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著書「御前湯日記」(76話)より12話紹介

著書「御前湯日記」 農村少年の記憶
鯉の子はカメ?
絹糸のようにまとわりつく記憶
知り合い
マスコミ騒動今昔
トッさんのこと
ムーちゃんのこと
失意の報告
グミの頃
屁の二番勝負
おいさん風
花の消防団
推薦の言葉
長湯と共に歩んだ半生のエピソードを、時間軸の自由な往還によって、飄々として自在な文体に乗せて語る。思わず吹き出してしまう話もある。
しかしこのエッセイの束に一貫しているのは、長湯を今日の長湯たらしめた多くの先賢への敬愛の念である。
作家・赤瀬川隼氏

農村少年の記憶

あっと言う間に今年も残すところあと十日余り。齢を重ねるにつれ月日の経つのが早く感じられる。原因はやはり『ヒダ』か。脳ミソのヒダも、感性のヒダもみんな擦り切れてしまって歳月に句読点を打つ力がなくなってしまったか。のっべらぼうな『時』 の上を滑る自分がいる。

子どもの頃はピンク色をしたヒダが剥き出しになって暴れていたから、『時』 の上に何度も何度も句読点を打つことができた。朝は起こされることなく一人で布団から飛び起き、すぐにビー玉をポケットに突っ込んで家を出た。やがて仲間を変えてコマ回し。そして腹が減ったと叫びながらアケビ狩りに山道を登る。やがて山の幸が消え霜柱の立つ頃になると、子どもたちは申し合わせたように小鳥たちと一緒に里を目指す。

竹やぶに「すみか」を作り、その周辺にワナを張る。地面に仕掛けるのが「地ワナ」。コジュウケイやツグミ、ヤマバトなどを狙う。そして腰の高さほどに止まり木を作って仕掛けるのが「高ワナ」。ホオジロなどの小鳥が餌食になる。学校帰りにそのワナを見て回るのが楽しみだった。図工や体育以外の授業では頭の中はワナのことで占領された。その情熱(?)が報われて、数羽捕れる日も珍しくはなかった。夕刻、仕事から帰ってきた父親にそれを見せると父親は手早く毛をむしり七輪であぶった。お湯に溶けた甘酸っぱい焼酎の香りと、焼けた醤油のにおいが脳ミソの隅っこに残って消えない。

遠く、陽炎のようにゆらめく記憶の中で光るものがある。小刀だ。『越前守○○』なんぞと銘が彫り込まれてあった。あれを手にすると急に大人になれたような気がした。小刀は毎年霜柱の立つ季節になると雑貨屋に登場するのだ。雑貨屋のおばさんは学校の先生よりも子どもたちに対する観察力が鋭かったということか。その小刀はワナづくりには欠かすことのできない道具でもあったが、小刀で連想するのはやはり竹鉄砲である。普通の大きさの竹鉄砲だと玉になるのはネコンキンツー(ネコの金玉)と名付けられた紫色の実だけれど、ちょつと高度なテクニックをもつ先輩は小さな杉の実を玉に使う。手のひらに収まるような鉄砲だけれど精度は驚くほどに高く、パチッと音がして飛び出すと銃口に煙が立つ。ほっぺたに当たろうものなら大人だって本気で殴り返してくるだろうと思えるほど痛かった。『点』 の痛みでは歯痛より先に覚えさせられたことをハッキリと記憶する。

いずれも昭和三十年代の話である。「遊んでいるときだけ男は彼自身になれる」 とハイネは言った。
カラスが鳴いても家には帰らなかった自分が、遠い記憶の群れから現れる。こんな原風景を相手に一人でそれを膨らませたり縮めたり、消したり、呼び出したり…。「ワンス・アポン・ナ・タイム・イン・長湯」 である。

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鯉の子はカメ?

ポカポカ陽気から一変して、厳寒の日が続いている。本来これが当たり前なのだろうが、寒くなったとたんにそれまでは一日二五〇リットル程度で十分だった重油の消費量が五割も増えた。シャワーなどに使う水道水が寒さのために一挙に五度近くも下がったのが原因らしい。まあ冬の間は耐えるしかないか。

それでも、個人的な好みで言わせていただければ、わたしは冬が好きである。特に暖房の効いた部屋から外に飛び出した瞬間の気温の落差が好きだ。覚悟して (覚悟しないといけない) 飛び出すと、予測どおりの寒気が身を襲う。すると、なにもかもがシャキッとして、魂と肉体が一体化する瞬間を味わえるのだ。もうひとつ、「魂」を意識できる場面がある。これまた厳寒の夜、湯船に体を預けた一瞬だ。肉体から意識(魂) が遊離して、どこかの星空の下にいる自分が現れる。前世の記憶なのではないかと思えるようななんとも言えない不思議な懐かしさに包まれるのだ。ただし、これは温泉でなくては現れない。沸かし湯なんぞでは決して現れないのだ。いまだにその理由はわからないけれど。

