第2章 モーテル殺人事件

 雀がチュンチュンと鳴く声が響く。自転車のブレーキの鋭い音が耳をさく。ガタンと音がして、自転車が動き始め、再びブレーキの音。
 (新聞配達らしいな。何時だろう?)
 中条は眠い目を擦りながら腕時計を見た。
 (6時前か。久しぶりにぐっすり寝たな)
 起きようとして隣に眠っているみどりの横顔を見て、この場所からなら通勤に要する時間がいつもの半分以下だと言うことに気がついた。ならば、もう少し眠れると中条は布団に潜り込んだ。
 みどりが中条に抱きついてきて足を絡ませてくる。背中を向けると、背中に柔らかいみどりの乳房が押しつけられた。
 「ねえ、中条さん。久しぶりなんだから、出かける前にもう一度・・・・」
 みどりの左手が中条の股間に伸びてくる。萎えて縮こまったそれをみどりは親指と人差し指で擦った。
 「もう少し寝たいんだ」
 「お願いよ・・・・」
 背中にみどりの唇が押し当てられる。強く吸われる感触がした。キスマークが付くじゃないかと中条は思ったが、見せるところじゃないからとされるままにされていた。
 「ねえぇ? 中条さん?」
 甘えるような声で中条を誘う。
 「しょうのないやつだな」
 そう答えて仰向けになると、みどりはスッと頭を中条の股間に埋めた。
 「ふふっ!」
 「なんだ? 何が可笑しい?」
 「だって、フニャフニャだったのに、こんなに堅くなるんだもの」
 「そんなことすればそうなるさ」
 「面白いわね」
 そう言ってぱくりと銜え込んだ。どうもみどりの気持ちがわからないと中条は思うのだった。
 おしゃぶりに厭たみどりは中条に跨って中へと導く。みどりは騎上位が好きだ。騎上位で腰を上下したり、前後左右に振る。あまりに激しいとき、中条は折れてしまいそうで怖くなることがあるが、みどりはちゃんと心得た上で腰を動かしているようだ。
 ルルルルーッ、ルルルルーッ、ルルルルーッ、ルルルルーッ。
 電話の呼び出し音が狭い部屋の中に鳴り響いた。中条は反射的に上体を起こす。
 「放っておいてよ」
 「ダメだ」
 中条はみどりの身体を退けようとするが、みどりは中条に抱きついていて離れようとしない。
 「退け! 退かないと、もう二度と来ないぞ!!」
 険しい表情で恫喝されてみどりは慌てて飛び退いた。中条はサッと立ち上がって6畳の部屋に脱ぎ捨ててあったスーツの上着から携帯電話を取り出した。
 表示は署の代表番号だ。何か事件が起こったなと中条は察する。
 《中条さん? 大森です》
 電話の主は中条の同僚だ。同僚以外には中条に電話を掛けてくる人間はいないのだが。
 「どうかしたか? こんな早くから」
 《殺しです。すぐに署まで来て下さい》
 「殺し? 現場は?」
 《末広町です。末広町のモーテルです》
 末広町にあるモーテル街ならすぐ近くだ。耳を澄ますと、パトカーのサイレンが近づいてきているようだ。
 「直接現場に行く。何というモーテルだ?」
 《スターダストって言うモーテルですけど、行く前に署に寄ってぼくを拾っていって頂けませんか?》
 「拾えないんだ」
 《拾えない? どうして?》
 「勘の悪いヤツだな。自宅じゃないんだ! わかったか?」
 《あ、あ、そうですか。わかりました。じゃあ、鑑識の車に乗せて貰います》
 電話を切ると、ショーツにガウン姿のみどりがやってきた。
 「事件なの?」
 「ああ」
 「すぐに出るのね?」
 「仕方がない」
 「シャワー、浴びなくてもいい?」
 「時間がない」
 中条は、トランクスを手に取って穿こうとする。
 「残り香があるわよ」
 自分ではそれを感じない。しかし、みどりの匂いが残っていて同僚に指摘されたくはなかった。中条は忌々しげにトランクスを捨てるとバスルームへと入っていった。中条がシャワーを浴びている間に、みどりは新しい下着とワイシャツを揃えておいた。
 「気が利くな」
 シャワーを浴びて出てきた中条がみどりに向かって笑みを浮かべた。
 「妻にしたい?」
 「結婚はもうこりごりだ」
 吐き捨てるように言って下着を手に取った。みどりは炬燵の前に座り込んで中条が服装を整えるのをジッと見ていた。
 「じゃあな」
 片手をあげて階段に向かった中条にみどりは声をかける。
 「今度はいつ来てくれる?」
 「暇があったらな」
 「冷たいのね」
 そんなみどりの言葉に返事を戻さずに中条の姿は階段に消えていった。みどりはポツンと座って項垂れる。
