第9章 帰宅

 タクシーで着いた坂本家を見て哲雄はびっくりした。坂本家は、100坪以上、いや200坪近くあろうかと思える敷地に大きな家が建っていた。それもかなり豪華な家なのだ。門をくぐり抜けたとき見えた庭も立派だった。大きな池の中には鯉がたくさん泳いでいた。
 早田の家は、3DKの市営住宅だった。哲雄の置かれた状況を知っているものがいたら、哲雄が由美子を選んだのは財産目当てと勘ぐられてもおかしくない。
 (坂本の両親はどう思っているのだろうか?)
 哲雄が坂本家の経済状態など知りうる立場になかったことは両親は分かっている筈だが、そう思われているのではないかと考えると哲雄は何となく不安になった。
 「由美子さん。由美子さん・・・・で、いいわよね」
 「はい、もちろんです。お母さん」
 違和感は拭いきれないけれど、哲雄はそう答えた。
 「由美子さんはわたしのことをママと呼んでいたけれど、それでもいいわ」
 「いえ、それならわたしが変えます。ママはいつも由美子さんって、さん付けなんですか?」
 「そうだけど、おかしい?」
 母は小首を傾げた。
 「そうじゃないけど、わたしに気を使っているのかと思って」
 「気を使ってないと言えば嘘になるけれど、できるだけ以前と同じようにあなたに接しようと思っているわ。由美子さんこそ、無理をしているのじゃないの?」
 少し緊張した面持ちで母が言った。
 「ちょっとだけね。ママに対してというよりも、女の子でいようとする方が気を使うの。言葉遣いだけでももう大変」
 「ごめんなさいね。私たちのために」
 「ママ、わたしが早田哲雄だったことは忘れて。ほら、見て。この通りわたしは由美子でしょう? 早田哲雄はあの時死んだの。わたしは生まれ変わって由美子になったの。だから、わたしは今は坂本由美子。他の誰でもないわ。ママ、もう一度わたしを見て。わたしは以前と変わらないわ。そうでしょう? 記憶が少しないだけ。以前のようにわたしを愛して。お願いよ」
 「由美子さん、あなたはなんて優しいの」
 母は哲雄の肩を抱いてぼろぼろと涙を流した。
 (ぼくは坂本由美子。それでいいのだ)
 哲雄も涙を流していた。竹原は、坂本由美子の体のすべてを哲雄に移植したと言った。けれど、早田哲雄がこの体に占める割合は二十分の一以下だ。坂本由美子の体に早田哲雄の一部が移植されたと考えた方が合理的だし、実際にそうだ。移植された早田哲雄の一部に心が、人格があっただけだ。哲雄はそう考えていた。

 「由美子さん、あなたの部屋に案内するわ。二階に上がって」
 母がとんとんとんと階段を上っていった。哲雄はその後を追った。
 「随分大きなお家だけど、三人だけで住んでるの?」
 「そうよ。パパとママとあなただけよ」
 振り返って母が答えた。
 「パパはお仕事何してるの?」
 「不動産関係の仕事よ」
 「お金持ちなの?」
 「そうでもないわよ。一般のサラリーマンよりは収入が多いかもしれないけど」
 「そうなの」
 そうでもなさそうだと哲雄は思った。家の作りはもちろんのこと、調度品も並ではない。それに母の着ているものもブランド品のようだし、指にしたダイヤもサファイヤも本物に違いなかったからだ。
 案内された由美子の部屋を見て哲雄は唖然とした。二十畳くらいの洋室にふかふかの絨毯が敷き詰められていた。部屋の右隅にフランス人形が上に置かれた豪華なピアノがデンと座っている。左の方には三十二型のテレビが中央に置かれたリビングボード。ビデオデッキにLDデッキ。高級そうなビクターのミニコンポ。哲雄が欲しかったものがほとんど全てあるのだ。ビデオのソフトもLDのソフトも山のようにある。CDは数え切れない。本棚には百科事典、美術全集などなど。手塚治虫の全集、ベルサイユのバラも並べられている。窓際に豪華な机が置かれていて、女の子らしく飾られていた。電話も置かれてあった。
 「あ、それ。由美子専用だから」
 「専用なの?」
 「ええ。番号も違うのよ」
 上のは上があるだろうけれど、哲雄の感覚からすれば、すごいのひと言に尽きた。
 「わたし、ピアノが弾けるんですか?」
 「かなりうまかったんだけど、中学三年で習うのをやめてからは、ほとんど弾いてないわね」
