第18章 愛人としての生活

 井上裕人いや伊沢鮎美は、初日の仕事をそつなくこなした。高校を出てからずっとやってきた仕事だから何の不都合もなかった。
 終業時間になった。制服を私服に着替えると、牟田が待っていた。
 「社長から、マンションに案内するように言われています」
 「ありがと」
 牟田がドアを開いたセルシオに乗り込んだ。渋滞する道をしばらく走ると、駅裏にあるマンションの駐車場にセルシオは滑り込んだ。
 東京の高層マンションに比べれば見劣りのする7階建てのマンションの最上階にエレベーターで上る。牟田は808号室のドアを鍵で開けた。
 「それじゃぁ、わたしはこれで。社長は、午後7時過ぎには来られると思います」
 鍵を鮎美に手渡すと、牟田は頭を下げて去っていった。
 (なんて実直な男なの・・・・)
 感心しながら、鮎美は部屋の中を眺めた。建物自体は東京のマンションに見劣りしたけれど、中身は倍以上の豪華さだった。ふわふわのトルコ絨毯の肌触りが素晴らしい。
 寝室を覗く。ダブルベッドがデンと置かれていた。ドレッサーの鏡が大きいことに感激した。化粧品は揃っていた。キッチンもサニタリーも超豪華だった。
 (ホントにいいのかしら?)
 鮎美は幸せな気持ちになった。
 (あのひと、7時に来るって言ってたわね)
 冷蔵庫の中には食品が詰まっていた。買い出しに行かなくてすむわと鮎美はニッコリと笑って夕食の献立を考え始めた。
 峰がマンションにやってきたのは、午後7時少し前だった。
 「ただいま」
 その言葉に、鮎美はアレッと思いながら、『お帰りなさい』と答えて上着を脱がしてやった。
 「風呂は溜まっているか?」
 「あ、ごめんなさい。すぐに溜めるわ」
 「明日からは、戻ってきたらすぐに風呂だ。いいな?」
 東京時代とは口調が違うなと鮎美は思った。
 「はい」
 「飯は?」
 「すぐに用意します」
 キッチンに戻って料理をテーブルに運ぶ。ビールを注いでやりながら、鮎美は首を傾げた。
 (明日も峰は来る。ただいま?)
 鮎美は峰に尋ねた。
 「パパ?」
 「何だ?」
 「毎日ここへいらっしゃるの?」
 「当たり前だ。ここがわたしの我が家だ」
 「ご自宅には?」
 「自宅? あんな雌豚のところには、ここ10年帰っていない」
 「ずっとここに?」
 「そうだ」
 「じゃあ、わたしは・・・・」
 「他人から見れば、わたしの愛人だが、実質的にはわたしの妻だ。イヤか?」
 「い、いえ」
 「だから、もうパパと呼ぶのは止めろ。・・・・あなた、だな」
 「あなた・・・・」
 男だった自分が、女になり女の戸籍も手に入れて、男をあなたと呼ぶ。幻暈がしそうだった。
 「おまえもビールを飲め」
 「はい」
 鮎美はコップを差し出した。

 その夜、鮎美は峰に抱かれた。
 「鮎美、鮎美。愛しているぞ」
 耳元で峰にそう囁かれ、いやが上にも興奮は高まった。
 「愛してます。愛してます。あなた・・・・」
 霞の顔が浮かんだ。けれど、峰によってもたらされる圧倒的な快感によってそれは粉々に砕け散っていった。
 夜中に目が覚めて霞のことを思った。けれど、これは裏切ったことにはならないと、もう一度自分に言い聞かせた。

 O市に戻ってからしばらくの間は、峰は毎日のように鮎美を抱いた。しかし、しばらくすると、週に2、3度に落ち着いた。
 毎日抱かれなくても、妻として峰に接することが嬉しくて、鮎美は幸せを感じていた。ただ、木曜日だけは出張でもないのに峰はマンションへは戻ってこなかった。
 「木曜日はどうしていらっしゃるの?」
 鮎美が尋ねると、峰は不愉快そうな顔をした。だから、鮎美は二度とそのことを口にしなかった。
 木曜日に峰がどこに行っているかを知ったのは、2ヶ月ほどしてからだった。峰には鮎美以外に、別の場所に囲っている愛人がいたのだ。畑中由美子という女性だった。そのことを知って鮎美は愕然となった。自分ひとりを愛してくれていると思っていた自信がガラガラと崩れ落ちていく思いだった。
 「おまえは愛人ではない。おまえはわたしの妻だ。自信を持て。わたしに愛人のひとりやふたりいても負けないと言う自負を持つんだ」
 そう言われても、峰がいつかは自分を捨てるのではないかと不安だった。
 「そんな不安はこれを見れば吹っ飛ぶだろう」
 そう言って峰が鮎美に見せたものは、戸籍謄本だった。そこには、鮎美は峰の養女として記載されていた。峰は約束通り、鮎美を養女としたのだった。
 「本当は、おまえを妻にしたかったんだが、あいつが離婚に応じてくれないからな。養女を抱くのは問題かもしれないが、そんなことは関係ない。これはわたしのおまえに対する誠意と取って欲しい。わかったな?」
 「あなた・・・・」
 嬉しかった。これで捨てられることはないと鮎美は思った。

