第7章 月経という苦痛の中で

 この頃になると哲雄はやたらとガスが出るのに悩まされていた。年頃の女の子としては恥ずかしいくらいなのだ。しかもすごくお腹が空くのだ。哲雄には女の子としての自覚はなかったけれど、やはり恥ずかしかった。
 「竹原先生、恥ずかしいんですけど、やたらおならが出て。それに、むちゃくちゃお腹が空くんですけど・・・・」
 「腸が良く動くようになったためだろうね。そろそろ食事を始めようか?」
 そう言われて、哲雄は手術後何も口にしていないことに気づいた。
 (この点滴すごいんだ)
 哲雄は、頭上でぽたりぽたりと落ちる大きなバッグを見上げながら、医学の進歩に感嘆した。

 退屈な時間が過ぎて、昼食の配膳車が回り始めた。
 (食事を出そうって言ってたけど、どんな食事が出るんだろう?)
 期待して待っていると、昼食が運ばれてきた。
 「はい、どうぞ」
 トレーにはふたつのお椀とオレンジジュースの紙パックが載っていた。配膳をしている補助看護婦と入れ替わりに竹原が病室に入ってきた。
 「あれ? 先生、何か?」
 「いや、哲雄君は術後初めての食事を取るんだろう? だから、誤嚥しないか心配でね。監視に来たんだよ」
 「すみません、ご心配かけて」
 「いいよ。さあ、食べてみて」
 促されて、哲雄はお椀の蓋を取った。一方には白く濁った重湯が、そしてもう一方には透明な液体が入っていた。
 「哲雄君の体は、3ヶ月あまり何も食べていないからね。急に堅いものを食べさせるわけにはいかないんだよ」
 言い訳がましい竹原の言葉を聞きながら、哲雄はスプーンで重湯をすくって口に入れた。少し熱い重湯が口の中に広がっていった。
 喉を動かして飲み込んだ。すっと喉を通りすぎていった。
 「大丈夫みたいだな」
 安堵の表情を浮かべて竹原が言った。
 「はい」
 「味は?」
 「結構美味しいです」
 お椀の蓋を開けたとき、哲雄はなんだこりゃと思った。けれども、口にしてみると、すごく美味しく感じたのだった。何も入っていないスープらしいものも口に入れてみた。重湯よりもさらに美味しいと感じた。
 「味覚もきっちりしてるんだ。ほう、すごいな」
 竹原が哲雄を見つめながら呟いた。

 夕食も流動食だった。不満だったけれど、哲雄は黙って流動食を流し込んだ。翌朝も流動食が出た。見回りにやってきた竹原に哲雄はいつまで流動食なんですかと尋ねた。
 「不満だろうけど、胃腸を慣れさせるためなんだ。2日ごと堅くなるように指示してある。つまり、今日いっぱい流動食で、明日は3分粥、明々後日は5分粥だ」
 「2日ごとですね・・・・」
 哲雄は小さなため息をついた。

 5分粥になった日の午後、哲雄は歩くときに使っていた歩行器から手を離してみた。足に力が入るようになって自力で歩けるような気がしていたからだ。
 (大丈夫かな? イヤ、大丈夫だよ)
 ゆっくりと右足を出した。
 「やった! 歩けるぞ!」
 左足を出す。まるで歩き始めた赤ん坊のように哲雄は懸命に歩いていた。
 「哲雄君、歩けるようになったのね」
 病室を覗いた青木が、哲雄の姿を見て感激の涙を流して哲雄を抱きしめた。
 「よかった、ホントによかったわ」
 憧れだった青木に抱きしめられて、哲雄はどぎまぎしていた。
 「先生に報告してくるわ」
 青木が病室を去ってしばらくすると、竹原がやってきて、歩いて見せてと命じた。哲雄は腰掛けていた椅子から立ち上がってゆっくりとしたペースで部屋の中を歩いた。