ところで、温泉の記憶で鮮明に刻まれている事件がある。話はこうだ。小学校に入学する前だった。その日も随分寒い日だったような気がする。大急ぎで服を脱いで露天風呂に飛び込んだ。暖まってようやく余裕が出た。あたりを見回していると大きなバケツが湯船の緑に置いてあるのに気がついた。そっと中を覗いてみると、とてつもなく巨大な鯉がわたしを見上げてバクバクしていた。「かわいそうに寒いんだろう。狭いんだろう」。
こどもだから目と脳みそと手足は直結している。バケツごと抱えて暖かい露天風呂に放してやった。その瞬間の映像はくつきりと残って消えない。あくびをするように気持ちよく体を伸ばし、黒光りのする背中を誇らしげに水中に、いや湯船に消えていった。

結末は言うに及ばず。ただ、その時の大人のやりとりは四十年経ったいまでも忘れない。まずは、「今朝買い取った鯉がおらんなった」「大事なお客さんの洗いと鯉こくにせなならんのに」。しばらくしてこうだ。「おった、おった。湯に浮かんじょったよ」 「バケツから飛び出たんじゃろ。だれがあんなところに置いたんか」。私は良いことをしたと思っていたから躊躇なく報告した。「鯉が寒むそうじゃったき、温泉に入れちゃった」。無垢なやさしさが理解されたか、みんなの怒りは静まった。

実は、この話を思い起こさせてくれたのは末娘だった。昨日の夕食時、彼女がこう質問する。「カメは温泉が好かんのかな」。私は、「どうしてそんなこと聞くん」。と言いながら、まさかと思った。私の血を引いた子である。恐る恐る顔を覗いて聞いた。「アンタ、もしかしてカメを温泉に入れたんじゃなかろうな」。すると娘は、「うん。寒そうやったから。そしたら首を伸ばすだけ伸ばして喜ぶんよ。いや、喜んじょると思うたんよ。そしたらどうも様子がおかしゅうて、よく見たらまぶたが白くなったんよ。慌てて出したけんど、死ぬかと思うたわ」。

カエルの子はカエル、いや鯉の子はカメだった。

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絹糸のようにまとわりつく記憶

御前湯で見つけた小さな幸せ − それは五時に帰れ なくなったことで生まれた。自分の時間がもてなく なった分、意外と子どもたちとの接点が濃くなった。 土曜日や日曜日に子どもたちとの時間が共有できなく なったから平日の夕刻、それも限られた時間での「出 会い」がとても貴重なものに感じられるようになった のである。

さて。先日も腹を空かせて待つ次男坊と食堂に出かけた。親子なのにいつでも会えるという間柄ではなくなったから、お互いにこの際に近づこうとする。「ホルモンちゅうのは案外うまいもんじゃのう、オトン」。オトンというのは『お父さん』 のなまったもの。彼も彼の兄もリラックスしているときにわたしをこう呼ぶ。「おまえは小さいときにかたいもんを食べきらんかったき、こういううまいもんを見逃しちょったんじゃ」。「いや、やわらかくても見逃しちょんのもある。そのビールも実はうまいんじゃろ。ちょつと飲ましちくりい」。「隠れち飲むようなことはするなよ」。久しぶりに話がはずむ。香り立つ焼き肉と絶妙なタレの味。漂う煙の中で、遠い昔がよみがえる。

長湯温泉で初めてこの匂いに出会ったのは白石商店の 食堂だった。ドッジボールを半分に切ったような鍋の上に香ばしい黒い肉片が乗っていた。大人の世界だと 直感した。ピンク色をした少年が近づいてはいけない 雰囲気があったのを思い出す。次に出会ったのは中学生のとき。旅館で働いていた仲居さんが連れていって くれた「正直屋」。当時はホルモン一人前にコーラ一 本でちょうど百円也。みんな辛抱家だったから、正直屋に通うのはお客さんからチップをいただいたときだけだった。

自分ひとりで食堂に入ったのは大学時代 だった。駅から下宿に通じる細い裏道にその店はあっ た。もう大人だから入ってもいいのだと自分に言い山間 かせるのだけれど、なかなか勇気が出なかった。「ひとりで悪いことができたとき、初めて君は大人になれる」。木枯らしが吹くころ、本屋で目に触れたそんな広告に背中を押されて引き戸を開けた。そこはカウンターだけの、それも五人も掛ければ身動きができないほどの小さなホルモン屋だった。「どうぞ掛けておくれやっしゃ」。迎えてくれたおばあちゃんは、その年の春に亡くなったティばあちゃんにそっくりだった。 そばで笑うおじいさんも、「学生さんでっか」 「ささ、 これくらいの焼き具合が一番おいしゅうございますよって」。やさしく声をかけてくれた。勧められるま まに焼酎も口にした。これからどんな人生が待っていようともこの夜のことは忘れることはなかろうと、その時思った。

「オトン、もうちょっとビール飲ませんかのぉ」。次男坊の声で我に帰る。とたんに、死ぬ前に父親が言ったというセリフがよみがえる。「もう 何も思い残すことはねえけんど、子どもと一緒に酒が 飲みたかった」。このごろは感性にもたっぷりと贅肉がついてしまったけれど、次男坊と過ごしたこの夜のことは忘れないだろう。ふざけて子犬のようにまとわりつく彼を見てそう思った。御前湯が授けてくれた小さな幸せだ。

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知り合い

久しぶりに休暇をいただいた。平日の休暇であるから、近くでうろうろしていると「みんなが働いているのに、暇そうにして」なんて思われそうだから、地域 の人の目に触れない場所に移動することにしている。

