森田が、ある事実に本人が気づくまで待とうと言った日がすぐにやってきた。それは、ふたりが相談して翌日のことだった。
青木が哲雄の病室を訪れると哲雄は嬉しそうな表情を見せた。看護婦は3交代で、夜勤の後は休むことが多いから、へたをすると3日くらい会えないことがある。しかし、青木だけは違う。ほとんど毎日哲雄の面倒を見ていた。だから、よけいに親近感を覚えていたのだった。
体を拭かれている間中、哲雄は指を曲げたり、手を動かしたりして自分でリハビリしていた。
清拭が終わると青木は哲雄の寝ていたベッドの頭を上げた。哲雄は部屋の中をぐるりと見回した。
哲雄の右の鎖骨の下に刺されたチューブが大きなバッグに繋がっている。そのバッグの中に入った黄色い液体がゆっくり落ちているのを哲雄はジッと見つめた。
それから視線を心電計に移した。規則正しく音を出している。さらに部屋の隅に置かれているレスピレーターを見遣った。
(用心のためらしいけど、もう要りそうもないな)
そう思って哲雄はにっこりと笑った。
(その横にある緊急薬品の入ったワゴンももう要りそうもない)
哲雄は視線を足元に落とした。おしっこの管がベッドの端から出ていた。まだ自分ではおしっこできないからなと哲雄は納得する。
その時哲雄はある重要なことに気づいた。
(何だか変だ!)
哲雄は淡いブルーの病衣を着せられていた。その胸が少し盛り上がっているのに気がついたのだ。
(心臓も悪くなっていたから、心臓移植はずだけど、その傷にしては・・・・)
哲雄は恐る恐る胸に手をやってみた。
(包帯じゃあない。これは・・・・)
感覚が戻ってきたときから自覚していた違和感は、このせいだと哲雄は気がついた。
「どうしてだ。どうしてこんな風になっているんだ!」
哲雄は思わず、叫んでいた。
パニックになった哲雄を青木がなだめすかしていると、騒ぎを聞きつけた竹原が飛んできた。
「すみません、竹原先生。わたしがベッドの頭を起こしたりしたものだから」
「いいよ。いずれは気づくんだから。昨日こそ森田先生とそろそろ説明しなければならないねって話してたところなんだ」
「でも・・・・」
「気にしなくて良いよ、青木君。今からきちんと説明するから」
「はい」
ふたりの会話の意味がわからず、哲雄は喚き散らしていた。
「哲雄君、気分はどうかな?」
やけに優しい口調だと哲雄は感じていた。
「そんな事より、どうなってんですか。ぼくの体は」
「説明しよう。落ち着いて聞くんだよ」
「落ち着いてなんかいられません!」
「まあまあ、そんなに興奮しないで、ぼくの説明することを良く聞くんだ」
「・・・・はい」
哲雄はふうと一息吐いてベッドに寄りかかった。竹原は、ベッドサイドに置いてあったパイプ椅子を広げて座ると、一呼吸おいてから話し始めた。
「あの時、君は急激に心不全状態に陥って、命が危ない状態だった」
「分かっていました」
「分かっていた?」
「はい。意識はありましたから」
竹原は目を丸くした。
「意識があった? へええ。あの状態でも意識があるんだなあ」
「先生、続けてください」
「分かった。あの時、薬で血圧をやっと保ってはいたが、はっきり言って、君の死は時間の問題だった」
「そう、おっしゃってましたね」
「それも聞こえていたのか。今後は同じ様な状態の患者がいたら気を付けないといかんな」
「そうですよ。先生方の悲観的な言葉や母の泣き声が聞こえていましたから。あのまま死んでしまっていたらと思うと、ぞっとしますよ」
「そうなのか。まあ、それは置いておいて。君の臓器機能はほとんどダメになっていたんだが、脳だけはまだ生きていたんだ」
「確かにその通りです。ぼくはずっと考え続けていましたから」
「うん。君はそういう状態だったんだが、ちょうどその頃、脳死に陥った患者が脳外にいてね」
「ドナーになるようなですね」
「その通りだ。君も新聞やテレビで知っているとは思うが、この病院の近くで暴力団の組員が銃で撃たれた事件があったろう?」
「そんなことがあったんですか。知りませんでした」
「そうか。知らないんだったらしょうがないけど、その時、たまたま通りかかった子が流れ弾に当たって運び込まれてね。運が悪いことに、弾が頭に当たっていたんだよ」
「だから脳死になってしまったんですね」
「そうだ。手は尽くしたらしいんだがね」
「その子がドナーになってくれたんですね」
「うーん。そうなんだが、ちょっと問題があってね」
「問題?」
「その子の母親が、体を傷つけて欲しくないと言って、ドナーになることを承諾してくれなかったんだ」
「それじゃあ、臓器は摘出できないじゃあないですか」
「その通りだ。そこでだね。可能な限り、体に傷を入れないで移植手術をすることにしたんだ」
「えっ。そんなことができるんですか?」
「君はほとんどの臓器がダメになっていた。多臓器不全状態だ。向こうの方は脳はダメだが、体はまったくどうもなかった。だから、向こうの全てを君に移植したんだ」
「全てを移植した? どういうことですか?」
