中条は、手に入れた牟田の写真を持って井上裕介が住んでいた集落や、井上裕人が住んでいたアパート周辺の聞き込みをやってみた。しかし、牟田らしい人物を見たという証言はまったく得られなかった。
力を落とした中条は、みどりの経営するスナックに向かった。捜査が行き詰まったとき、中条はしばしばみどりのスナックに行き、愚痴を言うのだ。みどりの前でだけは、中条は弱みを見せていた。それだけ、みどりを信頼していたと言うことになる。
先日よりは寒さは少し緩んでいたけれど、まだ寒い。それに事件が完全解決していなかったから、心がすっきりせず、寒さが身に染みていた。
街路樹の下にある壊れかけたベンチのそばまで来て、中条はキョロキョロと辺りを見回した。
あの子猫はいなかった。
(誰かに拾われたのだろうか? それとも・・・・)
後者を思うと少し悲しくなった。
(拾ってやることができれば、拾ってやりたかった)
そう思いながら、みどりのスナックのドアを押した。いつものようにチリンと小さな鈴が鳴った。
相変わらず流れている物憂げなシャンソン。ますます気が滅入る。店には客はいなかった。
「泣きに来たの?」
みどりが小首を傾げながら聞く。
「馬鹿言え」
みどりの顔を見ずにそう答えて、中条はいつもの一番奥の席に腰を下ろした。
「いつものヤツでいいわね?」
「ああ」
中条はコートのポケットからタバコを取り出して火をつけた。
「止めたんじゃなかったの?」
ふうと煙を吐き出す。
「なかなか止められないな」
「はい、どうぞ」
ホットウイスキーが中条の前に置かれた。タバコをもう一度吹かしてから、中条はグラスを取った。
「この前呼び出されたのは、この先のモーテルであった殺人事件でしょう?」
中条は答えないで、グラスを傾けた。
「犯人、見つからないの?」
「テレビを見ていないのか?」
「テレビなんて、この数年見てないわね」
「そうか。犯人の女性が自殺を図って救急病院に収容されている」
「そう。じゃあ、解決したのね」
みどりはウーロン茶らしいものを口に運んだ。
「犯人は確保されてはいるんだが、動機がよくわからない。それに、他人の墓の前で自殺を図った理由だ」
「他人の墓の前で?」
「そう。まったく縁もゆかりもない墓の前だ。いや、何か関係があるはずなんだ。ホシの女は、戸籍とは別人だったからだ」
「えっ? どういうこと?」
中条は、みどりにこれまでわかっていることを事細かに説明した。
「へえ。伊沢鮎美とは別の女性が峰鮎美として養女になっているのね。その鮎美が、養父である峰聡太郎を滅多突きにして殺し、井上家の墓の前で自殺を図った。現在意識不明の重体。井上家の4人が不審な死を遂げている。ただ一人の生き残りである息子の井上裕人は行方不明。そんなところね」
「そうだ」
「それが鮎美の写真なの?」
中条がポケットから取り出して見ていた写真をみどりが覗き込む。中条は頷く。
「見せて」
みどりは中条から写真を取り上げて見つめた。
「ふうん。確かに美人だね。そっちの写真は?」
「井上裕介の息子夫婦とその子どもの写真だ」
「峰鮎美が持っていたのね?」
「ああ。それがどうしてかわからない」
「それも見せて」
みどりは返事を待たずに取り上げた。
「わあ、可愛い。こんな子をよく殺せるわね」
「故意に轢いたかどうかはわからんがな」
「奥さんも可愛い人ね」
この言い方は、そうでもないとみどりが思っているときだ。
「この人が行方不明なのね」
中条は頷いて、ホットウイスキーをゴクリと飲み込んだ。
「そいつを捜し出せれば、鮎美が峰聡太郎を殺した動機がつかめると思うんだが、最後に向かった場所が東京だからな。宝くじで1等を当てるよりも難しいな」
「確かにそうね」
「なんだ? その言い方は?」
歯に何か物が挟まったような言い方だったのだ。
「中条さん、年を取って勘が悪くなったみたいね」
「なんだと!」
中条は目を三角にした。
「あなたの目は節穴だって言いたいのよ。こんなに手がかりがあるのに」
「何を言っている?」
中条はみどりを睨む。
「ふたつの写真をよく見て」
みどりは中条に写真を戻す。中条は写真を交互に見つめる。
「なにがだよ?」
