第10章 意識不明の容疑者と井上家の関連を求めて

 B市はT岳を背にして東に広がる扇状地に存在する。東側にはB湾が広がっている。海岸方向に坂を下っていくと、海岸線に国道10号がある。国道に出て左折しB署に寄って、井上裕介・真知子夫妻の事件調書を見せて貰った。検死所見には矛盾点はなく、調書から見れば、何も事件性はないように思えた。それからふたりはH町へと向かった。
 海岸線に沿って走る10号線を北上していくと堀交差点がある。この交差点を過ぎてしばらく行った右手に真新しいH署が建っている。H署は以前は堀交差点にあったのだが、最近新築移転したばかりだ。10号線を下ってくる車が多く、なかなか右折できない。信号の変わり目を狙って、ようやくH署の駐車場へ車を入れることができた。
 「何かご用でしょうか?」
 受付嬢はニッコリと微笑む。警察署の受付嬢といえば、昔はブスッとしていて評判が悪かったが、最近の警察署は雰囲気が変わったなと中条は思った。
 「O中央の中条です。5年ほど前のひき逃げ事件の件について、ちょっと調べたいことがありまして」
 「O中央署の中条様ですね。少々お待ちを」
 受付嬢が受話器を取ってダイヤルを回す。
 「奥へどうぞ」
 奥へ進んでいくと、交通の課長らしい男が立ち上がって、中条たちに挨拶をした。その表情が硬い。
 「交通の長岡です。どういうことでしょうか?」
 ソファーを勧めながら、長岡と名乗った課長が口をへの字にする。
 「平成11年10月7日、井上亮ちゃんという2才の子どもさんがひき逃げされていますが、ご存じですか?」
 「平成11年というと、わたしはここにはいなかったのでわかりかねますが、で、そのひき逃げ事件がどうかしましたか?」
 言葉がきついなと中条は感じ取った。他署のものが自署で起こった事件に首を突っ込んでくることを嫌ったものだろう。中条たちだって、こんな状況になれば、いつも感じることだから仕方がないのだ。
 「実はO市で起こった殺しと関連がありそうでしてね」
 そう言うと表情が緩んだ。
 「殺しというと、あのモーテル殺人事件ですか?」
 中条は頷いた。
 「すぐに書類を用意させましょう。おおい! 平成11年10月のひき逃げ事件についての書類を頼む。井上亮って子どもの分だ」
 声をかけられた署員が、棚の中を捜し始めた。
 「ありました。これですね」
 署員が長岡に分厚い書類を手渡す。長岡は、井上亮のひき逃げ事件の部分を開いて一瞥してから中条に手渡した。
 「未決のようですね」
 「ふむ」
 受け取って、中条は書類に目を通した。最初のページに貼られていた被害者の写真を見て、中条は小さく溜息をついた。
 「中条さん、やはりあの写真の子どもですよね?」
 「うむ」
 中条は調書に目を移した。事件発生時刻は、平成11年10月7日午後6時前後。住居近くの町道で軽トラックに敷かれたものだ。井上亮は即死。軽トラックは、H町のリゾート地である糸が浜にある国民宿舎の駐車場で発見されたが、その日の午後B市で盗まれた盗難車両だった。盗難車両の持ち主はちょうど事件発生時刻頃、盗難届を提出するためにB署にいたとのこと。事件とは無関係と判断されている。
 「ちょっと妙ですな」
 長岡が呟く。中条は添付されている現場周辺の地図をなぞる。
 「10号線か、あるいは213号線というのならわかりますけど、B市で車を盗んでこの道に入り込むなんておかしいですね。まるで・・・・」
 「井上家に恨みを持つものの犯行ではないかと調べてはいるようですがね」
 長岡が横のページを指さして言った。そのページに書かれている記述によれば、父親である井上裕人と、母親である井上霞の交友関係も調べられているけれど、恨みを持つ人物はいなかったとのことだった。
 「母親は、このあと入水自殺したと聞きましたが」
 「防犯の方に資料があるでしょう。ご案内しましょう」