哲雄は目をパチパチとさせた。
「いや、こんな言い方は止めよう。もっと正確な言い方をしよう」
「正確な言い方?」
「そうだ。はっきり言うと、君の脳を取り出して、彼女の体に移植したのだ」
「脳を移植した?」
「そうだ」
「そんなことが出来るんですか?」
「結果が全てだ。今君がこうしてここにいる」
「何故そんなことを」
「あのままにしておけば、二人とも死んでしまっていた。なんとかして一人だけでも助けようとしたのだ」
「さっき彼女って言いましたよね。胸があるってことは、ぼくの脳が移植されたこの体は女なんですね?」
「・・・・そうだ。ドナーは17歳の女の子だ」
「17歳の女の子! だから、だから声が甲高いんですね」
「そうだ。そういうことだから、君は今、女の体の中にいる。しかも生理中だ」
「女の体の中にいる? 生理中!」
哲雄は目を見張った。
「そうだ。君の脳が移植された体は完全に機能している」
「てことは、・・・・ぼくは、ぼくは女の子になってしまったのですね」
「・・・・そうだな。そういうことになるな」
「なんて子です。その子の名前は?」
「坂本由美子というんだ。この病院から1キロくらい離れた女子校に通っていて事件に巻き込まれたんだ」
「女子高生! 信じられない・・・・」
「私たちもこれほどうまくいくなんて思ってもみなかったんだよ。あのとき、由美子さんは脳死状態で、君は心臓死寸前だった。君の脳を助け、彼女の体を生かすための緊急避難的な手術だったんだ」
「緊急避難的な手術?」
「そうだ。うまくゆけば、君の脳も由美子さんの体も生きられると思った。ただ、君の脳と由美子さんの神経組織がこんなにうまく、しかもこんなに早く繋がってくれるとは思ってもみなかったんだよ」
「うまくいかなければ、ぼくはあの音のない暗闇で生き続けなければならなかったのですね」
「音のない暗闇?」
「そうです。ぼくはずいぶんと長い間、まったく音のしない、真っ暗闇の中にいました。あれは孤独地獄という状態でした。もう少しあの状態でいれば、ぼくの精神はおかしくなっていたところです」
「孤独地獄か。そうか、神経がうまく繋がらなければ、そういう状態になるのだな。そこまで思い至らなかった。君の脳を生かすことだけを考えていたからね」
「予想以上にうまくいったと言うことですね」
「そういうことだ。ところで君のご両親が面会に来ているんだがどうする?」
「両親て、どっちの?」
「もちろん、哲雄君のだよ。君は早田哲雄だろう?」
「そうですけど、両親は知っているんですか? ぼくの、この状態を」
「君の脳が、坂本由美子さんに移植されたことは知っている。ただ、会うのは初めてだ。どうするね」
「・・・・会います。どんな状態でもぼくはぼくですから」
「そうだね。君は確かに早田哲雄だ。すぐ呼んでくるよ」
竹原は、一度大きな深呼吸をしてからパイプ椅子から立ち上がった。
哲雄の両親が病室に入ってきた。竹原が哲雄君ですと言って哲雄の方を指し示した。哲雄の両親は、初めはちょっとビックリした顔をしていた。
「母さん、哲雄だよ。死ななかったんだ。生きてるんだ。こんなに元気だよ」
哲雄の母は、女の子と体になった哲雄の手を握って涙を流した。哲雄もわあわあと泣きだした。死んでしまうと思ったのに、母と会って話が出来て嬉しくてならなかったのだ。
哲雄の父は、良かったと言ったきり、ベッドの足元の方に突っ立ったまま哲雄を見ていた。
(父は嬉しくないのだろうか? ぼくが生きていることが)
哲雄が父を見ると、哲雄の父は哲雄の視線を避けて俯いた。
カンファレンスルームで、竹原は哲雄の両親を前にして話し始めた。手術はうまく行ったのだが、困った問題が持ち上がり、それを両親に話しておかなければならなくなったのだ。こんな事になるなんて誰も考えてもみなかった問題が・・・・。
「ごらんになったように、哲雄君は非常に元気です。今は下半身が動きませんが、これまでの回復の状態からすると、早晩動くようになって、歩けるようにもなるでしょう。もしだめでも、少なくとも車椅子で生活することは可能です」
「竹原先生、あの娘は、本当に哲雄なんですか?」
哲雄の父親がぼそりと呟くように言った。
「あなた、何言ってんですか。あの子は哲雄に間違いありません」
「そう。奥さんの言うとおりです。あの子は哲雄君に間違いありません」
「本当なんですね。信じられない」
「早田さん、信じられないのは当然です。しかし間違いありません」
「哲雄は女になってしまったのですね」
「・・・・そういうことになりますね」
「こんなこと、誰も信じてくれないでしょうね」
不安げな表情を見せて哲雄の父親が呟いた。
「その通りです。それが問題なのです」
竹原は頷きながら答えた。
「えっ」
哲雄の母親が驚きの声を上げた。
「私たちは彼女が哲雄君だと断言できますが、私たち以外の人間は絶対信じないでしょう」
「信じさせます。ねえ、あなた」
「う、うん」
哲雄の父親は竹原の言おうとしていることを察しているようだと竹原は感じていた。