「わからない人ね。伊沢鮎美の代わりに誰かが峰鮎美になった。身元のはっきりしない人物が生まれたわけね」
「ああ」
「一方では、ひとりが姿を消した。どうしたら、そのギャップが埋められる?」
「なに? なんだって?」
中条はみどりの言わんとするところがわかって、二葉の写真を穴の開くほど見つめた。
「嘘だろう・・・・」
「わたし、一目見てわかったわよ。井上裕人と峰鮎美が同一人物だって」
みどりの言う通りだった。
「しかし・・・・」
「いまどき、男が女になることなんて簡単なものよ。井上裕人は女顔だから、ちょっと化粧して女装すれば男には見えないでしょうね。それに、井上裕人の行方がわからなくなって4年でしょう? ホルモン投与、豊胸術、性転換、何でも可能だわ。救急病院に入院していて、病院側が何も言ってこないところを見ると、井上裕人は性転換しているみたいだね。医療関係者もだませるくらいの仕上がりでしょうね」
「信じられん・・・・」
「峰聡太郎が、井上裕人の両親、奥さん、子どもを殺したんでしょうね。だから復讐のために殺した。そして、両親や妻子の眠る墓の前で自殺を図った。辻褄が合うわ」
「俺には信じられんがな。ともかく、峰鮎美が男かどうか病院に電話して確かめて貰おう」
中条はコートの内ポケットから携帯を取りだして、中尾病院に電話をかけた。
「もしもし、O中央署の中条と言います。菊池先生をお願いしたいんですが」
《菊池ですね。少々お待ち下さい》
保留音が流れてきた。中条はイライラしながら、菊池が出るのを待った。
《お待たせしました。菊池に代わります》
切替音がした。
《もしもし、ICUです》
女の声がした。看護婦だろう。
「O中央署の中条と言います。菊池先生を」
《お待ち下さい》
再び待たされた。
《菊池です。お待たせしました》
「中条です。実は先生、峰鮎美は女じゃないかもしれないんです」
驚きの声が戻ってくると思っていた。ところが菊池の声は落ち着いていた。
《そうなんですよ。彼女は女じゃなりません。性転換した男だったんですよ》
「わかってたんですか?」
《いや、さっきわかったんです。導尿していたバルーンカテーテルを入れ替えようとして、彼女の陰部の構造がおかしいことに気がつきましてね。最初に導尿したときに気づけばよかったんですが、この病院に運ばれてきたとき、出血多量で死にかけていてバタバタしていましたから、充分観察していなかったんです。申し訳ないです》
「いや、そんなことはないです。彼女が男だってことは間違いないですね?」
《超音波検査をやってみました。子宮がないこと、豊胸術を受けていることを確認しています。DNA鑑定をすれば確実ですが、そこまでしなくてもまず間違いないでしょう》
「なるほど。よくわかりました。で? その後どうですか? 意識の方は?」
《まだ、予断を許しません。また、血圧が下がっているんです》
「助けられそうですか?」
《・・・・何とも》
歯切れが悪い。厳しい状況が伝わってきた。
「できる限りのことをお願いいたします」
《もちろんです》
携帯を切ると、みどりが新しいホットウイスキーを持ってきた。
「どうだった?」
「鮎美は、やはり性転換した男だそうだ」
「やっぱり」
中条は写真を見つめた。井上裕人が、両親と妻子を殺された復讐に峰を殺したと言うみどりの理論は正しいように思える。
「確かにおまえの推測通りのような気がする。しかしそうだとすると、井上裕人は何故性転換までして女になっていたんだ? そんなことをしなくても復讐はできただろう?」
「女になって峰に近づくため」
「峰の養女になって1年半、それ以前から愛人関係にあったんだぞ。もっと前にチャンスはあったはずだ」
「証拠集めをしてたんじゃないかしら? 女になったのは証拠集めが楽だったのかもしれないわね。証拠がなかったら、いくら何でも人は殺せないわ」
「それもそうか・・・・。しかし、いくら仇を取るためとは言っても性転換までするか? 女装して女性事務員になりすまして調べるだけでいいんじゃないか?」
「見破られる危険があるわ」
井上裕人が性転換して女になったのは、みどりの言うように峰を油断させるためか? 油断させておいて証拠を掴もうとしたのか?
