罪の逆 2 カメ 00年12月08日21時26分

     私はここに来て、いろいろ考えさせられ、Seigou氏とこちらの皆さんには、
     たいへん感謝しています。
     確信はありませんが、ドスト氏は罪から離れることを、求めたような気がしています。
     それについて、知っていることを、ここで発言するには、身に余るので遠慮します。
     でも「人は思いと言葉によって動かされる。」そうで、カメの歩みにも劣る自分ですが、
     目的に向かっていきたいのです。
     ではまた。


  神の愛 あさの 00年12月07日21時02分

     太陽がフロント・グラスから射しこんで、私を光の中に包んでいた。
     目を閉じるとその光が私の瞼をあたためているのが感じられた。
     太陽の光が長い道のりを辿ってこのささやかな惑星に到着し、
     その力の一端を使って私の瞼をあたためてくれていることを思うと私は不思議な感動に打たれた。
     宇宙の摂理は私の瞼ひとつないがしろにしてはいないのだ。
     私はアリョーシャ・カラマーゾフの気持がほんの少しだけわかるような気がした。
                   「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」村上春樹


読書の12月 かつこ 00年12月07日01時10分

   今、一生懸命「カラ兄弟」読んでいます。
   また読み終えたら感想を書きますね。
   
   カメさん「神様の為に生きる」といことは、人間の使命感とか責任感とかではなく
   また教会へ行ってお祈りをしたりすることが「神様の為に生きる」ことでもなく
   恋愛とか親子の愛とかそう言ったところの情とか感情みたいなものだと思います。
   それに神様に愛されている実感をすることが出来ない限り人間は当然
   神様を愛することが出来ないし、神様の為に生きることなんて出来ないです。
   神様を信じている人、信じていない人のちがいは、両思いか、片思いかのちがいだと思います。
   


「死」について カメ 00年12月06日22時09分

    もし、誤解されたら、すみませんが、私は「死」を肉体の死というつもりはありませんでした。
   
    「自分のため」に対して「神のため」に生きること、つまり「○」だということは、かつこさん
    ならご存知でしょうが、私はそれほど立派でないので、そうはしなかったのです。

    ちなみに、私はもちろん教会に行く人間ではありません。


 いろいろ あさの 00年12月06日21時29分

   こんばんは、どうも。かつこさん、納得しました。
   生きることは重荷であるからこそ、生きるための意味を知らなくても生きてゆける力を
   神は人間に与えてくれたのかもしれませんね。

   しょしんしゃさんの書き込みもじっくり読んでいろいろ考えようと思います。
   スヴィちゃんは全く興味が尽きない人物ですね。


いろいろ。 しょしんしゃ 00年12月06日09時34分

●@* ラス は アリョーシャ か? *

なぜか・・?
すヴぃ に 比べて単純思考 を まぬがれない。
・・・そして つきつめて ゆっくりと 考えを とめないで すヴぃ に 思いを馳せると。
あんなに 悪人と思っていた すヴぃ が 真実の愛に目覚めて のがれられない 様子は
いとおしさまでも 感じてしまう。
では 最初の奥さんを 殺した 罪は どうなるの??

最初の奥さんは だれもが そうであるように・・・ 愛は なくなっていく。
ときめきは なくなってゆく。
最初から 愛は なかった?。

真実の愛に。 自分をなくせるほど 没頭できる愛に。 自分が相手が 高貴な精神になれる愛に
めぐりあえたとき。
その 歓喜で 自分の思いを 伝えられなかった としても 歓喜で 神に なって 人生には
高貴な絶望もあるという そういう問題をかかえている人間の代表として
高貴な精神のまま 歓喜のうずに満たされて ≪不満があったら 死ねないはず。人生に
不満足な 時点では 死ねないはず≫・・・歓喜の渦の中で 死を すヴぃは 選んだのか??

ドスト氏は すヴぃ に スメルジャコフ 同様 罪を与えたのではなく 満足感 歓喜の やるべき自己の精神の
行動はとった 自己にとっての完璧人生を 歩ませたのか。??。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●A* 暑中お見舞い、申し上げーます。>ALL Seigo氏 00年07月28日01時36分 *より 感想。。
 ・・・・・・・ 転記 開始 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    

      「生まれてはじめてドストエフスキーを読んだ晩の経験は、ぼくの生涯でき
       わめて重大な出来事だった。初恋よりも重大な経験だった。それはぼくに
       とって意味を持つ最初の慎重な、意識的な行為であり、それは世界の相貌
       をすっかり変えてしまった。一気に飲み干すようにはじめて彼の作品を読
       み終え顔を上げた瞬間、本当に時計までがとまったかどうか、もう今では
       覚えていない。しかしその一瞬、世界が停止したことだけは覚えている。
       ぼくが人間の魂の内奥をのぞき見たのは、それがはじめてだった。それと
       も、ドストエフスキーは己の魂をさらけ出して見せてくれた最初の人間だ
・・・・・・・ 転記 おわり ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       (p260〜p261)
◆ドストエフスキーは己の魂をさらけ出して見せてくれた最初の人間だ
       った、と言うにとどめようか?」
◆ドストエフスキーは己の魂をさらけ出して見せてくれた最初の人間だ
       った、と言うにとどめようか?」
◆ドストエフスキーは己の魂をさらけ出して見せてくれた最初の人間だ
       った、と言うにとどめようか?」

● 魂をさらけ出すことが 『カラ兄弟』に通ずる。
◎一粒の麦・・が 死ぬ ・・ことにもなり それだけ 魂をさらけだすことは
自己にとって 自分の魂を 犠牲にしてまでも 自己の内奥を明らかに
したい。伝えたい。・・・・・・そして それらの魂をさらけだした
精神 魂に ふれた 人の 人生の 指針に なるかもしれない。。。っという
ことなのでは。。っと 思います。ここらへんに 一粒の麦の
結論を もってきつつありますが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●B*ラス と スヴぃ*

ラス と すヴぃ は ふたりとも 偉大な自由という概念を実行した人である。
ラス は 社会 世界 に 精神の自由の 眼を むけた。
スヴぃ は 自分の内応の 精神の 自由に 眼をむけた。

ラスも すヴぃ も おなじような 強力な力で 眼を むけた。
ラスも すヴぃも 同じような 探求心で 自由というももっとも人間にとって
魅力的なものに 心身ともに 没頭した。
ラス も すヴぃ も 自由 というものに 取り付かれて 消化 吸収 乗り越えを
したかった。

ラス も すヴぃ も 夢中 没頭 にかけては 人並み以上だった。
ラス も すヴぃ も 夢中 没頭に かけては 我をも 犠牲にすることに なんら 躊躇も 価値も
感じなかった。
らす と すヴぃ にとっては 『生きる』 ということが 『信じた行動』こそが
生きている という 実感であったから。
らす も すヴぃ も 自分の中のこころ 身体と 合同 そのとおりを しない
観客という『こ・と・ば』に 自己のこころ 身体を 委ねることなんて。・・・ けっして 出来なかったのだ。
・・・・・・ 出来なかったらしい 。・・・・・・
観客という『こ・と・ば』に 自己のこころ 身体を 埋没してしまうことは 息をしているうちは
・・・ けっして 出来なかったらしい。

自己実現 いくおーーる 『自己精神の自由』であったらしい。

そして。
ラス は 外部に 憤りが むかい。
すヴぃ は 自己内部 深奥に 憤り 自己実現の 要求 が むかった。

すると。
神は ドスト氏は ラスを 新生 させて すヴぃ は 新生させなかった。
つまり 小説 『罪と罰』で すヴぃを 自殺 自己抹殺 の方向に むかわせたのは・・・。
間違いではないの???????。

そして。
ふと・・ ふたたび・・ 神 ドスト氏の真意を 考える。・・・・・・・・・・・・・・・ 無限大に ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

伝言 版の ページの サルトル や 『大衆の反乱』 の大衆文化 誤った 自己主張 自由の観念
偉大であるような 人生の徳 のような 人 すらも 安易に 否定してしまう 大衆の文化を
おもった。自己の自由 自己のまわりの自由にのみ 感心を 精力を 費やす 大衆という
大きな とらえどころのない ひょっとして 与えられるだけでいい 思考することの 嫌いな
巨大な 大衆文化 に たどりついてしまった。
すると 『カラ兄弟』 の イワンの 悪魔の紳士 の章を 思い出してしまいます。
大半の 人々は “もしも 衣食住 を 満たしてくれるのなら 強い指導者への服従
を 望んでいます ” っという 個所です。
強い指導者 は 衣食住 を 与えたら なにか 精神の自由を 奪いそう。
与えられるだけで 満足するという 大衆は 衣食住 が 満たされた 時には 指導者を 尊敬するのは
やめて 精神の自由を あるいは 大衆 自らが 指導者 になりたい。。っと
暴動 を おこすでしょう。

つまり・・ 弱いときには 強い権力の下で 加護を 求めるし。
強く自分が なった時には すでに 権力は 微塵なりとも 求めない。

そして 大衆 というのは 一般的に このような 考え方をして。

そしたら ラス と すヴぃ は どうかというと・・大衆 の一員かと いうと。
ドスト氏の 小説に でてくる 登場人物は すべて そうであるかもしれないのですが。
ラス と すヴぃ は「 大衆の一員ではない。」っと つまり 自分の すべてを 認め
こころと身体が 要求するとおりに 行動する。っという自覚 が ある。らしい。

つまり 弱い人間 強い人間に わけると 強い人間に 属する。

強いとは 。。。 自己実現 自己 に 正直 に 生きたい人たちを いう。
真実の追究に なっているらしい。
強いとは 。。。 自己精神を 他人に 売り渡さない人 を いう。
かみさま だけには いいのかもしれない。

そして。
『罪と罰』 の ラス と すヴぃ に 話を 戻して。
ラス もすヴぃ も 自己実現 自由な 精神で おこなった。

ラス は 世間のありかた 貧富の不平等 能力 ある人は世間をよくする という誤った考え
老婆は 悪い事をしているという誤った考えで 老婆 を 殺した。
すヴぃ は 恋愛で 最初の妻を 殺した。

ラス が なぜ アラーの神 で すヴぃ が なぜ アラーの神ではないのか??。

ラス も すヴぃ も 神の前で 同質の 罪を 犯したのでは ないのか。?!!。

それでは もういちど 新生して 新しい人生を 歩める 歩めないかは・・。
?【愛の力】? かあ???。(?・?)
ラス は ソーニャ の 愛で 新生の 第一歩を 踏み出せた。
もう 一方の すヴぃ は 《愛》で 間違いを おこしてしまったので
新しい《愛》 に 献身的な 神ととりかえてもいいような一瞬感じるでもいいですが。
《愛》 に 出逢う時が 新生して 神聖な時間を感じる 人間となれたかもしれないのに。
自ら 死を 選ぶという 過ちを ふたたび 犯してしまった。
すヴぃにも やはり 【空気】 【新しい空気】 が 必用だった。偶然でも
【新しい空気】に 飛び出すことが できたら 救いは そのうちに
現れて きたかもしれません。
・・・・・・・・・
つれずれなるままに。飛びました。(ラス:ラスコリーニコフ スヴィ:スヴィドリガイロフ デシタ)
そして 今は 『智恵子抄』高村光太郎』 中村 稔=編 角川文庫 を 2,3日で 読み終わった ところです。
・・・・・・・・・


冬の夜のひとりごと かつこ 00年12月06日00時53分

   申し訳ございません。言葉が足りなく表現力の乏しさを許して下さい。
   血統の断絶と表現しましたが、肉体の滅亡(肉体の死)とかの意味とかとは
   ちがうのです。たとえばイエス様とかはキリスト教徒にとっては罪のない立場で
   生まれたと信じられています。たとえ話が悪いのですが、人間は生きながらにして
   罪の清算(生まれ変わること)が出来る可能性をもっているのですよ。
   そうでなければ宗教自体必要のないもので、人生80年楽しく悔いなく生きて行けばいいだけです。
    
   ではどうして人間は罪を犯してまで生きていかなければいけない存在なのか
   私の個人的な意見ですが、この宇宙を創造した意志をもった神様の
   宇宙を創造した目的、人間を創造した目的、生命の意味を知らなければ
   私自身の生きる意味、目的が解らないということなのです。
   生きる意味を知らなければ、愛も喜びも幸福も本当の意味でみつけることが
   できないと思っています。私は直感で罪があろうが天変地異が起ころうが
   人間は生き続けなければいけないと思っています。
   私は自分の意志で生まれたわけではなく、命を与えられて生まれてきたし
   神様は人間を愛しています。神様の為に生きなければいけないと思っています。   


罪の逆? カメ 00年12月05日21時12分

    どうもドスト氏は「人間いかに生くべきか。」のような問題に正面から当たります。
    
    「生存」あるいは「満足」を求める生き方は、全て罪だと聖典に有ります。
    「信仰によらぬことは全て罪なり。」だそうです。

     では罪の逆の生き方は、「死」あるいは「犠牲」とでもなるのでしょうか?
     
     ここに来て、わたしは意外に勉強になりました。カラ兄も久しぶりに目を通し、
     最初のところを裏読みして楽しんでいます。


  業 あさの 00年12月05日14時18分

   君はこれからもその重荷に耐えていかなくてはならない
   耐えていかなくてはならないのだ
   これからずっと・・・ 長い間・・・

   お前に枕を与えようとは思わない
   ただこちらへと招くだけだ

   君はこれからもその重荷に耐えていかなくてはならない
   これからずっと・・・ 長い間・・・

   そして、最後の最後には
   お前の手にした愛はお前の生み出した愛と同じものになるのだ

   from the last number of The Beatles "Carry That Weight/The End"


  僕が僕なりに「カラ兄弟」から感じた「一粒の麦」観 あさの 00年12月05日02時50分

   >「悔い改め」をしたり「神様への信仰」をもったりすることで人間の罪とか悪とかはなくならない
   確かにそうだと思います。
   「血統の断絶」あるいは「肉体の滅亡」だけが罪を終わらせることができる、
   すなわち「死」こそが唯一の救済である、ということにも同意します。
   しかし!「一粒の麦」の意がこれだけではあまりにも元気が出てこないのではないでしょうか?
   どうせ生きているなら罪深き身でも生きている間にするべきことがあるんじゃないでしょうか?
   現に私たちは生きているわけであり、美しいものや生き生きしているものを愛しているわけです。
   「自分こそは罪深き存在であるということを心から認めた」者は生への愛さえあれば
   生けとし生ける全てのものの赦しを乞うであろうし、またそうすることに喜びを感じるのではないでしょうか?
   生への愛によってのみ我々は罪の意識から来る厭生観から救われるのです。
   「一粒の麦」は「いかにして生きるべきか」という疑問にも答えていると考えたいからこそ、
   「死」はもっと象徴的かつ広義に捉えるべきではないか、と僕は思うのです。

   「このけがらわしい世界の中の死で終わるのではなく、よりよい世界を、復活を、
    授けられる者になろうではありませんか。」 


今晩は かつこ 00年12月05日01時28分

   あさのさんたとえば「悔い改め」をしたり「神様への信仰」をもったりすることで
   人間の罪とか悪とかはなくならないです。血統的なものなのですよ。
   生まれながらにして罪を背負って人間は生まれて来ます。
   どれだけの素晴らしい聖職者であっても彼らから生まれて来る子供は矛盾した人間であり
   罪びとなのです。イエス様が言われている「死」とは血統の断絶の意味に近いものです。
   宗教者のだいたいの人達は人は魂と肉体で出来ていると信じています。
   私も肉体は滅んでも魂は生きつづけると信じています。でも魂は生きつづけますが
   実は死んでいるのと同じ状態でしょう。おやすみなさい。   


  洒落た邦訳 (二二が四は死の始まり?) Seigo氏 00年12月05日01時26分

     追記:

     キュータさんが挙げてくれた、小沼訳の『カラマーゾフ兄弟』の第12編末部の

       >「これでミーチェンカも一巻の終わりか!」

     という、小沼氏としては気をきかせた、随分思いきった訳し方は、
     小沼訳では『カラ兄弟』をまだ読み通していない私には、初めて聞き、面白かったです。
      (米川訳では、「そして、ミーチャを片づけてしまったんだ!」)
     尤(もっと)も、
     『地下室の手記』の中の、

