第13章 家族を失って

 平成14年4月1日、峰建設の事務所に従業員たちが集められていた。
 「今日から、ここで働いて貰う伊沢鮎美君だ。みんな、よろしく頼むよ」
 紹介された女性は、オレンジ色に細い黒の格子模様が入った膝上15センチばかりのミニスカートに、白のブラウス、その上にスカートと同じ生地で作られたベストを着て恥ずかしそうに立っていた。
 「伊沢鮎美です。よろしくお願いいたします」
 両手を膝の上に揃えてぴょこりと頭を下げて挨拶をした。
 「可愛いな。独身?」
 若い従業員が、早速質問した。隣にいた同僚が肘でその従業員を突いた。
 「あほ! 馬鹿なことを聞くなよ」
 「何でだよ?」
 「いいから」
 男を押さえつけて、よろしくお願いいたしますと大きな声を出して仕事に向かった。
 「放せよ。いったいどうしたってんだよ」
 「彼女は社長のこれだよ」
 小指を立ててみせる。
 「手を出したら馘首になるぜ」
 「えっ? そうなのか? やべえ、やべえ」
 従業員たちが仕事に出ていったあと、伊沢鮎美は机に座って事務作業を始めた。
 「鮎美君、やり方はわかるね?」
 「はい。前の職場と同じですから」
 「じゃあ、頼んだよ。わからないことがあったら、他のみんなに聞いてくれ。おい! みんな、優しく教えてやってくれよ」
 「はい」
 「はい」
 事務職の3人の男女が一斉に返事を戻した。伊沢鮎美は、帳簿を取って、領収書を一枚一枚確認して記載し始めた。
 計算機のボタンを押しながら、伊沢鮎美は感慨にふけっていた。
 (帰ってきたんだわ。生まれ故郷に・・・・。姿は変わってしまったけれど、やっぱり、生まれ故郷が一番いいわ)
 計算機のボタンを押しながら、伊沢鮎美は、あの日から辿ってきた日々のことを思い出していた。

 平成11年3月2日早朝、井上裕人は、まだ布団の中にいた。電話が鳴ったような気がしたが、布団を頭からかぶって聞こえないようにしていた。
 「あなた、あなた! 電話よ」
 妻の霞が揺り起こした。
 「何だよ。こんな朝っぱらから」
 「警察の方よ」
 「警察?」
 裕人は布団から抜け出して受話器を取った。
 「もしもし、井上ですけど・・・・。ええっ!! オヤジが! す、すぐに行きます」
 ガチャンと受話器を置いて、服を捜す。
 「おい! 霞!! 服は?」
 「何か大変なこと?」
 「オヤジが死んだんだ」
 「ええっ! お父さんが?」
 「トラクターを運転していて下敷きになったらしい。服を急いでくれ」
 「わたしも行くわ」
 霞も服を取りだして着替え始めた。
 「亮? 起きて? お祖父ちゃんのところへ行くわよ」
 むずがる亮を着替えさせて、一緒にムーブに乗り込んだ。

 裕人の実家近くには見慣れない車が2台停まっていた。近所の人たちが遠巻きに群がっている。裕人を見かけた隣の小父さんが、手招きをした。
 「ゆんべ、トラクターを出したらしいんじゃわ」
 話半分で裕人は、警察官らしい男たちがいる場所へと小走りで向かった。土で汚れた朱色のトラクターが横転していて、その下に周りの土と同じ色に変わった父の顔が見えた。
 「父さん!」
 「息子さんですね。すみませんが、検分が終わるまで少しお待ちください」
 遮られて、裕人は茫然と父親の顔を見ていた。

 晩酌が終わったあと、何かし残しの仕事をするためにトラクターを動かし、誤って横転し下敷きとなって死亡したとの検分がなされた。
 「馬鹿野郎。なんで、夜中にそんなことを・・・・」
 ただ泣くしかなかった。泣くのはそれだけでは終わらなかった。父の49日法要の終わった夜、母が首を吊って死んだのだ。
 「一緒に暮らすと言ってやればよかった・・・・」
 法要の席で、母から寂しいから家に戻ってくれまいかと頼まれたのだ。けれど、今のアパートの方が職場に近かったし、妻の霞が姑との同居を望んでいなかったから、やんわりと断っていたのだ。自責の念が裕人を苦しめた。仕事にミスが出始めたのはこのころからだった。
 半年たって、ようやく落ち着いてきた頃、職場に霞から電話が入った。
 《あなた、亮が、亮が・・・・》
 ひとり息子の亮がトラックにひき逃げされて死亡したのだった。裕人は絶望のどん底に落とされた。追い打ちを掛けるように、霞が入水自殺した。自分もどれだけ死のうと思ったかもしれない。けれど、死ねなかった。
 「俺には死ぬ勇気がない」
 裕人は、生ける屍のようになっていた。
 「生きていれば、いいこともあるさ。頑張れよ。俺も陰ながら応援してやるから」
 社長がそう言ってくれて、嬉しくて男泣きに泣いた。けれど、意欲が湧かず、毎日幽霊のようにして暮らしていた。
 「井上! 両親が死んで、妻子もなくして悲しいのはよくわかる。しかし、仕事は仕事だ。きちんとしてもらわなければ、困るんだ!」
 同情していた社長からもとうとう叱責の言葉出るようになった。そして、両親の一周忌が終わった直後、とうとう引導を渡されてしまった。
 「井上君、すまないが、ほかの従業員に示しが付かないんだ。今日限りで辞めてくれ」
 「今日までありがとうございました」
 そう答えるしかなかった。裕人はとぼとぼとアパートまで歩いて帰った。

