年が明けて最初に行われた採血検査、レントゲン検査には、どれも異常がなかったと竹原が哲雄に言った。
脳外科で、頭のMRIという検査も行われた。黙っていれば、専門のドクターが見ても脳移植の痕跡を見つけることができないだろうと執刀した友田は自信たっぷりに言った。
説明を受けて、手術が完璧に行われたことを喜んではみたものの、裏を返せば、医学的には哲雄が哲雄であるという証拠がないということに哲雄は気がついた。もしも哲雄の手術に関わった人たちが口を噤めば、脳移植手術が行われたという証拠がないのだ。
哲雄は考え込んだ。
(ぼくがぼくであることは、ぼくは知っている。けれど、それを証明する手段はない)
気違い扱いされるかもしれないよ、と言う竹原先生の言葉が哲雄の脳裏に蘇ってきた。
選択子はないのに、哲雄はどうしても決断できなかった。そうしているうちに二月になった。入浴後、哲雄は鏡に自分の姿を映してじっと見てみた。
(ぼくは哲雄だ)
そう呟きながら、自信を持ってそう言えなくなっている自分に哲雄は気づいていた。哲雄自身ですら、もはや哲雄であることを強く主張できなくなっていた。
「竹原先生、お話があります。聞いてくれる時間がありますか?」
哲雄は見回りにやってきた竹原を捕まえた。
「もちろんいいよ。何だい?」
快く竹原はパイプ椅子に腰掛けて、哲雄の話に耳を傾けた。
「ぼくはもうすぐ退院なんでしょう?」
「そうだな。医学的には退院しても何も問題はないよ。君は健康そのものだ」
「問題は、ぼくが今後どうするかですね。どう生きるかですね」
「・・・・そういうことだな」
腕組みをして、竹原は哲雄の顔をじっと見た。
「考えに考えました。どうすれば、ぼくだけでなく、家族にとっても良いのかを」
「結論は出たのかい?」
「まだ少し迷っていますけど、先生のおっしゃるように坂本由美子として生きるのがベターだという結論に達しました」
その言葉を聞くと、竹原は大きく頷いた。
「・・・・そう、それがいいだろうね。君の両親にはもう話したのかい」
「まだです」
「どう言うだろうかね?」
竹原は少し不安の表情を見せた。
「母は悲しむでしょうけれど、許してくれると思います」
「君のお父さんは、君の決定に委ねると言っていたから、大丈夫だろう。ただ、もし、君が坂本由美子として生きるにしても、ご両親には時々会ってあげることだよ」
「それはもちろんです。姿は変わっても、ぼくは早田哲雄であることには違いがないんですから」
「じゃあ、話をしてきちんと決まったら、退院と言うことにしよう」
「はい、お願いします」
「それはそうと、君は女子高生なんだから、もっと女の子らしくしないといけないね。言葉も仕草もね」
「・・・・はい。努力します」
これまでは、できるだけ女の子らしくならないようにしていた。けれど、由美子として生きる決心をした以上、女の子らしくしなければならないのだと哲雄は改めて思った。
数日後病室を訪れた哲雄の両親に、哲雄はごめんと謝り、坂本由美子として生きていく決心を伝えた。
「この姿だから、誰もぼくのことを早田哲雄だと思ってくれないんだ。だから、仕方がないんだ」
坂本由美子にならないでくれ、哲雄でいてくれ、と母は泣き叫ぶと思ったのに、意外に冷静に、仕方ないわね、と哲雄の母はぽつりと呟いた。その言葉に哲雄は呆然とし、少し悲しくなった。
「いつでも家に遊びに来てくれ。泊まれるように部屋も残しておくから」
哲雄の父親がそう言った。けれど、その言葉は、赤の他人に話しているように哲雄は感じ取った。哲雄の両親が病室を出て行くと、哲雄は急に寂しくなって、ぼろぼろと涙を流した。
哲雄の両親と入れ替わりに、坂本夫妻がやってきた。哲雄が由美子として生きる決意を伝えると、わあわあ泣きながら、ありがとう、ありがとう、と何度も哲雄に礼を言った。
