第一章 運のない男

 世の中には、一生懸命努力しているのに、何をやってもうまくいかない。そんな人間がいるものだ。わたしも、そのひとりだ。
 この若葉旅行社に勤め始めて、早16年になるが、その間、この会社で起こったトラブルの半分以上にわたしが関わっている。わたし自身のミスというのは、ごく少ない。ほとんどが不可抗力なのだが、何故かわたしにトラブルが付いて回る。
 突然の航空会社のストライキ、季節はずれの台風、宿泊先の火災、などなど。わたしは、運のない人間なのだ。
 「野本君、何だね、このプランは!」
 「はあ。ダメですかねえ」
 「君は、何年この仕事をやってるんだね。こんなプランじゃ、お客が寄り付かないよ。もう一度練り直してきなさい!」
 林田部長は、部署内に響き渡るような声をあげた。そんな大きな声を上げなくてもいいじゃないかと、恨みがましく思う。営業のわたしに、突然、九州一周のプランを立てろという方が悪いのだ。こんな仕事は企画部の仕事じゃないかと口には出さずに、部長の小言を黙って聞いた。
 「明日の午後、もう一度、持ってくるんだ。いいね」
 「分かりました」
 わたしは、部長からつき返された書類を持って、自分の机へ戻った。無関心を装う同僚や後輩。気の毒そうな顔をしている女子事務員。どうもこの仕事は、わたしに向いていないのではないかと思う今日この頃だ。しかし、辞めるわけにはいかない。辞めて、わたしにできる仕事など何もないのだ。家族を路頭に迷わせるわけにはいかない。
 それにしても、今年になって、もう何度こうやってこき下ろされただろうか? どうもこのごろ、わたしに無理難題を押し付けてくる。それは何故か、わたしには分かっている。不景気でお客が減っているから、会社は人員整理をしたがっているのだ。
 昨年の暮れ、わたしに依願退職の要請があった。大した退職金も出ないのに、簡単に辞めるわけにはいかなかった。そんなわたしに対し、会社は圧力をかけている。そんな気がする。イヤ、絶対間違いない。
 明日の午後までということは、明日の午前中に仕上げなければならない。今日中に形にしておかなければ、間に合わない。今日持っていったプランは、急場しのぎに持っていったのは確かだ。明日は、きちんとしたものを持っていかなければ・・・・。

 正午になった。居残りのふたりを残して、他はみんな、社外へ昼食を摂りに出かけていった。わたしは、昼食を摂りにも行かず、書類の作成に追われた。馘首になってなるものか!
 一段落したときには、午後3時になっていた。時計を見たとたん、急に空腹を覚えた。いまさら食事に行けやしない。仕方がないので、給湯室へ行って、コーヒーを入れ、砂糖をたっぷり放り込んで飲んだ。熱いコーヒーが腹に染み渡った。しかし、空腹は一向に癒されない。却って、腹が減ってしまった。
 やっぱり食事に行こうかと思ったが、結局諦めて、さらに九州一周プランづくりの作業を続けた。交通機関の所要時間に余裕を持たせ、名所、旧跡の見学時間も充分取らなければならない。お客が多いほど、集合させるのに時間がかかるから、それも計算に入れておく。ホテルにあまり遅く着いてもいけないし、かといって、あまり早く着くのも、時間の無駄だ。ただ、温泉があるところでは、むしろ早く着いたほうがゆっくり温泉に浸かれる。いろいろの要素が絡むから、プラン練りは大仕事だ。こんな煩雑な作業を、一昨日言われたのだから、嫌がらせと思うのも無理はないだろう。

 ほぼ形になったとき、時計は、午後6時40分を指していた。終業時間は、午後6時。部屋の中には、もう誰も残っていなかった。明日、もう一度プランを確認して、清書すればいいだろう。何とか間に合いそうだ。
 書類を片付けて、会社を出たときには、午後7時を回っていた。
 駅まで歩いて5分。一安心したせいで飲みたくなった。駅ビルにある居酒屋へ立ち寄って、ビールにつまみを頼んだ。ちょっといっぱいのつもりだったのに、むしゃくしゃしていたせいで、気がついたときにはビールを5本空けていた。わたしは、アルコールにはそれほど強くない。ふらふらしながら、やっとのことで電車に乗り込んだ。