 哲雄は全粥の入った茶碗を見つめてため息をついていた。
 (由美子の胃は小さいのかな?)
 一生懸命食べているのに、とても全部は食べきれない。半分も食べるとお腹がいっぱいになってしまうのだ。
 出された食事を半分程度しか食べていなかったけれど、体重は順調に増えていた。術後初めて体重を量ったとき、身長が百六十三センチだというのに四十キロしかなかった。今は四十四キロ弱になっていた。
 「高カロリー輸液も併用しているからね。体重がもう少し増えたら、止めることにしような」
 「点滴がなくなったら、自由に動けますね?」
 「そうだね」
 点滴がなくなるのは嬉しかったけれど、食べる量が少ないのに止めてしまったら、やせ細ってしまうんじゃないかと心配だった。

 それから数日たって、哲雄は胸に違和感を覚えた。張ったような痛いような経験したことのないものだ。
 (女の子だからかな。でも、この腰の重さはなんだ?)
 哲雄は、検温にやってきた青木にこっそりと聞いてみた。
 「青木さん、胸に張るような痛みみたいなものがあるんです。それに腰も重くって・・・・」
 「え? そ、そうなの。そろそろ来る時期ね?」
 「はあ?」
 「哲雄君、あなた、女の子になったのよ。あなたくらいの女の子だったら、月のものがあるのよ」
 「月のもの・・・・」
 「そう。メンス。月経のこと。一般には生理って言われてるものよ」
 「生理・・・・」
 「前回は、哲雄君、体を動かせなかったから、わたしたちがやってあげたけど、これからは自分で処置をしないとね」
 「じ、自分で処置するって言っても・・・・」
 「ちゃんと教えてあげるから」
 青木はそう言って病室を出て行き、しばらくしてパンツと小さな袋を持って哲雄の病室に戻ってきた。袋を破って、中にあるさらに小さな袋を取り出して中身を出した。
 「これが生理用ナプキン。裏にあるテープを剥いで、サニタリーショーツに貼り付けるの。貼り付ける位置は、ここよ。わかる?」
 「・・・・はい」
 「さあ、履き替えておきなさい」
 手渡されたサニタリーショーツを受け取ると、哲雄は青木に背を向けて、穿いていたショーツを脱いでサニタリーショーツと取り替えた。
 「ごわごわして、気持ち悪い」
 「女の子だから仕方ないわよ。あとは自分でやるのよ」
 そう言い残して、青木は病室を出て行った。
 (ああ、鬱陶しい)
 ベッドの上で哲雄はジッと考えていた。女はみんな生理があるはずなのに、そんなことはおくびにも出さず動き回っている。青木だってそうなのだと。
 (女はみんな平気なのだろうか? 平気なんだろうな。生まれたときから女の子だから。でも、ぼくは我慢できない。ぼくは男だ。こんなことが毎月あるなんて、もういやだ! 女なんか!!)
 哲雄は、女であることに急に激しい嫌悪を覚えた。哲雄は先延ばしにしてきた結論を出した。

 「竹原先生、お願いがあるんです」
 哲雄は、いつもの見回りにやってきた竹原を捕まえて訴えた。
 「何だい? あらたまって」
 「ぼくを男にしてください。やっぱり女はいやです」
 「男にしてくれだって? 何を言い出すのかと思えば。女が男になれるはずがないじゃないか」
 「性転換手術です。できるでしょう?」
 「性転換手術! どうしてまた」
 「こんなのいやです。ぼくは男なんです。だから、男に戻りたいんです」
 「無理だよ」
 「どうしてですか?」
 「性転換手術は法律で認められていないよ」(*この時期にはまだ認められていませんでした)
 「法律で認められていなくても、ぼくの場合は特別でしょう?」
 「それはそうだが、もしやるとしても、女から男への性転換手術は、簡単じゃないよ」
 「簡単じゃなくても良いです。やれるんでしょう?」
 「やれないことはないが、君の体は傷だらけになってしまうよ」
 「傷だらけ?」
 「そうだ。まず、乳房を取るために胸に大きな傷が出来る。子宮と卵巣を取るために下腹部に傷が出来る。外陰部にも傷が出来るが、ペニスを作らなければならないから、その材料を取るために、腕にかなり大きな傷が出来る」
 「傷なんて我慢します」
 そう言うと竹原は考え込み、それから言葉を継いだ。
 「君は身長が163センチだったね。女の子としては少し大きいくらいだが、男になったら、かなりちびだよ。しかも、肩幅は狭いし、お尻は大きい。妙な男になるよ」
 「男の姿になれれば、それで良いです」
 「睾丸がないから、男性ホルモンを一生飲まないといけないし、ペニスは小便を出せてもセックスは出来ない。それでもいいのかね」
 「・・・・それでもいいです」
 声が小さくなっているのを哲雄自身が感じていた。
 「もし好きな女の子が出来ても子供を作れないよ」
 「・・・・」
 「今のままだったら、君は考え方を百八十度変えなければならないけど、その気になれば好きな人の子供を産むことが出来るんだよ。痛い思いもせず、体に傷を付けずにだ。薬を飲む必要もない。
 それに、性転換したところで本物の男になれるわけではないんだよ。男の姿になった女に過ぎないんだ。男になったという自己満足が得られるだけなんだ。
 今のままなら、女として普通の生活を送れるけれど、性転換などしたら、世間から白い目で見られ、隠れてこそこそ暮らさなければならなくなるよ。わたしは、今のままの方がいいと思うんだがね」
 「女はいやです!」
 哲雄は、きっぱりと言った。
 「うーん、君の考えは分かった。よく考えてみよう。君もよく考えるんだ、もう一度。やったら元には戻れないんだから、充分時間をかけてね」
 「・・・・・分かりました」

