第五章 急展開

 目が醒めると、味噌汁の匂いがした。珍しく、佐知代が朝飯を作っていた。
 「味噌汁なんて、何年ぶりかな」
 「あなたが、朝食を摂らないから・・・・」
 「そうか。そうだったな。毎日食べれば、毎日作ってくれるのか?」
 「今日から、そうしようと思って」
 「そうか。じゃあ、毎日食べることにするか」
 「それから、仕事が終わったら早く帰ってきて。遅くなるときは、連絡して」
 「どうして?」
 「夕食もきちんと作るから」
 「そうか。分かった」
 毎日は女装できなくなるかもしれないなと思いながら、何とかなるだろうと、軽く返事した。
 通勤電車の中で考えた。佐知代が変わったのは何故だろう? 子供たちがいなくなったせいだろうが・・・・。まあ、いいか。わたしにとって、いい方向へ変わったことには違いないのだから。

 会社に出ると、すでに林田が仏頂面で仕事をしていた。あの林田がねえ、男が趣味だったとは・・・・。林田の秘密を握って、わたしは、内心上に立ったような気分になっていた。自分がその相手をしたということは忘れて。
 しかし、わたしに対する風当たりは、まだまだ強い。わたしを何とかして辞めさせたいのが、あからさまになってきている。

 やっぱり今日も、わたしは女装の時間を楽しんだ。ただ、少し早めに切り上げて、午後8時半にはマンションへ帰った。朝食も久しぶりだったが、夕食を自宅で食べるのも、ずいぶん久しぶりだ。佐知代は、どうして心変わりしたのだろうか?

 林田から貰った携帯電話は、捨ててしまおうと思っていたのに、結局捨てずに持っている。普段は電源を切っているのだが、会社を出て、女装クラブに着くと電源を入れていた。わたしは、林田に誘われるのを待っていた。金もいるのだが、林田とのセックスが忘れなれないのだ。佐知代がそばにいても、まったくその気にならないのに、夕方が近づいて、林田から誘いがあるかもしれないと思うと、いても立ってもいられないのだ。わたしは、きっとホモだ。今まで、それが心の奥底に埋もれていただけだ。

 初めて林田に抱かれた日から数えて、三日目に電話が入った。この前と同じユニオンホテルの822号室で待っていると言われた。
 わたしは、いつもより入念に化粧して、下着もちょっと派手なものを身につけ、ホテルへと向かった。
 ドアをノックすると、林田が、笑顔で出迎えてくれた。
 「そのスーツ、似合うね」
 「そうかしら」
 満足した。林田は、今日も5万円置いていった。まだ気付かない。