       「よく考えてみれば、諸君、二二(ににん)が四(し)というのは、もう生ではなくて、
        死(し)の始まりではないだろうか」(新潮文庫のp53)

     という邦訳の、「し」の絶妙な語呂合わせの一大傑作さには、かなわないでしょうけどね。
      
       100%退出。


 「一粒の麦」の話をめぐっての意見交換の再燃、歓迎です Seigo氏 00年12月05日00時57分

     このボードで以前(7〜8月)挙がり、けっこう意見交換していた、
       (その自他の書き込み記事は、このボードのずっと下方にまだ残っているようです。
        それらの記事をまだ読んでない人は、下方を、ブラウザの検索機能でたどってみて下さい。)
     『カラ兄弟』の最初にドスト氏が掲げた、

      「よくよくあなたがたに言っておく。
       一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
       しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」
                      (新約聖書の「ヨハネによる福音書」の第12章24節)

     の解釈をめぐっての意見交換の再燃、
     お初のかつこさんの下のキリスト教的な信仰的な解釈を初め、皆さん、どうも、です。
     その時は、私の方からも、ネット上で見つけた上の聖句についての諸氏の解釈を紹介
     する予定だったのですが、せずじまいで、この聖句をめぐっての意見交換はそのまま
     終わってしまっていたので、これを機に、今度、私の解釈も含めて、あらためて、こ
     のボードに書き込んで紹介してみます。
      (その中には、
       「死ななければ」「死んだなら」の箇所は、イエスが正確に用いた比喩として、
       麦という作物の具体的内容としては、どういう状況のことを指して言ったのか、
       そこからまず考えている解釈などがあります。)
     この箇所は、解釈が難しい箇所ですか、内容的には、
     『カラ兄弟』の根本テーマに関わる聖句として、
     興味深い大事な箇所だと思うので、さらに、いろいろ、解釈や意見を聞かせて下さい。>皆さん

      今晩は、このへんで、退出します。
         


 ドスト氏の稀少古書には目がない人 Seigo氏 00年12月05日00時47分

     あさのさんが今回、
     >『ドストエフスキーの面白さ』(中村健之介著、岩波ジュニア新書)
     を古書店で、しかも50円(!!)でゲットしたなんて、
     あさのさん、ほんと、大の上に大がつく大ラッキーですよ。
     自分としては、うらやましい限りです。古書の女神は不公平というか、
     心やさしいあさのさんの日頃の心掛けの徳の現れなのでしょうね。
      (自分は、この本を、この五、六年、各地の古書店やネット上で探し回っているのですが、
       いまだ見つけ得てないのです。市内の県立図書にはあり、研究用ということで以前全文コピー
       させてもらって現在所持はしているのですが、やはり、現物が欲しいわけですね。
       値段が50円だなんて、その古書店の店主は、この品切れ本の希少価値が全然わかって
       ませんね。ゲットしたのは、関西のどのあたりにある古書店なの?>あさのさん
       自分が店主だったら、売り値は4980円はつけるでしょうね。)
     一方、お久しぶりのりきさんは、
     >埴谷雄高の「ドストエフスキー」(NHKブックス。日本放送出版会1965年初版。)
     を古書店で入手したということですが、
     >長いこと探していましたので、
     とは、現在も市販中と認識していたこの本は、ここ何年か前に、品切れになったのでしょうかね。
      (自分所持の分は、奥付(おくづけ)は、「1997年3月第39刷発行」となっています。)
     埴谷雄高氏は、ドスト氏の小説の作風などの考察に多くのエネルギーを注ぎ、ドスト氏に関する膨大
     な論考を残しており、
      (1974年に講談社から出た外装が黒ずくめの箱・装幀の『埴谷雄高ドストエフスキイ全論集』は、
       全1350ページ余りの重さが2sもある浩瀚(こうかん)な本です。)
     各論考や対談の随所に見られる、ドスト氏の小説の特徴に関する氏の鋭い洞察と深い理解は、
     近現代のドスト氏研究において、まさに、ヘビー級・横綱級と言えるでしょう。
  
     寄った古書店で、ページ内のこちらに挙げているドスト氏関係の古書を見つけ、かつ、
     自分では買う予定がない場合は、私の方に御一報下さいね。>皆さん
      


  死、不死 あさの 00年12月04日03時08分

   「一粒の麦」の話では「死」が何を意味するかというところもポイントのようですね。
   かつこさんの言う自己否定というのは「悔い改める」とか「自我を捨て去る」とかそういうことに
   近い概念なのだろうか、と思ったりしましたが、どうでしょうか?
   人によって色々な解釈がありますが、そのどれも頷けるものなので、
   あるいはイエスはこれら全てを含む意で発言したのかもしれないな、と感じたりしました。

   一方、「カラ兄弟」では不死ということも一つのテーマになっていると思うのですが、
   それはこの「一粒の麦」的な不死のように思います。
   子供を失った婦人に対するゾシマ長老の言葉やイリューシャの死に際したアリョーシャの言葉
   などからそう感じました。「死ぬ」ことによって「不死」を得る、とも言えるでしょうか。
   そういう意味でもスメルジャコフの死はあまりにも悲劇的です。
   「人間誰だって憐れんでもらうことが必要です」(創作ノート)
   「このけがらわしい世界の中の死で終わるのではなく、よりよい世界を、復活を、
    授けられる者になろうではありませんか。」(姪ソフィア宛の手紙)
   ちなみにどちらも「ドストエフスキーの面白さ」からの受け売り引用です。。。


はじめまして かつこ 00年12月04日00時39分

   たまたま探し物をしているうちに、このホームページにおじゃましているのですが
   バイブル(ヨハネ福音書12章24節)の一粒の麦の話ですが、個人の意見を
   言わせて頂きますと、イエス様は人はみな生まれ変わらなければ、神様の国へ行くことが
   出来ないようなことを言われているのですよ。私が思うには、人は生まれながらにして
   矛盾した存在だと思うし、善人でもあり悪人でもあるし、信仰の世界へ飛び込んで
   行く為には、どうしてもまず自分自身を否定して行かなければ行けない道だったり
   するのです。一粒の麦の話に出てくる死というのは、矛盾した人間の魂の死を
   意味すると私は思っています。
   すみませんあまりドストエフスキー詳しくないのですが、こんなに宗教感のある人だった
   とは思いも知りませんでした。驚きました。


天地  旅人  00年12月03日23時08分

 天を指して誓うな、そこは神の御座であるから。地を指して誓うな、そこは
神の御台であるから。
 というフレーズが新約にあったような記憶があります。
 「一粒の麦」とは、直接関係しない連想です。


  大地 あさの 00年12月03日20時07分

    こんばんは。今日はなんと「ドストエフスキーの面白さ」(中村健之介著、岩波ジュニア新書)
    を古書店でなんと50円でゲットしてしまいました。大ラッキー!

    学生に「なぜロシア文学が好きなんですか」と訊かれて中村さんは返事の代わりにソ連のシンガーソン
    グライター、ブラート・オクジャワの歌を学生に聞かせたらしいです。

     ----  あたたかな土に わたしはぶどうの種を埋めよう ぶどうの蔓に口づけし 熟れた房をもぎとろう
          そしてともだちを呼び わたしの心を愛の調べに備えて整えよう
          そうでなければ
          なんのために このとこしえの大地に わたしは生きているのか  ----  

    豊かな麦の実を結ぶ人の心のごとく。。。


記憶違い カメ 00年12月03日19時22分

     しばらく前にパンセの一文やはり有りました。恥ずかしながら、完全な物忘れでした。
    もしかして、ご覧の方は、早く忘れましょう!
     わたしは、学問的に研究しているわけではないので、間違えていることは、良くあります。
    パウロも「愛とは、悪口を言わないことだ。」とずいぶん長いこと間違って覚えていました。
    


『古今和歌集・仮名序』 SEXY F.M. 00年12月03日11時08分

「和歌(やまとうた)は、人の心を種として、
 万(よろづ)の言(こと)の葉とぞなれりける」
 
 カメさんの「一粒の麦」に就いての書き込みを見て思い出しました。


「地」について カメ 00年12月03日09時21分

     ドストエフスキーに興味のある人なら誰でも、彼にとってイエスは、重大な存在
    だったことは良く知られていることです。私もドストエフスキーから学んだ体験を
    きっかけに、聖典に目を通すようになった一人です。旅人さんのご指摘ように
    「一粒の麦」を「個人の行為」とすることに反対するつもりは、全くありません。

     ただ、地についてですが、「御心が天になされるごとく、地にも」とあり、御心
    は明らかに神の心ならば、地は「人の心」と考えています。


Re:一粒の麦  旅人  00年12月03日00時38分

 たった一人の行い、くらいが普通の解釈かと思います。
 解釈の正否は別として、一つの言葉が一個の人格の中で増殖する、ということは、
現にありますね。同じ言葉でも、ある人は看過し、他の人は大きく育て上げる。そん
な言葉は誰しも一つや二つあると思います。


  あさの Re:一粒の麦 00年12月02日21時52分

  「一粒の麦」にはかなり関心があります。
  麦=言葉、地=人の心というカメさんの意見も納得です。
  この場合の「言葉」は広義の意味で人間のあらゆる行為を指すと考えるのですね。
  麦は地を潤すために地に落ちて死ぬのだと言うことでしょうか。
  みなさんの「一粒の麦」観をぜひ聞きたいです。


一粒の麦 カメ 00年12月02日20時42分

     ある本で読んだことを、参考にして、麦とは言葉のことではないかと思っています。
     地とは、人の心だそうです。

     いろいろ書き込めそうな気もしますが、私がそれを考えたわけでもなく、手に負える
     自信もなく、今日はこのへんで。
     


オチ  キュータ  00年12月01日11時12分

 くだらないことなのですが、小沼訳の『カラマーゾフ兄弟』では、
 ラストの台詞(エピローグ除く)が、『これでミーチェンカも一巻の終わりか!』
 となっていて、なんとなく話に、オチが付いてる感じがあって、僕は気に入っています。


本当にご無沙汰しています。  りき  00年11月30日23時33分

SEIGOさん、こんばんは。
以前、北条民雄の件で、生意気な指摘をした、りきと申します。
その節はありがとうございました。

先日、埴谷さんの「ドストエフスキー」(NHKブックス)を、古書でみつけました。
長いこと探していましたので、みつけたときは、うれしかったです。
あの本は、埴谷さんにしては分かりやすい本でした。
文学でしか表現できないもの。感覚的にしかつかめないものの表現に優れたドスト氏。
そして、「成長する作家」という規定。
非常にためになりました。


   頑張ってください!2 あさの 00年11月30日19時45分

   人生においては自分の本当にやりたいことを見つけることがすごく重要で困難なことだと思います。
   「ロシア文学がやりたい!」ということが分かっただけでも十二分にモラトリアムの意義が生かされた
   のではないでしょうか。一ロシア文学ファンとして再びエールを送らせていただきます。


ありがとうございます  ユウスケ  00年11月30日17時34分

あさのさん、ありがとうございます。
じつは「今ごろになって志望を変えて」
と四面楚歌の状態だったのでとても嬉しいです。
まだドストに関する知識、そしてロシア文学は乏しいですが
頑張ります。ありがとうございます。


   頑張ってください! あさの 00年11月30日00時21分

   ユウスケさん、こんばんは。
   多くの若者が明確な目的意識を持たずにとりあえず進学する(偏見かな?)なか、
   好きなロシア文学を学ぶために日夜励んでおられるのは素晴らしいことですね。
   これから追い込みの時期になりますね。風邪など引かないよう気を付けつつ頑張ってください!


  ユウスケさんへ Seigo氏 00年11月29日20時49分

     ユウスケさんへ

      下のお尋ねの件について、先ほど、そちらに、メールしました。


はじめまして  ユウスケ  00年11月29日17時55分

こんにちは。僕は広島に住んでいる浪人生です。
今夏友達の紹介でドストエフスキーにはまり、
大学で本格的にロシア文学を学びたいと思ってるのですが、
いかんせんロシア文学を学べるところと言ったら
東京、上智、早稲田、東京外語・・・
そうとても手の届かないところばかりなんです。
僕自身、色々調べてはいるのですが
なかなか見つかりません。
そこでインターネットで調べてみようと思ってみたところ
偶然このホームページを見つけ、皆さんのちからを
お借りしたいと・・・
どこかいいとこありませんか。
すいません
いきなりこのようなことを聞いて。
でもなにか良い情報があればお願いします。


 小林秀雄のドスト氏の作品論 Seigo氏 00年11月29日01時51分

     下でカメさんが挙げてくれた一文は、
     小林秀雄の「罪と罰についてU」の中のものですね。     
     小林秀雄に填(はま)っていた私も最初に読んだ時、印象に残った箇所ですが、
     カメさんと同じく、小説を読む上で大事な極意(ごくい)を述べていると私も思いました。
     小林秀雄のドスト氏の作品論は、難解な箇所が多いですが、私はこれまで愛読してきました。
     非凡な感性と紙背(しはい)に徹する眼光で作品を身をもって読む小林秀雄氏の、
       「「罪と罰」について(T・U)」
       「「白痴」について(T・U)」
       「「悪霊」について」
       「「カラマアゾフの兄弟」」
         (いずれも、新潮社の新訂「小林秀雄秀雄全集」第6巻に所収。)
     などのドスト氏の作品論は、名調子で読みごたえがあり、おすすめです。   
          


ヒントになったこと カメ 00年11月28日21時06分

     本を読むとき全般に、参考になったのは{ 蝋燭は消えかかり、「五分か、それ以上も経った」と作                          
    者は 書いているのに、読者は、ここで何故一分の沈黙さえ惜しむのであろうか。 }という一文でし   
    た。 
   
    ではまた


  永遠の問いかけ あさの 00年11月27日18時14分

     ドスト氏の精神は正解不正解の中ではなく、混沌への永遠の問いかけであるという
     しょしんしゃさんの意見には全く同感です。
     (って僕がまるっきり初心者なんで「しょしんしゃさん」って呼びかけづらいんですが)
     アンチテーゼも徹底的に追究するのがドスト氏の精神ですね?
     もちろんそのような精神の産物である小説の解釈も多角的であるべきですね。
     追伸:SEXY.F.M.さん、「スヴィリドガイロフ論序説その2」楽しみにしてます。


解答がないのが・・・ドスト氏の小説。ドスト氏も答えがひとつではなかった? しょしんしゃ 00年11月27日03時38分

解答がないのが 正解をおしつけがましく無理強いしないのが 
ドスト氏=精神の自由の謳歌派 の 小説ふうであって。
ドスト氏は 『一粒の麦死なずば・・・』の如く あからさまに矛盾があるとも
 ないとも考えずに すべての自分のなかの疑問の混沌 思考の混沌 苦悩の混沌 
善悪の混沌を 世の中に暴露することを ・・ 最後が 集大成 『カラ兄弟』でしょうか。
使命感を感じたのでは。
『罪と罰』は 相当 アバウトな読み方で ・・初心者としては あと 2かいは 集中して
 表を主な人物ごとに 作ったら ・・はっきりと するかも。と。思いますが。
 『カラ兄弟』 『地下室の手記』ほど まだ 夢中になれず。何回か読みなおすのは しょうしょう後。
  『悪霊』とか 『未成年』その他の 短編 などに すすんで ドスト氏の 『ワッ!!』という
   新しい世界に触れたい。
随分 自分としては ちょっと 久しぶりの登場でした。
Seigo氏さまには この掲示板で 凝縮していない読み方から 自分なりにこの辺で いいかあーー!!。
   っという読み方まで 《書かせて いただき》 感謝です。
   頭の中で 思考するより 書いてしまうほうが その先に 思考は すすむ。
   他の人の ちょっとした 言葉で 刺激され どうかなあ?そうかなあ?っと
   反芻しつつ 小説の内容を 深めることができます。
『罪と罰』は まだ 大きな内容を コンパクトに自分のなかで 整理はされていませんが。
  自分なりに ふうん。ふうん。ふうん。っと いくつかの束が 存ります。
  それを コンパクトにまとめるのは ずっとあと。自分特有の解答に突き当たるのが。。
快感 楽しみ。
しかし いま 『城』カフカを 読んでいます。まだまだ はじめのほう。
いろいろと本も思考も途中ばかり。
  