 竹原が病室を出ていって、一人になると哲雄はもう一度考えてみた。性転換までして男になろうとする理由は何かと。体を傷つけて、生殖機能を失ってまで男になることに、どれほどのメリットはあるのだろうかと。
 哲雄はじっと考える。考えた末にメリットなど何もないことに気づく。男になりたいのは、哲雄の思考するこの脳が、元は男の体の中にあったからに過ぎない。
 もう一度考える。やはり男になるメリットは思いつかない。立ち小便するだけのために大手術を受けるなんて馬鹿なことだと思った。
 反対に女であり続けることのデメリットはあるのだろうかと考えた。化粧しなければならないことか? スカートを穿かなければならないことか? いやそんなことは問題ではない。デメリットなんか何処にもない。その気になれば、確実に自分自身で子供が産める。ただ、今の哲雄は、生理が鬱陶しいだけなのだ。
 考えれば考えるほど、性転換して男の姿になっても後悔するだけのような気がした。竹原の言うように、哲雄は考え方を変えた方がいいのかもしれないと思い始めた。

 坂本夫婦が哲雄の見舞いにやってきた。由美子が好きだったというチーズケーキや果物を山のように抱えてやってきた。
 (ぼくは由美子ではないのに・・・・)
 坂本夫婦は、まるで由美子が生きているかのように接していた。いや、坂本夫婦にとっては、哲雄は由美子なのだ。記憶喪失で親のことを忘れてしまった娘と同じなのだ。
 哲雄には、逃げ出したい気持ちもあった。けれども、なぜか哲雄は心に安らぎを覚えていた。坂本夫婦は由美子を愛している。それを哲雄は強く感じていた。こんな坂本夫婦を裏切って、体に傷を付けてまで性転換なんて出来そうもないと哲雄の心は揺らぎに揺らいでいた。

 生理が終わった。哲雄の精神状態は幾分落ち着いてきた。
 (女は生理中は少し不安定になるみたいだな)
 そう考えたけれど、ひと月たったらまた生理になるかと思うと、哲雄は憂鬱になった。しかし、哲雄は今は女なんだから仕方ないなとも思い始めていた。

 初めて自分の顔を見たとき、哲雄は自分の顔となった由美子はブスだと思った。ところが今はそう感じていなかった。
 あの時は、頭の手術と人工呼吸の影響で顔が腫れていただけで、この頃はずいぶん腫れも引いて、あの時とは別人のようになっていた。
 (いや別人は言い過ぎかな)
 由美子はそんなに美人ではないけれど、何となく愛嬌があって、誰にでも好かれそうな顔をしていた。
 (冷たそうに見える美人よりずっといい)
 そう思いながら哲雄は鏡に映った由美子の顔をじっと見る。鏡に向かってにっこりと笑ってみた。
 (すごく素敵だよ、由美子)
 哲雄は由美子が微笑む顔が好きだ。
 (このままでもいいかな)
 だんだんそんな気持ちになってきていた。

