第6章 苦悩

 夜が更けて消灯時間となり、病室の灯が消されていった。薄暗い部屋の中で、哲雄は眠れないでいた。哲雄がずっと感じてきた違和感の原因がわかって、安心はしたものの、それが哲雄の体が女になったことから生じていたことを知り狼狽えていた。
 (17歳の女子高生か・・・・)
 枕から頭を持ち上げて、哲雄はせり上がっている胸をわずかな光の中で見た。
 (ホント、ビックリしたなあ、今朝は。ぼくの胸におっぱいがあるんだもの。でも、ホントに、このパジャマの下にはおっぱいがあるんだ。ぼくの胸におっぱいが・・・・。)
 何とも不思議な気がしていた。
 (どんな感じなんだろう?)
 哲雄はどうしようか迷っていた。哲雄は女の胸など触ったことがなかった。触ってみたいという欲求があったけれど、許可なしに知らない女子高生の胸を触るような気がした。いやむしろ、好きな女の子がそばにいて、触っても良いわよと言われているのに、恥ずかしくて手を出せないでいるような感じだ。
 (これはぼくの体なんだ。だから、触ったっていいはずだ)
 そう考えて触ってみようと思うのになかなか手が動かない。哲雄はかなり長い間躊躇っていた。
 ついに決心してパジャマのボタンを外そうとしたとき、看護婦の足音が近づいてきて、慌てて布団の中に潜り込んだ。
 (もう寝よう)
 そう思うのに、目は冴えて眠れなかった。哲雄はもう一度起きあがって胸を見た。
 (触ってもいいよね)
 もう一度心の中で呟いて、パジャマのボタンを外した。胸がどきどきし始めた。哲雄は意を決して外したボタンの隙間からそっと手を差し入れた。ブラジャーなどしていない素肌の乳房に直接手が触れた。
 (ああ、柔らかくて気持ちがいい)
 触られた胸の方はなんだか変な感じだった。
 (これが女の胸なんだ)
 そんな感慨を覚えながら眠りについた。

 夜が明けて、哲雄は足が僅かだけど動き始めたことを知った。
 (早く歩けるようになりたい)
 女の子になってしまったこともさることながら、哲雄にとってもっと問題だったのは、このままでは寝たきりになってしまうんじゃないかと言うことだった。それが解決に向かおうとしていた。哲雄は両足に向かって動け動けと念じ続けた。
 昼過ぎには、足を少し開く動作くらいができるようになっていた。昼食がすむと、哲雄は布団の中に潜り込んで、足を開いて触ってみた。
 生理用品が当てられてごわごわした感じがした。
 (何も触れないんだ・・・・。変な感じだなあ。はあ、胸だけじゃないんだなあ。ぼくはほんとに女の子になってしまったんだなあ)
 「哲雄君、調子はどうだ?」
 突然ドアが開いて竹原が入ってきた。哲雄は慌てて手を布団の外に出した。
 「竹原先生、足が少し動くようになりました」
 「お、そうか。すごいな」
 竹原のその声は、哲雄にはあんまり嬉しそうとは思えなかった。
 「どうしたんですか。先生。何か悩み事でもあるんですか?」
 「そうなんだよ。困っているんだ」
 竹原は腕組みをして哲雄の顔をジッと見つめた。
 「何で困ってるんですか?」
 「君のことだよ」
 「えっ!」
 病室の中をうろうろしながら竹原はぼそぼそと言った。
 「君は、自分でも自覚しているとおり、早田哲雄君だ」
 「そうですけど。それがどうしたんですか?」
 「しかし外見は完全に坂本由美子だ」
 「自分の外見はまだ全部見えてないから分からないけど、ぼくは早田哲雄です」
 「それはそうなんだ。だけど、わたしたちが君は早田哲雄だと認めてたとしても、他人は外見で判断するから、君は坂本由美子ということになるだろうね」
 竹原の言葉に哲雄は首を振った。
 「そんな! ぼくは早田哲雄です」
 「それを認めさせることは非常に困難なんだ」
 「どうして?」
 「何度も言うようだが、きみは坂本由美子にしか見えないからだよ」
 哲雄は、胸のふくらみを見た。そして、股間に何も触れなかったことも思い出す。
 「でも、ぼくは早田哲雄です」
 「それを証明することは大変なんだ」
 腕組みをして床を見つめながら竹原は言った。
 「先生方が証明してくれればいいじゃないですか」
 「それがね。脳移植なんて日本では初めてだろう? やったことだけは信じてもらえても、うまくいったなんて信用されるとは思えないんだ」
 「ぼくが言い張ります。ぼくは早田哲雄だって」
 「どんなに言い張っても無理だと思うんだ。へたをすれば、君は気違い扱いにされてしまうかもしれないよ。自分を早田哲雄だと思いこんだ坂本由美子としてね」
 「そんな・・・・」
 「もし君が早田哲雄だと言い張れば、非常に煩わしいことになるだろうね」
 竹原の言わんとすることがわかって、哲雄は言葉を失った。
 「君にとって一番いい方法をわたしなりに考えてみたんだ」
 「どんなアイデアなんですか?」
 「君にとって一番いい方法は、不本意だと思うけど、君が早田哲雄ではなく、自分は坂本由美子だと主張することだ」
 「ええっ!?」
 哲雄は驚きに目を見張った。
 「そうすれば、事は簡単だ。誰も疑いはしない。誰もが君を坂本由美子として、すぐに受け入れてくれるだろう」
 「そんなことは出来ません。ぼくは早田哲雄です。第一、坂本由美子のことは何も知らないのに、生きていけませんよ」
 「勉強すればいい。少なくともその方が、君に取ってはベターだと思うんだが、どうだろうかね?」
 「そんなこと言われても・・・・・」
 「君と坂本由美子さんのご両親とは昨日少し話はしておいたが、君が坂本由美子として生きた方がいいというアイデアは話していない。恐らく由美子さんの両親は賛成してくれるだろう。何しろ娘が生き返って戻ってくるんだからね。だけど、君の両親は何と言うかな? 君が早田哲雄と認めて貰うのは非常に困難だという話はしているんだけどね。哲雄君、考える時間はまだたっぷりあるから、よく考えておくんだよ」
 「・・・・はい」
 ともかくそう答えるしかなかった。