 「どうしよう。ピアノなんか触ったこともないわ」
 不安になって母を見た。
 「由美子さんは人前では弾かなかったから大丈夫よ」
 「良かった」
 「もし弾きたかったら、先生にレッスンに来て貰いましょうか?」
 「弾いてみたい気はするけど、やっぱり止めとくわ」
 「もしその気になったらいつでも言ってね」
 「はい」
 「この部屋があなたの寝室よ」
 続きの部屋が寝室になっていた。十二畳くらいはある。キンキ・キッズの大きなポスターがべたべたと壁に貼られていた。大きな熊の縫いぐるみが置かれた豪華なベッド、そしてドレッサー。ドレッサーの上にはたくさんの化粧品が置かれていた。
 「この化粧品は、わたしのなの?」
 「そうよ。由美子さんは、学校へ行くときはしてなかったみたいね。同級生はみなさん薄化粧程度はしていたみたいだけど」
 「高校生なのに?」
 「由美子の学校は、化粧に関してはそれほどうるさくないみたいね」
 「信じられない。女子高生が化粧して学校へ行くなんて」
 「今は由美子さんの方が例外みたいよ。でも、由美子さんも私服の時は結構していたわね」
 「そうなの」
 (由美子が化粧して学校へ行ってなくて良かったな)
 哲雄はホッとしていた。哲雄は化粧なんて出来ないし、したこともなかったからだ。
 (そのうち覚えなければならなくなるだろうけど・・・・)
 「この衣装ダンスの中のものは外出用。端の方に通学用が入っているわ。こちらのタンスの中は普段着。それから、これには下着類が入っているわ。後で見ていてね」
 「これ全部わたしのなの?」
 タンスの中を覗き込んで哲雄は、唖然としていた。
 「そうよ。足りないものがあったら、すぐ買ってあげるから遠慮なく言ってね」
 「足りないものなんてないみたいよ」
 「流行遅れのものは着たくないでしょう? ほんとに遠慮しないでね。あなたのためにはお金は惜しまないわ」
 「ほんとにいいの?」
 「心配しないで。あなたが帰ってきてくれたんだもの。お金には代えられないわ。さあ、セーラー服脱いで、普段着に着替えて。お茶入れるから下に降りてきて」
 「はい」
 着替えてと言われたけれど、哲雄には何を着たらいいのか分からない。普段着のタンスを引っかき回す。ぴらぴらの飾りの付いた赤やピンクのブラウス、キャミソールドレス。
 (どれもだめだ)
 薄いベージュのTシャツをやっと見つけだした。胸元に可愛らしいリボンが付いているが、これなら着られそうだと哲雄は判断した。
 それから下に穿くものを探した。
 (どうしてジーンズがないんだ)
 丈の短いスカートだかりだった。病院でジーンズはないのかと母に聞いとき、母は取りに戻ろうとしていたから絶対ある筈だ。そう思って探しているのに見つからなかった。
 (困っていても仕方がない。この丈の短いセーラー服が着られたじゃないか)
 思い直して、哲雄はセーラー服を脱いで、Tシャツを身につけ、取り出した中で丈の一番長いスカートを穿いた。それでも膝小僧が出ていた。
 哲雄がなかなか降りていかないので母が顔を出した。
 「由美子さん。そのTシャツにそのスカートは合わないわ」
 そう言って出してくれたスカートは、太股の中程の丈しかなかった。哲雄がジーンズはないのと聞く前に母は階下に降りてしまった。母が選んでくれたのだから、断るわけにもいかず、哲雄はその短いスカートを穿いて下に降りた。
 (由美子はこんなスカートを穿いて外に出たのだろうか? ぼくはとても出られそうもない)
 そう思いながらソファーに座ると、母がちょっと不満そうな表情を見せた。
 「由美子さん。座るときは膝を揃えてね。ショーツが見えちゃうわよ」
 「あっ、はい」
 膝を揃えていてもパンティーが見えそうだ。座ったら、スカートが随分上にずり上がっている。
 「その格好で人前に出るときは、ハンカチか手をスカートの裾の所に置いておくの。短いスカートを穿くときの身だしなみよ。少し斜を向いてもいいわ」
 「こんな短いスカートなんて穿かなければいいのにね」
 「ファッションだから、しょうがないわね。そのうち慣れるわよ」
 「分かりました。女の子は大変ね」
