午前8時過ぎ、会社に顔を出すと、数人の女子社員がもう来ていた。
「おはよう」
「おはようございます」
大抵の会社では、女子社員がお茶を運んでくれるのだろうが、わたしの会社では、女子社員がお茶を入れるようにはなっていない。だから、わたしは給湯室に行って、わたし専用の湯飲みにお茶を入れた。
お茶を飲みながら、昨日のわたしの女装した姿は、結構よかったぞ。うちの社の女子社員で、あの姿の敵うのは、一人か二人だろうなと、心の中でほくそえんだ。
「野本さん、何が嬉しいんですか?」
向かいに座った女子社員が、不思議そうな顔をして声を掛けてきた。
「いや、なんでもない、なんでもない」
「へんなの」
8時半には全員揃った。部長が、わたしの方をちらりと見た。山沖商事の件、午前中に処理しなければ。
8時50分、わたしに電話が入った。
「誰から?」
「ミゾノさんて、おっしゃってました」
ミゾノ? ミゾノといえば、大学の同級のミゾノかな? そう思いながら、電話を取った。
「よう、野本。俺だ。御園」
「ああ、やっぱりおまえか。どうした? 朝っぱらから?」
「昨日の夜11時頃、お宅に電話したら、帰ってないって言うから、そっちに電話したんだ」
「ああ、ちょっと忙しくてね。昨日は帰らなかったものだから」
わたしは、少し声を落として、そう答えた。
「で、何の用だ?」
「おまえの会社、旅行会社だって言ってたよな」
「ああ、そうだよ」
「この前の同窓会のとき、おまえに言ったと思うけど、俺、今、橋本病院て言うところの、事務をやってんだ」
「ああ、そんなこと言ってたな。それで?」
「秋に、病院旅行に行くことになったんだけど、おまえに世話してもらおうと思ってさあ」
「えっ! いいのか?」
「是非頼むよ。その代わり、サービス頼むよ」
「お安い御用だ。で、いつ、どこへ行く?」
「第一班が、11月6,7、第二班が11月13,14だ。行き先は、北海道。景色もいいが、できればグルメツアー。美味いものを食わせてくれるツアーを頼む」
「人数は?」
「各班60人ずつだ。何とかなるか?」
「なる、なる。なるよ。すぐに手配する。来週にでも、行程表を持って行くよ。いいかな?」
「来週だな。いいよ。病院の場所は分かるか?」
「ああ、この前もらった名刺に書いてあったよな」
「じゃあ、待ってるよ」
やったあ。山沖商事の社員旅行と規模が同じだ。行き先も同じ。ちょっと差し替えればすむ。わたしにも運が向いてきたぞ。
わたしは、早速電話をかけ始めた。
10月13,14日に、新たに山沖商事として、予約を取り、11月13,14日は、山沖商事ではなく、橋本病院ご一行さまへ変更。さらに、11月6,7日の橋本病院さまご一行を追加。昨日電話したホテルの予約係も、二つ返事で、予約を引き受けてくれた。
「部長、山沖商事の社員旅行の件はオーケーです。それから、代わりに橋本病院の病院旅行を入れました」
「ほう、やるじゃないか。この調子で頑張ってくれたまえ」
林田部長の声には、皮肉の響きがした。
午後2時、わたしは、山沖商事の総務にいた。
「日程の変更は、この通り、きちんとできました。大変、ご迷惑をおかけいたしました」
わたしは、行程表を総務係長に渡しながら、深々と頭を下げた。
「いや、いや。迷惑をかけたのは、こちらだよ」
「えっ!?」
「どうやら、当方の注文ミスのようでしてね」
「と言いますと」
「うちが、オーダーするときに、11月になっていたようなのだ。毎年11月だものだから、気がつかなかったようなのだ」
「そうだったんですか」
「そうとも知らず、昨日は、怒り飛ばして申し訳なかった」
「いえ、わたくしといたしましては、山沖商事の皆様が、旅行を楽しんでいただければいいことでして・・・・」
「君は、なかなかの人格者のようだね。気に入ったよ。来年からも、よろしく頼むよ」
「分かりました。ありがとうございます」
「君の会社の上司には、こちらの間違いだったことを先ほど連絡しておいたからね」
「わざわざすみません。助かります」
「じゃあ。そう言うことで・・・・」
「ありがとうございました」
わたしは、意気揚揚と会社へ戻った。
「野本君、ちょっと」
会社へ戻るとすぐに、部長に呼ばれた。部長は、恐縮した顔をしている。
「山沖商事の加藤さんから電話があってね」
「加藤さんは、総務の係長でしたね」
「ああ、そうだ。山沖の社員旅行の日程ミスは、向こうの間違いだと言ってきたんだ。君のミスじゃなかった」
「そうでしょう? わたしがいただいた書類では、初めから11月になっていましたから、おかしいなとは思っていたんです」