 「もしもし、お客さん。終点ですよ」
 車掌に起こされた。わたしは、起き上がって電車を降り、階段を下った。終点がわたしの降りる駅でよかった。もっと先まで行く電車なら、うちまでたどり着けないところだ。
 駅前にバスが停まっていた。これが、最後のバスだ。酔っていても、最終バスに間に合うように、わたしは帰路についている。このバスを逃したら、タクシーに乗らなければならない。小遣いの少ないわたしにとっては、バスで帰るのとタクシーで帰るのとでは、雲泥の差だ。最終バスに間に合うように帰るのは、身についた性癖なのだ。なんて貧乏たらしい癖だ。我ながら情けなくなってしまう。
 帰りがいくら遅くなっても、『ヘイ、タクシー』で帰れるような、金と気持ちの余裕が欲しい。

 バスを降りて3分、自宅のマンションが見えてきた。マンションといっても、3DKの狭いマンションだ。そのマンションに、妻と娘、息子の4人暮らしだ。
 マンションが見えてきて安心したのか、急に気分が悪くなって、マンションの入り口にある電柱のそばに、げろを吐いてしまった。
 昼食を摂っていないので、ビールとともに食べたおでんと冷奴がすべて出た。それが出たあと、苦い胆汁だけがいつまでもあがってきた。

 エレベーターで4階まで上がり、部屋のドアを開けた。入り口に佐知代が立っていた。風呂から上がったばかりだろうか? いい年して茶色に染めた髪にヘヤカラーを巻いていた。化粧を落とした顔には、肝斑が目立ち始めている。だらしなく着たネグリジェから、垂れた乳房が透けて見えていた。
 結婚したては、透けた服でなくても、わたしは佐知代の姿を見ただけで、欲情していたものだったのに、今では、妻が例え裸でそこに立っていたとしても、まるで観葉植物がそこにあるように、わたしは何も感じない。最後に佐知代を抱いたのは、いつだっただろうか? もう、この数年佐知代の体にすら触っていないなと、ぼんやり考える。
 「どこで飲んできたのよ」
 「駅の居酒屋」
 「ひとりだけ、いい思いをして」
 「一生懸命働いてんだから、がたがた言うな!」
 「何が、一生懸命働いてるよ。万年ヒラのダメ人間の癖して」
 「なにい」
 「あら、反論できるの? 塩田さんの奥さんが、あなたのリストラは時間の問題だって言ってたわよ」
 「塩田? 塩田が何だっていうんだ。やつこそ、リストラだ!!」
 「何言ってんのよ。塩田さんは、今度部長補佐になるそうじゃないの。あなたより後輩なのに・・・・。情けないって言ったら、ありゃしない」
 わたしには、もう何もいえない。それは、事実だからだ。わたしは、佐知代を押しのけ、奥の部屋に倒れこんだ。
 結婚するとき、家庭は心のオアシスだと聞いた。何が心のオアシスだ。会社にいても、うちにいても、ストレスだらけだ。いっそ会社も辞めて、家庭も捨てて、どこかに行ってしまいたい。そう思いながら、わたしは畳の上で眠り込んだ。

 目が醒めて時計を見ると、午前6時だった。わたしは、スーツを着たまま畳の上に寝ていた。掛け布団だけが、背中にかけられていた。
 頭が重い。わたしは、起き上がって台所に行き、コップで水を飲んだ。不味い水だ。都会の水はほんとに不味い。田舎の湧き水は美味かったなあと、去年の社員旅行を思い出す。
 部屋の奥には、佐知代がだらしなく涎を流して眠っていた。昔は、この女を愛していたのに、今では、ただの同居人に過ぎない。
 インスタントコーヒーを入れて飲んでいると、新聞が配達された。わたしは早速新聞受けから取り出して読み始めた。
 30分ほどしたころ、佐知代が起きだしてきた。
 「あら、もう起きてたの?」
 「ああ。腹減った。何か食うものあるか?」
 「食パンならあるわ」
 「じゃあ、焼いてくれ」
 「珍しいわね。朝、食べるなんて」
 「いいから、焼いてくれ」
 昨日は、昼飯抜きだったし、ビールのつまみしか食べていない。それも全部吐いてしまった。腹が減るはずだ。
 佐知代が、焼きあがったトーストにマーガリンを塗って、ものも言わずにわたしの目の前に差し出した。わたしも黙ったまま、トーストを受け取って頬張った。
 「卵くらい焼いてくれないのか?」
 「焼けって言うんなら焼いてもいいけど・・・・」
 「なら、いい」
 昔は、黙っていても、卵料理にサラダ、ジュースが並んだものなのにと思い返す。
 「和代はどうした?」
 和代というのは、17になるわたしの娘だ。いつも佐知代の隣に寝ているはずなのに、今朝は見当たらない。
 「友達のところに、泊まりに行ってるわ」
 「そうか。・・・・男友達ってことはないだろうな?」
 「まさか。同級生の椎名百合子さんのところだって言ってたわ」
 「それなら安心だ。勝は?」
 「部屋にいるでしょう?」
 腹ごしらえが終わって、シャワーを浴びて着替えをした。出掛けに、勝の部屋を覗いてみた。勝は、4畳半の部屋の隅に置かれたベッドの上で眠りこけていた。
 勝は、現在中学3年生だが、ここ2年というもの、登校拒否で学校へは行っていない。中学に入学してすぐに苛められたのが原因だ。何とかしてやらないといけないなと思いながら、ずるずると2年の月日がたってしまった。このままで、高校にいけるのだろうか? いや、中学を卒業できるのだろうか? 頭の痛いことばかりだ。