  いろいろ あさの 00年11月27日01時50分

  実は最近『デミアン』にはまってしまい、『未成年』はなかなか進まないでいるあさのでした。
  『デミアン』も読了したので、これからじっくりと味読して、
  『未成年』の魅力をこころゆくまで味わっていこうと思います。
  清水さんの小説は続きはないのですか?かなり気になるところです。 
  地下室人さん、素晴らしい論文が書ければいいですね。
  ザクさん、僕も小学か中学の頃『罪と罰』を読みました。
  僕の場合意味がよく分からず、結局毒にも薬にもなりませんでしたが。。。
  中学時代は一気呵成に多数の本を読み上げるには最適の時期かもしれません。
  村上春樹氏も中学時代は勉強しないで本ばかり読んでたらしいです。
  僕のように28歳にもなると、長編小説を読むには気合いと要領が必要になります。
  若い世代の感想も聞かせてください。って僕も若いはずなんだけど。。。


 私も近年あらためて好きになってきた『未成年』 Seigo氏 00年11月26日19時07分

     >Seigo氏への回答 カメ 00年11月21日20時11分
     >彼とはドストエフスキーのことです。
     >若いころ、事故で死にそうになりました。ドスト氏の言葉を受け入れていた私は、
     >助けてもらったのです。

     ドスト氏のある言葉が強い支えになったとは、ほんとに、すばらしいです。
     私の場合、カメさんのような体験はないですが、
     ドスト氏の種々(しゅじゅ)の言葉は、
     あさのさんが下で触れて、「生への愛」と述べているように、
     私の世界観・人間観・人生観(世界・人間・人生(の深部)への愛(感謝)や信頼)
     を、いろんな意味で、これまで、かけがえなく、深めてくれてきた
     と思っています。

       * * *
     
     あさのさんが今読んでいるというドスト氏の
     『未成年』は、
     私も、近年、好きになってきたドスト氏の小説です。
      (私Seigoの場合、ドスト氏の長編のうち、近年再読して、その魅力にあらたに気づき、
       より好きになってきたのは、この『未成年』と、『悪霊』ですね。)
     『未成年』は、『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラ兄弟』に比べれば、
     内容面・思想面で、地味・雑駁(ざっぱく)の感があるかもしれませんが、
     ルージンさんも下で言っているように、自己の過去の生活の語り手である主人公の青年ア
     ルカージイの、しばし若気(わかげ)の振る舞い(言動)や短気ながら憎めない人柄の魅力
     を初め、
      ・ヴェルシーロフ・アルカージイという父と子の関係(きずな)、
      ・巡礼から戻ってきたマカール老人という人物像とその思想の魅力、
      ・ヴェルシーロフとアフマーコワ将軍未亡人の愛憎やアルカージイの思い寄せや
       悪友ラムベルトのたくらみなどがからむ、一つの手紙をめぐっての、小説の末
       部の、手に汗握る攻防、
      ・ワーシンとソコーリスキー公爵に対するリーザ(アルカージイの妹)の恋の苦悩、
     など、種々(しゅじゅ)、味わいや面白さがありますから、
     今後の展開、期待して下さい。>あさのさん
       
       * * *

     旅人さんが下で引用してくれた、
      寺田透『ドストエフスキーを読む』(筑摩書房1978年初版)
     有容赦さんが下で紹介した、
      高橋誠一郎 『「罪と罰」を読む』 (刀水書房刊。1996年初版・2000年11月改訂新版。)
     は、いずれも、独自の視点に立った好著であり、おすすめです。

     清水さん、
     下の創作、一部、ドスト氏の作品を踏まえているのでしょうかね。
          
       一時退出。          


黄金の夕焼け 清水 00年11月26日17時57分

 Fは伊勢丹側を三越を左に見ながら早歩きで歩いた。気持のむしゃくしゃは、なかなか治まらなかった。
『全く女の腐ったような連中だ。けつの穴が小さいんだ。』次々に腹いせの言葉が頭を駆けめぐる。
『課長がいないときはすんなりと帰るのに。今日などめずらしく部長が事務所にいて、時間を過ぎても机にへばりついていると、みんな途端に忙しそうな振りをする。書類を広げ、パソコンとにらめっこだ。全体に仕事の密度が薄すぎるよ。時は金なりだ。サラリーマンは労働を売って賃金を獲得しているのだ。』 いつまでも、周りの様子をうかがいながら、つきあいで居残っている同僚たちへの呪詛がまたまた沸き上がってくる。
 『Iなんか子供が出来たばかりだろうに。だれが赤ん坊を風呂に入れるんだ、早く帰って奥さんの協力をすべきだよ。あいつ、絶対自分より上の者が居る限り、先に帰ったためしがないな!職場の奴隷か』
 Fは「お先にあがります。」と一人で声を掛けたときの、職場の無言のオーラを思い出してまた嫌な気持になった。そのオーラは『いつも一緒・みんな一緒』と言っているようだった。
 紀伊国屋の前に来ると、さて信号を渡って向こう側に行ったものだろうか、そのまま真っ直ぐ進んだもんだろうかと、考えた。中村屋の前はいつものように、会社帰りのサラーリーマン風の人や若者たちでごった返していた。靴屋の前をそのまま歩いて進むと、次の交差点の信号がちょうど赤に変わった。
 その時、Fは目を前に上げてハッとした。
 新宿西口の建物群の真上が、見たこともない夕焼けで彩られていたのである。黄金の夕日だった。ある部分は真っ赤に、別の部分は青くいろどられていた。浮かんだ雲のへりが、既に夜の近いことを予告するように灰色に変わっているものもあった。Fはまだ明るい青空が、血のように赤い部分とあわさる辺りに、数年前見た、ローマの夕焼けと全く同じ感慨を持った。
 信号を渡り、そのまま階段を下り、ごった返す改札付近を抜けると、8番線の快速東京行きの階段を登った。
 Fはいつも最後尾に近い辺りから乗り込む習慣にしている。階段に近いので降りる乗客が多く、車両が比較的すくのである。前の東京行きは行ったばかりとみえて、比較的ホームはすいていた。向こう側は下りの快速のホームである。
すでにかなりの混雑ぶりだった。Fは先ほどの黄金の夕焼けの名残を西口小田急の彼方に見つめていた。
 不思議とさっきまでの怒りの感情はおさまっていた。前のホームの左手、はるかかなたに四谷からの快速電車の丸いランプが2つ近づいて来ていた。すると、おやっと思う間もなく、小さい小学生が2〜3人ホームのへりでふざけあっていた固まりから、1人の男の子が線路の中央に転げ落ちるのが見えた。
 Fが左から近づいて来る電車を見るのと、線路内に突進しようとしたのはほとんど同時だった。あたまの中には何もなかった。ただ反射的に子供を助けなければという、自分の内からの声がしていた。Fがまさに線路の縁から飛び込もうとした瞬間、もの凄い力が自分の左肩にぶつかって、Fは自分の立っていた側のホームにはねとばされるのを感じた。 ひっくり返りながらも、斜め前を見据えると、紺のスーツを着た初老の男性が線路内に駆け下りていた。その人は、両腕で小学生をかかえると同時に「オー」というような声を上げて、その子供をホームの上に投げ上げた。アッと思う間もなく、ギギーギーと今まで聞いたこともない音を上げで快速電車は、その人を巻き込みながら停車していった。


 ドスト氏の作品の内にある種々の毒気にはくれぐれも気をつけましょう Seigo氏 00年11月26日17時51分

     今中学二年生というザク君、ドスト氏で卒論提出間際という地下室人さん、
     ページへの来訪、ページ内の情報の利用、お初の書き込み、 
     ありがとさん、です。  

     ザク君は、従姉のお姉さんの強力な指示で、(坂本龍馬とそのお姉さんの関係みたいですね。)    
     家にあったドスト氏の本で、(ドスト氏全集の分でしょうかね。)ドスト氏の主要小説はすでに読
     破したというのなら、
      (>以来、家にあるドスト氏の作品を、むさぼるように読破しました
       と書いているから、たぶん、そうなのでしょう。     
       米川訳全集の分なのなら、ザク君のボキャブラリーはかなり豊富になっているのでしょうね。)
     ドスト氏を読み始めたのは私Seigoよりも早いわけで、ザク君は、読書体験においてじつに早熟ですね。
      (ザク君は、いつから(小学校高学年の頃から?)読み始めたのでしょう?
       ページ内にも書いてる通り、私がドスト氏の小説に出会って読み始めたのは、
       私が中学一年の終わり頃です。)
    
     ドスト氏の作品を読みふけった人は、男女とも、少なからず自意識過剰な人間にな
     ってしまうような傾向があると思うけど、
     一部、これまでドスト氏の小説の内容からの悪(あ)しき影響はありませんか?>ザク君
     その一部の悪しき影響からは悪影響を受けないようにすべきだ、
     と私は思ってます。
     その点、今ザク君がトルストイの『戦争と平和』を読んでいるとは、
     ドスト氏の小説から無意識の内にも与えられたであろうそういった種々の毒気抜き
     のためにも、賢明な、いい傾向だと私は思います。
      (ドスト氏の主要小説を私たちが読み始める時期としてはいつごろがいいか
       と、もし聞かれれば、
       高校の初めぐらいか、大学の二年生ぐらいがふさわしいのかもしれません。)
     このボードへの来訪者には、ドスト氏の文学だけでなく、ロシア文学や欧州の文学
     に広く詳しい人が多いので、その方面のことで、
     何か知りたい・聞きたいことあれば、いつでも、このボードに書き込んで、聞い
     てみて下さいね。今後も、よろしく。>貴重な人材のザク君

     地下室人さん、卒論の取り組み、御苦労様です。
     地下室人さんの卒論は、ドスト氏のどういった面や作品を取り上げたものなのでしょう。

     >卒論の参考文献のリストと並んでこのページのアドレスを
     >書こうと思うのですが、いいでしょうか?
 
     参考にしたネット上のHPのアドレスを卒論に記すような時代になったのですね。     
     別にかまいません。歓迎しますので、どうぞ、記して下さい。
      (論文作成において、参考にしたものがあったのなら、そのすべての情報の出所
       を末部に付しておいた方が、良心的でしょう。)    
     まだ発展途上の「ドストエフスキーのコーナー」ですが、
     論文完成へ向けて、ドスト氏のことで、調べ考え尋ねてもどうしてもわからず、
     こちらで聞いてみたいことがあったら、
     どうぞ、いつでも、ボードに書き込むかメールかで尋ねてみて下さい。>地下室人さん
          


とてもお世話になっています。 地下室人 00年11月26日03時37分

     初めまして。地下室人と申します。
     私はドストエフスキーを卒論の題材にする大学五年生です。
     卒論のテーマを決めたのは大学三年の年末頃でした。
     たまたまそのとき「カラマーゾフの兄弟」を読んでいたから、と
     気楽な気持ちでドストエフスキーをテーマにした…それが運のつきでした。
     それからはや二年が経とうとしています。
     エピゴーネンになるまい、として出来るだけドストエフスキーに関する文献は読まず、
     自分で読む努力をしているのですが…それも運のつきでした。
     まったく自分の力量を弁えるのは大事なことだなあ、と思う毎日です。

     などと書いてしまいましたが、すっかりドストエフスキーの魅力に虜にされていることには
     みなさんと変わりありません。
     
     卒論の提出期限も迫り、ワープロに向かう日々です。
     どうしても必要だと思う情報を収集するのに、このページを活用させていただいています。
     ドストエフスキーのページというのは、非常に少ないんですね!驚きました。
     自分の担当教授のHPよりもドストエフスキーに関する情報が豊富で助かります。

     最後に質問があるのですが、卒論の参考文献のリストと並んでこのページのアドレスを
     書こうと思うのですが、よろしいでしょうか?ご迷惑ではありませんか?
     「なんとなくいやだなー」と思ったらご遠慮なさらずに。

     以上です。どうも失礼いたししました。
     


はじめまして ザク 00年11月25日17時25分

はじめまして・・!
ぼくは中2のドスト氏ファンです。
ぼくがドストエフスキーの作品を読み出したきっかけは、その頃漫画ばっかり読んでいたぼくを見かねた従姉が、「とにかく、これだけでも読みなさい」と、半ば強制的に1冊の文庫本を渡されたのが始まりでした。(新潮社の「罪と罰」でした)
幼い頃、両親が離別し祖父母宅で生活しているぼくにとって、従姉は姉であり、母でもあったので、逆らうこともできず、渋々読み始めました。
始めは、ただ活字を目で追うだけでした。ところが、だんだんと、そう、ラスコーリニコフが老婆を殺す辺りから、夢中になって読んでいたのです。
以来、家にあるドスト氏の作品を、むさぼるように読破しました。
ちなみに今は、トルストイの「戦争と平和」を読んでいます。

こちらのHPは、すごく勉強になります。まだ、ぼくはロシア文学の入り口に足を踏み入れたばかりで、本当に無知ですが、よろしくお願いします。


『「罪と罰」を読む』を読む 有容赦 00年11月24日17時42分


      皆さん、どうも。多くの皆さん、初めまして。
      こちらのボードでは、最近、たいへん御無沙汰していました、
      有容赦(ありようしゃ、38歳♂、千葉県在住、東京勤務、既婚子1、理工系会社員)です。

      明日は、ドストエーフスキイの会の今年最後の例会があります。
      場所、時間等は、伝言板に記しますので、東京近郊でお時間のある方は、
      どうぞ、気軽に参加してくださいね♪

      最近、私が読んでいた本について、ちょっとご紹介をと思いまして、
      久々に、こちらに書き込みます。

      高橋誠一郎著
      『「罪と罰」を読む(新版) − <知>の危機とドストエフスキー−』 (刀水書房)

      です。
      東海大学教授の高橋氏は、ドスト会のまとめ役の一人としても活躍しています。
      (有容赦としては、なんとなく、書きづらいですが、
       本ボードの慣例により、適宜、敬語表現を省略しますね。)
      専門は「比較文明論」というスケールの大きな学問で、
      この視点からの議論も盛り込まれているのが、
      本書の大きな魅力になっていると思います。

      『罪と罰』のテキストの緻密な分析がなされているのは、もちろんですが、
      大学の、それも、恐らくは、教養学部(=文学が専門とは限らない)の
      学生を念頭に書かれたテキストでもあり、
      著者の柔和な人となりも反映されて、
      非常に易しく、読みやすく書かれています。

      さて、内容ですが、著者の序文から、少し引用してみます。

      −−− 引用開始 −−−

      『罪と罰』においては、ラスコーリニコフと出会う登場人物たちは、会話や論争の中で
      彼の内にあるさまざまな世界観を浮き彫りにし、ラスコーリニコフ自身も、
      彼らとの対話の中で自分を認識していくのです。そして、ドストエフスキーは当時の
      ロシアにも広がっていた「功利主義」や「弱肉強食」の思想、あるいは「目的と手段」や
      「権力と服従」などの西欧文明にとってきわめて重大な問題を、複雑な人間関係の中で、
      具体的に検討し得てもいるのです。しかも、ドストエフスキーは小説という方法を生かして、
      「非凡人」の理論を、「他者」の殺人という極限的な事態の中で、主人公の身体や感情の
      動きをもきわめて具体的に分析しながら考察することにより、フロイトなどに先だって
      絶望の諸相や人間心理の無意識的な深みにまで迫り得たのです。
                              (「はじめに」より。p8-9)