「だとしても、愛人にまでなるか? 憎い仇に抱かれなきゃいけないんだぞ?」
「懐に飛び込むため。虎穴に入らずんば虎児を得ずよ」
「みどり、この写真の鮎美だが、峰に復讐しようという目じゃないと思うんだが、どう思う?」
みどりは写真をもう一度見つめた。
「そうねえ。まるで仲のよい親子に見えるわねえ」
「ホントに殺された家族の復讐だったんだろうか?」
「峰が井上裕人の家族を殺したという証拠はないのね?」
「ないな。それにだな、もし峰が殺したとして、何のために殺したかだ。井上裕人の両親はただの農家の夫婦で峰建設とは何の関わり合いもない。妻子もだ。唯一の関わりは、井上裕人が峰と同じ建設関係の会社に勤めていただけだ」
「ふうん。家族の死は関係なくて、井上裕人が性転換したのも、峰の愛人になったのもたまたまで、養子縁組を解除されるって言われてカッとして殺したってことかな?」
「わからんなあ」
養子縁組解除申請書の存在が重くのし掛かってきた。養父を殺す動機としては、納得できるのだが・・・・。
けれど、中条としては、何かが引っかかって、それですませられなかった。事件の真相を考えながらホットウイスキーのお代わりをみどりに頼む。客がやってくる様子はない。
「そろそろ閉めようかしら?」
みどりが中条の方を見て呟いた。みどりが中条を誘っているのは間違いなかった。中条はその誘いに乗ろうかと考えていた。
コートに収めた携帯が鳴った。O中央署の代表番号が表示されていた。
「ハイ、中条です」
《中条さん、峰鮎美は男だって?》
大森だった。
「どこから聞いた?」
《中尾病院の菊池って言う医者が電話をかけてきたんですよ。それを聞いた北島がそうかって大きな声を出すんですよ。どうしたんだって聞いたら、鮎美のマンションのガサ入れをしたとき、違和感があったんだそうですね。その違和感がなんだったかわかったって言うんですよ》
「その違和感って言うのは、なんだったんだ?」
《生理用品ですよ》
「生理用品?」
《そうです。若い女性が住んでるのに、生理用品がなかったんで、違和感を覚えたんだそうですよ》
「そうか。で? 菊池医師が電話をかけてきたのは、そのことを伝えるためだけなのか?」
《いえ。鮎美本名を知りたいって言うんですよ。鮎美が男だったってことはこちらでは初耳でしょう? わからないって答えたら、中条さんが鮎美は男だって知っていたらしいって言うから、もしかしたら中条さんなら鮎美の本名を知っていると思ってかけたんです》
「鮎美の本名が何故必要なんだ?」
《死んだんです》
「死んだ!」
《そうです。彼女と言うか彼ですかね、つい10分ほど前死んだそうです。それで、死亡診断書を書くために必要なんだそうです》
「菊池先生とはさっき話したばかりだぞ。容態が少し悪いとは言っていたが」
《急変したんだそうです》
「そうか・・・・」
《中条さん、鮎美の本名を教えて下さい》
「井上裕人だ」
《井上裕人? 井上裕人って、行方不明になっている?》
「そうだ」
《どうしてわかったんですか?》
「鮎美のマンションで見つけた親子の写真と鮎美の写真を見比べていてわかったんだ」
まるで中条が気づいたように言ったから、みどりが頬を膨らませて中条を睨んだ。