 それから一週間目、林田から電話があった。この間、林田は、出張で、本社に行っていた。わたしは、待ち遠しくて堪らなかった。
 「ちょっと郊外に行こうか?」
 そう言われて、女装クラブから、歩いて5分ほどの場所で待ち合わせをした。午後7時過ぎ、わたしは、林田の乗ってきたマークUの助手席に乗り込んだ。
 30分ほどして、車は郊外のしゃれたホテルに横付けされた。
 「チェックインしたら、ちょっと腹ごしらえしないか?」
 「いいわ」
 林田が、チェックインしている間、ソファーに座って待っていた。その時、目の前を女が横切っていった。淡いピンクの、デザインが派手なワンピースを着て、男にしなだれかかった女を見て、ギョッとした。その女は、間違いなく佐知代だった。わたしは信じられない面もちで、その光景を見ていた。
 「どうした?」
 「いえ、何でもないです」
 林田は、佐知代の後姿を見ながら、わたしに尋ねた。
 「あの女が、どうかしたか?」
 「何でもないです。さあ、行きましょう」
 レストランで、一緒に軽い食事をとっていると、林田が思いだしたように言った。
 「あの女、このホテルでよく見かけるな」
 「えっ!? あの女って、さっきのピンクのワンピースを着た女のこと?」
 「そうだ」
 「林田さん、このホテルには、よく来るの?」
 「あ、ああ。まあな」
 「仕事以外のことで?」
 「野暮なことを言うなよ」
 林田は、ちょっとしくじったなという顔をした。林田は、精力旺盛のようだ。わたし以外にも、相手がいるのに違いない。
 「分かったわ。・・・・あの女、ほんとによくここで見かけるの?」
 「裕子、何かあの女と関係があるのか?」
 「と、友達に似てるなと思って」
 「そうか。あの女は、まさか男という訳じゃあなさそうだが・・・・」
 「あの人は、女よ。子供さんがいるもの」
 「そうか。そうだろうな」
 「浮気してるのかしら?」
 浮気は間違いないと思ったが、林田が、それ以上の事を知っているようだ。わたしは、まるで他人事のように、呟くようにそう尋ねた。
 「浮気か? ちょっと違うだろうな」
 「えっ!? 浮気じゃないの?」
 「想像するに、主婦売春のようだな」
 「えっ!? 主婦売春!」
 「ただの浮気じゃない。いつも相手が違うからな」
 主婦売春。あの佐知代が・・・・。その時わたしはようやく気がついた。帰りが遅くなるときは連絡してくれと言う意味は、わたしと一緒に食事したいがためではなく、わたしがうちへ帰る時間を確認するためだったのだ。ふたりの子どもがいなくなって、束縛する相手はわたしだけなのだ。わたしの帰りが遅くなるときには、売春できると言うことなのだ。
 「やっぱり、あの女と関係があるな」
 「な、ないわよ」
 「白状しろ」
 わたしは、もしそう言われたときのことを予想して考えていた答えを言った。
 「あの人、わたしの大学時代の先輩の奥さんだと思うわ」
 「ほう、大学の先輩のねえ。なんて言うやつだ?」
 「林田さんの知らない人よ。言っても仕方ないでしょう?」
 「それはそうかもしれないが、聞いてみたい」
 「じゃあ、教えてあげる。野本省吾って言うの」
 こういう場合、大学時代の先輩の奥さんというのは嘘で、自分の妻だと言うことが多い。だから、野本省吾の妻だと言うことは、わたし自身が、野本省吾だと言うことを、林田にそれとなく伝えたつもりだった。
 「その野本省吾というのは、もしかすると、うちの社員じゃないかな?」
 「えっ!?」
 わたしは驚いて見せた。
 「大学はどこだ?」
 「城北大学ですけど・・・・」
 「年齢は?」
 「ちょっと待ってね」
 わたしは計算する振りをした。
 「3級先輩だから、36,7位だと思うけど」
 「やっぱりそうか。間違いない。気の毒に、会社では、リストラ寸前で、家では、奥さんが売春だなんて。可愛そうな男だ」
 林田は、勘が悪いのか、それともわたしの女装が完璧なのか、わたしが野本省吾だとは、まったく気付かない。
 「3級先輩が37ってことは、裕子は、34なのか?」
 「あら、いやだ。ばれちゃった。でも、まだ33よ」
 「そうか。33か・・・・。もう少し若いのかと思っていた」
 「ありがとうございます」
 「じゃあ、部屋に上がるか」
 「はい」
 佐知代が、売春。そのことが頭から離れなかったのは、部屋に入るまでだった。やっぱり、わたしは完全なホモだ。林田と関係するまで、それに気付かなかっただけだ。わたしは目覚めてしまった。

 マンションへの道すがら、わたしは考えた。どうしてくれようかと。わたし自身も売春しているのに、勝手な話しだ。
 しかし、マンションへ帰り着くと、佐知代はいなかった。売春していることがばれないようにするためには、わたしより、早く帰っていなければならないのに、どこへ行ったのだろうか? そう訝っていると、電話が鳴った。
 「もしもし、野本です」
 佐知代からの言い訳の電話だと思ったのに、男の声だった。
 「わたしは、平塚病院の外科の加藤と言います。野本佐知代さんは、お宅の奥さんでしょうか?」
 「野本佐知代は、わたしの妻ですが、妻がどうしたのですか?」
 「奥さんが、救急車で、こちらに搬送されてきております。至急おいで願えますか?」
 「救急車で? いったい何があったのですか?」
 「こちらで説明いたしますので、大至急お願いいたします」