      −−− 引用おわり −−−

      著者は、最初に「ラスコーリニコフは、なぜ、殺人を犯してしまったのか?」
      という総合的な問いを投げかけてから、
      さまざまな側面から、その「謎」を解く、という、
      原作にふさわしい形に、この入門書を構成しています。
      その解明の過程で、ソーニャ、マルメラードフ、スヴィドリガイロフなど、
      よく私たちが話題にするような人物だけでなく、
      ドゥーニャ、ラズミーヒン、ルージンなど、
      ともすれば、議論の対象から洩れてしまいがちな副人物群にも、
      丁寧にスポットライトを当て、分析しながら、彼らがラスコーリニコフに対して、
      とりわけ当時のロシア社会のコンテクストにおいて、
      どういう意味を持つ存在であったか、を通しても、
      出発点の問いに多角的に迫っています。
      そこから、さらに、「他者」や「良心」の問題にも言及し、
      ついには、世界の平和や、地球環境問題、アイデンティティ・クライシス、といった、
      現代社会の課題にまで、論を進めていきます。
      この構想は奏功して、読者は、比較的平坦な道を辿りながら、
      かなり深みのある幅広い作品理解と、多様な問題意識に到達できるようになっています。
      しかし、そのアプローチは、
      ドスト氏を挟んで、前後左右につらなっている古今東西の文学者の代表的な作品や、
      研究書にも、広範に目配りしていくバランスのとれたものであって、
      斬新ではあっても根拠の薄いような議論は見かけられませんでした。

      本論からは、ずれますが、このように、多くの他の書物への言及があることで、
      この本は、『罪と罰』を通読した人のための読書案内としても、有用です。
      これと関連して、一つの特色として、強力なクロス・リファレンス機能が挙げられます。
      ドスト氏やその作品について、過去、いかに多くの人が多くのことを述べているか。
      本来、研究者は、過去に公にされた全ての見解を出典とともに引用してから、
      自己の見解を述べるのが当然であるとはいいながら、
      それは、非常に煩瑣な作業となります。
      しかし、この著者は、緻密にこの作業を行っています。
      殆ど、1パラグラフごとに、過去の誰かの本に関して、
      巻末の引用文献表が参照されることになります。
      その結果として、一見すると、高橋氏自身のオリジナルな見解の表明が、
      相対的に、少ない割合しか占めていないかのような印象さえ、
      与えかねないのですが、よく読めば、決してそんなことはありませんし、
      私としては、これは極めて良心的な執筆態度である、
      と好感を抱いた次第です。
      しかも、便利なことに、巻末には、この引用文献リストの他に、
      参考文献リスト(「入門書」、「ドストエフスキーと日本文学」
              「ドストエフスキーと現代」などのジャンル別で、
              かつ1行ずつくらいの、著者のコメントつき)と、
      驚くほど網羅的な人名索引
      (アインシュタイン、芦川進一、安部軍治、新谷敬三郎、アリストテレス、、、
       という感じです。これだけでも2段組で5ページもある。)
      がつけられています。
      「ドスト氏について、あの人が、こんなことを言ってたけど、
       あれは、どの本のどこの箇所だったかな?」
      というような場合に、その言及が、運良く、この本に取り上げられていれば、
      (しかも、それは決して、極めて幸運な場合だけではないでしょう。
       かなり多くの評言が取り上げられているからです)
      先に、この人名索引を引いてみてから、本書の各箇所の記述を読み、
      該当する引用文献(全てページ番号つき)を見る、というようなことも可能です。

      なお、この他、ドスト氏とナポレオンのそれぞれに関する略年表もついていて、
      このあたりは、研究者であると同時に教育者でもある著者の、
      親切な配慮と思われます。

      内容的にも面白く、参照の点でも便利で、何よりも読みやすい本ですので、
      『罪と罰』を愛する多くの皆さんに、御勧めしたいと思います。

      それでは、皆さん、よい週末をお過ごしください!



  レス あさの 00年11月22日01時38分

   アルカージイには共感してしまいますね、ほんとに。
   これからが楽しみです。。。
   今日は「谷間の百合」+「ウジェニー・グランデ」で100円!なる物件を古本屋で発見し、即買いでした。


『理想』の箇所だけで判断したかぎりですが…  ルージン  00年11月22日00時12分

     あさのさんが に「伝言・雑記版」に投稿された

        >アルカージイってデタッチメントしてませんか?

     という内容に対する私のレスは、ドスト関係なのでこちらに書かせてもらいますね>あさのさん

     アルカージイの超然としているさまは、『未成年』が放つ最大の魅力のひとつではないかと思います。
     あさのさんは現在『未成年』の最初の方を読み進めているとのことですので、ネタがバレることを
     憂慮しつつ書かせてもらうのですが、第1部第5章にある

        わたしの理想、それは――ロスチャイルドになることである。

     より始まるアルカージイの『理想』の記述では、自分の目指すものを、普段の生活に数量的な
     吝嗇の信念でもって成就させていこうと決意する箇所がありますが、これって一般人がおかし
     がちな安物買いの銭失いの至福にすら決別することだとおもうので、デタッチメントしている
     といえるかもしれませんね。
     しかし私はこのアルカージイの『理想』には、それだけにとどまらず下記のような箇所

        わたしには金は必要ではない、というよりは、わたしに必要なのは金ではない、
        と言ったほうがよかろう。威力でさえもない。わたしに必要なのは、威力によって
        得られるもの、そして威力がなければぜったいに得られないもの、それだけなの
        である。それは一人だけのしずかな力の意識である!
                     『未成年』 第1部5章の3 工藤精一郎 訳

     もあるわけで、これって、『罪と罰』に登場するラスコーリニコフの信念を、抽象化したものだと
     捉えることができるように思います。
     だからある意味、社会的倫理からすれば弾劾されがちな「本音」をともなった願望なわけで、
     まぁ、毒とまではいかずとも、実は内面的なところから生じて止まない権能への憧憬を吐露
     しているところから、(アルカージイの)年齢的な同世代的意識の共通項も存在すると考えら
     れるので、その「本音」を加味すれば精神的に高くぬけ出ていないように感じます。(実は
     この私がアルカージイ大好き人間なので、彼への共感から彼が自分と等身大なんだと思いたい
     ので客観性を欠いているかもしれませんね)

     話はズレますが、周囲から超然しているように見られてる人って、当人は案外自覚していない
     もんですよね。
     妙な見方になるのかもしれませんが、超然そのものといえる作家という天職を得たドスト氏が、
     54歳という年齢で、アルカージイという若い男に宿る超然ぶりを客観的に描き出したのは、
     まさにデタッチメントな状態だといえるのかもしれません。


寺田透  旅人  00年11月21日22時11分

      Seigoさん、レスをどうも。
      文学も哲学も専門外なので、余暇にじっくり楽しませてもらっています。
      ご教示、よろしく願います。
      ところで、寺田透『ドストエフスキーを読む』に次のような一節があります。
      けっこう考えさせられましたね。

      「 といふのは近代日本における程反訳文学の比重がその国の文学論議の中で大きかつた
      例は恐らくどこにもなく、その日本の中でもドストエフスキー程それから来る光栄と誤解
      の悲劇が大きく捧げられた作家はないだらうからである。
      これは反訳文化の反訳文
      化たるゆえんとして嘲つてゐればそれですむことではなく、反訳作品への関心の過大によ
      る一国文学の自己喪失が危懼されねばならない底の事態だつたと言わねばならない。
       その結果文学の中にしか棲息できないやうな思想が思想として祀り上げられたり、どん
      な繊弱と見える作品でもそれが表現である以上なんらかの思想に支へられてゐない筈はな
      いといふ表現と思想のいろはが見失われたりする結果を招き、ひとは思想的怠惰にさへ陥
      つたのである。
       逆に、ドストエフスキーでさへ、その小説を成立たせるためには普通の恋愛や縁談、財
      産争ひや遺産の転げこみなどといふ市民社会的要件を、その土台として置かねばならなか
      つたことが見逃されたし、またドストエフスキーが、何に、人間の行為の原動力を見てゐ
      るか、不当な扱ひを受けたことの怨みは人間のうちでどれ程深く強いか、さういふことを
      かれがどれ程執拗な関心をもつて見てゐるか、のやうな問題はなほざりにされて来たやう
      に思われる。」

        http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6354/index.html


Seigo氏への回答 カメ 00年11月21日20時11分

     彼とはドストエフスキーのことです。
     若いころ、事故で死にそうになりました。ドスト氏の言葉を受け入れていた私は、
    助けてもらったのです。


バルザック作品 taka 00年11月21日17時59分

   ドスト氏から離れてしまって申し訳ないのですが、
   ちょっと書かせてもらいますね。

   私はまだまだバルザックを読んでいないので今後、好きな作品の順位に
   変動があると思いますが今の時点では、『谷間のゆり』、『あら皮』が好きです。
   ちなみに私が読んだのは、
   『谷間のゆり』(講談社文庫 高山鉄男訳)
   『あら皮』(東京創元社 山内義雄、鈴木健郎訳)
   です。

   『谷間のゆり』に関しては、旧版新潮文庫の小西茂也訳で読もうと思ったのですが、
   入手が困難なため、集英社の全集に収録されているもので今度再読してみようと
   思います。
   『谷間のゆり』はそれ以外では、
   岩波文庫(宮崎嶺雄訳)、角川文庫(河内清訳)、旺文社文庫(石川湧訳)
   を所有しているので、機会があれば読み比べてようと思います。

   『ウジェニー・グランデ』は水野亮訳で読んだのですが、個人的にはあまり
   好きになれませんでした。
   それでも、角川文庫(竹内猛訳)、旺文社文庫(山口年臣訳)
   を所有しているので、そのうち読んでみようと思います。


  偉大な文学者とその象徴的大景 Seigo氏 00年11月21日00時27分

       旅人さん、お初にどうも。
       旅人さんのページ、さっそく、見せてもらいました。
        (感じのいいページですね。
         俳句のコーナーの旅人さんの各名句も、拝見しました。自分も、高校以来、松尾芭蕉の天才的各名句
         に感心して、いまだへたくそながら、俳句は創ってきたので、
          (以前ページ内に掲げていた自作の句として、こちらなど。)
         旅人さんの広範囲な文学のたしなみには心ひかれます。)
       私は、近現代日本文学におけるドスト氏ということについては関心があるので、
       同じ文学愛好者として、その方面の独自の情報(ドスト氏への文学者たちへの言及の言(げん)など)
       があれば、いつでも、教えてもらえれば、うれしいです。>内外の文学に広く詳しい旅人さん     
       
       ドスト氏が日本の「俳句」や中国の絶句形式の「漢詩」などの、東洋の含蓄の深い短詩形に接したなら、
       どういう関心を示しただろうか、と私などは思ってしまいます。
       芭蕉の俳句と言えば、今回比較してみて、あらためて気づいたのですが、
       以前あちらのボードで挙げ、しょしんしゃさんなどがあらためて感動を受けたという芭蕉の
       一大傑作の句「荒海や佐渡に横(よこ)たふ天河(あまのがわ)」
       は、
       下で言及されたドスト氏の『カラ兄弟』の「ガリラヤのカナ」の章の中の、
       夜の僧院の中庭から見上げて眺め渡すシーンと、
       情景やその構図は、かなり類似してますね。
        (「ガリラヤのカナ」の章の、アリョーシャが見上げるその夜空の光景として、
          「まだはっきりしない銀河<が、天心から地平にかけて二すじに分かれている」(米川訳)
         とあります。)
       偉大な精神性に達した人たちのその境地とその象徴的大情景というのは、
       互いに似てくるということなのでしょう。
        (トルストイの大作『戦争と平和』にも、
         アウステルリッツの戦場で重傷を負ったアンドレイが仰向けのまま仰ぎ見た秋の静かな広い青空
         という大景に、彼アンドレイは不思議な感動と啓示を受けるという場面がありましたね。)

          退出します。       

        


  パスカルの『パンセ』など Seigo氏 00年11月21日00時16分

       皆さん、書き込み、どうも。   

       カメさん、
       以前に引き続いての書き込み、どうも。
       下の書き込みにおける「彼」とは、ドストエフスキーのことでしょうか?
       
       パスカルの『パンセ』は、
       ずっと以前、中公文庫の分で、
        (中公文庫は装幀や手触りが素敵ですが、この厚めの『パンセ』の分もステキです。)
       一通り目を通して、これはという箇所には傍線を引いたことがありましたが、
        (モンテーニュの大著『随想録』も、同じようにして、ずっと以前目を通しましたが、
         モンテーニュの『随想録』も、生についての賢者の智恵に満ちていて、面白かったです。
         アランの本も、しかり。フランスの古今のモラリストたちの哲学的断章というの
         は、読んでためになります。)
       『パンセ』の中の断章には、ハッとさせられる内容の箇所が時々ありますよね。
        (知られた言葉以外のものとしては、
         「空間によって、宇宙は私を一つの点のように包み、呑(の)みこむ。
          思考によって、私は宇宙を包む。」
         「人間は天使でも、獣(けだもの)でもない。そして不幸なことには、
          天使のまねをしようと思うと、獣になってしまう。」( これなどは、痛烈! )
         といった言葉など。)
       ドスト氏は、若いとき、パスカルの残した断章に熱中したようで、
       人間の内に栄光と悲惨の両極をうかがうパスカルの弁神論的思索の中に、
       ドスト氏は自分との精神の類似を感じとっていたのでしょう。
        (パスカルとドスト氏を比較しつつ、ドスト氏へのパスカルの影響を論じた論文として、
          小沼文彦「パスカルとドストエフスキー」
            (小沼文彦著『随想ドストエフスキー』(近代文芸社1997年刊)に所収)
         など。)
         


  いい言葉ですね あさの 00年11月20日21時45分

  「空の鳥を見よ」もパンセもいい言葉でした。どうもありがとうございます。
  「ゴリオ爺さん」、張り切って読んでみますね。


彼が読者に命じたこと カメ 00年11月20日20時59分

      20年以上前のことになりますが、彼が明らかに読者に対して「これを実行しなさい。」
     と、求めているところがあり、私にはそれを拒めませんでした。その後、様々な体験を
     受けることになりました。
      たとえば、パンセを読んでいると「もし、神が手ずから、私たちに教師を与えたとする
     ならば、偶然と出来事は正にそのような教師である。」という文章を読み、今も記憶に残っ
     ていますが、その後見かけなくなりました。もちろん、私の記憶違いかもしれません。
      私はもう、彼の作品を読むことはありませんが、彼のおかげで、今もこうして生きています。 


スタンダール  旅人  00年11月20日00時25分

      おお、スタンダール。彼も好きな海外の作家です。>SEXYさん
     バルザック的手法をとりいれた日本の作家は、石川達三に山崎豊子がいますね。


はじめまして  旅人  00年11月20日00時20分

      takaさんの掲示板からジャンプしてきました。
      ドストエフスキーは、中学生のときに『罪と罰』及び『カラマーゾフ』を読んで以来、
     好きな作家の一人です。一時、病跡学的な面に関心を持ちましたが、今ではまた小説と
     して楽しんでいます。
      おいおい書き込みますので、よろしく願います。

     http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6354/index.html      


文豪という言葉が一番似合う男 SEXY F.M. 00年11月19日23時40分

 バルザックは『ウージェニー・グランデ』と『暗黒事件』を読んだことがあります。『ウ
ージェニー・グランデ』はデビュー前のドストエフスキーが「超訳」したことで有名なので
(彼は原典に忠実に、等という考えとは無縁だったようです)。ここはこんな風に誇張した
のかな、この描写はあんな風に大袈裟なものにしたのかな、等と想像しながら読んだのです
が、途中からそういうことは気にならなくなり、夢中になって読了しました。バルザックと
いうと、あくの強いくどい文章で、延々ペダンティックな描写をする作家というイメージだ
ったのですが、『ウージェニー・グランデ』は予想に反して、むしろ風通しのいい読み心地
でした。
 『暗黒事件』は体調が悪かったのか、いま一つ乗り切れず、無理矢理文字だけを追ってし
まっての読了だったので、朦朧とした印象しか残っていません。小説嫌いで有名なヴァレリ
ィが絶賛している程なので、余程の大傑作なのだろうと勢い込んで読んだのが、却って仇に
なったのかも知れません。今度はしっかりと探偵小説を読むつもりで読もうと思います。
 『暗黒事件』で挫折したため、その後読もうと思っていた『セラフィタ』、『谷間の百合』
にも何となく手が出ないまま来てしまいました。この前Bookoffで『ゴリオ爺さん』(岩波
文庫)が百円で売っていて、最初の方をパラパラ見たら文体が魅力的だったので、これを契
機にしてバルザックに再トライしようかと思っています。あと、東京創元社版『バルザック
全集4・田舎医者/ピエレット』という本も持っています。
 フランス文学では、メリメ、ドーデー、フィリップ、ルソー、コンスタン・ド・ルベック、
ラディゲ、ミストラル、ヴェルレーヌ、アナトール・フランスなんかが好きです。ふくろう
族さんいちおしのサンドの語り口も好きです。どっちかと言うと、フランス文学だと短編を
読みたくなります。バルザックが縁遠かったのも、短編が少ないからというのもあるかも知
れません(だからゾラもほとんど読んでません)。あと、近代フランス文学だと、一連のひ
ねくれ者たちも魅力的です。ベルトランとか、ボードレールとか、ヴィリエ・ド・リラダン
とか。ひねくれもあそこまでやってくれると神々しいものがあります。それからずーっと遡
って『ロランの歌』とか『トリスタンとイズー』なんかは、やはりその奔放な物語性に圧倒
されます。中世人の夢想は色彩豊かで劇的で、しゃらくさい批評精神など問題にしない凄さ
があると思います。