今回は大分市だ。まずはトキハに。買う気も、買う お金もないのにマイセンのコーナーに直行だ。直入町 がドイツと交流していることもあってドイツの伝統的な商品には興味がある。それにしてもやはり高い。コー ヒーカップは安いので二万八千円以上、上等なのになると八万円もする。ただ、肌の光沢とその深みにはなんとも言えない上品な力がある。それも剥き出しではなく静かな眠りについているような上品さなのである。 いいものに出会うと心は豊かにされる。

それが物ではなく人だったらなおさらだ。街をあてなくブラブラ 歩くというのも実はそこに密かな楽しみがあるのだ。 馬齢であってもそれなりの時を重ねると 「なんとなくの知人」 や「どこかで会ったことのある人」も含めると結構な数の知り合いができるものだ。中には、あたりを暗くして脳みそにアルコールを含ませてやらないと復元しない顔だってあるけれど、その数は衰退していく記憶力に反比例してだんだんと増えてくる。お互いに軽い会釈や目で受け答えできる程度なら「知っている人に会った」という安心感が支えてくれるからそれなりに気持ちもいいのだけれど、最近は始末の悪い場面が増えた。向こうは「よく存じあげております」「つい先日会った者です」なんていう顔で親しく笑いかけてくれるのに、こっちにはまったくその顔に記憶がな い。向こうの勘違いなんだろうと思いたいけれど、しっかりと名前まで添えられると逃げようがない。仕方がないから、「いや〜あ、お元気ですか」と笑い返すこ とにしている。すれちがいながらの挨拶ならそれでいいのだけれど、相手に立ち止まられるとそうはいかない。「今日はどちらに?」「お仕事の方はどうですか」 と遠回しに探りを入れながら脳みその中を大急ぎでひっかき回すのだ。

どうしてこんなに神経質になるのかというと、記憶力があてにならなくなったということもあるのだけれど、その昔に顔から火の出るような思いをしたことが原因している。それは学生時代 だった。田舎に帰るバスに乗り込んでしばらくすると、 後ろの方にただならぬ視線を感じた。振り向くと私に輝くような笑顔を送っている中年男性がいるのだ。ど う見ても知り合いではなかったけれど、あまりにも親 しく笑い続けるからこちらも精一杯の作り笑いを返した。すると、「やっぱり君だったか。がんばっている ようだね」とバス中に響くほどの大声で近寄ってきた。 もうなにがなんだかわからなくて、「おかげさまで元気です。ほんとうにお世話になってます」と頭を下げ た。バスの乗客は二人を師弟関係か親戚だと判断したのだろう、温かな気を漂わせながら見守っていた。

ところがである。悲劇は次の瞬間に起きた。停朗田所で バスから降りながらその男性が大声を残した。「ありゃ人違いじゃったわ」。残された学生はこのとき「これが、恐ろしいと聞いていた『世間』か」と思ったのだった。

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マスコミ騒動今昔

予想以上に多くの人が温泉館を訪れてくれる。平日でも二百五十人を上回るし、週末には平均八百人ほど の利用者がある。これもNHKの全国放送をはじめと するテレビ放映によるところが大きい。マスコミ取材もかつてないほどだ。いや待てよ。人口が三千人にも満たないというのに、全国区になるほど大騒ぎしたことが一度だけあった。

それはこうだ。今から七、八年前のこと。長湯ダムのほとりでトツクリヘビ (ツチノコ) が発見された。発見されたと言っても見たのは一人。UFOや火の玉にしても複数で見たなんて話は昔からなかなかないもので、だから当人は「本当ちゃ。 絶村うそじゃねぇ」と頑張るのだけれど、頑張れば頑張るほどその肩越しから白い風が吹いてくるから気の毒だ。ただ、長湯ダムの場合はその発見地がシシロと呼ばれ、昔から妖怪が棲むと恐れられていた場所だったこと。さらには、発見者が頭をピチッとシチサン(七 三)に分けて公務員の見本のような (多少強情ながら精力的に働く)役場の職員だったから「本当かもしれん」ということになった。いや、実は「本当かもしれ ん」と一番初めに言い出したのは私で、その理由は広報紙の身近な取材材料にしたかったからだった。

と ころが調べてみると、シシロ周辺の谷に住む古老たちは「昔はよう見たもんじゃ」、「子どもの頃はトツクリヘビはなんちゅうことはねぇ、それよりシシ(猪)の方がタマガリよった」と、こうである。実際、イノシ シがこの近郷に姿を現し始めたのはここ四十年ほど。 それまでムラの衆はイノシシなんぞ見たこともなかったのである。「そういえばイノシシが住み着くように なってからトツクリヘビを見かけんようになった」と 話すのにも説得力がある。イノシシはヘビの類いが大好物だからだ。