 九州一周のプランは、自分でも感心するくらいよくできていると思う。午後2時、わたしは部長の前に立っていた。部長は、わたしの作った書類にじっと目を通していた。
 「まあまあだな。書類は、預かっておくから」
 「お願いいたします」
 わたしは、部長に頭を下げ、ホッと胸を撫で下ろして机へ戻った。しかし、あのプランに、まあまあはないだろうと思いながら、部長を見ると、わたしの書いたプランは、机の端に放り出されていた。ほんとにあのプランを作る必要があったのだろうか? 必要もないことをわたしにさせておいて、できなければ、リストラの理由にするつもりではなかったのか? そんな疑惑がむくむくと湧きあがってくる。

 午後3時、会議から戻ってきた部長に呼ばれた。
 「野本君、山沖商事の件はどうなっている?」
 「あっ!? ・・・・山沖商事・・・・。わ、忘れておりました。明日、明日にでも行ってまいります」
 「明日!? ばか者! 今から行ってこい!! 明日まで待っていたら、他社に取られてしまう。そんなことも分からんのか!」
 「は、はい」
 わたしは、急いで机の戻ると、書類を鞄に詰めて会社を飛び出した。いかん、いかん。九州一周プランのことが頭にいっぱいで、すっかり忘れていた。
 会社を出てすぐに携帯が鳴った。番号を見ると、会社からだった。
 「もしもし、野本ですが・・・・」
 「野本君、先方への、アポは取ったのかね?」
 部長の声だ。
 「あっ! まだ取ってません」
 「・・・・。わたしが、先方へ連絡を入れておくから、早く行ってきたまえ」
 「いえ、わたしが直接やります」
 「いいから、早く行きたまえ」
 携帯が切れた。部長が直接アポ取りをするということは、わたしを信用していないということだろう。まあ、いい。とにかく、山沖商事へ向かおう。

 電車を乗り継いで、山沖商事へと向かった。電車を降りて、山沖商事の玄関を入ろうとした時、また携帯が鳴った。やはり会社からだ。
 「もしもし、野本です」
 「野本君、林田だ」
 「ああ、部長。どうかされましたか?」
 「山沖の担当が、会議中らしい。午後4時40分に来てくれと言っていた。分かったかね」
 「午後4時40分ですね。分かりました。お手数をかけました」
 「頼んだよ」
 時計は、午後4時3分を指していた。このまま、山沖商事の受付に顔を出すには、ちょっと早すぎる。わたしは、山沖商事の隣のビルにある喫茶店の椅子に腰を下ろした。
 「コーヒーを」
 「アイスに致しましょうか? それともホットに?」
 「ホットで」
 「かしこまりました」

 不味いコーヒーだった。いつ入れたか分からないような、煮詰まったコーヒーだった。アイスにすればよかった。アイスなら、不味いってことはあんまりないのだが・・・・。
 コーヒーを飲みながら考えた。部長がアポを取ってくれなかったら、今ごろ山沖商事の中で右往左往しているところだ。わたしを本気で辞めさせるつもりなら、こんな手助けはしないだろう。うーん、分からなくなってしまうが・・・・。部長としては、営業成績を落としたくないだけかもしれないが・・・・。いやいや、油断大敵だ。安心させておいて、ガツンとやるつもりだ。わたしを辞めさせようとしているのは間違いないのだから。