 その夜、部屋の中にぽつんと座っていると、玄関のドアを叩く音がした。ドアを開いてみると、社長が立っていた。
 「社長・・・・」
 「ちょっといいか?」
 「あ、どうぞ。汚いところですが」
 座布団を出そうとすると、社長はいいからと断りを言って畳の上にどっかと腰を下ろした。
 「自殺でもしていないか、気になってな」
 アパートに戻ってからずっとそればかりを考えていた。けれど、どれも苦しそうで実行できそうもなかったのだ。
 「俺に何か?」
 「ああ、そうなんだ。気分転換に東京にでも行って来ないか?」
 「東京へ?」
 「東京に山本建設という同業者があってな。ちょっとした知り合いなんだが、先月東京で会ったとき、簿記ができる人間がいないかって言われていたんだ。あのときはおまえを馘首にするつもりはなかったから、いないなあと答えていたんだが、おまえだったらいいんじゃないかと思ってな。どうだ?」
 「ありがたい話ですけど、何にもする気がなくて・・・・」
 「井上! おまえ、このまま死に体で人生を過ごすつもりか! 世の中にはおまえよりもっとひどい目に遭っている人間はごまんといるんだぞ。いつまでいじいじしているつもりだ!」
 厳しさの中に優しさが籠もった言葉だった。
 「どうするんだ? 心機一転、新天地に行ってやり直してみないか? 居場所が変われば、やる気が出るんじゃないか?」
 社長が両肩に手を載せて尋ねた。裕人はじっと考えてから返事を返した。
 「ありがとうございます。社長のご好意に甘えさせて頂きます」
 「そうか、そうか。それがいい。早速先方に連絡しておこう。日程が決まり次第連絡するから、くれぐれも取り返しの付かないことはするなよ」
 「はい」
 馘首にしたあとのことまで考えてくれて嬉しかった。

 それから一週間ほどしてから、社長が再び裕人のアパートを訪れてきた。
 「先方から返事が来た。雇ってもらえるそうだ。これは餞別代わりだ」
 東京行きの航空券だった。
 「いいんですか?」
 「いいに決まってるさ。それより、金はあるのか?」
 「金ですか? 金ならちょっとだけ」
 「ちょっとだって、いくらだ?」
 「1万とちょっと」
 「1万とちょっと! 貯金は?」
 裕人は肩をすくめた。四つ続いた葬式で、貯金を使い果たしていたのだった。
 「貯金もないのか。困ったやつだ。俺が航空券をやらなかったら、東京に行けないところじゃないか。まあ、いい。給料を前借りできるように頼んでおいてやろう。先方が、社員寮と制服を用意してくれている。持っていくのは、下着とちょっとした身の回りのものだけでいいだろう」
 「助かります」
 「それから、これは連絡用の携帯だ。プリペイドだから、使えるだけ使ったら、捨てていいからな。電話番号と到着時間は先方に伝えてある」
 「何から何まで申し訳ないです」
 「向こうがイヤになって、やる気が戻ったら、こっちに帰ってこい。いいな?」
 「ありがとうございます」
 こうして、裕人は東京へ旅立つこととなった。

