第三章 ストレス解消法

 午前8時過ぎ、会社に顔を出すと、数人の女子社員がもう来ていた。
 「おはよう」
 「おはようございます」
 大抵の会社では、女子社員がお茶を運んでくれるのだろうが、わたしの会社では、女子社員がお茶を入れるようにはなっていない。だから、わたしは給湯室に行って、わたし専用の湯飲みにお茶を入れた。
 お茶を飲みながら、昨日のわたしの女装した姿は、結構よかったぞ。うちの社の女子社員で、あの姿の敵うのは、一人か二人だろうなと、心の中でほくそえんだ。
 「野本さん、何が嬉しいんですか?」
 向かいに座った女子社員が、不思議そうな顔をして声を掛けてきた。
 「いや、なんでもない、なんでもない」
 「へんなの」

 8時半には全員揃った。部長が、わたしの方をちらりと見た。山沖商事の件、午前中に処理しなければ。
 8時50分、わたしに電話が入った。
 「誰から?」
 「ミゾノさんて、おっしゃってました」
 ミゾノ? ミゾノといえば、大学の同級のミゾノかな? そう思いながら、電話を取った。
 「よう、野本。俺だ。御園」
 「ああ、やっぱりおまえか。どうした? 朝っぱらから?」
 「昨日の夜11時頃、お宅に電話したら、帰ってないって言うから、そっちに電話したんだ」
 「ああ、ちょっと忙しくてね。昨日は帰らなかったものだから」
 わたしは、少し声を落として、そう答えた。
 「で、何の用だ?」
 「おまえの会社、旅行会社だって言ってたよな」
 「ああ、そうだよ」
 「この前の同窓会のとき、おまえに言ったと思うけど、俺、今、橋本病院て言うところの、事務をやってんだ」
 「ああ、そんなこと言ってたな。それで?」
 「秋に、病院旅行に行くことになったんだけど、おまえに世話してもらおうと思ってさあ」
 「えっ! いいのか?」
 「是非頼むよ。その代わり、サービス頼むよ」
 「お安い御用だ。で、いつ、どこへ行く?」
 「第一班が、11月6,7、第二班が11月13,14だ。行き先は、北海道。景色もいいが、できればグルメツアー。美味いものを食わせてくれるツアーを頼む」
 「人数は?」
 「各班60人ずつだ。何とかなるか?」
 「なる、なる。なるよ。すぐに手配する。来週にでも、行程表を持って行くよ。いいかな?」
 「来週だな。いいよ。病院の場所は分かるか?」
 「ああ、この前もらった名刺に書いてあったよな」
 「じゃあ、待ってるよ」
 やったあ。山沖商事の社員旅行と規模が同じだ。行き先も同じ。ちょっと差し替えればすむ。わたしにも運が向いてきたぞ。
 わたしは、早速電話をかけ始めた。
 10月13,14日に、新たに山沖商事として、予約を取り、11月13,14日は、山沖商事ではなく、橋本病院ご一行さまへ変更。さらに、11月6,7日の橋本病院さまご一行を追加。昨日電話したホテルの予約係も、二つ返事で、予約を引き受けてくれた。
 「部長、山沖商事の社員旅行の件はオーケーです。それから、代わりに橋本病院の病院旅行を入れました」
 「ほう、やるじゃないか。この調子で頑張ってくれたまえ」
 林田部長の声には、皮肉の響きがした。

 午後2時、わたしは、山沖商事の総務にいた。
 「日程の変更は、この通り、きちんとできました。大変、ご迷惑をおかけいたしました」
 わたしは、行程表を総務係長に渡しながら、深々と頭を下げた。
 「いや、いや。迷惑をかけたのは、こちらだよ」
 「えっ!?」
 「どうやら、当方の注文ミスのようでしてね」
 「と言いますと」
 「うちが、オーダーするときに、11月になっていたようなのだ。毎年11月だものだから、気がつかなかったようなのだ」
 「そうだったんですか」
 「そうとも知らず、昨日は、怒り飛ばして申し訳なかった」
 「いえ、わたくしといたしましては、山沖商事の皆様が、旅行を楽しんでいただければいいことでして・・・・」
 「君は、なかなかの人格者のようだね。気に入ったよ。来年からも、よろしく頼むよ」
 「分かりました。ありがとうございます」
 「君の会社の上司には、こちらの間違いだったことを先ほど連絡しておいたからね」
 「わざわざすみません。助かります」
 「じゃあ。そう言うことで・・・・」
 「ありがとうございました」
 わたしは、意気揚揚と会社へ戻った。