 午後4時30分を少し回った頃、わたしは、喫茶店を出て山沖商事の受付へ顔を出した。
 「若葉旅行社の野本と申しますが、社員旅行の件でお伺いいたしました」
 「ああ、聞いております。三階の総務へどうぞ」
 エレベーターを上がり、三階の総務に顔を出すと、部屋の隅にある応接用の仕切りの中へ案内された。
 「若葉旅行社の野本でございます。今年も、わが社の旅行プランを採用いただきましてありがとうございました。プランの明細をお持ちいたしましたので、ご確認ください」
 わたしは、社員旅行のプランを書いた明細書を、手渡した。相手は、総務の係長だと名乗った。
 「ちょっと、予算オーバーだね。少し勉強できないかね」
 「ううん。これがぎりぎりに線ですから・・・・。土、日は、どうしてもお高くなりますので・・・・」
 「えっ!? 土、日? 水、木のはずだが」
 「11月13、14日でしょう? 土曜と日曜ですが・・・・」
 「11月!? 10月だよ。君! 社員旅行は!」
 「ええ!! ちょ、ちょっとお待ちください」
 わたしのもらった書類はすべて11月になっていた。そんな馬鹿なと思いながらも、相手が10月というのだから、10月なのだろう。全部やり直さなければならないが・・・・。
 「申し訳ございません。何らかの手違いのようです。水、木であれば、かなりお安くなると思いますので・・・・」
 「困るなあ。来月のことなんだよ。今から、間に合うのかね」
 「間に合います。間に合わせますので・・・・」
 冷や汗が背中をたらりと流れた。
 「大丈夫かね」
 「明日、明細を作り直してまいりますので・・・・」
 「明日だね。ついでに、うんと勉強してもらえると、いいですな」
 「分かりました。明日は、いつ頃うかがいましょうか?」
 「ちょっと待ちたまえ。明日の予定は・・・・」

 明日の午後2時にということで、わたしは、山沖商事を出た。10月と11月を間違うなんて何てことだ。早急に変更しなければ。まだ、一ヶ月ちょっとあるからいいものを。
 この仕事は、毎年山沖商事の方から依頼があるもので、毎年わたしが担当していた。毎年11月だったし、わたしが貰った書類でも、11月になっていた。何らかの理由で変更になったのだろうが、どこでどう間違ったのだろうか?
 会社が休みの土日に、慰安旅行に行くものと思っていたから、間違いに気づかなかった。そう言えば、毎年、経費が安いウイークデーを選んでいたなと思い出した。確認しなかったのは大きなミスだ。
 現在、午後5時25分。宿泊関係は、まだ連絡がつくだろう。飛行機や貸切バスの変更は、今日はもう無理だ。明日一番にしなければならない。大変だぞ。
 部長に怒られるぞ。参ったな。わたしの責任じゃないのだが、そんなこと言っても信じてもらえそうもない。頭が痛い。

 「馬鹿もん! 11月と10月を間違うなんてことは、前代未聞だ」
 やっぱり怒鳴られた。
 「しかし、わたしがこのプランを任せられたときには、11月になっておりました」
 「そんなことがあるものか! とにかく、早く手配するんだ。いいな」
わたしの責任じゃないのに、理不尽なと思いながらも、反論しても、やり込められるだけだ。わたしは、黙ってこう言うしかない。
 「・・・・分かりました。すぐに手配いたします」
 わたしは、机に戻って、宿泊予定のホテルに連絡を始めた。
 「お得意さんの仕事を・・・・」
 部長の嘆く声が聞こえてくるのを、聞こえない振りして、電話をかけ続けた。

 ホテルの予約係は、担当が違うので、明日また連絡してくれとのことだった。キャンセルではないから、変更してくれそうだが・・・・。声から察するところ、あまりいい感触ではないように思える。
 ホテルはともかく、問題は足のほうだ。特に航空機が取れなければ、旅行全体が成り立たなくなってしまう。土、日が、ウイークデーに変更になるのだから、おそらく大丈夫だとは思うが・・・・。
 いずれにしても、今日はどうにもならない。明日にならなければ・・・・。
 「部長、明日一番で、全部やり変えますので」
 「連絡が取れんのでは仕方ないな」
 そう言った部長の顔に薄笑いが浮かんでいた。うまくやらなければ、このミスを突かれて、わたしを辞めさせる口実にされてしまう。それは、まず間違いないだろう。もしかすると、部長は10月と11月が違っているのを知っていたのではないか? そんな疑問が浮かんできた。

 気が重く、真っ直ぐ帰る気にならなかった。帰っても、佐知代の恨みがましい顔を見るだけだ。今日はとことん飲んで、カプセルホテルにでも泊まろう。そう決心して会社の玄関を出た。
 いつもの安い居酒屋に寄って、ビールに焼酎を飲み始めた。午後7時過ぎにその居酒屋を出たときには、昨日よりもかなり酔っていた。