第22章 偽装工作

 心電計の甲高い音が、部屋の中に響いている。人工呼吸器のシュポンシュポンと言う音がリズムを刻んでいた。
 菊池寿朗は体温板を見ながら、患者をひとりひとり見て回っていた。10床あるICUのベッドのうち9床が埋まっていて、息をつく暇もなかった。
 (看護婦ひとりと医者ひとりじゃ面倒みきれないな)
 本当は、看護婦が3人体制なのだが、ひとりはインフルエンザで欠勤しており、もうひとりはたった今入ってきた救急車の患者を引き取りに行っていた。
 (これで満床だものな)
 ぼやきながら、峰鮎美のベッドサイドに来た。体温板からすると、彼女は回復に向かっていると判断された。
 (意識が出ないかな? 出たら、一般病床に出すんだけど)
 そう思いながら鮎美の顔を覗き込んだ。その瞬間、彼女がうっすらと目を開いた。菊池は気持ちが通じたと微笑んだ。
 「先輩! 菊池先輩! お久しぶりですね」
 彼女が口にした言葉に、菊池は目を見開いた。
 (どうして俺の名前を知ってるんだ? お久しぶり? こんな女には会ったことないよな。こんな美人なら、覚えているはずだよ)
 不思議な顔をして彼女を見ていると、彼女は畳みかけてきた。
 「ぼくですよ。ぼく。井上裕人ですよ」
 菊池には、まったく理解不能の言葉を吐いたのだ。
 「ちょ、ちょっと待って。キミは峰鮎美だろう?」
 そう言うと、彼女はギョッとした目で菊池を見た。それから、周りを見回す。
 「ここは?」
 「病院だよ。中尾病院。キミは自殺を図ってここに運び込まれてきたんだよ。ずっと意識不明だった。たった今、目が覚めたんだ」
 彼女は口を半開きにして天井を見ていた。
 「さっき、なんて言った? ぼくのことを知ってるのかい? 井上裕人のことをどうしてキミが知ってるんだ? いや、キミは井上裕人だと言わなかったか?」
 鮎美は菊池から顔を背けた。
 「待て! 待て! キミは・・・・」
 菊池は、鮎美の顎を掴んで自分の方に向けて顔をジッと見つめた。それから、部屋の向こうで仕事をしている看護婦に聞こえないように声を落として尋ねた。
 「裕人だな? 中学の後輩の」
 鮎美は、菊池の顔をジッと見つめている。
 「そうなんだな?」
 鮎美は小さく頷いた。菊池は信じられないという表情を浮かべて大きく息を吸った。
 「何故女になった? 何故養父という男を殺した? 何故だ?」
 鮎美は、看護婦が聞いていないか確かめたあとで、小声でその訳を話し始めた。看護婦が近づいてきた。菊池は、人差し指を立てて鮎美を黙らせ、診察する振りをして目を閉じさせた。
 「先生、どうです?」
 「変わらないね。他の患者さんは?」
 「伊東さんがちょっと発熱しています。佐々木さんの尿量が少なめです」
 「伊東さんは、ボルタレン坐薬の25ミリを、佐々木さんは時間尿をチェックを1時間おきにしてくれたまえ」
 「はい」
 看護婦が去っていくと、再び診察する振りをしながら、菊池は峰鮎美の話を聞いた。
 「先生。患者さん、運んできました」
 「そっちへ入れてくれ」
 話が中断された。菊池は他の患者もみなければいけないし、看護婦もやってくる。続けて話は聞けない。毎回1、2分の話を聞き、二交代の勤務の合間を縫って三日がかりで井上裕人が峰鮎美になった経緯を把握した。勿論、この間、他の医者や看護婦に気づかれないように意識が戻っていない振りをさせていた。
 「峰聡太郎は死んで当然だ。キミに罪はない。何とか助け出すから、意識が戻らない振りを続けるんだ」
 「先輩に迷惑がかかるわ。わたし、殺人犯なのよ」