 「こんなに思っているのに・・・・」
 みどりの目から涙が一粒零れ落ちた。

 中条が急ぎ足で表通りに向かっていると、ベンチの下からあの子猫が走り出てきて助けを請うような目を向けた。中条はみどりの目を思い出す。
 「もっと情の厚い人間に拾って貰え!」
 諭すように子猫に言うと、中条は歩調を早めた。
 (近いとは思っていたが、これほど近いとは・・・・)
 表通りに出るとすぐ100メートルばかりの距離に赤色灯を点けたパトカーが停まっていた。その横に覆面パトらしい車と警察関係の車らしい普通車が停まっている。
 主婦らしい3人組が寒さに背中を丸めながらひそひそと話をしている。少し離れて犬の散歩途中の老人がモーテルを見上げていた。その犬が中条を見つけると、猛然と吠え掛かってきた。飼い主の老人は慌ててロープを引き、中条に頭を下げてきた。猫の匂いが付いていたのかなと中条はコートの袖口をクンクンと匂ってみた。
 モーテルの丁度真ん前に昔ながらの雑貨屋がある。店の前に置かれているガチャポンなどは店の中に収められ、色あせほころびの入ったカーテンが引かれている。そのカーテンの隙間から、その店の亭主らしい男が片目で覗いていた。
 その男が中条の姿を認めるとガラス戸を押し開いて通りに出てきた。
 「ちょっと刑事さん、なんの事件ですか?」
 みどりの店に顔を出す前にこの雑貨店で買い物をすることがあり、その男・店主とは顔見知りなのだ。
 「さあな」
 中条は気のない返事を戻した。
 「こんなに警察の車が来ているところを見ると、・・・・殺人事件でしょう?」
 殺人事件と言うところは声を落としていった。しかし、その声を主婦たちに聞かれたらしく、主婦たちが中条の方を見て眉をひそめた。
 「夕刊でも見てくれ」
 そう言い残すと、中条はモーテルの入り口に向かった。そこには顔見知りの警察官が立っていた。
 「お疲れ様です!」
 「おう。現場はどこだ?」
 「手前から2番目の階段を上がった部屋です」
 うむと頷いて中条は2番目の階段を探した。階段の下にある駐車場に車が停まっている。その車のそばに警察官がいて、何やらメモを取っていた。
 「ガイシャの車か?」
 「そのようです」
 当たり前だというような顔をして答えた。中条も馬鹿な質問をしたと思った。
 「現場はこの上だな?」
 「そうです」
 中条は階段を駆け上がった。階段を上がった突き当たりにパチンコの景品交換所のような小さな窓口が見える。そこで料金を払うようになっている形式のものだ。
 右手のドアが開いていた。靴が3足脱ぎ捨てられて、入り口の床の上にジュラルミンのケースが置かれていた。
 (シャワーを浴びている間に、先に鑑識が来たようだな。大森も来ているのかな)
 「おおい! 防犯の中条だ。手袋と足袋をくれ」
 顔を覗かしたのは、大森だった。
 「中条さん、お疲れ様です。ハイ、手袋と足袋」
 「他は来ていないのか?」
 「加藤さんと杉村さんが遺体を発見した従業員の事情聴取をやっています」
 「そうか」
 ビニル製の手袋を填め、靴を脱いで同じくビニル製の足袋をしてから中条は部屋に上がった。
 入って右手に小さなちゃぶ台と茶道具を入れた棚が置いてる。茶道具は使った形跡はないが、缶ビールの缶がひとつ置かれていた。リングプルが引かれているから飲み干したあとのようだ。
 (発泡酒じゃなくてビールか・・・・。金の余裕があるヤツか? それにしちゃあ、車はぼろだったな)
 階下に停めてあった車は、旧式のカローラだ。グレードも下から数えた方がいいようなもので、営業車のように見えた。
 (女の手前、多少の見栄を張ったか? ビールくらいで考え過ぎか・・・・)
 左手に目を移す。大きな回転ベッドがデンと置かれている。その中央に大の字になったガイシャの姿が見えた。鑑識係のひとりがもうひとりの鑑識係に指示して写真を撮らせている。もうひとりが記録を取っている。
 中条はチラリとガイシャを見遣った。上半身と両手が血だらけだ。その血液は既に凝固している。かなりの時間がたっているようだ。
 「ああ、中条さん。今始めたところです」
 調べていた鑑識係が顔を上げて中条に告げた。
 「ガイシャの格好はそのままか?」
 「ええ、まだ動かしていません」
 「状況としてはどうだ?」
 「そうですね。ご覧のように首から胸にかけて無数の刺し傷があります。両手には防御痕多数ですね」
 「致命傷は?」