 最近読んだ『スタンダールの復活』(岡田直次・NHKブックス)の中に、

「ドラクロワを真似て滑稽におちいらないのはほとんど不可能であろう――と私たちはおも
う。なぜなら、ロマン派の情熱と想像力が消えてしまった時代に生きる人びとがドラクロワ
の色彩や形体をうつしても、なにも語ることはできないのだから。しかしレアリスムのクー
ルベや印象派の画家を真似ることはできそうだ、そこには文学的想像力が表現すべきものは
すくなくないのだから――と(門外漢には)おもわれる。
 おなじ理屈で、バルザックを真似る身の程知らずはいないが、フローベールや後に出てく
るゾラの作法を試みようとする後輩作家はすくなくないだろう」

 とあって、バルザックの作法を発展的に受け継いだ唯一の後輩作家がドストエフスキーな
のではないだろうか、などと僕は思いました。考えてみると、簡潔・軽妙が主流のフランス
の近代文学で、バルザックは異様な存在なのではないかと思います。
 バルザックというと枕詞のように「俗物」という言葉で形容されてしまうのですが、よう
は当時全盛を極めていたフランス・ブルジョワ精神の文学的体現者ということなのでしょう
ね。アンデルセンの『わが生涯の物語』は19世紀文人交友録といった趣もあって面白い作
品なのですが、その中でアンデルセンとバルザックが会った時の描写が印象的でした。

「さて、今も言ったようにこの伯爵夫人邸で私はバルザックとはじめて会ったのである。彼
は上品なあかぬけのした紳士だった。前歯が赤い唇の間から白く見えていた。彼は上機嫌ら
しかったが口かずは、少なくともこの集まりでは多くなかった。一人の自称詩人の婦人が、
彼と私にしがみついて二人をソファにひっぱって行って、そこで彼女はわれわれの間にすわ
ってしまった。そうしてからだを平均させながら、こうして二人の間にすわると何と小さく
見えるか、などといっていた。私は頭をずっとうしろにそらせた。すると彼女の背中で、バ
ルザックの皮肉な微笑をうかべた顔に出あった。彼は口を半ばあけ、それをたくみにゆがめ
ながら私のほうにむけた。これがじつに私とバルザックとの最初の会見だった」(アンデル
セン『わが生涯の物語』岩波文庫)

 何かいい奴っぽいです。他にも、貧民に変装してパリの街へネタ探しに出掛けるバルザッ
クの姿なども描かれていて、面白いですよ。
 ちょっと思ったのですけど、やたらとペダンティックな描写を連ねて分厚い小説を量産し
ている京極夏彦って、現代日本のバルザックと言えなくもないかな?
 Takaさんの一番好きなバルザック作品は何なのでしょうか?

 あ、それと、清水さん、リクエストに応えて頂いて有難うございます。やはり、山上の垂
訓には何とも言えない詩情があります。詩人イエスの最高傑作なのではないでしょうか。こ
れで一撃の下に神を信じるまで行くということはないのですけど、この言葉だけは信じたく
なります。


ソロモン王と野の花 清水 00年11月19日18時04分

 「空の鳥を見てごらん。まかず、刈らず、倉にしまいこむこともしないのに、天の父上はそれを養ってくださるのである。あなた達は鳥よりも、はるかに大切ではないのだろうか。だいいち、あなた達のうちのだれが、心配をして寿命を一寸でも延ばすことが出来るのか。また、なぜ着物のことを心配するのか。野の花の育つのを、よく見てごらん。苦労せず、紡ぐこともしない。しかし、わたしは言う、栄華を極めたソロモン王でさえも、この花の一つほどに着飾ってはいなかった。今日は花咲き、あすは炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこんなに装ってくださるからには、ましてあなた達はなおさらのことではないか。信仰の小さい人たちよ!だから、『何を食べよう』とか、『何を飲もう』とか、『何を着よう』とか言って、心配するな。それは皆異教人のほしがるもの。あなた達の天の父上は、それが皆あなた達に必要なことをよく御承知である。あなた達は何よりも、御国と、神に義とされることとを求めよ。そうすれば食べ物や着物などこんなものは皆、求めずともつけたしに与えられるであろう。だから、あしたのことを心配するな、あしたはあしたが自分で心配する。一日の苦労はその日の分で沢山である。」(マタイ6・26〜34)マタイ伝の「山上の説教」の中の譬えです。SEXYF.Mさんのリクエストでしたが、この場面はサイト劇に状況を設定するのは適当でない(難しい)のでそのママにしました。私も好きな箇所です。短い中にキリスト教(新教)の特徴的な教義がいくつもあります。特に「神に義とされることを求めよ。」の「神に対する義」これがキリスト信者を表現する言葉の一つのようです。又「あしたのことを心配するな、あしたはあしたが自分で心配する。」は影響力の持続している言葉ですね。私はイエスとは非常に男性的な人物とイメージしますが、こういう言い方に出ている気がいたします。


ゴリオ爺さん taka 00年11月19日00時15分

   何人かの方々にはメールでお知らせした通り、
   しばらくは他の掲示板には書き込みをしないようにと思っていたのですが、
   バルザックの『ゴリオ爺さん』に反応して出てきてしまいました。
   私はバルザックの掲示板を運営しているので、こちら
   バルザックに興味があるようでしたら見てみてください。

   以前から思っていたのですが、SEXY F.M.さんはバルザックはどれくらい
   読んでいるのですか?


  生への憎しみ あさの 00年11月18日11時57分

    墓石に幸福の涙を流すというイワン、この世は楽園だというマルケール、大地に接吻するアリョーシャ、
    不条理に際しても然りと言ったこれらの人々を支えたのは生そのものへの強い愛だったと思いますが、
    この愛を生み出した感情そのものは一方で愛とは逆の恐ろしいものを生み出す可能性もあると思います。
    スメルジャコフの生への憎しみはフョードル殺害、自殺という形をとったのではないでしょうか。
    「人生がこんなものだと分かっていたらいっそ母親の腹の中で自殺でもするべきでしたよ」
    我々をこのような負の感情から守ることこそが精神の働きなのかもしれません。


  精神と自然 あさの 00年11月18日11時33分

    バルザック「ゴリオ爺さん」ついにゲットしました。
    マンの「ゲーテとトルストイ」は「魔の山」とともにぜひ読んでみたいと思います。
    「生成の社会学をめざして」(有斐閣、作田啓一)という本にマンの「ゲーテとトルストイ」への
    短い批評がありました。印象に残った部分を抜き書きします。
    「マンは自然の貴族性と精神の貴族性のどちらがより貴族的かの価値評価を避ける。しかし、その公平
     さの外観にもかかわらず、自然の貴族性のほうに肩を持っているという印象を読者に与える。それは
     彼がゲーテートルストイ型であるからではなく、むしろシラーードストエフスキー型に近いからであ
     る。彼がトルストイ型であるなら、そもそもこのような批評を書かなかったであろう。批評とは、彼
     自身が述べているように、精神の仕事であって造形の仕事ではない。ドストエフスキー型の自己否定
     が自分をよりも遠いトルストイ型を持ち上げる批評を書かせたのである。」

    「自由は精神であり、自然からの離脱であり、自然に対する反抗である」とは逆の
    「自由は自然であり、精神からの離脱であり、精神に対する反抗である」も言えるかもしれませんね。
     だからこそ、「精神と自然との高度な出会い、それが人間」なのでしょうか。
     


トルストイとドストエフスキーを和解を促すトーマス・マン SEXY F.M. 00年11月17日00時15分

 僕はドストエフスキーと共にトルストイも世界で一番偉い作家の一人だと思っています。
どっちがどっちより上だとか優れているとかは思いません。トルストイにはドストエフスキ
ーに無いものがあり、ドストエフスキーにはトルストイに無いものがあります。両作家とも
に読めて真の文学愛好家だろうと思っています。
 一方、どうしても、あまりに偉大な両雄なので、頂上決戦というか、ON対決みたいに、
どっちがより偉いかはっきりさせたくなる人情というのも分かります。殊に文学開眼をドス
トエフスキーで果たした人はドストエフスキーに、トルストイで果たした人はトルストイに、
より強く肩入れしたくなる気持ちは、痛い程に分かります。こういう永遠のライバル対決は、
パスカル対デカルト、バッハ対ヘンデル、漱石対鴎外、ジョン・レノン対ポール・マッカー
トニー、安倍なつみ対後藤真希等、古今枚挙に暇がありません。まあ、趣味の問題なのですが。
 ドストエフスキーとトルストイ、この近代文学史上永遠のライバルを並べて論じたものの
古典として、メレジュコフスキーとかスタイナーとかありますが、僕はまだ読んでいません。
トーマス・マンの『ゲーテとトルストイ』は、トーマス・マン独自の自然対精神の二元論に
立って、ゲーテ・トルストイを自然に、シラー・ドストエフスキーを精神により偏した作家
であるという視点から、双方の相違と、その調和の可能性を探り、この相異なる自然と精神
との調和を求める点にこそ人間の尊厳がある、というような論を展開したもので、ゲーテ、
シラー、トルストイ、ドストエフスキーの特性だけでなく、トーマス・マンの戦闘的ヒュー
マニズムの真髄を知る上でも、恰好のテキストであると思います。故辻邦生氏は、自分にと
って、この『ゲーテとトルストイ』こそ、トーマス・マンにとっての『意志と表象としての
世界』(ショーペンハウエル)に当たるものだと述べられていました。
 
「利己主義と利他主義とは、愛のうちでは完全に解消されている」

「文化は自然の純化でこそあれ、自然の否定ではない」

「自己否定とは、時には虚偽の最も恥ずべき形態となりうる」

「ひとはその生まれによって、その血と肉の故をもって高貴なのです」

「人間の価値の高め方には二通りあります。一つは、自然の恩寵によって、神的なものへと
高められることであり、一つは、自然に対立し、自然からの解放と自然に対する永遠の反逆
を意味する力、即ち精神の恩寵によって、聖なるものへと高められることです」

「人間は自然から解放されているほど、即ち病気であればあるほど、いっそう人間らしくな
れるのではないか」

「自由は精神であり、自然からの離脱であり、自然に対する反抗である」

「誰しも自分の気に入らない思想、即ち理念的に歓迎できない思想は発見しない」

「失敗に対する卑下が、成功に対する謙虚さよりも高貴なものというわけではありません」

「労苦を伴わぬ自然は粗野であり、労苦を知らぬ精神は根なし草、実体なきものであります。
たがいに憧れにみちてたどりゆく途上での、精神と自然との高度な出会い、それが人間なの
であります」

 以上、いくつか、トーマス・マン『ゲーテとトルストイ』(岩波文庫)から、印象に残っ
ている言葉を引用させていただきました。僕はこの希代の皮肉屋(イロニカー)のお陰で、
文学というものに対する僕の中での定義、考え方が大変広げられたように思っています。
 ドストエフスキーとトルストイ、この二人を併せ読むことで、文学、ひいては人間に対す
る理解と共感も、ずっと深められたものになるではないでしょうか。


  生の意義よりも生そのものを あさの 00年11月16日20時46分

    僕もいま「未成年」を読んでます。これから生涯にわたってドスト作品は何度も読むでしょう。
    旺文社文庫「カラ兄弟」は注釈がたくさんあるおかげで今までよく意味の掴めなかった部分の
    参考文献が分かってありがたいです。「大審問官」の章は「ヨハネ黙示録」からの引用が多いようですね。
    「感情」に関連して、感動したところを引用します。
    ----------------------------------------------------------------------------------
     ぼくの行き先は墓場に過ぎないってことは百も承知さ。しかし、どこよりもいちばん尊い墓場なんだ。
     そうなんだよ!そこには尊い人たちが眠っていて、その人たちの上に立っているどの墓石も、過ぎし
     日の燃えるような生活を物語っている。だから、ぼくはそこへ行く前から分かっているが、ぼくはき
     っといきなり地べたにひれ伏して、その墓石に接吻し、かつその墓石の上に涙をそそぐにちがいない
     ―――だがそれと同時に、そんなものはもうとっくにただの墓場にすぎず、決してそれ以上の何もの
     でもない、ということも心から信じて疑わないだろう。そしてぼくが涙を流すのも決して絶望のため
     じゃなく、ただ、自分が流した涙によって幸福感を味わいたいからにほかならんのだ。つまり、自分
     の感情に酔いしれたいだけなんだ。ぼくがねばっこい春の若葉や、紺碧の空を愛するのもただそれだ
     けのことなんだ!そこには知性もなければ論理もない、あるのはただ全身全霊をもって愛するという
     ことだけだ、自分のこの若々しい青春の力を愛するということだけだ。。。。


 トルストイにとってのドスト氏 Seigo氏 00年11月16日01時45分

     今晩は、あさのさん。

     トルストイの、「カラ兄弟」へのコメント
     はちょっと、聞いたことがありませんが、
     ドスト氏逝去のあと、トルストイがドスト氏の未亡人アンナに会った際に語ったという、
     「ドストエフスキーは、私にとって、常に貴重な人だった。
      彼はおそらく、私が多くのことをたずねることのでき、
      また多くのことに答えることのできたただ一人の人であったろう。
       (途中、略)
      彼は真にキリスト教的な精神にあふれた人だった。」
        (ページ内のここで引用済み。)
     などの言葉を踏まえるなら、
     最後の家出の際、トルストイは、
     どういう思いで、ドスト氏の『カラ兄弟』を手に取り、
     『カラ兄弟』の中のどういった箇所を読み返していたのか―――。
     その時のトルストイの様子と内面(内省など)には、私などは、じつに、興味が尽きません。     
     
       * * *

     昨年は『未成年』『白痴』を、今年の前半では『悪霊』を終わりまで、自分は読みかえしたので、
     このあと、今年の年末までに、
      『罪と罰』
     を、工藤訳の新潮文庫の分で、いくつかの目当てを掲げて、
     テキストに縦横に書き込みをし、メモを取りつつ、読み返そう
     と、先日、決めました。
     読みすすめていきながら、このボードに、時々、気が付いたことは、報告させてもらいますね。

     ページ内のドスト氏のコーナーも、ほんとにしばらく更新していないので、
     近い内に、また、追加書き込みやコーナーの新設を再開したいと思ってます。 

       退出します。
    


トルストイと『ヨブ記』 SEXY F.M. 00年11月16日01時41分

 不条理にも拘らず、なおこの世界に何ゆえ「然り」と言い得るのかを巡り、このところ『ヨ
ブ記』がクローズ・アップされて来ましたが、かのシュテファン・ツヴァイクは、トルスト
イの生涯を『ヨブ記』に擬えていました。


  トルストイと「カラ兄弟」 あさの 00年11月16日01時13分

    旺文社文庫「カラ兄弟」が稀少本とはラッキーでした。喜んでおります。
     >人間の内のあらゆる生命活動を、すべてひっくるめて、尊いものとして、肯定する
    そうですね、僕もそう感じます。ドスト氏はとにかくどんな思想の持ち主でも
    「自分に正直に、一生懸命に生きている」人への視線は特に優しさに溢れているように思います。
    何はともあれ、自分の決めた道を必死に信じ、必死に疑い、そして歩むべきだと感じさせてくれます。
     >トルストイの後半生(晩年)の、ストイックな人間観・人生観
    彼があのような死に方をしたのはやはり自分が許せなかったからでしょうか。
    彼の批判精神の最も仮借ない対象は彼自身だったのかもしれない、と思うと、
    彼も「もはや愛することのできない地獄」にいたのかもしれない、という気もします。
    とはいえ、僕はトルストイファンでもあります。
    このページで知ったのですが、トルストイが死んだ時「カラ兄弟」を持っていた、
    という話は実に興味深いですね。彼の「カラ兄弟」へのコメントは残っていないのでしょうか。