 「心配するな。キミのためなら何でもやる」
 峰鮎美が井上裕人だとわかったときから、菊池は彼女を警察の手から逃がしてやるつもりだった。彼女からすべての事情を聞いて、その思いはますます強くなった。
 鮎美が美しい女性であったからでもあるが、菊池は実は井上裕人のことが昔から好きだったのだ。菊池と裕人は同郷なのだ。
 菊池が中学3年に上がった年、裕人が中学に上がってきた。菊池がキャプテンを務める体操部に入部してきた裕人を見たとき、菊池は裕人は女の子だと思った。華奢で背が小さく、女の子のような髪型をしていたからだ。男だと知ってがっかりした記憶があった。先輩、先輩と言って慕ってくれる裕人を菊池はことのほか可愛がった。勿論このときには性的な接触などはなかった。
 高校に上がるとき、成績のよかった菊池は県内の進学校に越境入学し下宿になったため、裕人の顔を見ることはなくなってしまった。2年後裕人は家庭の事情で近くの高校の商業科に入った。だから、まったく会うことがなかった。
 大学に入って夏休みなどで帰省したとき、裕人の姿を捜している自分を見つけて、俺はおかしいと菊池は思った。けれど、裕人への思いは募るばかりだった。
 「裕人は男なんだぞ」
 そう言い聞かせていないと、裕人への思いが募るばかりだった。
 「裕人のやつ、結婚して、子どもができたそうだぞ」
 その話を聞いたのは、菊池がまだ大学にいたときだった。その話を聞いたときのショックで、菊池は一週間も寝込んでしまった。それほど菊池は裕人に思い焦がれていたのだ。菊池は裕人への不純とも言える思いを秘めたまま、卒業して医者となっていた。
 同僚の医者を除けば、看護婦だらけの職場にいて誘惑は多かった。けれど、菊池はそんな気にならなかった。裕人への思いが断ち切れなかったからだ。
 その裕人が菊池の前に姿を現したのだ。しかも女に変わって。裕人が殺人鬼であったとしても、菊池自身が殺される危険があったとしても、恐らく菊池は助けようと奔走しただろう。

 中条という刑事から峰鮎美は女じゃないかもしれないという電話が入った。菊池は既に知っていたし、バルーンカテーテルを取り替えた看護婦も峰鮎美の外陰部がおかしいことに気づいていた。だから、中条刑事には性転換した男だったと答えた。いろいろ事情を説明しながら、早くしなければならないと菊池は考えた。考えていたアイデアを実行するために伏線を張っておいた。
 「まだ、予断を許しません。また、血圧が下がっているんです」と。
 すぐにチャンスが訪れた。電話を切ったとたん、彼女と背格好がよく似た女性が一酸化炭素中毒で運び込まれてきたのだ。死亡するのは確実と思われた。
 鮎美のベッドを横に移して、その女性を収容しておいた。その女性が死んだとき、ネームを取り替えて、見張りについていた刑事に峰鮎美が死亡したと伝え、刑事が報告に行った隙にネームを戻して、駆けつけてきた女性の家族に死亡宣告をした。つまり、ひとつの遺体でふたり分の死亡宣告を行い、死亡診断書を書いたのだ。看護婦に感づかれなかったのは幸運としか言えなかった。
 「警察が遺体を引き取りたいと言ってきてるんだ。解剖したいから死後の処置はしなくていいそうだ。警察が来るまで、このまま、霊安室へ運んでおこう」
 シーツを巻いた鮎美をストレッチャーに乗せて霊安室へと運び込んでいった。
 「すぐに来ると思うから、ぼくが待ってるよ。君たちは先に戻っててくれ」
 そう言って看護婦を追い出し、鮎美とふたりきりになったところで彼女を起こして、用意してきた服を着せて裏口から送り出した。彼女には、菊池のマンションに行くように鍵を渡しておいた。