 「そうよ。女はいろいろと制約が多いの。さあ、由美子さんの好きな山田屋のチーズケーキよ。一度お見舞いに持っていったでしょう? 今朝病院に行く前に買っておいたの。たくさん食べてね」
 ケーキ皿の上には、見覚えのある小さなチーズケーキが乗っていた。哲雄はフォークでその一つを口に運んだ。
 「おいしい!」
 「そうでしょう。由美子さんのおやつはいつもこれなの。いつもダイエット、ダイエットだったけど、このチーズケーキだけは食べたのよ」
 「これ、ハーブティー?」
 「そう、我が家オリジナルよ」
 哲雄はカップを手にとって一口飲んでみた。
 「何だか、懐かしい味がする」
 「・・・・」
 「どうしたの、ママ。涙なんか」
 「ほんとに由美子が帰ってきてくれたのね」
 「そうよ。何度も言ってるでしょう。もう涙は流さないで。お願い」
 「・・・・もう一杯入れるわね」
 「うん」
 初めて飲んだ筈の坂本家オリジナルのハーブティー。間違いなく以前飲んだことがあると哲雄は感じた。ほっとするような懐かしい味。母の愛情のこもった味がしたと。

 お茶が済むと、お手伝いはまだ良いからと言われて、哲雄は二階へ追いやられた。しかたなく、哲雄は部屋の中をこまごまと調べて回った。
 由美子はかなり几帳面らしいことが分かる。本棚の本は順番にきちんと並べられていた。CD、LD、ビデオもタイトル順に並べられている。しかも上下も揃えられていた。少し神経質なくらいたと哲雄は思った。机の中もそうだ。
 (ぼくはこんな風にはとても出来ないな)
 寝室に入って、クローゼットやタンスの点検をした。
 (一人娘とはいえ、ちょっと贅沢させすぎじゃないのだろうか。呆れてしまうな)
 外出用の服は全部ブランド品らしかった。それも三十着以上はあった。バッグも数え切れないほどで、普段着なんて売りに行くくらいあった。
 下着類の入ったタンスを開けるときは、哲雄はちょっとどきどきした。
 (ぼくはまだ男の気分が抜けていない)
 引き出しを開いてみる。
 (女の子って、パンティーがどうしてこんなに必要なんだろう。由美子が特別なのかな?)
 小さく畳まれて五十着以上あった。ブラジャーもいろいろな色や形のものがいっぱい入っていた。下の段を開いてみたら、色のそろったブラジャーとパンティーが十数着。欲しいと言ったらもっと買ってくれると言っていた。
 (信じられない・・・・)
 母は台所で何かごそごそやっていた。哲雄は由美子の日記をもう一度読み直すことにした。
 日記は二冊あった。一冊目は小学校三年生から始まっている。同級生と遊んだとか、両親と旅行に行ったとか、綺麗な文字で書かれている。島津美智子という同級生とはよく喧嘩しているが、親友と言うべき存在らしい。萩原将太という男の子は、近所の幼なじみだ。由美子の方が数ヶ月年上のようだが、どうも由美子は萩原将太に気があるらしいことが読みとれた。
 二冊目は小学校六年生から。修学旅行の思い出、中学校への入学、二年先輩への淡い思い、初潮、胸の膨らみ始めた頃の戸惑い。女になっていく課程で、萩原将太と次第に疎遠になっていった経緯が書かれている。
 日記は中学三年の夏休み直前で終わっている。二,三日に一度は書かれているから、三冊目があるはずだと哲雄は判断した。
 部屋の中を隅から隅まで探してみたが見つからなかった。
 (おかしいな。日記を書くのを止めたのだろうか? そう言えば、日記の終わりの方で、初恋の先輩が別の女性とつき合っていることが分かって一晩中泣いたと書かれてあったっけ。それが日記を止めた理由なのかもしれないな)

 車庫に車の入る音が聞こえてきた。時計を見るともう六時半になろうとしていた。車のエンジンが停まった。哲雄は急いで階下に降りていった。玄関のドアが開いて、坂本晋平、ぼくの新しい父が帰ってきた。
 「お帰りなさい、パパ」
 父は、靴を脱ぎかけたまま哲雄を見上げ、その場で固まった。目には涙が浮かんでいる。父は靴を脱いで哲雄に駆け寄ると、哲雄をぎゅっと抱きしめた。
 「由美子! よく帰ってきてくれた」
 どれくらいそうしていただろうか? 父は突然哲雄から離れた。
 「哲雄君。本当に由美子になってくれるんだね。本当に」