 フランシスコ会聖書研究所発行の『新約聖書』 Seigo氏 00年11月16日00時29分

     清水さん、
     サイト劇の第二弾の書き込み、どうもです。
     新約聖書の内容などを踏まえての作劇だと思うけど、
     内容・表現の面で、清水さんの創作も含まれていて、
     そのうまさには、感心してます。
     新約聖書における、各場面でのイエスの取る言動というのは、
     ドスト氏もほれこんでいるように、
     それぞれ、見ごたえがありますよね。
      (『新約聖書』に関しては、
       私は、昨年からは、フランシスコ会聖書研究所発行の
       『新約聖書』(1979年初版・1984年改訂版)
       で親しんでいます。
       文章は口語訳で、活字が大きくて、すべての漢字にルビが打たれているので、
       すらすらと読みやすく、また、各章に細かく内容の見出しが記され、参照
       の注も各ページに多く付されているので、重宝(ちょうほう)しています。
       おすすめの岩波文庫の塚本虎二訳の分は、持ってませんが、今度、書店で、見てみます。
       テキストの選択、訳の厳正さ・適切さ、などの点で、
       『新約聖書』は、古来、種々、問題はあるのでしょうけども。)

          * * *

     カメさん、
     お初の書き込み、どうも。
     下のカメさんの書き込みにうかがえるカメさんの
     「罪」「罰」などについての問題意識に心ひかれますが、
     ドスト氏の残した文章における、
     >「罪は、それを見ない者にとって、避けえない暗さがある。」
     という言(げん)の所在は、私は、今、思い出せませんが、
     「罪」に関するそのような考え方は、ドスト氏には明らかにあったと思います。
      いちばん質(たち)の悪いのは、自己の罪性を本人が自覚しないことだ、
     という考えです。
     ページ内のコーナー「ドスト氏の言葉」内の項「E<「罪」について>」
     には、「罪」についてのドスト氏の言をいくらか挙げているので、
     まだ見てなかったら、それらも参考にしてみて下さい。>カメさん

          * * *
 
     あちらの「伝言・雑記」で挙がっている各テーマの書き込みに気が向きっぱなしで、
     こちらのボードへの書き込みがおろそかになっていました。
     スヴィドリガイロフ論の続きの書き込みを、自他に期待してます。
        


 旺文社文庫の箕浦訳『カラマーゾフの兄弟』は、稀少の古書 Seigo氏 00年11月16日00時26分

     皆さん、書き込み、どうも。

     >ドスト氏の「優しさ」 あさの 00年11月09日02時26分
     >>ドスト氏は、必ずと言っていいほど、 作中に、アンチ・テーゼを含ませていきますよね。
     >伝言・雑記板で Seigo さんが書いていた「ある種の優しさ」と相通じるところはないでしょうか?  

     昔からドスト氏の各作品の随所から感じてきたことなのですが、
     人間の行為の点で言えば、
     ドスト氏には、
      人間たちが行なう、善悪・醜悪双方、あらゆる行為を、
      尊厳ある人間の、当人にとって何らかの事情があって行なう(大事な)ものとして、
      受け入れてあげたい、そのまま認めてゆるしてあげたい、
     という思いがずっとあったのではないか、
     と私は感じています。 
     各人が持つ考えに対しても、同等です。
     人間の内のあらゆる生命活動を、すべてひっくるめて、尊いものとして、肯定する
     という見方です。
     この点では、(トルストイファンの方々には悪いけど、)
     トルストイの後半生(晩年)の、ストイックな人間観・人生観
     とは、対照的だと私は思っています。  

     >旺文社文庫の「カラマーゾフの兄弟第2巻」(訳:箕浦達二)をゲットしました
     とは、あさのさんは、稀少の古書を安値(100円!)でゲットして、ラッキーでしたね。
      (この本(その第一・二巻)は、私も、今年になって、やっと、運良くゲットしました。
       この旺文社文庫の分は、途中、挿し絵もあって、感じのいい本です。)
     ただ、全訳で全四巻の予定だったところを、諸事情で、刊行は、第二巻までで終わりにしてしまい、
     今後も、第三・四巻も出す予定はない、というのは、残念です。
      (この情報は、箕浦氏と知り合いという来訪者の浅田さんから、教えてもらいました。
       あちらのボードで、失礼に、あさのさんを「あさださん」と書き間違えたのは、
       私の頭に、この「あさださん」のことがあったためです。>あさのさん )
     そういった中で、箕浦氏訳の第二巻の末が「ガラリアのカナ」の章になっているのは、
     読者や私たちにとっては、ありがたいです。
     「ガラリアのカナ」の章は、どの訳者の分で読んでも、ほんとに、すばらしいですよね。
  


  訂正 あさの 00年11月14日23時17分

    (リュウビーモフあての手紙)は(リュビーモフあての手紙)の誤りです。失礼しました。


  福音書とカラマーゾフ あさの 00年11月14日23時10分

  さっき王将に遠征した時に偶然立ち寄った古本屋で塚本虎二「福音書」と
  旺文社文庫の「カラマーゾフの兄弟第2巻」(訳:箕浦達二)をゲットしました。
  2巻は「大審問官」「ゾシマの生涯」「ガラリアのカナ」が全部入っててこれが100円とはお得だ!
  さっそくお気に入りの箇所を読み返しつつ、「荒野での誘惑」「一粒の麦」「カナの婚礼」を
  「福音書」でチェックです。
  ちょっと読み返しただけですが、聖書との関連の深さにはびっくりさせられました。
  「生ける神の手に落ちるのは恐ろしいことである」(ヘブル人への手紙)
  という箇所も気になるので、塚本虎二さんがこれも訳していたらぜひ買おうと思います。

  ところで、「ガラリアのカナ」の章の注釈には(この本にはやたら注釈が多い)
  「この章は短いものであるが、作家は『「ガラリアのカナ」は全編を通じて最も重大なもので。。。』
   (リュウビーモフあての手紙)と言っているほど重要視している」
  と書いてました。僕は「ガラリアのカナ」大好きなので、嬉しかったです。


必然 カメ 00年11月14日21時38分

ある人は、「それを、見る人には充分な明るさがある。」ことを指摘し、それはまた「罰すにも充分である。」と発言したように記憶しています。彼は、「人間は苦悩を愛好する」という変なテーゼを好んだそうですが、「罪は、それを見ない者にとって、避けえない暗さがある。」とかなんとか言えば、言ったでしょうか?


『未成年』の古本情報です 吉田 00年11月14日20時12分

 吉田です。もう皆様、ご存じかもしれませんが、古本サイト「スーパー源氏」(以下のURLです)で<著作名「未成年」>を検索したところ、3冊セットのものが一件ヒットしました。もし、お探しの方がおられれば・・・

http://kbic.ardour.co.jp/~newgenji/oldbook/sgenji.html


>あさのさん SEXY F.M. 00年11月13日02時14分

 このところ、あちらのボードの議論に青春の情熱を燃やしていて、スヴィドリガイロフ論が
仲々纏まらずにいるのでした。けれども、一人でも待ってくれている人がいるとあれば、
何としても書きますね。

「我慢しろ……ぼくらが駆けつけてやる!……ぼくらのほうから駆けつけてやる! 
ぼくらこそは救援隊だ!」(サハラ砂漠に遭難した時のサン=テグジュペリの言葉)

 スヴィドリガイロフのこと色々考えていると、何か近代人の心理がよく見えてく
るような気がします。彼は近代人の濃縮果汁ですよ。


 >清水さん SEXY F.M. 00年11月13日02時07分

 塚本虎二訳の新約聖書いいですよね。僕も机上に常備しています。
 サイト劇第三弾は、「飛ぶ鳥を見よ」とかやってくれると嬉しいです。

 先日古書店でフロムの『愛するということ』(紀伊国屋書店)という本を購入しました。
 パラパラ頁を繰ってみると、この本にも情熱的な傍線や書き込みが処々に見受けられまし
た。この本からも、先人からの言伝を多く得られそうで、楽しみです。


  サイト劇に関連して あさの 00年11月13日01時22分

   僕はキリスト教の知識が全くないので、イエスの思想に触れさせてもらうことはたいへんありがたいです。
   近いうちに聖書を買って読んでみようと思ってます。
   新約聖書「福音書」塚本虎二訳 岩波文 が清水さんのお勧めでしたっけ。

   サイト劇2に関連して思い出した村上春樹の言葉を書いておきます。
   >ものすごく誰かに腹が立ったときはどうするか? 
   >僕はそういうときには「自分がどれほどくだらない人間であるか」についてせつせつと考えます。
   >僕がどれほどみっともない失敗をして、どれほど他人を傷つけて、
   >どれほど多くの大事な約束を破ってきたか、そういうことをひとつひとつリストにしていきます。
   >するとそのうちに他人に腹を立てる気がだんだん失せていきます。
   >だって考えれば考えるほど、こんな人間に、他人に対して腹を立てる資格なんてないんだもの。

   SEXY.F.M. さんのスヴィリドガイロフ論の続編も期待しています。
   「ラスコーリニコフを衝き動かした観念とは?」ですね。楽しみです。


サイト劇2 「姦淫の女」 清水 00年11月12日15時07分


 紀元25年頃のローマ
 パラティーノの丘にある貴族の館
登場人物
 スキピオ…ローマの貴族の若者
 ティベリウス…その叔父
 ユリア…ティベリウスの妻
情景
 秋の静かな夜。雲一つない空に月が耿耿と輝く。広々とした館のタプラリウムにスキピオが入ってくる。
 待ち受ける叔父夫妻。

第一幕
 スキピオ   「叔父様帰ってまいりました。」 
 ティベリウス 「おお、帰ったか。無事で何よりだった。」
 ユリア    「すっかり日に焼けて、たくましくなられましたね。」
 スキピオ   「ええ、叔母様、あちらでは毎日、父の使用人が商売に行くのにも同行しましたので。」
 ティベリウス 「お前は子供の頃から本当に好奇心の強い子だった。何でも経験だよ、それがいずれお前のために
         役立つ。ところでヒエロソリマ(イェルサレム)はどうだった、何かおもしろい事が起こったか
         な?」
 スキピオ   「はい叔父様。そのことを話したくて、父の家に戻るなりやってまいりました。イェルサレムで、イ 
          エスと呼ばれる驚くべき人物とその現場に遭遇したのです。」
 ティベリウス 「だいぶ興奮気味だね、感激やさん。ではさっそく聞こうじゃあないか、そのイエスと呼ばれる人物 
          の話を」

第二幕
 すると(そこに)聖書学者とパリサイ人とが、姦淫の現行犯を押さえられた女をつれてきた。みんなの真ん中に立たせて、イエスに言う、「先生、この女は姦淫の現場を押さえられたのです。モーセは律法で、このような女を石で打ち殺すように命じていますが、あなたはなんと言われますか。」こう言ったのは、イエスを試して、訴え出る口実を見つけるためであった。イエスは身をかがめて、黙って指で地の上に何か書いておられた。しかし彼らがしつこく尋ねていると、身を起こして言われた、「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げつけよ。」そしてまた身をかがめて、地の上に何か書いておられた。これを聞くと、彼らは皆良心に責められ、老人を始めとして、ひとりびとり出ていって、最後にただイエスと、真ん中に立ったままの女とが残った。イエスは身を起こして女に言われた、「女の人、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罰しなかったのか。」「主よ、だれも」と女がこたえた。イエスが言われた、「わたしも罰しない。おかえり。今からはもう罪を犯さないように。」       


  ドスト氏の「優しさ」 あさの 00年11月09日02時26分

     >ドスト氏は、必ずと言っていいほど、 作中に、アンチ・テーゼを含ませていきますよね。
     伝言・雑記板で Seigo さんが書いていた「ある種の優しさ」と相通じるところはないでしょうか?
     アンチテーゼをも正論であるかのように徹底的に追求することは強い共感がないとできないですし。
     そして、行っちゃったきり帰ってこない、ということにならない腰の強さも必要だと思います。
     思想の激しい振動というのがドスト氏の特徴なのでしょうか。


 スヴィドリガイロフの年齢 Seigo氏 00年11月09日00時09分

     あさのさん、
     ドスト氏関係の新刊情報、どうも、です。      

     しょしんしゃさん、引用や書き込み、どうも。
      (下の下部の自己紹介、どうも、です。
       しょしんしゃさん=女性、の私の予想は当たったようです。)

     下に引用してくれた、埴谷雄高氏の、ドスト氏の思索傾向を指摘した文章は、
     私も以前読んだ時、印象的でした。
     たしかに、ドスト氏は、必ずと言っていいほど、
     作中に、アンチ・テーゼを含ませていきますよね。
     トルストイとは違って、読者に、一つの考えだけを一方的に押しつけるようなことはしません。

     >この文章で スヴィドリガイロフが なぜ 出場してきたのか。
     >ラスコリーニコフひとりだと 単純すぎていやだったのでしょう。
     >人間が 数値では あらわすことができない深遠なもの
     >だとすれば 若者代表として スヴィドリガイロフを出場させて バランスを
     >ドスト氏は とりたかったのではないかと 断言。 
     >そして ラズミーヒンは なんとも いいじんぶつにみえた
     
     私も同意見・同感です。
      (ただし、上の書き込みには、登場人物についての知識で、一つ、間違いがあります。
       スヴィドリガイロフは、「若者」でなくて、すでに初老の中年の人物です。>しょしんしゃさん
        (私の場合、『罪と罰』の初読は、初老姿のスヴィドリガイロフの挿し絵が載ってい
         る旺文社文庫の分で読んだのです。)
       >若者代表として スヴィドリガイロフを出場させて、
       を、「中年代表として スヴィドリガイロフを出場させて」
       に書き換えてもいいですかね。)
          


ふたこと。 しょしんしゃ 00年11月07日08時57分

 ●『ドストエフスキーU』文芸読本より。
そして 『罪と罰』の」まとめ。
   @ 抜粋 ページ12 埴谷雄高『ドストエフスキーの二元性』 より。
       あ、 『・・・私はドストエフスキーのテーゼとアンチ・テーゼの噛み合ったかたちを       
           《未出発の弁証法》と呼んでいるが、彼の思考の中では、テーゼがまだ定着
            しきらない にもはやアンチ・テーゼが頭蓋の闇の隅から出てきて、
            さらにそのアンチ・テーゼにたいするアンチ・テーゼが他の暗い隅から
            顔を覗かせ、いわば、一語言いださんとすれば、たとえ数千言の言葉を
            並べた最後の果てにいたろうとるとも、なお最初そこに置こうとしたテーゼ
            は宙ずりになったままその場に定着されていないのである。・・・・・・・
            ・・・・・・まさしくドストエフスキーがことさらに何事かに熱中し力を
            いれるときは必ずといっていいほどその表面に見えるところと正反対のものが
            そこに潜んでおり、また、反対意見がさながら正意見ででもあるように出現
            してくるのであるから、ドストエフスキーの真実の姿を全面にわたって正当に
            捕捉することは容易ではないのである。』
          