 交通課長は興味を持ったらしく、部下に席を外す旨を伝えて、中条たちを連れて生活防犯課へと赴いた。
 「水田課長、ちょっといいかな?」
 「おう、なんだ?」
 水田と呼ばれた細面の防犯課長は書類から目を離して、中条たちを見上げた。
 「自殺した日はわかりますか?」
 長岡が中条のほうを振り返って尋ねるので、警察手帳で確かめて平成11年10月20日だと答えた。
 「井上霞という女性が入水自殺をしているんだが、その資料を見せてくれないか?」
 「何か不審な点でも?」
 ここでも水田は少し眉をひそめた。
 「O市の殺人事件と関係があるらしいんだ。そうでしたね?」
 中条に向かって確認する。中条は頷いた。
 「ああ、そう。ちょっと待って」
 例によって部下に資料を捜させ、自分は中条たちに向かって調査に来た理由を根ほり葉ほり聞くのだった。
 「ほう。井上家の墓の前で自殺未遂? そりゃ、何かありそうですね。ひき逃げと言い、祖父母の死因にも不審な点がありますなあ」
 腕組みをして水田という課長はコメントした。
 「資料をお持ちしました」
 中条はまず井上霞の写真を見た。写真に写った女性と同一人物だった。
 「井上家の3人ということは間違いないな」
 「そうですね」
 井上霞の調書は簡単なものだった。
 「検視結果によれば、潮に流されてできた外傷の他には、際立った外傷や暴行の跡はなしと言うことですね」
 「覚悟の入水自殺と判断されたようですね。他の3人の件がなければ、これはこれで終わった事件ですが・・・・」
 水田という課長も臭いと睨んだようだ。
 「井上親子が住んでいたあたりの聞き込みをしたいのですが、地理に不案内ですし管轄外でもありますので、誰か付けて頂けるとありがたいのですが」
 B市では許可なしに聞き込みをやったけれど、ふたりの課長を目の前にしているので、一応筋を通すことにしたのだった。
 「よろしいですよ。おい! 三浦!! このおふたりの捜査に協力してやってくれ」
 三浦という若い刑事がやってきて中条たちに挨拶をした。中条たちは自己紹介して、あらましを説明してから署を出て藤原という場所にあるアパートへと向かった。

 平屋建ての粗末なアパートが3軒並んで建っていた。調書で覚えていたひき逃げの場所は、土地鑑のあるものでなければ入らないような道だった。
 (ただのひき逃げではない。作為を感じる。要するに、殺意があって井上亮をひき殺したのだ)
 そんな確信めいたものが中条の中に生まれていた。ひき逃げ現場あたりをうろうろしていると、主婦らしい3人組がこそこそと話をしながら中条たちの方を見ていた。早速事情聴取することにした。
 「すみません、警察のものですが、ちょっとお話を聞かせて頂けますか?」
 主婦たちは、警戒心と好奇心が混じり合った表情を見せた。捜査に置いてはだいたいみんなこんな態度を見せる。
 「何でしょう?」
 リーダー格の女性が返事をした。
 「このアパートに住んでいた井上裕人さん一家についてお聞きしたいのですが。ご存じでしょうか?」
 「井上さんですか? よく知っていますよ。亮君、可愛かったのに・・・・。霞さんも後を追って・・・・」
 30くらいになる若い母親が涙ぐんだ。
 「ここには部外者の車がよく通るのですか?」
 「この道の突き当たりが行き止まりになってるでしょう? だから、アパートに住んでる人以外の車なんて滅多に通りませんよ」
 少し山手になっているあたりを指さしながら説明した。中条は大森に確かめてくるように指示した。
 「どうしてこんな場所に車が入ったんでしょうね?」
 「亮ちゃんを轢いた車、盗難車だったんでしょう? ここまで逃げ込んで、行き止まりだったから、慌てて引き返そうとして轢いちゃったんじゃないかって言ってたわ」
 その考えもあるかと中条は思った。が、ここまでの道のりを考えると、その説明はどうも不自然に感じられるのだ。土地鑑がなければ入れないような道なのだ。