いずれにしてもこの事件は日本全国 を興奮の渦に巻き込んだ。芸能人の私生活を追いかけ るのに飽きていたのか、テレビ局が飛びついた。ある動物園は「生け捕ったら百万円、死骸でも五十万円」 の懸賞金を付けた。ムラも意外なところで興奮した。 ヘビ捕り名人を自称するムーちゃんやトツさんがテレビ局の若い女性リポーターを迎えた。「この湿地帯があやしいゾ」、「あいつの匂いがする」なんて絶妙なセ リフを添えて扇動する。そうしながらも、二人はかわいく脅える女性リポーターの手をとって進む。私は、 あんなにうれしそうな笑顔をこのムラで見たことがなかった。人間、あまりにうれしいときは「口をあけたままヨダレをたらす」というのはマンガの世界だと 思っていたが、まさか目の前の生物(?)でそれを見られるなんて思ってもみなかった。ただし、ムーちゃんもトツさんも家に帰って皆からしこたま怒られたらしい。「しかとしもねぇ」ち。しかたない。二人とも七十歳をとうに越えていたのだから。

トツさんは二年前に、自身がトツクリヘビのように幻になってしまった。そして、ムーちゃんも高齢のせいか、だんだん家から外へは出なくなった。いまだに彼らを超えるスーパースターは現れていない。

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トッさんのこと

前回に登場した「トツさん」のこと。アクセントは 「さん」、つまり後ろにある。これが前になるとトツさ んのキャラクターが沈んでしまって、別人のことにな るから私たちは細心の注意を払う。

本名は那須敦男 (なす・としお)。戦時中は長いこと大陸(中国)に住んでいたから、中国語がペラペラだった。人口が三千人にも満たない農村の直入町で中国語をしやべるというのは、ツンドラの大地でヒンズー語をしやべるようなもの。直入町の、隠れた国際人であったのだ。

トツさんは猟を楽しんだ。特にタヌキ捕りにかけては 自他ともに認める名人であった。一冬に五十枚ほどの毛皮を手にしたこともあったというから、かなりの腕前だったのは確かである。もつとも、トツさん夫人の話によると、「タヌキ捕りちいうのはあんた、なんちゆうても犬じゃわ。うちの犬はタヌキを木に追い上げちょって主人を迎えに来よった」というから、名人だったのは犬で、トツさんは普通の猟師だったのかもしれない。それでも、無口な犬を尻目に、トツさんは天性の弁舌を効かせてまくしたてていたから手柄はいつもトツさんのものだった。そうであっても、けっして人 から憎まれるような人ではなかったし、みんなも「やっぱりトツさんが一番のタヌキ捕り名人」と思いたかった。そう思いたい何かをトツさんは持っていた。

ところで。トツさんはもともと大陸の人ではなかったかと思えるような発想をした。この事件もそうだった。ある日のこと。トツさんがひょつこり旅館の台所に現れた。久しぶりだったので、みんな喜んだ。出稼ぎから帰って来た父親を迎えたようなにぎやかさだ。「さあさあ、お茶でも飲んでいきよ」。みんなで手招きする。トツさんもさぞやうれしかったのだろう、視線を みんなの顔に向けたり足元に落としたり、テレているときによく見せる仕草で近づいてきた。ところが、その日は足元を見る時間が長い。つられるように、みんなもトツさんの足元に視線を寄せた。「あっ。おいちゃん、靴を新調したな。ピカピカしちょるじゃねえかぇ」。 若い仲居さんの声を合図にみんなが一斉に冷やかし始めた。「随分高かったじゃろう」、「ズボンの色とよう似合うちょる」。そこへ年配の女将さんが現れて言っ た。「あら。トツさん、そん靴はあんたの足より相当大きいじゃねえかえ」。するとトツさんは、よくぞ申 してくれましたと言わんばかりに膝を叩き、「そこじゃ。 店で選びよったら大きいのも小せえのも値段は一緒ち言うじやねえか。そげなバカな話はねえ。同じ値段な ら大きい方を買わな損したごたる。なえ」。こんな会話で、「なえ」と言われても返す言葉を見つけ出す力量をもった人間はそうはいないが、なにはともあれ、こうしてトツさんは足だけジャイアント馬場になった。その日の長湯は、表の道から木魚を打つような音が響 き渡るのだった。

すべてとは言わないけれど、トツさんは心のどこかが限りなく肥大していたにちがいない。犬と一緒に野を駆けるか。大陸の風に当たるか。 トツさんが居なくなって二年が過ぎた。

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ムーちゃんのこと

日記の第十八号に「トツさん」のことを書いた。すると、読んだ人の多くから、ムーちゃんはどうなったんかえ、というご指摘を受けた。そうだった。スーパースターの一人だけを紹介しておいて、もうひとりを忘れていたのでは申し訳ない。ただ、ムーちゃんは高齢になったとはいえ、まだ現役だからそのうちにと暖めていたのだったが、こう「書け、書け」と言われると書かないわけにはいかなくなった。これもムーちゃんの人徳であろう。

私がムーちゃんを初めて見たのは外湯(公衆浴場)の天満湯だった。昭和三十年代まで長湯温泉の外湯はここ御前湯と長生湯、そして天満湯の三カ所だった。どれも地下百メートル以内の浅い層 から湧出していたから無色透明で、体をつけると全身に炭酸の泡が付いた。それがたまらなく心地いい。あの山頭火も「なんだか体にはとてもいいような気がす る」と書き残している。ただ、悲しいかなひとつだけ 欠点があった。それは温度が四〇度に満たないということだった。だから秋風が吹き始める頃から次の年の花見くらいまで、文字どおり長湯しないと上がれない のであった。だから寒い時期は一時間も二時間も、中には半日も外湯で過ごすという常連組がいた。その外湯の主役が他ならぬムーちゃんだったのだ。ムーちゃ んがなぜ主役になり得たか。それは何よりも「たいら く話」がすごかった、いや、ものすごかったからである 「たいらく」とは大分の方言。最近の若い世代、それも田舎を離れた人たちには理解しづらいかもしれないが、要するに、「大風呂敷を広げる」というヤツである。つまり、話が誇張のみで成り立っている状態を言 う。