 「調べてみないとわかりませんが、右胸部の傷が深いようです」
 「そう。身元がわかるようなものは?」
 「こっちは素っ裸ですからね。スーツのポケットを調べて頂けますか?」
 「動かしていいのか?」
 「写真は取りましたから、どうぞ」
 中条は、大森に目配せする。大森が手袋をした手でスーツを取り上げ、ポケットの中を探った。
 「車のキー」
 中条に手渡す。安っぽいキーホルダーにただ一本だけキーが付いていた。やはり個人所有の車じゃないなと中条は思いながら、キーを見つめた。
 「札入れがありました。おっ! 名刺入れもありますよ」
 内ポケットから取り出した札入れと名刺入れを中条に渡した。中条は名刺入れを開いてみた。
 「峰建設・峰聡太郎?」
 中条は、名刺入れを手にしたまま死体のそばに歩いていった。
 「ちょっと顔を拝ませてくれ」
 「どうぞ」
 真上から死体の顔を見る。血糊で汚れているが、間違いなかった。
 「どうかしました?」
 鑑識係が尋ねる。
 「イヤ、ちょっとした顔見知りでね」
 「そうだったんですか。どこで?」
 「これだよ」
 中条はゴルフクラブを振る身振りをした。ああと鑑識係は頷いた。最近署内ではゴルフが流行っていた。非番の日にフェアウエーへ出るのだ。ウイークデーのことが多い、イヤ、給料からすればウイークデーしかいけないのだが、グリーンフィーが日曜祭日の半額以下なので、安月給の中条でも行けると言うわけだ。
 1年ほど前だったか、副署長に誘われてゴルフに行ったとき、たまたま一緒になったのが峰だった。その後2度ほど一緒にラウンドしたことがあった。シングルの峰が、ハンディー30の中条のプレーに苛立ちも見せずに一緒にラウンドしてくれ、いい男だなと思っていたのだ。
 「これほど滅多差しのところを見ると、怨恨の線が濃厚だと思うが、どう思う?」
 「わたしもそうだと思いますが・・・・」
 傷口の方向と深さを確認しながら、鑑識係が答えた。
 (恨みを買うような男には見えなかったが・・・・)
 中条は首を傾げる。しかし、予断は禁物だと頭を振った。名刺入れの中には、受け取った名刺が数枚収められていた。前日、みどりのスナックで見かけた大杉の名刺も含まれていた。
 (土建屋と建設業だから、名刺の交換くらいはするだろうな)
 仕事に関係すると思われる名刺の他にスナックやバーの女性の名刺が何枚か入っていた。名刺入れを大森に手渡し、名前を控えるように言ってから、中条は札入れを開いた。
 「ほう・・・・」
 福沢諭吉が大挙して並んでいた。ダイナーズクラブのプラチナカードを初めとするカードが数枚。
 (参ったな)
 一度でいいから、こんな札入れを持って都町に行ってみたいと中条は思った。
 「ライター、タバコ、それからスナックの名前が入ったマッチ」
 「ライターを持っているのにマッチが?」
 「はい。これです」
 『なごみの部屋』と書かれたマッチだった。開いてみるとマッチは一本も使われていない。
 「ふむ・・・・。他には?」
 大森は両手を広げた。外人みたいに気取るなと思いながら、中条は奥にあるバスルームのドアを開いた。
 「中条さん、そこはまだ入らないで下さい」
 鑑識係が大声で叫んだ。
 「わかった」
 中条は、中に入らないで腰を落として透かすようにして観察する。シャワーを浴びたあとがあった。恐らく返り血を洗い流したのだろうと推測された。バスタブに血液らしいものを見つけたからだ。
 「ん?」
 床の上をジッと見る。長い髪の毛が落ちていた。
 「どうかしました?」
 「髪の毛だ。それもかなり長い。ホシは女かな?」
 「中条さん、モーテルに来るんだから、ホシは女に決まってるでしょう?」
 「そうか?」
 中条は大森をジッと見る。
 「そ、そりゃあ、髪の長いおかまだって線はあり得ますよ。けどですよ。確率としてはやっぱり女でしょう?」
 「確率も重要だが、それだけに頼っていたら、迷宮入りになってしまうぞ」
 「は、はあ・・・・」
 大森は納得いかないという顔をした。
 「髪の毛ですって?」
 鑑識係がやってきた。
 「ほら、そこに床に落ちている」
 「なるほど。あとで採取しておきましょう」
 部屋の中を見回したあと、中条は大森の背中を叩いた。
 「従業員から事情聴取はどうなっているかな?」
 「そうですね。行ってみましょう」
 ビニール製の手袋と足袋を脱ぎ捨てると、中条は階段を駆け下っていった。