「ところが、それがそう簡単ではないのです」
「どうしてですか? 先生」
「彼女を哲雄君だとする根拠がない。ごらんになったように、今の哲雄君は見かけはまったく違った人間です。しかも女の子なのです」
「脳を移植したと先生方が証明してくださればいいのではないのですか?」
「証言する事は出来ます。しかし、確かに彼女が哲雄君だと断定する根拠にはならないのです」
「どうして?」
「私たちが脳の移植をでっち上げたと言われかねません。今まで誰もやっていないのですからね」
「うまくいったと言い張ればいいじゃないですか」
「手術の記録などを持ち出して主張することは出来ますが、別の人間が哲雄君だと言っているに違いないと言われるでしょう」
「私たちが証人です」
「彼女は別人で、哲雄君の振りをしていたと言ったら、奥さんはどうしますか?」
「あの子は哲雄です。あの子がそう言いました」
「それが嘘だったら?」
「嘘・・・・」
「同じ事なのです。彼女が哲雄君だと証明することは非常に困難です」
「何とかなりませんか、先生。裁判所に証明して貰うというのはどうですか?」
「難しいでしょうね。裁判に訴えて証明して貰うとしましょう。しかし、時間がかかるでしょう。哲雄君だけが知っていることを持ち出して、たしかに哲雄君だと証明されるにはですね」
「そんなに難しいんですか?」
「難しいと思いますよ。あるミステリー小説で、若い女性の体に脳を移植された大富豪の話が出てくるものがあるんです。財産問題が絡んで証明は大変だったんですね。ところが、たまたま裁判官も弁護士もその大富豪と同じ秘密のクラブに属したことがあって、そのクラブ員でなければ知らないことを知っていたから、簡単にその女性が大富豪の脳を移植されたということが証明されてしまうんです。ただ、これは小説の中の話ですから、少し端折ってますからね。哲雄君にはそういうような、哲雄君しか知らないことがありますか?」
「あの子は、病気でほとんど学校へも行っていませんし・・・・、私たちのこととか、家のこととかはどうですか?」
「誰にでも手に入る情報はダメでしょうね。それにあまりに個人的なものだと本当の事かどうか判断できないのです」
「何かないかしら、ねえ、あなた」
哲雄の母親が父親の顔を見ながら尋ねた。
「あっても簡単ではないと言うことですね。先生?」
父親は、まっすぐに竹原の目を見て尋ねた。
「その通りです。裁判なんかに訴えると哲雄君は世間の好奇の目に晒されることになります。しかもうまくいかなければ、気違い扱いされるかもしれません」
「気違い?」
「そうです。気の狂った、自分を男だと信じている女の子だとね」
「そんな」
「どうしたらいいんでしょうか?」
「わたしにも分かりません。それにもし証明されたとして、性別の変更をしなければならないですね。哲雄君は今は女ですからね」
「そうか。そんなんですね・・・・」
「哲雄君の退院はまだ先になるでしょう。時間はありますから、お互いよく考えてみましょう」
「そうですね」
そうは言ったものの、竹原には解決法がすぐに見つかるとは到底思えなかった。
哲雄の両親が出ていって、しばらくして竹原がドナーである坂本由美子の両親を連れてきた。坂本由美子の体が元気なところを見せておきたいからと言うことなのだ。
由美子の母は、哲雄の母と同じように哲雄の手を握って、死んでないのね、由美子と言って、涙をぼろぼろ流した。
由美子の父は、哲雄の父と同じようにベッドサイドに立っていて、じっと哲雄を見つめていた。
カンファレンスルームの中で、由美子の母親が竹原に尋ねた。
「生きているんですね、由美子は」
「あの通り元気です」
「本当にあの子は早田哲雄さんなんですか? 由美子の脳が回復したのではないのですか?」
「私たちが手術に立ち会いましたから、間違いありません。由美子さんの損傷した脳は取り出されて、代わりに哲雄君の脳が移植されたのです」
「わたしは立ち会っていません。先生はわたしを騙そうとしているのです」
泣き腫らした目を竹原に向けた。
「止めなさい、則子。由美子はもう死んでいたよ。ずっと前に」
由美子の父親が諭すように言った。
「でも、あなた。あそこにいるのは由美子なのに」
「仕方ないよ。由美子の体を全部早田君にあげたんだから。由美子の体が生きている。それだけでも良いじゃないか」
「でも、でも・・・・」
ハンカチを握りしめて涙を流す。
「奥さん、わたしの方から哲雄君やご両親に、奥さん方がいつでも会えるように頼んであげますから、それでいいでしょう?」
「・・・・いつでも会えるんですね」
「そうお願いしてみます。哲雄君が生きていられるのも坂本さん達のお蔭なんですから、会わないとは言わないと思います」
「お願いします」
「また連絡差し上げます」
「よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げると、由美子の両親はカンファレンスルームをあとにした。