ムーちゃんによる「たいらく話」の代表作。「五月の田植え時期に大川のしも(下流)に行ったらあんた、淵の流れ込みに大きな鯉が群れちょったんじゃ。いつ もは網を持っちょるんじゃが、その日は枝打ちに行っちょったからナタ以外には何もねえ。ひょっと、そばを見ると立派な竹が生えちょる。そんじ、ポッと思いついたんよ。この竹で槍を作っち鯉を刺しちゃろうち。 ただ、いっぺん脅かすと皆逃げち一匹しか捕れんわな。 そうじやから、わしゃ待った。すると三匹が流れに沿 うて見事に並んだわ。そこんとこをのがさんじ ビューツち、その槍を投げた〜」。紙芝居を見るように、みんながムーちゃんを取り囲んでいたのだが、 ビューツのところでムーちゃんが湯船からガバーツと立ち上がる。気がつくと、根元に毛の生えたムーちゃ んの槍も丸出しだ。それでもみんなで話に夢中になっているから、だれも気にかけない。それより話の方が先なのだ。「そしたらあんた、ブスブスブスッち、三匹いっぺんに突き刺さっち。ほいで、わしゃ、それを鯉のぼりのようにしち家に持っち帰ったんじゃ、ガハハッ」。

いやぁ、豪快豪快。これだから長湯するのが楽しくなるわけだ。温度が低いなんてまったく問題 にはならないのである。「ここの温泉館はサウナがあるけど、中にテレビがないと退屈しますよ」なんて、ほろにがいことを言われるとすぐにムーちゃんのことを思い出す。ムーちゃんさえ来てくれたらと。ちょっと古いけれど、月光仮面のおじさんなのだムーちゃんは。そのムーちゃん、川漁はもちろん山猟も得意だし、自然薯を掘らしたら「電信柱」のような芋を掘るという。 もちろん、手やフクシではなく、口で掘るような気もするけれど…。ムーちゃんは大正四年生まれの八十三歳。本名は森田宗夫。まぎれもなく、長湯温泉が生んだスーパースターである。

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失意の報告

「笑って過ごしていたかね」。敬愛する大作家 開高健先生が好んで使っていた挨拶である。「久しぶりだね」とか「元気だったか」なんぞと平凡な言葉をかけられるより、より一層心にその優しさが染み込んでくる。 「小さなことにくよくよしなさんな」、「楽しいことに 挑戦なさい」。冒頭の挨拶にはそんな巨匠特有の励ましが含まれていて、だからその言葉が耳に届いたとたんに勇気が湧いて出る。「悲しみよ、こんにちは」で始まる手紙もしかり。そして、「よれよれの開高です が」という電話の挨拶も、またしかりである。つまり、巨匠は「心配しなさんな。だれでも悩み苦しみながら 生きているもんです。この私だってそうなんですから」 と自分をさらけだしてほほ笑んでくれる。巨匠から分泌されるその優しさが私たちに勇気を与えてくれるのである。

その巨匠の遺志に導かれて「私も本当のことを言います」。五月十一日のこと。数日前から、腰から下に重いだるさを感じていたし、夜中にトイレに立つ頻度が増してきた。節句続きで多少、いやかなり 飲み過ぎたのが原因しているのだろうと予測はできていたものの、どこがどう異常なのかがわからないから不安であった。同僚に聞くと「男の更年期障害みたいなもんですわ。それでも治療が遅れると入院せなならんで」と脅す。いや、そう言う彼らもその道では立派な先駆者だからご教授に従って病院に駆け込んだ。

「どういうふうにありますか」と先生が聞くから、自覚症状あるがままを正直に打ち明けた。すると、「ここに横になって下着を膝まで下ろして」と軽く言う。 横には白衣の天使が静かにほほ笑んでいるのに。うろたえていると、「はい、膝を両手で持ち上げて」。冷酷な指示が飛んできた。「こんな格好を強制されるということは、もしかして」と感じるが早いか、わたしの 『菊』はあっさりと摘まれていた。「そんな。そんな」 と恥ずかしく慌てる患者には目もくれず、「ここ痛く ないでしょ。こちらはどう。痛いでしょ」と病院長。 指先に目がついているのではないかと疑いたくなるほどに的確な診察だった。「間違いありません。前立腺の炎症です」。

失意のどん底にあった。母親はいざ知らず、女房も自分自身も「挨拶をしたこともない神聖な領域」が犯されたのだ。ショックは大きい。それでも、友人のアドバイスが効いた。時期が早かったから薬を飲むだけで大丈夫だそうな。ただし、しばらくは「絶対禁酒」。失意と安心感とが入り交じった妙な感情の中を漂いながら病院をあとにした。