 「亮君の母親が、入水自殺を図っていますね。これについては?」
 「霞さん、亮君をひき殺した人間を絶対許さない、この手で捕まえて殺してやるって言ってたわ。だから、悲観して自殺したなんて信じられなくって・・・・」
 そばにいたもうひとりの女性も頷いていた。中条は写真を取り出す。
 「亮君はこの子ども、霞さんはこの女性に間違いないですね」
 「はい」
 3人の主婦が声をそろえた。
 「これが、ご主人の井上裕人さんですね?」
 「そうです。ねえ?」
 「そうよ。このひとが井上さんのご主人よ」
 「夫婦仲はどうでしたか?」
 「仲がよかったですよ。高校の同級生だって言ってました。ねえ?」
 「そうだった?」
 残りのふたりは首を振った。
 「井上さんの親戚に、同じ年齢くらい、せいぜい30過ぎくらいの女性はいませんでしたか?」
 見たことないわねと3人は顔を見合わせた。
 「井上裕人さんは今はどうしてます?」
 「さあ、引っ越しちゃったから」
 3人が顔を見合わせる。
 「引っ越した? いつ、どこへ?」
 「引っ越したのは、ご両親の一周忌が終わってからだったわね」
 と、ひとりが答えたが、
 「そうだったかしら?」
 もうひとりは首を傾げた。
 「そうよ。年度末で会社を馘首になったとか言ってたわ」
 「あ、そうそう。そうだったわね」
 そうそうと3人が首を縦に振った。
 「どこへ引っ越したかわかりますか?」
 「さあ・・・・。知ってる?」
 もうひとりの女性に尋ねる。
 「知らないわ」
 「東京に行ったんじゃないかしら?」
 ほとんど頷いてばかりいた女性が口を挟んだ。
 「どうしてでしょう?」
 「このアパートを引き払った直後だったと思うけど、O空港に親戚を見送りに行ったとき、井上さんを見かけたわ」
 「誰かの見送りだったとかでは?」
 「いえ、東京行きの切符を持っていましたから、東京に行くんだなって思ったんです」
 「そうですか。それは貴重な情報をありがとうございました。井上さんが勤めていた会社の名前をご存じですか?」
 「えっと、確か、大杉建設とか言ったわね」
 「大杉建設!」
 みどりの店で会った男が社長をしている会社だった。
 「そうか、あの男の会社に勤めていたのか・・・・」
 「知り合いですか?」
 三浦と大森が中条の顔を覗き込む。
 「顔を知っているという程度だ。馘首になった経緯を聞きに行ってみよう。じゃあ、どうも皆さん、ありがとうございました」
 礼を言って、同行してきた三浦刑事の案内で大杉建設へと向かった。

 いかつい男3人が入ってきたと言うことで、大杉建設の椅子に座っていた連中は少し身構えた。
 「O中央署の中条と言うものだが、社長は、いるか?」
 刑事とわかって、別の緊張が走った。
 「奥にいるが、何の用だい?」
 男たちのうち、最も年長と思われる男が立ち上がって尋ねてきた。
 「以前勤めていた従業員のことについて、ちょっと聞きたいことがあるんだが?」
 「自分じゃいけませんかい?」
 「社長に直に聞きたいんだ」
 「ああ、そう言うこと。なら、少しお待ちを」
 角刈りの男が奥のドアを開けて、何やら言っていた。すぐに大杉が出てきた。
 「以前勤めていた従業員のことでお尋ねとか?」
 そう言いながら、中条の顔を見て首を傾げた。中条の顔を覚えているのだろう。ま、どうぞと中条たちにソファーに座るよう勧めて、従業員にお茶を注文した。
 「平成12年の春までここに勤めていた井上裕人さんのことなんですがね」
 「井上? ああ、あの井上ね。井上がどうかしましたか?」
 中条の顔を見ないで答えたことに何かありそうだと中条は感じた。
 「ちょっと聞きたいことがあって探してるんですが、どこに行ったかご存じではないでしょうか?」
 「さあ。辞めたヤツの行き先までは・・・・」
 「そうですか。辞めたと言うよりも馘首になったと聞きましたが?」