《峰聡太郎を殺したのは峰鮎美で、峰鮎美は井上裕人ですか? と言うことは、もしかしたら、井上一家の死に峰聡太郎が関係していて、そのことを知った鮎美がその復讐のために峰を殺した可能性がありますね?》
「ああ。そのことは俺も考えていたんだ」
《中条さんもですか? きっとそうですよね?》
「だがな。もし、そうだとすると、峰はいったい何のために井上一家を殺害したのかと言うことだ。リスクを犯すだけで何のメリットもないんだぞ」
《そうですねえ・・・・。でも、この線はいいような気がするんですけどねえ?》
「鮎美が峰を殺したのは間違いなだろうが、峰が井上一家を殺してしまったという証拠は何もないんだ。それに、鮎美は数年に渡って峰の愛人として何不自由のない生活を送っていたんだ。今更何故復讐なんだ? 理屈が通らない」
《誰かが鮎美に教えたとか?》
「いったい誰がだ?」
《さあ・・・・》
中条の脳裏に牟田という文字が浮かんだ。牟田なら何かを知っているかもしれないと考えていた。しかし、そのことは口には出さなかった。牟田の口が堅いという加藤の言葉を思い出したからだ。
「そんなんじゃあ、調書が書けないじゃないか」
《それもそうですね。じゃあ、どうするんですか?》
「井上一家の死が他殺かもしれないと言うことは我々の想像にすぎないんだ。そうだろう?」
《まあ、そうですね》
「だから、井上一家の死と今回の事件とは切り離して考えよう」
《そうすると、調書はどうするんですか?》
「ひとりになった井上裕人が生きるために性転換して女となり、峰総太郎の愛人兼養女・鮎美となった。ところが、何らかの理由で、もしかすると男であることがばれたのかもしれない。ともかく、養子縁組を解除すると言われる。そこでかっとなった鮎美は峰聡太郎を殺害した。いったんは逃げだした鮎美だったが、後悔して自分の家族の眠る墓の前で自殺した。そうするんだ」
《それでいいんですかねえ?》
「それで辻褄が合うだろう? そうするしかないんだ。何度も言うが、峰が井上一家を殺したという証拠は何もないんだから、そうするしかないんだ」
《はい。しかたないですね。じゃあ、名前の方は、菊池医師の方に伝えておきます》
「うむ。鮎美が男だったことはいずれマスコミにも知られるだろうが、しばらくは伏せたままにしておいてくれと菊地医師に伝えておいてくれ」
《わかりました。あ、それから、加藤さんからの伝言です。牟田とか言う男が入院したそうです》
「なに? 牟田が入院? どうしてだ?」
《なんでもひどい胃癌で、吐血したらしくて、今夜が山らしいですよ》
「胃癌・・・・、今夜が山・・・・。そうか。ありがとう」
電話を切った。実は、中条は牟田を何とかして問いつめればと考えていたのだが、これで鮎美が峰を殺した動機は完全に闇の中になったとホントに力が抜けたのだった。
「それでホントにいいの?」
「井上裕人が死んでしまった以上、どうしようもないさ。それに牟田が死んでしまえば、証拠は皆無だ。主義には反するけれど、こうするしかない」
中条は深い溜息を吐いた。
「事件が片づいたのなら、今晩は暇でしょう? お客も来ないようだから、上に上がりましょう?」
返事を待たずに、みどりは嬉しそうに看板の灯を消してドアに鍵をかけた。中条は、階段に通じる暖簾をくぐっていった。
(真相は永久に闇の中だ)
ちょっと悔しいが仕方がないと中条は諦めた。