そうだ。 こんなときは大衆に紛れて「汚れちまった悲しみ」を洗い流してしまおう。向かった先はトキハ。みんながわたしの「あのこと」を知っているのではないか、そんな疑心暗鬼も時間が経つにつれ消え去り、心身ともに解放されてきた。お目当ての品物も順調に買い込むことができた。買物袋からは「明日の希望」があふれるように流露していたはずだ。だれが見ても。

駐車場で出庫の手続きをする。高額のレシートがあれば料金は免除される。駐車券と三枚ほどのレシートを預けた。ところがレシートをチェックしていた女性はその手を止めたまま、申し訳なさそうに私の顔を何っている。レシートの金額が足りないのか。気になって彼女の手元に視線を落とす。と、なんと、そのレシートのうちの一枚に大きな文字でこう印刷されていた。「肛門科○○医院」。

 「笑って過ごしていたかね?」。「いえ、いつもの調子です、開高先生」。

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グミの頃

ビックリグミが熟れてきた。梅雨に向かって一雨ごとに赤みを帯び、そして甘みがグンと増す。そういえば、小学生の頃近くの畑の斜面にそのグミを摘みに行ったのを思い出す。学校で行く遠足のおかげで、野に自生する小さなグミは知っていたけれど一粒で口いっぱいになるグミなんて外国のおとぎばなしの世界に入ったような驚きだった。雨垂れの中、アルミの弁当箱にグミを詰め込んだ。「弁当箱一杯で五円よ。そのかわりここで食べるのはタダにしてあげる」。そう言ってグミ畑に誘ってくれたお姉さんはいま農協の金融課で外回りを走る。彼女が心にあの弁当箱を持ち続けているなら、きっと職場にもたいそう貢献しているにちがいない。赤い大きなグミを見ると彼女の顔が目に浮かぶ。

「歌は世に連れ世は歌に連れ」というけれど、「すべての思い出は胃袋を通る」という特異な人生観を培ってきた私には、食べ物にまとわりつく思い出は多 い。絹糸のようにまとわりついてほぐれない。今の時期なら「田北君の川魚」だ。同級生に田北稔という友だちがいた。彼の家は村のはずれの一軒家。彼に熱心に誘われて遊びに行ったことがある。こんなところに家があるのか、率直にそう思った。彼らだけのために作られた川沿いの道をたどり、それからさらに彼らだけのために切り開かれた小道を上がった。坂の上の狭 い平坦地に藁葺きの平屋があった。出迎えてくれた彼 の後ろには、彼のお父さんと、そして彼にそっくりの 色白のおかあさんが静かにほほ笑んでいた。子供心に も「人格者」であることを直感した。

彼の家はけっして裕福ではなかった。それは彼の弁当箱が教えてくれた。彼は弁当箱に手で覆いをして食べていた。家庭で身に付けた習慣なのだろうと思っていたら、それは人に見られたくない恥ずかしさからだとわかった。彼の弁当箱には、いつも小さな川魚が数匹並べられているだけだったのだ。ごくまれに白いご飯が詰められていると、彼はときどき顔を上げては、ほんとうにうれしそうに笑った。その彼に、一度だけ川魚をせがんだことがあった。ところが、それを口に含んでみて驚い た。その川魚には何の味付けもされていなかったのだ。 炭火で焼く、ただそれだけで精いっぱいだった彼の家の都合が見えた。言葉を飲み込んでしまった。泣きたくなるような悲しみに包まれたまま、私は視線を上げることができなかった。田北君は中学校を卒業すると 同時に集団就職で三重県に行った。「今年こそは帰り たいです」。彼の年賀状を手にするたびにあの川魚の味を思い出す。あれからもう三十五年の歳月が流れた。 陽炎のようにゆらめく遠い遠い思い出だ。

姉が教えてくれた野苺の大群生。大陸帰りの、豪放霜落な祖母が食べさせてくれた大根葉のおじやとキビナゴの醤油煮。竹馬の友、佐藤鶴来君が勧めてくれたタクアンの茶漬け、親父も大好物だった潮風の利いた唐人干し。 そして、イリコだしをベースにしたおふくろのカレー。 私の殺風景な人生舞台に数々の花を添えてくれた食べ物たち。その味はすべて再現できるのかもしれないけれど、世間知らずだったあのピンク色の舌はよみがえってくれるのか。「いろんな色を混ぜ合わせるとだんだん黒くなるのです」。赤いグミの思い出の中をそんな歌詞が流れてゆく。

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屁の二番勝負

私たちのお世話をしてくれる商工会の指導員はMさ んという。直入町に赴任して一年とちょつと。今の若者にしては根が正直で、石原知事好みの「NO」と言える好青年でもある。それでいて、とかく地域色の濃い組織にありがちな人間関係の難しさもヒョイヒョイとくぐり抜けていく。