          *=*=*=*=この文章で スヴィドリガイロフが なぜ 出場してきたのか。
            ラスコリーニコフひとりだと 単純すぎていやだったのでしょう。
            人間が 数値では あらわすことができない深遠なもの
            だとすれば 若者代表として スヴィドリガイロフを出場させて バランスを
            ドスト氏は とりたかったのではないかと 断言。 
            そして ラズミーヒンは なんとも いいじんぶつにみえた=*=*=*=*=*  
   A 抜粋 ページ 110 唐木順三 『ドストイエフスキー 三人称世界から二人称世界へ』
            『・・・・・・ヤスパースは適切にもデカルトの所謂方法的懐疑を次のように評して
            いる。『『デカルトの懐疑は悟性の方法的懐疑であって、信念の実存的懐疑では 
            ない。それは懐疑によって合理的確実性へ到達するための計画的な、知的な
            企画にすぎぬ。それはデカルトを襲った実存の経験ではない。そこでは懐疑は
            ひとつの行為であり、それにおいてデカルトは依然として主人公としてとどまって
             いる。即ちそれは信念を失ひつくした深淵の中へ身をなげ入れるといふ底の
            ものではない。』』ヤスパースは語をついで、デカルトの懐疑は現存する自己を
            賭けての真摯さをもつものではなく、ただ論理的、良心的な思想探求の真面目
            さをもつものにすぎない。また疑っている限り、その自我は、いま現に疑ひ求めて
            いる真理とは別の、他の世界のなかにあるといふことを前提している。疑ふ
            自我自体は懐疑のなかへ入ってこないといっている。即ち如何ほど疑っても、
            疑う主体は傷つかないわけになる。』

     抜粋 ページ 122ページ
            『・・・シェストフは 苦悩のうちに止まろうとする。それを堪えぬかうとする。堪えぬ
            ものに堪えようとする。自殺は簡単な堪えることの否定である。自殺をも否定する
            シェストフが、どうして生きえたか。これは実に奇々怪々なことである。・・・
            苦悩のうちに止まろうとすることは、苦悩を日常化するという智恵なくしては
            能はぬのではないか。苦悩を倦怠可するというすれすれのところにシェストフは
            わずかな安定を見出したのではないか。・・・』

           *=*=*=*=この文章にシェストフとドスト氏は 似ていると 思うのですが。
            自殺を否定しているところは スヴィドリガイロフを自殺させたことで 自殺を
            結局否定していて・・・神は救ってくれない結論となっています=*=*=*=*           
            『シェストフはその『『チエホフ論』』のなかで、チエホフを絶望の詩人と呼んでいる
            。そうして、『『彼は25年の長きに瓦って、陰鬱な頑迷さを以って、ただもろもろの
            人間の、もろもろの希望を殺すことに没頭していた。思うに、ここに彼の芸術の
            本質がある』』と書きつけている。絶望の詩人というそれ自身矛盾する概念、
            絶望からの創造、虚無からの創造という矛盾を、生き身において統一している
            のがこの場合チエホフという作家ということになる。絶望をも作品可するという
            智恵、絶望を対象化することによって安定化する働き、一切の希望を奪うという
            ことに対する不思議な希望のうちに作家の働きがある。希望を否定する希望の
            なかに生をつずけてゆく。然し希望を否定する希望、苦悩に堪えようとする苦悩
            、前項と後項はそこでは同列のうちにある。所詮 人生の一断片である。・・・』
                        
           *=*=*=* もう少し かきたいのですが。 そして ドスト氏は このあとに
             日常性とは 異なるところへ 昇りうる。苦悩を浄化するところまで 導く。っと
            書いてあるのかもし れません。そして チエホフとドストエフスキーの差が ここ
             にある。と シェトフは いっているようです。
             ドスト氏も シェストフも チエホフも 苦悩を愛しで 一致していると 思います。
             そして スヴィドリガイロフのように 苦悩とわかっていながら 苦悩につきすす 
             んでしまう人間をかきたくなるドストエフスキーがいるのだと 思います。
                                                   =*=*=*=*
                  ( 数学を専攻 文学になじんだのは 最近。初心者文学。女性。  
                    自由業。 ほか のん。  )    


ミニミニ情報 あさの 00年11月06日23時02分

     あさのです、こんばんは。さっき大学の本屋さんに行ったら、
     「トルストイとドストエフスキー」〔白水社、著者は外人)という本が平積みにされていました。
     「名著復刊!」と帯に書いてありました。名著かもしれません。3800円です。
     僕はお金がなかったので買いませんでしたが、情報までに。。。


 悪魔は我々を誘惑しない。彼を誘惑するのは我々である。(G・エリオット) Seigo氏 00年11月06日01時06分

     清水さんからの下の、
     「女子高生監禁殺人事件」「横浜浮浪者襲撃事件」などの事件をめぐってのお話し、
     人間の悲しい現実として、心ある私たちは、ほんとに、たまらない思いがします。
     ドスト氏は、晩年のメモに、

      「神のない良心は恐怖そのものである。そんな良心は、最も不道徳なところにまで迷いかねない。」

     と記していますが、
     (一部の)人間は、内的・外的に条件が整えば、
      (あらゆる人間行為には、そのような行為を取ったその背景や原因が必ずある、と私は考えます。
       内的には、まわりや社会からの様々な抑えつけや無視などによって、当人たちに、そうとう、
       ストレスや欲求不満が蓄積されていて、その捌(は)け口を求めていた、ということなのでしょう。 
       「幸福な人間は善良である。」とドスト氏は言っていますが、彼らが「幸福」であったのなら、 
       抑圧を一気に解放するそのような密室行為に走る可能性は少ないはずです。          
       外的には、清水さんが言うように、その行為にブレーキや制止をかけるものが内にも外に
       ない密室状況に彼らは置かれたということでしょう。)
     残酷なことも際限なくしてしまう、という悲しい現実を直視し、
     今後も、いろんな場で、その有効な対策を打つ必要があるように思います。
      (彼らをそういう行為に追い込んだ社会側(家庭状況、社会状況、学校の教育体制など)
       の原因や責任もちゃんとおさえて、今後の対策を考えるべきでしょう。)     


 & Seigo氏 00年11月05日23時06分

     下の書き込みについての補足:
     
      下の、
      「1. Dosteovsky」内のここ、で示したリンク先は、
      そのトップページになってしまってます。
      発表年ごとにドスト氏の小説の題の英訳名を網羅して挙げているページには、
      そのトップページ内の項「Chronology」をクリックすれば、行けます。>takaさん     


 ドスト氏の主要小説の題名の英訳の一覧 Seigo氏 00年11月05日22時54分

     >takaさん

     ドスト氏の小説の題名の英訳なら、
     ページ内のコーナー<人様の、ドスト氏に関するページ>内の《海外の英文のページ》でリンク
     しているページ「1. Dosteovsky」内のここに、発表年ごとに、網羅して挙げているようなので、
     参考にしてみて下さい。
     そのアメリカのMLで、今回、ついでに、
     この前takaさんが質問していた、現代のアメリカでは、ドスト氏の作品は若者などにどの程
     度読まれているのか、について、takaさんの方から、アメリカの参加者に尋ねてみてはどう
     ですかね。
      (この質問に対しては、私は十分なホットな情報を持ち合わせていないので、私の方からは、
       いまだtakaさんにレスしてませんがね。
       1950年代後半から60年代にかけて、アメリカでは、学会ではドスト氏研究の人材が育って、
       ドスト氏に関するすぐれた本や論文が出たという事実があるようで、それ以降、アメリカで
       は、ドスト氏の作品の紹介や文献・研究書、ドスト氏研究者の育成や研究環境は、充実して
       いっているはずです。1971年に設立され、その後三年ごとに開催されている国際的な「国際
       ドストエフスキイ・シンポジューム」は、本部がアメリカのワシントンに置かれていて、ア
       メリカのドスト氏研究家の方々が中心になってやっておられます。アメリカにおけるドスト
       氏の作品の英文テキストも、ネット上のこちらなどを見るなら、充実していることがわかり
       ますね。)
     そうしてみて、何か収穫があったら、このボードで私たちにも知らせて下さいね。>takaさん
         


神なき人間の運命 あさの 00年11月05日22時14分

     あさのです、こんばんは。
     様々な凶悪な事件、犯罪は我々を戦慄させますが、他ならぬ同じ人間の手によって、
     そのような行為がなされたということが最も衝撃的なことに思われます。
     ただ重要なことは、彼らのような冷酷な犯罪者が人間性のかけらも持たない特殊な存在ではなく、
    むしろ人間性の負の部分の具現者なのだ
ということだと思います。
     だからこそあのような事件はたまらなく不快な印象を残すのでしょう。
     人間はなんらかの秩序に従って行動しなければ結局自ら滅んでしまう弱い存在であるという認識が
     欠けていればどんな人間もそのような凶行に走る可能性があるのではないでしょうか。
     集団とか権力とか人間に偽りの万能感を感じさせるものはそのような認識を
     忘れさせてしまうのではないでしょうか。


「神様がゆるさない、よそうぜ!」 清水 00年11月05日19時39分

 ドストエフスキイは新聞などで常に現実の事件、犯罪に注意を払っていたようです。屈指の名作の一つ「罪と罰」も現実の犯罪に取材しています。小説家たるもの現実をより鋭敏に汲み上げ、時代そのものを先鋭的に作品化しないで何の価値があるでしょうか。「洞窟のカナリア」(酸欠や有毒ガスを真っ先に察知する鳥としての)こそ真の小説家の在りうべき姿でしょう。さて前にて「凄まじい偶然の悲惨の一つを話したいと思います。」と書いたのは、我が国における現実の犯罪の話です。本年6月に出版された、青木信人著「子供たちと犯罪」岩波書店より。
 「絶対的な数の優位を背景に、一人あるいは少数の弱者を徹底的に痛めつけるという行為の意味について考えてみたい。なぜなら、表だった犯罪行為であるか否かを問わず、他者に対する歯止めのない攻撃性というものこそが、現代の子供たちの「自己−他者」関係のありかたに潜む問題を浮き彫りにしてくれるように思えるからだ。
 そのためにまず、具体例として、「女子高生監禁殺人事件」を振り返ってみたいと思う。
 40日間にわたる監禁の間、彼らは一人の女子高生にたいして、殴る蹴るの暴行に加え、彼女が110番したことに怒って、火をつけたライターで足首に「焼き」を入れたり、彼女が失禁したことをなじって殴った上、先のやけどの後にライター用のオイルをかけて火をつけるといったことまで行っていた。ひどくなったやけどの痕は化膿し、悪臭が部家中に充満したという。
 さらに、彼女が死亡するにいたる前日の深夜には、彼らのうち刑事事件に問われた4人の少年たちは、まるで競うようにして、すでに衰弱が激しく身動きすら出来ない状態にあった彼女に殴る蹴るの暴行を重ねた上(彼らは素手で殴る際に、ビニール袋で腕をおおったという。それは、彼女の血や吐しゃ物などで自分の手が汚れるのを防ぐためだったらしい)、1.7キロもある鉄球付きの鉄棒を彼女の腹に何度も落としたり、それで彼女を殴ったりしたのだった。
 それは、「鬼畜の所業」と言われてもしかたないほど残酷きわまりないものだった。彼らはなぜ、そんなにも歯止めなく、弱者を攻撃するという衝動にとらわれてしまったのだろうか。」
 私が、偶然の悲惨と言ったのは、「横浜浮浪者襲撃事件にしても、女子高生監禁殺人事件にしても、頻発するリンチ殺人事件に共通する特徴の一つは、被害者が被害者となってしまうということに何らの必然性も見いだせないという点にあった。被害者はたまたま選ばれただけだった。つまり、それは誰でもよかった─。」を踏まえています。
 一般庶民的な感覚からすれば、現在の我が国の犯罪は、「遣られ損」的な要素がまだまだ多く、自分には関係のないテレビ上の事件として捉えられています。しかしここ数年来の凶悪化で、「板木(いたこ)一枚下は地獄」的な状況も出てきている。
 私が上記の犯罪で強く思うのは次のようなことです。犯人の少年たちの誰かは、「それは、神様がゆるさない、よそうぜ!」と言ったのかどうか。集団を先験的に包みこみ、落ちに落ちても、どこかの次元でか、誰かの次元でコントロールする存在(子供の頃から誰もが知っている共通の存在としての)が彼らには在ったのかどうか。もしくは現在の我が国には在るのかどうか。


ドスト氏作品の英訳  taka  00年11月05日18時33分

   Seigoさん、
   突然ですが、ドスト氏の作品タイトルの英訳名を教えてもらえませんか?
   ちょっとアメリカのMLで話題にしたいと思うので。
   (もちろん、大した意見交換しかできないでしょうが)

   また、そのMLの読書会で、バルザックの『ふくろう党』が扱われているので
   興味のある方はメールででも連絡下さい。


  & Seigo氏 00年11月05日01時17分

     ・ルナンの『イエス伝』をドスト氏は読んでいたのか、
     ・ドスト氏の小説における「分身」という見方、
       (SEXY F.M.さんの
        下の書き込み「スヴィドリガイロフ論序説・その一 SEXY F.M. 00年11月03日00時39分」
        における、ドスト氏の小説の各登場人物を主人公の各分身の展開としてみていく見方は、
        じつに鋭くて、私は、大いに得るところがありました。
        その見方にいくらか触れているドスト氏研究者は過去に何人かいるようですが、
        その見方は、いまだ、本格的には論じられ深められてはいないようなので、
        今後、SEXY F.M.さんの方で、さらに発展させてみて、
        いつか、「ドストエーフスキイの会」の例会ででも、発表してみた
        らいいと思いますよ。>SEXY F.M.さん )
     などについて、私の方からも書き込みをしたいのですが、
     今晩はもう遅いので、書き込みは明日以降にさせてもらいますね。 退出します。      


 「ペトラシェフスキー・サークルズ」の主要メンバーの逮捕事情について Seigo氏 00年11月04日23時42分

     皆さん、書き込み、どうも。

     増田さん、来訪・お初の書き込み、どうも。

     
>増田さん
     >ドスト氏が、秘密結社を作っていたのは、知っているのですが、
     >なぜ秘密結社を作っているのが、ばれたのですか?
     >秘密結社を一緒に作っていたのは、誰ですか?

     まず、秘密結社を作っているのがばれたわけとしては、
     活動に感づいた政府側による、アントネリーという青年をサークル内に潜入にさせて行なった密偵活動
     が、サークルの活動の内情の詳しい情報を外にもたらし、サークル員の逮捕理由を決定的にしたようで
     す。
     当時の皇帝ニコライ一世(在位1825年〜1856年)の治世に、
     農奴問題の解決を求める民衆の動きが生じてきた中、皇帝直属の秘密警察が結成されましたが、
     1845年以降、ペテルブルグの「ペトラシェフスキーの会」に、若い知識人たちが毎週金曜日に集まり、
     やがて、彼らは、出版の自由・農奴解放・家族制度廃止・理想社会の建設などのことを話し合うよう
     になり、彼らが体制批判の活動をしているという情報や密告を入手した秘密警察側は、そのサークル
     の内情を詳しく知るべく、ひそかに、そのサークルに、「ペトラシェフスキーの会」の新会員を装っ
     たスパイとしてアントネリーという大学生を潜入させました。
     やがて、サークルの会合での活動において、ドスト氏も含め各会員の問題ある言動
      ( ドスト氏の場合、
       スペシネフらが主導するサークル内の急進的な集まり(土曜会)に参加していた
       ことが逮捕の理由になったようです。
       逮捕後の取り調べで、
       ドスト氏が、
       ・反政府的宣伝活動を活発化するために秘密印刷所の設置に協力したこと、
       ・体制批判を含むペリンスキーの「ゴーゴリへの手紙」を会合で朗読したこと、
       ・会の集まりで、いくどか、過激な扇動の発言をしていること、
       などの、会におけるドスト氏の過去の行状が、銃殺刑(特赦で未遂)・シベリヤ流刑と兵役勤務
       の判決理由になりました。)
     を見聞したアントネリは秘密警察にその彼らの活動内容を逐一報告し、
     通告を受けた皇帝は、彼らの活動の過激な内容を認識して、彼らの逮捕を命じ、
     官憲側は、1849年の4月23日未明に、ドスト氏ら34人のサークル員の一斉逮捕に踏み切る
     ことになります。
     また、
     下の私の書き込みで触れてますが、
     ドスト氏全集の個人訳で知られる小沼文彦氏の指摘によれば、
      (小沼文彦著『ドストエフスキー』(日本基督教出版1977年初版)のp194〜p198。)
     ドスト氏の兄であるミハイルは、サークル員の逮捕前に、警察側からの交渉の中、
      (ミハイルは、ドスト氏とともに、1849年3月からは、スペシネフらが主導するペト
       ラシェフスキー会内の急進的な集まりにも参加したことがあった。)
     ドスト氏を警察側に売り渡し、そのことも、ドスト氏の逮捕を固めたそうです。
      (ドスト氏は、まもなく、ずっと仲のよかった兄のこの行為を知ることになり、
       かなりのショックを受けます。)
     「ペトラシェフスキーの会」は、
     最初は、ペトラシェフスキーという人物を中心として、毎週金曜日に会合を開いてい
     た一サークルだったのですが、やがて、サークル内の急進派のメンバーによる新たな
     サークルの結成も行われていて、
     1849年の4月23日未明に逮捕されたのは、正確には、
     「ペトラシェフスキーの会」を母胎とした複数のサークル、言わば、
     「ペトラシェフスキー・サークルズ」のメンバーの面々ということになります。
           