このとき哲雄は、心の底から坂本由美子になりきろうと決断した。
(早田哲雄はもはや死んだのだ。この優しい二人のために生きてみよう。それがぼくに体をくれた由美子への恩返しだ)
それから一週間後に哲雄は退院することに決まった。倫理委員会を通していない今回の脳移植は、なかったことにしなければならないらしいと哲雄は青木さんからこっそり聞かされた。知っている人間は10人に満たないけれど、箝口令が敷かれているとも聞いた。哲雄が坂本由美子になることを選択して、関係者は一堂にほっとしているらしい。
今となっては、哲雄が早田哲雄であることを主張することは、気違い女のレッテルを貼られることに直結することになったのだ。
けれど、哲雄にとってもうそんなことはどうでもよかった。哲雄という人格を生かしてくれたことに感謝はしても、恨む筋合いはないのだから。
哲雄は脳死状態から奇跡的に回復した幸運な女の子、坂本由美子として坂本家へ帰ることになった。早田哲雄は、胆道閉鎖症が悪化したための肝硬変に僧帽弁閉鎖不全を起こしてた臓器不全を来して帰らぬ人となったとして、死亡診断書が作成され、翌々日葬式が行われるということになった。
(ぼくは、早田哲雄は死んだことになったんだな)
哲雄は、何ともいえない不思議な気分を味わっていた。
哲雄の新しい母となった坂本則子が翌日、由美子のアルバムや日記、友達からの手紙などを持って病室にやってきた。
「親戚やお友達の名前がわからないと困るでしょう?」
「あ、そうですね」
「これがお父さんの弟とその連れあい。あなたからすれば、叔父さんと叔母さんね。名前はね・・・・」
親戚の名前、仲良しだった同級生、幼なじみなどなど。親戚も友人もほとんどいなかった哲雄に比べて、むちゃくちゃに多いのだ。とても一週間では覚えきれそうもないと哲雄は思った。
哲雄がアルバムを見ながら四苦八苦していると、竹原が病室にやってきた。
「なにをやってるんだい?」
「坂本由美子の親戚とか友人の名前を覚えてるんです。多くて大変なんです」
「ああ。・・・・そう頑張らなくてもいいんじゃないか?」
「でも、名前がわからないと困るでしょう?」
「由美子が頭を撃たれたことはみんな知っているから、そのための記憶喪失ということにすればいいさ」
「はあ、なるほど。わかりました。そうします」
哲雄はずいぶん気持ちが楽になった。退院してからゆっくり学べばいいからだ。
「由美子さんとしてやっていけそうかい?」
「わかりません。けど、やらなきゃならないんです」
「・・・・そうだな。少し苦労すると思うけど、頑張ってくれよ」
「はい」
竹原が哲雄を助けるためにどれほど努力してくれたか、哲雄にはわかっていた。哲雄が竹原の提案を受け入れて由美子として生きることを決めてからも、何かと心配してくれていたのだ。
哲雄は、毎日竹原にありがとうと念じていた。
哲雄が、坂本由美子のアルバムを開いていると、セーラー服姿の女の子が二人、ドアを開けて入ってきた。
「先輩、もうすぐ退院だそうですね。おめでとうございます」
「おめでとうございます」
ふたりはそろって頭を下げた。
「あなた達、誰?」
アルバムに載っていない女の子たちが入ってきて、哲雄は一瞬戸惑った。
「一年後輩の川田淳子ですよ」
「わたし、同じく一年後輩の大森美子です。忘れたんですか? 悲しいなあ」
「ごめんなさい。ぜんぜん思い出せないの。名前も顔も」
哲雄は竹原のアドバイス通りに記憶喪失を装うことにした。
「同じサークルでいつもお世話になってたんですよ。思い出していただけません?」
「だめなの。本当にごめんなさい。わたし、以前の記憶がほとんどないの」
「記憶喪失なんですか?」
「そうらしいの」