その彼が結婚をした。相手の女性はもの静かなべッピンさんで女優の沢口靖子によく似ている。二人はふるさとで盛大な披露宴を済ませて新婚旅行に出かけた。行った先は北海道だ。レンタ カーを借りて富良野や小樽や札幌を回ってきたという。身も心もまさに花の楽園を渡り歩くような毎日だったろう。彼の土産話を聞いていた女性が、「あなたは今が一番いい時よねえ」と羨ましがった。すると、彼の口から耳を疑うような言葉が返ってきた。「いつ彼女の前で屈をするかですわ」。えつと、彼女と私は顔を見合わせた。「あんたが冷静なのは知っちょるけんど、 そりやあんまり冷めちょらせんかえ」と責めると、「皆さんそうなっていくでしょ。相手の前で屈ができると いうことは夫婦の殻をひとつ脱皮させるようなもんですわ」と開き直る。「そんなことを言って。ほんなら奥さんがあんたの前でオナラをしたら、あんたどうするん」と女性がムキになってみせると、「そんなこと考えられんですわ。もし、彼女が(屁を)しようもの ならその記憶が消えるまで十日も二十日も家に帰らんつもりですから」と彼。「そら卑怯じゃわ。自分は良 くて奥さんのは許せんとは」と二人で襲いかかると、 「男はそれでいいんです」とサラリとかわされた。

続いて私の両親の登場である。両親は見合い結婚だった。その頃、父親は病み上がりだったせいもあってか、憂いを含んだ優しいいい男だったという。一方、母親はと言えば評判のおてんば娘で器量も並以下。子ども心にも、父親は戦後の動乱に疲れて多少投げやりに なっていたのかもしれないと、ひそかにそう思わせるようなカップルだった。そのことは母親も認めていて、「お父さんはどことなく品があってな。そんじょそこ らにはおらんいい男じゃった。うちはおかしい顔をしちょるじゃろう。じやから、この人を逃したらもうこ んなチャンスはこの先絶対にねえち思うたわけよ。お金がなくても仕事がなくても、とにかくこの人の嫁になりたいと真剣に思うたわ」と話していた。

そして、彼女の願いがかなって二人は一緒になったのだが、初夜の床で新郎はこう言った。「ミドリさん、わたした ちはもう夫婦になったのだから何も遠慮しなくていいんですよ。出物腫れ物所嫌わずといいますから。オナラも我慢したらいけません。我慢して病気になったら大変ですからね」と。新婦は野山を走って育った田舎娘だったから、「上品な物言いと優しい気遣いに涙が出た」というのは本当だったろう。そんな甘い生活が何年続いたのかは知らない。ただ、晩年に交わされていた両親の会話は記憶に残る。「ミドリ、いいかげんにせんかえ」。「そげんこと言うてん、結婚したとき、 遠慮せんで(屈を)しょ、ち言うたじゃねえかえ」。「そりや言うたけんど、お前のはあんまりちいうもんじゃ」。 父親の肩を持つわけではないけれど、たしかに、母親のそれはこの世のものとは思えないほどの風格があった。まさに「あんまりちいうもの」だったのだ。予告なし、PRなし、そして音なしで襲うから一気に脳天を打ち砕く。これが尾を引くのだ。初心者はまず立ち上がれない。

そんな母でも若かった頃は、父親はもちろん姑の前でもできようはずがなかったから、お風呂の中で思いっきり腸を伸ばしていたようだ。なぜな ら。小さい頃から、私たち兄弟は長湯の温泉は炭酸泉ではなく、硫黄泉だろうとしばらくの間そう思い込んでいたほどだから。Mさんの話で通気の悪かった川端の湯船を思い出した。

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おいさん風

突然ではあるが「アホの毛なし、バカのおおたぶさ」という言葉がある。頭髪のことである。若い頃はまさにバカの典型であったが、それがいつの頃からか別な頭に変化し始めた。つまり、多くも少なくもならないかわりに白髪まじりになったのだ。だからそうでなく ても、大柄な体格が手伝って老けてみられるのに、ここ数年は実際の歳よりも五つは上に見られる。

一昨日のことだ。そろそろ床に就こうかと思っていたら娘が部屋にやってきた。「お父さん、知らないおばさんが来ているよ」。玄関に出てみると傘を差したままで女性が立っている。娘の言うとおり、知らないおばさんである。「車に鍵をつけたままロックしてしまったんです」。階段を降りてみると同年配のおばさんが三人、車を囲んでいる。「なんとかなりませんでしょうか」。 雨の中を辛そうにそう言われると放っておくわけにはいかない。近くにある修理工場の社長は私の同級生、 森田孝吉君だ。とにかく苦労人で、人の心の痛みのわかる好人物だ。彼に電話して事情を話したら、ふたつ返事で飛んできてくれた。そして、やはり餅は餅屋である。彼はまばたきする間もなくドアを開けてしまった。おばさんたちはたいそう喜んでお礼の包みを差し出すのだが、事情が事情だけに私たちは受け取らずにいた。

ところが、おばさんたちにはその親切がよほど骨身に染みたのか、駐車場のそばにある事務所に寄った。「そこの駐車場で因っておりましたら、近くのおじさんが友達を連れて来て親切にドアをあけてくれたんですよ。これをお礼に差し上げてほしいんですが」。包みを差し出されて、その女性が尋ねた。「どこの、どんなおじさんだったのでしょうね」。するとおばさ んたちが口をそろえて言った。「駐車場の中に青い屋根の家があるでしょ。あそこに住んでいる人です」。「メ ガネをかけた大柄な」。「そうそう、そのおじさんです」。 このやりとりで、その女性はおじさんがだれであったのかを理解した。