 羽田に降り立った裕人は、出口を出たところにたたずんでいた。
 (迎えが来るって言ってたけど・・・・)
 見回してみたけれど、出迎えに来たらしい人たちは、みんな各々の相手を見つけてモノレールの方へ歩いていった。
 (どうしよう・・・・)
 困っていると携帯電話が鳴った。
 (そうだ。携帯があったんだっけ)
 裕人は慌てて受話スイッチを押した。
 「もしもし」
 《・・・・もしもし?》
 「もしもし、井上ですけど、山本建設の方ですか?」
 《そうだが、大杉さんから紹介された井上さんか?》
 「そうですけど」
 《どこにいる?》
 「手荷物を渡すところを出たところです。・・・・もしもし?」
 ポンと肩を叩かれた。振り向くと、携帯を手にして男が立っていた。
 「井上さんか?」
 「あ、はい」
 男が携帯を切ると、裕人の携帯の通話が切れた。
 「おまえ、男だよな」
 裕人の頭の先から足元まで何度も眺め回しながらいった。
 「そうですけど、それが?」
 「大杉さんが紹介してくれたのは、イノウエヒロコと言う女だって聞いてたんだが」
 「イノウエヒロコ? それは聞き違いです。自分はイノウエヒロトです」
 「ヒロト? ヒロト? はあ? 参ったな。ヒロコって聞いたからてっきり女だと。くそ! どうしてくれるんだよ!!」
 「そんなこと言われたって」
 「制服だって用意しておいたのに。とんだ無駄遣いだ。社長にどやされるぞ。困った」
 男は頭を抱える。
 「男じゃだめなんですか? 雇ってくれないんですか?」
 「男なら掃いて捨てるくらいいるんだ。男は必要じゃないんだ」
 「そんなこと言わないでお願いしますよ」
 裕人は上半身を直角に曲げて頭を下げた。
 「もういい! H町に帰れ!」
 男は、背中を向けて歩き始めた。
 「ちょ、ちょっと待ってください。働かせてもらわないと困るんです」
 裕人は男に追いすがって頼み込んだ。
 「おまえがどんなに困ろうと、こっちには関係ない」
 「お願いです。働かせてください。お金をほとんど持っていないんです。泊まるところもないんです」
 「泊まる所がない? 知ったことか。こっちで用意したのは女子寮だ。おまえが泊まるわけにはいかないだろう?」
 「女子寮・・・・」
 「諦めて帰れ!」
 「帰るお金もないんです。お願いします。下働きでも、床掃除でも便所掃除でも何でもします。だから働かせてください」
 裕人は土下座して頭を床にこすりつけた。
 「おい、おい。みっともねえじゃなんえか。人が見てる。さっさと立て!」
 「お願いです」
 裕人は土下座し続けた。
 「おまえ、・・・・何でもするって言ったな?」
 「は、はい」
 「二言はないな?」
 「何でもします」
 「よし。俺について来い」
 「雇って頂けるんですか?」
 「いいから、ついてくるんだ」
 男は、駐車場へ向かって歩き始めた。裕人は慌てて男の後を追った。

 男は少し年季の入ったマスタングのドアを開いた。
 「乗れよ」
 「はい」
 裕人は、戸惑いながら、右側のドアを引いた。日本車しか乗ったことがないから、左ハンドルの助手席に戸惑ったのだ。
 轟音が鳴り響き、車は駐車場を出た。出たが空港線は渋滞していた。男は、タバコに火を付けた。
 「何でもするって言ったな?」
 「はい。何でもします」
 何度も確かめる男に、裕人はしだいに不安になっていった。
 「おまえの顔を見ながら思いついたんだが、やってみるか?」
 「なにを・・・・ですか?」
 男の妙な表情に不安が募る。
 「おまえは働くことができて、俺も社長にどやされない方法があるんだ」
 「何をすればいいんです?」
 「簡単さ。女装してもらう。女装して、女として就職するんだ。そうすりゃ、おまえは働けるし、俺はどやされない。どうだ?」
 裕人は目を見張った。
 「と、とんでもないです。女装なんて」
 「いやか?」
 「いやです!」
 「じゃあ、ここで降りろ」
 男は、道の真中で車を停めた。後ろに停まった車がクラクションを鳴らす。
 「こ、困ります」
 「俺だって困るんだ。男のおまえを連れて帰ったって、何にもならんのだからな」
 「お願いです。女装以外の方法を」
 「だめだ。女しか雇えないんだ。早く降りろ!」
 男はすごい形相で裕人を睨みつけた。後ろの車のクラクションは鳴り止まない。
 「・・・・女装したら、雇ってもらえるんですね」
 「だから、さっきからそう言ってるだろう? やるのか? やらないのか?」
 裕人は迷った。当然だ。しかし、他に道はなかった。
 「・・・・やります」
 そう答えざるを得なかった。こんなところで放り出されたら、裕人はのたれ死にするしかないのだ。
 「よし。そうと決まったら、まず、あそこに行ってみよう」
 男は車を出すとクラクションを鳴らし、パッシングしながら、車の間をすり抜けて都心へと向かってハンドルを切った。