 鮎美にとって幸せと思える日々が過ぎていった。O市に戻って2度目の年が明けた。そんなある日、鮎美は峰が持って帰った会社の財産目録をたまたま目にした。
 (すごい不動産だわ。峰は大変なお金持ちなのね)
 パラパラと捲っていくうちにある不動産の項に目が止まった。
 (これは・・・・)
 信じられない物件がそこには記載されていた。その住所は、鮎美が坂本に住まわされていたマンションだった。
 (どうして・・・・)
 峰が浴室から出てくる音がして、鮎美は慌てて目録を元に戻した。峰に問い質そうと思った。けれど、できなかった。尋ねてはいけないような気がしたのだ。
 (峰は坂本と仲がよかったみたいだ。峰が坂本に貸していたのだろう)
 そう思うことにした。しかし、疑念が再び持ち上がってきたのは、峰が隠し持っていたある写真だ。
 それは、峰も見たという、大杉建設時代に鮎美が忘年会の余興に女装した写真だった。それも、一枚ではなく、鮎美自身が見たこともない女装写真が10枚ほど出てきたのだ。鮎美が知っているのはそのうちの2枚だけだった。
 (峰はどうしてこんな写真を持っているの?)
 東京のマンションのことと思い合わせたとき、鮎美はひとつの可能性を見いだした。
 (もしかすると、峰は女装したわたしのことが気に入って、坂本に頼んで女に仕立て上げたのかも・・・・。大杉建設は、峰建設の下請けだ。峰が手を回せば、わたしくらいの従業員のひとりやふたり馘首にすることができる。馘首にした上で、東京に就職口を斡旋する。けちで有名な大杉社長が、東京までの航空券をくれたのだって、今思えばおかしかったんだ。坂本が大杉から女性従業員を紹介されたと言っていたけれど、大手の建設会社が、電話一本で人を雇うなんてことがあるはずがないわ。女装したら雇ってやると言ったのも、初めからそうさせるつもりだったんだわ。わたしには手持ちのお金がなくて、切羽詰まっていたのを知っていたから。わたしが、女装を承諾したときに、女になる道に乗せられてしまったんだわ)
 考えれば考えるほど、疑念は確信へと変わっていった。そして、恐ろしいことを思いついた。
 (わたしを馘首にして女にするために東京に送り込むには、・・・・家族が邪魔になる。まさか・・・・)
 父が酔って夜中にトラクターを運転するなどとても信じられなかった。気丈な母が後追い自殺するなどと言うこともあり得なかった。亮のひき逃げ、霞の自殺。どれもが作為のように思われてきた。
 その時には、峰が鮎美の家族を殺したと思いこんでいた。鮎美は証拠を求めて調べ始めた。けれど、何も出てこなかった。
 (わたしの思い違いかしら?)
 そう思い始めた矢先、業務日誌に目がいった。誰がどこに出張しているか書かれているのだ。4人が死んだどの日にも、峰は福岡に出張していた。
 (峰が直接手を下しているとも思えないけど・・・・。牟田が一緒に出かけている。牟田なんて一緒に連れて行く必要はないはずだ。牟田が手を下したのか?)
 いつもニコニコとして好々爺然としている牟田の顔を見た。
 (牟田がそんなことをするはずがないわ。わたしの考え違いよ。すべて偶然よ。偶然の産物だわ。峰はわたしを愛してくれている。こんな馬鹿なことを考えるのはよそう)
 鮎美は忘れることにした。

 その直後の木曜日、峰が愛人の元に行っていないマンションのチャイムが鳴った。
 「どなた?」
 「牟田です」
 聞き慣れている押し殺した牟田の声が戻ってきた。
 「牟田さん? 何の用?」
 「・・・・お嬢さんにちょっとお話が」
 「こんな時間に何の話なの? 明日、会社でしてくれないかしら?」
 「会社では話せない話です。ドアを開けて頂けませんか?」
 いつもとは違った雰囲気の牟田の話具合に、鮎美はドアを開いて中に招き入れた。
 「いったい何なの?」
 「わたしのことを探っておいでのようでしたが・・・・」
 いつもと違った鋭い目で牟田は鮎美を見た。
 「そ、そんなこと、ないわ」
 「隠してもわかっていますよ。あなたの家族が亡くなった日のことを調べていましたね?」
 「わ、わたしの家族って・・・・」
 「お嬢さんが、ホントの女じゃないことは存じてますよ。本名が井上裕人だってことも。どうか黙ってわたしの話を聞いてください」
 鮎美は茫然として牟田の話を聞いていた。