「昨日は、それを知らずに、怒鳴ってしまってすまなかったな」
「いえ、間違いは誰にでもあることですから」
「・・・・ほんとにすまない。加藤さんも、向こうのミスなのに、君の対応がよかったと言って、ことのほか喜んでいたよ」
「お客様に喜んでもらうのが、わたしの仕事ですから」
「じゃあ、そう言うことだから・・・・」
これで、リストラの話はしばらく、立ち切れになるだろうなと思う。まあ、運がなかったとはいえ、これまで、会社のために一生懸命やってきたのだから、リストラの対象にされるのがおかしいのだ。
わたしは、うきうきと、その後の時間を過ごした。
昨日は、ゲイバーや女装クラブに行ったため、小遣いの手持ちが殆どなくなっていた。それに、着替えもしていなかったから、午後6時の勤務時間が過ぎると、わたしは自宅へ直行した。
「あら、早かったのね。昨夜はどこに泊まったの?」
「昨日は仕事が遅くなって、終電に間に合わなかったから、近くのカプセルホテルに泊まった」
「帰らないのなら、連絡くらいしてよね」
「心配してくれるのか?」
「心配なんてしてないけど、夕食作るのに困るのよね」
「そういうことか・・・・」
わたしは、奥の部屋に鞄を置くと、スーツを脱いでシャワーを浴びた。
「和代は、まだ帰らないのか?」
冷蔵庫から取り出したビールをコップに注ぎながら、わたしは、夕食の準備をしている佐知代に話し掛けた。
「このところ、いつも遅いわね」
「大丈夫か?」
「大丈夫って?」
「和代は女の子なんだぞ。心配にはならないのか?」
「あの子は大丈夫よ。変なことするような子じゃないから」
「そうか・・・・」
そんな話をしていると、勝が部屋から出てきて、トイレへ入っていった。
「勝は、いつもの調子か?」
「相変わらず、閉じこもったままよ。あなたの口から、何とか言ってよ」
「何とか言ってよと言われてもなあ」
これまで、何度か話そうとはしたのだが、勝は、わたしの言うことに耳を貸そうとはしなかった。
「あなたが、不甲斐ないから・・・・」
「人のせいにするなよ。おまえの育て方が悪いんだ。俺は仕事で忙しいんだぞ」
「仕事、仕事って、少しは家庭のことを顧みてよ」
「・・・・」
わたしには、何もいえない。わたしは、仕事をして、生活費を稼ぐのが役目。家庭のことは妻の仕事だと思っている。そんな考え方は古いと言われるかもしれないが、ずっとそう思ってきた。それを否定されても、わたしとしては困るばかりなのだ。
「勝には、勝の考えがあるんだろう。もうしばらく様子を見よう」
「もうしばらくって、もう、中学3年なのよ。このままじゃあ、卒業させてくれるかどうかも分からないのに・・・・」
「待つしかないよ。待つしか・・・・」
職場でのストレスは、なくなったが、家庭でのストレスは、なかなかなくなりそうもない。
飲んで帰ればよかった。そうすれば、佐知代とこんな話しをせずにすんだのに・・・・。
職場でのストレスがなくなったと考えたのは、間違いだった。わたしを辞めさせよとする圧力は依然として存在した。そのストレスのはけ口は、今までは、酒を飲んで紛らわすことだった。しかし、今では、わたしは女装することが、そのはけ口となった。女装することで、わたしは野本省吾と言う男を、一時的に消し去れるのだ。女装して過ごす時間、それだけが、わたしのほんとに自由な時間だった。
その女装も、結構金がかかった。わたしは、女物の下着や、ワンピースなど、そう高くないものを、店から買い取り、バッグに入れて、コインロッカーに預けるようになった。コインロッカーの使用期限ぎりぎりまで預けておいて、取り出して、店まで持っていき、着替えて、2時間の時を過ごすのだ。そして、帰りにもう一度預けた。
汚れが、目立つようになると、人気の少ないコインランドリーで洗濯して乾燥させた。
衣装代がかからなくなって、一度の女装に使うお金が少なくてすむようになった。少しお金に余裕があれば、貸衣装を借りて、少し違った格好もしてみると言った寸法だ。
「あら、お久しぶり」
女装クラブの裏口から入ろうとしていたら、後ろから声をかけられた。ビックリしたと言ったらなかった。振り向いて声の主を見てみると、由紀だった。わたしは、ホッとした。
「やあ、由紀さんだったのか。ビックリしたよ。誰もいないと思って、入ろうとしていたから」
「ごめんなさい。入ってから声をかければよかったわね」
「とにかく中へ入ろう」
わたしと由紀は、部屋を取って、ソファーに腰を下ろした。
「あれから、何度か来ているって、聞いたけど・・・・」