 「野本君、ちょっと」
 会社へ戻るとすぐに、部長に呼ばれた。部長は、恐縮した顔をしている。
 「山沖商事の加藤さんから電話があってね」
 「加藤さんは、総務の係長でしたね」
 「ああ、そうだ。山沖の社員旅行の日程ミスは、向こうの間違いだと言ってきたんだ。君のミスじゃなかった」
 「そうでしょう? わたしがいただいた書類では、初めから11月になっていましたから、おかしいなとは思っていたんです」
 「昨日は、それを知らずに、怒鳴ってしまってすまなかったな」
 「いえ、間違いは誰にでもあることですから」
 「・・・・ほんとにすまない。加藤さんも、向こうのミスなのに、君の対応がよかったと言って、ことのほか喜んでいたよ」
 「お客様に喜んでもらうのが、わたしの仕事ですから」
 「じゃあ、そう言うことだから・・・・」
 これで、リストラの話はしばらく、立ち切れになるだろうなと思う。まあ、運がなかったとはいえ、これまで、会社のために一生懸命やってきたのだから、リストラの対象にされるのがおかしいのだ。
 わたしは、うきうきと、その後の時間を過ごした。

 昨日は、ゲイバーや女装クラブに行ったため、小遣いの手持ちが殆どなくなっていた。それに、着替えもしていなかったから、午後6時の勤務時間が過ぎると、わたしは自宅へ直行した。
 「あら、早かったのね。昨夜はどこに泊まったの?」
 「昨日は仕事が遅くなって、終電に間に合わなかったから、近くのカプセルホテルに泊まった」
 「帰らないのなら、連絡くらいしてよね」
 「心配してくれるのか?」
 「心配なんてしてないけど、夕食作るのに困るのよね」
 「そういうことか・・・・」
 わたしは、奥の部屋に鞄を置くと、スーツを脱いでシャワーを浴びた。
 「和代は、まだ帰らないのか?」
 冷蔵庫から取り出したビールをコップに注ぎながら、わたしは、夕食の準備をしている佐知代に話し掛けた。
 「このところ、いつも遅いわね」
 「大丈夫か?」
 「大丈夫って?」
 「和代は女の子なんだぞ。心配にはならないのか?」
 「あの子は大丈夫よ。変なことするような子じゃないから」
 「そうか・・・・」
 そんな話をしていると、勝が部屋から出てきて、トイレへ入っていった。
 「勝は、いつもの調子か?」
 「相変わらず、閉じこもったままよ。あなたの口から、何とか言ってよ」
 「何とか言ってよと言われてもなあ」
 これまで、何度か話そうとはしたのだが、勝は、わたしの言うことに耳を貸そうとはしなかった。
 「あなたが、不甲斐ないから・・・・」
 「人のせいにするなよ。おまえの育て方が悪いんだ。俺は仕事で忙しいんだぞ」
 「仕事、仕事って、少しは家庭のことを顧みてよ」
 「・・・・」
 わたしには、何もいえない。わたしは、仕事をして、生活費を稼ぐのが役目。家庭のことは妻の仕事だと思っている。そんな考え方は古いと言われるかもしれないが、ずっとそう思ってきた。それを否定されても、わたしとしては困るばかりなのだ。
 「勝には、勝の考えがあるんだろう。もうしばらく様子を見よう」
 「もうしばらくって、もう、中学3年なのよ。このままじゃあ、卒業させてくれるかどうかも分からないのに・・・・」
 「待つしかないよ。待つしか・・・・」
 職場でのストレスは、なくなったが、家庭でのストレスは、なかなかなくなりそうもない。
 飲んで帰ればよかった。そうすれば、佐知代とこんな話しをせずにすんだのに・・・・。

 職場でのストレスがなくなったと考えたのは、間違いだった。わたしを辞めさせよとする圧力は依然として存在した。そのストレスのはけ口は、今までは、酒を飲んで紛らわすことだった。しかし、今では、わたしは女装することが、そのはけ口となった。女装することで、わたしは野本省吾と言う男を、一時的に消し去れるのだ。女装して過ごす時間、それだけが、わたしのほんとに自由な時間だった。
 その女装も、結構金がかかった。わたしは、女物の下着や、ワンピースなど、そう高くないものを、店から買い取り、バッグに入れて、コインロッカーに預けるようになった。コインロッカーの使用期限ぎりぎりまで預けておいて、取り出して、店まで持っていき、着替えて、2時間の時を過ごすのだ。そして、帰りにもう一度預けた。
 汚れが、目立つようになると、人気の少ないコインランドリーで洗濯して乾燥させた。
 衣装代がかからなくなって、一度の女装に使うお金が少なくてすむようになった。少しお金に余裕があれば、貸衣装を借りて、少し違った格好もしてみると言った寸法だ。

