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九重山麓の炭酸泉 赤瀬川隼

雑誌 別冊太陽山旅の宿に掲載されたものです

赤瀬川隼
1931年、三重県四日市市生まれ。
大分第一高校卒業後、銀行、外国語教育機関書店等への勤務を経て、文筆業に。
1983年『球は転々宇宙間』で吉川英治文学新人賞受賞。
以後、野球小説を次々に発表し、中間小説の実力派として活躍。
1995年『白球残映』で直木賞を受賞。
歴史小説や恋愛小説にも、その人問を深く温かく見つめる目と作風には定評がある。
青春時代を過ごした大分を舞台にした作品も幾つかある。
近作にエッセイ『人は道草を食って生きる』(主婦の友社)、短編集『冬晴れの街』(実業之日本社)、
エッセイ集『つれづれつらつら暮らしの散歩道』(輿陽館)などがある。

九重連山に登って法華院温泉に泊まったのが、もう四五年も前のことである。温泉といっても連山のただ中に、山荘が一軒だけぽつりとある、昔の修験者たちの拠点だったから、利用する客は今でも登山者だけだろう。
 登山中に大雨に見舞われてへそまでずぶ濡れになっていただけに、法華院に着いて宿の炉端で衣類を乾かし、温泉に浸かった時の至福な感じは今も忘れられない。

そのころは久住高原の東の裾野に長湯という温泉郷のあることなど、露知らなかった。大分県直入都直入町にある。仕事で大分市に行った時、知人に誘われて初めて寄ってみたのは、今からほんの六年ほど前のことだった。たちまち気に入ってしまった。
地元の人たちとも親しくなり、以来、年に一度は訪れるようになっている。

別府湾沿いの大分市を抜けて、西南方向に車でおよそ一時間、九重連山から見れば東南の山麓地帯に位置する。近くには鉄道が通っていない。大分駅を始発として久久留米に通ずる久大本線と、熊本に通ずる豊肥本線が九州を横断しているが、北側を走る久大本線は九重の山々を、南側を走る豊肥本線は阿蘇の山々を、それぞれ敬遠して遠巻きにしている。

直入町はその九重、阿蘇の両山塊の懐に抱かれるような所にあるから、どうしても鉄道路線からは遠いのである。一番近い駅は北では庄内駅か由布院駅、南は豊後竹田駅だが、それでもかなり遠い。つまり、大分を要とする鋏の両刃を広げたとして、次第に隔たってゆくその両刃の及ばぬ地勢にある。

と、これは改めて地図を眺めながらの記述だが、もちろん山間の温泉地で同じような地理的条件を持つ所は少なくない。共通点は、鉄道がなければ駅がなく、駅がなければ駅前商店街が生まれようもないことだ。
だから、駅前商店街に発する商業地区の形成がなく、町あるいは村は静謐が保たれる。
 こういう温泉地には往々にして、大げさに言えば秘境的イメージがつきまとい、それが謳い文句に使われたりする。現代の日本には秘境といえる場所があまりにも少なくなっているからなのか。

ところが、この長湯温泉に来てみると、そういうイメージがまったくないのである。むしろ周囲一帯の風光は、山問の盆地なのに不思議に開放感があって明るい。これはここだけでなく、九州全土の風土と関係があるのだろう。そういえば、長湯温泉を懐に抱く九重連山も阿蘇山塊も、規模雄大な山容だが、明るく開放的である。第一、九州本島で最高峰の九重連山のピークである中岳にしてからが一七九一bで、本州の三〇〇〇b級の山々に遠く及ばない。だから天空を広く感じるのだろう。のみならず、九重も阿蘇も山麓に見事な高原を横たえている。とりわけ、九重の北麓の飯田高原と南麓の久住高原の、のびやかな美しさといったらない。天空一望である。これが長湯の風光につながっているのだろう。長湯温泉には駅前商店街がないことを書いたが、そもそも商店「街」と呼べるはどの地区も見当たらない。それだけでなく、旅館が軒を連ねるというはどの通りも見受けられない。
芹川の流れに沿って、ここに二軒、あちらに一軒、遠くに一軒という具合に点在し、聞くところでは全部で一五軒だそうだ。町の人口は約二九〇〇人。とにかく人家も旅館も商店も、ひしめいていない。ここに来る度に天空の広さを感じるのは、それも一因だろう。