 竹原が部屋から出ていった後、哲雄は竹原の言ったことを心の中で反芻した。
 (竹原先生は、ぼくは坂本由美子にしか見えないと言ったけど・・・・)
 哲雄は鏡を取り出して、新しい自分の顔をまじまじと見た。鏡に映ったのは、記憶にある哲雄の顔ではなく、女の子の顔だった。
 (これが坂本由美子の顔か・・・・)
 はっきり言って坂本由美子はブスだと哲雄は思った。
 (腫れぼったい目、団子鼻、厚い唇。どうせ移植するなら、もっと美人に移植して欲しかったなあ。男なら不男でも何とかやっていける。稼ぎさえよければ、美人を奥さんに迎えられる。だけど、ブスはダメだ。よほど性格でもよくなければ・・・・。心が男のぼくに、可愛い女なんて演じられない。肉体で迫るか? そんな馬鹿こと、余計に出来ない。どうしたらいいんだ・・・・)
 哲雄はもう一度鏡を見た。何度見ても女の子の顔だ。哲雄の顔ではない。人は外見でその人間を判断する。何も言わなければ、誰もが哲雄を坂本由美子と見なすだろう。今の哲雄が早田哲雄だと主張することは、確かに難しい。絶対に無理だと哲雄は思った。
 (ぼくは間違いなく早田哲雄だ。けれど、外見は坂本由美子だ。竹原先生は、ぼくは早田哲雄だと主張すれば、気違い扱いにされる可能性があると言った。気違い扱いなんかされたくない。先生が言うように、坂本由美子として生きていく方がいいのだろうか? いや、そんなことはとても出来そうもない)