由美子の母親から入る情報が全てではない。由美子の後輩が突然面会に来るなんて哲雄は思ってもみなかった。記憶喪失を装うというアイデアがなかったらどうなっていたことだろうとちょっと冷や汗が出た。それでもぼろが出たらどうしようと考えていたら、下田が検温にやってきた。
「あら、君たちどこから入ったの。ここは面会謝絶ですよ」
「看護婦さん、先輩はこんなに元気そうなのに、まだ面会謝絶なんですか?」
「先生の指示よ。守って貰わなければいけないわ。記憶がきちんと戻っていないから、いろんな人が一度にやってくると混乱するの。分かった?」
「分かりました」
「じゃあ、悪いけど、もう帰ってもらえるかな?」
「先輩、これ、飾ってください。退院したら、お宅に伺います」
「ありがとう。ごめんなさいね、思い出せなくて」
「きっと思い出せるわ。じゃあ、先輩さよなら」
「さよなら」
ふたりはかすみ草とバラの小さな花束を置いて帰っていった。由美子の母親が今度来たとき、由美子の属していたサークルと事やメンバーのことなどを聞いておかないといけないなと思いながら、由美子になるのも大変だと哲雄は少し後悔していた。
二月十三日、退院の日がやって来た。竹原は哲雄に二週間に一回必ず通院してくるように指示した。
由美子の母が、家に着て帰る服と新しい下着を持ってきた。パンティーは、哲雄が目が覚めたときからずっと穿いているから、すでに違和感はなくなっていた。けれど、ブラジャーを着けるときは哲雄は顔を赤くした。
(ああ、恥ずかしい)
「何を恥ずかしがってるの? あなたは女の子なんだから、恥ずかしがることなんてないわ」
「でも・・・・」
躊躇っている哲雄に手を貸して、母が哲雄にブラジャーを着けさせた。
「さあ、セーラー服を着ましょう」
母は、セーラー服を哲雄に手渡した。哲雄は、セーラー服はもちろん、スカートを穿くのも初めてだ。
(セーラー服だというのにどうしてこんなにスカートの丈が短いんだ。今時の女子高生はみんなこんなに短いスカートを穿くのだろうか? ブラジャーを着けたときよりずっと恥ずかしいよ)
スカートを手にしたまま、哲雄は母に尋ねた。
「これしか持ってきてないの? ジーンズか何かないの?」
「退院するのだから、ジーンズなんかじゃおかしいわよ。ワンピにしようかと思ったけど、あなたはまだ学生だから、それが良いと思って。いけなかったかしら?」
「セーラー服なんて着たことがないから」
哲雄は下を向いた。
「あっ。ああ、そうだったわね。ごめんなさい、気がつかなくて。どうしよう。他には何も持ってきてないわ。一度帰って持ってくるわ。待ってて」
「いいよ。これ、着て帰るから」
恥ずかしがっていても仕方がなかった。いずれスカートも穿かなければならないのだ。哲雄は今は立派な女の子なんだから。哲雄は、清水の舞台から飛び降りたつもりでセーラー服を着た。紺のハイソックスを穿いて、革靴も履いた。
(すうすうするなあ。まるでパンツ一丁で立ってるみたいだ)
短いスカートを見下げて、哲雄はため息をついた。ふと視線をあげると、母が涙ぐんでいた。
服装は整ったものの、哲雄はやはり病室の外に出ることを躊躇っていた。すると、母は外は寒いからと、上にコートを着せた。コートは踝までくらいの丈があった。哲雄はほっとして随分気が楽になった。
(これなら何とか外に出られそうだ)
髪の毛は5センチくらいに伸びていたけれど、哲雄は例のセミロングのカツラをして、母と一緒に竹原と看護婦に挨拶して病院を出た。今日は休みというのに青木も病院に出てきて、哲雄の新たな門出を見送った。
外気は冷たく、息が白くなった。久しぶり吸う外の空気はおいしいと哲雄は感じた。
(ぼくは生きている。生きて病院を出られた。少し違った形だけれど・・・・)
哲雄は母に促されてタクシーに乗り込んだ。