実は、その包みを受け取った女性 というのは、うちの家人。そして、あろうことか。おばさんたちが「おじさん、おじさん」と呼んでいたのは…。もう、いい。それにしても、完璧におばさんしているあの人たちの目におじさんと映ったわたしは。慰めようがない。いや、慰められようがないではないか。「見よ、あんたがお父さんをいつもジジイ、ジジイと呼ぶから。お父さんは本当にジジイになってしも うたわ」。わたしの前で、長女が申し訳なさそうに次女を叱るのだけれど、却って空しさが増すだけだった。 男は歳より上に見られるくらいがちょうどいいと思ってきたが、今回は少なからずショックだった。

そう言えば、このことで友人と出交した十五年ほど前の事件を思い出した。三十歳そこそこの頃にわたしの同級生が受けたショックのことである。その日私たちは二人して防波堤にアジ釣りに行った。早くに到着して堤防の付け根に陣取っていたから、後から来る釣り人はみんな私たちの後ろを通って行くことになった。「釣るるかえ」、釣り人が挨拶替わりに声をかけていく。 ところが彼の後ろを通る人は例外なく「おいさん、釣るるかえ」、「おいさん、今日はどげえかえ」と聞く。「タオルを頬被りしているからおいさんと間違われるんじゃ」と私が同情すると、彼は素直にタオルを解いた。「それでいい」と二人が顔を見合わせて笑ってい たら、向こうから腰の曲がったご老体が近寄って来た。そして彼のバケツをしばらくのぞき込んでいたが、腰の曲がったままに顔を近づけて彼に尋ねた。「おいさん、えさは何かえ」。突風が吹いたときのように、わたしたちは二人して海に落ちそうになった。

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花の消防団

ムラの男たちにとって、年明け最初の一大行事と言えば消防の出初め式である。直入町の場合、出初め式は十一日に決まっているから今年も間もなくだ。放水点検はもちろん、人員、服装点検、さらには軍隊さながらの歩行訓練点検というのもある。これがやっかいなのだ。右を向けだの左を向けだの、はたまた回れ右、前へ進めだの、普段聞き覚えのない動作を指示されるから面食らう。それも子どものように素直な連中ならいざ知らず、普段から親の言うことも上司の言うこと も聞かない連中ばかりである。一度や二度の訓練でものになるわけがないのだが、消防とは不思議な世界で、紺色の戦闘服みたいな制服に身を包み、これまた黒色の長靴を履くと「その気」になってしまうのだ。そして、本番では「その気」が結集されて、本物の自衛隊のように整然として格好いい演技が披露されるのである。ただし、皆が皆うまくいくとは限らない。中には右と左を勘違いして二人で向き合ってみたり、ひとり集団から離れて置き去りにされたり、吉本新喜劇より笑いを取る団員が現れたりする。間寛平ちゃんの演技など比べものにならないくらいにおかしいのだ。

その典型は手と足が一緒になるというやつ。ヒトという 動物は、そもそも手と足を一緒に出しては歩かないはずなのに、緊張してくるとこれが一緒になるのだ。やってみてほしい。右足を前に出す時に右手を前に出し、左足を出す時に左手を出して歩くとどうなるか。パンツの中に大きなものをもらしているか、股の間にハレモノでもできているような妙な格好になるのだこれが。 それを平気な顔でやってのける優秀な団員が出現するからたまらない。笑いの種をまくのは団員だけではない。時には指揮をとる分団長にも優秀な人が出現する。 ある年、号令をかけていた分団長が歴史に残る偉業を成し遂げた。小隊訓練の途中で号令の順番を忘れてし まったのである。「右向け右」とか、「回れ右」とか思いつくままに声を張り上げるのだけれど団員が動かない。いや、団員だって動きたいのだけれど、間違った号令では頭の回路にスイッチが入らないのだ。こうし てその集団は、大観衆の笑いにさらされたまま、凍りつくような時間を過ごしたのであった。

さて。そんな消防団でも、いやそんな消防団ほど「打ち上げ」には気合が入る。打ち上げとは世に言う反省会のことだ。 ある分団では例の戦闘服を着たまま反省会に突入した。 テンションは上がる一方で、ついにマイロクバスを仕立てて都町詣でと相成った。あるスナックに飛び込むと店のママが驚いて聞いた。「機動隊の方が出動するような事件でもあったんですか」。この言葉は一人の団員を役者にした。「そう、別府署のね。ちょつとやっかいな事があってね」。このセリフで夜の顔は決まった。 全員がもれなく別府署の機動隊に化けたのだ。「困ったことがあったら言いなさい」とか、「皇室の護衛は あんたたち庶民が思っているほど簡単なもんじゃない」とか、なかなかの役者ぶりを見せつけた。田舎のアンちゃんたちは酒が入ると俄然潜在能力を発揮する。 同席していた一般のお客さんも見抜けずにいたのだが、しばらくするとカウンターの隅に座っていた二人連れが集団に近寄ってきて小声で聞いた。「あのぅ、別府署の機動隊の方なんでしょうか」。「そうだけど。あんたたち何か困ったことでもあるの。何でも言いなさいよ」。すると二人連れが頭をかきながら言った。「いえ、わたしたちも別府署の交通課に勤務しているものですから」。戦闘服の頭の上を南極の風が吹き抜けていった。

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