「そうなんだ。いいストレス解消になるものだから、病み付きになっちゃってね」
「病み付きって、どれくらい来てるの?」
「週に2度かな」
「わっ! 結構嵌ってるう」
「そうなんだよ」
「じゃあ、一人で、できるわよね」
「もちろんだよ」
「やって見せて」
「言われなくても、そのために来たんだから」
わたしは、早速女装を始めた。このごろは、ブラジャーも後ろ手に付けることができるようになっていた。化粧にかかる時間もずいぶん短くなっていた。
今日の衣装は、薄手の白のブラウスに、紺のミニタイトだ。まあ、女性事務員と言った雰囲気かと思う。
「すごい、すごい。よく似合うわ」
「そう?」
「仕草もいいわ」
「うちの女の子たちをよく観察して、勉強しているからね」
「いい、いい」
わたしは、由紀の前を得意げに歩き回った。
「ねえ、野本さん」
「何?」
「その格好で、外に出てみない?」
「えっ!? 外に? とんでもないよ」
「どうして? 絶対ばれないと思うけど」
「いや、とても外には出られないよ」
「大丈夫、大丈夫。わたしが付いていてあげるから」
由紀が一緒にいてくれる。その言葉に、わたしは、その気になった。由紀は、女に見えるし、もしばれても、ただのニューハーフの二人組みで、まさかわたしだとは思われないだろう。
「ほんとに、大丈夫かなあ」
「声さえ出さなければね」
「じゃあ、外に出てみようか」
「ちょっと待って。外に出るには、その服装じゃあ、おかしいわ。何か良いもの、探してあげるわ」
そう言って、由紀が持ってきたのは、ベージュの膝上丈のワンピースだった。
「喉仏を隠すために、スカーフをしましょうね。靴はこれね」
ウイッグと化粧を点検して、由紀と一緒に外に出た。外に通じるドアを開けるときには、胸がどきどきした。
「できるだけ、自然にね。きょろきょろしたり、おどおどしたらだめよ」
そう言われても、ものすごく緊張した。冷や汗がじっとりと背中を濡らす。
15分も歩き回っていると、かなり慣れてきた。緊張が取れると、むしろ快感で体が痺れたようになった。
「コーヒーでも飲んで帰りましょうか?」
わたしは、うんと頷いた。由紀は、目の前にある喫茶店へとわたしを誘った。現在午後9時過ぎ。アベックや、数人の女性のグループが何組かいた。わたしたちもその中へ紛れ込んでいた。
男たちは誰一人として気づくものはいないようだ。ただ、女には、どうも気づかれているのではないかと思われるものが何人かいた。さすがに女の勘は鋭いなと思った。
女装クラブに帰り着いた。もっと女の格好でいたいような気がしたが、時間が許さなかった。着替えをしていると、由紀が、話し掛けてきた。
「この調子なら、外に出ても大丈夫ね」
「うん、そう思うよ」
「問題は、声ね」
「そうだね。だけど、由紀は、喉仏があるのに、女の声なんだね」
「これはコツがあるの」
「コツ!?」
「そうよ。かなり練習しないといけないけど、野本さんにもできるようになるわ」
「じゃあ、わたしにも、女の声が出せるってことかい?」
「その通りよ」
「教えてくれよ」
「教えてあげるわ」
部屋を借りる時間を1時間ほど延長して、由紀に、女の声の出し方を習った。
「裏声にしただけじゃあ、だめなの。却って不自然なのよね」
「じゃあ、どうするの?」
「声の高さは少し上げるんだけど、声が篭ると男声になるから、口先でしゃべるようにするの。それとねえ、しゃべり方。女特有のしゃべり方があるから、それは女の人をよく見て覚えることね。分かった?」
「分かったような、分からないような・・・・」
「練習あるのみよ。頑張ってね。じゃあ、今日はこれで」
「練習してみて、分からないことがあったら、また教えてくれよ」
「ええ、いいわ。じゃあね」
その日以来、わたしは時々女装して、町の中をうろうろするようになった。ただ、しゃべると男であることがばれるので、黙ったまま、ただひたすら歩き回った。
そうするうちに、女装したまま、お茶やお酒をを飲んでみたくなった。由紀と一緒ならいいのだが、いつもいつもと言うわけにはいかなかった。
わたしは、女装クラブで女の姿になると、半分は外に出歩いたが、半分は部屋の中で女の声を出す練習に励んだ。
なかなかうまくいかなかったが、ある日突然女の声が出せるようになった。わたしは飛び上がって喜んだ。喜んだのはいいのだが、今度は、男の声が出せなくなってしまった。この時、わたしがどれくらい慌てたか、誰にも想像できないと思う。30分ほどして、自分の声を取り戻せたときには、心底安心した。
しかし、これで自信がついた。これで女装して、いつでも、どこでもいける。