 普通食が運ばれてきた。いつも全部食べきれないので、小盛りにして貰っていた。それでも哲雄は少し食べ残していた。それでも体重は順調に増えていて、四十六キロになっていた。
 「哲雄君、高カロリー輸液を止めような。これ以上続けるとブタになって、あとで恨まれるから」
 冗談交じりに、竹原は哲雄の肩口に差し込まれていた高カロリー輸液のチューブを引き抜いた。
 「やった! これで自由ですね?」
 「うん。だけど、許可が出るまで病室の外に出ちゃ駄目だよ」
 「はあい」
 病室の外に出る許可はくれなかったけれど、哲雄に入浴の許可が出た。バスタブに溜められていくお湯の音に、哲雄はまだかなと首を長くして待った。
 「長湯をするといけないわよ。脳貧血を起こすからね」
 青木の注意されて、哲雄はバスルームに入った。掛かり湯をしてバスタブに体を沈めた。心地よさが体に染み渡っていった。
 哲雄が最後の入浴したのは、あの手術が行われる一ヶ月あまりも前だった。4ヶ月ちょっとぶりに入浴したことになる。
 (ああ、気持ちいい・・・・)
 青木の言葉を思い出して、すぐにバスタブから出て体とまだ3センチあまりしか伸びていない髪を簡単に洗った。
 もちろんあそこも洗ったのだけれど、あんまり考えないで洗った。当然のことながら、違和感は拭いきれない。

 体を拭いて、ショーツを穿いてパジャマを着た。鏡を覗いてみた。さっぱりとした由美子の顔が飛び込んできた。
 (うふっ! 可愛いね。でも・・・・)
 女の子なのに髪の毛がないのは何だかおかしいと思った。
 (あれをしてみようかな?)
 その数日前、坂本夫婦が女の子なのに髪の毛がそんなに短くては可哀想だと言って、セミロングのカツラを持ってきてくれていた。哲雄はその時はとてもカツラを付ける気にはならなかった。だから、ロッカーに放り込んでいたのだった。
 ロッカーを開いてカツラを取り出し、位置を合わせてカツラを付けてみた。
 (いいじゃないか。結構可愛いぞ、由美子は)
 哲雄は、由美子をますます好きになった。

 新たな年がやってきた。
 (あの時は、新年を迎えられるなんて思っても見なかったなあ。しかも、女の子として・・・・)
 感慨にふけっていると哲雄の両親がお節料理を持って病室にやってきた。
 「おめでとう、哲雄」
 「母さん、あけましておめでとう」
 「哲雄の大好きなものばかり作ってみたわ」
 哲雄の母親は、お節料理を並べた。ホントに哲雄が大好きなものばかりだった。哲雄はまず出汁巻きを箸で口に運んだ。
 (ん?)
 「哲雄、どう?」
 「あ、あ。美味しいよ」
 そう答えたけれど、何となくいつもと違った味に思えた。栗きんとんもイヤな甘みが舌に粘りついた。
 (母さんのお節料理は絶品だと思っていたのに、なぜ?)
 戸惑いながらも、哲雄は箸を進めた。
 「哲雄、これも食べてみて」
 「うん」
 母の作った料理の味に馴染めなかった。
 (体が変わったせいだ。きっとそうだ)
 母に気づかれないように、哲雄はそっと涙を拭った。母の料理の味がわからなくなって悲しかったのだ。
 哲雄の母親が、椅子に座って料理を勧めている間、父親の方は窓際にいて、ほとんど窓の外を見つめていた。哲雄は母の顔を見た。哲雄と哲雄を言いながら、何となく他人行儀に思えた。
 (ぼくがそう思っているだけなのかもしれないけれど・・・・)
 哲雄の両親にしてみれば、目の前にいるのは哲雄とは似てもにつかぬ人間で、しかも女の子なのだ。心が哲雄だと思っていても心底信じていないように思えた。
 両親にも信じてもらえそうもない。そう思ったとき、哲雄は、他人に自分が哲雄だと信じて貰うことは到底不可能だと感じた。
 性転換して男になることも解決になりそうにないし、哲雄であることを信じて貰わなければ、男の姿になっても意味がないのだ。
 哲雄に残された道は、由美子として生きることだけだった。だけど、まだ決心は付かなかった。簡単に決心が付く筈もないのだ。まったく別人の女の子として生きていかなければならないのだから。