 哲雄は思い悩んでいる頃、竹原は哲雄の両親を呼び寄せて、自分の考えたアイデアを話したていた。
 「そう言うわけですから、わたしとしては、哲雄君には由美子さんとして生きて貰うのがベターだと思うのです」
 「そんな! あの子は哲雄なんでしょう? 先生もそうおっしゃったじゃないですか!!」
 哲雄の母親が激しい口調で竹原を責めた。
 「そうなんですけれども、先日も申し上げましたように、哲雄君だと認めて貰うのは非常に困難であるし、煩雑になるわけです。性の変更手続きもしなければならなくなるし、名前も哲雄君じゃおかしいし」
 「簡単だから、哲雄は由美子さんになれっておっしゃるのですか?」
 哲雄の母親は竹原につかみかからんばかりだ。
 「小夜子、体は由美子さんなんだし、先生のおっしゃるように由美子さんになった方が、本人のためじゃあないのか」
 「あなた! 心は哲雄なんですよ。由美子さんになれと言っても本人が納得しないでしょう?」
 そういわれると、哲雄の父親はそうだなと呟いて俯いてしまった。
 「それに、哲雄は坂本さん達のことをぜんぜん知らないんですよ。可哀想です」
 「早田さん、それは哲雄君に教えてやれば済むことで」
 「簡単に言わないでください。赤の他人になんか、そう簡単になれるはずがないじゃないですか!」
 そう。確かに母親の言う通りだ。それは分かっている。分かっているが、竹原には他の方法が思いつかないのだった。
 「簡単じゃあないかもしれませんが、これが哲雄君にとって一番良いように思うんですけどね」
 「先生。哲雄はどう言っているんですか?」
 「迷っているようですね」
 「それはそうでしょうとも。誰だって同じ立場になれば、迷いますわよ」
 「どうされますか?」
 簡単に答えが戻ってくるとは思いもせずに竹原は質問していた。
 「小夜子。わたし達が決めつけるのも良くないだろう。どうだ。哲雄の考えに任せたら。哲雄自身の問題なんだから」
 そんな哲雄の父親の意見に竹原は救われる思いだった。
 「哲雄が由美子さんになる方を選んだらどうするんです。哲雄を失いたくないわ」
 「死ぬ訳じゃあないからね。いつでも親として会えるという条件を付けておけばいいのではないかな」
 「わたし達の子供でなくなってしまうわ」
 「それはどうなんだが・・・・」
 「早田さん、すぐには結論は出ないでしょう。哲雄君も考えているようですし、もう少し待ちましょう。いいですか?」
 「分かりました。そうしましょう。小夜子、それでいいな」
 「・・・・どうして、どうしてこんな事に。哲雄が戻ってきたと思って喜んでいたのに・・・・」
 哲雄の母親はぼろぼろと涙を流して泣き崩れた。竹原にしても、あの時はこんな事態になろうとは思ってもみなかった。ただ、早田哲雄を助けたかっただけだ。

 さらに一日がたって、哲雄は自力で両足を屈伸できるようになった。その様子を見た竹原は、ことのほか喜んだ。
 「すごいぞ、哲雄君。すぐに歩けるようになるぞ」
 「頑張ります」
 哲雄として生きるか、由美子として生きるかという問題には、竹原は敢えて触れないようにしていた。簡単には決められることではないからだ。できれば竹原が決めるのではなく、哲雄の父親が言ったように哲雄自身が決めてほしいと思っていた。
 (ボールは投げたんだ。あとは、哲雄がどんな球を投げ返してくるかだ)
 一方、哲雄の方は、そのことは後回しにして、ともかく体の回復を優先課題にしていた。考えてもすぐには結論できそうもなかったからだ。