 何食わぬ顔をしてストレッチャーを押してICUに戻り、いつも通りの仕事を続け、勤務が開けてからマンションに飛んで帰った。

 鮎美は、逃げ出したままの格好でベッドの上で眠っていた。
 「裕人! 裕人!」
 肩を揺すると、彼女が目を覚ました。
 「裕人なんて呼ばれるのは久しぶりだわ。でも裕人じゃおかしいわね」
 そう言って菊池に向かってにっこりと微笑んだ。
 「井上裕人の名前で死亡届を出したんでしょう? 峰鮎美も使えないし、わたし、幽霊になってしまったわね」
 「幽霊じゃないさ。ちゃんと足があるじゃないか」
 菊池は鮎美の横に座って、太腿に手を掛けた。
 「先輩、何を考えてるの? わたし、男なんだよ」
 「男? そうなのか? ぼくはキミが昏睡状態の時、キミの身体の隅から隅まで観察したんだよ。男の部分はなかったよ」
 「まあ、いやらしい。お医者さんって、患者をいつもそうやって観察するの?」
 「時によるよ。キミみたいな美人の時は、特に入念に調べるね」
 「エッチ!!」
 「医者と坊主はみんなエッチだよ」
 菊池の手がスカートの下まで入ってきた。
 「ずっとキミのことが好きだった」
 鮎美は驚きに満ちた目で菊地の顔を見た。
 「ぼくの思いを遂げさせてくれ」
 「そのために助けたの?」
 「そうじゃないことはわかっているだろう?」
 菊池は鮎美を見つめる。
 「ぼくは君が好きだ。初めて会ったときからずっと好きだった」
 「男だったときから?」
 「そうだ。キミが女じゃないことを神に恨んだよ。キミが女だったら、ぼくとつき合えていたのにってね」
 「今はわたしは女よ。わたしが欲しいのね」
 「欲しい。死ぬほどキミが欲しいんだ」
 「白状するわ」
 「何を?」
 「わたしも先輩が欲しい。先輩に貫いて欲しい。初めて先輩に会ったときからずっとそう思ってきたわ」
 「ホントに?」
 「だけど、わたしは男。そんなこと考えちゃいけないと思ってた。だから、虚勢を張って男として生きたわ。そんなわたしの気持ちをわかってくれたのが霞だった。霞はね。ホントはレズだったの。それを隠すためにわたしと結婚したの。でも、わたしたちうまくいってたわ。わたし、心がどちらかというと女だったから、霞にとってはレズビアンと変わりなかったのね。峰が、わたしを女にしようと思い立ったのは、わたしのそんな側面を見抜いたせいかもしれないわ。女装や性転換を強いられたとき、すんなり受け入れられたのは、わたしがそれを望んでいたからに違いないわ」
 黙って聞いていた菊池はふっとひとつ溜息をついた。
 「ぼくたち相思相愛だったんだね?」
 「そうみたいね。でもわたし、殺人を犯したわ・・・・」
 鮎美は項垂れる。
 「そんなことはもう忘れろよ。あいつは殺されて当然のことをした。それに、殺人を犯した峰鮎美ももう死んでしまったことになっているんだ」
 「いいのかなあ・・・・」
 「いいに決まってるさ。キミがぼくの勤める病院に運ばれてきたのは、運命だよ。キミはぼくに助けられ、ぼくと共に生きる。そうなる運命なんだよ」
 鮎美はジッと考え込む。
 「峰のおかげで先輩と結ばれることができるのね?」
 「そうだよ」
 「感謝しなきゃいけないわね」
 鮎美が菊池に抱きつく。
 「アア、ぼくの裕人。大好きだ」
 ふたりは互に舌をむさぼり合った。やがてふたりは全裸になって抱き合い、ひとつになった。

 夜が明けた。
 「裕人。ぼくに黙って出て行ったりするなよ」
 見透かされて、鮎美は下を向いた。菊池が勤務に出かけたら、出て行くつもりだったのだ。その先は考えていなかった。もう一度自殺を図るかもしれなかった。