 「誰がそんなことを?」
 「さる筋から」
 情報の入手先は言わないのが、警察のルールだ。
 「やっこさん、両親が立て続けに死んで、しかも、可愛がっていたガキはひき逃げされるわ、女房は海に飛び込んで死んでしまうわで、仕事が手に付かなくてね。ミスばかりするんで、気の毒とは思ったんだが、辞めて貰ったんだよ。事情はわかるが、こっちだって慈善事業で仕事をやってる訳じゃないからね」
 と、吐き捨てるように言った。
 「辞めたあと、どこに行ったか、ホントにご存じないんですか?」
 「知らないって言ってるでしょうが!」
 やはり中条から目を逸らしたまま答えた。
 「ふむ。そうですか。お邪魔しました」
 大杉は何かを隠しているような気がしたが、追求しても白状しないだろうと思ったので、その場は引き上げることにした。明確に犯罪が存在するとの確証がない限り、無理強いはできないのだ。

 中条たちは、H署に戻って礼を言い、O市に戻って調べてきたことを課長に報告した。
 「井上家の4人の死因にはかなり不自然なものを感じます。もし、峰聡太郎がこれらの死亡に関与していたとして、鮎美がその復讐をしたと考えれば、辻褄が合うのですが」
 「井上家の墓の前で自殺を図ったことも理解できるというわけか?」
 「そうです」
 「不自然さはあるにしても、4人の死が他殺と断定できる根拠はあるのか?」
 「あ、いえ、いまのところは・・・・」
 「もし他殺だとしたら、裏を取らねばならんし、鮎美と井上家の関係も明らかにしなければならないな。そうでなければ、ただの想像だ。そうだろう?」
 「そうですね・・・・」
 これまで調べた限りでは、その証拠はまったくない。想像や憶測と言われれば反論のしようがないのだ。
 「養子縁組解除に怒り狂って凶行に及んだという方が余程説得力がある」
 「しかし、それでは井上家の墓の前で自殺を図った説明が・・・・」
 「そんなもの説明する必要が必ずしもあるとは思わないがな」
 そう言われれば身も蓋もないと中条は思う。
 「ともかく裏を取ってみます」
 「どうするんだ?」
 「井上裕人が鮎美のことを知っていると思うのですが、行方がわからなくなっています。彼を見つけ出せればと思うのですが」
 「どこに消えた?」
 「O空港で東京に行くのを見たという女性がいますが、その後はぷつりです」
 「東京か・・・・。それじゃぁ、見つけ出すのは難しいな」
 中条は頷いた。井上裕人が何らかの犯罪に関与していれば指名手配でもできるのだが、ただの参考人では、そうするわけにもいかないのだ。

 中条は、中尾病院を訪れた。峰鮎美の意識は、まだ戻っていなかった。中条は、鮎美の眠っている顔を見て美しいと思った。菊池医師や看護婦がいなければ、その唇に思わず吸い付きたくなるほどだ。
 (鮎美、峰を殺した動機は何なんだ? 教えてくれ!)
 昏睡状態の鮎美には中条の気持ちは通じない。
 「意識は戻りそうですか?」
 「まだ、なんとも・・・・。死亡は何とか回避できそうな気はしますが・・・・」
 菊池医師は、自信なさげに言った。。
 「是非助けてやって下さい」
 「助けたら、罪を償わなければならないのでしょう?」
 「それは当然ですが、わたしとしては彼女がどうして殺人を犯したのか知りたいのです。何か理由があるはずなんです」
 井上家のことを話そうかとも思ったが、中条は口に出さなかった。菊池に言っても仕方のないことだからだ。

 峰鮎美の意識が戻らない以上、中条の手で調べざるを得ない。
 (何から手を付けるか?)
 5年も前の事件だ。新たな証拠を得るのは難しいと思われた。しかし、当たってみるしかないのだ。
 (峰聡太郎自身がやったとは考えられない。そんな危ない橋は渡らないはずだ。となると、口の堅い部下にやらせたか、暴力団関係者に依頼したかだ)
 中条は、慣れない手つきで、ある男に携帯からメールを送った。