 哲雄の脳髄が由美子の体に移植されて2週間ほどたったとき、もしかするとうまくいくのかもしれないと思った竹原は、哲雄の体(由美子の体なのだが)の関節の拘縮を防ぐためにベッド上でのリハビリを指示していた。そのおかげで、正座をするほど膝を曲げると痛みはあるものの、拘縮は免れていた。
 ベッドの上で、哲雄が手足の屈伸を繰り返していると、青木と下田のふたりの看護婦が病室にやってきた。下田は青木より二つか三つ年上で、病棟主任をやっていた。背が小さく小太りで、誰の目から見ても美人とはいえなかったけれど、いつもにこにことしていて非常に好感の持てる女性だった。哲雄は、下田が4人の子持ちだと言うことを聞いていた。
 (そう言えば、青木さんのこと、独身だってこと以外、なんにも知らないなあ)
 入ってきた青木の顔を見て哲雄はそう思っていた。
 「さあ、立つ練習をしましょうね」
 下田が哲雄に向かって、いつもの笑顔で言った。
 「えっ、立つの? まだ無理だよ。ベッドの上に起き上がるのもまだ看護婦さんの手を借りているのに・・・・」
 「さっき、竹原先生が診察して、筋力がだいぶ戻っているから練習させなさいって指示が出たのよ。聞いてないの?」
 「先生、何も言わなかったよ」
 「長く寝ているとどんどん筋力が落ちるの。起きる練習は早ければ早いほど良いのよ。さあ、やりましょう」
 とても無理だと思ったけれど、ふたりはそのつもりでやってきていた。
 「そうなの? じゃあ、やってみるよ」
 仕方がないので、哲雄はそう答えた。
 「自分でベッドの上には起きあがれる?」
 「分からないけど、やってみるよ」
 「じゃあ、手は貸さないわよ。頑張って!」
 両手を後ろに踏ん張って上体を起こすと、思ったより楽に起きあがれた。
 「やった! 自分で起きられた!」
 「すごい、すごい。やれるじゃないの。おしっこの管が邪魔ね。途中で留めて、外してあげるわね」
 青木さんが足元でごそごそやっている。管をおしっこの入ったバッグから外して、端を足にテープで固定してくれた。
 「さあ、いいわ。ベッドの横に足をおろしてみて」
 「ベッドサイドに腰掛けるなんて久しぶりだなあ」
 哲雄は体をずらして両足をベッドの横におろしてみた。
 「幻暈しない?」
 「ぜんぜん! このまま床に飛び降りて、歩けそうだよ」
 「それはまだ無理でしょうね。二人で支えてあげるから、さあ立ってみて」
 哲雄は二人に支えられて立った。歩けそうだと思ったのに、立つどころではなかった。膝がぶるぶる震えて、その場に座り込んでしまいそうになった。
 「だ、だめ。立てないよ」
 「まだ、ちょっと無理みたいね」
 二人に抱えられてベッドの上に戻されると、哲雄はベッドの上に倒れ込んでしまった。
 「わあ、疲れた・・・・。歩けると思ったんだけどなあ」
 「急には無理よ。少しずつならしていきましょうね」
 「はい」
 歩けなかったけれど、すぐに歩ける。哲雄はそんな気がした。
 「あ、そうそう、早田君?」
 下田が哲雄を振り返った。
 「少し女の子らしい言葉を使った方がいいかも」
 「え? あ、そうですか?」
 下田は頷いて病室を出て行った。哲雄は胸に手を当て、そして股間に手をやった。
 (ぼくは女の子なんだ)
 哲雄は、またもや自分が女であることを自覚させられた。心はどうあれ、他人は哲雄を女だと認識するのだ。
 病院の中にいれば、坂本由美子の姿をした哲雄が早田哲雄だと知っている人間は何人かいる。しかし、一歩病院の外に出れば、哲雄は女で、坂本由美子以外の誰でもなくなってしまう。歩けそうな気がして、うきうきしていたのに、哲雄は何だかまた憂鬱になってしまった。

 看護婦に励まされ手伝ってもらって立つ練習を始めて3日目、哲雄は歩行器にぶら下がるようにして、何とか歩けるようになった。
 部屋の中をゆっくりと歩き回っている。他の入院患者の目に留まらないようにと部屋の外に出ることは禁じられていた。だから、凄くストレスが貯まっていた。
 テレビを見ることも読書も禁じられていた。あまり根を詰めるといけないからとのことだ。
 (先生の指示だから仕方がないな。でも退屈だなあ)

 廻診にやってきた森田が、哲雄を診察して、歩かせた上でひとつの指示を出した。
 「これくらい動けたら、ポータブルを使えるだろう」
 「わかりました。早速持ってこさせましょう」
 ポータブルってなんだろうと哲雄が思っていると、それはポータブルトイレだった。ベッドのサイドの据えられたあと、下田がやってきて哲雄の体に入っていたバルーンカテーテルを抜いた。
 「したくなったら、ポータブルに座ってするのよ。やり方はわかるわね?」
 「は、はい」
 座ってすればいいとはわかっているものの、具体的にはどうしていいのかわからなかった。おしっこの管を抜いて二時間もするとしたくなったけれど、なかなかトイレに行けなかった。
 さらに1時間我慢して、とうとう漏れそうになった。哲雄はベッドから降りて、ポータブルトイレの蓋を開いて座った。
 (考えていてもしかたないや。男だった時みたいに力を入れてみよう)
 腰を浮かせてパンツを膝までおろし、下腹に力を入れた。
 (あれ? もう出てるの?)
 男だとペニスの中を尿が流れている感覚がある。ところが、それがまったくないものだから、ものすごく妙なのだ。
 (ま、いいや。ちゃんとできたんだから)
 出終わったあと、拭かなきゃいけないことに気がついて、哲雄は床頭台の上に置いてあったティッシュを手に取り、そこを拭いた。
 (直接触るとこんな感じなんだな)
 手とその部分から伝わってくる信号を確かめて、哲雄は一種の感慨を覚えていた。