 「あら、お久しぶり」
 女装クラブの裏口から入ろうとしていたら、後ろから声をかけられた。ビックリしたと言ったらなかった。振り向いて声の主を見てみると、由紀だった。わたしは、ホッとした。
 「やあ、由紀さんだったのか。ビックリしたよ。誰もいないと思って、入ろうとしていたから」
 「ごめんなさい。入ってから声をかければよかったわね」
 「とにかく中へ入ろう」
 わたしと由紀は、部屋を取って、ソファーに腰を下ろした。
 「あれから、何度か来ているって、聞いたけど・・・・」
 「そうなんだ。いいストレス解消になるものだから、病み付きになっちゃってね」
 「病み付きって、どれくらい来てるの?」
 「週に2度かな」
 「わっ! 結構嵌ってるう」
 「そうなんだよ」
 「じゃあ、一人で、できるわよね」
 「もちろんだよ」
 「やって見せて」
 「言われなくても、そのために来たんだから」
 わたしは、早速女装を始めた。このごろは、ブラジャーも後ろ手に付けることができるようになっていた。化粧にかかる時間もずいぶん短くなっていた。
 今日の衣装は、薄手の白のブラウスに、紺のミニタイトだ。まあ、女性事務員と言った雰囲気かと思う。
 「すごい、すごい。よく似合うわ」
 「そう?」
 「仕草もいいわ」
 「うちの女の子たちをよく観察して、勉強しているからね」
 「いい、いい」
 わたしは、由紀の前を得意げに歩き回った。
 「ねえ、野本さん」
 「何?」
 「その格好で、外に出てみない?」
 「えっ!? 外に? とんでもないよ」
 「どうして? 絶対ばれないと思うけど」
 「いや、とても外には出られないよ」
 「大丈夫、大丈夫。わたしが付いていてあげるから」
 由紀が一緒にいてくれる。その言葉に、わたしは、その気になった。由紀は、女に見えるし、もしばれても、ただのニューハーフの二人組みで、まさかわたしだとは思われないだろう。
 「ほんとに、大丈夫かなあ」
 「声さえ出さなければね」
 「じゃあ、外に出てみようか」
 「ちょっと待って。外に出るには、その服装じゃあ、おかしいわ。何か良いもの、探してあげるわ」
 そう言って、由紀が持ってきたのは、ベージュの膝上丈のワンピースだった。
 「喉仏を隠すために、スカーフをしましょうね。靴はこれね」

 ウイッグと化粧を点検して、由紀と一緒に外に出た。外に通じるドアを開けるときには、胸がどきどきした。
 「できるだけ、自然にね。きょろきょろしたり、おどおどしたらだめよ」
 そう言われても、ものすごく緊張した。冷や汗がじっとりと背中を濡らす。
 15分も歩き回っていると、かなり慣れてきた。緊張が取れると、むしろ快感で体が痺れたようになった。
 「コーヒーでも飲んで帰りましょうか?」
 わたしは、うんと頷いた。由紀は、目の前にある喫茶店へとわたしを誘った。現在午後9時過ぎ。アベックや、数人の女性のグループが何組かいた。わたしたちもその中へ紛れ込んでいた。
 男たちは誰一人として気づくものはいないようだ。ただ、女には、どうも気づかれているのではないかと思われるものが何人かいた。さすがに女の勘は鋭いなと思った。

 女装クラブに帰り着いた。もっと女の格好でいたいような気がしたが、時間が許さなかった。着替えをしていると、由紀が、話し掛けてきた。
 「この調子なら、外に出ても大丈夫ね」
 「うん、そう思うよ」
 「問題は、声ね」
 「そうだね。だけど、由紀は、喉仏があるのに、女の声なんだね」
 「これはコツがあるの」
 「コツ!?」
 「そうよ。かなり練習しないといけないけど、野本さんにもできるようになるわ」
 「じゃあ、わたしにも、女の声が出せるってことかい?」
 「その通りよ」
 「教えてくれよ」
 「教えてあげるわ」
 部屋を借りる時間を1時間ほど延長して、由紀に、女の声の出し方を習った。
 「裏声にしただけじゃあ、だめなの。却って不自然なのよね」
 「じゃあ、どうするの?」
 「声の高さは少し上げるんだけど、声が篭ると男声になるから、口先でしゃべるようにするの。それとねえ、しゃべり方。女特有のしゃべり方があるから、それは女の人をよく見て覚えることね。分かった?」
 「分かったような、分からないような・・・・」
 「練習あるのみよ。頑張ってね。じゃあ、今日はこれで」
 「練習してみて、分からないことがあったら、また教えてくれよ」
 「ええ、いいわ。じゃあね」

 その日以来、わたしは時々女装して、町の中をうろうろするようになった。ただ、しゃべると男であることがばれるので、黙ったまま、ただひたすら歩き回った。
 そうするうちに、女装したまま、お茶やお酒をを飲んでみたくなった。由紀と一緒ならいいのだが、いつもいつもと言うわけにはいかなかった。
 わたしは、女装クラブで女の姿になると、半分は外に出歩いたが、半分は部屋の中で女の声を出す練習に励んだ。
 なかなかうまくいかなかったが、ある日突然女の声が出せるようになった。わたしは飛び上がって喜んだ。喜んだのはいいのだが、今度は、男の声が出せなくなってしまった。この時、わたしがどれくらい慌てたか、誰にも想像できないと思う。30分ほどして、自分の声を取り戻せたときには、心底安心した。
 しかし、これで自信がついた。これで女装して、いつでも、どこでもいける。