さて、こういう小さな温泉郷が、ドイツの温泉郷都市として有名なバートクロチンゲンと数年前から友好都市の契りを結び、住民の相互訪問を続け、温泉の利用法についての知恵を交換し、彼の地で産するワインを直人町のブランド入りで直輸入していると聞き、初めは意外に思った。しかし何度も長湯を訪れて旅館や町役場の人たちと付き合ううちに、いつの問にか当然と思えるようになった。土地の人々の創意と行動力といった人間的要素は後で述べるとして、この日本とドイツの二つの温泉郷には、天与の共通点があったのだ。それは温泉の炭酸含有率がそれぞれ、世界でも有数という点だ。炭酸泉は心臓、胃腸、血行、美容によいというのだから、いうことなしである。

この直入町とドイツの温泉都市の交流の素地は、実は今から七〇年も前の長湯温泉をめぐる先覚者のドイツへの視線にあった。
一九三三(昭和八)年、九州帝国大学(現九州大学)の教授で、ドイツのカルルスパードで温泉治療学を研究した松尾武幸博士が、長湯温泉を調査の結果1 世界稀有の合炭酸泉であることを示した。そして、地元で旅館を営み温泉の研究に打ち込む御沓垂徳氏が、松尾博士と二人三脚を組み、温泉治療の先進国ドイツを視野に置く。氏が当時作成したパンフレットには「東方日本の長湯温泉、西方ドイツのカルルスパード」とある。
 しかし、長湯をドイツに伍した温泉郷にとの御沓氏の努力は、世界大戦によって無惨に打ち砕かれた。そしてその志は、先覚者たちの歴史的事跡をおろそかにしなかった現代の長湯温泉の有志たちによって、五〇年後に開花したのである。そしてそノの中には御沓氏の長女、紀子さんもいた。

六年前に長湯を最初に訪れた時、知人が案内してくれたのは大丸旅館という宿だった。七月だったと思う。障子を開けると、足下は滴々たる芹川の清流である。おいおいとわかってきたのだが、ここの五代目の主人の首藤勝次さんがどうやら、直入町を挙げてのユニークな温泉文化推進の中心人物だった。当時は町役場に勤め、前記のドイツのバートクロチンゲンをはじめ、バーデンバ」デン、パートナウハイムといった著名な温泉療養地との文化交流と経済交流の推進役だった。そのかたわらの旅館経営である。去年役場を退職したが、まだやっと五〇歳というところで、これからやりたいことを自由にやるのだろう。後で書くが、長湯は昔から少なからぬ文人墨客が訪れている温泉である。このことも僕は初訪問まで知らなかった。そして実はこの首藤勝次さん自身がなかなかの文人で読書家、かつ書もよくすれば、水墨画の筆も持つ。

この人の弟の首藤文彦さんがまた、お兄さんとは一味も二味も違うが、ユニークな人物である。直入町の北部の丘陵地を開墾し、自然の地形を生かした広い敷地に大小様々な棟が点在する旅荘「輩翠之庄」を造った。母屋と離れ家、それに木工や陶芸、食品加工などの工房があり、自家農園に養鶏場がある。茅葺きの母屋も瓦葺き平屋造りの離れ屋も、材料の大半は地元で育った木材を使い、個々の棟の建築は、宮大工を含む県下の棟梁たちの手になるという。文彦さんは学生時代からのラグビーを今も続けるスポーツマンで、地元チームの主将である。彼は今、長湯の恵まれた自然環境を生かした、青少年のスポーツや情操を育てるための施設と交流計画を練っている。兄弟とは面白いもので、顔も性格もそっくりというのはあまりいない。僕にも弟がいるのでわかるが、育った根っこは同じで、他人の介入できない何らかの文化を共有するのだが、それは表にはあまり現れず、むしろ長じてからの別々の個性の方が目立ってくる。大体はおっとり型の長男坊に腕白型の次男坊である。僕の見るところ首藤兄弟もそうだ。