 「パパ。哲雄はもうこの世にはいません。もう二度とわたしを哲雄と呼ばないで。わたしは由美子です。わたしは事故で少し記憶をなくしただけ。だから・・・・」
 「本当だね。ありがとう。本当にありがとう」
 父の目から涙があふれ出ていた。哲雄も涙を流して父に抱きついた。

 「あなた。お食事の用意が出来てますわよ。着替えて早く食堂に来て! 由美子さんもさあ早く!」
 「由美子。先に行ってなさい。すぐに行くから」
 涙を拭いながら哲雄は食堂に行った。大きなテーブルに所狭しと料理が並んでいる。テーブルの中央に蝋燭の灯ったケーキが置かれていた。
 「今日は由美子のために腕に寄りをかけて作ったわ。どんどん食べて!」
 「ママ。このケーキは何?」
 「実は・・・・、今日は由美子さんの十八歳の誕生日なの」
 「わたしの十八歳の誕生日?」
 「そう。由美子さんの再出発の日は、誕生日の今日が良いだろうと思って、先生に頼んで退院を今日にして貰ったの」
 「そうだったの。ありがとう、ママ。今日は生まれ変わった由美子の再出発の日ね」
 父が着替えて食堂へやってきた。
 「由美子、おめでとう」
 「由美子さん、おめでとう」
 「ありがとう、パパ、ママ。これまでと同じようによろしくお願いします」
 「これまでと同じようにだな、由美子」
 母の料理はとてもおいしいと哲雄は感じた。まさにお袋の味だった。
 (由美子の体がそう感じるのだろうな)
 坂本由美子としての第一日目が終わった。パパの「これまでと同じようにだな」と言う言葉に妙な響きがあったなと感じながら哲雄は眠りに落ちた。

 目覚めたとき、哲雄は自分がどこにいるのかしばらく分からなかった。白い壁の病室ではなく、狭い哲雄の部屋でもなく、そこが由美子の部屋だと理解するのに数分かかった。
 枕元の時計を見ると七時十分を指していた。ふかふかのベッドから起き出し、パジャマの上にガウンを羽織ってベランダに出て伸びをした。外はまだ薄暗くて寒い。吐く息が真っ白になる。
 通りを見下ろすと朝早いというのに人影が見える。ジャージを着てせかせかと歩く二人連れ、ゆったり歩く老夫婦、ジョギングをする若い男。
 ふと、自分の髪の毛がまだ伸びていないことに気づいて、哲雄は慌てて部屋の中に飛び込んだ。ドレッサーの鏡を覗いてみた。十八歳の、化粧するには、まだ幼い顔が哲雄を見ていた。
 (化粧何かすると、却って肌の艶を台無しにしてしまいそうだよね)
 ただ、やはり髪の毛が短いのが気になった。
 (誰かに見られなかったかな)
 男だったら、これくらいのことは何てことないのだけれど、急に恥ずかしくなった。ヘアクリームを付けてブラシをかけてみたけれど、ぜんぜんうまくいかなかった。結局カツラをかぶることにした。
 (今日は何を着よう・・・・)
 哲雄は、タンスの引き出しを開いてみた。カラフルな服ばかりで、なぜか恥ずかしく顔を赤くしていた。
 (どうしよう・・・・。ええい、一番手前にある服を着よう)
 一番手前にあったのは、襟に花柄の入った可愛らしいデザインのブラウスだった。
 (これか・・・・)
 ブラウスを目の前にかざしてジッと見つめる。哲雄はそのブラウスを胸に抱いて、タンスの中を覗いてみた。似たり寄ったりのものが入っていた。
 (ま、いいか。何着てもいいんだ。この体なんだ。この体にふさわしい服なんだ。何を着ても堂々としていればいい。恥ずかしがることなんてないんだ)
 哲雄は、そう自分に言い聞かせてブラウスを着始めた。ボタンがかけにくく苦労した。男物と反対だから酷く着にくいのだ。
 (慣れるしかないな。さて、下は・・・・)
 哲雄はパンツにはこだわらないことに決めていた。だから、やはり最初に取り出した服を着ることにした。
 取り出した服を目の前に広げてみた。
 (この服、確か、ジャンパースカートって言ったっけ)
 足を通して背中のファスナーをあげてみた。膝が隠れるくらいの長さがあった。
 (これなら、あんまり恥ずかしくないな。外出だってできそうだ)
 カツラを被って、鏡に映してみた。
 (うん、よく似合ってるよ)
 くるりと回ってみた。スカートの裾がふわっと広がった。鏡に映った由美子が、哲雄に向かってにっこり笑って頷いた。