     それらの「ペトラシェフスキー・サークルズ」の中心になっていた人物たちについては、
      ・
『ドストエフスキーとペトラシェフスキー事件』
           (原卓也・小泉猛共編訳。1971年集英社初版。)
      ・
『ドストエフスキー裁判』
           (N・F・ベリチコフ編・中村健之介編訳。北海道大学図書刊行会1993年初版。現在市販中。)
      ・アンリ‐トロワイヤ著『ドストエフスキー伝』のp171〜p192(中央公論文庫)
           (村上香住子訳。中央公論社1982年刊・中央公論文庫1988年刊。)
     などの過去の裁判記録集・研究書・ドスト氏評伝に詳しいですから、
     それらの本で紹介されている情報をもとに、
     私の方で、「ペトラシェフスキー・サークルズ」の主要メンバーを、以下にまとめてみたので、
     参考にしてみて下さい。>増田さん
        ( 名前のあとの数字は、逮捕時の年齢。
          ●は、逮捕された者のうち、最終判決で、シベリヤへの懲役刑を受けた、刑の重い上位9名。
          ★は、特に急進的な思想・言動の持ち主だった人物。
          ▲は、ドスト氏が親しくした人物。)


               「ペトラシェフスキーの会(1845年に開始)」を主宰した、
             ・外務省官吏ペトラシェフスキー28●

               「ペトラシェフスキーの会」に、
             ・1847年に入会した教師トーリ26●
             ・1848年の冬に入会した 教師ヤストルジェムプスキー35●
             ・1849年の春に入会した内務省官吏チムコフスキー34★
                  ( このチムコフスキーは、『悪霊』のキリーロフのモデルとされている人物。)
             ・1849年の春に入会した法学士ゴロヴィンスキー20★▲                       
      
              「ペトラシェフスキーの会」にのちに参加することになる、
               「モムベリーのサークル」の、
             ・教師リヴォフ25● 
               「ヴヴェデンスキーのサークル」の、
             ・大学生ハヌィコフ23
               「カーシキンのサークル」の、
             ・外務省官吏デブー兄弟39・25
             ・大学聴講生アフシャルーモフ25
             ・官吏エヴロペウス20
             ・外務省官吏カーシキン20
               「カテーネフのサークル」の、
             ・煙草屋シャポーシニコフ28
    
               初めは文学や音楽を楽しむに過ぎなかったが、「ペトラシェフスキーの会」の中の急進的なメンバー
               が割って入ることにより、活動が過激化していった、
                「ドゥーロフ、パーリムのサークル」の、
             ・退役官吏の作家ドゥーロフ33●★
             ・陸軍中尉パーリム26
             ・非勤務貴族スペシネフ28●★▲
                 ( このスペシネフは、『悪霊』のスタヴローギンのモデルとされている人物。)
             ・大学生フィリッポフ23★▲
             ・陸軍中尉グリゴーリエフ20●
             ・中尉モムベリー28●
             ・非勤務貴族プレシチェーエフ23▲
             ・作家ドストエフスキー27●
                ( ドスト氏は、まず、1846年の5月に、友人プレシチェーエフを介してペトラシェフス
                  キーと偶然面識を持ち、翌年1847年の2月にペトラシェフスキーの金曜会に初め
                  て参加します。やがて、ユートピア社会主義の思想に共感を深め、スペシネフと
                  の親交の中、1848年の秋から足繁くペトラシェフスキーの金曜会に出入りするよ
                  うになり、1849年3月からは、スペシネフらが主導する会内の急進的な集まり(土
                  曜会)にも参加し、「ゴーゴリ宛のペリンスキーの手紙」を朗読するなどの言動を
                  取ることになります。
                  ミリュコーフは、文学・音楽の愛好会としての初期の「ドゥーロフ、パーリムのサ
                  ークル」には参加してますが、ペトラシェフスキー宅の集まりや、「ペトラシェフ
                  スキーの会」内の急進派のメンバーが加入してきて新たに結成された「ドゥーロフ、
                  パーリムのサークル」には、参加していないので、ミリュコーフは、1849年の4月2
                  3日未明のサークル員の一斉逮捕の対象人物にはなっておらず、急進派のメンバ
                  ーではありません。
                  ちなみに、ドスト氏が流刑から帰ってきたのちも、ミリュコーフはドスト氏と親交があり、
                  ドスト氏が45歳の時、一作(『賭博者』)どうしても締め切り日までに仕上げなくてはなら
                  ない状況に追い込まれた時、速記者を雇って口述筆記にしては、と提案した人であり、
                  それによって、彼は、結果として、ドスト氏とアンナとの出会い、及び、ドスト氏に口述筆
                  記という創作手段、をもたらしました。 )   
             

        上に挙げた人物たちのうち、ミリュコーフ以外の21名は、
        いずれも、1849年の4月23日未明に逮捕され、
        銃殺刑の直前までいって銃殺を皇帝の特赦で免れ、
          (銃殺刑の刑場に引き出されたのは、以上の21名です。)
        シベリヤへの懲役・囚人部隊への勤務などの有罪判決を受けています。 
     
   


          ドスト氏について 増田 00年11月04日13時31分

             ドスト氏が、秘密結社を作っていたのは、知っているのですが、なぜ秘密結社を作っているのが、ばれたのですか?
             あと秘密結社を一緒に作っていたのは、誰ですか?
             教えてください。


ルナン  taka  00年11月03日18時22分

   ルナンというと、
   コレージュ・ド・フランス(フランスの学術・教育機関。1530年、
     フランソワ一世が人文的教養促進のためにパリに創設した王立教育機関が
     その前進。大学からは独立し、聴講は自由であるが、修了資格は授与しない。
     講義は著名な大学教授、文化人によって行われる。)
   で、第1回目の講義で、「人間としてのキリスト」(うろ覚え)とかいう講義を
   しようとして途中で取りやめにさせられたことがある人ですよね。

   私は信仰の有無にかかわらず、キリスト教は西洋文化の基盤であって
   その理解に必要不可欠であると思っているのですが、
   聖書を初めから読もうとしてもなかなか難しいです。
   そこで、とりあえず遠藤周作の著作や阿刀田高氏の『新約聖書を知っていますか』
   などの本を手がかりにしていこうと思っているのですが、
   もしキリスト教の理解に役立つ本があれば紹介してほしいです。


自由競争 清水 00年11月03日16時45分

 前のn_kumaさんのおもしろい体験談で、ロシアの若い美人の女性との会話で「とくに、若いドストエーフスキイの読者は、正教(ギリシャ正教)に入信するようです。」がありました。ロシアの現実として貴重な話ですし、当地の若者たちは年齢によっては、物心ついた頃はソヴィエト政権末期の禁教の時代、ティーン・エイジャーになって宗教的自由化に遭遇した人々もおるかと考えられます。してみると7〜80年間の国家としての信仰の禁圧の後自由化を謳歌している若者ということになります。一聴、極端に思えましたが長期にわたる禁止後の解放という事態を想像すればキリスト教の復権とそのブームは自然なことなのかもしれません。
 さて、最近マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」大塚久雄訳 岩波文庫を読んでいます。言わずと知れた社会科学の古典です。実は私は学生時代は社会科学を専攻したのですが、もっぱら文学とかプラトンだとか心理学を読んでまして、専門に関しては不熱心なほうでした。(先日SEXYF.M.さんの話の中にフロム「自由からの逃走」東京創元社が出てきて実に懐かしい思いをしました。フロムは、当時読んでかなり決定的に影響された思想家の一人す。)最近の関心の方向性から「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を引っ張り出したわけです。
 「自由競争」という概念ですが、現代のそして世界的な通念ですね。経済用語ですがケインズ経済学も、新古典派も基本的には前提としている。「自由な市場に於ける自由な競争」ということかと思います。この概念はおそらく今この瞬間には疑問を抱く人は非常に少なくなっているのではないかと思います。先ほどの話でソヴィエトが崩壊して、中国が資本主義的経済を指向していますので、「自由競争」に対峙した、マルクス主義が一気に後退もしくは蒸発しかかっているわけです。我が国においても、企業間の自由競争・リストラを突きつけられたサラリーマンどうしの自由競争・恋愛に於ける自由競争、受験に於ける自由競争が展開されています。しかも価値として是認されている。自由な競争のないところに進歩はないから始まって、商品の値下げもない、テスト勉強のやる気も起きない等々です。恋愛に於ける自由競争などは(私などは、とおに戦線離脱をしているのですが)報道などによれば、ティーン・エイジャー間にナイフが飛び出しているらしい。
 ところでマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を持ち出すまでもなく近代資本主義は英国、広く解釈すれば西欧から発祥しました。明治以降日本も、追いつき追い越せのかけ声で近代化、資本主義を基礎とするシステムづくりに邁進してきました。自由競争を疑問のない価値として、もしくは抵抗など思いもよらない大前提として。ところで英国や合衆国・欧州の自由競争には精神のザイン(必然)として、もしくは前提として、キリスト教が日常的にあります。「良きサマリヤ人の話」も信仰として、ないしは、かなり後退しても教養として、及び雰囲気として生きている。一粒の麦の話しかり・放蕩息子の帰還の話しかりです。自由競争といっても、おそらくレーガノミックスとして政策化されたマネタリズム・先鋭的な自由主義(老人といえども、自分の尻は自分でぬげえ的な)でさえアンチ・キリスト教の猛獣世界の自由を標榜したものではないと思います。
 ひるがえって、我が国はいかがなものでしょうか。明治中期に近代化に関して夏目漱石が日本人の良き「道義」に頼むというか、希望を繋いでいます。私見ですがおそらく当時は、歴史的蓄積による儒教や仏教を基とした、ラフカディオ・ハーンが書いているような良き日本人が散見されたのでしょう。左様な点からすれば当時の政治的な指導者のスローガン「和魂洋才」にもいくばくかの説得力はありますが。いずれにしても現在、宗教倫理的価値がほとんど日常的には口に上らないし話題にもならない我が国の「自由競争」はすごいものがあるのも当然の成り行きで、そのためいろいろな歪みから、偶然に遭遇する悲惨まで様々な現象が生じています。次回はそうした凄まじい偶然の悲惨の一つを話したいと思います。


スヴィドリガイロフ論序説・その一 SEXY F.M. 00年11月03日00時39分

 ドストエフスキーの小説作法は――それは作法などと言える程に行儀のいいものではない
が――現実にいそうな、ある観念に取り憑かれた人間を主人公として物語を始め、その観念
の実現のために主人公たちは苦闘するが、地上の人性、主人公の極度な主観性、社会の一般
論等の前にその完全なる実現を果たせず、物語半ばで主人公たちは挫折し、苦悩の永遠回路
の中に嵌まり込む。しかし、物語はそこで終らず、苦悩する主人公たちの前に、まさにその
苦悩の中から、主人公の分身とも言えるもう一人の人格が現われて、壮大な物語の後半を受
け継いでいく。この分身たちは、元の主人公たちの、挫折し、内攻して、抑圧された観念が
生み出したもので、ほとんど肉体的存在とは言えず、すなわち地上的な人間性を持ち合わせ
ておらず、観念の純粋な追究は、この第二の主人公たちの出現によってついに可能となる。
 新ゴリャートキンも、スヴィドリガイロフも、スタヴローギンも、イワンの悪魔も、みな
こうして召喚され(小説の最後にワーレンカを奪う『貧しき人々』のブイコフも、あるいは
ジェーヴシキンの分身、秘め隠された彼の欲望の体現者として読めるかも知れない)、元の
主人公たちの地位に取って代わり、物語の動機となった観念を誰憚ることなく体現してゆく。
ここに至りドストエフスキーの小説は過度の幻想性を帯びると非難されることとなった。も
とより、第二の主人公たちはまったくロマンチックな存在、妄想的な、影をなくした人物に
過ぎないが、ドストエフスキーの、主人公から二つの人格を曳き出す、観念の二段ロケット
のような小説作法(主人公の苦悩の前にドストエフスキー自身の苦悩があることを思えば、
観念の三段ロケットと言うべきかも知れない)が、この夢想的人物の小説的リアリティをギ
リギリのところで保障する。元の主人公のいかにも人間的な苦悩が下部構造としてあるので、
現実にはありそうもない観念そのもののような第二の主人公たちの存在を、読者は半信半疑
ながら受け止めることが出来るのである。
 ラスコーリニコフの敗北の後、彼を引き継ぎ、彼の観念の純粋な体現者として「罪と罰」
の命題を徹底して追究すべくスヴィドリガイロフは召喚された。では、ラスコーリニコフを
衝き動かした観念とは、そもそも如何なるものだったのか?

(「その二」に続く)

 **************************************

 書き易いので、つい偉そうな「である」調で書いてしまいました。次回からは文体が変わ
るかも知れません。
 まだ全然しょしんしゃさんの質問に答えるところまで行かず、今回は前振りまでで終わっ
てしまいました。あまり長くする気も、力もないので、次回あたりで何とか纏めたいと思い
ます。
 ……しかし、意想外にスヴィドリガイロフ論は難しい、薮蛇だったか? 彼の行為や科白
は錯乱しているので、本当につかみどころが無いです。もう開き直って、独断と偏見に満ち
たスヴィドリガイロフ像を次回以降追求していくしかないようです(どこまでやれることやら……)。


『イエス伝』 SEXY F.M. 00年11月03日00時35分

 『イエス伝』はまだ読んでません。大分前に一度読もうとしたのですけど、キリスト教研
究の基礎知識が無く、チンプンカンプンで序論を見ただけで投げ出してしまいました。Taka
さんの書き込みで、久しぶりにパラパラ頁を繰って見たら、文章自体はルナン一流の味わい
深いものだし、多少は聖書に就いての知識も増えた今なら読めそうだなと思いました。
 『イエス伝』は、発表当時大変なセンセーションを呼び、カトリック教会は禁書指定し、
たしかトルストイも、ルナンへの反発から有名な聖書解釈を発表したのではなかったかしら
(うろ覚え)。ドストエフスキーも『イエス伝』に憤慨したとかいう話を、どこかで読んだ
ことがあるような気がするけど、これもうろ覚え。何しろ『イエス伝』はキリストの神格を
否定した本だから、ドストエフスキーも見過ごす訳にはいかなかったのではないかと思うの
ですけど、Seigoさん、ご存知じゃないですか?
 ルナンの影響を受けた作家としては、アナトール・フランス、モーリス・バレス、ポール・
ブールジェ等が挙げられるということです。バレスとブールジェは読んだことありませんが、
アナトール・フランスの『昔がたり』や『わが友の書』といった自伝小説には、たしかにル
ナンの『思い出』に通じる抑えたフモールと味わいを感じました。この手の落着いた散文は、
翻訳でもその魅力がかなりな程度伝わるのではないかと思います。
 また一方、ルナンは科学的実証主義の方法論を歴史学において実践しようと試みたのです
が、そのルナンの方法論を文学において実践しようとしたのがエミール・ゾラで、あちらの
ボードで少し話題になった自然主義文学の形成にもルナンは大きな影響を与えたようです。
 目に見えぬ心情への信頼に支えられてルナンは実証主義的正統派批判を行ったのですが、
その方法論がゾラによって文学に応用されると心情への信頼が薄れ、唯物論的人間解釈が強
まり、さらにその方法論が海を越え、東海の孤島の浜辺に打ち上げられる頃には、その社会
性すらも喪い、蒲団の女の残り香にやっと真実を感じるといった有り様に成り果てました。
これも思想の通俗化の一例かも知れません。      


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