大体、一つの町でも村でも、小さな共同体には民問にリーダーシップを発揮するコンビが自然に生まれる。兄弟の場合もあれば、同年配の友人同士の場合もある。同じ温泉文化の面で僕の知る限りでは、故郷の町の美点を護り生かして一流の温泉郷に発展させた湯布院温泉の、玉の湯の溝口薫平と亀ノ井別荘の中谷健太郎の両氏のコンビがいる。そして長湯ではこの首藤兄弟だ。

さて、長湯温泉は各旅館内の内湯のほかに、外湯にもカを入れている。共同浴場である。ここには地元の人たちや、保養に来てそれぞれの旅館に泊まっている客たちの屈託のない交流がある。昭和の前半までは、長生揚、天満湯、御前湯などの外湯があったが、内湯設備のある旅館が増えるにつれて衰退した。それを復活させようと計画されたのが町営の御前場である。そして四年前の一九九八年に、芹川沿いに鉄骨木造三階建ての清酒な建築の「温泉療養文化館御前湯」として復活した。大変な人気だという。その初代館長になったのが首藤勝次さんである。この人が文人であることは既述したが、館長として御前湯に出勤するかたわら、長湯の歴史、 土地の古老の話や来訪した文人墨客の話など、日記風のエッセイを書き続けた。それが一冊にまとまり西日本新問社から去年、『御前湯日記』のタイトルで上梓された。これがなかなか飄々として面白い。

首藤さんはまた、大丸旅館から歩いて数分の所に「ラムネ湯」というこぢんまりとした露天風呂の外湯を開いた。ラムネ湯とは、かつて長湯を訪れた大仏次郎が炭酸泉に入って「まるでラムネ場だね」と評したことから付けた名だという。言い得て妙である。というのは、長湯は炭酸濃度が高いから、入浴中に腕といい頸といい胸といい、気が付くと全身の肌に透明で細かい銀色の気泡がくっついているのである。そして炭酸泉は飲用としても効能がある。まさにラムネ湯だ。

大仏次郎の名が出たが、記録によると昭和二年には田山花袋が、昭和五年には放浪の俳人として最近また脚光を浴びている種田山頭火が長湯に一泊している。残る句は、
 まだ奥に家がある 牛をひいてゆく
 あかつきの湯が私一人 あたためてくれている
 壁をへだてて湯の中の男女さざめきあう

など。
 俳人の訪問ではほかに、河東碧梧桐、荻原井泉水などがいる。
 与謝野鉄幹・晶子夫妻も長湯温泉を愛したという。
 芹川の湯の宿に来て灯のもとに
       秋を覚ゆる山の夕立 鉄幹


 
芹川の夜の流れより上がり来て
       蛾の座りたる揚宿の卓 晶子

 野口雨情も一度ならず長湯を訪れて作詞した。
 久住山から夜来る雨は
    長湯ぬらしに来るのやら

 
 
長湯芹川かわ真ん中の
    離れ岩にもお湯が湧く

           (以下略)

川端康成も、法華院温泉を経て久住高原に遊び、竹田市や長湯まで足を運んだという。また、川端康成に九重連山や温泉を紹介した画家の高田力蔵は、長湯にも逗留し、ここから望む九重連山などを好んで描いた。独特の温かく柔らかい色調で、穏やかな光が画面一杯に溢れ、眺めるうちに気持ちの落ち着いてくる絵である。大丸旅館にも飾ってある。
 僕ももはや古稀。四五年前に一泊した法華院温泉にまた行ってみたい気はあるが、脚も弱っているし、登山はもう無理だ。今は、その高原の裾野の別天地、長揚温泉の炭酸泉に浸かって、我が腕に生じては消える銀色の気泡を眺めつつ、湯上がりの一杯を楽しみにするのがいい。

御前湯日記の一部を見る

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