 病院の場所を聞いて、わたしはタクシーを飛ばした。いくら冷め切った夫婦とはいえ、妻は妻だ。
 受付で名前を言うと、緑色の妙なデザインの服を着た医者の前に連れて行かれた。その妙な服は、手術用の服らしかった。
 「野本佐知代の夫です。容体はどうでしょうか?」
 「激しい腹痛と言うことで、この病院へ搬送されてきましたが、検査の結果、子宮外妊娠の破裂だと言うことが分かりました」
 「子宮外妊娠の破裂!」
 「放置すれば、命に関わります。すぐに手術になります。承諾書にサインをお願いいたします」
 「子宮外妊娠・・・・」
 わたしは、承諾書にサインした。佐知代が手術室の奥に運び込まれたあと、椅子に座って、じっと考えた。子宮外妊娠と言うことは、妊娠だ。わたしは、ここ数年、佐知代とは性交渉を持っていない。わたしが妊娠させたわけじゃない。売春したときに、避妊がうまくいかなくて、妊娠したに違いない。佐知代は、何と言い訳するだろうか?
 一時間後、執刀した医者が手術室から出てきた。
 「ご主人、手術はうまくいきましたよ」
 「子宮外妊娠は、間違いなかったのですか?」
 「間違いないですよ。術前診断通りでした」
 「ありがとうございました」
 わたしは、深々と医者に頭を下げた。佐知代の病室に行くと、佐知代は、わたしに顔を背けたまま一言も口を利かなかった。わたしも、何も言わずに病室を出た。

 一週間後、会社を休んで、退院する佐知代を迎えに行くと、佐知代の姿はすでに病院にはなかった。看護婦に聞くと、朝早くに退院したとのことだった。
 「主人は、仕事が忙しいから」
 そう看護婦に言い訳したそうだ。
 マンションに戻ると、やはり佐知代の姿はなく、テーブルの上に、書き置きが残されていた。
 『何も言わないで、別れてください。佐知代』
 ただそれだけだった。いや、サインされた緑色の離婚届もテーブルの上に置かれていた。どうするか? 和代は、嫁に行って、もういない。勝は? 居所がしれない。わたしたちの間を繋ぐものは、すでにない。夫婦生活もない、ただの同居人に過ぎない。わたしには、守るべき家族はもういない。別れた方がいいのかもしれない。
 わたしは、そのまま離婚届を役所に提出した。勝のことだけは気になるが、これで、家庭のいざこざからは完全に解放される。わたしは、さばさばしていた。

 役所から帰ると、入り口で、管理人に声をかけられた。
 「野本さん、奥さんと別れたんだって?」
 「え、ええ。どうしてそれを・・・・」
 「さっき奥さんが来られてね。野本さんに鍵を返しておいてくれって言ってね」
 管理人に渡された鍵を持って部屋に戻った。佐知代の持ち物が、完全になくなっていた。わたしが役場に行ったのをどこからか見ていて、運び出したようだ。わたしの顔を見たくなかったと言うことだろう。わたしのしていることを知らないから、わたしに顔向けできないだろうからなと思う。
 女の持ち物がなくなると、タンスの中はがらがらだった。

 佐知代がいなくなって、わたしは、マンションの中でも女装するようになった。男の姿になるのは、会社に行くときだけだ。
 午後7時頃まで、林田の電話を待って、電話がなければ、マンションに帰って、女の格好をして過ごす。もし電話が入れば、林田に抱かれると言った寸法だ。
 コインロッカーに預けていた荷物はもう隠す必要がなくなったので、マンションの部屋に持って帰った。通販で、女物の服を手に入れるようになって、服も増えてきた。
 下着類は、洗って部屋の中に干し、洋服の類は、持ち込みでクリーニングに出すようにした。女の家族がいないのに、女物の服をマンションに配達されては、困るからだ。

 林田は、どうして気付かないのだろうか? 気付いていて、気付かない振りをしているのだろうか? 時には、そう思うことがある。しかし、どうも、ほんとに気付いていないようだ。
 会社での、わたしへの圧力は強まるばかりだ。そこで、わたしは、林田を利用することにした。裕子が、野本省吾だとばらすのだ。そして、援助して貰うのだ。もしだめだと言えば、辞めるついでに、林田がホモだとばらすと脅かせばいい。
 そう決心したその日に、林田から電話が入った。わたしは、林田がわたしを守ってくれる方にかけた。そうすれば、仕事も続けられるし、性的にも金銭的にも満足できるからだ。
 ことが終わったあと、わたしはシャワーを浴びて、化粧を落とした。それから、腰にタオルを巻いて、部屋に戻った。林田は、わたしの顔を見て、心底ビックリしたようだ。
 「き、君は・・・・の、野本君・・・・」
 「ほんとに気付いてなかったのね」
 「まさか・・・・」
 林田の顔は引きつり、青ざめていた。
 「部長。わたしって、そんなにできない人間ですか?」
 「い、いや。そんなことはないよ」
 「じゃあ、わたしを辞めさせないようにして」
 「・・・・」
 「お願いよ。こんな仲なんだから」
 林田は、断れば、わたしに脅されることを察したようだ。
 「分かった。何とかする」
 「わあ、ありがとう。わたし、一生懸命頑張りますから」
 良かった。わたしの思い通りになった。