 「ぼくはキミを幸せにしてみせる。ずっとそばにいてくれ」
 「何言うの? 性転換しても、ホントの女じゃないわよ」
 「子供が産めないだけだろう?」
 「そのデメリットは大きいわ」
 「子どもが欲しいものにとってはだろう?」
 「子ども、いらないの?」
 「いらないよ。欲しいと思ったことがないんだ」
 「どうして?」
 「こんなひどい世の中に、生まれさせるなんて可哀相じゃないか」
 「それもそうね。でも、わたし、戸籍がないし、宙ぶらりんなのよ。どうするつもりなの?」
 「それについてはひとつ思い当たるところがあるんだよ」
 「思い当たるところ?」
 「キミの話さ」
 「わたしの話?」
 「そう」
 「いったい、何のこと?」
 「いいから、キミはここでじっと待ていてくれ。必ずいい知らせを持って帰るから」
 菊池はスーツを着て出かけていった。鮎美は、待つことにした。出て行くのはいつでもできるからだ。

 夕方になって、菊池が戻ってきた。
 「うまくいきそうだよ」
 「なにが?」
 「戸籍が手に入りそうなんだ」
 「戸籍が? お金で買ったとかいうんじゃないでしょうね?」
 「ぜんぜん」
 「じゃあ、どうしたの?」
 「明日か、明後日になればわかるよ」
 菊池は焦らして白状しなかった。待っている間、菊池は鮎美を毎日抱いた。
 「わたしを引き留めて抱くための嘘じゃないの?」
 「ぼくのことがそんなに信用できないのか?」
 「・・・・そんなことないけど」
 「じゃあ、黙って待つことだ」
 二日目の夕方、一通の速達が届いた。菊池は中身を取りだして確かめる。
 「やっぱりそうだった。裕人! ぼくたち結婚できるぞ!!」
 「なによ。何が来たの? 見せて!」
 鮎美は、菊池から書類を取り上げた。それは戸籍謄本と住民票だった。その名前を見て鮎美は驚きに目を丸くした。
 「何、これ?」
 戸籍謄本と住民票に書かれていた名前は、野中百合子だった。
 「君の話の中で、南クリニックに行ったとき、保険証を出したと言ってたよね?」
 「ええ」
 「小さな会社ならともかく、ある程度大きな会社なら、戸籍謄本か住民票がなければ保険証は作れないんじゃないかと思ってね。つまり、野中百合子は実在しているんじゃないかと言うことなんだ。だから、まず、戸籍を調べて貰った。すると、野中百合子は実在していたんだ。つぎに住民票を調べて貰ったんだ。よく見て。キミが東京で暮らした時期、住所があったのはその住所じゃないかい?」
 鮎美は住所を確かめる。
 「そうよ。坂本に連れて行かれたマンションよ」
 「その住所には今は誰もいない。キミ以外に住民票を使った形跡がないんだ。恐らく、坂本は、女の戸籍のないキミを雇うに当たって、保険を作るためにどこからか戸籍を手に入れてきたんだろう。だから、キミはその戸籍が使えるんだ」
 「ホントなのね?」
 「裕人でも、鮎美でもなく、百合子になっちゃうけどいいかい?」
 「いいわ。わたしと結婚してくれるの?」
 「そうだよ。そのためにこの戸籍を送ってもらったんだからね」
 菊池はニッコリ笑って百合子となった鮎美を抱きしめた。
 「いいのかしら? こんなに幸せで。霞に悪いわ」
 「霞さんだって、キミの幸せを祈ってるよ。キミが幸せにならなければ、井上の家族はみんな不幸のままなんだからね」
 鮎美は菊池の顔をジッと見つめてから言った。
 「もっともっと幸せにしてくれる?」
 「ああ、世界一幸せにしてあげるよ」
 ふたりはもう一度堅い抱擁を交わした。