 翌日出社すると、いつもわたしより早く出てきている林田がいなかった。おかしいなと思いながら、コーヒーを入れて、飲んだ。
 「林田部長、どうしたのかしら。今日は遅いわね」
 女子従業員たちも、不審に思っている様子だ。まさか、昨夜のことを気にして自殺なんてことはないなと考えながら、仕事した。
 昼休みちょっと前、電話が鳴った。
 「野本さん、あなたによ。3番を取って」
 「ありがとう」
 受話器から流れてきたのは、支店長の声だった。
 「野本君、ちょっと部屋に来てくれないか?」
 「はい、すぐに伺います」

 わたしのような、万年平社員に何の用事だろう。林田が出てきていないことと、関係があるのだろうか? そう訝りながら、支店長室のドアをノックした。
 「野本です。ただいま、参りました」
 「入りたまえ」
 「秋月君、ちょっと外してくれたまえ」
 支店長は、秘書を部屋の外へ追い出した。ますます分からない。秘書がいては、話しにくい話題なのだろうか?
 「林田君がいないのは、野本君も知ってるだろうね」
 「はい。今日は出張でもないのに、おかしいなとみんなで話してました」
 「まだ内緒の話なんだが、実は、林田君は会社の金を使い込んでいてね」
 「ええっ!? 部長が使い込みですか?」
 そう言えば、わたしと初めて関係した日に、ぽんと10万円をわたしに渡した。毎回5万はくれるし、一緒に摂る食事もそう安くないものばかりだった。よくそんなに金があるなと、ちらりと思ったことがあったが、使い込みをしていたのか・・・・。
 「そうだ。今日付けで、懲戒解雇になった。数日中に、背任横領の罪で、起訴されるだろう」
 せっかく部長の弱みを突いて、リストラに会わないようにしたのに、元の木阿弥だ。しかし、なぜ、わたしにそのことを・・・・。
 「酒や女につぎ込んでいたらしいんだが、内偵中に、君が浮かび上がってね」
 「えっ!?」
 「・・・・君は、なかなかの美人に変身できるようだね」
 女装したわたしと林田が、腕を組んでホテルに入っていく写真を、支店長が机の上に放り出した。わたしの全身から、血の気が引いた。なんてことだ。と言うことは、わたしが女装して、林田と関係があったことを知られている。まさか、わたしも警察に突き出されると言うのでは・・・・。
 「林田の横領は、君と付き合う以前からだ。つまり、君が横領を指示したのではないことは分かっている」
 わたしは、少し安心した。横領にわたしも関与しているとなれば、わたしも刑務所行きは免れない。
 「で、わたしは、どうなるのでしょうか?」
 「君の方は勿論だろうが、会社としても、こんなことは表沙汰にはしたくないのだ。マスコミに知られれば、社名に傷が付く」
 「そうでしょうね」
 「辞表を出してもらえれば、君のことは不問にすると約束しよう。退職金も通常通り出す。どうだね?」
 社名に傷が付くことを恐れている会社の方から、このことがばれることはないだろう。しかし、こんなことは、いづれ知れ渡ってしまうものだ。人の口に戸は立てられない。
 わたしに選択の余地はない。ここで頑張っても、わたしが女装して、林田と関係したことが、みんなに知れれば、この会社にはいられなくなる。いずれにしろ辞めざるを得ないのだ。林田を誘惑して、横領させたなどと言う理由を付けられて、退職金が出なくならないうちに、辞めてしまおう。辞めたあとはどうするか? 養う家族がいないのだ。なんとかなるだろう。
 「分かりました。理由は、一身上の都合でよろしいんですね」
 「その通りだ。話しは、それだけだ」
 「お邪魔いたしました」

 早速辞表を書いて、支店長秘書に渡して退社した。退職金は、400万あまり。当座の生活費には困らない。マンションの支払いは、すでに済んでいるから、住むところもある。しばらく、女装を楽しめるぞ。馘首になったのに、わたしは、むしろほっとしていた。これで、ストレスともお別れだ。